2010年12月31日金曜日
2010年大晦日
それでは皆さん、今年も一年ありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。
2010年11月28日日曜日
ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団@りゅーとぴあ
まずはシベリウスのバイオリン協奏曲。この曲はシベリウスらしい冷艶な空気の中を、独奏バイオリンが煌びやかに一気呵成に駆け抜けていく名曲です。ソリストの諏訪内晶子はゲルギエフと共に濃いブルーのドレスで颯爽と現れ、それこそあっという間に過ぎ去っていったような印象でした。素晴らしかったのはその音色。諏訪内晶子といえばその技巧は文句のつけようがなくとも、音色は特筆するほどではないかなという印象が正直あったのですが、実演に触れてみるとそんなことはまったくない。特に高音を伸ばす時の冷たく透明で、妖しく光るような音色は実に素晴らしかったです。特に第二楽章の終わりでは最後の余韻まで美しく響くその音色に酔わせてもらいました。
これは後で知ったことですが、諏訪内晶子が今使っている楽器はあのハイフェッツが使用していた三大ストラディヴァリウスの一つ、『ドルフィン』であるとのこと。あの音色の素晴らしさは、彼女自身の研鑽はもちろんのこと、この楽器の力による部分も大きいのかもしれません。シベリウスの冷たく透明で涼やかな響きの中、時に凍るように美しく、時に情熱的に一気呵成に、自由自在に駆け抜けていく諏訪内晶子の演奏は素晴らしかったです。
そしてマーラー『巨人』です。この曲はさすがにCDで聴くのと生で聴くのではもう全然迫力が違う。第一楽章で高らかに鳴り響くファンファーレとともにオーケストラがトュッティの強奏で一気に爆発していくところなど、直前のフレーズから一気にあざといくらいテンポを落とし、物凄い集中力でオーケストラを睨みつけながら音を引っ張っていくゲルギエフの指揮ぶりは圧巻でした。
ゲルギエフの指揮を体験するのはこれで二度目ですが(一度目はサントリーホールで聴いたウィーンフィル)、その時同様やはりゲルギエフの指揮はオーケストラを引っ張る力が半端じゃないように感じます。彼の指揮は打点がわかりにくいと言われますが、確かに生で見ても分かりにくい。振り回される腕を見て合わせようと思ってもわけがわからない。タクトを持たずに徒手空拳で振られる彼の指揮の、手首と指先を集中して見ていないといけないのです。そして振り回している腕がどの位置にあろうと、とにかくその手首と指先で打点や指示を細かく出す。だからいつどこで打点が振られるか、腕の位置ではまったくつかめない。そりゃわかりにくいと言われるわけです。その代わり、要所要所の重要なアクセントの部分では"ここは必ず縦をきっちり合わせろ"とばかりに一拍前で頭上に指を立てて手を振り上げ、"さぁ来い、ドンッ"ってな具合で指示を出します。その点ではわかりやすい。そして各パートが休止から入ってくる時や重要な旋律・リズムに入る時等は物凄い迫力でそのパートを睨みつけながら音を引き込んでいくのです。その目力が凄まじい。音も無音も、彼はオーケストラを睨みながら引っ張り、引き出す。その迫力はやはりこれまで見た指揮者の中でも随一です。ゲルギエフはよく"怪人"等と呼ばれたりしますが、それはきっとこの睨みつける迫力から来るのでしょう。
ロンドン交響楽団はこれまで実演に触れたことがある海外オケのウィーンフィルやバイエルン放送響、ロスフィルと比べると明確な個性は薄いオーケストラのように感じました。一緒に行った父に言わせると「イギリスのオケは地味なんだ」とか。ウィーンフィルのように明るい輝きの響きで自由闊達という感じでもなく、バイエルン放送響のように木の暖かい質感が感じられる弦が印象的というのでもなく、ロスフィルのようにアンサンブルの中でもオケのメンバー一人一人の技量が感じられるような個人的名人芸の集合体という感じもせず。重心の低い音でアンサンブルが強固な弦と、明朗で非常によく響く管、そして実に生き生きとしたリズムを刻むティンパニ始めとするパーカッション隊という印象です。特筆すべきはフルートですか。非常に柔らかで美しい音色のフルート奏者が一人いました。そのオケからゲルギエフが曲想により様々な引き出しを開けていく、そんな感じでした。
マーラーの『巨人』では曲が進んで行くにつれゲルギエフもオケも集中力が次第に増していくのが感じ取れ、最終楽章のクライマックスではテーマを早めのテンポで高らかに歌い上げるその迫力が凄まじかったです。椅子から立ち上がって高らかに朗々とテーマを歌い上げるホルン始めとする金管群。その大音量に抗おうと全力の強奏で美しい高音を響かせる弦。曲は素晴らしい集中力で盛り上がり、クライマックスを迎えて行きました。曲が曲だけに生で聴いて最後盛り上がらないわけがないのですが、その期待の更に上を行く熱演。今回はアンコールはなく、『巨人』の熱気の余韻を残したまま客電が上がったので、帰ってからもずっと頭の中では『巨人』のクライマックスのテーマが鳴っていました。
やはり生のコンサートというものはいいものです。一度行くと他のもどんどん行きたくなる。さすがにそう頻繁に足繁くというわけにはいきませんが、やはり感性を磨くという意味でもリフレッシュという意味でもこのようなコンサートにはできるだけ行ってみたいものです。
2010年11月11日木曜日
福澤諭吉『学問のすすめ』より
もし、国の政治について不平なところを見つけ、国を害する人物がいると思ったならば、騒がずにこれを政府に訴えるべきであるのに、その政府を差し置いて天に代わって自ら事をなすなどというのは、商売違いもはなはだしい。
結局、この類の人間は、性質は律義であっても、物事の道理はわかっておらず、国を憂えることは知っていても、どのように憂えていいのかがわかっていない者である。
例え不便、理不尽に思える法があったとしても、その法が法として定められている以上はどんなに納得いかない物であってもその法を遵守するのが筋であり、それを破ったり、抜け道を探したりすることはあってはならないと説く。そのような場合はその法について政府に訴え、議論をし、その法を改正するか無くすかするように働きかけなければならない。法治国家において、いかなる理由や正義があろうとも法を破ることはあってはならないことで、まずはそのような意識を持つことが必要というわけだ。以上は立法についてのお話だが、これは行政についても全く同様と思える。いくら政府のやり方が理不尽で納得いかないからといって、それを訴えもせず天に代わって自ら事をなすというのは文明社会、法治国家の国民としての意識の低さを憂えざるを得ない。法や行政を無視した独善的な正義は、決して国の正義とはならない。
もはや遠い歴史上の時代に思える文明開化の最中に福澤諭吉が著したこの本を読むと、志が高いとはこのようなことをいうのだと思い知らされる。『学問のすすめ』が出版されてから130年。日本は彼が求めた理想に近付けているのだろうか。今の日本を彼が見たら、一体何を思うのだろうか。
2010年11月6日土曜日
尖閣諸島映像流出に憤る
一番愚かしいと糾弾したいのはまず映像を流出させた犯人(敢えて"犯人"と言わせてもらう)だ。いくらなんでも内部告発でなければ流出は考えにくいデータであることから考えても、恐らくは政府か海保の関係者なのだろう。せめて、リテラシーの低い人間が面白半分で起こした事件だとは考えたくない。きっと尖閣諸島問題についての政府の対応について不満を持っている人間が、国内の民意や現場の心情を顧みないとことん弱腰で情けない日本の外交に一石を投じるつもりで流出させたのだろう。日本政府の鼻を明かそうと思ったのかもしれない。中国にダメージを与えてやろうとしたのかもしれない。しかし、浅薄だ。もしそうであるならば、実に考えが浅薄だ。
最大の問題は、あの映像が"流出"という形で外に出ても日本の国益には一切ならないことだ。"流出"は"公表"とはまったく意味が違う。"公表"であれば中国政府は即座に対応を検討し(恐らくその場合の対応方法は事前に検討はしてあるだろうが)、迅速に国内・国外に対して何らかの施策をする必要に迫られ、中国の余裕は少なくなる。が、"流出"という形になった場合、今回のように日本政府が対応に追われ公式見解がまとまるまでの間、中国は国内外の世論を静観し、その影響の仕方、度合いを見極めることができる。それだけでも"流出"という形で世に出た映像が、中国に与えることのできる直接的なダメージは小さくなる。つまり、目的のために手段を選ばなかったことにより、目的に対する効果は激減してしまう。そして、覆水盆に返らずとはよく言ったもので、もう一旦"流出"したものを再度政府が公式に"発表"しても、その影響力は絶対に"流出"の時のものを越えられない。日本は尖閣諸島問題に関しての切り札を、"流出"という非常に、非常に情けない形で失ったのだ。自国のことながら情けなく、哀れな話だ。
そして当然ながら次の段階ではこのような機密情報が"流出"してしまうこと自体が問題となる。政府の管理体制はどうなっていたのか、責任論に発展していくはずだ。ただしこの場合の政府とはイコール現政権の民主党ではない。自民党、ないしはそれ以前から続く、日本の政府や警察等の国家機関の管理体制、内部統制の在り方、情報リテラシーに対する意識の持ち方が追求されてくる。私見だが、どうせ大したリテラシー教育も一般にはなされていないんじゃないかと思っている。今後に関してはその意識改革、管理制度の改革が求められるだろう。
しかし、管理体制が問題になることで一番憂慮されるのは、今度は諸外国からみた場合の日本の信用問題だ。日本は先に対テロ対策の機密情報まで流出しており、それに続いての今回の尖閣諸島映像流出。諸外国から見たら「日本という国はこんなに簡単に機密が漏えいする国なのか」と思われることになる。機密管理に関する信用を失うことは国防上非常に大きな問題だ。有事の際、あるいは平時の際でも、同盟国ですら日本と機密情報を共有してくれなくなる恐れがある。「日本と機密を共有なんかしたら、自国の機密まで漏えいされちゃうよ。だから何も教えないよ」というわけだ。秘密をすぐ周囲にばらす口の軽い隣人に、好き好んで自分の秘密を話す人間はいない。信用を失うとはそういうことだ。そこが非常に問題になる。機密情報を守れない=信用が足りないということは、日本という国と同盟や友好を結ぶためのモチベーションを著しく下げる。そうなると日本の国際社会での発言力、影響力はどんどん小さくなっていくだろう。むしろ、小さくなっていくだけで済んでくれればいいのだが。
とにかく、このような形で今回の尖閣諸島映像流出は憂国の事態だと、普段愛国心など微塵も自覚していない私ですら感じている。ところが今回の件に関してYahoo!ニュースが行った意識調査では実に悩ましい結果が出ている。その意識調査は以下のようなものだ。
何とこの日記を書いている時点で、「歓迎する」が過半数を超え圧倒的1位。これは尖閣諸島に関する政府の弱腰な対応に如何に憤っていた人が多いかを表す結果だと思うが、それにしても思わず心配になるリサーチ結果だ。これまで述べてきたように、この映像流出によって日本が得る国益は非常に少なく、失うものの方が圧倒的に大きい。それにも関らず、このリサーチ結果は"流出"に対して"Yes"と応えるわけだ。それは言葉が悪いのを承知で言えば、日本政府や中国政府に対する一時的なショックだけをみて爽快感を覚え、そこから先の事態まで考えが及んでいない、非常に浅薄な意見のように思える。ネットでの一般投票による調査はサンプリングの範囲や分布・偏りが不透明なので一概にこれが日本国民の民意とは言えないが、それでもこの結果には驚かされる。一体どのような理由で「歓迎する」のか。ただ単に「見れてよかった」という野次馬根性なら論外。「国民に情報を隠すべきでない」という意見は確かに一理あるが、これまで政府が隠していた以上は隠していたなりの意図がある。これまで公開していなかった経緯がある以上、本来は公開するもしないも政府が考えるタイミングで(それが仮に適切なものではなかったとしても)外交の一つのカードとして使われるべきだったのだ。政府は政府なりに、この映像の使い方について考えることは多々あったはずだ。少なくともこれで政府が描いていた証拠映像に関するシナリオは根底から覆された。それが例え拙いものであったとしても、これで政府の思惑は一旦流れが断絶する。この問題とそれに付随する諸々の外交問題は、また一から対策を練り直しだ。それが果たして手放しに歓迎できるだろうか。混乱は、混乱を呼ぶ。
ここ数年、外交という面では日本は失策続きだ。そしてここに来て米軍基地問題、尖閣諸島問題、北方領土問題と立て続けに騒ぎが起きた末での今回の流出。更にこのタイミングでの朝鮮学校原則無条件無償化。これら外交問題に関しては深くは触れないが、これらを合わせると日本という国は外国がごねれば何でも外国の意思通りにしてくれる国だと思われかねない。機密を漏らすから信用・信頼はできないが、ごねれば言うことを聞いてくれる都合のよい国、というわけだ。そしてこのネットでのリサーチが示す意識の低さ。正直、日本は大丈夫だろうかと心配になってしまう。50年後、日本という国は存在しているのだろうか。そんなことすら考えてしまう。まぁかく言う私もこれまであまり真剣に外交や国防のことについて考えてはこなかったわけだから、あまり大きいことは言えないのだけど。
それにしたってやれやれだ。
2010年10月25日月曜日
腕時計
思えば、これまでに何回か、それも節目節目に、それまで愛用していた腕時計を無くしている。まずは大学受験浪人時代の最後。1月の冬季集中講習の際、予備校の自習室に腕時計を置き忘れ、それはそのまま戻らぬものとなった。大学時代に愛用していた時計は、卒業旅行と称してクラギタの仲間と行った野沢温泉で、どこかの温泉の脱衣所に忘れてきてしまった。社会人になり横浜に引っ越してすぐ駅前のベスト電器で買った先述のシチズンのソーラー時計は、新潟への引越の際にドタバタの中で無くしてしまった。日吉を引き払って新潟に戻るまでは確かにあったのだが。東横線の閉まるドアに挟まれて、サファイアガラスの左上部が割れて欠けていた時計ではあったが、持った時間が長かったのでそれなりに愛着のある時計だった。
こうして見ると、何の偶然か高校~浪人時代、大学時代、東京生活時代と、それぞれの時代に愛用した時計をそれぞれの時代の終わりに無くしてしまっている。まるで、それぞれの時計がそれぞれの時代を刻み、その時代が終わることで時計自体も時を刻む役割を終え、消えていったかのようだ。それならば、今日手にしたこの時計も、またここ新潟での一つの時代を刻むことになるのだろうか。腕時計は、時と共に時代も刻んでいるのかもしれない。
さぁ、時は動き出す。
2010年10月6日水曜日
『歌と踊り』 モンポウのピアノ作品達
モンポウはスペインの作曲家ではあるものの、例えばファリャやアルベニス、グラナドス、ロドリーゴ辺りのように直接的にスペインの匂いがする曲はあまり書かない。とはいえ14曲ある曲集『歌と踊り』ではカタルーニャ民謡を始めとするスペインの民謡を直接的に引用はしているし(第3番ではギターでもお馴染みカタルーニャ民謡『聖母の御子』を、同4番でもやはりカタルーニャ民謡『船乗り』を引用)、随所にスペインのエッセンスはある。しかしそれでも、やはり作品全体の雰囲気は少しスペイン土着の空気からは少し離れているように感じる。その作品の静謐さから、エリック・サティと比べられることも多いがどうだろう?確かに静謐で内省的な音楽ではあるし、モンポウ本人もサティからの影響を認めてはいるものの、彼の音楽にはサティのようなアイロニーはない。もっと素直な喜びであり、悲しみであり、祈りや希望であるように思う。
このモンポウの作品集で特に気に入ったのはやはり一連の『歌と踊り』だが、その中でも5番が素晴らしい。重々しく、暗い悲しみの中を祈りとともにゆっくりと進んでいくような低音を中心とする歌に続き、突然雲の切れ目から陽の光が差すような、輝かしくも柔らかい踊りの旋律が始まる。それは重く暗い悲しみや絶望を超えて、やっと見えた柔らかく優しい希望や喜びであるように感じる。キース・ジャレットのケルン・コンサートの第1曲のエンディングのような神々しさに満ちた喜びと希望ではあるが、まだあそこまで光に向かって突き進むだけの力を取り戻す前の、やっと目に入った希望の光に向かって踏み出した最初の一歩。そのような美しさだ。
モンポウは1928年に『歌と踊り』の第4番を作曲して以降、親の死やスペイン内戦といった不幸が重なり、長い間作曲ができない状態が続いたという。そのような事情もあってこの第5番が完成したのは1942年。実に第4番から14年もの歳月が流れていた。この事実を知ったのはこの曲の魅力に惹かれて詳細を調べていた時であったが、それでなるほどと思った。この曲は、その14年の月日の分、絶望も希望も抱えている。それがあの重々しい歌であり、柔らかく輝かしい踊りとなるのだ。この僅か4分14秒の小曲には、それだけの思いが詰められている。それが作曲者本人の演奏であればなおさらだ。
余談ではあるが、このモンポウの『歌と踊り』は全曲ではないもののいくつかはクラシックギター編がある。作曲者自身によって編曲の上、セゴビアに献呈された『賢王アルフォンソⅩ世の2つの頌歌による歌と踊り』は第10番だし、第13番『鳥の歌』はイエペスの依頼を受けて作曲されたギターオリジナルの曲だ。この10番、13番は鈴木大介の『カタロニア賛歌』で聴ける。また、第6番は歌の部分のみ『カンシオン』としてアリリオ・ディアスが編曲しており、福田進一の『ハイパー・アンコール』で聴ける。
このCDは『歌と踊り』の他にも『静謐なる音楽』や『ショパンの主題による変奏曲』等、モンポウの名曲をじっくりと堪能できる。静謐で内省的ではあるが、その中にひっそりと眠る喜びや悲しみが朴訥にゆっくりと語りかけてくるような音楽。じっくりと耳を傾けてもいい。読書なんかのBGMとしてもいい。秋の夜長や薄明の中、この静謐な音に身を委ねるのは実によい時間だと思う。
2010年9月5日日曜日
無題
…だがそもそも、時間を有意義に使わなければいけないなんて誰が決めたのだろう?確かにそれは一人の人の生において、無限にあるものではないけれど。
2010年9月2日木曜日
113年間で一番暑い夏
しかしそろそろ稲刈り始りますが、この暑さの中で稲刈りって人間大丈夫なんでしょうか?日差しを遮るものがない田んぼの中で、稲刈りで使われるコンバインという機械では椅子の下にエンジンがあるため、ただでさえお尻の方から熱くなります。そしてこのまだまだ雨が降る気配すらない酷暑。我々が田んぼに修理に出かける際もそうですが、作業時の熱中症が心配です。こんなに暑いと機械のオーバーヒートも心配ですし、機械が壊れなくても人が壊れる場合もあります。せめて凍らせたペットボトルでも片手に、熱中症には気をつけましょう。
2010年8月29日日曜日
渋谷について
渋谷は私にとって東京・横浜圏内では特別な街だ。約9年の東京・横浜の生活の中で、仕事でもプライベートでもたくさんの場所に行ったが、その街について書こうと思うのはやはりまずこの渋谷になる。他には汐留だろうか。新宿は、書きたい気もするのだがあの街のイメージがもう一つ自分の中でまとまらない。横浜やみなとみらいは独身時代はたまに仕事で行く程度で、結婚してからようやくちょこちょこ行くようになったくらいなのでなかなか語れるだけの下地がない。渋谷と同じく約9年、住居を構えた日吉はどうだろう?ここも案外、難しい。その点、渋谷と汐留は特別な街だ。その中で、今回は渋谷について書く。
渋谷は欲望の町であると、就職活動の頃から渋谷に勤めるようになって数年経つ頃まで、私はそう言っていた。当時は、ただ単に若者が集う都会の面白半分なイメージとしてそう言っていた。けれども時が経つにつれ、その「欲望の町」というイメージは少し違うのではないかと感じ始めた。確かに渋谷という街には欲望は渦巻いている。望めばあらゆる店やサービスがそこにはあり、いつも若者が道一杯に肩がぶつかりそうなくらいへし合いながら歩いている。買い物をすることも、ゲームやカラオケで遊ぶことも、おいしいものを食べることも楽しいイベントもたくさんある。芸術や文化に触れることもできるし、風俗だってもちろんある。仕事帰りに朝5時まで飲みながらダーツを投げたって、それで遊び足りなければそこから24時間営業のカラオケにだって行けるし、ラーメンを食べることだってできる。始発が出る頃の渋谷には、新潟なら日中の新潟駅前等の中心地でしか集まらないような人混みが毎日朝4時半や5時の時間にできる。24時間365日、渋谷という街は休むことを知らない。そんな直接的な欲望を吸収し、消化する側面を確かに渋谷は持っているし、それが大きな機能の一つだ。しかし、渋谷という街の本質はそこにはないのではないのかと、いつ頃からか感じ始めた。渋谷に渦巻く雑多な欲望は、あくまで目に見える表層に過ぎないのではないか。そう思い始めた頃から、私は渋谷の表現を変えた。渋谷は、成熟しないものの街である、と。あるいは、成長途上のものの街である、と。
渋谷は若者の街だ。街を歩いていると、本当にそう感じる。直接的に道を歩いている人はほとんどが10代~20代に見える。まだ、精神的な面で成長しきっているとはいいにくい世代だ(では何歳になったら成熟するのか、という点はさておいて)。渋谷という街は改めて見ると人も企業も、あるいは文化や空気も、そういった匂いがする。未成熟、あるいは成長途上の匂いだ。歩いている人もそうだが、渋谷に本拠を置く会社を見てみてもそのような感じがする。かつて日本が第一次ITバブルに沸いた2000年前後、渋谷には進取の気性を持った若いIT企業が跋扈し、アメリカのシリコンバレーをもじってビットバレーと呼ばれた。当時勢いがあった会社の多くは今では失速してしまったか、最悪消滅してしまっているが、企業文化を見ても渋谷にはそういった新しい若い情熱を持った企業が多く集中する傾向がある。そして人も、渋谷に普段からいる人達は直接的に年齢が若いか、あるいは実年齢はそこそこいっていても精神的に未成熟、あるいは成長途上の若さを持った人達が多いように感じる。それは、おそらく私も含めて。たまに成熟した文化が渋谷に現れても、それは渋谷で熟成・洗練されたものではなく、外部で熟成されたものを渋谷の若いエネルギーが利用するために輸入したような形を取るこ。このように、渋谷という街はその成長過程のありあまるエネルギーを引き付け、溜め込み、消費する街なのではないだろうか。
だからだろうか、この街では成熟しきったもの、あるいは成長しきったもの、あるいはただ単にその若さゆえのエネルギーに耐えられなくなったものは外に出ていく。音楽のデジタル配信が普及する中、HMV渋谷がこの8月で閉店したのはその意味で象徴的な出来事のように思う。渋谷発の企業も、事業として落ち着きを見せたものは外に拠点を移す場合が何故か多い。結果、渋谷にはいつも若い世代、若い精神を持った空気が溢れ、そのエネルギーで欲望が生み出され、蓄積され、消化されていく。ピーターパンのネバーランドでは、大人になった人間は外部に出され、そこは子供だけが存在する子供の国になるという。ピーターパンが大人を殺してしまうので子供だけが残るという解釈もあるらしい。渋谷をその永遠の子供の国、ネバーランドに例えるのは無理があるだろうか?成長しきったもの、老いが見えるものは排斥され、常に若さという強烈なエネルギーと、未成熟であるが故の弱さ、脆さを併せ持つものだけが残る渋谷という街は、現代日本のネバーランドであるように思えてならない。
私は、渋谷でたくさんの時を過ごした。様々な渋谷を見て歩いて体験してきた。それでも今、渋谷が好きかと聞かれると即答は難しい。嫌いではないのだと思う。では、好きかと言われるとどうだろう。なかなかその点では言葉に詰まるものがある。何はともあれ、結果として私は渋谷を離れた。これは、私が成熟したということなのだろうか。それともただ単に若さゆえの強烈なエネルギーに疲弊しただけなのだろうか。私は、渋谷を出て行ったのだろうか。あるいは、渋谷に排出されたのだろうか。渋谷は、これからも若者のための、未成熟なもの、成長途上のもののためのネバーランドであり続けるだろう。それは少なくともしばらくの間は。対して、やはり私は年をとっていくだろう。厳然たる事実として、人は、老いて、死ぬ。私にとって渋谷という街への思いは、少しずつ永遠の若さへの憧憬のような感覚に変わっていくのかもしれない。それは、少しずつ遠くなっていく。純粋な懐かしさとは違って。
2010年8月25日水曜日
続く残暑
リハビリには、ともあれまず書くことが重要だ。内容はその次に来る。そう考えると、考える前にとりあえず言葉をつぶやくことで始めることができるTwitterは確かに楽なのかもしれない。私の性にはイマイチ合わんのだけれど。
2010年8月12日木曜日
台風一過
そうそう、久しぶりにプロフィールを更新しました。
2010年7月30日金曜日
FMからロドリーゴ
ラジオを聴くという習慣はこれまであまりなかったが、通勤のBGMとしてはなかなかいいもので、まず何よりも自分が知らなかった名曲や名演に出会える可能性がある。特に曲に関してはやはりクラシックの世界は広いもので、ラジオを聴いていると実は知らない曲の方が多い。そんな知らない曲を聴いているうち、「お、いい曲だな」と思えるものに巡り合えるとそれはなかなか嬉しいものだ。
今朝もご多分に漏れず『クラシックカフェ』を聴きながら通勤していた。ラジオをつけた際に流れている曲は、ロマン溢れる官能的な曲調に現代的な不協和音が随所に交じる魅力的な曲だった。独奏バイオリンとオーケストラの構成。「バイオリン協奏曲か。誰の曲だ?」と最初に考えた。ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーンのいわゆる「三大バイオリン協奏曲」ではもちろんない。それなら一聴してわかる。そもそも、その辺りの時代の曲にしては和音が現代的だし、少々民族臭が濃い。現代でもショスタコービチなら知っている。「シベリウス?そういえばシベリウスのバイオリン協奏曲はあまりまともに聴いてないなぁ」と思うが、シベリウスにしてはどうもロマンチシズムが濃厚に過ぎる気がする。何より、独奏バイオリンが奏でるフレーズがギターの現代曲でよく耳にする語法に非常に近い。ドメニコーニかとも思ったがまぁそれはないだろう。「ラロ、とかかなぁ?」とも考えたが、わからないので曲が終わってからの紹介を待つことにした。聴くほどによい曲だ。最後まで満足して聴き通し、さぁ、曲の紹介を待つと・・・、
「ホアキン・ロドリーゴ作曲、『夏の協奏曲』」
ああ、ロドリーゴ!ロドリーゴね!どうりで何かやけに懐かしい感じすらする曲調。そういや短2度の和音多かった。すべてが腑に落ちた。しかしこの『夏の協奏曲』という曲は知らなかった。調べてみると、NHK-FMで流された音源自体はエンリケ・バティス指揮 ロンドン交響楽団、独奏バイオリンはアグスティン・レオン・アラのものとのことだが、何とこの音源自体は既に廃盤になっているようだ・・・。まぁ、そうでなくともロドリーゴはアランフェス協奏曲以外は一般には有名とは言えないし、一番の支持層であるギター弾きはギター曲以外に興味を示すことは少ないから、売れずに廃盤になっていても不思議ではない。私もロドリーゴのギター以外の曲は知らなかった。しかし、知ってみるとこの『夏の協奏曲』は廃盤になるにはあまりに惜しい名曲のように思う。これはマニアックな曲なので他にCDは少ないが、ナクソスから出ている『ロドリーゴ管弦楽作品全集3』にも収録されている。とりあえずはこちらから手に入れてみようと考えている。
このような自分が知らない名曲に出会える楽しみがある分、ラジオというのもなかなかいいものだなと最近は感じている。
2010年7月13日火曜日
ねじれ国会と理想と現実
ところで、メディアじゃ「ねじれ、ねじれ」と騒いでいますし、当の与党の皆さんも「さぁ、ねじれだ、大変だと」戦々恐々としているようですが、個人的にはむしろそれでいいんじゃないかと思っています。民主主義議会政治としてはそれが当然なのではないかと。これまで(とくに近年)の衆参で過半数を握った与党が力尽くで自分たちの法案を(下手すれば世論すらまったく無視する形で)押し通すというやり方の方がおかしかったのではないでしょうか。「部分連立」とかよくわからない言葉が登場していますが、各政策ごとに協力できる政党同士が協力し合い、お互いの主張で譲れる部分・譲れない部分を戦わせながら国民の理解を得、よりよい形で法案を練り上げていくという姿こそ民主主義なのではないでしょうか。与党に投票した人だって100%すべての政策にO.K.を出して投票をしているわけではないでしょう。与党が中心となって、政策毎に様々な政党と協力してやっていくという姿こそが正しいように思います。現行与党がみんなの党に公務員改革の部分で歩み寄れる部分を模索しつつ協力を依頼する方針だと報道されました。そのようなやり方の方がいいと思いますし、そのようなやり方しかないでしょう。確かに国会運営は果てしなく難しくはなるのですが、先の自・公政権の時と違って、衆議院での3分の2議席を持っていない現行与党は、参院で否決された法案を衆院で強行採決という手段すら使えませんから。
まぁ、野党が政権奪取することのみを考えて程度の低いパフォーマンスや反抗のための反抗に終始する昨今の状況を見る限り、仮に与党が野党に協力を求めたところでただ「まずマニュフェスト違反を謝罪しろ」とか「衆院も解散して信を問え」とか「首相は敗戦の責任を取れ」とか無駄な抵抗にあい、結局何も話が進まないという程度の低い政治に終始してしまうような気もするのですが。そうなればこの国の先も暗いのですが、まぁ、多分、そうなるんだろうな・・・。今の日本って、もう政治がそのように停滞し続ける余力はないはずなんだけどな・・・。
2010年7月10日土曜日
水田を吹く風
そんな蒸し暑いある日、修理で自社から車で5分程のお客様のところに修理に行ってきた。時間は昼食休憩後すぐ。工場にいると蒸し暑くてただ座っているだけでも汗が滲むような時間帯だ。
お客様宅に着き、機械の修理を始める。少し経つと、そのお客様が「いい風が吹いてきたなぁ」とつぶやいた。ふと、涼しい風が吹いて連日の蒸し暑さを消してくれていることに気付く。エアコンなどなくても快適に作業ができるほどの、涼しくて爽やかな風。車でわずか5分しか行かない場所でも、これだけ違う。
そのお客様の家は、道を挟んですぐ正面に広大な水田が広がり、背中にはすぐ土手を挟んで信濃川が流れている。水に囲まれているわけだが、それだけで全然体感の気温が違う。「ここの風は水田を走ってくるから」とお客様は言っていた。水田は昔から治水や保温の役割も担ってきたと言われるが、なるほど、確かにと実感した。
地球の温暖化に警鐘が鳴らされ、CO2削減やら何やら色々言われているが、実はこういった水田のような保温の役割を担っていた農地や自然が激減し、逆に熱を溜めたり反射したりするアスファルトやガラス、エアコンの室外機なんかが増えすぎたために熱が地表に集積されてしまうことが温暖化の大きな原因だったりするんじゃないだろうか。確かにCO2は温室効果ガスだろうし、理論上それが温暖化の原因となる可能性はあるのだろう。が、もう一つ実感が湧かない。それよりも、水田を吹いてくる風の涼しさは直接的で雄弁な説得力がある。このような風が吹いてくれるのであれば、エアコンはいらない。その分エネルギーも使わなくて済むし、室外機が外に熱風を供給しなくても済む。温暖化問題ではCO2削減ばかりに目がいき、他の環境的要因は挙げられこそすれ大きな議題とはならない傾向があるが、それは少し違うんじゃないだろうか。そもそも、温暖化の原因がCO2だと決まったわけでもない。あれこれ言って、実は温暖化はただの地球の気候変動のサイクルの一環に過ぎませんでしたと、数百年後に結論付けられるのかもしれない。
そんな要素で騒ぐより、足元を見直してみるのもいいのではないか。省エネエアコンでちまちまCO2を削減して喜んでいるのも企業努力としては結構だが、国の施策としてはどうか。元々日本では水田を吹く風が夏の生活を涼やかにしてくれていた。100年かけて変えてきた環境を、また元に戻すわけにはいかないとしても、自然と共生できる環境を、また100年かけて作っていく構えがあってもいいのではないか。
100年。わずか1年足らずで首相が変わり、政策が変動していく現状では気の遠くなる時間だ。だが、1年じゃ国なんて大きなものは何も変わらない。オルゴールの一種"シンギング・バード"を作る職人さんは色褪せない剥製を選ぶためにまず50年経って色が褪せないかどうかを確認していた。国の政策で50年は待てないにしても、そのような長期的な視野は持てるのだろうか。場当たり的に勢いだけで実行され、変えられていく政治ばかりでは未来はない。
さぁ、参院選だ。
2010年7月7日水曜日
12年目の七夕と梅酒
さて、この日記は12周年を迎えたわけだが、同じく今年3月7日生まれの次女もちょうど4ヶ月になる。生まれた時は少々小さかった彼女も、今では母乳ですくすく育ち、ふくふくとしたおっとり愛らしい赤ちゃんに育ってくれている。今のところ強いて問題を挙げるなら少々の汗疹程度で特に病気もせず、実に健康的だ。素晴らしい。
だからというわけではないのだが、今日は自宅で梅酒を漬けてみた。実家には梅の木が2本あり、そこから収穫される梅で祖母は毎年梅干しや梅酒、梅ジュース等を作っている。近年は母も梅酒作りに参戦している。今年は気候が悪く、一般的には梅の出来はよくないらしいのだが、実家の梅の実はいたって順調。例年以上にきれいで大きな実をつけてくれている。今年はその出来の良い梅をおすそわけする見込みもあまりなく、せっかくの梅が余りそうだということもあり、急遽私も自分で梅酒を作ってみることにした。
仕事が終わってからまだ日が残っている内に、祖母と梅の実を収穫する。できるだけまだ黄色く熟していない青いものを選んで取って、約3kg。その梅を使って梅酒作りを行った。
今回採用したレシピは以下の通り。通常のホワイトリカーで作る梅酒は実家で作られているので、自分ではウィスキーベースの梅酒を試みてみることにした。
・青梅 約2kg
・氷砂糖 約400g
・サントリー 角瓶(黒) 2100ml(3本)
・マッカラン グランレゼルヴァ 12年 50ml
収穫してきた梅のヘタを取り水洗いした後に、さらに約4時間水につけてアクを抜く。その後よく水気を切って拭いて瓶に入れ、ウィスキーを注ぐ。今回は買いに行ったドラッグストアで特売していたというだけの理由で角瓶の黒を使用。できるだけ泡立たないようにそっと注ぐ。最後に氷砂糖を上に入れ、フタをしめて出来上がり。梅酒は基本三カ月程度で飲み頃になるが、ウィスキー版の梅酒はウィスキーがえぐみを消してくれるため、さらに1年~3年寝かせて漬けこむことも可能とのこと。これからのんびり楽しんでいきたい。
なお、今回隠し味としてわずかながらマッカラン グランレゼルヴァを入れるという暴挙に出てみた。佐賀の実家の話では梅酒を作る際に大吟醸を少し入れるとおいしくなるということだったので、ウィスキーバージョンで大吟醸に相当する隠し味ならこれくらいかという適当な判断に基づく。
最後に、上記レシピで書かれている「青梅 約2kg」は目分量で結構適当なので、もしこれを参考に自分で梅酒を作ろうという場合には気を付けてください。大きく外れてはいないと思いますが、あくまで目勘での計量です(爆)。
2010年4月22日木曜日
生活、新たに
とりあえず今回は簡単に近況報告。まず先程も書いたように新潟のマンションに引越を完了しました。まだ荷物の整理は完全にはついていないのですが、とりあえずは一段落です。
また、実家の農機具屋に入社し、仕事を始めました。以前のSEjから、今度は農家の方々を相手にトラクタや防除機等を扱う農機具屋へ。ソフトからハードへの大転換です。取り急ぎは4月頭から二週間、つくばでクボタの研修に行ってきました。さすがに研修を終えたとはいえ、当然まだまだ仕事はわからないことも多いのですが、できるだけ迅速に、確実に覚えていきたいと思います。
そして、3月には無事に第二子が生まれました。2510gと、少々小さいですが元気な女の子です。名前は和奏(わかな)となりました。芽生と同様、元気に素直に育ってくれることを願います。
そんな感じで、とりあえず新潟での新しい生活が始まりました。遠くなった人、近くなった人、どちらもありますが、今後ともよろしくお願いいたします。
2010年2月15日月曜日
ライフスタイル
新潟は車社会だ。電車に乗って行けば基本的に行けない場所はなく、車は趣味か利便性の道具でしかなかった東京と違い、新潟では車がないとそもそもまともに生活ができない。通勤も今度は約一時間の車通勤になるし、仕事でもプライベートでも毎日ハンドルを握る。片道の通勤で、横浜にいた時の一週間分並の距離を楽に走る。電車は県外に出る時くらいしか乗らない。
大雪の朝は、車も道も雪で埋まってしまっているため、通勤や仕事の前はまず雪かきをしないといけない。自分が新潟に帰った四日夜から五日にかけては26年振りと言われる大雪。五日の朝は真っ白になった駐車場で車を雪の中から掘り出して、駐車場を出られるまでの道を作る雪かきをする人が大勢いたし、除雪前で膝まで雪に埋まる歩道に苦戦しながらコンビニまで歩く道すがら、色々な会社のオフィスの前では従業員が玄関や駐車場の雪かきをしているのを見た。タイヤの直径より高く新雪が積もった駐車場には車は入れない。
土地が変われば生活も変わる。これが新潟という土地で、ここではこのようなライフスタイルがある。さて、戻ってきた。
2010年2月4日木曜日
日吉最後の夜
いよいよ今日が日吉での最後の夜になる。今日は引越の業者が来て一日梱包作業。明日に搬出を行い、同日に今住んでいる部屋の退去手続きを行い、新幹線で新潟に帰る。結婚してから4年住んだこの部屋ともお別れだ。賃貸住宅というのは一度引き払ってしまうと二度と部屋には入れないのが少し寂しい。新潟を出てからこれまでに住んだ部屋の中でも、今回のこの部屋はピカイチお気に入りだったのだが。目の前には小洒落た欧風の住宅街で治安もよく非常に静かだし、小さいが気の利いた公園が近くに4つもつながっている。この辺では一番高い丘の上に立っているので、ベランダからの景色は圧迫感がなく、眼下に広がる景色では遠くにランドマークタワーを始めとするみなとみならいのビル群が見えるし、春には桜がきれいに咲く。17畳の広いリビングにモザイク細工の床がきれいな書斎、何故か竹があるフローリングの寝室、そして無料の駐車場。駅からは歩くと遠いけど、車があれば川崎にも港北ニュータウンにも近いロケーション。実に気に入っていた。南向きのベランダからは、天気のいい日にはいつもきれいな夕焼けも見れた。 |
とはいえ、引っ越すと決めた以上はいつかは最後の夜が来る。それがとうとう来たということだ。引越業者の梱包作業も終わり、夕飯を食べに日吉の街に下りた。選んだのは迷わずらすたのラーメン。やはり、日吉と言えばこのラーメンだ。ねぎめしと一緒においしくいただいた。そして最後に軽く2杯程度おいしいお酒が飲みたいなということで、久し振りに画亭瑠屋に行ってみた。ここで飲むものはとりあえず決まっている。グレンモーレンジだ。
一杯目に先のテイスティング・セミナーの際に気に入ったキンタ・ルバンを頼む。グラスが出てきた瞬間にテーブルにふわっと広がる、華やかで花のような爽やかに甘い香りが嬉しい。ゆっくりと飲んで、「今日は次で最後だな」と思いボトルを物色していると、グレンモーレンジの列に知らないボトルがあることに気がついた。この日記の写真のボトルだ。何やら、明らかにただ者ではないオーラを漂わせている。マスターに聞いてみると、これはシグネットといい、グレンモーレンジが満を持してリリースしたハイエンドのモルトで、通常とは製法から異なり、最長30年の原酒が使われているという。そう聞くと、とても飲みたくなる。きっと値段も相当するんだろうなとちょっとためらったが、9年日吉で頑張った自分へのご褒美にこの一杯くらいの贅沢はいいだろうと自分を納得させ、思い切って頼んでみた。
グラスに口を近づけた際に一瞬感じた、爽やかな青リンゴのような香りが凄く印象的だった。そしてその青リンゴのような香りから、どんどん別の複雑な香りに変化していき、それだけで口に含む前から期待が募る。そして喉を通る際の滑らかなテクスチャ、豊潤という言葉が似合う膨らみのあるボディ、後から鼻に抜けてくる香りの複雑さ。モルトやワインを語る言葉として"官能的な"という形容詞がよく使われるが、このモルトの魅力はまさにそう語るにふさわしい。モルトやワインを"官能的"と表現するのは実はあまり好きじゃないのだけれど。
このSIGNET、ビル・ラムズデン博士の理想の一つしてリリースされたものの、製法は公開されておらず、謎や神秘性を強調した売り方をしているらしい。その中で、公に公開されている製法の秘密は以下の5つとなっているそうだ。
・グレンモーレンジの最も古く、最も希少なウイスキーをブレンド
・深焙りした「チョコレートモルト」を含む、希少な原料を使用
・グレンモーレンジが所有する単一畑のモルトを使用
・グレンモーレンジが特注したデザイナー・カスクで熟成した原酒を含む
・ノンチルフィルターで、アルコール度数46度
それともう一つ、このモルトは同一の製法だが熟成年数の異なるモルトをヴァッテッドして作られているらしい。ということは、30年の原酒も使われているが10年か、あるいはもっと若い原酒も含まれているということ。それがこのシグネットの画期的なところだそうだが(といっても元々ブレンデット・ウィスキーはそういった作り方をする)、それがこのモルトの熟成されたテクスチャやボディに若々しく華やかな香りが同居する見事なバランスを生んでいるのではないかと感じた。実に魅力的なモルトだ。
日吉の最後の夜にこの一杯に出会えたのはとても嬉しかった。これだからバーに行くというのは面白いのだ。この一杯をこの9年間のご褒美として、明日からはまた生まれ故郷新潟にて、心機一転頑張っていこうと思う。
さよなら日吉。さよなら渋谷。またいつか。
2010年1月29日金曜日
Testament
色々と、候補というか欲しいCDは出てきたのだが、その中からメモリアルCDとしてKEITH JARRETTの『Testament』を選択した。 理由は色々あるが、率直に言うと「ピンときた」というのが正直なところだ。クラシックを最初考えていたのだが、東京・横浜での生活のメモリアルとしては何か違う気がした。以前にも書いたが、やはり都会の夜にはジャズなのだ。
東京や横浜は明るい。それは純粋に光の多さという意味で、新潟と比べるととにかく明るい。窓やネオンの人工的な灯も、太陽の日差しも、新潟よりはずっと多く、強く、見た目には華やかだ。メモリアルとして、その明るさに思いを馳せるには、Keith Jarrettのソロはいいように思えた。
何にせよ、メモリアルとは精神的なものだ。その精神的なものに物質的な依代を与えようという試みだ。そしてその媒体が音楽であるならば、意識が外を指向するオーケストラやその他アンサンブルよりも、内へと向かうソロがよい(もっともこの点Keithは音楽は観客との相互作用だと述べているので言葉の表面を捉えるなら至極外向的にも思える)。
今この『Testament』の1枚目を聴いてみている。PARISのPART2の重苦しいグルーヴ感、PART3の白く透明な光が波打つような美しいフレージング、実に、素晴らしい。やはり、このCDでよかったと、現時点では思っている。
"Testament"。意味は多義性がある。証明、契約、信条の表明、遺言、試練、聖書。この『Testament』は私にとっての何になるのか。東京・横浜での生活の"証明"か、あるいはその場所での"遺言"か、はたまた新潟に戻るという"契約"か、あるいは東京・横浜での"信条の表明"、ないしは新潟に戻るに際しての"信条の表明"か。それとも、これまでまたはこれからの"試練"の象徴か。
たまには、一つのCDに意図的に意味を与えてみるのも面白い。東京・横浜での生活へのメモリアルとして選んだこの『Testament』。新潟に戻ってからも、折に触れて聴き返していきたいと思う。果たしてその時の、私の心境はどのようなものになっているのだろうか。
・・・もしかして、ただ単にこの『Testament』の音楽を聴きたいだけだったりするかもしれない。
2010年1月21日木曜日
最後の出勤日
改めて思い返してみると常に先陣で戦ってきた約9年間だったように思います。入社直後に新製品の開発に携わり、その製品は必ずしも芽が出たとは言えない結果となってしまいましたが、その中で技術的にも精神的にも多くのものを学びました。現在の主力となっている製品の開発が始まる際も、その最初のアイディアを営業の上司が見つけた時に居合わせ、それが実際に技術的に使えるかどうかを検証し、プロトタイプを組むことを行ったのも私でした。合わせて社内で利用する開発フレームワークを整理し、数々の受託の中でお客様にも恵まれ、トラブルが多かった時期も正直ありましたが、それでもお客様とのやり取りや開発メンバーとの仕事の中で、いい面でも悪い面でも実に様々な経験を積ませてもらいました。約9年、一時期かなり自信をなくして意気消沈していた時期もあったとはいえ、自分の仕事にプライドを持って取り組める、少なくとも私にとってはよい環境であったように思います。
最後の日は、やはり何となく落ち着かないものです。丁度私が作った最後のプログラムの納品日でもあり、プログラムを持って納品に出かける同期のSEを見送り、後輩の質問に答え、ふと、もうやることってそんなにないなぁ、と思ってしまうのです。これまでやることが本当にないことなんて一度もなかった私がです。そりゃ最終出勤日まで色々と血眼でやらなきゃいけないことがあるなんて引き継ぎができてない証拠ですし、何かがトラブっていることになるわけですから、最終出勤日にやることがないのは当然と言えば当然です。それでも、それは私にとってはやはり寂しいことでした。そうか、自分がこの会社でやることはもう何もないんだな、と思ってしまうのです。たまたまこの日は自社製品の次バージョンについての社内向け勉強会があったのでそれに参加し、一番最初、自分が開発に携わった現行の製品が現在辿り着いた場所を確認して、私の最終出勤日は終わりました。
私のために、非常に盛大な送別会を開いていただきました。フロア一つを貸切にした会場で、これまで一緒に飲む機会も少なかった営業の面々にも囲まれて、私と関わりの深かった人達のスピーチを聞き、やっと少しずつ、ああ本当に今日が最後なんだなと感じてきました。私が入社した時の直属の先輩が、スピーチで涙を流すのを見て、私まで涙が出てきました。普段泣くようなイメージがまったくない、逆境でも折れない心の象徴のような人だったので尚更です。
ATLED、ソフトクリエイトの皆さん、約9年間、本当にありがとうございました。私はここを去りまったく異なる業界に行ってしまうので、残念ながら今のSEとしてのスキルが直接的に次の仕事で役立つわけではありませんが、ここで培った社会人としての心構えやお客様との対応、そして何よりも苦境で折れない強い心を胸に、今後も頑張っていきます。最後のスピーチでも話しましたが、私は自分で選んで決めたことに後悔はしたくありません。新潟に行ってしばらく経った時、「やっはり東京にいればよかった」とか思うようなことにはしたくありません。新潟に戻ると決めたのは自分なのですから、私はその自分の決定を後悔しないよう、新潟での人生が素晴らしいものとなるよう一生懸命頑張ります。だから皆さんも、皆さんの今後の人生を一生懸命頑張ってください。そしていつかどこかで会うことがあれば、かつて同じ戦場で戦った戦友として、ゆっくりと酒でも酌み交わせればいいなぁと考えています。
重ね重ねになりますが、会社の皆さんにはこれまで本当にお世話になりました。また、最後は盛大な会を設けていただきありがとうございました。今後もお互い、体には気をつけて頑張っていきましょう。
2010年1月11日月曜日
ラーメン激戦区 日吉
日吉という場所は広さの割りにラーメン屋が多く、そしてそのレベルが高い。ラーメン好きな友人が遊びに来た時なんかは何件か連れて回るが、やはりそのレベルの高さに皆驚くし、日吉を知る人でもやはりここのラーメン屋は美味しい店が多いと感じている人が多いようだ。
日吉のラーメンと言えばやはりまずは「らすた」。鶏がらと豚骨をベースとした非常に濃厚でなスープに、染谷製麺の黄色い極太平打麺がトレードマークの日吉の老舗。大雑把に言って瀬油系豚骨醤油と言えなくもないし、実際その系譜の横浜家系の流れに数えられることもあるようだが、らすたは横浜家系とはちょっと違った独自の味わいを持っていると思う。第一に家系はスープに豚骨の臭みを敢えて残し、野趣溢れるワイルドな味わいを出してくるが、らすたのスープは臭みはほとんど残さず、乾物等のダシが効いた旨みの奥行きがあるものになっている。それに加えて、もはや麺そのものがご飯のおかずになるくらい極太で味のあるあの麺は、他のラーメン屋にはない唯一無二のものがある。最近は数年前にできた横浜家系ラーメンの武蔵家に押されて一時期ほどの人気はないようだが、やはり個人的には日吉のラーメンと言えばまずらすただ。後半戦にはニンニクと豆板醤を入れて空気を変えて、最後まで美味しくいただける。
というわけで最近らすたと人気が逆転し、いつも行列ができているのが横浜家系「武蔵家」。味は正統派の横浜家系豚骨醤油。博多の白湯スープと違い、豚骨の臭みを残したこってりとパンチのあるスープ。これは個人の好みの話になるが、家系の豚骨のインパクトと背脂の旨みに極端に重きを置いたスープは実はそれほど得意じゃない。半分までは、実に美味しくいただけるのだが。この武蔵家は良くも悪くも正統派の家系で、家系の中でもこってり加減や味わいは丁度中程度。パンチの効いた豚骨醤油が食べたいときはよい。今みたいに常に並ぶようになってからは行ってないけど、空いてた頃より美味しくなったんだろうか?変わってなければ、家系としてはスープにコクが足りない印象もあったのだが。
ちなみに日吉には武蔵家の他に家系ラーメンがもう一件ある。批判はあまりしたくないので、あまり書かないが、そちらはあまり美味しくない。
さらに日吉で忘れてはならないのが「日吉家」。家がついてるから家系かと思いきや味も資本も全然違う。ここは豚骨全盛、こってり万歳の昨今のラーメンの風潮に真っ向から背を向けて、化学調味料を一切使わずに丁寧に鶏がらベースで仕上げたスープを使って実に美味しい醤油ラーメンを食べさせてくれる店。最近は本当に美味しい醤油ラーメンを食べさせてくれる店が少なくなったが、ここの醤油ラーメンはあっさりしていながらダシの旨みがしっかりと備わっており、それが細いちぢれ麺に絡んで実に落ち着いた味わいを提供してくれる。個人的には日吉でもお気に入りの店の一つ。アットホームな店の雰囲気もよい。ただし閉店時間がちと早いので、会社帰りや飲み帰りにはもう閉まってしまっている。休日のランチにお薦め。また、再度メニューであるラーメンのスープを使って作ったカレー丼も絶品。
そしてもう一つ忘れてはならないのが「ハマトラ」。竹炭を麺に練りこんだという黒っぽい麺は、見た目的にもインパクト抜群。鶏塩そばやモロヘイヤを刻んだスタミナラーメン等、ここも豚骨・こってりの風潮とは一線を画した独自路線で美味しいラーメンを食べさせてくれる。ビールを頼むと突き出しにネギとチャーシューを和えたおつまみが出てくるが、これがまた美味しいのでここで食べるときはいつもビールを頼んでしまう。少々奥まったところに店があるが、隠れた個性的な名店。
ちょっと前にできた「Ryu-ya」。開店当初は並んでいたのがあっという間に空くようになった(苦笑)。鶏がらと魚介をベースにバターを浮かせたスープは味があって実に美味しく、なかなかいいと思うのだが、多分ここが空いている理由はチャーシュー。チャーシューに変な臭いがする。せっかくラーメンは美味しいのに、あのチャーシューを口にするとしばらく嫌な臭いが口に残ってラーメンが美味しくなくなる。大学生が多いこの日吉ではチャーシューを楽しみにラーメンを食べる人も多いだろう。せっかくラーメンは他に負けないくらい美味しいのに、あのチャーシューがすべてをダメにしている。ちなみに私はここではチャーシューは残す。食べない。だって食べるとラーメンが美味しくなくなるから。ラーメンは美味しい。野菜大盛りラーメンがお薦め。
今はもう無くなったが、以前は日吉にも「よってこ屋」があった。チェーン系のラーメンだが、このラーメンもなかなか美味しくてよく通っていた。塩とんこつとか大好きだったし、餃子も美味しかった。両親もここがお気に入りで、日吉に来ると好んで食べていたものだ。だからよってこ屋がなくなったと知らせるとウチの両親は「あんなに美味しい店が?」と驚いていたものだ。チェーン店だから例えば綱島等に行けば今でも食べられるが、どうやら日吉店は接客面であまり評判がよくなかったらしい。ふむ。
そして最後に日吉で絶対忘れていはいけないのが、厳密に言うとラーメンではないが、つけ麺「あびすけ」。とんこつと魚介のダシをこれでもかという程濃厚に抽出したスープはインパクト抜群。最近乱立する割にクオリティに疑問の多いつけ麺というジャンルの中で、圧倒的に強烈なインパクトと美味しさを持っている。渋谷の会社の近くにいつも行列ができているつけ麺有名店があるが、そこですらこのあびすけと比べるとスープのクオリティが低くて稚拙に感じる。飲んだ帰りにここでつけ麺を食べ、最後にスープ割で余韻を楽しむという至福が、日吉から引っ越すと味わえなくなるというのは残念でならない。とにかく日吉にくるなら食べてみることをお薦めする。通常のつけ麺の他、カレーつけ麺も美味しい。
・・・と、ここまで長くなるくらい日吉にはラーメン店が多いし、またそのクオリティが高い。正直ここで出した店はどれでも、他の地域であれば目立った有名店になれるはずだ。日吉から去ることで惜しいことの最も大きな一つは、これらのラーメンがもう(そう簡単には)食べられなくなるということだ。とりあえず、引っ越す前にお気に入りのラーメン達をせめてもう一回くらいずつ、食べて回るとしよう。
2010年1月1日金曜日
2010年 元旦
今年の年末・年始は大晦日から家族で岩室温泉へ泊まりに出かけ、そこで年を越しました。-40度の寒気が訪れる年末・年始で強く吹く冷たい風はそれは寒いものがありましたが、雪は思ったほどは降らなかったのでよかったです。寒風に吹かれながら入る露天風呂からは流される雲の隙間から満月(に見える月)が見え、それはまぁなかなか風情がありましたとさ。そして元旦夜は毎年恒例ウィーンフィルのニューイヤーコンサートの中継をモルトを飲みながら家族で鑑賞し、元旦は終わっていきます。
ところで、今年は既に自分を取り巻く環境が大きく変わることが決まっています。新卒以来長く勤めた会社を一月一杯で退職し、二月には地元新潟に引越すことにしました。三月には第二子も誕生します。仕事は実家の会社に入ることにしたので、今までやってきたアプリケーション開発と運用保守というものとは全然違ったものになります。そうした大きな変化の中、これまで以上に気を引き締めて覚悟を決めた上で新しい環境に適応していかないといけないなぁと考えています。
引越しの理由についてはここではあまり多くを語りませんが、まずは退職まであと一ヶ月、現職をしっかりとこなし引継ぎを行うこと、二月に滞りなく引越しを終え、第二子を迎える準備を整えること、そして新しい仕事への準備と、やることも色々ありしばらくはなかなかドタバタしそうな感じです。
ともあれ新潟に行ってもこの日記は(少なくともここ半年以上のペースでは)更新を続けていきますので、どうか皆さん今年もよろしくお願いいたします。