2010年11月28日日曜日

ワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団@りゅーとぴあ

 りゅーとぴあで会員優待のコンサートとしてワレリー・ゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団のコンサートが開かれるというのを知った私は、早速チケットを取りました。プログラムはシベリウスのバイオリン協奏曲、そしてマーラーの交響曲第一番『巨人』。マーラーの『巨人』。実はこの曲、東京を去る際にタワレコで退職記念のCDを探していた時にクラシックのフロアで流れていたのを聴き、あまりの曲の素晴らしさに思わず同時に購入してきたという経緯があります。その時に流れていて所望してきたのはサカリ・オラモ指揮ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団のものでしたが、その後いくつかの同曲のCDを購入し、聴き込んできた大好きな曲の一つです。当然、この日のコンサートは非常に楽しみにしていました。バイオリン協奏曲でのソリストは諏訪内晶子というのだから尚更です。

 まずはシベリウスのバイオリン協奏曲。この曲はシベリウスらしい冷艶な空気の中を、独奏バイオリンが煌びやかに一気呵成に駆け抜けていく名曲です。ソリストの諏訪内晶子はゲルギエフと共に濃いブルーのドレスで颯爽と現れ、それこそあっという間に過ぎ去っていったような印象でした。素晴らしかったのはその音色。諏訪内晶子といえばその技巧は文句のつけようがなくとも、音色は特筆するほどではないかなという印象が正直あったのですが、実演に触れてみるとそんなことはまったくない。特に高音を伸ばす時の冷たく透明で、妖しく光るような音色は実に素晴らしかったです。特に第二楽章の終わりでは最後の余韻まで美しく響くその音色に酔わせてもらいました。

 これは後で知ったことですが、諏訪内晶子が今使っている楽器はあのハイフェッツが使用していた三大ストラディヴァリウスの一つ、『ドルフィン』であるとのこと。あの音色の素晴らしさは、彼女自身の研鑽はもちろんのこと、この楽器の力による部分も大きいのかもしれません。シベリウスの冷たく透明で涼やかな響きの中、時に凍るように美しく、時に情熱的に一気呵成に、自由自在に駆け抜けていく諏訪内晶子の演奏は素晴らしかったです。

 そしてマーラー『巨人』です。この曲はさすがにCDで聴くのと生で聴くのではもう全然迫力が違う。第一楽章で高らかに鳴り響くファンファーレとともにオーケストラがトュッティの強奏で一気に爆発していくところなど、直前のフレーズから一気にあざといくらいテンポを落とし、物凄い集中力でオーケストラを睨みつけながら音を引っ張っていくゲルギエフの指揮ぶりは圧巻でした。

 ゲルギエフの指揮を体験するのはこれで二度目ですが(一度目はサントリーホールで聴いたウィーンフィル)、その時同様やはりゲルギエフの指揮はオーケストラを引っ張る力が半端じゃないように感じます。彼の指揮は打点がわかりにくいと言われますが、確かに生で見ても分かりにくい。振り回される腕を見て合わせようと思ってもわけがわからない。タクトを持たずに徒手空拳で振られる彼の指揮の、手首と指先を集中して見ていないといけないのです。そして振り回している腕がどの位置にあろうと、とにかくその手首と指先で打点や指示を細かく出す。だからいつどこで打点が振られるか、腕の位置ではまったくつかめない。そりゃわかりにくいと言われるわけです。その代わり、要所要所の重要なアクセントの部分では"ここは必ず縦をきっちり合わせろ"とばかりに一拍前で頭上に指を立てて手を振り上げ、"さぁ来い、ドンッ"ってな具合で指示を出します。その点ではわかりやすい。そして各パートが休止から入ってくる時や重要な旋律・リズムに入る時等は物凄い迫力でそのパートを睨みつけながら音を引き込んでいくのです。その目力が凄まじい。音も無音も、彼はオーケストラを睨みながら引っ張り、引き出す。その迫力はやはりこれまで見た指揮者の中でも随一です。ゲルギエフはよく"怪人"等と呼ばれたりしますが、それはきっとこの睨みつける迫力から来るのでしょう。

 ロンドン交響楽団はこれまで実演に触れたことがある海外オケのウィーンフィルやバイエルン放送響、ロスフィルと比べると明確な個性は薄いオーケストラのように感じました。一緒に行った父に言わせると「イギリスのオケは地味なんだ」とか。ウィーンフィルのように明るい輝きの響きで自由闊達という感じでもなく、バイエルン放送響のように木の暖かい質感が感じられる弦が印象的というのでもなく、ロスフィルのようにアンサンブルの中でもオケのメンバー一人一人の技量が感じられるような個人的名人芸の集合体という感じもせず。重心の低い音でアンサンブルが強固な弦と、明朗で非常によく響く管、そして実に生き生きとしたリズムを刻むティンパニ始めとするパーカッション隊という印象です。特筆すべきはフルートですか。非常に柔らかで美しい音色のフルート奏者が一人いました。そのオケからゲルギエフが曲想により様々な引き出しを開けていく、そんな感じでした。

 マーラーの『巨人』では曲が進んで行くにつれゲルギエフもオケも集中力が次第に増していくのが感じ取れ、最終楽章のクライマックスではテーマを早めのテンポで高らかに歌い上げるその迫力が凄まじかったです。椅子から立ち上がって高らかに朗々とテーマを歌い上げるホルン始めとする金管群。その大音量に抗おうと全力の強奏で美しい高音を響かせる弦。曲は素晴らしい集中力で盛り上がり、クライマックスを迎えて行きました。曲が曲だけに生で聴いて最後盛り上がらないわけがないのですが、その期待の更に上を行く熱演。今回はアンコールはなく、『巨人』の熱気の余韻を残したまま客電が上がったので、帰ってからもずっと頭の中では『巨人』のクライマックスのテーマが鳴っていました。

 やはり生のコンサートというものはいいものです。一度行くと他のもどんどん行きたくなる。さすがにそう頻繁に足繁くというわけにはいきませんが、やはり感性を磨くという意味でもリフレッシュという意味でもこのようなコンサートにはできるだけ行ってみたいものです。

2010年11月11日木曜日

福澤諭吉『学問のすすめ』より

 かの福澤諭吉は『学問のすすめ』の中、文明社会と法の精神の章でこう述べている。今回はちくま新書『学問のすすめ 現代語訳』より引用させていただこう。

 もし、国の政治について不平なところを見つけ、国を害する人物がいると思ったならば、騒がずにこれを政府に訴えるべきであるのに、その政府を差し置いて天に代わって自ら事をなすなどというのは、商売違いもはなはだしい。

 結局、この類の人間は、性質は律義であっても、物事の道理はわかっておらず、国を憂えることは知っていても、どのように憂えていいのかがわかっていない者である。

 例え不便、理不尽に思える法があったとしても、その法が法として定められている以上はどんなに納得いかない物であってもその法を遵守するのが筋であり、それを破ったり、抜け道を探したりすることはあってはならないと説く。そのような場合はその法について政府に訴え、議論をし、その法を改正するか無くすかするように働きかけなければならない。法治国家において、いかなる理由や正義があろうとも法を破ることはあってはならないことで、まずはそのような意識を持つことが必要というわけだ。以上は立法についてのお話だが、これは行政についても全く同様と思える。いくら政府のやり方が理不尽で納得いかないからといって、それを訴えもせず天に代わって自ら事をなすというのは文明社会、法治国家の国民としての意識の低さを憂えざるを得ない。法や行政を無視した独善的な正義は、決して国の正義とはならない。

 もはや遠い歴史上の時代に思える文明開化の最中に福澤諭吉が著したこの本を読むと、志が高いとはこのようなことをいうのだと思い知らされる。『学問のすすめ』が出版されてから130年。日本は彼が求めた理想に近付けているのだろうか。今の日本を彼が見たら、一体何を思うのだろうか。

2010年11月6日土曜日

尖閣諸島映像流出に憤る

 中国との尖閣諸島問題を巡り、とうとう件の中国漁船衝突の証拠とされる映像がYoutubeに"流出"した。国内的にも国際的にも色々な意味で衝撃の大きい事件。正直、今回ばかりは業が煮えている。政治については極力書かないことにしているが、少々言わせてもらおう。

 一番愚かしいと糾弾したいのはまず映像を流出させた犯人(敢えて"犯人"と言わせてもらう)だ。いくらなんでも内部告発でなければ流出は考えにくいデータであることから考えても、恐らくは政府か海保の関係者なのだろう。せめて、リテラシーの低い人間が面白半分で起こした事件だとは考えたくない。きっと尖閣諸島問題についての政府の対応について不満を持っている人間が、国内の民意や現場の心情を顧みないとことん弱腰で情けない日本の外交に一石を投じるつもりで流出させたのだろう。日本政府の鼻を明かそうと思ったのかもしれない。中国にダメージを与えてやろうとしたのかもしれない。しかし、浅薄だ。もしそうであるならば、実に考えが浅薄だ。

 最大の問題は、あの映像が"流出"という形で外に出ても日本の国益には一切ならないことだ。"流出"は"公表"とはまったく意味が違う。"公表"であれば中国政府は即座に対応を検討し(恐らくその場合の対応方法は事前に検討はしてあるだろうが)、迅速に国内・国外に対して何らかの施策をする必要に迫られ、中国の余裕は少なくなる。が、"流出"という形になった場合、今回のように日本政府が対応に追われ公式見解がまとまるまでの間、中国は国内外の世論を静観し、その影響の仕方、度合いを見極めることができる。それだけでも"流出"という形で世に出た映像が、中国に与えることのできる直接的なダメージは小さくなる。つまり、目的のために手段を選ばなかったことにより、目的に対する効果は激減してしまう。そして、覆水盆に返らずとはよく言ったもので、もう一旦"流出"したものを再度政府が公式に"発表"しても、その影響力は絶対に"流出"の時のものを越えられない。日本は尖閣諸島問題に関しての切り札を、"流出"という非常に、非常に情けない形で失ったのだ。自国のことながら情けなく、哀れな話だ。

 そして当然ながら次の段階ではこのような機密情報が"流出"してしまうこと自体が問題となる。政府の管理体制はどうなっていたのか、責任論に発展していくはずだ。ただしこの場合の政府とはイコール現政権の民主党ではない。自民党、ないしはそれ以前から続く、日本の政府や警察等の国家機関の管理体制、内部統制の在り方、情報リテラシーに対する意識の持ち方が追求されてくる。私見だが、どうせ大したリテラシー教育も一般にはなされていないんじゃないかと思っている。今後に関してはその意識改革、管理制度の改革が求められるだろう。

 しかし、管理体制が問題になることで一番憂慮されるのは、今度は諸外国からみた場合の日本の信用問題だ。日本は先に対テロ対策の機密情報まで流出しており、それに続いての今回の尖閣諸島映像流出。諸外国から見たら「日本という国はこんなに簡単に機密が漏えいする国なのか」と思われることになる。機密管理に関する信用を失うことは国防上非常に大きな問題だ。有事の際、あるいは平時の際でも、同盟国ですら日本と機密情報を共有してくれなくなる恐れがある。「日本と機密を共有なんかしたら、自国の機密まで漏えいされちゃうよ。だから何も教えないよ」というわけだ。秘密をすぐ周囲にばらす口の軽い隣人に、好き好んで自分の秘密を話す人間はいない。信用を失うとはそういうことだ。そこが非常に問題になる。機密情報を守れない=信用が足りないということは、日本という国と同盟や友好を結ぶためのモチベーションを著しく下げる。そうなると日本の国際社会での発言力、影響力はどんどん小さくなっていくだろう。むしろ、小さくなっていくだけで済んでくれればいいのだが。

 とにかく、このような形で今回の尖閣諸島映像流出は憂国の事態だと、普段愛国心など微塵も自覚していない私ですら感じている。ところが今回の件に関してYahoo!ニュースが行った意識調査では実に悩ましい結果が出ている。その意識調査は以下のようなものだ。

 何とこの日記を書いている時点で、「歓迎する」が過半数を超え圧倒的1位。これは尖閣諸島に関する政府の弱腰な対応に如何に憤っていた人が多いかを表す結果だと思うが、それにしても思わず心配になるリサーチ結果だ。これまで述べてきたように、この映像流出によって日本が得る国益は非常に少なく、失うものの方が圧倒的に大きい。それにも関らず、このリサーチ結果は"流出"に対して"Yes"と応えるわけだ。それは言葉が悪いのを承知で言えば、日本政府や中国政府に対する一時的なショックだけをみて爽快感を覚え、そこから先の事態まで考えが及んでいない、非常に浅薄な意見のように思える。ネットでの一般投票による調査はサンプリングの範囲や分布・偏りが不透明なので一概にこれが日本国民の民意とは言えないが、それでもこの結果には驚かされる。一体どのような理由で「歓迎する」のか。ただ単に「見れてよかった」という野次馬根性なら論外。「国民に情報を隠すべきでない」という意見は確かに一理あるが、これまで政府が隠していた以上は隠していたなりの意図がある。これまで公開していなかった経緯がある以上、本来は公開するもしないも政府が考えるタイミングで(それが仮に適切なものではなかったとしても)外交の一つのカードとして使われるべきだったのだ。政府は政府なりに、この映像の使い方について考えることは多々あったはずだ。少なくともこれで政府が描いていた証拠映像に関するシナリオは根底から覆された。それが例え拙いものであったとしても、これで政府の思惑は一旦流れが断絶する。この問題とそれに付随する諸々の外交問題は、また一から対策を練り直しだ。それが果たして手放しに歓迎できるだろうか。混乱は、混乱を呼ぶ。

 ここ数年、外交という面では日本は失策続きだ。そしてここに来て米軍基地問題、尖閣諸島問題、北方領土問題と立て続けに騒ぎが起きた末での今回の流出。更にこのタイミングでの朝鮮学校原則無条件無償化。これら外交問題に関しては深くは触れないが、これらを合わせると日本という国は外国がごねれば何でも外国の意思通りにしてくれる国だと思われかねない。機密を漏らすから信用・信頼はできないが、ごねれば言うことを聞いてくれる都合のよい国、というわけだ。そしてこのネットでのリサーチが示す意識の低さ。正直、日本は大丈夫だろうかと心配になってしまう。50年後、日本という国は存在しているのだろうか。そんなことすら考えてしまう。まぁかく言う私もこれまであまり真剣に外交や国防のことについて考えてはこなかったわけだから、あまり大きいことは言えないのだけど。

 それにしたってやれやれだ。