2004年6月20日日曜日

癒しとしてのクラシックギター

 あまり考えたことはなかったのですが、音楽療法としてのクラシックギターというのはなるほど確かにアリかもしれません。考えてみれば、クラシックギターというのはあらゆる楽器の中で最も優しい音を出せる部類に入ると思うのです。少なくとも管楽器やバイオリンとかよりは確実に。甘ったるいビブラートをかけすぎなければ、ギターの暖かく優しい音色は、確かに疲れたり弱ったりした人の心に染み込んで行くことができるのではないかなと思い始めたわけです。

 そもそも、私はいわゆるヒーリングミュージックってヤツが好きではありません。ただ耳当たりがいいだけで、無機質で冷たく、言うなればガラス張りの摩天楼のような非体感的な押し付けがましい美しさが嫌なのです。そして、基本的に音楽というのは心に響くものがいいのだとだけ思っていました。心を揺さぶり、引っ張っていく、力ある音楽。それこそが音楽だと思っていました。だからこそ以前日記でも「力あれ、芸術達よ」と言ったわけです。ところが、そういった心に響く音楽は、受け手の方にも響くだけの空間、ゆとりがなければ響けません。音が物理的に響くのに空間が必要なように、音楽が心に響くのにもやはりゆとりが必要なのです。だから、私がこれまで好んできたような響こう、響こうとする音楽は、疲れて弱ってゆとりがなくなってしまった心では響けません。極端な話、今まさに自殺を考えている人が福田進一の『コユンババ』に感動するなんてありえないでしょう。響く空間をなくしてしまった心には、心を揺さぶる強い音楽ではなく、心に染み入って満たしていく優しい音楽がいい。そしてギターは、その心にしみていくことのできる暖かくて優しい音色を持っていると思うのです。今出回っているヒーリングミュージックみたいな無機質な偶像上の癒しではなく、本当に疲れて弱って、乾ききってカサカサになった心を潤していくことができる音楽がギターでなら奏でられるのでないかなと、そう思い始めました。

 自らが強く響こうとする、強い音楽はそれには向かないでしょう。弱った体に強すぎる薬が逆効果なように、強すぎる音楽はかえって心をすり減らします。福田進一のようなスリリングな緊張感や、藤井敬吾先生のような聴き手を飲み込んでしまうインパクトはこの場合ではちょっと違って、デビッド・ラッセルの弾く『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』や『詩的ワルツ集』のような、控えめな暖かさがいいのではないかなと思うわけです。資料的な根拠はないのですが、リョベートなんかは直観的にそのギターの一面を理解していたような気がします。心を癒す水のような役割としてのギター。彼の音楽を聴いているとそう思うのです。

 そういえば昔FUNさんが、ギターで音楽療法というかヒーリングみたいなことができればいいと言っていました。音楽とは魂を削って表現し、真摯に全力で向き合って受け取るものだと信じてそれ以外の選択肢を見なかった当時の私は、そのFUNさんの言葉に否定的とは言わないまでも無関心でした。でも、今にして思うのです。ギターには確かにそれができる。私が目指したような魂を削っていく音楽もやはりあるけど、確かな一面としてギターは響くことができなくなった弱った心にも、染み込んで癒していける優しさがある。遅ればせながら、そのことに気付いたわけです。心を揺さぶるのでなく、心に染み込む音楽。私自身がそういった演奏をするか、できるかというのはさておくとしても、他の楽器より優れたギターの一面として、そういった音楽を紡いでいくのは非常に素晴らしいことだと思います。改めて聴いてみると、暖かいですね、ギターの音って。等身大の人のぬくもりという感じがします。また、この楽器が好きになりました。

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