2007年1月28日日曜日

賑やかで、寂しい夢 -時間と存在の輪廻-

 色々と、たくさんの人が出てくる夢を見ました。職場の人間、高校の部活の先輩達や同級生、中学の仲間・・・、それぞれ時代毎にグループになって、会社だったりカラオケに向かうエレベーターだったり飲み屋だったりで、実際に会ったとしても同じことを話しそうな内容を、ずっと笑いながらしゃべっていました。何故か大学時代だけは出て来ませんでした。職場の人とは実に実際的な打ち合わせをして、「よし、これで段取りは済んだな」と満足していたものです(苦笑)。とにかくたくさんの人達が出てきて、ここ数年一度も思い出していないような人まで出てきて、非常に賑やかな夢でした。

 ただし、寂しい夢でもありました。時代毎にグルーピングされた様々な人達と笑顔で話し、歌い、飲む。その後に、その場を離れる際は何故か必ず私は一人になっていました。一人になって少し歩き、気付くとまた違うグループの人達に囲まれている。そしてまた一頻り騒いで、別れて、一人になって・・・、とそれを繰り返す夢でした。そうすると不思議なもので、祭りの楽しさよりもその後の寂しさの方が後を引いて残ります。総じて、寂しい印象の夢でした。非常に、音響的には騒々しい夢ではありましたが、心情的には静かすぎるくらいに静かな夢でした。

 目が覚めた時、周囲の静けさに少し驚きました。もう朝の7時半くらいで障子越しの光は既に白く明るいのですが、人の話す声も大きな物音も聞こえない。妻の寝息だけがスースーと聞こえてくる。その世界が妙に静かに思えました。逆に不自然な静寂に感じました。それほど、賑やかな夢だったのです。

 そしてその現実の静寂の中にしばらく身を置いていると、今度は音楽が聞きたくなってきました。曲は藤井敬吾先生の『スウェーデン民謡<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』。マンドリンとギターの二重奏です。北欧らしい雪が降る予感を感じさせる澄んだ冷たい空気の中に、どこか諦観や達観を含んだ哀愁に満ちた旋律が非常に美しい『麗しき薔薇を知る者』をテーマに、その主題を1パターンずつ繰り返す度に変奏が展開されて行くという、非常にわかりやすい形式の変奏曲です。その意味ではパガニーニのカプリース24番なんかと似た進み方をします。そして変奏曲と言えど、自由にどこまでも発想を拡げていくものではなく、あくまで元の旋律のイメージを崩さずに、最初に提示された旋律を重ねながら聴くことができる程度に展開が抑制されたその曲は、パッサカリアやシャコンヌのように1パターンが終わる度にまた最初に戻って繰り返しているような、そんな感覚を聴く者に与えます。

 そういった曲の形式は、いつも私に次のようなことを連想させます。変奏され、表に出てくる形は変わったとしても、根本は変わらずに、間に何も挟まずに繰り返される日々。今過ごしている時間、期間は、過去のある時間、期間の変奏であり、結局その頃と根本は何も変わっておらず、そしてこれからも変わることはないだろうという、日常の輪廻。自分という存在が自分である限り繰り返す、ある程度のスパンで見た場合の根本的な時間経過の中での在り方。いつの時代も、結局はその在り方の変奏でしかない。では、その在り方によってもたらされた過去の結末が今わかるのであれば、結局未来も同じ結末になるのではないかという、そんな安堵と不安。以前にも書きました。こういったことを思い起こさせてくれるから、私はシャコンヌやパッサカリアという形式が好きなのです。そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』も同じです。それは時間に対する存在の輪廻だと、私は思うのです。

 今朝の夢は、実に端的な形でそれを映像化したものでした。だからこそ寝覚めてからあの曲が聴きたくなったのでしょう。時代毎の仲間達と話して、また次の時代へ、次の時代へ・・・、と切り替わって行くうちに、やはり何も変わっていないなということに気付きます。時代は、ただ変奏し、繰り返されているに過ぎない。その思いがあるからこそ、夢の中で最後私は一人になって、そしてその寂しさが後を引いて行くのかもしれません。シャコンヌやパッサカリアや、そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』は、結局最後まで主題を繰り返し続けます。だからこその音楽達です。では、私は、どうなのでしょうか?


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