2002年7月18日木曜日

最近は夢を見ない

 いつの頃からか、いつからだろう、夢を見なくなったように思う。それはごく最近のことのような気もする。少なくとも一年前は、「恐れるな、夢を見よう。今が現なら新たな夢を、今が夢ならそのまた夢を」と言っていた自分だ。やはりそれは最近のことなのだろう。

 仕事が終わり、やはりそれなりに疲れて家に帰る。去年の後半よりはマシといっても家に着くと時間は遅く、飯を食ったら大して何をする間もなく明日も仕事だと眠りにつく。そして寝苦しい夜を超えて、朝が来たならまたすし詰めの電車に揺られて会社まで行く。その繰り返しの中で、心の何処かが擦り切れてきたのかもしれない。とにかく、最近は夢を見ない。

 以前は、表に出すべき言葉や音がたくさんあったように思う。少なくとも『Toward evening』でものを書き、このHPでさらに日記を書く程度のものがあったのは確かだ。だが、最近はこのHPで出す量さえも疑わしい。最初、それは単に時間の問題だと思っていた。時間がないのだと。だが、実はないのは時間ではなく、表に出すべき言葉の方だったということに、ふと気付いてしまった。いざ、書こうと思った時に、何を書けばいいのかもわからず、言葉をひねり出すような感覚でしかものが書けなくなっていた。それに気付くことは、絶望にも等しい感覚だった。

 まだ、音は消えていないように思う。少なくともギターを持って譜面を見た時、その音楽のイメージは鮮明に浮かべることができる。だが、そのイメージを完全にトレースするだけの技量は自分にはなく、その事実が常に気持ちを落胆させる。もっとも、それは昔からのことだ。ならば、まだ、少なくとも音は消えていないのだろう。

 昔俺にはオーディエンスが必要なんだと言ったヤツがいた。当時は最初、何を言ってるんだコイツは、と思った。だが、結局彼の言っていたことは正しいのだろう。本当に一人で何かをするということは、本当に自分が満足できることではなかった。たとえそれがギターであっても。弾くこと自体はやはりいいものだと思う。が、何処かで満足し切れていない自分がいる。発表されることのなかった文章もこれまでにはそれなりに書いた。だが、それは結果として出さなかっただけで、出さずにおこうと思って書いたわけではない。俺にはオーディエンスが必要なのだろう。だが、どんなに認められてもコンピュータは、やはりものを書くことや音楽をやることの代わりにはならない。

 仕事が終わり、やはりそれなりに疲れて家に帰る。去年の後半よりはマシといっても家に着くと時間は遅く、飯を食ったら大して何をする間もなく明日も仕事だと眠りにつく。そして寝苦しい夜を超えて、朝が来たならまたすし詰めの電車に揺られて会社まで行く。終わりが見えない。社会人として生きていくためにはキャリアプランというものを持て、とコンサルタントとかいうヤツらは口をそろえて偉そうに言う。5年後、10年後のビジョン。だが、たとえそのビジョンが現実になったところで、結局この連鎖に終わりが見えるわけじゃあないだろう。少なくとも、少なくとも。生きるということの意味さえ問い直したくなる。だからと言って死のうとも思わず、だからといって前向きに生きようとも思えず。結局、何も変わらない。連鎖を切るための鍵は、今、枯れてしまっているのだから。

 最近は夢を見ない。昔は、見ていたのだろうか。

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