2009年4月30日木曜日

休養

 昨日会社を出る際、翌日が休日なのに珍しく(これは本当に珍しく)ノートPCを会社に置いて家路についた。最近の日記を読んでもらえれば何となく察しはつくかもしれないが、実はここ二週間ばかり胃潰瘍疑惑で体調を崩しており、先週は一週間で3日も有給を使う羽目になってしまっていた。とりあえず検査の結果、潰瘍とか糜爛とか腫瘍とかはまったくなくきれいそのものとのことなので、過労とストレスだろうということで片付けられたわけだ(それにしたって仕事は何かと訊かれて、SEだと応えたら「ああ」って納得顔でストレスを強調するのもどうかと思うが)。明確な病床があるわけではないので死にはしないだろうが、それにしたって夜も寝られない程の胃の痛みは酷いもので、先週なんかは公私ともに大分テンションが下がっていた。

 というわけでGWの飛び石となる今日は一切仕事はせずに休養しようとあらかじめ心に決めて、ノートPCを会社に置いてきたわけだ。家に会社のノートPCがあるとやはりどうしても気になる。それならたった一日だし、腹をくくって休んだ方がよい。

 昨晩は寝る際も敢えて目覚ましはかけずに眠りについた。現在妻と娘は実家に帰省中なので、5月の連休に迎えにいくまでは一人暮らし。朝早くに目覚める娘に起こされることもないからゆっくり寝れるだろうと思っていたら、どっこい朝は娘からの電話で起こされた(爆)。なかなかの奇襲だ。

 天気がよかったので部屋の窓をすべて開け放ち、午前中は洗濯・掃除などをして時が過ぎる。昼過ぎに昼食・夕食を買いに行くがてら、家から車で10分程の場所にあるお酒のアトリエ 吉祥に物色に向かう。どうも『もやしもん』を読んでいたら無性に日本酒が飲みたくなってきたので、割と久し振りに焼酎ではなく日本酒を見る。新藤酒造の純米大吟醸『雅山流"翠月"』を購入し、昼食を取りながら胃のリハビリもかねてゆっくりと飲んでいた。今回、敢えて純米大吟醸を選んだのには理由がある。もし酒を飲んで胃が痛くなったら安酒だと後悔するばかりだが、本当においしい酒を飲んで胃が痛くなったならまだ本望だと諦めることができるからだ(爆)。この酒は今回初めて飲んでみたが、華やかながらも熟した丸みのある吟醸香とまろやかな飲み口、日本酒にしては珍しい後口に残る微かな苦みが印象的な、実においしいお酒だった。ここ二週間、胃の調子が悪くて一滴も飲んでいなかったので妙に染み渡る気がした。

 とはいえまだ無理はできない。お試し程度に日本酒グラスで4杯、昼食を取りながら、音楽を聴きながら、最後はベランダで景色を眺めながら、二時間程かけて、調子を見ながらゆっくりと飲んだ。よく晴れた休日にこうして昼からのんびりとおいしい酒を飲むのはいいものだが、家族がいるとさすがになかなかこうはできない。まぁ今日は一人だけの休日だ。過労とストレスとやらを癒すために、のんびりやろうじゃないかと、チビチビとやっていた。ベランダから眺める桜の木は、もう花は散って完全に葉桜になっているものの、初夏の日差しに輝いてなかなかきれいだった。花見じゃないね。葉見、・・・とでも言うのだろうか。まぁ桜の時期も今の新緑の初夏も、ウチのベランダからの景色は案外悪くない。

 まだ今週はリハビリだ。GW明けに本当に戦列に復帰できるように、心にも体にも疲れは溜めずに、少し溜まる仕事は仕方ないとして(苦笑)、まずは体調を戻さなければいけない。夜はさすがにもう酒は飲まず、早く眠りにつくとしよう。まだならし運転中とはいえ、明日はまた仕事なのだから。

2009年4月23日木曜日

胃カメラ

 今日、胃カメラを飲んだ。今回初体験だったわけだが、あれは軽く拷問だ。虐待だ。正直、あんなに酷いものだとは思わなかった(苦笑)。


 検査室に入ると、とりあえずまず胃の中の泡を消す薬を飲む。次にカメラを飲む際の痛みの緩和のために麻酔を口に含むわけだが、そもそもこれが最初からなかなか楽じゃない。お世辞にもおいしいとは言えない麻酔薬のゼリーを口に含んで、飲まないでそのまましばらくと言われる。言われるが、麻酔だから当然口の中も痺れてくるし、少しずつ喉の奥に滑って落ちていく。まずここで嗚咽一回。それでもまだ耐えられる程度に軽く吐き気を催す。

 さらに酷かったのが次の喉の麻酔。よくある喉スプレーみたいなやつで喉の奥にプシュッと振りかけるわけだが、これがまた強烈で、二、三回やられたところで思いっきり嗚咽。涙目で咳き込む羽目になってしまう。それでもまだ足りなかったらしく、「じゃあこれはちょっと休憩ね」とか言いながら、サクッと腕に胃の動きを抑える注射を射たれる。まぁこれはただの注射なのでどうということはない。その間、「歯磨きとかしててもよく吐きっぽくなりますか?」とか聞かれたが、それはもう毎朝のこと。吐きっぽさには定評がある。そしてもう一回喉に容赦なく麻酔スプレー。そしてまた咳き込む。これはもうたまらなかった。

 そして喉を通る胃カメラはもう違和感ありまくり。胃に到達するまでの間、何度も嗚咽してしまい、「ウッ」とか「オェッ」とか言いながら涙目で検査を受ける。胃液を吸われれば何か胃がキュウッと縮まるのもわかるし、たまにカメラが胃壁に当たっているのも感じる。グリグリと。それがまたなかなか気分が悪い。ようやくカメラが抜かれた直後は、喉の麻酔のせいもあってまともに喋ることすらできなかった。あれば酷い。

 そしてしばらくは喉の麻酔が効いているおかげで、よだれが器官に入りまくりで何もしてなくても咳き込む咳き込む。俺は、風邪じゃないんだけどな、と思いながら、必死で落ち着くまで耐えていたとのことです。

 まぁ、病院側としては痛みがないように麻酔してくれたんだろうし、対応はそれなりに丁寧だったんでしょうけれども。検査室に入っていった時かかっていたBGMは何故かベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』第1楽章だったし。演奏が誰かは知りませんが。ともあれ、胃カメラ検査は軽く虐待です(苦笑)。冷静に考えてみれば生きてる人間の器官に管通そうってんだから、そりゃあ大変ですわな。ともあれ、できれば避けるに越したことはないしんどさがある検査だということがわかりました。胃カメラ。

2009年4月20日月曜日

実感

 いやー、H2ブロッカーってやつは、飲んだのは初めてですが実際よく効くもんですねー。不気味なくらいだ。ふふふ・・・。

2009年4月19日日曜日

人を虜にするダーツのシステム

 最近、会社の私の周りではダーツがやたらと流行っている。これまでもダーツはたまにやることはあったが、昨日は本格的にやっている連中と投げてきた。そこで思ったのだが、最近のダーツは、熱中させるための仕組が非常によくできている。数年前からちらほらとダーツにはまる人を目にするようになったが、そのシステムを知るとなるほどと思うところは多い。


 全国のダーツバーにはDARTSLIVEというシステムに対応した台が置いてあり、500円でDARTSLIVEのメンバーズカードを買うと、そこに対戦履歴や成績の履歴、BULL(真ん中をGET)やLOW TON(1ラウンドで100点以上GET)等の記録が何回あったか等がすべて記録されていく。そのそしてその記録をWEBや携帯から確認できるし、WEBや携帯で設定をすれば自分が投げる時、台に自分のHNを表示させることもできるしBULL等を取った時に表示されるメッセージを自分流にアレンジすることもできる。

 その他DARTSLIVEにはネットワークを駆使した色々な仕掛けがあるが、中でも人を熱くさせるのがレーティングだ。直近30件に比重を置いた、自分の成績を簡便な数値で表すランキングのようなもの。はまりだすとこのレーティングを上げるためにどんどんとダーツバーに通って対戦を繰り返して成績を上げようとする。とはいってももちろん出来が悪ければレーティングは下がったりもするので、基本的には腕が上がらない限りはフロックだけではそう簡単に上がらない。実際、皆「レーティングが今6なんだよ。7になったら新しいマイダーツ買おうと思っててさ」とかそんな感じで盛り上がっている。結構、会社帰りに週4~5回とか通い詰めている剛の者もいる。さすがにそこまでやろうとは思わないが、このレーティングのシステムはなるほど、確かに人を熱くさせる。自分のレベルを表す実に端的な数字。それが目に見えるから、気にすればもう上げたくなってくるし、下がると悔しいから尚更通う。調子が良かった時のゲームの記録とかも見返すことができるから、後で余韻に浸れたりもする。実によくできている。

 昨日は私はここ数日胃潰瘍疑惑があって体調が優れなかったので、珍しく(人生初)バーで酒も飲まずにカルピスウォーターとレモネードだけで投げ続けた上で深夜0時くらいに帰ったが、他の連中は朝まで投げ続けていたらしい。大したものだ。

 というわけでDARTSLIVEのカードを作った上にお古のマイダーツを借り受けてしまった私は、まぁ週一回くらいストレス解消もかねて投げにいこうかなと思ったりするわけだ。大体この胃潰瘍疑惑、もし疑惑でなくて本当に胃潰瘍だったとしたら原因は十中八九ストレスだし。多少息抜きを考えるのも悪くないかなと、ダーツをやりながら思ったとのことです。

2009年4月5日日曜日

心をつないだ名曲達

 先の日記でも書いた通り、FY2008は8月以降なかなか洒落にならない忙しさだったわけだが、その忙しさに逆に呼応するように私の心に残り、時に折れそうになる心をつなぎ止めてくれた2つの名曲がある。今日はそんな名曲達を、感謝の念とともに改めて振り返ってみようと思う。

 秋も深まる晩秋の11月頃から年明けにかけて、私のiPodでヘビーローテーションだったのはブラームスの交響曲第4番。この曲は第一楽章からまるでため息そのもののようにもの憂げなヴァイオリンの旋律から始まり、晩秋に寂しく舞い落ちていく落ち葉のような管と弦の掛け合いに続く、交響曲という言葉からイメージされる勇壮さや外向性とは程遠い、寂寥と哀悼の音楽だ。もちろん両端楽章のコーダなんかは楽曲的にも相当盛り上がるが、ベートーヴェン的な苦悩から歓喜へといった趣ではない。憂鬱から苦闘へ、といった感だ。要は、結局救われない(苦笑)。しかもこの交響曲、最終楽章はパッサカリア形式で書かれている。パッサカリアやシャコンヌといった執拗低音を持つ形式に私が持つ特別な感情は以前にも書いた。このことがさらに私がこの曲にのめり込む要因となったのは間違いない。

 この頃は仕事に全く光が見えず、右手で新年度カットオーバー予定の大規模プロジェクトの指揮を振りながら、左手でいくつかのトラブル案件の消火・押え込みをしているような状態で、精神的にもお世辞にも明るいとは言えない時期だった。何しろ左手側は元々救いがないにせよ、右手側ですら成功のイメージがまったく描けずにいるような状態だったのだ。晩秋から冬にかけてという季節と、そんな仕事の状態から来る精神状態が、この最後まで徹頭徹尾悲哀をまとった交響曲に妙にマッチしてしまい、この頃はこのブラームスの4番を非常によく聴いていた。

 演奏は最初の頃はカルロス・クライバー/ウィーンフィル、その後色々と試行錯誤をした後に、年末辺りに辿り着いたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィルだ。最初にこの曲のよさに気付かせてくれたのはカルロス・クライバー盤。クライバー特有の颯爽と前進しながらも自在に伸縮するテンポが、ともすると湿っぽくて地味に聴こえがちなこの曲を、強い求心力で聴く耳を引きつける音楽に仕上げていた。それでいてこの曲の持つメランコリックな美しさが微塵も損なわれていないのがさすが。

 それから色々とこの曲は買い集めて、今では10近い演奏を持っているが、他と比べて圧倒的な衝撃と感動を与えられたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィル盤。1986年、東京文化会館でのライヴ盤だが、ミュヘンフィル自身がチェリビダッケと残した最高のブラ4と認めている演奏だ。EMIからチェリビダッケの全集が出る際、ミュンヘンフィルはこのライヴの録音が残っているか主催者側に問い合わせたものの残っていないという回答が返ってきて、それで仕方なく全集版では別のライブを選んだらしい。その後、当日のマスターテープが発見されてリリースされたという曰く付きの音源だ。

 この演奏はブラ4に内包されているすべての要素が完全に昇華された凄まじい名演だ。第一楽章の入りの深刻に過ぎることはない、適度な憂いを帯びた艶っぽいため息の音色、散り行く管と弦の揺らめくような美しさ、全編を覆う哀しみと途切れない緊張感、そして両端楽章のコーダでは「フンッ!」とうなり声を上げながらオーケストラを爆発させるチェリビダッケ。私にはこの曲でこれ以上の演奏は思いつかない。だから、この演奏に巡り会って以後はほとんどこの曲はこの演奏で聴いている。後でもいくつかCDを買ってはみたものの、やはりこの演奏には敵わない。他に聴くとしたらやはり解釈が全く異なる前出のC.クライバーくらいか。

 余談ではあるが元々レパートリーが極端に狭かったC.クライバーは、89年以後は指揮台に立つ数少ない機会の中でさらに同じ曲ばかりを演奏するようになる。その中の一つがこのブラームスの4番だった。それは単純に得意ということもあるのだろうが、恐らく終世、父であるエーリッヒ・クライバーとの比較に内心怯え、音楽そのものに対しても非常に神経質になっていった彼の悲哀の心中が、この憂いを纏った曲調に投影されているように思えてならないのは私の勘ぐり過ぎだろうか。

 次に年明け1月中頃から3月中頃、つい最近までそれこそ何度も執拗に聴いていたのがバルトークのピアノ協奏曲第3番だ。バルトークの絶筆の傑作(といっても残されたのはわずか17小節のオーケストレーションのみで、ほぼ完成していた)であり、白血病を患っていた彼が自分の死後もピアニストであった彼の妻がこの曲を演奏することで生計を立てていけるようにと願って作られた。

 バルトークの複雑に入り組んだリズム構成や、野趣に溢れ、時に原始的とすら思える程の特徴的な音階構成は元々好きだったのだが、私がこの曲で特に強く惹かれたのは第二楽章だ。ゆったりと、澄んだ弦の響きで始まるこの楽章は、一言でいうなら非常に美しい。ただし、その美しさは手放しに喜びに満ちたものではなく、むしろ滅びを予感させる。優しいが冷たい、破滅的な美しさだ。

 控えめに、透明で神々しく響くオーケストラの合間に、決して音数の多くないピアノが歩を進むのをためらうように、一音一音ゆっくりと美しい旋律を歌い上げていく。その様は、春が来る直前の冬の終わりに、春の兆しが感じられるよく晴れた白い静かな日の光の中、髪の長い40代くらいの美しい女性が白い壁に囲まれた病室で死の床につきながら窓の外を眺めている、そんなイメージを私に想起させずにはいられない。これから訪れる希望と、その先触れの美しい日差しの中、ただその中にいる人だけが絶望に包まれている。そんな悲しいイメージだ。外の世界に広がる希望と、自身の中で広がる絶望を、諦観とともに同時に静かに見つめる姿。時折諦観が薄れて苦悩が見え隠れするその人間味。悲しい言い方になるが、この曲には別れを前提とした切ないまでの愛がある。だからこそ純白の美しさと、悲しさを兼ね備える。

 この頃は左手で処理していたトラブル案件は落ち着きを見せ、新規大規模案件にやっと集中できるようになってきてはいたものの、様々な大どんでん返しの連続でその対応に昼夜休日まで追われ、プロジェクトの完遂という点に対して非常に不安を持っていた時期だ。「ここを乗り越えれば・・・」という山を一つ越えるか超えないかといった辺りで、必ず次の新しい山が見える。それこそ「あの坂をのぼれば、海がみえる」だ。「だがしかし、まだ海はみえなかった」。あといくつ山を超えればいいのか、と憔悴しつつも、「でもまぁこの山を越えれば・・・」という希望も見え始めた時期。ちょうどその2月頃に、この曲をよく聴いていた。

 演奏はソリストがゲザ・アンダ、指揮がフェレンツ・フリッチャイの盤。両者とも作曲者であるバルトークと同郷。それ故か曲に対する理解・思い入れの強さが伝わってくる。フリッチャイは元々バルトークの演奏では定評があるが、特にこの演奏は自身も白血病に倒れ、病から復帰した直後のレコーディング。同じ病に倒れた同郷の士の最後の作品に対して、並々ならぬ思い入れがあったことは想像に難くない。作曲者が命を賭して書いた曲に、同じく命を賭して挑む指揮者の凄みがここにはある。

 それとこれも余談ではあるが、この曲の第二楽章は透明に澄んだ弦の和音が非常に印象的だが、フリッチャイの演奏で聴いていると私にはその響きがまるで雅楽の笙のように聴こえる。この曲は全体を通して教会旋法で書かれているが、当然西洋の教会であって日本の神社ではない。調べてみるとどうやら確かに雅楽の和声と教会旋法には共通点があるらしい。教会音楽も雅楽も洋の東西は違えどどちらも神に仕える音楽。この共通点が文化交流の結果として生まれたものなのか、あるいは自然発生的に出来上がった共通点なのか、そこは音楽とそれが聴き手に与えるイメージという面で非常に興味深いものがある。いつか調べてみたいものだ。

 前の日記で「私は今回も生き延びました」と書いたわけだけれど、この2曲がなければ最後まで心が折れずに持っていたかどうかはわからない。体は、別問題だ。これまで何度も修羅場を経験してきたが、その度、音楽に救われる。私は心の支えとして宗教は持っていないが、信じる支えという意味では音楽がその役割を果たしてくれているように思う。それは癒しではない。支えだ。大体癒しなら、もう少し明るい、やんわりとした曲を選ぶんじゃないだろうか。結局のところ、私にとって音楽とは共感だ。共感による自己肯定が支えとなる。例えそれが暗い状況の肯定でも。暗い状況から目をそらす癒しではなく、暗い状況を肯定する共感が、結局最後の孤独を救う。