2004年5月10日月曜日

人生最後の音のように

 率直に言うと、最近クラシックの演奏家、それはギターとかピアノとかに関わらず、少なくともほとんど大部分のクラシックの演奏家に対して、非常に大きな違和感を覚えている。それはひとえに、彼らがあまりに演奏者として完璧であるからかもしれない。そして、彼らがあまりに「音」というものに対して鋭敏であるからなのかもしれない。少なくとも私は、そう思っている。

 クラシックの世界は他では見られないほど圧倒的な専門化・分業化が進んだ世界だ。どの音楽世界でも、例えば楽器制作の専門家は演奏家・作曲家とは別に存在するのが常だが、クラシックでは作曲家と演奏家さえもが完全に分業されている。あまりに当たり前のことなので気付かないかもしれないが、これは他の音楽世界ではほとんど考えられないことだ。ポピュラー界のアイドル歌手とかはまぁ音楽が専門というわけではないので無視するとしても、基本的にロック・ポピュラーの世界では作品は自作自演だ。他人が作った曲を演ることは「カバー」という形でむしろ特別視される。ジャズやブルースではいわゆるスタンダードナンバーとして既存の曲を演奏することは珍しくはないが、常に演奏する側は自分なりの解釈を加えてまったく他とは違うアレンジにしてしまうことがほとんどだ。譜面通りの演奏というのは(修行段階を除いて)まずあまり聴かない。ボサノヴァやその他世界各地の民族音楽にしても状況は似たり寄ったりだ。その中、クラシック音楽だけが与えられた譜面を忠実に演奏するという行為をその世界のトップクラスの演奏家達が何の疑問もなく行うという、ある種特別な状況下で音楽が再生される。「譜面通り」ということが特殊だとは認識されていない音楽世界。最近はそこに違和感を覚える。

 もちろん、クラシックには他のジャンルと比べて蓄積されてきた音楽(譜面)の量が違う等といった背景は当然ある。しかしその蓄積にこだわるあまり、表現という意味での自由さが失われているのではないかと思うわけだ。クラシックの演奏家は、その音楽の特質上、他人が作った曲を如何に音楽として演奏するかをまず問われる。そしてその上で、演奏家自身の個性や表現といった自由が出てくるわけだ。まずはよく設計され、統制された土台の上での限定された範囲での表現の自由。クラシック愛好家は苦言を唱えるだろうが、正直、そのように思えてしまう。

 そもそも、何かを表現しようとする際、既に他人が作った何かに全面的に依存しようということ自体に無理があるのではないだろうか。クラシックの(大部分の)演奏家は自分のために作曲をしない。はっきり言ってしまえば、そこに無理があるのではないだろうか。何かを本当に心から表現しようと思った時、出来合いのものがその表したい何かに100%はまるということはほとんど考えられない。90%まではまっていたとしても、残り10%に残るずれは、どうしても消すことができないジレンマとして残ってしまうだろう。もちろん、それを自作自演の即興でやったとして、それが表現したいものを100%出せるという保証はどこにもないし、むしろやはりそうできないことの方が多いだろう(何といってもそのためには望むものを瞬時に実現できるだけの高度な技術力と、望むものを音へと形作っていくだけのインスピレーションが必要なのだ)。その意味で、クラシックの枠内の表現というのは、常にある程度のレベルの高さを保証するブランドの既製品といった感じがどうしてもする。それ自体悪いことではないが、どうしても既製品的な着心地の悪さがわずかに残るのだ。私が思う偉大な音楽家達は皆、素晴らしい演奏家であると同時に素晴らしい作曲家であった。マイケル・ヘッジスもそうだし、バーデンパウエル、ピアソラ、キース・ジャレット、リッチー・ブラックモア・・・。彼らの演奏はその10%のずれを埋めることのできる、自由自在な表現に対する意思で満ちている。だからこそ(少なくとも調子のいい時の)彼らの演奏は聴くものの心をしっかりとつかんで離さない。私がクラシックの演奏を聴いて欠けていると感じる何か、逆に先にあげた演奏家達が持っている何か、それを敢えて語るとすればそのようになるだろう。

 もう一つ、クラシックの演奏家は音を聞きすぎる。音を聞きすぎるあまり、音と音の隙間、空白を聞けていない。音のない間を演奏できていない。そのように感じる。それは2つの意味がある。一つはテンポを揺らす際。先日キース・ジャレット・トリオを聴いた際に強く感じたことだが、彼らはどんなに激しいアドリブのバトルの最中でも、どんなにゆったりとメロディーを歌い上げている時でも、常にテンポの芯は揺らさないし外さない。どんなに好き勝手に揺らしているように見えても、要所要所では確実にメトロノームの芯に合わせてくるし、曲を通して見た場合、確実にメトロノームは乱さない。本来それがアドリブや、あるいは装飾音、場面展開の基本的な約束であるはずなのに、クラシックの演奏家は本来ずらすべきではない時に平気でテンポの芯をずらす。だから木村大や村治佳織の『サンバースト』はあんなに聞き苦しいし、大萩康治の『羽衣伝説』も最後に低音を連打するところで一度乱れて、コードをかき鳴らすところでもう一回崩れて、ってなってるから腰を砕かれてしまい全然ノれない。ファリャの『粉屋の踊り』のクライマックスに至っては、ほとんどすべてのギタリストが好き勝手にテンポ設定するだけで曲自体の流れは無視されている。どうも、クラシックの演奏家はテンポに対する感覚が甘いように感じる。

 もう一つは休符に対する意識だ。バーデンパウエルの演奏を聴いていると強く感じることだが、休符はれっきとした音の流れの一部であり、音楽を表現する上で欠かせないものだ。休符がピリッと締まらない演奏は、スパイスの効いていないエスニック料理のようなものだろう。その意味で、休符はただ「音がない」とか「休み」というのではなく、明確に意識的に曲のリズムの一部として意識して演奏されなければならない。クラシックの演奏家は和音構造の変化による余計な音の休止や、旋律の流れとしての休符は明確に演奏できているものの、リズムの一部としての休符という面では非常に意識が甘いように思う。ただ譜面通り音を止めているだけで、生きたリズムが感じられない。だからクレーメルやヨーヨーマが弾くピアソラにはピアソラ特有の暗い熱気が抜けてしまっているように感じるし、クラシックの演奏家が弾く民族舞曲はどこか気が抜けているように感じる。総じて、音の高さや質に対する感性の高さと反比例して、リズムに対する意識が低いように思うのだ。

 もちろん、すべてのクラシック演奏家がそうだと言っているわけではない。素晴らしい演奏家ももちろんいる。ただ、クラシックの世界全体を見渡すと、大部分の人がただ演奏家というレベルで止まって、本当に何かを紡ぎ出す表現者という段になるとほとんど存在しないというのを危惧している。ただ完成度の高い演奏を少々独自の解釈を入れて聴かせるだけで、私流の言い方で言えば「魂が入ってない」。特にクラシックギターの世界では、セゴビアやその他先達の偉業をないがしろにするつもりはないが敢えて言わせてもらえば、真の意味で他の音楽世界に匹敵するほどの巨大な才能というのはまだ生まれていない。クラシックギターは他のクラシック楽器の世界と比べるとまだ派閥やら何やらの音楽以外でのしがらみは小さい方なので、逆にこの凝り固まったクラシック音楽世界の現状を打破できる可能性はある。色々言ってきたが、私はクラシック音楽は好きなのだ。だから、どうか、もっと心のこもった演奏を聴かせてほしいと、そう思うのだ。キース・ジャレットがバド・パウエルの演奏に感じたような、音の一つ一つに「まるで人生最後の音のよう」に思える、そんな魂の入った演奏を。

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