例えば、同じ句読点で短くセンテンスを切っていく場合でも、それはゆっくり落ち着いて読ませたいからそうすることもあれば、逆にテンポを上げてアッチェランド気味に緊張感を出したいからそうすることもあります。使う手法は同じでも、そのコンテクストによって意図や効果は違う。この例では『都会の夜に』では前者だし、『理想郷』では後者です。そのようにして、とにかく常に、音楽を奏でるような気持ちでリズムを創っていくのです。
話はそれますが、文章に限らず何をするにも、ものを創ったりする際にはある程度よいものを作るための「原則」のようなものがあります。文章にもありますし、もちろん音楽にも、プログラムにもあります。それらに共通して言えることは、まずその「原則」や「基本」をしっかりと理解し、実践しなければならないということ。まずはこれが最低限のレベルです。そして次に、「その原則や基本を破る場合はいつか」というのをしっかり意識できること。これが非常に重要になってきます。何事も、杓子定規な原則だけでは「最低限のレベル」から次へは進めないのです。この辺りになると汎用的な「規則」から外れる分、人によっての哲学的な面が出てきます。私が文章を書く場合でしたら「その原則や基本を破る場合はいつか」という問いに対する一つの答えは「文章のリズムを守る時」ですし、多分他の人なら違うことを言うでしょう。そして、「規則や原則を破る」タイミングを知るためには、哲学的な規則とは別にまたもう一つ大事な能力が必要になります。それが『メタ認知能力』です。
以前にも日記に書いた気がしますが、ある認知科学の実験で、何かを行うことに長けている人は、その作業に対するメタ認知能力が平均的な人と比べて発達しているという報告がされています。メタ認知能力とは、平たく言えば「自分がいまその作業の中で何をやっているのか」を理解する能力です。低レベルな例で言えば、文章を書く際自分は今起承転結の起の部分を書いているのか承の部分を書いているのかというのを理解する能力ということです。もちろんその作業に長ければ長ける程、そのメタ認知能力はミクロレベルでもマクロレベルでも素早く正確に働いていくことになります。それは本人が明確に意識していてもいなくても、です(専門用語で言えば認知的意識の中にメタ認知があっても認知的無意識の中であっても)。私の場合は今書いているところはセンテンスの中でどういう流れにあるのか、あるいはそのセンテンスは全体の中でどのようなリズムの位置付けにあるのか、ということですね。『ブエノスアイレスの夏』のテーマを弾いてるのか、中間部のゆるやかで即興的な休止部を弾いているのかでは、例え音階が同じだとしても当然テンポやそのダイナミクスの持って行き方も変わってきます。このメタ認知能力が欠けていると、「原則を破る」タイミングを間違って、たった一度の例外で全体を壊してしまいかねないのです。何しろ「原則を破る」ということは、基本的には「よいものを作るためのセオリー」に反することなのですから。
なんとなく文章にまとまりがなくなってきて、「そろそろ寝たいのにどうまとめよう」と泣きかけなわけですが(苦笑)、要は私が文章を書く、あるいはそれに限らず「創作」というものを行う時の哲学を少し語ってみたくなったわけなのです。というわけで、語るだけ語って私は逃げることにします(爆)。ではおやすみなさい。
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