2004年1月7日水曜日

牛丼を食べながらアメリカを思う

 アメリカ牛のBSE騒ぎが起こって久しく経ちました。このままアメリカ牛の輸入禁止措置が続けば来月半ばには牛丼が食べられなくなるらしいということで、とりあえず今日吉野家で牛丼を食べてまいりました。特別牛丼が好きというわけでもないのですが、やはり一人暮らしの常として吉野家や松屋には月何回かはお世話になりますからねぇ。今後他のメニューが出てくるにしろ、メインの牛丼が食べられなくなるかもしれないというのなら、まぁとりあえず一回くらい食っとくかって気にもなります。

 ・・・とか言っている側からアメリカが「BSE感染していた牛はDNA鑑定の結果アメリカ産ではなくカナダ産だということが判明した」等と宣い始めました。本気か!? というのが正直なところです。私は基本的にアメリカという国は好きじゃありませんし信用していません。先の戦争でもきっかけはともかくとしていざ始まってみた後のあのひたすら独善的な態度。いつからアメリカが正義になったのでしょう?まぁ、正義という言葉の定義に「正しい」という意味は含まれていないので何でもいいのですが、あれじゃただのファシズム国家です。体制的にアメリカよりもナショナリズム的な傾向が強い国など世界にいくらでもありますが、グローバルな影響力ということを考慮に入れるなら今世界で唯一のファシズム国家といって過言ではないでしょう、アメリカは。とにかく自分のことしか考えてないですからね。そりゃ当然今度の「BSE牛はカナダ産」発言に対しても「どうせあることないことでっちあげといて、こちらが検証する手立てと対抗する政治的・物理的力がないことをいいことに圧力かけて輸入再開させようとしてるだけなんじゃねーの?」くらい思ってしまいます。やりかねませんからねぇ、あの国。

 というわけで私はアメリカは嫌いですが、ところが逆にアメリカという国は非常に面白い国だとも思っています。それは近年のグローバルという基準が、自然とニアイコールでアメリカを指しているような気がしてならないからです。ちょっと極端ですが、世界文化のアメリカ化といってもいいかもしれません。今のアメリカは文化的にも世界に対する影響力が非常に大きい。ヨーロッパ文化やイスラム文化、あるいはアジアその他との軋轢はあるにしても少なくともその影響力を無視できない。故にアメリカを見ているとそれは世界のある種の縮図に思える場合も多いのです。

 例えばアメリカ文学を見てみましょう。1900年代半ばまではアメリカ文学というのは文壇から田舎者扱いされてきて、ぽっと出の動きに頼るアメリカ文学に、時の重みを積み重ねてきたヨーロッパ文学のような深遠さはないという評が多勢を占めていました。ニューヨークに各方面のアーティスト達がこぞって集うようになったのなんてここ2,30年の話です。近年では、アメリカ文学が深淵になったという話もあまり聞きませんが、逆にアメリカ文学が田舎者扱いされることもなくなっています。それは、アメリカの在り方のようなものがそのまま現在の社会の在り方になりつつあるからではないでしょうか。

 現実の社会において、歴史というバックグラウンドのないアメリカという国は時を積み重ねてきたヨーロッパに対し時を圧縮するという形で追いつこうとしたように思います。平たい言い方をすれば、それは効率化であり進歩主義であるとも言えます。結果、文明や経済は目覚ましく発展し、現在の世界が出来上がってきます。圧縮された時は生活のペースを上げ、時間や空間といった概念を飛び越える可能性を持ったインターネットという仮想空間の登場を機に2次元的なレベルでは距離と時間の関係をほぼ0にすることに事実上成功しました。そしてまた時は圧縮されます。私が勤める情報産業はドッグイヤーだとよく言われますが、よく考えてみてください。数十年前と比べれば、もはや私達の生活自体がドッグイヤーです。情報のうつろいは早く、氾濫した情報はよく整理してみないと時に真偽がわかりません。生活は確かに便利になった気がします。仕事の合間にインターネットで新幹線の予約もできるようになりました。ところが節約されたはずの時間はまるで虚空に消えたように、いつも現代人は時間に追われています。多分、意識的にであれ無意識的にであれ、ヨーロッパへのコンプレックスを解消するためにアメリカが選んだ道の齟齬がここにきて現れているのではないかなと思うわけです。日本は敗戦後、さらにそのアメリカの後を追うように時の圧縮を進めてきたわけですからその影響もひとしおでしょう。そしてその影響を受けるのは今や日本だけではありません。いつの間にか、世界全体がそのペースに巻き込まれているのですから。

 現在のアメリカ文学は、その齟齬の部分を非常に鋭くえぐっているように思います。だからこそ、もう田舎文学ではない。同時代性に富んだ辛辣なテキストになるわけです。1つには社会に潜む性と暴力を生々しく描ききるようなリアリズム的ないかにも現代アメリカ文学というもの、もう1つには現代社会の影といってもいい、昔のヨーロッパ文学を現代のコンテクストが再生したかのような思索的で静謐なもの。その二面性が今のアメリカ文学にはあります。ここ数十年、アメリカの後を追い続けてきた日本にはそうしたものはあるのでしょうか。

 アメリカという国の非常に独善的なところは大嫌いです。でも、世界に対するあらゆる意味での影響力は認めないわけにはいきません。そこには表裏をひっくるめた、現代社会の縮図があるように思うのです。あくまで、よくも悪くもですが。牛丼を食べながら、そんなことを思ったりしました。

0 件のコメント:

コメントを投稿