2008年5月5日月曜日

ルリユールおじさん

 今日、会社の裏手にある子供向け絵本の専門店のような店で、一冊の絵本を見つけた。『ルリユールおじさん』というタイトルのその絵本は、繊細なタッチで描かれた青と灰色を基調とした筆が少々の愁いを帯びた、子供向けというには幾分静謐すぎる印象の絵柄が遠くから私の目を引いた。静かで、綺麗な絵だなと思い、手に取って読んでみた。

 大切にしていた植物図鑑が壊れてしまった少女は、それを直してくれる人を捜して歩く。町の人に「ルリユールのところにもっていってごらん」と言われ、ルリユールを尋ねて回る。ルリユールとは、有り体に言えば本の装幀職人だ。この職業については、絵本の最後に作者による注釈が付いている。

 RELIEURは、ヨーロッパで印刷技術が発明され、本の出版が容易になってから発展した実用的な職業で、日本にはこの文化はない。むしろ近代日本では「特別な一冊だけのために装幀する手工芸的芸術」としてアートのジャンルに見られている。出版業と製本業の兼業が、ながいこと法的に禁止されていたフランスだからこそ成長した製本、装幀の手仕事だが、IT化、機械化の時代に入り、パリでも製本の60工程すべてを手仕事でできる製本職人はひとけたになった。

 この本は少女とルリユールの老人との不器用な交流を通じて、落ち着いた静かな絵とともに色々なことを伝えてくれる。それは道徳的な意味では本を大事にすることの大切さかもしれないし、少女と老人の交流かもしれない。しかし、この本の根底に流れているのは2つ。1つは職人の誇りであり、もう一つは受け継がれるもの、だ。

 職人の誇りやこだわりを描いた文学作品といえば日本では芥川龍之介の『地獄変』がまず浮かぶし、外国文学であればスティーブン・ミルハウザーの『アウグスト・エッシェンブルグ』『エドウィン・マルハウス』が思い浮かぶ。ちなみに、いずれも私が心から素晴らしいと思う作品だ。だが、この『ルリユールおじさん』で描かれている老人はそこまで天才肌や偏執狂的な職人ではない。父の代より受け継いだ、ごく平凡な、だがしかし胸には小さいながらもルリユールとしての誇りを抱いた、そんな老職人だ。そのルリユールとしての小さな誇りがきっと、少女の植物図鑑を少女が期待する以上の形で、夜遅くまでかかってでもその本をなおしてあげようと、「きみの本は明日までにつくっておこう」と彼に言わしめたのだろう。その職人の不器用さと暖かさはしんみりと胸を打つ。

 この老職人は、父も同じルリユールだった。幼い頃のこの老職人は、父の手により修復されていく本を見て、「とうさんの手は魔法の手だね」と言っていた。「修復され、じょうぶに装幀されるたびに本は、またあたらしいいのちを生きる」と。今、老職人は少女の本を修復しながら、「わたしも魔法の手をもてただろうか」とひとりごちる。小さいながらも、確かに受け継がれていく意思と技術。この老職人が直した植物図鑑は、もう壊れることはなかった。そしてその少女は大きくなり植物学の研究者になる。形を変え、世代を超えて、心は受け継がれていく。実に、美しい絵本だ。

 娘がこの本を読めるようになるのはまだまだ先のことだろう。読み聴かせる分には幼稚園くらいでもいけるだろうが、まぁ、つまらないだろう。自分で読むなら早くても小学校低学年くらいか。それでもまぁ、まだ面白くはないかもしれない。できることならば、小学校と言わず、もっと大人になってからでいい。この本の美しさがわかる人間になってほしいと願う。

 最後に、この本のモデルとなったルリユールの工房に掲げられていたという一文を。

 「私はルリユール。いかなる商業的な本も売らない、買わない。」

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