2004年1月30日金曜日

『雑記帳』が目指す場所

 今日はステファノ・グロンドーナのリサイタルに行ってきました。それは非常に素晴らしいもので、まんごれの要請通り(あるいは要請がなくても)コンサート・レポートを書く気満々ではあるのですが、実は今はそれよりも書きたいことがあるのです。ので、レポートは明日にガッツリ書かせていただくとして、今日はちょっと別のことを書かせてください。それは、今私がどのような気持ちでこの『雑記帳』を維持しているかということです。

 元々この雑記帳は、私がフリーペーパー『Toward evening』でバリバリにライターやっていた頃、それとは別の個人的な表現の場ということで始めました。ですが、時は過ぎ、いつの間にか、私の中でこのHPは少しずつ、自分でも気付かないうちにその位置付けが変わってきました。それは特に大学を卒業してからです。

 大学時代は、よくも悪くもずっと夢の中にいるようなものでした。高校時代や浪人時代は、それはそれで素晴らしい時間だったのですが、大学で過ごした時間はまさに現実とは思えないくらい、あるいは現実を忘れるくらい、過ごしているその当時から「これはいつか醒めなければならない夢なんだ」と自覚できる幻のような時間でした。それは変に後ろ向きな懐古というのではなく、実際に、率直な実感としてです。このページを訪れてくれている人達には多かれ少なかれその感覚は理解していただけるのではないでしょうか。色々な物語が生まれていきました。それは、普通に考えれば大部分がいつか、夢から醒めるように自然に消えていく物語達です。卒業して皆離ればなれになって、時に押し流されていつかは消えていく物語達です。

 いつの頃からか、このHPはそのいつか消えていく物語達を消さずに紡ぎつづける、そんな役割を意識するようになりました。だから、何はなくとも、以前より更新頻度は落ちたとしても、それでも運営を続けているのです。いつも来てくれなくてもいい。誰も来ない時期があってもいい。ただ、もし誰かがかつて自分がキャスティングされていた物語の続きを読みたくなったら、少なくともその一部はここにある。そんな役割を目指し始めたのです。

「こちらの方から声はかけない。普段はまったく気にしてくれなくてもいい。でも、もし昔が懐かしくなったり、何か用事を思い出したら、いつでもここに来てもいい。その時、必ずここはあるから」

 そんな場所があってもいいんじゃないでしょうか。時とともにすべてが思い出に変わっていくだけでは寂しすぎる。現在形の物語を、どんなにか細くても、すべてを過去にしてしまわずに紡ぎつづける場所。かつてクレージー西の京がそうであったように、適当に目的もなく、ただ人が集まれる場所。最近流行りのBLOGとやらのように、明確な主義思想を打ち出すわけでもなく、生産性があることをしているわけでも別にない。たまに管理人は色々私見は述べるかもしれない。でも、本質はただ思い出した時に、ここを知っている人が、何となくさらっと立ち寄って、過去からつながる現在を確認できる場所。非生産的で曖昧でださくても別にいいじゃないですか。時には過去と現在をつなぐ0と1の狭間があったとしても。

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