2007年1月3日水曜日

恩師の訃報

 実家からの電話で、小学校時代の恩師が亡くなられたことを知った。六年生の時の担任で、生徒はもちろん、父兄の間でも有名な、今で言うところの名物先生だった。当時既に50歳前後だったはずだが、痩身で浅黒く焼けた肌と、顔に刻まれた深いしわと気迫に満ちた目は迫力満点で、それだけで小学生を震え上がらせるに充分だった。この先生が"名物"たりえた所以はもう一つある。常に持って歩く"魔法の棒"の存在だ。僧侶が座禅の時に「喝っ!」とか言ってひっぱたく、あの棒である。それに手書きで色々な言葉を書き込んだ棒を授業中もいつも持ち歩いていて、何か悪いことをした生徒がいるとその棒でコンコン、と床を叩いてにらみつけ、「○○っ!」と名前を呼んで前に出させる。そして出てきた生徒を罪の深さに応じて、その棒でふくらはぎや尻をスパーンとひっぱたくのだ。罪が深かった時などはこれはかなり本気で痛い。時代が今ならPTA辺りから「暴力教師」として吊るし上げを喰うかもしれない。だが、私達の親の間では躾をきちんとしてくれる先生として信奉されていたようだ。

 もちろん、ただ怖いだけの先生ではなかった。特に生徒の健康には非常に気を遣う先生で、持病を持った生徒には毎日のように具合はどうかと確認していたし、私が小学校の鼓笛隊の指揮者をやる時も、当時病弱で体も学年で一、二番を争う小ささだった私に「食べて力を付けないと町まで棒振って歩けないから」と給食のおかずで一番体力付きそうなものを私に毎日分けてくれていた。鼓笛隊の指揮者は普通列の後ろの方からでも棒がよく見えるように体の大きな人がやるものだったが、私が"体の小さい指揮者"に先鞭を付けて以降、小さい指揮者も見られるようになった。私の次の代の指揮者も私に負けず劣らず体が小さい女の子だった。最初は体力のない私が指揮を振るというのはどの先生も反対したものだ(同じ理由で楽器が重いアコーディオンも却下された)。それでもやると言い張って、教師側が折れる形で実際やるとなったら後は何も言わずに「体力を付けろ」と暗に示しながら、毎日おかずを分けてくれる。そんな先生だった。

 白根市内の小学校別対抗水泳大会へ向けての練習で、真夏の学校のプールで目にした先生の姿が何故か一番記憶に残っている。歳不相応に痩せた、でも鍛えられているので貧相な感じはしない体に、白い水泳帽をかぶっている。少し、カッパに似ていた。次は、卒業式の時の緊張が一気に解きほぐれたような笑顔だろうか。無邪気に、無条件に、笑ってくれていた。

 成人式の後、小中学校の同級生が一堂に会した席で、先生を呼んでみようという話になった。私が卒業した小中学校は全学年一クラスしかない、実質的に小中一貫校なので(苦笑)、そこにいるのは皆先生の教え子だ。だが、その時はクラスの代表が先生と電話で話をしただけで姿は見せなかった。確か、その時既に体調を崩していたのではなかったろうか。結局、その後もお会いする機会のないままになってしまった。またよりによって私が帰省しない年末年始にと、少し思わなくはない。すべてがあまりに急で、お通夜にも告別式にも参列することができなかった。だからせめて、(先生は特別音楽が好きというわけではなかったけれど)モーツァルトのレクイエムを聴きながらこうして思い出を書き綴ることでせめてもの手向けとしようと思う。基本的に"先生"という人種が好きでなかった私は、その後大学に至るまで教師に敬意や親近感など持ったことはなかったが、唯一この先生だけは恩師と言える先生だった。学校という社会を通じて、何がよくて何が悪いのかを、やり方は厳しいながらも教えてくれ、頑張っていることに対しては無言で力強く応援してくれる先生だった。先生が教壇に座って、しかめ面をしながら魔法の棒で床を二回コンコン、と叩く、あの姿が懐かしい。

 大野先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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