2001年3月30日金曜日

初ギターin日吉

 今日の日吉はいやに冷たい雨が降り、昨日までの暑いくらいの暖かさが嘘のような一日でした。そんな中でも入社までに済ませておかなければならない手続きはまだ微妙に残っていまして、今日は大倉山まで免許証の住所変更にいってきました。いや、日吉から大倉山までは2駅なんですけどね。駅から結構歩く。寒かったです。

 なので今日は用事を済ませてからは家で初ギターin日吉をやっていたわけですが、いやいや『曉の鐘』は順調な仕上がりを見せつつあります。実はさりげに2月頭くらいから弾いていた曲、だがしかし衣笠クラギタの人間といえど私がこの曲を弾いている姿を目にした人間はほとんどいないでしょう。あまり人前で弾きませんでしたからねぇ、この曲。仕上がりがもっと早ければ最後にタルレガ発表で弾いて去っていこうかとも考えていたのですが。E.S.デラマーサの名曲『曉の鐘』。実はなにげにナオエ先生と藤井敬吾先生の両氏に見ていただいた最後の曲でもあります。まぁまぁ学生時代最後の名残りとして丁寧に仕上げてあげようかなと、トレモロの基礎力養成から地道にやっていってます。綺麗な曲なんですよ、これがまた。霧の深い、たくさんの寺院がある外国の風景、その夜明けに遠くこだましていく鐘の音・・・。そんなイメージの曲です。トレモロ曲の中では一番簡単(少なくとも『アルハンブラ宮殿の思い出』や『最後のトレモロ』よりはよっぽど弾きやすい)な曲ですし、機会がありましたら皆さんも是非弾いてみてください。

今日の一言:チッ、部屋が片付かねぇ・・・。
��ならギターなんて弾いてないで片付けしろゆーねんなぁ)

2001年3月29日木曜日

更新再開@日吉

 さてさて、いよいよ新居・日吉での生活が本格的に始まりました。引越しの都合でこの日記の更新はおろかBBSへの出現もジャスト一週間滞ってしまいましたが、今日から更新再開です。皆さん、これからもヨロシク。

 さて、私の新居は大物は大体整理し終わったものの、まだ衣服や本などが大量に段ボールの中に入って放置されている状態です。部屋がこれまでより広いのが助かるところ。あの大量の荷物も(多少は京都を出る時間引いたとはいえ)そんなに苦になりません。とはいえまたすぐ汚くなるのかもわかりませんが(苦笑)。私が移り住んだ日吉というところは、慶應のある学生街なので商店街などが発展していてそれはなかなか便利で結構静かで綺麗なところなのですが、いかんせん周囲が山のため坂が多い・・・。私の家の玄関に入るには、どう転んでもBKC前の心臓破りの坂の2/3位の長さで1.2倍くらいの傾斜の坂をクリアしなければなりません。はっきり言って疲れます・・・。しかし綺麗なマンションです。カードキーでのオートロックというのが私の中では斬新です。日吉駅前の東急は、無印やユニクロ、ベスト電気に天一書房となかなか使える店がたくさん入っていることが判明しました。坂が多いのを除けば非常に住みやすいところです。皆さん、東京・横浜方面に来られることがあったら是非我が新居に遊びに来てください。歓迎いたしますよ。

 しかし関西に『関西ウォーカー』があり、東京に『東京ウォーカー』があるように、横浜にも『横浜ウォーカー』なるものが存在します。そして今出てる『横浜ウォーカー』で日吉の特集をやっていたので、「うん、これは家の近辺を探るにはいい資料だ」と思い購入、確かにそれは地図も付いていて色々と有益な情報は仕入れられました。ですが!そこで同時に宇多田ヒカルの特集やってたんですよ。で、駅前の東急でも彼女のCDの即売所みたいのができてて、それはいいと言えばいいのですが、その特集や売られているCDのジャケットをみていて思うことがあります。それは、

・・・絶対ヤツ1stの頃と顔違うだろ!?

2001年3月22日木曜日

クレージーより最後の更新

 どうも4日ぶりの日記の更新になります。この間私は卒業というイベントに向けて学生生活最後のラストスパートをかけてました。予告通り18、19日は四国を目指してレンタカーでひた走り、今回は初のドライバーは私一人という状況の中総計647kmを走破してきました。案外走行距離は稼げなかったのですがね。まぁ今回は行き道にずっと下道で行って交通渋滞に3度巻き込まれたりもしましたからねぇ・・・。しかも明石海峡大橋は交通料が片道概ね5,000円と予想以上にお高くついたため、今回は明石海峡を渡るのを諦め本州を直進、岡山・倉敷をちょいと越える辺りまで行ってきました。そこから山陽道に乗り、岡山の吉備SAで車中一泊した後は「日本のエーゲ海」を名乗る牛窓で観光に入り、「古い街並」や「オリーブ園」を堪能してきました。この牛窓は竹下夢二の故郷で、かなりのどかな田舎町なのですが、その空気が素晴らしく、オリーブ園の頂上から見渡す海の景色は思わず感嘆の声が出てしまう程美しいよいところでした。地中海を目指そうとしてだがしかしびみょうになり切れてないところはやはり日本の田舎かなぁと思わせるものがありましたが、あそこののどかかつ美しい土地はかなり気に入りました。実際問題何もないと言えば何もないところではあるのですがね。そしてその後はどういうわけか赤穂の海浜公園でちょっと遊んだ後、岡山ブルーラインを渡って少しだけ海を車で渡り橋の上から見る瀬戸内海(おそらく)にまた「綺麗だねぇ」と感動し、最後は山陽道~中国道~名神高速を一気に突っ切って京都まで帰ってきました。そして家で少し休んだ後は「車で一回通ってみたかった京都の道を攻めようツアー」と称して衣かけの道、川端通り、宝が池、堀川御池~川端御池を制覇して今回の旅を終了しました。一緒にたっちーも誰も乗ってない状況での運転は初めてでしたが、まぁまぁ無難に走れたのではないでしょうか。今回ので免許を取って以来の運転歴がドライブ5回、走行距離2,600km超となりました。ドライブ5回でのキャリアなら誰にも負けません。何ででしょう?

 そして20日は卒業式。式自体はまぁ大して感慨の湧くものでもありませんでしたが、その後文学部の仲間やクラギタの面々と最後の写真撮影などし、クラギタ面子でカラオケに向かい最後の絶叫をし、私はそれを途中でちょっと抜けて近くでやっていたゼミコンに顔を出して先生に挨拶し、その後皆が飯を食っている間に私とキムとPCKで部屋の大掃除をした後に(ありがとうよ、キム&PCK)いよいよ「クレージー最後の晩餐」は始まりました。1回生の頃から何かと皆のたまり場になり、数々の伝説を生み出してきたこのクレージー西ノ京。この部屋とも23日でお別れ、今回が本当に最後の晩餐です。詰め込んだり14人、6.5畳の私の部屋に、よくもこんなに入れたもんだという凄まじい状況の中、最後の晩餐は行われました。絶好調によっぱらうにらめっこ、熱く語りあうキムとうーやん、やっぱりガスか元王子、寝方が変だぞうーやん、とやはりそれはいつものように盛り上がり、いつものように夜はふけていきました。4年間皆に愛用されたこのクレージー301号室に感謝です。色々と楽しい思い出ができました。そうでない思い出ももちろんありますが、この部屋では実に色々なことが起こりました。蛇足なようですがこの雑記帳が生まれたのももちろんこの部屋でです。きよが思わず振り返る(?)特有の匂いがこの部屋にあったとしても、私があまり掃除をしない上にやけに物が多いのでかなり雑然とした様相を呈する部屋であったとしても、私はこの空間が気に入っていました。皆と楽しく騒げる部屋でした。色々考えたりもできる部屋でした。のんびりボ~ッともできる部屋でした。当たり前のことかもしれませんが、それが結構最高です。

 そんなこの部屋ももう本格的に引越しの準備が始まり(遅いって?)、もうコンポもバラしましたしパソコンデスクもキムに譲渡しましたし、CDやMDも全部片付けました。明日にはMacもバラすので、しばらく日記の更新もできなくなります。どこかから、せめてBBSには来たいと思っていますが・・・。27日に新居に入れるので、早ければその日に更新を再開しますが、まぁなかなかそうもいかないでしょう。今日がとりあえずクレージーからの最後の更新です。皆さん、これまでありがとうございました。今後も『あゆむの雑記帳』は本拠地を横浜・日吉に移し運営を続けていきます。どうぞよろしくお願いします。そしてこの4年間の間に出会ったすべての人達に、心からの感謝を述べさせてもらいたいと思います。おかげで自分で大学に来てよかったと思える素晴らしい時間を過ごすことができました。多くの人とは遠く離れてしまいますが、今後もまた、よろしくお願いします。

2001年3月18日日曜日

クラギタ卒業旅行

 昨日一昨日と、クラギタの卒業旅行として皆で亀岡湯の花温泉に行ってきました。例によって私はジャンクスの車で、今回は途中でにらめっこを拾っての行き道でした。私が運転、ジャンクスがナビという、夏合宿への行き道で「一番デンジャラスな役割分担」ということが判明した組み合わせで亀岡を目指し、案の定線路沿いに保津峡まで行く予定が何故か渡月橋を渡ってルート9に入っていたという・・・。まぁまぁそれでも何とかその後は無事に迷うこともなく亀岡まで行けたんですけどね。そして温泉に入り、サウナでわっきー、きよ、ジャンクスと4人で部屋カツカツの状態で座り、お互いの肩が触れあうくらいの狭さの中、文字通り裸の付き合い(しかも不必要なまでに暑苦しい。色々な意味で)をし、ぼたん鍋を美味しくいただき、そして夜、部屋での本気飲み会が始まるわけです。自転車で来た(爆)PCKが人力で運んできた一升瓶を空け、買い出しておいた缶系の酒も空き、それでも宴は続きました。こうして皆で飲んで騒ぐのももう20日に予定されている"クレージー最後の晩餐"くらいでしょう。あの無意味に盛り上がる空気も名残惜しいものです。最後寝る時は何故か午前4時くらいまでしりとりが続き、しーさんは押し入れでドラえもん寝をしていたのですがまぁそれもまた一興でしょう。最後だし何でもありです。っていうか日常茶飯事の範囲内でしょう。

 次の日宿を出てから、自転車で来ていたPCK、元王子、キム、ヤクザの4人は宿の近くの酒蔵を見学に、きよの車で来た連中はあまりの天気の良さに目をくらまされ、帰りの足でそのまま琵琶湖一週の旅へ、私とジャンクスはにらめっことともみ嬢を京都駅で下ろした後、後輩が合宿をしているホウライへと散っていきました。そして私とジャンクスは後輩が関大交歓演奏会の通しリハをやっているのをしりめに、現職C技が横で練習しているにも関わらず、それでもおかまいなしに一局将棋をさしてきたのでした。私は後輩に指導者指導をした後、二条駅に帰れる最終の湖西線に乗ってギリギリで帰ってきましたとさ。忙しい話です。そして明日は四国を目指して旅立ってきます。果たしてどこまで行けるかわかりませんが、気合入れて行ってきます。

2001年3月15日木曜日

BOXにある譜面を全部コピーしよう計画

 最近「BOXにある譜面を全部コピーしよう計画」を着実に進めています。現時点でギターピース全19冊、セゴビアクラシックアルバム全12冊、バリオス全部、バッハ全部、ディアンス・クレンジャンス全部、その他バロック概ね全部のコピーが終わりました。一体いくらかかっているのかの詳細は把握してませんが、5,000円は楽に超えているものと思われます。あと最低限アルベニス・グラナドスとヴィラ=ロボス、ラウロ、リョベート関係、ソルのエチュードだけは絶対コピーしておきたいものです。もうBOXに行く時間もあまりないのですがね、まぁまぁどうにかしましょう。

 そうそう、無事に卒業できることがきまりました。あまり感慨も湧かなかったのですがね・・・(苦笑)。

2001年3月13日火曜日

最後のRainbow-STAFF勤務

 今日は私のRainbow-STAFFとしての最後の勤務でした。図書館Cコマ、16:00-19:30。この勤務をもって私はRainbow-STAFFから引退です。私が一回生だった当時、STAFFとして働く先輩が妙にカッコよく思えて募集に応募し、採用されてから早三年ちょっと。月日の経つのは早いものです。採用の面接の時、「OPRの混雑を解消するために何か具体的な案は?」と聞かれて答えたことを今でも覚えています。「清心館のOPRで、Macがフリーズしているのに対処法がわからず、STAFFに連絡するのも面倒なのかそのままほっとかれて使われてないマシンをよくみかけます。せめて強制再起動の方法でも紙に印刷して張っておけばそういった事態も少しは回避できるのではないでしょうか」と、そんな感じのことを言ったのです。

 思えば当時は清心館にOPRがあり、しかもそこにはMacが入っていたのでした。私が一回の頃は恒心館にOPRはなく、代わりに研心館や西園寺記念館にOPRがあったのです。有心館にもありました。図書館と尽心館だけは今も昔もOPRがありますね。そしてMacとWindows3.1が当時OPRに入っているマシンでした。今みたいに安定して動くNTでもなく、imapもWeb Mailもありません。ATSONだけは当時からありましたが・・・。少しずつ便利になっていくRainbowのシステムを、STAFFとして三年間変容に置いていかれないようにしながらも常に他の学生より先にそのシステムに触れて学べる機会に恵まれていたわけです。思えば素晴らしい仕事でした。

 私もSTAFFとして色々な経験を積んできました。通常の勤務の他にリエゾンオフィスで書類の整形や大学組織図の作成の仕事をやったこともありましたし、二年前ウチの大学の文学部のホームページをリニューアルしたのも私です。ホ-ムペ-ジ作成講座の講師も何度かやりましたし、2回生の時には新しく入ってきた新人さんの研修チーフもやりました。3回の春には大学が新入生に課した初歩的情報リテラシーの講師を勤め、4回の時には新人採用の際の面接官のまとめ役もやりました。その中で特に、知識を持っているだけでなく、目の前の状況に持ち前の知識を柔軟に対応させて解決を見い出さなければならないということは経験を通じて学んできました。それはSTAFFの仕事以外でも色々なところで役に立つものでしょう。3回と4回の時は部活や就職活動に忙殺され、STAFFの飲み会などは行く機会がほとんどなかったため、STAFFの中では私は普段案外目立たない存在だったかもわかりませんが、私はRainbow-STAFFの仕事に誇りを持っていました。憧れて始めた仕事です。本当に積極的に関われたのは2回生まででしたが、それでもいい経験をさせてもらったと思っています。本当はもう少し積極的に関わる時間がほしかったんですけどね、人間の時間は無限にあるわけじゃありません。残念ですが・・・。

 今日最後図書館のコンピュータの電源を落とし、今年から着ることになったRainbow-STAFFの赤いジャンパーを脱いだ時は「もうこれに袖を通して勤務に就くこともないんだな・・・」と思って少し寂しくなりました。こうして大学でやってきたことの諸事に一つ一つ終わりが訪れていきます。その度いちいち感傷的になってしまいます。でもそうして感傷的になれるということは、自分はそれだけそのことに対して頑張ってきた、誇りを持ってきたということなんだなと今日思いました。自分が力を入れてきたことに終わりの時が訪れるのは寂しいことですが、終わった時後悔することなく、少しくらい感傷的になったとしても、それでも「自分はやったんだ」と思えることがあるというのは、・・・いいことなんじゃないでしょうか、やっぱり。

2001年3月12日月曜日

学生時代ラスト・コンサート@喫茶アルハンブラ

 今日は喫茶アルハンブラでのアマチュアコンサート。私も京大の聖帝や龍大のマンゴレ&アコーディオン嬢と連れ立って一曲披露してきました。今回のアルハンブラ・コンサートは聖帝が『天使の死』を弾くはマンゴレ&アコーディオンデュオは相変わらず凄絶な『タンゴの歴史』を披露するは『黒いデカメロン』弾くヤツがいるは最後にゃ『羽衣伝説』が飛び出し、飛び入りで聖帝&マンゴレの『ジョンゴ』まで出てくるはで妙に濃く、レベルの高いコンサートでした。いやいや、聖帝にマンゴレはさすがですね。一回の頃からお互いに意識しあってここまできたわけですが、3回の頃から3人揃って同じステージに立つ機会がなかなかなく(聖帝とはソロリサイタルの時合奏団の一員として、また教室の発表会で同じ舞台に立つ機会はあったのですがマンゴレとはね・・・)、最後にどうしてももう一回同じ舞台に立ちたくて今回彼らに声をかけたのです。私の心の中ではかなり彼らに期待をかけていたのですが、しっかりとその期待に応えてくれました。『天使の死』はちょっと全体的にぼやけ気味でしたが、あの曲を一週間でほとんどミスなしで弾けてしまう聖帝って一体・・・?『タンゴの歴史』はさすがキャリアが違うと言うか何と言うか、・・・カッコよかったですねぇ(笑)。『ジョンゴ』も部分的にかなり危ういところはありましたが、それでもやっぱりあの二人のデュオは凄いです。25日の京大フェアウェルでまた二人で組んで、今度は『不良少年』をやるらしいですが頑張ってください。今日聴いてたらマンゴレやばそうでしたけど(笑)。私はその頃はもう京都にいないのでね。聴きに行けないのが残念です。

 今日は私自身の『グラナダの花』はお世辞にも出来がいいとは言えなかったのですが(暗譜したの昨日だったしなぁ・・・)、それでも何だか妙にさっぱりした気分なのは聖帝にマンゴレと最後一緒の舞台に立てたおかげでしょう。これを最後に私が人前で舞台に立って弾く機会はもう数年単位でないと思いますが、最後にマスターに去り行く4回生へといった感じでサザンの『TUNAMI』を弾いていただき、4回生で写真も撮って、気分よく終わることができました。今日来てくれていたすべての仲間、特に快く誘いに乗ってくれた聖帝とマンゴレに感謝です。またいつか一緒にやりましょう。その時は重奏もできたらいいですねぇ・・・。

2001年3月11日日曜日

頭痛、演奏会前夜

 明日は喫茶アルハンブラのアマチュアコンサートで一曲弾かなければならないというのに、ただ今酷い頭痛に悩まされております。この前の風邪の時はイマイチ効きがよろしくなかったバファリンよ、今度は効いてくれって感じですね。あ~、もう、何でいつもいつも演奏会の前って体調崩しがちになるんでしょう?今回は定演前みたいに無茶な練習してるわけでもないのに・・・。っていうかあまりに練習してなくてヤバイくらいなのに・・・。どうしましょう?果たして私は明日無事に『グラナダの花』を弾くことができるのでしょうか?まぁ明日は私がいくらとちっても後に控えた聖帝やマンゴレがキッチリ締めてくれるでしょうから、その意味では楽ですね。気楽に弾きましょう。

2001年3月10日土曜日

無題

 何だか突然寒さがぶり返してきましたね。昨晩は一時的に世界が銀世界になりました。三月の京都とは思えない現象です。といっても夜が明けて昼になる頃には概ね雪も全部溶けてたのは所詮京都という感じでしたが・・・。

 しかし最近食生活がまた乱れています。昨日は朝飯に麦チョコを食べて以来晩飯まで何も食べず、しかも晩飯もコンビニ焼そばというていたらく。今日は今日で朝にパンを一個食べてから夕方まで何も口にせず、6時前にあまりの空腹からスパイシーでカレーを食べてそれっきりです。何だかなぁ・・・。

2001年3月9日金曜日

藤井敬吾先生に習う最後のレッスン

 今日は藤井敬吾先生のところへ最後のレッスンに行ってきました。本当はもう一回くらい行きたかったのですが、管理会社に「早く出ていけ」通達を喰らったため(しかも今朝)、期せずして今回が最後のレッスンになってしまったのです。残念ですがしかたないことです。相変わらず鬼のようなテクニックを随時披露しつつのレッスンは衝撃的で、今日なんかは藤井先生が編曲したキラキラ星の変奏曲を延々と弾いて聴かせてくれたり(キラキラ星がベートーベンやバルトークのフレーズと組み合わさってたり、上でキラキラ星のメロディーを弾きながら下でパガニーニのカプリース24番のテーマを同時に弾いたり、ハーモニクスで未知との遭遇の星の交信を模写してエンジン点火とか言って勢いよくキラキラ星が始まったりとかなりデンジャラス・・・)、『リベルタンゴ』を藤井先生がギター独奏にアレンジしたものなんかは「いや、普通人間そんなに弾けませんがな」と思わず唸ってしまったり(あの有名なテーマもベースも上のメロディーも全部ギタ-一本で同時に弾く『Live in Ween』を完全再現したバージョン。ギター一本であんなに激しく動く声部をあんなにたくさんあやつれるとは・・・)、やはりあの人は鬼です。

 藤井先生のところに通い始めたのは昨年10月末から。約半年稽古をつけてもらいました。短い間ではありましたが、基礎力の養成に壁を感じていた私に改めて基礎の大切さと大切な基礎を一から仕込んでくださったのは大変勉強になりました。半年では教えてもらったことを完全に身に付けるまでは到底至りませんでしたが、どこに気をつければいいのかはわかったのでこれから気長にやっていこうと思います。今日は細かい技術のレッスンというよりは、社会に出てギターを弾く時間も少なくなる中でいかに効率良く技術を上げるか、一人で弾いて上達していくにはどうすればいいか等を聞かせてくれました。元々は手を壊さないようフォームの矯正のために藤井先生の門を叩いたわけですが、それ以上の技術や知識を教えていただくことができ、実に実りの多いレッスンだったと思います。最後には私がお願いしたAngel Barriosの『トナディージャ』の譜面も「人にあげたりしないでね」と言って快く渡してくれ(市販されているものとは違うホセ・ルイスとその門下生が校訂した版らしい)、「また東京で会いましょう」と言って玄関まで送ってくださいました。いい先生です。最後に改めてそう感じました。先生から教えていただいたことをしっかり身に付けて、社会に出てからもずっと手を壊さずにやっていきたいと思います。一生ギターを弾き続けてみせましょう。うまいとか下手とかはどうでもいいから・・・。

2001年3月8日木曜日

大切なものは何ですか

 大切なものは何ですか?
 誰かにいきなりそう聞かれた時、
 あるいは自分で自分に向かってそう問いかけた時、
 あなたは即座に答えることができますか?
 即座に答えることができなかったあなた、
 あなたは大切なものがわからなくなっているのですか?
 それとも大切なものがたくさんありすぎて即答できなかったのですか?
 即座に答えることができたあなた、
 答えたことは本当にあなたにとって大切なものなのですか?
 大切だと思い込もうとしているものではありませんか?
 大切なものなど何もないと答えたあなた、
 ・・・あなたは寂しくありませんか?


 大切なものは何ですか?
 自分自身に問いかけてみます
 それまで自分が大切だと思っていたことが実は
 大切だと思い込もうとしていたもので、
 捨ててもいいと思っていたものが、
 実は何より大切なものだった
 そんなことも、またよくある話です
 今の僕にはそれすらよく見えません

 一体何が大切なのでしょうか
 何もなくても生きていけるような気もしてて、
 でもやはりそれは哀しいなという気もしてて、
 結局曖昧な中に答えは沈み、
 結局答えは見つかりません
 昔は何かあった気がします
 必死で守らなきゃいけないことも、
 必死でつかもうとしていたものも

 今は何も見えません
 それでいいのだという気もします
 きっと少し疲れているんだ
 そう思えば片付くこと
 いつかこんな問いかけをしたことも忘れた頃に
 ふと周りを見たら大切なものがあると願って・・・
 自分と向き合うことからさえ逃げたくなった
 そんな自分へのモノローグ・・・

2001年3月7日水曜日

バイオリンソナタト短調『悪魔のトリル』

 ア・ク・マ・のトリぃ~~~~ルッッッッッ!!!!!

 ・・・というわけで、ここ数日タルティーニのバイオリンソナタト短調『悪魔のトリル』にはまっています。演奏はグリミュオーので聴いてます。いや、美しく、そしてやはり最終楽章の"悪魔のトリル"はあやしくカッコいいっ!!! この曲こんなにカッコいいのにギターへの編曲版はないんですよね~。なら一発わしがギターに編曲したろかと思いつつ、でもバイオリンの原譜見付かるかなと思っていたわけですが・・・。ありましたありました。それも立命の図書館に(爆)。結構譜面ありますよ、あそこ。バッハの無伴奏バイオリンソナタ&パルティータはもちろん、スカルラッティのピアノソナタなんかも有名どころは網羅してます。ギターの譜面も『グラン・ホタ』とか意外なものが結構・・・。卒業までに使えそうなのは一通りコピーしておきたいものです。皆さんも一回図書館で譜面探しをしてみては?

 ちなみに『悪魔のトリル』は別途MIDIも発見することができました。本気でギター用に編曲するかどうかは謎ですが(編曲しても弾く機会もうないしね)、とりあえず準備だけは万端です。そういやコレルリの『ラ・フォリア』もバイオリンからギターに編曲するとか言って途中で止まってたな・・・。ヴィターリの『シャコンヌ』もギターで弾けたらカッコよさそうだな・・・。誰か俺と一緒にバロック時代のバイオリンソナタ片端からギターに編曲しようよ・・・。

2001年3月6日火曜日

近づく旅立ち

 気付いたらもう今日は3月の5日。私がこのクレージー西ノ京を立ち退いて京都を離れるのは25日なわけで、なんと私が京都にいるのはあと20日、残り3週間を切ってしまったわけです。時の経つのは早いもの。そして別れはやはり寂しいものです。昼間部屋でふとそんなことを考えていたら、ここに入居してから起きた色々なことが思い出されなんだか妙に人恋しくなってしまったのでちょっとBOXに行ったりもしてみました。そう、もう4年経つのですね、私がここに来てから。この部屋でも色々ありました。部屋主にことわることもなく、気付いたらこの部屋でくっついていったカップルなどもおりました。数えきれないくらいの飲み会もやりました。一週間私の部屋に誰かしら人がたまっていて、ずっと人が入れ代わり立ち代わりたまり続けた時もありました。幸か不幸か、なんだかいつも人がいたような気がします。そしていつもそれなりに、むしろ相当に笑って過ごせた気がします。そんな部屋ともあと20日でお別れです。例えば京都にはまた来ることはできるでしょう。でもその時はこの部屋には私の知らない誰かが住んでいて、すっかり私の知らない部屋に変わってしまっていることでしょう。数々の伝説を生んだクレージー301号は、私の退去をもって二度と私が楽しい時を過ごした同じ部屋に戻ることはなくなるわけです。そう考えるとやはり寂しいですね。できれば離れたくはないと思います。しかし時は背中を押します。旅立たないわけにはいきません。・・・新しい環境への不安は、素晴らしく感じられる過去の裏返しなのかもわかりません。少し、心が弱くなっているようです・・・。

2001年3月5日月曜日

病み上がり

 長らくネットからも現実でも姿を消していて申し訳ありませんでした。やっとどうにかこうにか回復したと言えるくらいのところまでこぎつけることができました。心配かけた皆さん、どうもすみません。まだ咳と肺の違和感、全身を支配する倦怠感はどうにも残っちゃいるのですが、まぁまぁ何とか日常生活は送れそうです。しかしつまりまだ微妙にずっとしんどさがあるわけで、もはや健康だった時に体がどう動いていたのかを思い出すこともできないくらい精神的に病人な状態です。今日は倒れて以来一週間ぶりにギターを弾いたのですが、いやいや指に力が入らずに、低音弦がビシビシ鳴りまくりましたね。一週間後にはアルハンブラで新曲弾くのに、果たして間に合うのでしょうか?暗譜してねーしな、また・・・。まぁまぁさほど難しい曲ではないのでどうにかなるでしょう。やれやれ、早く健康体に戻りたい・・・。