2004年5月29日土曜日

トマティート & ホアキン・グリロ

 というわけでやっと書きます、トマティートです。去る5月26日の水曜日、私はトマティートとホアキン・グリロのコンサートに行ってきました。その数日前、「なんだかチケットが売れてないみたいで安売りしてるぞ」という情報を聞きつけた私は、まんまと安値でチケットを購入、水曜の夜19時には新宿文化センターにいることができたわけです。いやー、この前のキース・ジャレットに女子バレーの日韓戦もそうでしたが、思いついた時にすぐこういったイベントに行けるのが東京の(数少ない)いいところです。

 今回は前半をトマティート・チーム、後半がホアキン・グリロ・チームという形で2つのチームが交代にステージに出てくるという構成。客電が下り、トマティートが一人椅子に座ります。冷静に考えれば、フラメンコのソロを聴くのは実に久しぶりです。というか、プロの外人フラメンコは初めてです。トマティートは、正直一曲目のMACAEL(TARANTA)の時は、まぁ調子悪そうには見えませんでしたが、ノリもそんなによくありませんでした。それが次の曲でエル・ポティートとホセリート・フェルナンデスが出てきてパルマ、ルキ・ロサダがカホンを叩き始めてからは一気にリズムが生き生きとしてきます。これまで「曲を演奏してる」といった感じだったのが急に「音楽を楽しんでる」ふうに変わるんですね。やはりどんな音楽でもリズム隊がしっかりしてるとその上の演奏が活きてきます。フラメンコも例外ではないようです。三曲目のブレリアスで一気にテンションを上げてからは、そりゃもう一気怒濤のステージでした。前半だけで一時間強、休憩なしの1ステージとしては決して短いものではないですが、時間が流れていることなど忘れるくらい熱中して観ていました。

 トマティートの演奏を聴いていて、フラメンコも音量のダイナミクスはかなり大きく取るんだなということを思いました。学生時代聴いていた時は正直クラシックほどフォルテやピアノを意識していない印象もあったのですが、トマティートのギターは音量のマックスとミニマムの差が非常に大きい。しかもクラシックと違って最小音量から最大音量まで一気に切り替えてくる。ピアノでじっくりためておいて、ドブレが始まったらそのドブレの最後の音ではもう最大音量まで駆け上がってたりするのです。フラメンコはコンパスの節目はアクセントとして強く出して、他は本当に軽く弾くと、以前キムだったかから聴いた記憶があるのですが、まさにそんな感じでした。

 しかしあれですね、パルマとカホンってカッコいいんですね(爆)。無茶苦茶カッコよかったですよ。特にカホン。「カホンってあんなに音色でるんだ」と正直感心しました。ドラムでいうならバスもスネアもクローズド・ハイハットも、すべてカホン一つで賄っちゃってる。しかもまたこれも音量の表現の幅も広いし、ギターのドブレに合わせてハイハットみたいな音で物凄い連打したり、本気でカッコよかったです。あれを観てると、ウチの部のFメンバーも、ギターは頑張ってると思うのですがパルマやカホンがちょっとなまくらすぎる気がします。まぁウチはギター部であってフラメンコ部でないからいいじゃんと言われればそれまでですが、パルマとカホンがもっとしっかりしてればもっとギターも活きると思うのですよね。まぁ、ちょっとそんなことを思ってもみました。

 そして後半、ホアキン・グリロとその仲間達の踊りですが、実は個人的にはこっちの方がさらに衝撃的でした。カッコいい!しかもギターも二人いた方の片方、名前はわかりませんがトマティートに負けないくらいいい味出してたし、女性のカンテも魂入ってていい!なんというか、フラメンコの踊りって凄いですね。しっかり踊ってストーリーも表現しながら、なおかつステップで音楽に参加する。なんか観てて純粋に凄いなと思ったし、最後フィナーレの時なんて本気で感動して涙出そうになりました(苦笑)。しかもまた最後、アンコールなんですがステージの隅でみんなで輪になって、マイクも使わずに生のパルマと歌だけで女性の踊り手のパストーラ・ガルバンが踊り始めるんです。で、ホアキン・グリロ始め他のメンバーは輪になって見守りながら楽しそうに、ホントに楽しそうに彼女の踊りを盛り上げるのです。次はグリロが、そして二人で。なんかもう、観てて羨ましくなるくらい生き生きと嬉しそうに楽しそうにみんなでステージを作ってるのです。最高でしたね。きっと観客がいてもいなくても、彼らはそこにフラメンコがあればそれを楽しんでいくことができるんでしょう。見てて気持ちよかったです。

 このコンサートは最高でした。私は安売りチケットで行きましたが、定価でどちらか片方のステージだけでもまったく文句ないの素晴らしい舞台。ステファノ・グロンドーナもキース・ジャレットも超え、今年一番のステージです。今年どころか過去最高トップ3には間違いなく入ります(ちなみに他のトップ3はブラックモアズ・ナイトの大阪公演と大学4回の時の喫茶アルハンブラでの藤井敬吾先生のコンサート)。こりゃあ安売りしていいチケットじゃねぇなぁと思いつつ、今回のステージを観れた幸運に感謝して、感動の中家路についたとのことです。仕事がなければ確実に木曜も金曜も行ってましたね。カッコよかったな~・・・。

2004年5月28日金曜日

また眠い?

 書きたいことは3つあるのです。トマティート、アヴリル・ラヴィーン、そして大きな魚について。けれどもとても眠いのです。明日にまず、どれか1つでも書ければいいなと思うのです。思うのです。

 ・・・おやすみなさい。

2004年5月26日水曜日

眠い?

 なんだか以前より夜に弱くなった。そしてそれは私だけではないようだ。

2004年5月19日水曜日

『サーカス』中原中也

幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一と慇盛り
    今夜此処での一と慇盛り

サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安価いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉がなります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

     野外は真っ闇 闇の闇
     夜は劫々と更けまする
     落下傘奴のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

『サーカス』中原中也

6-7行目:一と慇盛り→「ひとさかり」
11行目:頭倒さに→「あたまさかさに」
12行目:屋蓋→「やね」
15行目:安価い→「やすい」
17行目:咽喉→「の(ん)ど」
19行目:真っ闇 闇の闇→「まっくら くらのくら」
21行目:落下傘奴→「らっかがさめ」

2004年5月17日月曜日

珈琲屋のマスターと仕事と生きがい

 ウチの近く、いつも通勤で駅に行く道の途中には、紅茶の専門店のような店構えをした、でもマスター曰くコーヒー店の、でも最近売れてるのはひたすらハーブティーという(笑)、なかなか素敵な店がある。そこで買い物をするようになったのはつい最近のことなのだが、マスターはそこで買い物をする度にコーヒーを一杯出してイスを勧めてくれて、いつもそこから雑談タイムに突入する。当然お茶やハーブの話も面白いのだが、やけに色々な友人がいてむやみに博識なマスターは、日本とイギリスの最新の酪農事情やらアメリカ流・イギリス流の資産運用に仕事・生活スタイル、日本人とその他の外国人との間にある宗教というものの考え方のギャップ、等々とにかく色々なことに関して饒舌に語る語る。ハーブティーを1つ買うだけでコーヒーが出てきて、切り上げるタイミングをはかるのが難しいほど上機嫌に話し続ける。「最近の東京というか関東一円では何年も同じ分譲マンションに住んでたって隣の人と話すらしないからね」とはマスターの談。こういった触れ合いが好きで、また大切に思っている人なのだろう。

 今日そのマスターと話していて、どういう流れか仕事の話になった。例えばマスターが私くらいの年齢のお客さんを捕まえて、「結婚はどうするの?」とか聞くと決まってこう答えが返ってくるという。「仕事が安定してから」とか「今の仕事が本当に合ってる仕事とは思えないし」とか。特に憧れの企業に入って、「ここが理想だ」と入る前に息巻いていた人は確実に「イメージと違う」とため息をつくそうだ。マスターはこう言った。「自分にあった仕事なんて絶対最初からなんてできませんよ。自分から仕事を自分に合うようにしていくか、でなければ自分を仕事に合わせないと」。金言だと思う。少なくとも新卒入社で社会に出て、「自分に本当に合った」仕事になどほとんど出くわせないだろう。何故ならそれは、社会に出たことのない人間の社会に対する認識は大体の場合において至極甘ったれた自分だけのご都合主義なものにすぎないからだ。そこから如何に自分の理想に職場を引っ張っていくか、あるいは職場の中から自分に合った部分を引っ張り出せるか、そういった世界の勝負になる。そもそも始めから理想が用意されていると考える時点で今の私の目から見ると現実の見えないただの甘ったれなのだが、かくいう私もやはり学生時代就職活動をしている時にはその甘ったれた考えを持っていたから、やはり社会というのは何はともあれ出てみないとわからないものなのだ。逆に出てみると、学生の頃は何故やるのか意味が分からなかった中学・高校の勉強や、今の仕事とは直接関係ない大学の授業でも、そこで学んだことの大切さや面白さがわかりはじめてくる。人とは現在形でやっていることのなんと見えないことか。

 話はそれたが、結局この社会に出て仕事をやる際、理想が用意されていると思うのはそもそも甘い。自分に本当に合った仕事なんて、最初からあるわけがない。それは用意されるものではなく自分で作り上げるものだ。ある程度は環境の問題、ある程度は意識の問題。まずは現状の仕事の問題点を常に意識し、改善していこうと言う向上心、そして現状の職場の中から自分に合った部分を見つけて抽出していく適応能力。理想は、作り上げるものだ。ギャップはあって当然。それを埋めるのは会社側ではなく個人の問題だ。

 ちなみにこれもマスターから聞いた話だが、30代半ばの日本人のお客が数人話をしているところに別の外国人のお客が来て、「生きがいは何か」という話になったそうだ。30代半ばの日本人のお客は「ん~、まぁ、敢えて言うなら仕事かな」と答えたという。すると、外国人のお客がその答えを聞いて曰く、「そうですか、あなたは仕事のために生まれてきたのですか?」。強烈な考え方だ。マスター曰く、「何のための人生かっていう確固たる信念を持ってないと外国人の相手はできないよね」。さて、どう考えるべきか。

2004年5月16日日曜日

中原中也のリズム

 中原中也の持つ言葉のリズム感は、結構感性に合うなぁと思っている次第です。小説や詩を書くならば、言葉のリズム感は忘れてはいけない。時にそれがDream Theaterのように変拍子で受け手を翻弄させるものになるとしても。

2004年5月15日土曜日

女子バレー日本×韓国 観戦記

 というわけで行ってまいりました女子バレー日本×韓国戦!テレビを見ていたら「やべぇ、俺も"ニッポン!"とか叫んで頭真っ白にしてぇ」とかいうわけのわからない衝動が生まれてしまい、思わず昨晩Yahoo!オークションで当日会場近辺で手渡しのチケットを落札。会社を強引にフレックス・コアタイム一杯の16時で切り上げて、渋谷から千駄ヶ谷までJRで15分、東京体育館に乗り込んでまいりました。いやー、よかったですねぇ(笑)。会場入りするなりまず、いの一番にあの応援用のバルーンスティックを購入し、バンバン、バババン、ババババン、ババン♪と悦に入ってぶっ叩いてました。試合が始まる前からこのバンバン、バババンとかニッポン、チャチャチャとか、定期的にスピーカからリズムが流れてきて練習させられるんですよね。バボちゃんが手を振るだけで大騒ぎな会場をさらに煽るように、終いにゃウェーブの練習まで試合開始前にさせられました(笑)。まぁ、このウェーブの練習は人によってかなりの気温差がありましたが。私の席はスタンドA席南だったのでコートからは少々遠いのですが、位置的にはちょうどネットの辺りで頭上1mにはテレビのメインカメラが控えるという、要は非常に見晴らしのいい席で、試合は実によく観えました。

 いやー、それにしても今日は佐々木!熱かったです。止まらない止まらない。1セット目の前半、栗原ももう一つエンジンがかかってない様子で、木村は数は打つんだけど韓国に片っ端から拾われて、決定力不足が素人目にも明らかだった時に日本にしては珍しい1セット目中盤での選手交代で登場。入るなりいきなりスパイク決めて、その後も立て続けに点を取り、一気に日本のペースにしてしまいました。他の選手より明らかに一回り上のパワーを武器に、あまり表情を変えずにクールに敵陣をブチ抜く様はかなり男前でした(笑)。ってゆーか私の後ろに座っていた女子高生二人組、佐々木選手のファンらしくプラカードまで作って応援していたのですが、「ササキー」と大声で叫びまくってやかましい・・・。最後のインタビューで佐々木の晩になった時に至っては「佐々木結婚してー」とまで叫んでましたからね。まぁ、男がふがいない今の世の中、佐々木や吉原のような男気溢れるタイプは女性にも大人気のようです(?)。というか佐々木のスパイク、ホントにスピードが他の選手と全然違うんですよ。練習の時、私の席に一番近いところで栗原と二人で片方がトス上げてもう片方がスパイク打って、トス上げた方がレシーブして、次は役割交代して・・・、ってずっとやってたんですが、栗原より佐々木の方が数段スピードもあるし重そう。なんだかんだいって栗原のスパイクはまだ軌道が軽く放物線を描きますが、佐々木のは突き刺さるように直線的に飛んでいきますからね。生で見たら凄かった。

 やはりテレビというのはどうしてもコート全体を見渡すわけにはいかないもので、テレビで見てても気付かないけど生で見ると凄いってのはやはりあるものです。今日一番そのテレビと生のギャップを感じたのは成田。正直リベロというポジション自体テレビじゃあまり目立たないですが、あの成田の拾いっぷりは凄いですよ。相手のスパイクや速攻をひたすら拾うのがリベロの仕事ですがこの成田、どこから飛んできてんのかわからないけどとにかく常にボールの着地点にいて、他の選手が反応できてない時でも一人でドカンとボールを上げてるのです。相手のトスが上がってからスパイクが着地するまで、それこそ瞬きしてたら見逃すくらいの一瞬の世界な訳ですが、成田はその一瞬の間に「アンタ今までそこにいなかったでしょ!?」ってところからあっという間に飛び込んでくる。で、あたかも最初からボールの軌道上にいたかのようにレシーブしちゃうわけです。テレビだと大体そのボールの軌道に入った後しかわからないですが、その前にそれこそ全然関係ないところから一瞬で飛び込んでくるんですよ。きっと「ブロックがあそことあそこに飛んだら抜かれるとしたらここ」みたいな憶測や経験と勘を駆使して瞬間的に判断して動いてるんでしょうが、あれは凄いです。なんでいつもそんなにボールのあるところにいるのか不思議なくらいでした。後は大友のブロードですね。これも一瞬で物凄い距離を移動してきて、しかも直線的に上げられた早いトスを、ボールが上昇のピークに達する前にぶっ叩く。テレビで見ると「なんで相手のブロック皆ついていけないんだろう」と思うこともあったのですが、いや、あれは無理ですよ。凄まじく早い。大友飛ばして後ろから高橋とかの時間差も、恐ろしいスピードで大友が突っ込んでくるから、観てるこっちまで「大友が打つ」と思っちゃって、実は大友スルーで後ろから高橋とか、結構だまされました(苦笑)。生で観ないと時間差の本当の味ってわからないものだなぁ、と思いましたよ。

 最後日本が佐々木のサービスエースで韓国を下し、アテネ出場を決めた時の騒ぎといったらもう凄いものでした。皆一斉に立ち上がってのスタンディング・オベーション。会場全体が熱気と感動に包まれて、巨大なバボちゃんがアリーナ西から出てきてインタビューに並ぶ選手の上を空中をぶら下げられて漂っていくは、アナウンサーは(また)泣くは、選手の涙でもらい泣きする観客も出るはでもう大変。選手が何度も体育館を回って退場するまで、ほとんどの人は席から離れませんでした。まぁそれだけ熱い空気だったということでしょう。私もここまでしてスポーツ観戦をするのは今回が初めてだったのですが、客席でかなり燃えてました(笑)。いくらまた観に行きたくて応援したくても、さすがにアテネまでは行けませんからねー。今回アテネ行きが決定する瞬間に立ち会えてよかったです。いやー、興奮した(笑)。オークションで勝負をかける前にちょっと悩んだのですが、これは行ってよかったです。今日の女子バレー日本×韓国戦で体験できた時間:プライスレス、って感じでしたね(笑)。是非アテネでも頑張ってもらいたいものです。

2004年5月10日月曜日

人生最後の音のように

 率直に言うと、最近クラシックの演奏家、それはギターとかピアノとかに関わらず、少なくともほとんど大部分のクラシックの演奏家に対して、非常に大きな違和感を覚えている。それはひとえに、彼らがあまりに演奏者として完璧であるからかもしれない。そして、彼らがあまりに「音」というものに対して鋭敏であるからなのかもしれない。少なくとも私は、そう思っている。

 クラシックの世界は他では見られないほど圧倒的な専門化・分業化が進んだ世界だ。どの音楽世界でも、例えば楽器制作の専門家は演奏家・作曲家とは別に存在するのが常だが、クラシックでは作曲家と演奏家さえもが完全に分業されている。あまりに当たり前のことなので気付かないかもしれないが、これは他の音楽世界ではほとんど考えられないことだ。ポピュラー界のアイドル歌手とかはまぁ音楽が専門というわけではないので無視するとしても、基本的にロック・ポピュラーの世界では作品は自作自演だ。他人が作った曲を演ることは「カバー」という形でむしろ特別視される。ジャズやブルースではいわゆるスタンダードナンバーとして既存の曲を演奏することは珍しくはないが、常に演奏する側は自分なりの解釈を加えてまったく他とは違うアレンジにしてしまうことがほとんどだ。譜面通りの演奏というのは(修行段階を除いて)まずあまり聴かない。ボサノヴァやその他世界各地の民族音楽にしても状況は似たり寄ったりだ。その中、クラシック音楽だけが与えられた譜面を忠実に演奏するという行為をその世界のトップクラスの演奏家達が何の疑問もなく行うという、ある種特別な状況下で音楽が再生される。「譜面通り」ということが特殊だとは認識されていない音楽世界。最近はそこに違和感を覚える。

 もちろん、クラシックには他のジャンルと比べて蓄積されてきた音楽(譜面)の量が違う等といった背景は当然ある。しかしその蓄積にこだわるあまり、表現という意味での自由さが失われているのではないかと思うわけだ。クラシックの演奏家は、その音楽の特質上、他人が作った曲を如何に音楽として演奏するかをまず問われる。そしてその上で、演奏家自身の個性や表現といった自由が出てくるわけだ。まずはよく設計され、統制された土台の上での限定された範囲での表現の自由。クラシック愛好家は苦言を唱えるだろうが、正直、そのように思えてしまう。

 そもそも、何かを表現しようとする際、既に他人が作った何かに全面的に依存しようということ自体に無理があるのではないだろうか。クラシックの(大部分の)演奏家は自分のために作曲をしない。はっきり言ってしまえば、そこに無理があるのではないだろうか。何かを本当に心から表現しようと思った時、出来合いのものがその表したい何かに100%はまるということはほとんど考えられない。90%まではまっていたとしても、残り10%に残るずれは、どうしても消すことができないジレンマとして残ってしまうだろう。もちろん、それを自作自演の即興でやったとして、それが表現したいものを100%出せるという保証はどこにもないし、むしろやはりそうできないことの方が多いだろう(何といってもそのためには望むものを瞬時に実現できるだけの高度な技術力と、望むものを音へと形作っていくだけのインスピレーションが必要なのだ)。その意味で、クラシックの枠内の表現というのは、常にある程度のレベルの高さを保証するブランドの既製品といった感じがどうしてもする。それ自体悪いことではないが、どうしても既製品的な着心地の悪さがわずかに残るのだ。私が思う偉大な音楽家達は皆、素晴らしい演奏家であると同時に素晴らしい作曲家であった。マイケル・ヘッジスもそうだし、バーデンパウエル、ピアソラ、キース・ジャレット、リッチー・ブラックモア・・・。彼らの演奏はその10%のずれを埋めることのできる、自由自在な表現に対する意思で満ちている。だからこそ(少なくとも調子のいい時の)彼らの演奏は聴くものの心をしっかりとつかんで離さない。私がクラシックの演奏を聴いて欠けていると感じる何か、逆に先にあげた演奏家達が持っている何か、それを敢えて語るとすればそのようになるだろう。

 もう一つ、クラシックの演奏家は音を聞きすぎる。音を聞きすぎるあまり、音と音の隙間、空白を聞けていない。音のない間を演奏できていない。そのように感じる。それは2つの意味がある。一つはテンポを揺らす際。先日キース・ジャレット・トリオを聴いた際に強く感じたことだが、彼らはどんなに激しいアドリブのバトルの最中でも、どんなにゆったりとメロディーを歌い上げている時でも、常にテンポの芯は揺らさないし外さない。どんなに好き勝手に揺らしているように見えても、要所要所では確実にメトロノームの芯に合わせてくるし、曲を通して見た場合、確実にメトロノームは乱さない。本来それがアドリブや、あるいは装飾音、場面展開の基本的な約束であるはずなのに、クラシックの演奏家は本来ずらすべきではない時に平気でテンポの芯をずらす。だから木村大や村治佳織の『サンバースト』はあんなに聞き苦しいし、大萩康治の『羽衣伝説』も最後に低音を連打するところで一度乱れて、コードをかき鳴らすところでもう一回崩れて、ってなってるから腰を砕かれてしまい全然ノれない。ファリャの『粉屋の踊り』のクライマックスに至っては、ほとんどすべてのギタリストが好き勝手にテンポ設定するだけで曲自体の流れは無視されている。どうも、クラシックの演奏家はテンポに対する感覚が甘いように感じる。

 もう一つは休符に対する意識だ。バーデンパウエルの演奏を聴いていると強く感じることだが、休符はれっきとした音の流れの一部であり、音楽を表現する上で欠かせないものだ。休符がピリッと締まらない演奏は、スパイスの効いていないエスニック料理のようなものだろう。その意味で、休符はただ「音がない」とか「休み」というのではなく、明確に意識的に曲のリズムの一部として意識して演奏されなければならない。クラシックの演奏家は和音構造の変化による余計な音の休止や、旋律の流れとしての休符は明確に演奏できているものの、リズムの一部としての休符という面では非常に意識が甘いように思う。ただ譜面通り音を止めているだけで、生きたリズムが感じられない。だからクレーメルやヨーヨーマが弾くピアソラにはピアソラ特有の暗い熱気が抜けてしまっているように感じるし、クラシックの演奏家が弾く民族舞曲はどこか気が抜けているように感じる。総じて、音の高さや質に対する感性の高さと反比例して、リズムに対する意識が低いように思うのだ。

 もちろん、すべてのクラシック演奏家がそうだと言っているわけではない。素晴らしい演奏家ももちろんいる。ただ、クラシックの世界全体を見渡すと、大部分の人がただ演奏家というレベルで止まって、本当に何かを紡ぎ出す表現者という段になるとほとんど存在しないというのを危惧している。ただ完成度の高い演奏を少々独自の解釈を入れて聴かせるだけで、私流の言い方で言えば「魂が入ってない」。特にクラシックギターの世界では、セゴビアやその他先達の偉業をないがしろにするつもりはないが敢えて言わせてもらえば、真の意味で他の音楽世界に匹敵するほどの巨大な才能というのはまだ生まれていない。クラシックギターは他のクラシック楽器の世界と比べるとまだ派閥やら何やらの音楽以外でのしがらみは小さい方なので、逆にこの凝り固まったクラシック音楽世界の現状を打破できる可能性はある。色々言ってきたが、私はクラシック音楽は好きなのだ。だから、どうか、もっと心のこもった演奏を聴かせてほしいと、そう思うのだ。キース・ジャレットがバド・パウエルの演奏に感じたような、音の一つ一つに「まるで人生最後の音のよう」に思える、そんな魂の入った演奏を。

2004年5月9日日曜日

女子バレーアテネ最終予選開幕

 女子バレーのアテネ最終予選が始まりました!今日夜20時前くらいに試合が放映されているのに気付き(←オイ)、またも随分エキサイトしながら見ておりました。昨日から私は39度近い熱を出して寝込んでしまっているわけですが、そんなことは気にしたら負けです。いやー、今日もフルセット、熱い闘いでしたね。しょっぱなからあのイタリアを倒すとは非常に幸先いいスタートです。

 しかし今日見てびっくりしたのは木村沙織選手の成長ぶり。17才で全日本最年少(なんとまだ高校三年生!)の彼女ですが、前から後ろから打ちまくる打ちまくる(笑)。終いにゃサービスエースまで決めてましたからね。前回のワールドカップの時は、彼女時々ピンチサーバーとかでコートに出ては来るものの、なんかただ出てくるだけでほとんど何もできないで去って行くという印象が強かったのですが、今回は違いますね。えらい活躍ぶりです。たった半年足らずでここまで人間成長できるものなのかと、ほとんど敬服すらしてしまいそうな勢いでした。いやー、ああいうのを見てると自分もここで停滞しているわけにはいかないなと思ってしまいます。

 今日から始まった全日本女子バレー・アテネ最終予選、またしばらく楽しませてくれそうです。是非この予選を通過して、アテネでも試合を見せてほしいものです。

2004年5月7日金曜日

GWレポート

 さてさて、連休が明けました。私の業界ではウィルスSasserがMSブラストの時と同様、連休明けのぼけを問答無用で醒させるかのように炸裂してくれましたが、皆さん如何お過ごしでしたでしょうか。この連休はいつになく休みらしく(?)、実に色々なところを見て回ってきました。ここは一つ日記らしく、その記録の意味も含めて回ったところを羅列してみましょう。


 新潟から帰ってきて明けの2日は横浜中華街及び赤レンガ倉庫、クイーンズスクエアへ。今年から開通したみなとみらい線沿線を回るトレンドな(?)コースです。そのせいかもう人が多い多い。中華街なんてもはやオールスタンディングのライブ状態のごった返しで、並ばずに店に入るは事実上不可能。豚まんを立ち食いし、中国茶を種類・いれ方等を説明してくれて楽しめる喫茶店のみ行って、後はもう這々の態で次の赤レンガ倉庫へ向かいました。が、ここもひどいもので、色々とお洒落で変わったアンティークなどあるものの、とてもまともに商品を見てられる状態ではありません。疲れきってクイーンズスクエアに取って返し、ここも混んでいるとはいえ多少はましな人ごみの中、食事などしてから帰ってきました。

 3日は今度は東京です。まずは表参道に繰り出し、キルフェ・ボン(?)というタルトの有名な店へ。店で食べようと思っていたら余裕で一時間半から二時間待ちだと言われたので、持ち帰りでタルトを買って渋谷のクロスタワーまで歩き、そこでカフェ・ラテなど頼んで外のベンチでこっそり食べたりしました。その後山手線~ゆりかもめと乗り継ぎお台場へ。こちらは意外と人も横浜ほどは多くなく、水上バスで東京湾内クルージングを堪能したり、おいしいワッフルとパスタを食べたりして珍しく世間並みの都会の楽しみを満喫した一日でした。

 4日は今度は鎌倉へ。天気も崩れてきそうだったので、あまり長くはいなかったのですが、それでも大仏と長谷寺を回って、脂取紙や若宮通りのせんべい屋さんを回ることはできました。しかし私、中学時代の修学旅行を始め何度か鎌倉には行ったことがあるのですが、なんとまだ一度も大仏を見たことがなかったんですね。自分の中では見たことがあると思っていたのですが、どうやらそれは錯覚だったようです(苦笑)。今回大仏を目の当たりにして、「いや、こんなのはみたことないぞ」と。・・・ん?でもそういえば中学の修学旅行の写真で大仏の前で撮ったものもあったような・・・?う~ん・・・。

 5日は基本的には休息です。日吉にある本格派の紅茶・ハーブ茶の専門店をのぞいてみたりして時を過ごしていました。が、夕方にはこのGWの締めがまっています。そう、神奈川県民ホールでキース・ジャレット・トリオのコンサートです。4月末にたまたまどこかでキース・ジャレットが来日するというのを知り、「それは行かねば!」とオークションでチケットを競り落としたお楽しみのコンサートです。ジャズのピアノ・トリオのコンサートというのは初めてですし、正直ジャズは背景やら何やらそういったものはまったくわからないので、逆にもう純粋に音楽を楽しむしかないわけですが、いやあれば凄かった。どの世界でも本物というのは理屈抜きに心を持っていってくれます。キース・ジャレットはやはりCDで聴いたキース・ジャレットでした。それはもう語りたい気持ちで一杯ですが、明らかに長くなるので今日はここまでにして、また日を改めてキース・ジャレット・トリオのコンサートについては語りたいと思います。

 友人の結婚式に始まり、キース・ジャレット・トリオのコンサートで締められたこのGW、飛び回りすぎてかなり疲れました(苦笑)。いや、精神的にはいいリフレッシュになりましたが。とりあえずもう連休も終わり、またいつもの生活が帰ってきます。パシッと気分を切り替えて、また現実と向き合う日常に戻っていきたいと思います。

 以上、敢えて非常に叙事的な列記に終始した、GWのまとめ日記でした。

2004年5月4日火曜日

イベント三昧のGW

 GW、何だか色々なところを飛び回っております。1日は高校時代の仲間の結婚式のため新潟へ。そしてそのまま帰ってきて、昨日は横浜、今日はお台場とあらゆる方角に出向いております。

 なんと言いますか、やはり仲間が結婚して幸せそうにしているのを見ていると、幸せということについて考えてみたりもします。幸せの形は人それぞれだとも言えば、幸せの形は皆似たようなものだが不幸の形は人の数だけあるとも言います。全人類的にどうだとか、そんなことを考えるほど大それた人間じゃないですが、自分にとって幸せとは何か、それをつかむにはどうすればいいのか、そんなことをこの連休中ずっと考えていたりするのです。結論はまだ出ませんが、いつになくイベント三昧のこの連休、色々なものを見て聴いて感じて、幸せに向かう方法性というのをじっくり考えてみようとも思うのです。まぁざっと、そんな感じ。