2003年11月30日日曜日

チンザノ・ドライの飲み方

 久しぶりにチンザノ・ドライを買ってきました。学生時代の特に前半、下宿でカクテルを盛んに作っていた頃によく飲んでいたこいつは、白ワインをベースに香草やスパイスで味を調製した、いわゆるベルモットという種類の酒です。ワインとベルモットは、まぁ言うならウォッカとズブロッカみたいな関係でしょうか(余計わからん?)。ベルモットの銘柄としてはチンザノの他にノイリープラットやマルティーニ等があり、それらの中でも使われる香草・スパイスの種類や甘味・辛味なんかで種類がいくつかあります。私の愛用のものは最初に名前を出したチンザノ・ドライで、飲んでる時チンザノ・ロッソが好きな人間が周りにいたりすると、よくドライかロッソかで喧嘩します(爆)。

 学生時代、元々はマティーニ作るために買ってきたドライ・ベルモットですが、マティーニって基本的にそんなに量飲めるもんじゃないし(っつーかあれを何杯も飲むようじゃアル中街道まっしぐら)、そもそもマティーニって作るのに凄い神経使うし、なんかもうチンザノ・ドライ冷蔵庫で冷やして飲めばいいじゃんと飲んでみたらこれが結構美味しくてはまったのです。1L瓶で1,000円切るくらいなので安いですしね。それ以来、チンザノ・ドライはよく私の家の冷蔵庫で冷やされているようになりましたとさ。当時は下宿の冷蔵庫が小さかったので500mlのペットボトルに小分けに入れて冷やしてましたが、今は普通の冷蔵庫があるので1L瓶をそのまま冷やせてハッピーです。

 チンザノは店で飲むならバーはもちろん、ちょっとカクテルに力入れてる普通の飲み屋でも置いてあったりします。ただ、その場合はチンザノ自体を冷やしてあることは(特に飲み屋では)あまりなく、仕方なしにロック等で飲むことになる場合が多いです。お薦めはやはり冷蔵庫で冷やしておいてストレートですね!

美味しいチンザノ・ドライの飲み方
1, とりあえず1,000円用意し、チンザノ・ドライを買ってくる
2, 冷蔵庫で数時間冷やし、できればグラスも冷やしておく
3, グラスにそのままチンザノ・ドライを注ぎ、さぁいただきましょう!

今日のカクテルレシピ
マティーニ
 ドライ・ジン 3/4
 ドライ・ベルモット 1/4

 以上をステア(かき混ぜ)して、レモンピールを振りかける。ちなみに、マティーニを作る時のベルモットはノイリープラットのドライが一般的。ドライ・マティーニを作る場合はジンとベルモットの比率は4:1になります

ベルモット ハーフ&ハーフ
 ベルモット(ドライ)1/2
 ベルモット(ロッソ)1/2

 以上をロックでいただく。こいつをチンザノで作ったカクテルを特に『チン・チン』と言うらしい。オイオイ・・・。

2003年11月29日土曜日

2003年11月27日木曜日

痛いのは?

 何だか朝(というか寝てる間)から胃が痛いと思って午前中を過ごしていたわけですが、ふと気付きました。・・・痛いのって胃じゃなくて肺じゃん!?

2003年11月25日火曜日

羊と山羊 - 続報

 羊と山羊の違いについての(しつこい)続編ですが、どうやらイエスを小羊に関連付ける記述は『ヨハネの黙示録』にあるらしく、先に引用した『マタイによる福音書』の件も含めて、キリスト教的に羊が何だかいい役割として定着したのは新約聖書から、ということらしいです。じゃあ山羊は?というと、どうもこちらが判然としない。とりあえず山羊が悪魔教のシンボルとして表舞台で華々しく(?)デビューするのは魔女狩りの時期、つまりは15世紀~17世紀。なのですが、ここは当然その前に山羊が悪魔教に用いられる布石があるだろうと見るべきで、じゃあその布石を探そうと足を踏み出してみると、これがなかなか見つからない。スケープゴートの起源はシリアの信仰にあるらしいとの垂れ込み情報も入りましたが、そこから先に進めない。ヒントは旧約聖書にあるのかなぁという気はしてるのですが・・・。

 そう、キリスト教を調べてて知ったのですが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教って、元は1つの流れで始まったんですね。知らなかったんか!? って話ですが。要は「アブラハムの宗教」ということでくくれてしまうらしいです。イスラム教のコーランですらイエスがメシアだとして扱われているし、メッカで神の啓示を受けたマホメッドが、それが本物の啓示だと確認する基準はキリスト教の聖書だったりするわけです。キリスト教がユダヤ教を更新するような形で出てきたように、イスラム教はキリスト教を更新するような形で表れ、産業革命以前はキリスト教よりもずっと優勢に世界を席巻していたとか。ちょっと現在のイメージとは違います。

 しかし元々は同じ流れの宗教ってことを考えるとキリスト教とイスラム教の宗教闘争って、何だかなぁ・・・、って思います。キリスト教ってそりゃいわゆる原理主義もあるけれど、大部分的には意外に結構てきとーで、日本で神道と仏教が混在しているような感じで世界の色々な地域の土着の宗教や神と共存して祭を共有してたりする(ケルト文化とうまいこと融合してる地域もある)一神教らしからぬざっくばらんさがあるんですから、もっとうまいことやってきゃいいのにとか思ってしまいます。科学の進歩と政教分離の結果、欧米ではキリスト教がおおらかに落ち着いてきた反面、キリスト教の倫理を抜いた論理だけが政治経済の世界で一人歩きして大暴れしているような気もするのです。まぁ、この最後の台詞は『キリスト教』という本の受け売りですけど。

2003年11月23日日曜日

2003年11月22日土曜日

最高のペプシ

 今日は他のグループからウチに異動になった人物の、元々のグループと合同で送別会兼歓迎会でした。それはまったく問題ないのですが、いや今日は酒がまずかった・・・。精神的にまずかったとか疲れがたまっていて酒が飲めなかったとか、そういうんじゃなくもう純粋に味としてまずかった(爆)。なんかもう、ビールは発泡酒だしジンバックはえらい甘ったるいし、何頼んでも「よくここまでまずく酒作れるな!?」とこっちが驚いてしまうくらいひどいもんしか出てこなかいのです。もう途中から「これなら味は変わりようがあるまい」とペプシコーラ飲んでました(笑)。いや~、あのペプシはうまかった。

2003年11月20日木曜日

「委員長」と「道なり君」

 多分どのクラスにもというわけではないんでしょうが、いわゆる「委員長タイプ」の人間というのはいつの時代にも結構いるものです。・・・私はそいつらが大嫌いでした(爆)。とにかく常識やらルールやらを押し付けたがる。「授業中は静かに」、「廊下は走るな」、「悪口言うな」等々、とにかくゴチャゴチャめんどくさい。しかもヤツらの凄いところは、それが誰であろうと面と向かってそれを言ってくるところです。冷静に考えればある意味凄い。正義感という信念に対する揺らぎない確信は、今考えれば宗教的なものすら感じます。まぁあの当時は世間並みに「いい子ぶりやがって」とか「そんなに内申ほしいか」とか、あるいはティーンエイジャーらしく(?)「大人の手先が」くらいに思っていたわけですが。

 大学に入るとそういった「委員長タイプ」の人間は力を発揮する場が少なくなるためか(私はゼミにはあまり参加してなかったし、Toward eveningや虹色電脳集団、クラギタはそのタイプとは無縁)あまり見かけなくなりましたが、今度は何と言うか、「道なり君」みたいなのをよく目にするようになりました。「大学生になったんだからバイトもしないと」とか、「学生の本分はやっぱり勉強だから勉強しないと」とか、非常に短絡的な因果関係に疑問もはさまずそのまま動いているタイプです。見渡してみると何とこいつが非常に多い。そして彼らは大体において、「~だからこうこうしなきゃいけないし、でも自分はそんなんじゃないし、どうしよう」とかいった感じで悩んでたりするわけです。なんだかなぁ、と思いますね。

 こんなのも思考停止の一形態ではないでしょうか。「委員長」は与えられた正義のステレオタイプをそのまま受け入れ、妄信的にそれを実践します。「道なり君」は一般論を自分の状況に適応させることすらせずその差異にとまどいます。どちらも出来合いのものをただそのまま身にまとい、その時点で自分で思考することを放棄しているのです。ところが「委員長」は周りの「法」とでもなるべき自分の「正義感」を自分の「考え」だとして疑わないでしょうし、「道なり君」はそもそも世間の平均値だか最瀕値だかを取った「一般論」なんてもんが「自分」という個人にぴったり隙間なく合うはずもないのに、そのギャップを自分と世間との「ずれ」のように認知して勝手に悩む。悩んでるから一応頭は回っているわけで、そんな人が自分が思考停止してるなんてこれまた当然思うわけがない。前提が間違ってるんですけどね(爆)。「てめぇは悩むとこ間違ってる」と軽く小一時間説教したい気分で一杯です。

 「常識」とか「一般論」とか「風潮」とか、そんな曖昧なもの絶対的に受け入れてしまう人があまりに多い気がします。別に否定しろと言っているわけじゃありません。自分自身の思考なり行動に組み込む前に、ちょっと一回立ち止まって考えてみてもいいんじゃないかと言いたいのです。「一般論」等といったある程度どこにでも適用できそうに思える(当然自分もそこに含まれるように思える)ものとは実は粒度が結構粗いもので、だからこそ「自分」というより粒度の細かい範囲を対象として考えた場合どうしても過不足が出るものです。だから仮に一般論を受け入れるにしろ、自分にもっと合うように余計なものを削ったり足りないところを付け加えたりしてもいいんじゃないかと思うのです。そのまま受け入れるのでなく、「自分の場合はどうなんだろう」というステップを入れることで自分により似合う「自分的一般論」にしていけばいいんじゃないですかってお話です。そうすりゃ少なくとも「道なり君」なんかは相当悩み減ると思います(笑)。そもそも彼らの悩みの大半は「自分」の方を無理に「一般」に合わせようとするそのギャップから出てくるものなのですから。

 例えば本当に学費や生活費を稼ぐ必要があってバイトする人なら「バイトしないと」とは悩まないでしょう。義務感からの焦りとかもっと他のことしたいのにとかいう不満等はあっても実体のない悩みじゃありません。ところが「大学生になったんだからバイトもしないと」とか言って頭抱えてるヤツに限って、実はそんな必要なかったりするヤツばかりなのです。そりゃ現実問題として必要ないものを「一般論」から強制されたんじゃ嫌にもなるだろうよ(爆)。まず別にバイトしなくてもやってけるんならする必要ないってことに気付こうぜ。そうすりゃ他にどんな生活の選択肢があるのかも考えられるでしょう。「学生の本分は勉強だ」って、じゃあアンタその勉強やってどうすんの?って話です。好きならいいです。でもそう言ってるヤツに限って楽しそうじゃない。何も満面の笑みでデカルト読めとは言いませんがね。目的があるわけでも楽しみがあるわけでもないのに何故勉強ができるんでしょうか?まぁ勉めることを強いると書いて勉強なわけですから、ある意味彼らは彼らの言う「学生の本分」を忠実に全うしているのかもしれません。ちなみに私は大学は勉強するところではなく自分の可能性を探すところだと思ってました。

 ところで、「委員長」は相変わらず私には理解が難しいのです(笑)。何やりたいんでしょうね、彼ら?

2003年11月18日火曜日

決心

 最後の一歩を踏み出す前に、まだ俺には片付けなければいけない問題が残っているのです。

2003年11月16日日曜日

2003年度衣笠CGC定期演奏会

 行ってきました定期演奏会。今年は私が直接知っている代も四回生になり最後の定演ということで、何となく自分の中でも節目のようなつもりで観ていました。もう来年からは直接知っている人がステージに立つことはないわけですからねぇ。ちょっと寂しくなります。

 会場に着いてアルティの前に止まっている自転車の数にまず驚き、開演が六時だったことにも相当驚いたわけですが(余裕だと思ってたのにギリギリだったとは・・・)、とりあえずそれはさておいて今回の演奏会全体の印象をまず一言。総じて演奏に安定感のある、安心して聴けるステージでした。アンサンブルも独重奏も、見ていて心配にならないんですね(笑)。高いレベルで演奏のツブがまとまってきたなぁ、って感じです。

 Cステージで最初『ゴリーウォークのケークウォーク』、『アニトラの踊り』と私の知らない曲を2連発でやられ、その印象派的な空気に惑わされ、「・・・最近Cではこういったのが流行ってるのか?時代は変わったなー・・・」と何だか妙に感心してみたりもしました。どちらも私達の代とかだとまず選択肢にすら昇らない曲でしょう。そもそも基本的にドビュッシーとペールギュントをギターで演ろうという発想がありません(苦笑)。その意味で非常に楽しませてもらいました。いいでもなく悪いでもなく、時代はただ変わるのだなぁ、とか。そしてT北ソロ。個人的に彼のソロ結構好きなのです(笑)。選曲はともかくとして、とにかく聴かせるのがうまい。歌心が凄い。音楽ってのは指が回ってナンボでもなければ、教科書通りに弾いてナンボでもないですし、格式だの格調だのでナンボってわけでもありません。今挙げたようなテーゼを真正面から否定して、とにかく歌を聴かせる彼のギターは私的には非常に好きなのです。「コイツはわかってる!」ってところです。特に格式だの格調だのなんて演奏会の概念に持ち込むのは私は大嫌いですからね。そんなのを全部無視して弾きたい曲弾いて、それでしっかり音楽聴かせてくれるT北はいいと思うわけです。アンサンブルでの確実なサポートも含めて、さりげなく今回のMVPです。

 そしてC技殿。うまいとは聞いてましたが、なるほど、本当に彼うまいですね。ビックリしました。イントロの部分からしっかり聴かせてくれて、そこからして「ああ、コイツは違うなぁ」と思わせる堂々の演奏ぶり。弾いた曲が曲だけに京大(卒)の聖帝殿も頭をよぎりましたが、聖帝殿のように「サラッと優雅に」というよりは多少の粗さと力強さを持つしっかりした音で安定感のある演奏は、聴いてて純粋にうまいなぁと思いましたね。とはいえ手放しでもつまらないので、敢えて「欲を言うと」ってところを言わせてもらうと(爆)、もう少しダイナミクスの幅を有効に活かせるようになると素晴らしいかなぁ、と思うのです。彼は非常にうまいですし微細な表現にこだわるだけの余裕もあるのですが、まだ表現の幅が狭く、ちょっとまとまりすぎな印象を受けてしまうのです。全体的に硬い音使い過ぎかなとも感じますし、ホールよりの音とブリッジよりの音の落差、そしてピアノをもっと思い切って落としてダイナミクスを広くとって観客の耳をそのギャップに引き付ける駆け引き、そんなものをもっとうまく利用すればもっと観客を飲み込んでしまうようないい演奏ができると思うのです。そしてクレッシェンド・デクレッシェンドの際はその広く取った落差の中で音の出し方のアーティキュレーションを操作して、曲の緊張感や高揚感といった空気を音楽の場に合わせて操作する。それができればもう最強ですね。要は音色・音量のダイナミクスをもっとうまく活用しましょうと。特にピアノはもっと思いきり落としてもいい。・・・まぁ、ステージでピアノを落とし切るのって実は結構根性いるんですけどね。ピアノを落とし過ぎると客席に聞こえないんじゃないかとか発音に失敗するんじゃないかっていう不安もあるし、状況次第では自分にも音が聞こえなかったりする。まぁそこは経験とステージ度胸でしょう(?)。

 そして大合奏、今年も私が編曲した『亡き王女のためのパヴァーヌ』は頭の中にあったイメージ通り(実は曲的にあまり変わりようがない?)落ち着いた演奏を聴かせてくれていい感じに演奏してくれました。途中1stでハーモニクスが連発する中間パートのところで突然テンポが上がったのにはちょっとビックリしましたが、それもなかなか勢いと個性が出ていてよかったです。こうしていい演奏を聴かせてくれると、編曲してよかったなぁって思いますね、やっぱり。ところで、客席で吉田先生にお会いして話していたら、「ハープのアルペジオのところだけ音の並びがおかしかったから直させてもらった」と仰っていたのですが、誰か吉田先生版の校定譜私にくれませんかね?微妙に気になってたりします。多分ギターでセーハしてアルペするだけで弾けるよう音列を変えたところのことだと思うんだけど・・・。

 大合奏最後の『花のワルツ』は、私も2回生の時のAアンで弾いた曲、そしてあの曲を引っさげて大分に演奏旅行に行ったという思い出の曲です。当時私は2ndで、パートリーダーはまりもさんでした。ところがあの曲、イントロからしてハープの32分音符が弾けない弾けない(爆)。そこでまりもさんと指揮者が相談して、音を半分にして弾いてたりしたのです。その他あの『くるみ割り人形』の編曲にはギター的に無理がある編曲が随所にあったり、あまつさえ『小序曲』は定演まで一ヶ月切るくらいまで編曲上がってこなかったりでとにかくグダグダで、それに切れた私が2回生会議で「もういい、来年は俺が編曲する!」と言い切ったのが私のAアン編曲の始まりなのです(笑)。なのですが、今年の皆さん、あの編曲元々の譜面のまま普通に弾いてましたねー・・・。あれは正直「おお、やるなぁ」と思って聴いてました。この曲はもう聴いてて当時の練習風景やら大分の演奏旅行やら初めてのAアン本番のことやら、とにかく色々思い出してきてたまりませんでした。最後フィニッシュを決めるところなんて、吉田先生が前に立って「よく指揮見てな」と言って歌いながら何度も練習した時の光景が本当に思い出されました。懐かしい気分でした。よくあの曲演ったなぁって思います。その懐かしさのせいでしょうか、変な話ですがステージ上の演奏者の皆さんと勝手に一体感を感じていました。自分もステージにいるような、とまではないにしろ、でも心の中で一緒に演奏しているような、そんな感じです。何か気持ちよかったですね(笑)。よくやってくれたよ、って感じです。

 その他思いつくままに。ポピュラーアンサンブル、4回生中心の落ち着いた演奏が、最上回生らしい心遣いで曲が奏でられていてとても好印象でした。これって軽く4回生ステージみたいなもんだったんでしょうか?フラメンコ、これも元F技殿、ぎぃ助、りとりとの4回生トリオの足の地に着いた演奏はさすが最上回生って感じでしたね。こいつらが「足の地の着いた」とか感じさせる最上回生になっているとは時の流れとは恐ろしいものです(爆)。そしてF技デュオの『Tangos』は音の出方といいリズムの安定感といい、非常に堅実で風格のある演奏でよかったです。なんか去年くらいからフラメンコちょっと落ち着いてきたなぁって印象を受けますね。それはいい意味で。私達の代にあったような熱気とは違う落ち着きを感じるようになってきました。

 演奏者及びスタッフの皆さん、お疲れさまでした。そして特に4回生の皆さん、これで最後の定演ですが、4年間本当にご苦労さまでした。あの代も活気のある代でしたからね。きっと色々と思うところもあるんじゃないかなーと勝手に想像しています(←オイ!)。非常に気持ちのいい演奏会でした。

2003年11月14日金曜日

頑張れ衣笠CGC!

 さて、明日はいよいよ衣笠定演ですね。私もかなり無理をして(爆)、京都に馳せ参じます。出演者の皆さん、気合入れて頑張ってください。10年後でもできるただ指が回るだけの演奏なんかじゃない、今にしかできない自分達なりの音楽を、堂々と聴かせてください。楽しみにしています。

2003年11月13日木曜日

届かない新譜

 社販でDream Theaterの新譜を予約注文していました。「発売日にお手元に届きます」と明言されています。ウチの社販は商品が来たら総務部に行って受け取りです。ので、「まぁ発売日に来るなら20%オフで買えるし、店まで足運ばなくていいし断然社販だな」と思っていたのですが、何と今日が発売日にも関わらず発送された形跡すら見当たらない!ということは明日も手元には届かないということです。・・・騙されました。Dream Theaterの新譜、凄く楽しみにしてるのに・・・。

2003年11月12日水曜日

ちょっとはまっていること

 日曜日から、ちょっと女子バレーにはまっています。何気なくテレビをつけたらやっていて、「ん~、まぁこれでも観てるかぁ」と見始めたら、いやはや見事にはまってしまいました(爆)。そして昨日も、「19時からの放送かぁ。まともに考えてその時間に会社から帰ってくることはできないなぁ・・・」ということで、せっせとビデオに録画し、0時過ぎに帰宅してからきっちりと深夜2時すぎまでかけて、一人で深夜に熱くなってました(笑)。もうバレーにしろサッカーにしろ、基本的にワールドカップって思いきりガチンコですからね。ゆーたらプロ野球選手が甲子園やってるようなもんです。だから面白いんでしょう。バレーはサッカーよりも展開にスピード感があるし、見せ場も素人目にわかりやすいので、まさに「手に汗握る」感じでかなり熱く観戦できます。ヤバイですね。次の試合が楽しみで仕方ありません。世間的には左右でスパイクを打ちまくる二人の19才アタッカー栗原・大山コンビが注目を集めているようですが、個人的な注目は杉山選手。正直他のメンバーと比べて目立つところの少ない比較的地味な選手なのですが、他の選手の攻撃でなかなか点が取れなかったりする時に突然センターからスルッと出てきてクイック決めたり、ここで決められたらヤバイだろ、って時に相手のスパイクを綺麗にブロックしてみせたり、要所要所でかなりいい動き見せてくれます。サッカーの時と違うのは、あの時は私より先に周りが盛り上がっていましたが、今回は本当に私が一人で単独で盛り上がってること(爆)。昨日二人程新たな観戦者を引き込みましたが、まだフィーバーには遠いようです。

2003年11月9日日曜日

養老孟司の言葉 - 考えることをやめてはいけない

 今日、NHK教育で一時間半に渡り養老孟司がTVに出て喋っていました。一昔前までは知っている人は「ああ、『唯脳論』の養老孟司ね」と反応していたけど、今じゃ誰もが「ああ、『バカの壁』の養老孟司ね」と返してくる養老孟司。Amazonじゃ『バカの壁』はやたらと酷評されているという事実はともかく(爆)、私はその番組がちょっと気になったので、開始時間である22時半までには家に帰り、珍しくTVのスイッチを入れていたとのことです。

 で、いざ番組が始まってみるとまず養老孟司のテンポ(というか思考)についていけないかわいそうなレポーターと、それにややあきれ気味の養老孟司という構図が非常にぎこちない印象を与えてくれたわけですが(ってゆーかもうちょっと使えるレポーター出せよ)、養老孟司の言葉自体には結構色々と考えさせられるものがありました。彼はなんというか、頭がいいとか知識があるとか、そういったものよりも「ものの見方、捉え方」を非常に重視するし、またその勘所を知っているなぁと思いましたね。例えそこにTVドキュメンタリーにありがちな余計なおセンチが当然のようにいくらか入ってくるとしても。

 今回彼が言っていたことは、少々乱暴に要約するなら「考えることをやめてはいけない、結論を決めてはいけない」ということです。例えば誰かに何か、そうですね、「あなたは何故ギターを弾くのですか」等とたずねる時、そこには相手が何かしらの(それは例え予想だにしなかったものであれ)結論を一つ決定的に返してくるものという、たずねる側の思い込みがあります。ところが、そのたまたま返ってきた一つの答えに満足した時にそこで思考は停止しています。養老孟司は言います。現代は何でも出来上がってしまっている中で生活しているから、その出来上がったものの中で生活していればいいだけで、自分で考える必要というものがあまりなく、自分で考えることができない人が増えていると。これはやはり私の周囲をざっと見回しても言えることで、出来合いの現実の中でその既製品を受け取るだけで、自分自身の思考を停止していることの何と多いことか。本当はここでその辺りに関する私の見解を述べたいのですが、恐ろしく長くなりそうなのでそれは明日にでも回すとして、この養老孟司の言葉は共感するところが多かったです。「自分の意見に固執して相手の意見を聞こうとしない学生が多くなってきた」というくだりで出てきた女学生は、自分の考えを持ってはいるものの、それを世の中に出して妥当性を検証していく段階での思考停止を象徴しているように思えました。ケンケンガクガクの調子で持論を展開し、熱く(端で見てるとむしろヒステリックなほど)雄弁に語るものの、養老孟司の言うことには結局耳を貸さずに自分だけの思考の壁の中から出てこようとしないのです。つまり「主観」だけで思考を停止してしまい、「間主観」としての妥当性を確かめようとしない。でも確かにしっかりとした意見を持っていると言えばそうなわけで、だからこそその女学生はきっと「自分は思考している」と思っていることでしょう。実はある段階から先の思考を切り捨てているにも関わらず。厄介な話です。

 この辺り語りたい気持ちは一杯なのですがそれもやはり日記というレベルの長さを超越してしまうこと必至なので止しておいて、最後にもう一つ印象的だった言葉を書き留めておきたいと思います。

 現代の、特に日本人は死体や胎児といったものを自分達と同じと見ていない。それらは自分達のコミュニティに関わっていないものであり、無関係なものなのだ。そういったものは目をそらすべきものであり、普段見ないようにしているものでもある。鎌倉時代、日蓮宗や浄土真宗などの宗教が出来た頃の日本では、世界でも例を見ないほど正確な死体の描写が行われた絵画があり、つまりは死体を見つめ、向き合う目を持っていたにも関わらず。そして、それらを出来るだけ見ないようにと排斥してきた結果、現代ではそれらを見る時「見てはいけないものを見た」という気分になる。何故そんな気分になるのか。それを見てしまうとこれまでの価値観や感性といったものが変わってしまうように感じるからだ。けれど、胎児にしても死体にしてもそれは凄く自然なことで、誰もが通ってきて誰もが行き着くところだ。それを見ることで自分の中で何かが変わるというならば、むしろ変わった方がいい。そっちの方が自然なのだから。それが嫌だというならば、頼むから生まれないで、死なないでくれ。

番組中の言葉より、大意

2003年11月7日金曜日

羊と山羊 - 追記

 大変です。「羊と山羊の違い」という命題が、「潔癖症の掃除夫」以来の勢いで私の中で紛糾した問題になってきています。そもそも何で「羊と山羊の違い」なんてことが頭をよぎったのかがまずわかりません(爆)。

2003年11月5日水曜日

羊と山羊

 羊と山羊の違いって何だろう?ふと、そんなことが頭をよぎりました。本当に突然、何の前触れもなく、会社でコンピュータの再起動待ちをしている時のことです。いや、まぁ、冷静に考えて生物学的にも違いますし、見た目もまぁ犬と猫ほどは違わなくとも、そんなに区別がつかないほど似てるわけでもないのです。でも、スケープゴートにされたり、何となくヤな役割を担わされるのが多いのが山羊で、迷ってると救われたり、何となくいい役割を担うのが羊です。何がそんなに違うんだろうと、無意味やたらと気になったので、思わず適当なキーワードも考えないまま素で「羊と山羊の違い」とそのまま検索窓に打ち込み、Googleで検索をかけてみました。

 すると、何と恥ずかしながらこの時初めて知ったのですが、「羊と山羊の違い」というのはキリスト教においては非常に重要な意味を持っているらしいのです。最後の審判において神が「羊飼いが羊と山羊を分けるように」善人と悪人を分け、善人には永遠の命を、悪人には永遠の罰を与えるというのです(『マタイによる福音書』ではどうやらそうらしい)。なるほど、だからキリスト教というものが根底にある西洋文化においては山羊が何かヤな役割を負わされるんだなと納得はいったわけですが、にしても何故「羊と山羊」が「善と悪」ほど違うのか、その辺りどうにも腑に落ちないのです。山羊だって羊と比べてそんなに悪いもんじゃなかろうと思うのですが。

 ともあれ、もし「羊と山羊」が「善と悪」という対義語ほど違うというのなら、眠れない夜は羊を数えるといいというように、眠りたくない時は山羊を数えればいい、ということになります。・・・早速仕事中に眠くなった時に試してみたいと思います。

2003年11月3日月曜日

例えるなら

 「怒りの日」って感じだな。

暑すぎる社内

 ・・・暑い。もう11月になったはずです。なのに、何故ウチの社内はこんなに暑いのでしょう?外は長袖シャツの上にジャケット羽織っててちょうどいいくらいなのに、社内だとジャケットを脱いで長袖をめくって、なおかつ扇風機を間近で回してないと汗すらかく始末。私の席の辺りとトイレの辺りではあからさまに温度が違いますからね。すべて壁にところ狭しと並ぶサーバが悪いのです。ヤツらが熱を放出し過ぎなのです。今日は本当に一日扇風機を回し続けてました。・・・ってゆーかそもそもですね、これは今のビルに引っ越してきてからなのですがウチの会社、「日曜・祝日は冷房なし」って方針間違っていやしませんか?冬が本格的になってきたとき、やっぱり暖房もなしなんでしょうか?・・・それじゃ仕事にならんて・・・。

2003年11月2日日曜日

デビッド・ラッセル『バッハ作品集』レビュー

 何故か朝から「ジョンの弾く『アッシャー・ワルツ』が聴きてぇ!」というわけのわからない欲求に悩まされていた私は、「エレナ・パバンドレオの『アッシャー・ワルツ』じゃイマイチなんだよおっっっ」という物凄い暴言を吐きながら(爆)、仕事の帰りにタワーレコードに寄ってみました。元々の目的はジョン・ウィリアムスの『セビーリャ・コンサート』(『アッシャー・ワルツ』収録)だったわけですが見事に置いてなく(泣)、仕方がないのでついでに色々とCDを見て回ってました。

 すると、何とあろうことかラッセルのバッハ作品集が出ているではありませんか(っつーか今年の1月末に出てたとは・・・)!しかも曲目も危険に熱すぎる選曲。これは買わなければなりますまい。ラッセルの新譜というだけでも無条件で購入ですが、しかもそれがバッハ作品集となればもう金がなければ万引きしてでも手に入れなければならない代物です(?)。

 というわけでラッセルのCDを購入し、悦に入りながら聴いていたわけですが、やっぱラッセルいいですねー。彼の、きらめくような美音(特に高音域の)や繊細かつ大胆な表現力に関しては今さら多くを語る必要はないでしょうが、今回改めて感じたのは「ラッセル、トリルが物凄いきれいだなー」ということ。そもそも彼は一音一音の輪郭が非常にはっきりとしているギタリストです。ギターではぼやけてしまいがちな早いスラー系のパッセージでも、あたかもチェンバロででも弾いてるかのようなくっきりとした音の輪郭が決して崩れません。それ故に随所できれいにインテンポでさらっと入ってくる(ただし結構複雑な)トリルが非常に美しく響くのでしょう。そしてもう一つ改めて実感したのが、ラッセルというのは音を響かせる天才だということ。潜在的ポリフォニーを持った単音旋律が、本当にあたかも複数の楽器で複数の声部が演奏されているかのように響いて聴こえたり、和音が鳴った瞬間にふわっと音が広がってくるのがとても心地よかったり。藤井敬吾先生に「これはできなくていいから、とにかく頭では覚えておいて」と前置きされた上で、「ギターという楽器は基本的には平均律の楽器だが、本当のプロは微妙な加減で音程を調節してギターでも純正律で弾く」と言って実際にその響きの違いを実演して教えられた時のことを思い出します。残念ながら私は比較する平均律の響きがないとその音が純正律なのかどうかわかりませんが(というか実際比較すればよほど耳がザルでない限りその違いなんて一目(耳?)瞭然ですが)、きっとラッセルも純正律の響きで弾いているからこそ和音があんなに美しく響くのでしょう。あんな音で弾けたらなー、と心底思います。

 今回のお気に入りは何といっても4曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。きっと聴けば誰もが耳に憶えがあるであろう有名なコラールですが(ただしギター編はほとんど聞かない)、ラッセル編のこの曲は彼の豊かに膨らんでいく和音の響きと、明快にかつ流麗に奏でられるトリル、そしてクリアで明るく優しい音色がもう心行くまで堪能できる素晴らしい名演です。聴いてて本当に気持ちよかった。『シャコンヌ』はちょっと独特な感じでしたね。ラッセルは今回のアルバムではグールドばりに低音のスタッカートを多用して、短く切る音と余韻を残して響かせる音の間の落差を表現の手段として用いています(だからといってどう聴いてもラッセルの演奏がグールドに似ているわけではありませんが)。当然『シャコンヌ』の早いパッセージが続いた後にアルペジオに流れていく、前半の最大の盛り上げどころでも低音がスタッカートで歯切れよく切れていきます。低音が凄くサクサク切れるのに、上の方はむしろ逆に落ち着いて焦るふうもなくゆったり弾いているというそのギャップに少し違和感を覚えました。何しろ長調に転調する前の最後のアルペジオの部分でさえ、他のギタリストがこれみよがしに低音をダーンダーンと鳴らしているあの部分でさえ、ダーンダン、ダーンダン、ってスタッカートで切ってるくらいです。なんというか、斬新でした。長調に入ってから和音や異弦同音が続く辺りの聴かせ方はさすがでしたが、長調から短調に戻っていく時だけ他と比べてやけに焦っているようにも聴こえたり・・・。この『シャコンヌ』だけはちょっと?でしたねー・・・。あと、リュート組曲4番の『ローロ』ではトリルが上から入っていたような・・・?気のせいでしょうか。

 『シャコンヌ』に多少の疑問符が付くとはいえ、『プレリュード、フーガ、アレグロ』や『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』、『リュート組曲4番』、『主よ人の望みの喜びよ』ではラッセルらしい素晴らしい演奏が聴けます。何しろ本当は『シャコンヌ』まで聴いたら風呂を入れようと思っていたのを、「せっかくいい演奏なのに風呂を入れる水音に邪魔されたら台無しだ」と風呂は後回しにしたくらいです。グールドみたいなスタッカート奏法も他では非常にいい感じです。普段音が切れてるから、和音が突然ふわっと広がった時にその感覚が凄くよくわかっていいんですよ。やっぱりラッセルは違います。