2005年1月30日日曜日

激務の果てに

 今日も今日とてスキーに行った他グループの人達を尻目に仕事だったわけですが、まぁまぁなんとか少しは早く切り上げ、夜はゆっくりと、久しぶりにゆっくりと、音楽を聴いていました。iPodを買ってからというもの、通勤中や定時以降の仕事中は常に音楽が側にあるわけですが、通勤の雑踏の中ではクラシックやジャズなんかは埋もれてしまってイマイチですし(ちなみに最近よく聴くのはU2)、仕事中は「本当に集中したいならBGMは激しければ激しいほどよい」という受験生時代からのポリシーに基づきDream TheaterやIron Maidenばっかり聴いてます(爆)。まぁ当然そんな状況下ではゆっくり音楽など聴けません。今日は久しぶりに本当に音楽を聴いたという気がします。

 正直、精神的にかなり疲れていました。ただでさえ忙しかったこの二週間。毎日続く深夜までの仕事に徹夜作業。昨日は名古屋で納品作業でしたし、31日にはまた納品及び徹夜での深夜作業が待ち構えています。その後もやらなければならない仕事は随分先までたまっています。心も体も休まる暇がありません。精神的には決して弱くはないと自分では思っている私ですが、何にせよ限界というものはあるようです。

 人間というのは疲れて追い込まれて余裕がなくなって来ると、どうやら思考が鈍く麻痺していってしまうもののようです。ぼーっと濁った薄膜が頭に張ったような感じで、不満や不安すら麻痺してしまう。世界から薄皮一枚離れて自分は存在していて、起きる出来事や、あるいは自分でやっていることでさえも何処か"向こう側"で起きている余所事に思えてしまう乖離感。逆に、意外なほど苦痛はないのです。ただ、家に着いて一人になって、濡れたまま乾いていない洗濯物を見たり、日用品や今夜のおかずを買いにスーパーに行ったりした時に、ふと「何をやってるんだろう?」と漠然と思うのです。けれどその疑問すらそこから先に進むこともなく、ただどんよりとした倦怠感だけが残って思考が止まり、そしてまた「何をやってるんだろう?」という曖昧な問いに返って、緩慢と思考がループする。活動エネルギーが明らかに低下していることだけは自分でもわかりました。先へ進もうという気がしないのです。「ああ、こうやって人は鬱になっていくんだな」と、危機感もなく思いました。危機感や焦燥感を抱くには。それなりに大きなエネルギーが必要なのです。どうやら、今の私にはそれもないようでした。

 外での用事を全て終えて家に帰ります。CDをプレーヤーにかける前から、頭の中である曲が流れていました。デビッド・ラッセルが弾くヘンデルの組曲七番『パッサカリア』。以前にも日記で書きましたが、非常に短い間隔で執拗に繰り返される低音主題と、悲観的に過ぎることない儚さを醸す美しい変奏が繰り返す日常の輪廻を連想させる、そんな曲です。スピーカーの前に座って、他に何をするわけでなく目を閉じてただ聴きました。スピーカーの向こう側の演奏者と呼吸を合わせて、合奏をするように、指揮を振るように、曲の流れに身を任せて。曲が終わる頃には、すっかり音楽の世界に集中していました。そして、頭の中に張っていたもやが、少し晴れた気がしました。感動というほど大げさなものではないけれど、確かな心地よさを感じました。そのままそのCDを最後まで聴き、続いてグリュミオーが弾くヴィターリの『シャコンヌ』を聴き・・・。合間に食事をしたり風呂に入ったりしながら色々な曲を聴きました。ピアソラの『AA印の悲しみ』も心が震えました。『オデオン劇場1973』に入っている『アディオス・ノニーニョ』でアントニオ・アグリがむせび泣くように奏でるバイオリンに引き込まれました。今もまだ音楽は続いています。少しずつ、もやが晴れて来ます。再び世界が見えるようになってきます。これらの音楽達は、心を癒してくれているのか、それともエネルギーを分けてくれているのか・・・?それがどちらなのかはわかりませんが、これらの音楽達が疲れきっていた心を助けてくれたのは間違いありません。あらためて、音楽はいいなと思えるし、自分がどれだけその世界に染まっているのかを実感したりもするわけです。

 色々と弱音を吐くようなことも書きましたが、どうやらまだ私は大丈夫なようです。

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