2003年8月29日金曜日

時間と空間と金の諸問題

 時間と空間と金は、どうやら同時になくなっていくものらしい。比喩的な意味ではなく、実に現実的に。一冊本を買って、金が減る。家に持って帰って、空間が減る。そしてそれを読むことで、時間が減る。減った分他の何かを得たとかなんとか、そういった話はここは目をつぶって置いておくとして、事実として確実に時間と空間と金は同時に減る。最近は、それを非常に切迫して感じるわけです。

 空間と金は、ある程度どうにかなる問題のように思える。確かに今現在既にこの部屋では本棚に入り切らない本が溢れ出て、机の上や床の上に本が山と積み上げられている。CDラックも一杯で、仕事中用のCDはそもそも会社に置いておくことで負荷分散を試みているものの、当然根本的な解決にはなっていないわけで、会社から家に持って帰ってきてもそれらのCDは行き場がない(苦笑)。そして実際このままではもう本だって本棚にも入らないが、そもそも本棚が結構無駄な使われ方をしている部分もあるので、学生時代CDラックでそうしたように、一度本格的に整理すれば今床に積まれている分は入るような気がする。・・・少し無理っぽいけど。あるいは、これは金の問題とも絡んでくるが、手元に置いておく必要なしと判断した本やCDは売ってしまえばいい。Amazonのマーケットプレイスで売れば、確実に買い手が見つかるとは限らないものの郵送する手間さえ惜しまなければ古本屋に売るよりずっといい値段で売れる。そして当然売れた分空間も空くし、金も入ってくる。一度買った本やCDで手放してもいいかなと思えることがあまりないのが難点だが、これは一つの有効な打開策だ。Amazonであまりに売れないようなら、とりあえず従来通りブックオフにでも持ち込めばよい。入る金は少ないが、とりあえず空間は確実に空く。

 ・・・が、金や空間と違って解決策の欠片も見当たらないのが時間の問題。コイツだけは難しい。節約したり有効に利用することはできても、増やすことだけは絶対にできない。寝る時間をいくら削ったって時間そのものが増えるわけじゃない。ある本を読むということは別の本を読む時間が減るということだし、同時にギターを弾く時間が減るということでも、自分で文章を書く時間が減るということでも、音楽を聴く時間が減るということでもある。それは他の行為にしても同様に。ある時間の中で一つの可能性を選択するということは、逆に他の可能性を選択しないということだ。そして僕らが時間に対してできることは、時間の中に内在するほぼ無限とも取れる可能性、その中の一つを選択するということだけ。そして、その選択すらできないことも珍しくはなく。僕らは限りある時間の中に意志を詰め込んでいくことくらいしかできない。

 とまぁそんなことを最近よく考えてみるわけです。我ながらガツガツしてるというか、生き急いでいるというか、端的に言うなら余裕がないなぁと思うわけです。時間の大半を仕事に使う中で、音楽を聴いて、本を読んで、ギターを弾いて、文章を書く。今の私はそのバランスを、時間の都合だけでなく空間と金の兼ね合いも合わせた上で多次元的に折り合いを付けていかなければならないわけですが、どうもその、多次元的なバランスを取ろうとすることにエネルギーを使い過ぎて、肝心のバランスよく配分した外身の中に詰める何か、それをよく忘れてしまっているような気がします。わかってはいるんですよ。外身を配分することが大事なのでなく、配分した後に何を詰めるのかが大事なのだということくらい。ですが、そのバランスキープに必死だと、バランスを保った先のことに回す余力がなかったりすることがままあるのもまた事実です。そんな中、凄く久しぶりにミヒャエル・エンデの『モモ』を読み直してみました。そして、時間泥棒は一体いつ自分のところに現れたのだろうと、そう思ってしまうわけです。モモも、カシオペイアも、まだ来てくれません。時間の花は、まだ氷付けにされたまま冷たい部屋で眠っています。

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