2004年3月18日木曜日

音楽という主題による小雑感

 日本人はスズムシやコオロギなど秋の虫の音を心地よく思い、風情を感じる。ところが、ヨーロッパなど他の文化圏の人達には、それはただの騒音にしか聞こえなかったりもするらしい。僕らが外国文化圏をルーツに持つ音楽を聴く時、その文化圏で生まれ育った人達と同じ音を聴けているのだろうか。

 もし文化圏が違えば聴こえる音楽も違うと仮定したら、僕ら日本人の音楽性というものは、ブラリと宙に浮いてしまう。残念ながら今の大半の日本人にとって、日本古来の音楽はほとんど感性のルーツとしてはありえないだろう。西洋文化由来の音が至る所で流れる現在、その音が本来持つ響きが日本人には聴こえないとしたら?現代の日本人は音楽世界の孤児となってしまうだろう。

 そんなに難しく考えることはない、ただ聴こえ、感じられるものを信じればよいのだ、という意見もある。どのみち僕らは他人の感性など生きられないし、芸術はすべからくその受け手の中でのみ価値ある意味を生み出せるものなのだから。

 近代以降、クラシック音楽は専門家による分業によって新しい発展を遂げてきた。楽器製作の専門家、作曲の専門家、演奏の専門家・・・。専門家が作った曲を、演奏の専門家が、やはり専門家の作った楽器で奏でる。なるほど、1つ1つの完成度は確かに上がったのかもしれない。では、音楽を生み出す専門家はどこに?

 ホセ・ルイスは悠長に言った。「作曲家は何も知らない」と。

 クラシック音楽も昔は演奏家と作曲家の間にほとんど垣根はなかった。バッハもモーツァルトもベートーベンも、優れた作曲家であると同時に優れた演奏家であり、特に即興の名人であったという。今、クラシックの世界で即興が聴けることはほとんどなく。クラシック音楽がメフィストフェレスと交わした契約は、美しさと引き換えに魂を渡すことだったのかもしれない。

 だが、誰もがキース・ジャレットになれるわけではない。

 キース・ジャレットはこう言った。漫然と聴くのではなく、精神を集中して聴き取ることは、「動き」や「変化」を超えた真に積極的な行為であると。コンサート会場にあってそうしてその場に聴衆が一人もいなくなり、全員が音楽に参加すること、それこそが創造のプロセスなのだと。

 こう解釈した。受け手は音楽を自分の中で何かと結びつけ価値を生み出していくことの積極性により、ただの受け手でなく創造への積極的な参加者になれるのだと。感動は、各々の人の中にしか生まれない。それを得るには、精神を集中して、参加しなければならない。音楽に、人生に。

 まぁ、難しく考えなくてもいい。何かに感動できるということは、まだ人生から降りていない証拠なのだから。あるいは、まだ人生に参加できる証拠なのだから。

 断片的に思い浮かんだまま書き連ねた、音楽という主題による小雑感。

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