2000年9月22日金曜日

幻想論

 幻想とは何であるのか。少し勝手に定義してみよう。それは「事実とは違う虚像を主観的に事実に与え、虚像を与えられ、主観の中で虚像に支配された事実を真実と思い込むこと」となろうか。つまり幻想とはプラス志向のものばかりではなく、マイナスの方向へ向けられた幻想もありえるはずである。たとえば誰かが「恋とは幻想だ」と言ったとする。そうすると、その「恋とは幻想だ」という言葉は生まれた瞬間にその言葉自身が幻想となる。あまりにプラスに片寄ったものが幻想になるように、あまりにマイナスに片寄ったものもまた幻想になるからだ。「幻想」という言葉で何かを否定した瞬間、その言葉自身が「幻想」となり意味の有用性を失う。幻想という言葉の持つ"意味"のアンチテーゼ。幻想という言葉とそれに付随する事象はすべて幻想としてしか存在しえないのだ。故にこの「幻想論」もまた「幻想」である。有用性のあるものではありえないだろう。

 一つ言えることは、この「幻想」という言葉を使う場合、人は事実を素直に見つめることから逃避しているということだ。先程の「恋とは幻想だ」という台詞を例に取るなら、この場合発話者は恋を「幻想」であると否定しながら恋が「幻想」であるという事実を見つめることを放棄している。同様に、例えば人生がすべて薔薇色だという幻想に取りつかれた人は人生の暗部を見つめてはいないし、逆に人生が真っ暗だという幻想を抱く人は自分が暗闇しか見つめていなくて、闇に隠れたものや闇の向こう側に視線を送ってはいない。幻想に支配されたものは、幻想しか視界に入って来ないのだ。虚像をぬぐい去った素直な事実は決して目に入っては来ない。もっとも、虚像を完全にぬぐい去った事実を認識することが果たして我々人間に可能なのであろうかという問題はあるが・・・。
 結局のところ、

「愛とはつまり幻想なんだよ」と言い切っちまった方が楽になれるかも、なんてね

 というこのミスチルのesの歌詞の一節が、このような瞬間が、人が一番幻想から離れ素直に事実を見つめられている瞬間なのではないだろうか。
 なお、先程も触れたがこの「幻想論」は「幻想」という言葉の意味により、「幻想」という言葉を用いて「幻想」を語ろうとした時点でその意味効力を失効している。


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