2004年2月29日日曜日

2/29の日記

 4年に一度、閏年の2/29の日記です。長々と書きかけていたのですが、どうも最近眠気に勝てなくなってきました・・・。

2004年2月26日木曜日

銀の弾

 「狼人間を倒す銀の弾はない」

 これは私の業界では30年近くも前から言われていることです。

 要は開発効率を飛躍的に高めて、とかく遅延や開発中・納品中のトラブルが発生しがちな、いわゆるデス・マーチと常に背中合わせなシステム開発というものを、一発で救ってくれるような特効薬は存在しないということです。まったくもってやれやれな話ですが、むしろ現実問題としては「これさえやればすべてがうまくいく」と銀の弾を楽観的かつ盲目的に信じてプロジェクトに持ち込んでくる人間の方がやはりはるかにタチが悪いのです。そういう人間に限って自分が持ち込んできた手法なり技術なりをロクに調べもせずに楽観的なスケジュールを立ててしまい、メンバーを地獄の底に叩き落としてしまうものですから。

 まぁ、無条件で狼人間を倒せる銀の弾など存在しないでしょう。狼人間倒したいなら一発で仕留めようなどとは思わずに、地味に見えても少しずつ慎重に追い詰めていった方がいいのです。それでも危機にさらされることもあるでしょうし、文字通りデス・マーチに巻き込まれてしまうこともあるかもしれません。だから私は、今日も明日も平和を胸に仕事に向かうのです。銀には魔除けの意味もあります。もうひとつ、刻まれた言葉を胸に家路につけるように。

2004年2月24日火曜日

『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』

 今巷でちょっと話題になっている、芥川賞受賞の2作品を読んでみました。20才の女性二人が同時受賞ということで、とにかくメディアは大騒ぎ、「これで出版不況も改善されるかも」という期待もされているくらいなわけですが、私としては選評の村上龍の、「当たり前のことだが現在の出版不況は構造的なもので若い作家二人の登場でどうにかなるものではない」という、メディアの盛り上がりをバッサリと切った台詞に一票です。一時的にはまぁ本も売れて、最後まで競っていた『生まれる森』(個人的にはこの作品が一番気になっていた)とかも売れて、文藝春秋も大増刷で伸びを見せるでしょうが、まぁその景気も二ヶ月はもたないでしょう。私は出版不況や経済について語りたいわけではないのであまり深入りはしませんが。

 さて、受賞した2作品『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』、まずはタイトルが気になっていた前者から読んでみました。私より先にこの作品を読んでいた人も言ってましたが、うん、なるほど、この背中は蹴りたい(爆)。蹴りたい気持ちはよくわかる、というそんなタイトルの持つ象徴性が非常にはっきりした作品でした。学校という集団の中で浮いた二人の、集団や個人との距離の取り方に見らる迷いや期待や憤り、そんな心理描写を泥臭くなくさらりとまとめた、という印象があります。ただ何か不完全燃焼というか、もじもじしたまま最後まで爆発しきれずに終わってしまうみたいな。"蹴りたい背中"は本当の意味でけっ飛ばされることはなく終わってしまうのです。いや、実際物理的には蹴ってるんですけどね(笑)。

 『蛇にピアス』の方は一転、ピアスで大きな穴を開けたり舌先を蛇のように割ってみたり、入れ墨を入れてみたりと肉体改造をしていく3人の10代の男女の物語。学校というありふれた場のありふれた世界を書いていた『蹴りたい背中』とは全然違った印象です。こちらの方は、うまく言えないのですが情念、個性、依存、そんなキーワードが断片的にちりばめられた、ある種テーマのオムニバスといった趣のある作品に思えました。改造することで差別化されていく肉体に依存し、人の愛に依存し、そしてその愛はまた改造された肉体に依存する。そんなウロボロスのような情念、個性、依存の無限ループ。すべてがすべてを追いかけるから、終わりがない、止まらない。鎖が一つ抜け落ちても。実際に、グルグル回る小説です。

 両作品を通じて、描く世界はあまりに違うものの、根底となっているものはほぼ同じもののような印象を受けました。一言でいうなら、どちらも「こんな時代の普通」なのです。『蹴りたい背中』の主人公が距離を計った"集団"というものをデフォルメしていくと、依存関係の輪廻が回る『蛇にピアス』の世界になるのでしょう。「こんな時代の普通」をまったく逆サイドの視点から、望遠の縮尺を変えて作品にしたのが今回の芥川受賞2作品のように思うのです。その意味ではよくも悪くも共時代的な作品です。ただ、どちらも何というか力が足りない気もします。時代を見抜く(というかただ純粋に感じてる?)視点や感性はいいと思うのですが、作品に説得力が足りない気がするのです。どこが悪いとかはうまく説明できないのですが。なんかエンターテイメントではないし、あまり好きな言葉ではないのですが純文学として考えてもちょっともうひとつ。ただ、時代性の描き方に素直な共感は持てる。そんな感じでした。まぁ、私としては最近読んだ中ではこの『雪沼とその周辺』がダントツに好きです。

2004年2月22日日曜日

三年後

 それはきっと、あの鳥人間ですら予想できなかったであろうこと。

2004年2月18日水曜日

脱・夜型宣言 一日目

 『夜型フレックスにケリを入れろ!』プロジェクト一日目、6時にかけた目覚ましで順調に6時半に起きた(爆)私はそれでも予定通り8時に行きがけにドトールで買ったコーヒーを片手に会社につきました。狙い通りです。これで後は19時~20時の間くらいで帰れれば完璧です。朝着いたのが早すぎてまだ会社が開いてなくて、24時間システム監視を業務としている部署に電話かけて開けてもらったとか、毎朝誰よりも早く出勤する社長に見つかって、「昨日は徹夜か?」と声をかけられたとか(どうやら開発が早朝に会社にいることはイコール徹夜を意味するらしい)、そんなこんなもありつつも、とにかく早く帰れればいいのです。さて、気になる会社を出た時間は!・・・21時でした。ん~、まぁこれまでから言えば決して遅くはないにしろ、結局あまり変わってないですね・・・。せめて20時でケリをつけたいんだがなぁ。ってゆーか、8時から21時って、10時出社だったら23時までいたのと同じ勤務時間かぁ。・・・なかなか報われません(苦笑)。まぁまぁめげずにしばらく8時出社で頑張りたいと思います。

2004年2月17日火曜日

脱・夜型宣言

 『夜型フレックスにケリを入れろ!』という企画が私の中で持ち上がりました。単純に言うと、「もっと早く家に帰って人並のゆとりを持とう」というお話です。そもそもですね、フレックスというと出勤を遅くできるとか、合計勤務時間の帳尻さえ合えば16時上がりも可能とか、そういうところばかりではないのです。通常9時出勤なら9時からしかカウントされない勤務時間も、フレックスなら8時から可能なわけです。とすると、今10時に出勤するのを8時に早めたとしたら、その差は2時間です。今帰る平均が22時と仮定した場合、2時間ずらせば20時になるわけです。これならまぁ無理すれば人並と言えなくもない時間に帰れます。そして家で多少なりともゆとりのある時間を過ごせるはずです。というわけで、早速明日から朝6時半に目覚ましをかけて、8時出勤目指して頑張ることにします。・・・一歩間違えると8時出勤24時退社というとんでもない超過勤務になってしまいそうですが(笑)。

2004年2月16日月曜日

勢いで?

 ♪からめた小指で、誰も知らない約束
  たまごの中には、いつか生まれ出すひよこ♪

 スピッツの往年の名曲ですが、この曲昔からいつもタイトル間違えるんですよね。なんか会話とかでこの曲が出てきて、「ああ、『ひよこ』ね」とかごく自然にさらっと笑って言ってのけてから、一瞬後に自分でハッと気付くのです。

 ・・・この曲『ひよこ』じゃねぇ!!!『たまご』だ!!!!!

2004年2月11日水曜日

ブエノスアイレスの冬

 私の大好きな曲の一つに、ピアソラの『ブエノスアイレスの冬』という曲があります。このHPを訪れる人の中ではかなり有名な曲ですね。厳しく、だけど優しい曲です。私が最後の定演のソロで弾いたのは『夏』でしたが、実は『冬』が一番弾きたかったんですよね。けど難しいんだ、これ・・・。

 この曲は重く、不吉に始まります。命を枯らす、寒く厳しい冬が歩を早めながら近付いてくる、そんな情景から始まります。訪れた冬は寒々しく、寂しく冷たい風を吹かせながら街を覆います。時たまアッチェランド気味に緊張感をまといながら高揚し、また静かで寒々しく落ち着いていくということを繰り返すこの曲は、長く厳しい冬を象徴しています。すべてを枯らすものとしての冬。この曲が持つ冬のイメージは、生の対極としての冬のように思えるのです。

 ところが、この曲は最後に急に曲調が変わります。短調から長調に転調し、冬と春の境目に、ある日突然吹く春一番のように暖かい旋律が、それまでの冷たさをすべてぬぐい去るように静かに優しく奏でられ始めるのです。そこから一気に草木が芽吹くように湧き上がる早いスケールが聴こえ、中音域で柔らかい春の風のような歌が流れてきます。そして最後は訪れた春を象徴する旋律が、高音域で静かにゆっくりと、草むらに腰を落ち着けて日射しを楽しんでいるような空気の中で奏でられ、曲は暖かくゆったりとした雰囲気の中で収束していきます。

 この曲の好きなところはその終わり方です。ただ枯らすものとしての冬を描写して終わるのでなく、最後に優しく暖かい春を連れてくる。それはどんなに長く厳しい冬でも、明けない冬はないんだよということを改めて伝えてくれているように思うのです。必ず、春は訪れるのだから、と。日々の暮らしを送っていく中で、時たま出口のない迷宮に閉じ込められたような、明けない冬の中にいるような、そんな感覚に苛まれたりする時、ふとこの曲を聴きたくなるのはそうした理由からなのかもしれません。どんなに長く厳しくても、必ず冬は終わって春が訪れると、この曲はそう語ってくれるのです。

 振り返ってみると、長い、長い冬の中にいたような気がします。それは現実に四季が移り変わるのとは別にあった冬で、かじかんだ心は寒さを感じることにさえ麻痺してしまっていたように思います。高校卒業間際、「本当は心も冷たいけれど、変に温めたりすると腐敗が進みそうで怖いから、冷凍保存だ、冷凍保存」と書いた時以来、明確に意識はしていなくても、もしかしたら本当にそうしてきたのかもしれません。

 今、改めて『ブエノスアイレスの冬』を聴きます。これまでは冬の厳しさに同調し、春の暖かさに憧れていたような気がします。何が変わったのでしょうか。逆に今は、冬に憧憬を覚え、春に祈りを捧げるような、そんな心象に変わっています。今年現実に訪れた冬の冷たい風の中で、随分長い間ずっと、空気のように当たり前に流れ続けていた重い短調の低音旋律は、いつの間にか長調に転調していました。

2004年2月8日日曜日

久しぶりのギター

 実は結構久しぶりにギターを弾きました。年末に不幸にもaとpの爪を根元から折ってしまうという事故に見舞われて以来、感覚が狂うのを恐れてずっと弾いてなかったのです。私の場合、aはまぁ爪が折れてもなんとかなるのですがpが折れると普段が相当長い分、弾弦の感覚が極端に変わってしまうのです。それでも毎日弾いてるなら調整も効くでしょうが、今みたいな週末ギタリストでは普段の感覚を崩してフォームを乱す(まぁ右手のフォームは元々かなりガサツですが)ともう戻って来れない気がして、それで実に一ヶ月、爪が伸びていつもの感覚で弾けるようになるまで待っていたのです。

 今日は爪を磨いて弦を替えて、簡単なアルペジオ、半音階スケール・・・、と徐々にならしていって、先日のコンサートで買ってきたフローベルガーの譜面(グロンドーナ編)など弾いてみたりしました。いやー、人が弾いてるのを聴くのももちろんいいのですが、やっぱり自分で弾いてギターの音が響いてるのが自分の体に伝わるあの感触、・・・いいですね~。なんかもう、Eのコードを流して鳴らすだけで悦に入ってました(笑)。

2004年2月6日金曜日

コンビニのおでん

 コンビニのおでんというのは最高の贅沢ではないかもしれませんが、やはり日常のちょっとした贅沢ではあると思うのです。一人暮らしで夕飯を食べるのに、おでんだけではやはり寂しいし、弁当に付けるにはちょっと調整が難しい。タマゴ一個だけとか弁当につけるのも何だかかえって侘びしい気がしますからね。おでん自体そんなに高いものではないですが、毎日オプションとして付けるとするとやはり家計は気になったりします。ので、今日みたいにとりあえず安めの弁当(今回はタケノコご飯)におでんを3つ付けてみたりすると、ちょっと贅沢した気分になれるのです。まぁ、何だかんだいってコンビニのおでんって美味しいんですよね。


今日の一言:
つまるところ、人の魂を奪うのはどちらだろう?
良心を裏切ることだろうか?
心を裏切ることだろうか?

スティーブ・エリクソン『Xのアーチ』より

2004年2月4日水曜日

ステファノ・グロンドーナ@トッパンホール

 さてさて、ちょっと間が空いてしまいましたが先週の金曜日、1/30に私はステファノ・グロンドーナのリサイタルを聴きにトッパンホールに単身乗り込んで参りました。グロンドーナはマンゴレに誘われて行った『音楽の絆フェスティバル』でのマスタークラス聴講以来、その音楽に対する哲学的な姿勢と感性に魅力を感じているギタリストです。当然今回のリサイタルも非常に期待をしていました。

 まずトッパンホール場所がわかりにくかったというのはよしとして、危なかったのは当日券。19時開演のところ私は20分前くらいに会場に着いたのですが、何とその時点で2枚しか残ってなかった・・・。私と後ろに並んでいたオッチャンでお終いです。いやいや危ないところでした。しかも最後の当日券を手にしたオッチャン、けしからんことに演奏中半分くらい寝てるしな。当日券を手に入れられなかった人もいるんだぞ、オイ!? と軽く小一時間説教してやりたい気分で一杯でした。

 それはともかく演奏の方です。一部はフローベルガー、バッハとバロックを中心に、最後にグラナドスが控えるプログラム。この一部は全体を通して「なんか苦戦してるなぁ」という印象が正直ありました。まず調弦がなかなか安定してくれないし、音ももう一つ響いてくれない。このコンサートで彼はアントニオ・トーレスを弾いていたわけですが、やっぱトーレスだと満員のコンサートホールは辛いのかなぁ、とさえ思ってしまいました。音の良し悪しは別問題として、単純に音量という意味ではトーレスは現代のギター程ではないですから。なんか左手の押弦も結構ミスが多くてよくスケールやスラーが回り切ってなかったり音がびびってたり。そんな調子で一部のフローベルガー、バッハはかなり苦戦してましたね。とはいえ深い洞察と確かな感性に裏付けられた、厳格なゴシックを思わせるような骨太でしっかりとした音楽は素晴らしく、真摯に音楽とその歴史に向き合うその学究的で哲学的なスタイルは、こうしたバロックの演奏には非常に合っています。なんか彼、イタリアっぽくないんですよね(笑)。ドイツっぽい。まぁ、後にリョベートとか弾いてる時は「やっぱイタリア人だ」と思うわけですが。そして一部最後のグラナドス、プログラムでは『献辞』、『アンダルーサ』、『ゴヤの美女』という順に掲載されているのに、何故か『献辞』の次にいきなり『ゴヤの美女』を演奏。しかもそれ弾いたら立ってるし、「あれ、『アンダルーサ』は!?」と思っていたんですが、まぁその後また座ってちゃんと弾いてくれたのでよしとしましょう。・・・あれはプログラム変更だったんでしょうか、それとも忘れてたんでしょうか?

 そして休憩後第二部が始まるわけですが、いやここからが凄かった。特に最初のアルカス!イントロの音からして「オイ、休憩の20分の間に何があった!?」と問いたくなる程もう音からして違う。完全にホールの空気を掌握してました。もう調弦に悩まされることもなく、グロンドーナ特有の深みに引きずり込まれていくような音の世界にどっぷり浸からせていただきました。もうアルカスは最後ゾクゾクしながら聴いてました。思わずアルカスの譜面買おうとしたんですが、なんとお値段12,000円。高ぇ・・・。そして次のファリャの『漁夫の歌』、『狐火の歌』がまた素晴らしかった。歌ってました。歌ってましたね。ギターも本人も(笑)。そしてそのままリョベート、アルベニスと素晴らしい演奏を聴かせてくれて本編は終了になるわけです。そしてなんとその日はリョベートを中心にアンコールが4回!多過ぎです(爆)。3回目のアンコールの後とか何人か帰ろうとしてたし。

 しかし実際に生でコンサートを聴いてみて思ったのですが、やはりグロンドーナの演奏は非常にクセがあるというか独特ですね。まず低音の響きが他のどのギタリストと比べても圧倒的に太い。音の輪郭が攻撃的なわけではないのですが、まるで大きな鐘の音の残響のように重くて太く、空気を振動させるような低音を出すのです。CDで聴いててもそうでしたが、生で聴いてもやっぱり凄いですね。ギターのせいかなぁ?とも思うのですが、CD『鳥の歌』ではトーレスからハウザー、ブーシェなど色々なギターを弾き分けているにも関わらずこのトーンはまったく変わりなかったので、やはりあの低音はグロンドーナの音なんでしょう。そして印象的なのは特にスペインものの曲でのスタッカートの使い方。なんというか、うまく表現できないのですが凄くスタッカートを聴き手に強調した演奏をするのです。そしてそれが強烈なリズムのアクセントになる。スタッカートで切った音の尾の輪郭と、それに続く無音の間が作り出すリズムの効果を非常に強く意識しているのです。あそこまで思い切ってスタッカートでリズムのメリハリをつけてくるギタリストってなかなかいないなぁ、と思って聴いてました。特に最後のアルベニス、『カディス』と『朱色の塔』ですね。この2曲ではスタッカートが非常に印象的でした。

 『音楽の絆フェスティバル』でも感じたことですが、音楽というものに対して非常に深い洞察を持ち、その歴史にも多大な敬意を表している彼は、その演奏の強烈な個性にも関わらず楽曲に対するある種の謙虚さのようなものが感じられます。常に彼の感性と知性は音という意味でも歴史という意味でも今弾いている曲が本来どう在るべきなのかということを探り続けているように思えるのです。それが私が「哲学的」と表現する彼の演奏の深みになるんでしょう。「自分の表現や個性にこだわりを持つのもいいが、それが行き過ぎると曲そのものが持つ本来の音楽の真実を見失ってしまう」というのが二年前に聞いた彼の言葉です。改めてなるほどなぁ、と納得するコンサートでした。

 ちなみにグロンドーナ、新しいCD2枚出てましたね。アルベニス・グラナドスの作品集とリョベート・タレガの作品集。どちらも非常にいいCDですが、特に後者は素晴らしいですよ。もし2/6の京都バロックザールのリサイタルに足を運ぶことがあったら是非買ってみてください。

2004年2月2日月曜日

風邪ひき

 そんなに大したことはないのですが、まんまと風邪をひいてしまいました。ので、今日は早めに寝ることにします。なかなかグロンドーナについて語れません・・・。