2014年12月19日金曜日

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 ナショナリズムの画期的な研究家として名高いベネディクト・アンダーソン。日本でも右傾化が懸念され、隣国である中国や韓国、北朝鮮の動きも気になる中でナショナリズムとは何かを考えてみたいとずっと思っていた。奇しくもスコットランドやスペイン・カタルーニャ地方の独立騒動もあったこの年、まずはベネディクト・アンダーソン本人の著作の前に、比較的手軽そうな新書から手を出してみようとこの本を手に取った。

 この本の内容は大きく二部に分かれる。前半は2005年4月に国際シンポジウム「グローバリズムと現代アジア」の中で二日間にわたって行われたベネディクト・アンダーソンの講演の収録。そして後半は編著者である梅森直之氏によるアンダーソンを読むに当たっての基本的な考え方の紹介と講演の解題という形になっている。

 自分の勉強も兼ねてこの本の内容をまとめてみようとこの記事を書き始めてみたのだが、これが非常にまとめにくい。これは本の前半に来ているアンダーソンの講演が事前に氏の著作を読んでいることを前提にしているため、予備知識なしで頭から読み進めていくと少々わかりづらい点があるからだ。なのでこの記事は本の内容を書かれている順にまとめていくことはせず、本を読んでここから自分が理解したことをまとめていくような形で進めていくことにする。

 ベネディクト・アンダーソンはナショナリズム、ひいては「国民」「ネーション」という意識はいつどこで、どのようにして生まれ、世界に広がってきたのかを考える。そしてその意識が世界にどのように影響を与え、相互作用してきたのかを注意深く観察していく。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とはアンダーソンの有名な言葉だが、果たしてそれはどのような意味なのか。

 今では「国民」や「ネーション」といった概念は一般に普通に受け入れられている。だが法律的には、例えば日本人なら日本国籍を持つものが日本人でいいはずなのに、実際の「国民」の意識の区切りはそうなっていない。例えば日本に帰化した外国人は日本人か?逆に日本で生まれ育ったが外国に帰化した日本人はどうか?仮に日本に帰化した元横綱・武蔵丸を日本人とみなさず、ノーベル賞受賞時には既に日本国籍のない中村修二氏を日本人とみなすようなことがあるのであれば、その国籍以外の要素で区切られる国民、ネーションの意識とは何なのか。この点をまずアンダーソンは探求する。ナショナリズムとは何なのか。

 それはまず、近代の発明(国籍という制度ができたのと同時に発生した概念)であるはずの「日本人」が、あたかも太古の昔に起源を持ち、今日に至るまで面々と続いてきたと主張する(国民の古代性)。次にそれは、実際にはかなりの人が出たり入ったりしているはずの「日本人」の境界を、閉ざされたものであるかのように装う(国民の閉鎖性)。最後にそれは、さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体に変える(国民の共同性)。-『想像の共同体』より

 この問いへの答えとして、アンダーソンは時間と空間に着目する。どのように人々が時間というものを認識しているのか。宗教的な時間、民俗的な時間、デジタルに刻まれる時間によって、人々の認識がどのように変わるか。また同様に、目に見える景色が、地図に描かれた空間が、人々の認識にどのような影響を与えるか。それがネーションの意識を規定すると。

 時間が何故ネーションの意識を規定するものとなりえるのか。アンダーソンは「2014年12月20日 21時27分」というような日常で用いられる標準的な時間を「均質で空虚な時間」とし、このような標準的で過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間の感覚は歴史の中で発明されたものだと言う。本来歴史や文化によって多様であった時間感覚を、世界共通の「均質で空虚な時間」が浸透することにより人々の間に「同時性」の感覚が生まれた。そのことで世界の人々は時間を共有することが可能になった。かねてより人類学の世界は提唱されている、時間の発明だ。標準的な時間を得ることにより、まず人類は「時間を共有するコミュニティ」としてまとまることになる。

 ここから時間を共有した人々の中にさらに「ネーション」という概念が生まれるには、加えて空間が境界によって区切られなければならない。解放された時間による共有から、空間による細分化によりネーションが生まれる。その役割に、ネーションを境界で区切るきっかけ作りに、貢献したのが言葉だった。ネーションの意識の空間的な源泉として、言葉が通じる範囲、つまりコミュニケート可能な範囲が原初のネーションとして意識されたわけだ。

 標準的な時間と言葉によって区切られた原初のネーションの意識を、さらに細分化し強化したのが「出版資本主義」だとアンダーソンは指摘する。出版資本主義はまず商圏の拡大のために方言を統一化した「標準語」を生み出した。日本語で例えれば、東北弁で書かれた新聞を九州の人がすんなり理解するのは難しいので、便宜的に日本全国で通じる文字通り「標準的な」言葉として標準語が生み出された。これにより出版資本主義は新聞や雑誌を「全国に」売り出すことが可能になる。そして人々は新聞や雑誌を読む度に同じ時間と、言葉によって区切られた空間を共有し、集団への帰属意識を高めていった。このようにして「想像の共同体」は生まれる。

 そして時間と空間で区切られた共同体に愛着を与え、ナショナリズムを生み出すきっかけとなったのが植民地で生まれ育った人々、クレオールだという。決して本国と同等の立場になることのないクレオールの本国に対するコンプレックスはそのまま自らが属する共同体への愛着へと裏返され、そこに「国民」「ナショナリズム」という観念が生まれる。後でまた触れるが、その植民地で生まれたネーションへの強い愛着、「国民」という強い意識が、ナショナリズムとなって一連の植民地解放運動の力となった。

 そして一度生まれた「国民」という概念は模倣可能な「モジュール」となり、模倣を通じて世界中に伝播していくことになる。2005年の公演、この本の前半部では、アンダーソンはそのモジュール化されたナショナリズムが初期グローバリズムの中でどのように世界各地で模倣され、広がっていったかについて語っている。

 もう一つ、クレオール発の国民意識を民衆の意識に自発的に芽生えたボトムアップ的なナショナリズムだとすれば、権力側が民衆を自分たちの帝国により強く結び付けようと意図的に国民意識を植え付けるトップダウン的な「公定ナショナリズム」とアンダーソンが呼ぶものが生まれてくる。これは世界、特にヨーロッパ各地でナショナリズムというモジュールが模倣され、伝播し、民衆運動が盛んになる中、それを脅威に感じた権力が民衆をより強く自国に結び付けておくために試みられた。開国から明治国家形成に至るまでの日本のナショナリズムもここに分類されている。黒船来襲以来、外国の脅威を目の当たりにしたこの時期の日本は、他国に飲みこまれないためにも国民の帰属意識、ナショナリズムを強めていく必要があったのは想像に難くない。

 では実際、上記のように生まれたナショナリズムの概念が19世紀末から始まる初期グローバリズムの中でどのように広がっていったか。グローバリゼーションが生まれる要因も含めてアンダーソンは言及する。グローバリゼーションの発生・発展のきっかけとなった出来事は2つ。1つはモールスによる電信の開発、そしてもう1つは世界中をつなぐ輸送、物流の発展だった。

 およそ130年前、瞬時に情報を世界中に伝えることができる電信の誕生によって初めてグローバリゼーションは可能になり、誕生した。電信は1850年代に急速に世界中に広がり、1870年代には海底ケーブルが主要な海洋をすべて横断し、つなぐまでに発展。やがて絵や写真も送れるようになる。この電信により人類史上初めて、情報が瞬時に世界中を駆け巡る時代が到来する。もちろん現在のインターネットほど便利ではないが、それでも情報が一瞬で世界中に届く時代は、もうこの頃に生まれていた。

 そして汽船や鉄道の整備が世界中で進んでいき、1874年に万国郵便連合が設立されると、手紙、書籍、雑誌、新聞などがこれまでにない規模で国境を越えて大量に輸送されるようになる。これによりローカルにいながらにして世界中の情報、写真等にも触れることができるようになっていく。早くて安全な蒸気船の交通網が発達することで世界の物流は効率化され、海を渡る巨大な人の流れも生まれる。これら電信と輸送の発達を背景に出版と商業がつながり情報がグローバル化したこと、これをアンダーソンは「出版資本主義」と呼んでいる。出版資本主義は先の標準語の発明で商圏をまとめ、さらに翻訳によって世界中に情報を運んでいった。この「出版資本主義」が世界中の植民地で起こるナショナリズムをつなぎ、伝え、そしてそれが世界各地で模倣されたのが初期グローバル化の空間だったとアンダーソンは言う。

 19世紀の末、世界各地で同時多発的に白人帝国主義と植民地の戦いが始まる。ホセ・マルティが起こしたキューバ革命、ホセ・リナールのフィリピン革命、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦い…。発展した電信と輸送は、これらの国々の植民地勢力がお互いに連絡を取り合うことを可能にした。また他の国々は新聞や雑誌等を通じてこれらの植民地解放運動の情勢を知ることとなり、それはあらためて自国の「ネーションとは何か、どうあるべきか」を意識させるきっかけとなった。出版資本主義はネーションの概念を伝えるだけでなく、植民地解放のためにどう戦うかまでもモジュール化し、模倣の助けとなっていた。

 同様の情報伝搬による模倣は19世紀末から20世紀初頭のアナーキズムにおいても起こり、それは世界各国の主導者の暗殺という形で具現化された。アナーキストたちは世界各地の情報をグローバルに見聞きし、模倣し、実行したわけだ。その実行には各地のナショナリストも多く関わった。アナーキストたちは要人の暗殺を世界に対するメッセージとして利用し、それは出版資本主義により世界各地に伝えられ、目論見通りの効果を上げた。

 このように、通信と輸送の発達によって遠い国のナショナリズムやアナーキズムがグローバルに広がっていき、世界中にナショナリズムが強く意識され、芽生え、実行されていく。それが初期グローバル化の時代に起きていたことだった。

では現代はどうだろう。アンダーソン曰く、第二次世界大戦の終結から実に1980年代までナショナリズムはヨーロッパにおいて妖しげな観念に他ならなかった。ヒトラーと様々なナショナリズム、ファシスト政権、日本の軍国主義的帝国主義、それらが引き起こした凄惨な光景を目の当たりしたからこそ、ヨーロッパでナショナリズムは反動的で遅れたもの、研究する価値のないものとみなされていた。しかし1960年代から1970年代にかけて、世界各地で多くの地域が植民地からの独立を勝ち取っていき、75年のポルトガル帝国の崩壊を持って植民地解放の時代が終わる。そしてさらに重要なことに、時期を同じくしてヨーロッパ内部において地域ナショナリズムの萌芽が芽生え始める。スコットランド、ウェールズ、カタルーニヤ、バスク、ブルターニュ、シチリアなど。これら植民地の解放と地域ナショナリズムにより、時代遅れと思われていたナショナリズムは新たな形で勃興していく。

 公演後の質疑応答の中でアンダーソンは今後ナショナリズムによる国家の領土の拡大は考えにくいが、逆にネーションのさらなる分割は充分起こりえると話している。特に脆弱なのはイギリス、ロシア、中国にインド。ヨーロッパではスペインも、と。この講義が行われたのが2005年、本として出版されたのが2007年。その後、世界ではアンダーソンが言及したような事象が多数起きてきている。アラブの春では民衆蜂起によるチュニジア政権崩壊を発端に、ヨルダン、バーレーン、リビア、そしてシリアと次々に飛び火。Facebookを使った情報のやり取りはまさにモジュール化され、模倣されていった。ウクライナではクリミア自治区が騒乱を起こし、スコットランドではイギリスからの独立を問う住民投票が実施された。時期を同じくしてスペイン・カタルーニャ地方でも独立を問う非公式な住民投票が実施されるなど、ここ数年でナショナリズムの動きは活発化しているように思える。隣国中国の尖閣諸島、韓国の竹島での動きももちろんだ。

 これらの動きに対して、この本では予見はしていてもその後どうなるか、どうすべきかという話は出てこない。それはこれから語られるべきこと、あるいは我々が自分で考えていくべきことなのだと思う。

 自分はベネディクト・アンダーソンをレヴィ=ストロースや、あるいはガルシア・マルケスの正当な後継者だと感じた。本人も『想像の共同体』は正真正銘の構造主義的テクストだと思っていたと語っている(ただし、実際にはデリダやフーコーの影響が強く感じられるポスト構造主義的、ポストモダン的なテクストとして受容されたとも語っている。執筆当時アンダーソンはデリダもフーコーも読んだことはなかったそうだけど)。そしてこの『想像の共同体』は意外なことにあのジョージ・ソロスによって旧ソ連内のすべての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本の1つに選ばれている。意外な人物が出てくるものだ。

 最後に、ここ数年また活発化してきているナショナリズムの今後を占うために、『想像の共同体』の時点では考慮されていなかったがその後アンダーソンが重視するようになったというネーションとグローバリズムの関係について触れておきたい。ネーションの比較研究のためにはネーションをあたかも境界づけられた1つの単位であるかのように扱い、比較の物差しをはっきりさせないといけないとアンダーソンは言う。けれども実際のネーションは絶え間ない動きのうちにあり、変化し、他のユニットと相互作用していく。だからこそナショナリズムをグローバルな文脈で比較し、論じるためにはナショナリズムがそこで生じ、変化し、相互作用する重力場について見なくてはいけない。今後の世界情勢を見ていく時、この視点は重要だと感じる。ナショナリズムの動きが世界で活発になってきている現在、アンダーソンのような視点でその動きを解明していく思考は大切ではないだろうか。自分としては今後是非、『想像の共同体』を始めとする氏の著作も読んでいきたい。

2014年12月9日火曜日

日本農政私感-自由競争の前提条件

 突然訪れた衆院選。アベノミクスに対してYESかNOかというような論点が主流のようだが、そんな中今、日本の農政はどのような方向に進むのがよいのか。これまであまり考えを表立っては述べてこなかったが、自分なりの意見をここに書いてみたいと思う。

 まず現在の農業、特に新潟をとりまく状況を簡単に眺めてみる。新潟と言えばやはり生産者の収益やマインドに大きく影響するのは米、特にコシヒカリの動向だ。新潟コシヒカリ(一般)の生産者米価を見てみると、近年だけを見ても2012年に15000円だったものが今年2014年は12000円に下がっている。わずか2年で実に20%の下落。消費低迷や在庫過剰、MA米、TPP(これはどうなるかまだわからないけれど)の現状を考えると今後も米価自体が上がっていく状況にあるとは考えにくい。この見通しが新潟の米生産者の意欲に暗い影を落としている部分があることは正直否めない。

 例えば生産者米価の全国下限が7000円程度になれば国際市場でも価格的に戦えるという。国としてはTPPを見据えてこのレベルまで米価を下げたいという思惑があるらしい。今年の仮渡金の全国下限が8810円。それを7000円まで落とすには現在からさらに2割強価格を落とす計算になるので、同じ割合で新潟コシの価格も下落すると仮定するとその時の価格は約9500円。一万円を切ってしまう。ここ2年で2割生産者米価は落ちたというのに、さらにそこからまた2割落とす。当然その分売上は小さくなり、収益を圧迫する。

 そんな中、国の政策は簡単にいえば大規模化・集約化。若く意欲のある農家に農地を集めて大型機械を導入し、作業の効率化をはかることで生産コストの低減を図り競争力を上げようというもの。でも冷静に考えてほしい。大規模化・集約化程度のことをいくらやったところで、生産者米価の2割下落×2をカバーできるほどのコスト削減ができるだろうか?それほど大きなコスト削減は、ただ単に大型化と集約による効率化だけでは難しいと言わざるをえない。今回の選挙の街頭演説でも一様に候補者は「米の値段が下がる。苦しいです。でも頑張りましょう」と声を張るが、どう頑張れと言うのか?

 さらに言えば機械のコストは上がる一方。大きな要因として鉄や原油等の原料の値上がりがあるが、それ以外に政治的な要因がここにきて大きく響いている。その最たるものがディーゼルエンジンの排ガス規制。この排ガス規制は2014年11月から50馬力以上が、翌2015年9月からは25馬力以上が規制の対象になり、それぞれ排ガスをクリーンにするための装置を付けていかなければならない。その装置を付けることにより機械の実売価格がモノにより違いはあるものの30万円~100万円も跳ね上がる。500万円クラスの機械で100万円上がるケースもある。現在米の生産者が使用しているトラクターやコンバインは個人でも30馬力以上が主流になっているし、大規模な生産法人となれば50馬力以上のものが一般的だ。果樹で使う防除機、ステレオスプレーヤも600L以上のクラスはすべて25馬力以上のディーゼルエンジン。これらが軒並み政治的な理由で、生産性が上がるわけでもない機械の更新により価格が大きく上がる。

 エンジンだけでなくモーターも値上がりする。省エネ法の施行により2015年4月以降生産される機械に関しては現行のモーターよりエネルギー消費効率のよいトップランナーモーターを使用しなければいけなくなる。それによりモーターを使っている機械はモーター一つ当たり軒並み3万円~5万円価格が上がる。米農家の機械でいうなら乾燥機や籾摺機がこの対象になる。農水省の議事録を読んでいると相変わらず農業は省エネやエコに積極的に貢献していくべきだとの論調ばかりでそれに対するコスト面の批判は出ていないようだが、余計なことをやるとコストは上がるということは少しは認識してほしいもの。

 その他ビニールや肥料、農薬といった資材の価格もデフレ下においてですらずっと上昇が続いており、生産物の消費者価格が下がる一方でコストは右肩上がりに上がっていく。

 このように最終生産物の価格が下がっていくのにコストは大きく上がっていく中、農業が生き残るために必要な要素は何か。補助金だったり海外生産だったり色々と考えられることはあるが、一番大事なことは生産物の価格決定権を生産者に与えることだと思う。関税自由化も市場原理による自由競争も結構なことだが、自由競争といいつつ農協等の卸が買い取り価格を一方的に決め、生産者がその価格で出荷するという現在の制度では農業経営も何もあったものじゃない。

 米なんてその最たるもので、昨年の在庫がたくさん残っているから買い取り価格を下げますという指示を全農が出し、民間の業者の買い取り価格すら程度の差はあれそれに準じる。供給過多で値段が下がるのはマクロ経済における神の手として理論上理解できるが、それを卸が勝手にやるのが自由経済なのか。それは神の手ではない。人の手だ。

 去年の米が余ってるから今年の米を安く買いますというのもおかしな話で、去年の古米と新米では誰が食べてもわかるくらい風味には違いがあるのに、それを同列に扱って新米を安く買いますよというのは完全に卸の都合でしかない。本来は次の年の新米が出てくる時分になっても買った米が余ってるのは買った卸の責任で、卸は風味の落ちる古米を安く売る等で在庫処分しなければならないはず。なのに売れ残った責任を生産者に押しつけて自分達は新米を安く買う。そもそもこういったことがまかり通っていること自体が自由競争というならおかしいだろう。卸は次の年まで残らないように見越して米を仕入れ、もし次の新米が出てくるまで在庫があったなら安売りでも何でもして在庫処分。つまり買った分に関しては自分がリスクを負うのが正しい形なのに、そうはならずに卸がリスクを徹底的に押しつけて今の農業界は成り立っている。

 現状は農協が需給を見て価格調整する形で、その代わりに生産者がいくら出しても農協側では(等級等検査はあるものの)買い取りますよという形で成り立っている。少なくとも米に関しては野菜と違ってせっかく作ったものを出荷できずに廃棄というようなことは(一定品質に届いていない分は除いて)起きていない。生産者としては作った米を出荷できないリスクはない代わりに、価格決定権は手放していたという形だ。

 今後は減反廃止に合わせて生産者が需給を見て、例えば主食用米を作るのか飼料用米を作るのかを決めていってほしいと国は言う。そうであるなら合わせて農協等の卸も自己責任で在庫管理を行うようにし、出された分は何でもかんでも全量買い取るという方向を改めるべきだ。卸が主食用米が供給過剰・在庫過多でもう買えないし、生産者も主力用米を作っても売れないという状況で自らの意思でそれでも買い取りをしてもらえる飼料米に生産をシフトするなら話はわかる。けれども今のように卸が主食用米の価格を下げて、仕方がないから飼料用米と補助金で息をするというような在り方はとても自由経済とはいえない。

 だからまず、健全な自由競争を行う上で、農協のような卸があらかじめ価格を決定するのでなく、生産者が価格を決定できることは絶対必要になる。そうして初めてコストの転嫁や需給調整ができる。農協のような卸も米が残ったから安く買うなんてことはできなくなり、自分の仕入れに責任を持たなければいけなくなるから、売れる見込み分しか仕入ないようにするしかない。そのような状況になれば生産者も供給過多で自分が提示した金額で買う卸がいないなら価格を下げようか、あるいは需要が多くて価格を上げられるなら上げようか、それとも何か違ったものを作ろうかという自由競争が行えるようになる。

 農業で自由競争を導入するなら、合わせて農協の解体も必要になってくるだろう。よく言われるのは金融部門の切り離しだが、自分はむしろ集荷・出荷業務、いわゆる農協の卸業の部分のみ切り離し民営化でいいと思う。農協の営農支援や金融は生産者にとって有益な部分も多くあり、むしろ急いで民営化する理由は自分には見当たらない。

 農協の卸業部分を切り離す目的は、民営化・営利化することで農協間の卸業務の価格競争を促進すること。そのために現在広域合併が進み巨大化している農協を、民営化のタイミングで再度細かい地域レベルに細分化する。生産者が最寄りの農協が自分の提示価格で買ってくれなくても簡単に隣近所の農協に買ってくれるかどうか打診できる状況が大事だ。そのような状況を生み出すことで「この価格で出さないなら買わない」と卸の側が強気に出ることを牽制する。農協の卸業務が民営化されれば独禁法の対象外となるので、地域の農協すべてが結託して価格決定ということも当然できない。このようにして自由経済が活動できる場をまず整えることが肝要だ。

 今でも産直ではこのように生産者が価格決定権を持った上で自由経済を営むという動きは出ていて、自分はそれを歓迎している。けれども、一般的に産直でさばける量は農協やスーパーへの出荷と比べると多くはない。一部スーパー等で生産開始前にあらかじめ価格を決定した上での契約栽培等の方法も出てきていているが、それもまだ一般的というには程遠い。だからこそ量を確保できる農協等の卸に対して生産者が価格決定権を持つということは重要になる。

 前提として、生産者側でも原価を正確に管理することは必要だろう。現状、生産コストが正確にいくらかかっていて、品種や作物ごとの利益率はどのくらいかということを正確に把握している生産者は少ない。でもそこをしっかり管理し損益分岐点を正確に把握することで初めて値下げをどこまでできるのかの駆け引きもできるようになる。余談ながら、日本の農業でIT化を導入するとしたら、オランダのIT農業みたいに生産物の管理をする前に、まずこうした労務費も含めたコスト管理の部分から始めるのが費用対効果としては高いのでないかと思っている。それは価格決定権を持った自由競争下で効いてくる投資となる。

 生産者が価格決定権を持ち、農協等の卸が仕入に責任を持つようになることで、国が望むようにTPPを見据えた農産物の輸出にもむしろ対応はしやすくなるだろう。現在は輸出用の米は数少ない業者が主食用米よりも安い価格で買い、生産者側へのメリットとしては輸出米分は減反分として認めることで調整されている。そうではなく、卸は生産者から主食用米と同じ価格で仕入れればいい。仕入れた後国内に売るのか輸出するのかというのは販売する卸の責任であって生産者の問題ではないのだから、輸出するからといって生産者が卸への販売価格を下げる理由は本来ない(始めから輸出用にコストを抑えて安価な品種を契約栽培、といった形は別として)。農産物の輸出を国が促進していきたいというのなら、その分の補助を生産者に出すのでなく輸出を行う卸業社に出せばいい。そうすることで農産物の輸出業者は自動車などの工業製品と同じ「輸出企業」になるわけだから、そのサポートはこの国は手慣れたもの。円安誘導もできるし、法人税の特例措置で税金下げてもいいし、輸出量に応じて補助金を出してもいい。国も大好きなグローバル企業と同じ扱いで農業の促進もできるようになるのだから、むしろ扱いやすくなるのではないだろうか。円安で日本の農産物価格が安くなり海外需要が増えれば、卸はどんどん国内の農産物を仕入れればいい。そのサイクルがうまく回れば国外へ向けての供給が増え生産者価格も上がり、農業の景気もよくなるだろう。何しろ世界的に見れば今も、そして今後はもっと、食糧は不足しているのだから。

 まとめると、自分が考える今後の農業の理想形は大雑把に以下のようになる。

 ・生産者が生産物に対して価格決定権を持つ
 ・農協の卸部門は切り離し、民営化する
 ・卸は仕入れた生産物の販売を生産者に責任を押し付けず自己責任で行う
 ・生産者はコスト管理をより厳密に行う

 最低限上記をクリアすることで市場原理の中で農業が自由競争を行う準備が整うことになる。その上で、卸が販路を国内だけに向けるのでなく海外へ輸出するという動きを、国には精一杯サポートしてほしい。人口減少時代に入る日本では、国内需要を大きく伸ばすことは難しい。それよりも今後食糧不足が深刻になる世界に向けて食糧を供給していくことが明るい道だ。自分はそう考える。

 今回は特に大規模大量生産の一般的な農業生産者が発展するための条件について書いてみたが、これとは別に品質やブランド化にこだわり、プレミアのついた生産物を少量生産することで発展する道もあると思う。あまり肯定的ではないけれど六次産業化なども実はこちらの道だ。こちらについてはまた、いつか改めて書いてみたい。

 …で、このように思い描いているヴィジョンを現実のものとするためには、自分は今回の衆院選、一体どこに投票すればよいのだろう???

2014年12月1日月曜日

雑記帳を振りかえって

 先にお知らせしました通り、当『あゆむの雑記帳』は2014年11月一杯をもってこのGoogle Bloggerに引越をいたしました。このタイミングで一つ、究極の自己満企画としてこの雑記帳のこれまでの歴史を、自分用の記録の意味も含めて振り返ってみたいと思います。

 かねてより7月7日を「この雑記帳の公開記念日」としているように、さくらのサーバにHTMLをアップしてインターネットで公開を始めたのが1998年7月7日。自分が大学2年の時です。が、公開前の記録も僅かながら今でも辿れる部分があります。それによると同年5月24日、この日に初めて『あゆむの雑記帳』の原形がサーバにアップされたようです。といっても学内からのみアクセス可能なサーバで、まだインターネットに公開したわけではありません。HTMLやホームページ作成のお勉強も兼ねて、イントラネット内に上げただけでした。このころはページのタイトルが『Beyond the Dayunite』となっていて、背景は公開時のようなノートスタイルではなく黒一色だった、…ということですが、そのデザインはおぼろげに記憶には残っているものの、記録には残っていないので今となってはどのようなものだったか…。

そして6月17日にデザインを一新、初代『あゆむの雑記帳』として公開された時の左のようなノートを意識したデザインに変わります。縦フレーム使って左にメニュー、右にコンテンツ。当時このスタイル流行ってました。ボタンの画像やロゴも、当時大したアプリも持ってなかったし、今みたいにフリーの画像加工ソフトもない中クラリスワークスやGraphic Converterで一生懸命作った記憶があります。何もかもが懐かしい…。スクショはバックアップして取っておいてあいた当時のHTMLファイルを開いて撮りました。

 このデザインに変更後、とりあえず公開できる体裁は整ったと判断したのか、6月23日に学内のサーバながらインターネットに公開できる位置にとうとう雑記帳のHTMLをアップします。仮公開というわけですね。そしてその後、さくらインターネットのレンタルサーバーで正式公開を始めたのが当HPの開設記念日としている7月7日ということになります。当時のURLは「http://na.sakura.ne.jp/~ayum/」でした。そのタイミングでいささかのJavaScriptも装備。ただ時間ごとに表示するメッセージを変えるだけの簡単なスクリプトではありますが、当時の自分は大満足でした。夜11時台に表示される「テレホーダイだ!戦闘開始!!!」というメッセージなど、実に時代性を表していてノスタルジックです。そう、当時はまだ今みたいなネットへの常時接続なんてなくて、ISPに電話をかけて回線をつなぐダイヤルアップしかなかったのですよね。だから当然電話代が普通にかかる。日中好きなようにネットにつなぎっ放しにしていると電話代の請求がとんでもないことになるので、多くの人は夜11時~翌朝7時までの間、あらかじめ登録してある特定電話番号への電話がかけ放題になる『テレホーダイ』なるサービスを利用してインターネットを利用していたわけです。だから夜11時を過ぎると如実にネットが賑わい始める。そんな時代でした。テレホタイムという言葉も今は昔、ですね。あのダイヤルアップルータがつながる時の「ピッポッポッパッパッパ…、ガーーーッ、キーンキーンキーン」みたいな音が懐かしい(笑)。

 当時既にHomepage BuilderやPageMillみたいないわゆるホームページ作成ソフトは出回っていたし、いくつかは持っていたのですが、そこは敢えてHTML手打ちにこだわり、テキストエディタJEdit2を使ってEUCエンコードで、ひたすら手組でHTML組んでHPを作成してました。ホームページ作成ソフト使うと色々と余計なタグが付与されるのが気に入らなかったんですよね。なので左のような過去のアーカイブへのリンク、これもある程度まとまった時点でHTML分けてリンク作って…、っていちいち手でやってたわけです。う~ん、頑張ってましたねぇ、自分(笑)。

 この初代雑記帳にはPerlによるCGIでBBSなど用意してありまして、大学の仲間なんかはよくそのBBSへの書き込みで盛り上がったものです。そういう意味ではこの頃が一番訪問者も賑やかだったと思います。

しばらくは上記のような体制で運営していた雑記帳ですが、2000年台に入りHTML手打ちも時代の趨勢に合ってないなというのと、当時仕事でMovable TypeだのXoopsだのいじる機会もあったので、そろそろ自分のHPもシステム化しようかと考え始めました。それで準備を始めたのが記録によれば2004年10月。自分のMacbookにMovable Typeを入れたという記録が残っています。それ以降コツコツとデザインを作っていったりコメントスパム対策入れてみたりと準備を進めていき、最終的にドメインも取得してayum.jpとして公開したのは翌2005年7月31日。元の記事では7月31日になってるのですが、Blogger移行時に何故か記事の日付が8月1日としてインポートされた様子。原因究明はさておき、ほぼ2005年8月1日からMovable Typeによる新体制『あゆむの雑記帳』がスタートしたわけです。

デザインはネットでフリーで公開されていたテンプレートをベースに、トップページは3カラムながら日記等の詳細に入ると2カラムで広く表示、というスタイルにこだわりカスタマイズ。シンプルでスッキリ見やすいデザインは気に入っていました。自分でデザインやるとなかなかこうはできないですね(苦笑)。

 Movable Type導入で一番助かったのはやはり更新時にHTMLを手打ちしなくても済むようになったこと。おかげで更新の労力は大分少なくなりました。ただ、やはり記事中に画像を入れようと思ったらテーブルを手で組まないと並ばないんですよね。画像のアップロード機能もちょっと頼りないので、結局自分でサーバに直接アップしたり。それでもこのシステムで9年半、さすがに親しんできたので乗り換えるのはやや寂しい思いもあったのは確かです。でも次第にスパムのコメントやトラックバックに悩まされるようになってきて、ここ1年はどちらも完全に閉鎖してしまうありさまでしたから、システム的にもさすがに寿命だったと考えています。コメント欄の閉鎖の代わりに、Facebookのソーシャルプラグインを埋め込んでFB経由でコメントをできるようにはしてみましたが、それほど活用はされませんでした。やっぱり基本的に日本ではネットは匿名文化ですからね。FBの中だけでならまだしも、FBの外でまで実名でコメントしようってのはなかなか心理的にもハードル高いのかもしれません。

 そして今、2014年12月からこのGoogle Bloggerでの運用が始まるわけです。HTMLファイルからシステムに移行した前回と違い、今回はシステムからシステムへの移行なので準備期間はかなり短く済みました。Movable Typeからデータをエクスポートして、Movable TypeのデータをBloggerへのインポート用の形式に変換してくれるMovabletype2Bloggerというサービスを用いてデータを変換、Bloggerへインポートで済みます。簡単です。過去記事をHTMLからコピペして一つ一つ移行していた前回から比べると天国のようです。とはいえそれなりの年月が経ち記事数が増えたこの雑記帳、一日のインポート数の上限に引っかかったりなんだりで少しは手間もあったのですが、それでも前回に比べれば遥かに楽です。およそ1580の日記が暇を見ての作業で一週間程度で完了するんだから大したものです。前回はシステム構築からデータ移行まで、全工程で半年以上かかっているというのに、引越しを決断したのが11月中旬で、その月のうちにもう公開までこぎつけるのだから素晴らしい。今のブログサービスはデザインの変更のしやすさ等も含めてとてもユーザビリティしっかりしてます。投稿時の画像の埋め込み、レイアウトが簡単にできるのも非常にいい。ローカルからのアップロードだけでなくてPicasaウェブアルバムからも取ってこられるのは嬉しいです。まぁいいことばかりでもなく、これを書いている現時点では設置したブログ内検索で自分のブログを検索しても何も引っかかってこないとかあるわけですが。DB内を直接検索してるわけではなくて、あくまでGoogleのブログ検索を利用しているわけですからクロールされるまでのタイムラグがどうしてもあるわけですね。そればかりは仕方ない。

 さてさて、こまごまとこの雑記帳の歴史を語ってみました。思い返せば色々なことがあるわけですが、16年を超える月日を細々と続けてきたこのページ、新しいサービスに引越しはしましたがまだまだこれからも続けていく所存です。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

2014年11月30日日曜日

あゆむの雑記帳 引越のお知らせ

 突然ではありますが、この『あゆむの雑記帳』、現在のhttp://www.ayum.jp/から引越を行います。新しいURLは以下の通り。

http://ayumnote.blogspot.jp/

 1998年7月7日のオープンから16年超、この雑記帳はさくらのレンタルサーバを使って自分のサーバスペースにおいて運営してきましたが、今後はGoogle Bloggerを利用させていただきまして、そのサービス内で運営を進めていくことにいたしました。

 このタイミングで自分でのインフラ運営から一般のサービスに乗り換えるのには色々と理由があるのですが、一番大きいのは現在ブログのフレームワークとして利用しているMovable Typeのシステムとしての陳腐化・老朽化です。現在利用しているバージョンがMovable Type 3.171-ja。このバージョンだと今ネットワークに跋扈しているスパムコメントやトラックバックを防ぐことができず、放っておくとすぐにブログ記事がスパムで埋まってしまうのです。業を煮やしてここ1年以上はコメントやトラックバックも閉鎖して対応してきましたが、そうすると今度は当然ながら読んでくれた方からのフィードバックも全く受け取ることができない。毎回反応が得られることは最初から期待はしていないにせよ、いくら書いてもまったく反応が返ってこないというのはまた記事を書くモチベーションを無くすものです。その点Google Bloggerのサービスならスパム対策は基本システムに任せておけばいいので、安心してコメント機能を利用することができます。

 Movable Typeもバージョンアップすればいいのですが、3から4に変わった段階でデザインのテンプレートの仕様が結構変わってしまっていて、結構ゴリゴリとカスタマイズを入れた『あゆむの雑記帳』のデザインはそのまま移行ができなかったんですよね。で、デザインに対する情熱が比較的低く、その面倒な移行作業を行う気力を持てない自分は「いつかバージョンアップしなきゃな」と思いつつもここまで来てしまったのです。さらにはさくらのレンタルサーバで利用しているMySQLまでバージョンが古くなってさくらの運営からサポート期限切れの連絡が来てしまう有様。これはもう限界だなと、自分でのインフラ運営を諦めることにいたしました。

 Movale TypeからGoogle Bloggerへは一応データ移行の手段があるので、過去記事といただいたコメントは可能な限り新しい雑記帳に移してあります。デザインはGoogle君が用意してくれたものほとんどそのままですが、まぁそこそこいい感じだし、ま、いっかみたいな…。こちらも簡単に変えられるので、もしかしたら今後突然変えるかもわかりません。

 このayum.jpのドメインは当面移行せずにこのまま残しておくので、旧URLも相当期間生きる予定ではありますが、とりあえず本日をもってこちらayum.jpの更新は終了させていただきまして、今後はhttp://ayumnote.blogspot.jp/の方にて『あゆむの雑記帳』は続けていきたいと思います。訪れてくださる皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

2014年11月25日火曜日

モンゴル旅行記-4

  テレルジでの長い夜の翌日は、再びウランバートルに戻ります。この日はモンゴルでは珍しいという雨模様の天気で、草原にも雲のように濃い霧が立ち込めていました。霧のモンゴルというのもなかなか珍しいそう。青空の爽やかさ、解放感とは違いますが、そう考えるとこの霧の景色もこれはこれでまた味があるのはないかと思えてきます。そんな文字通り靄に包まれた景色の中、テレルジのツーリストキャンプからウランバートルに戻る途中に立ち寄ったのがこちら、亀岩。なるほど、亀岩です。説明の必要がないくらい亀岩です。ただそれだけの名物なのですが、あれは確かに亀岩でした。

 そしてまた、3時間弱程度バスに揺られながらウランバートルへと戻っていきます。途中ガソリンスタンドで衝立だけのモンゴリアン・ぼっとん便所を体験してみたり、見事に渋滞にはまったりしながら次の目的地である日本人墓地を目指します。


 モンゴルに日本人墓地があるとは、実は知らない人も多いのではないでしょうか。かくいう自分も正直申しますと、ノモンハン事件のことは概略程度に知っていても、そこで捕虜となり抑留された日本人とその墓地についてはまったく知らなかったのが正直というところです。

 ノモンハン事件は大雑把にいえば1939年に当時大日本帝国として満州を治めていた日本とモンゴルの国境における接触から、当時モンゴルの後ろ盾となっていたソ連を含めた国境際の争いになった、比較的短期間ながら、しかし確かに戦闘を伴った"戦争"です。きっかけは国境際の関東軍とモンゴル軍の偶発的な遭遇・交戦(と言われてはいるけれど真相は今のところ闇)ですが、時はまさに第二次世界大戦開戦前夜、当時の日本の状況を考えるとやはりモンゴルまで満州の領土を拡大・侵略しようという思惑は少なからずあったことでしょう。この1年に満たない戦争に満州(日本)は敗れ、そこで捕虜となった日本兵は抑留・強制労働という運命を辿ります。その数は数十人と言う人もいれば3000人という説もありますが、それらの捕虜となった日本兵は再び祖国の地を踏むことなく、モンゴルに命を散らせることになりました。写真がその日本人墓地。実際の献花台というか、祈祷台はこの上なのですが、この円盤には矢印で「日本はこちら」と方向が示してあります。日本に、帰りたかったことだろうと思います。その遂げられなかった思いの辛さは、自分にはわかるとはとても言えませんが、そう、やはり、言葉にするのならば無念だったことだろうと思います。だからこそ、そうした思いを後世がしないために戦争は起こしてはならないのだと改めて痛感しました。

 余談ながらこの日本人墓地、現日本国首相であられる安部氏の献花はキッチリとしてありました。うん、多くは語りませんがこういう部分はしっかりしてるんだなと。多くは語りませんが。

そしてモンゴルで驚いたことといえば、その交通マナーにひどくビックリしました。何が凄いってその道路横断。歩行者が信号のない道路を渡る時、日本であれば手前側車線も向こう側の車線も車が来なくなったタイミングを見計らって一気に道路を渡るのが普通かと思いますが、モンゴルでは違います。とりあえず手前側が空いたらまず中央線まで渡ってしまうのです。そして向こう側の車線が空いたら中央線から向こう側へ。この道路横断方法を、自分は勝手に「モンゴリアン道路横断」と名付けたわけですが、この横断方法が一般的なためにモンゴルの道路の中央線にはとにかく人がたくさん立ってます。ウランバートルも結構車社会で、道路にはたくさんの車がビュンビュン走ってるのにその混雑した道路の中央線にはまた歩行者がたくさんいるわけです。日本の感覚で言えばなかなかにデンジャラス。でもそれがモンゴルでは普通。これは是非一度やってみようと、自分も自由時間に散歩してちょっとやってみました。中央線で立ち止まるモンゴリアン道路横断。うん、おっかなかったです…。そして車もまた走りながら物凄い狭い隙間に容赦なく突っ込んでくるんですよね。あれでよく事故らないなと思ってしまいますが、実際のところ滞在中に数回事故も見たのでやっぱり事故ってはいるのでしょう。路駐だらけの香港と比べると駐車には余裕があるようですが、走っている時の危険度は圧倒的にモンゴル危ないです。正直自分はここで車は運転したくないなと思いましたとさ。

そんな楽しかったモンゴルの旅も当然終わりが訪れます。お土産を買うために立ち寄った国営の商業施設ノミンデパートではチンギス・ハン・ウォッカと、写真の民族楽器、ドンブラを買ってきました。馬頭琴を買うかこのドンブラにするか凄く迷った、というかそもそも楽器を買って帰るか凄く迷ったのですが、最後は伯父の「買いたいものを買った方がいいよ」との一言でこのドンブラの購入を決意。帰りの飛行機でずっと大事に抱えて日本まで持ち帰ってきました。カザフ族のギターだというこのドンブラ。調弦もよくわからないのでその場ではとりあえずギターの3、4弦と同じチューニングに合わせて、ちょろちょろと道すがら弾いたりしてご機嫌になってました。弾いてよし、飾ってよし、モンゴルといえば馬頭琴というイメージのところに敢えてのこのドンブラ。お気に入りです。家に着いたら妻が驚くかなとワクワクしてましたが、「てっきり馬頭琴買ってくると思ってたけどまた変な楽器を…」くらいのノリで、楽器を持ちかえってくること自体は想定の範囲内だったところがさすが我が妻です。

 初めて訪れたモンゴル。行く前は正直「こんな機会でもなければ行かないし」程度の気持ちであまり期待値は高くなかったのですが、実際にいってみたら実に素晴らしいところでした。そのモンゴルの伝統と旧ソ連がミクスチャーされた街並みや文化、日本の生活とはまったく違った在り方で暮らす人々の姿、そして雄大な大自然。どれ一つ取って見ても新鮮で、これまでの価値観を覆すほどのインパクトがあって。モンゴルに滞在したのは実質3日ほどだったわけですが、本当にいい体験をさせてもらいました。できればまた行きたいものです。子供らも、いつか連れていって一緒にあの大自然を体験させてあげたいなと思いましたよ。

2014年11月24日月曜日

モンゴル旅行記-3

 大分間が開いてしまいまいたモンゴル旅行記、お話はいよいよこの旅で仕事としてではなく人生経験として最も楽しかった時間、テレルジでの午後に移っていきます。この日の午後はテレルジのツーリストキャンプに到着後、現地の遊牧民の家庭訪問を行いお話を聞き、その後乗馬体験、そして夕食という予定。2班に分かれ、それぞれのスケジュールをこなしていきます。

 自分の班はまずモンゴルの遊牧民の家庭訪問。これはもう実際に遊牧で暮らしている方のゲルに訪問して直接話をおうかがいするという貴重な体験でした。例えばゲル一つとってもツーリストキャンプのきれいにスッキリ片づけられたものでなく、テレビや毛布等がそこら辺に出ている生活感が溢れるもの。そこでもうお馴染みになってきたモンゴルのお菓子等振る舞われながら、先方のお話を聞いたりこちらから質問したり。印象的だったのは、「自分も若い頃はウランバートルで働いていたが、親が早くになくなってしまいこちらに戻ってきて遊牧民を継いだ」という話。何と言うか、その継ぐ継がないのノリが日本の農家と似たところあるなと思ったのです。というか、ああ、遊牧民って「継ぐ」ものなのかと。遊牧民は自然とそのまま遊牧民になるのでなく、この現代ではやはり若いのは都会に出て就職したりする選択肢も当然あって、その中で継ぐか継がないか、そういった家庭の葛藤があるのは、やはり日本の農家もモンゴルの遊牧民も変わらないのだなと、そう思ったわけです。歴史ある古い職業、生き方は、どうしても現代という時代と交錯していく。どの国でも、きっと難しい問題なのでしょう。

 ところで、自分たちが遊牧民の家庭におうかがいした時はちょうどそのゲルの住人の方の親戚たちがウランバートルから遊びに来ていたそうで、ゲルの外では10人を超える大人数、それも皆若くてTシャツとか着てるような都会の人達が、輪になって座って団欒をしていました。そして親戚が集まるというので、左の写真のようなモンゴル料理を作ってこれから食べるところだというのです。これはモンゴルでも特別な時にしか作らない料理だそうで、羊肉に少々の野菜を入れて、少しくらい岩塩か何かで味付けしてあるのかな?、それを熱した石を中に入れて石焼きにするという、実にワイルドな料理です。折角来たのだから一緒に食べていけという家主のお言葉に甘えて、ちょうどできたてのこの料理をいただいてきました。羊肉は脂ギトギトで、持つともう手が火傷するくらい熱くて。でもこれがまたホントに、素晴らしく美味しいのです。羊肉の独特の匂いも全然なく、脂っぽくて胸が悪くなるかと言えば全然そんなこともなく、柔らかくてジューシーで肉の旨みがダイレクトにワイルドに伝わってくる。こんなに美味しい羊肉を食べたのは初めてでした。真面目にちょっと感動したくらい。この時の羊肉があまりに美味しかったので、帰国後ふとした機会に羊肉を食べてみたのですが、固いし臭みもあるし、あまり美味しくありませんでした…。何が違うんでしょうかね。品種か環境か鮮度か…。あるいはこの、広大な草原と青空の下で食べるというただそれだけで、もしかしたら美味しく感じられるものなのかもしれませんが。ああ、あの料理また食べたい。

モンゴルでは子供ももちろんこの羊肉食べます。モンゴルでは立って食べる風習はないので、写真のように草原でも当然のように敷物なしで直座り。右のお父さん、実にいい味出してます。このお父さんが羊の骨の際の肉をナイフで薄いベーコンのように切って、自分に「食べるか?」とジェスチャーで差しだしてくれたのです。またその肉が分厚くてジューシーな肉と違ってカリカリとして美味しかったのです。このように現地の人達に混ざって、皆で輪になり入り乱れ、この切れ目ない草原と青空の下で同じ肉を食べる。それは素敵な経験でした。そして何と言うか、「こんな生き方もあるんだな」と思ったのです。この大きな自然と、文字通り寄り添って、最低限の電気とかは使うにしても、あくせくした現代社会とは離れた場所で異なった価値観を生きる。もちろん遊牧民もお金を得るためには遊牧を商売にしないといけないですから、日本の農家同様、様々な苦労もあるのでしょう。その部分は今回まったく見てないわけで無責任な言い方かもしれませんが、凄く自由に身軽に思えたのです。家にも土地にも縛れる農家よりも、移動可能なゲルを自宅に土地を回りながら、それこそ持ち歩ける量の家財とともに暮らす遊牧民。これは今までの自分の価値観にはないものでした。

 余談ながらもう一つ意外だったのが、遊牧民の移動距離。実際のところ現代の遊牧民はそう何十キロ何百キロと移動して回ることはなく、決まった土地、半径数キロくらいを草が生える期間を置いてローテーションで遊牧するというのが一般的だということ。なので気ままに風の吹くまま、という勝手な印象とは少々違うようです。

ツーリストキャンプに戻った後は乗馬体験。いや日本でも何回か簡単な乗馬体験はしたことありますが、正直自分の人生でモンゴルの草原で馬に乗る日が来ようとはまったく思っていませんでした。そもそも今回こんな機会でもなければ恐らく自分からはモンゴルに来ようなどという発想はなかっただろうから当然なんですけれども。これもまぁ、当然のことながら気持ちよかった。乗馬と言っても特別訓練をしてから乗るわけでもないので、速度は全然あげません。せいぜい早足程度。馬もなかなか気まぐれで、歩いていたかと思うと突然歩を止めて足もとの草をモグモグと食べ始めたりします。でもその気ままさも含めて、雨が降る直前の少しひんやりした肌を冷やす空気も、とても心地よく爽快に感じられました。いや、モンゴルで乗馬ですよ?『スーホの白い馬』の世界です。ご覧の通り自分が乗ったのは白い馬ではないですけれど、うん、いいですよね。


そして乗馬が終わり、モンゴル相撲の模擬試合を観戦した後の自由時間、自分は一人で周囲をブラブラと散歩してみました。自分たちが泊まるゲルの裏はすぐ小さな丘になっていて、その向こうは下からは見渡せないような感じになっています。どうも見てみると立ち入り禁止っぽい柵が頂上には張られているわけですが、とりあえずそこまでは行って景色を見てみたいなと、そう思ったのです。せっかく来たモンゴル。次はいつ来るかなんてわかりません。どうせなら見られる景色は見ておきたいなと、10分か15分ほど丘を一人で登って、その頂上から反対側を見た景色が左の写真です。この日は珍しく雨が降るということで、空の上には雨雲がかかっていましたが、それすら広い空を覆い尽くすということはなく、地面も雲の切れ目に光が差すのが見てとれる、広大に開けた視界。自分が立っている頭上にはこの時雨雲が来ていて曇った薄暗い空だったわけですが、遥か遠くには白い雲と青い空が広がっているのが見えるわけです。広いですね、大地は。これは壮観な眺めでした。

 この日の夕食は賑やかで、一緒に視察に来た皆さんはもちろん、現地のパートナー企業の方々も一緒にツーリストキャンプの食堂でわいわいと騒ぎます。夏のモンゴルの日暮れは遅いので、夜7時8時になっても外は全然明るいままです。そんな中、現地のパートナー企業の方々がこの日のディナーにサプライズとして用意してくれたのがモンゴルの民族音楽バンドKhusugtun(フスグトゥン)のコンサート。これが最高にカッコよかったのです。馬頭琴やドンブラといった民族楽器はもちろん、ホーミーも生で聴くことができたのです。これが凄かった。低く唸るような歌声の上に、まるで笛のような高い歌が聴こえる。最初はどこでその音が鳴ってるのかわかりませんでした。ところがよく聴くと左から2番目の馬頭琴の人、その人から歌が聴こえてくる。口から音が出るのでなく、頭の上で天に向かって高い音が伸びていくような。これは震えました。人間、こんな歌い方ができるものなのかと。低い歌と高い歌、2つの音が同時に一人の人間の全然違う場所で鳴っているのです。昔音楽の時間にホーミーの紹介があった時、ビデオで現地の方が「ホーミーは勝手に練習をするとアバラが折れる」とか語っていたのを何故か覚えているのですが、実際生で聴いてみるとなるほどあの発声の仕方なら独学でやろうとしたらアバラくらい折れるかもしれないなと。実に衝撃的でした。この動画はその日の最後のアンコール、『モンゴル』という曲です。実にカッコいい!


 そのようにして楽しい宴は続き、一旦食堂でお開きになった後も日付が変わるまでゲルに集まった人で持ち寄った酒を飲んだりして、テレルジでの夜は更けていきました。たっぷりと人生観まで変わるような、たくさんの刺激を受けた素晴らしい一日でした。

2014年7月8日火曜日

モンゴル旅行記-2

  今回のモンゴル研修、14日はお勉強というよりはモンゴル体験を目的とした一日。ウランバートルを出て、およそ80kmほど離れているというテレルジ国立公園へ向かいます。テレルジはツーリスト向け観光地となっていて、観光客向けにゲルでの宿泊等ができ、シャワーや食堂も設置された体のいいツーリスト・キャンプです。とはいえ電気が使えるのかもよくわからないし、シャワーはお湯が突然水になるなんてザラだというし、そもそも日本ですらほとんどキャンプをしたことがない自分にとって、このテレルジでの一日がどんなものになるか、行く前は旅程の中で一番楽しみにしていた半面、不安も結構あったのが正直なところです。それでも道中、ウランバートルの終端のゲートをくぐると、そこからは昨日同様どんどん景色が変わっていって、洋風のレンガ積みの家があったと思えばそれにゲルが混じってきて、本格的な草原に入ったと思ったらそこに突然工場が現れたりと、窓の外を見ているだけでまたその日本ではおよそ見られない風景にテンションが上がってきて、その小さな不安は忘却の彼方に消えていきました。

   そのようにして草原をしばらく走っていくと、突如として現れるのがこの巨大なチンギス・ハーン像。風景の中に突如脈絡なく現れる巨大な像という点で、石川は加賀温泉の慈母観世音菩薩を思い出させます。でもきれいに風景に溶け込んでるから加賀観音ほどのシュールさはないですね。広大な丘と草原、そして青空に囲まれて立つ様はまさに大チンギス・ハーン。モンゴルでは至る所にチンギス・ハーンの像やブランドがある辺り、今でも相当な信仰があるのだなと感じられます。新潟における田中角栄より、もっとブランド力ある感じでしょうか。今後はこの像の周りに騎馬兵の像をたくさん建立して並べていくそうで、お金を出せばその兵を自分の顔にすることができるとか。一体いくらくらいでできるんでしょうね?若干気になります。その他、ここでは2000トゥグルグ払うと鷲を腕に乗せてくれる商売があったりして、自分もやってきました。結構ねぇ、重いんですよ鷲。空飛ぶ鳥だから見た目の割に軽いんだろうなと思って油断してたら、案外見た目通りに重い。これもいい体験でした。

   チンギス・ハーン像を出た後、次に立ち寄ったのがこの御坊。モンゴルにチベット仏教が入ってくる以前のシャーマニズムの聖地のようなものだそうで、このように石を積み上げて青い布等で飾って祀る、日本で言うなら地蔵のような感じでしょうか。長い旅に出る際は自分の村の御坊の周りを3回回って道中の安全を祈願するのがしきたりだそうで、我々も式に則ってやってきました。まず御坊の周りにある小石を3つあらかじめ拾っておき、1回回るごとに1つ、御坊に石を投げていくそうです。3回終わると手の中の石もなくなる。そのようにして、古のモンゴルの旅人は安全を祈っていたのだとか。今回のように大勢で周囲をグルグル回ると、絵面的には若干シュールな感じになりますが、そのシュールさがまた宗教っぽくてちょっといい感じだったりもしました。

 そしていよいよテレルジ国立公園の宿泊場所、ツーリスト・キャンプに到着します。ここは本当に風光明媚なところで、空が晴れている時であれば本当に気持ちがいい。よく撮れた写真を何枚か、これもFBに上げてあります。着いてから少々自由時間もあったので、辺りをちょっと散歩してみます。寝泊まりする場所であるゲルのところはさすがに舗装された道があるのですが、そこを出るともう後はただ草原。道もなく、当てもなく、ただ気持ちいい空、風、草と土の感触を確かめながら歩いていく。なかなかそんな散歩はできないなと、旅特有の幸せな高揚感の中で思いました。道がないのがいいのです。どこを歩いてもいい。道があって、歩くべきルートが決まっていて、辿り着くべき場所がある、そんな歩き方じゃなくてもいいじゃないかと、この岩山と草の丘に囲まれた、広大な大地でぼんやりと考えました。何だか、人生にも通じそうですね。この日の天気はモンゴルにしては珍しく少し不安定で、自分が散歩をしている間でも曇ったり晴れたり忙しく空模様は変わっていきましたが、青空におもちゃみたいな白い雲がぽかーんと浮かんだ草原は、何だかその真ん中にいるだけで気分がよくなる素敵な場所でした。よく「小さなことなんかどうでもよくなる」とか言いますが、そんな感じでもなく、どうでもよくなるのでなくただただ自然と気持ちいい開放感。この風景はそんな気分にさせてくれます。


 お楽しみここで我々が宿泊するゲルは4人部屋でこのような感じでした。装飾もきれいなところですが、昼間であれば天窓から入る明りで、電機などつけなくても普通に明るい。特に生活するには支障がない程度の明りは天窓からの自然光だけで充分確保できていました。やっぱりこのゲルというものも、機能的によく考えられているんですね。このキャンプのゲルは違いますが、昨日お邪魔したトマト農家の方のゲルではソーラー発電で電気を確保していたりして、現代のゲルはさらに機能性を増している様子です。

 そしてこの後まだ、このテレルジではモンゴルの遊牧民の一般家庭を訪問し、乗馬体験をしと、モンゴルならではの刺激的な体験が続いていくわけです。

2014年7月7日月曜日

モンゴル旅行記-1


  さてさて、七夕が開設記念日のこの雑記帳。16年目となる今年は先日行ったモンゴルについての旅行記など、久しぶりの更新となりますが書いてみたいと思います。

 去る6月12日~16日にかけて、新潟クボタが創立50周年記念事業の一環として行っている農機具屋の後継者研修の一環として、自分はモンゴルに行ってきました。12日と16日はまるまる移動日となっていますので、正味3日間の行程です。正直それまでモンゴルなんて行こうと思ったことはなかったのですが、これが行ってみたら実に素晴らしい。昨秋香港に行った時は初めての海外旅行ながら一応英語も通じるし、基本的に東京と同じような都市で治安もよく、「まぁまぁ何とかなるかな」くらいの旅でしたが、このモンゴルは全然違う。風景も、料理も、人々の暮らしぶりも日本とはまったく違い、アジアに通じる文化を底に置きながらそこにロシアの影響は色濃く受けつつも、欧米風の文化とも明らかに違う。もちろん英語なんて一部でしか通じない。文字通りカルチャーショックと言いますか、こんな風景の中でこのような暮しが実際に行われているのかと、それこそ価値観が変わるくらい刺激的な旅となりました。その意味で実に海外旅行らしい、刺激的な体験だったなと思っています。

12日の朝に新潟空港を出て、その日は仁川を経由してウランバートルに着くのが深夜11時過ぎ。ホテルに到着した時には深夜0時を回っていて、それでいて翌朝8時にはホテルを出発というなかなかの強行軍で始まったモンゴル研修。まず行くのはモンゴルでトマトを栽培している農家さんのところです。元々は新潟の農家さんのところに研修に来ていた方だそう。モンゴルでは野菜を食べる文化があまりなく、トマト栽培も周辺ではその方くらいしかやっていないとか。この農家さんの研修面でのレポートはFacebookに上げておいたのでそちらをご参照いただいて、ここでは別のお話をしたいと思います。

 モンゴルの夏は9時とか10時にならないと暗くならないとはいえ、ウランバートルに着いた時はさすがに真っ暗な深夜。ホテルに着くまでの道程では町なみ、風景はよくわかりませんでした。朝になって見えるその町なみは、ウランバートルに関して言えば普通に都会です。ロシアの影響が色濃く出ているとはいえ、ビルが立ち並びます。けれどもそこから農家の方のハウスへと郊外に向かうと、ある時点で一気にビルは消え、草原、丘にバラックやゲルが並ぶ風景に変わってきます。写真はまだそうした家の密度が高いですが、次第にその数も減っていき、緑が目立つようになってきます。そして途中からは道路も舗装されておらず、土と石を巻き上げながら、ところどころ陥没した道に大きく揺られ、当然車線なんてない中で時たま対向車とすれ違いながら進みます。そして次第に西洋風の建物は減っていき、逆にゲルが目立って増えてくる。放牧されている羊や牛、馬といった家畜。そんなものが実際に目に飛び込んでくるのがとても刺激的で、何と言うかそれだけで「ああ、外国に来たな」という感じがしてワクワクしてきました。香港はきれいに整備されてましたからね。この感覚はない。そしてその見慣れぬ風景の果てに唐突に表れた場違いな感じのビニールハウス。バスを降りてその景色を見た時の高揚感はなかなかのものでした。もう完全に観光のまなざしモードですが、このハウスがある辺りは別段観光地というわけでもないので、外国人の目を意識して町なみが作り込んであるわけではない。そこがまた逆に生活感がリアルで、ゾクゾクしたのです。明らかに日本とは違う景色に文化、生活様式。それでもここで人は生活しているのだなと、その当たり前のことがとても新鮮に感じられて。

 こちらのトマト農家の方のハウスで見てきたことは先述のようにFBに譲りまして、ここではさらに農家の方が我々をお手製のモンゴル料理でもてなしてくれました。馬乳酒やチーズ(馬か羊か山羊…どれだっけ?)、羊のヨーグルト、干しヨーグルト…、どれも正式名称を失念しましたが(オイ)、たくさん用意して歓迎してくれました。自分としてはやはりまず外せないのが馬乳酒。写真左上になります。実際飲んでみると酒と言ってもアルコールの感じはあまりせず、むしろ乳酸系のすっぱさで日本で売ってるヨーグルトの上澄みに溜まってる乳清をもっと強烈に生臭く乳臭くしたような感じ。日本人的には正直あまり美味しい感じではありません。馬乳酒はやはり皆さん気になるのか、とりあえず飲んではみるものの、ほとんどの方は「これダメだ」と残しておられた様子。まぁ日本人向けに味を調整とかまったくしていない、ホントに手作りのものですから無理もないかもしれません。自分は全部飲み切りました。馬乳酒はちょうど夏の始めにでき、その頃から夏の間飲み続けるんだとか。

 一般的には一年で最初に馬乳酒を飲んだ時は必ず下痢をするそうです。そしてその後は大丈夫になるとか。自分は一杯半しか飲まなかったせいか下痢までしませんでしたが、その話を聞いてちょっと警戒していました。野菜を食べる習慣のないモンゴル人は、馬乳酒を飲むことでビタミンやミネラルを補給しているそう。だから子供も飲むんだそうです。しかも肝臓にとてもいい飲み物だそうで、肝臓が悪い人には薬代わりにもなるとか。自分の感覚だと「お酒が肝臓の薬って…」というところですが、それが文化というものなのでしょうね。馬乳酒が食物繊維の代わりに腸の調子を整えているんじゃないかという研究まであるそうで、馬乳酒、結構マルチに大活躍です。

 ちなみに写真左下はヨーグルト、右下はこの後モンゴルにいる間何度となく食べることになるでっかい餃子(ホーショール?)で、肉は羊が使われています。チーズ等も含め、基本的には自分は美味しくいただけたのですが、干したヨーグルトだと言っていた、ビャスラグっていうのかな、あれだけはちょっと苦手でした…。ちんすこう以上にパサパサした、生臭いヨーグレットみたいな感じ。それでも手をつけた以上は月餅くらいの大きさのを一つ食べきりましたが、いやいや時間かかりました…。

 こちらではモンゴルでまだ実例がほとんどないトマト栽培の苦労もそうですが、観光地と違って一切手加減なしのモンゴルをまず体験させていただいたのが衝撃でした。景色もそうですが、馬乳酒やビャスラグ等々、ホントに現地で味わわれているものをそのままいただけたのがとても嬉しかった。もちろん合う部分もそうでない部分もあるわけですが、それも含めて文化の違いというのはこういうことなんだなと、文字通りのカルチャーショックを受けて再びバスに乗り込みました。
 その後は同じくモンゴルで花卉栽培を行っている日本人の方のところへ研修でお邪魔しました。こちらもFBにレポート上げてますので、詳細はそちらをご参照いただければと思います。FBに上げてない裏話として、モンゴル人の花の好み。今シーズン無事に一万本を売りきったチューリップですが、売れたのはすべて通常タイプのもの。花弁が細かく分かれるパーロットタイプというものはまったく人気が出ず、仕方ないからスタッフや近しい人にタダでいいから持って帰ってくれと言っても誰も持って帰ってくれなかったとか。それでも用意したパーロットタイプは割合的には極端に少なかったので事なきを得たそうですが、好みに合わないものはまったく売れないのがモンゴルの風土のようです。花卉栽培の方に言わせると、モンゴルではドカンとわかりやすい色合いの花が一般に好まれるそうで、日本でいういわゆる侘び寂びを感じるような清楚な花はあまり好かれないんだとか。文化の、違いですねぇ…。

 この日の研修最後は本命、モンゴルでの米輸出事業を行っているMJパートナーズ様訪問。この時の内容もFBに上げてます。こちらではとにかく熱烈な歓迎をいただき、着くとまずスタッフの女性がモンゴルの伝統衣装に身を包んで迎えてくれ、たくさんのお菓子も用意していただいており、それだけでもモンゴルでの米輸出ビジネスが今上り調子なんだなという空気が伝わってきました。やっぱりね、違うんですよ、上り調子に勢いのある会社の空気は。前職でも、そうした会社にお伺いした時は同じような空気を感じていました。明るいのもそうなんですが、何と言うか一緒にやっていこうとする前向きな善意というか、そういうものを感じるんですよね。正直な所、なかなか今の新潟では感じることができないその空気。久しぶりにここで思い出させていただきました。

 この後は昼食後にチンギス・ハーン広場観光、夕食…、と流れていき、非常に刺激に満ちたモンゴルの一日は終わっていきます。なお、モンゴルではウォッカがよく飲まれていて、食事の最後の方になると当然のようにウォッカが出てきます。チンギス・ハーン・ウォッカなる銘柄をこの日はしたたか飲んで、普通に美味しいウォッカではあったのですが、その後ホテルの部屋に戻ってスマホいじっていたら、まったく気付かない間に完全に寝落ちして朝を迎えていました…。きっと知らない間に一気に回ったんだろうなぁ…。恐るべし、モンゴル・ウォッカ。

 そして翌日はテレルジのツーリストキャンプへ。いよいよ本格的な大草原に出て、モンゴルの大自然を体験です!

2014年4月27日日曜日

ラ・フォル・ジュルネ新潟 2014

毎年田植に基づく仕事の日程が許す限り楽しみにしているラ・フォル・ジュルネ新潟、今年はプレ公演及び本日一日、楽しんできました。今年のテーマはウィーン・プラハ・ブタペストの『三都物語』。オーストリアやハンガリーに由来する作曲家・音楽の特集です。例えば一昨日あったプレ公演での演目はドヴォルザークのスラブ舞曲やバルトークの民俗音楽舞曲、そしてブラームスのハンガリー舞曲といったように、並べただけでテンション上がるような曲達。今年もたくさん楽しめるといいなと期待して迎えました。

 一昨日25日のプレ公演は上記の演目で、演奏はオーケストラ・アンサンブル金沢。指揮は元々OEKの音楽監督である井上道義氏が振る予定だったのですが、氏が咽頭がんの治療で急遽入院・休養。そこで代役に立ったのが何と三ツ橋敬子氏。代役としては実に豪華なキャスティングです。思えば3年前、震災直後のLFJ新潟では来日拒否したドイツのオケの代わりに井上道義氏と仙台フィル、そしてダン・タイ・ソン氏が来てくれてベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演ってくれました。今回はその井上氏が舞台に立てなくなり、代わりに三ツ橋敬子氏が振る。何だか奇妙な巡り合わせですね。

 そして三ツ橋敬子氏の指揮を聴くのも自分は初めてです。あの細い体でダイナミックに踊る踊る。そのまんまフラメンコのバイレやれんじゃないか、ってくらいまあ情熱的。リズムの緩急を見事に切り取って、全身を使って音を導いていく指揮は民族舞曲を見事に生き生きと歌い、踊っておりました。OEKも小編成でスッキリした音ながらもこの濃ゆい民族臭が漂うプログラムを、肩肘張らずに歌心踊り心満載でカジュアルに楽しめるように聴かせてくれました。OEKは一度生で聴いてみたい地方オケだっただけに、ここで聴くことができたのは嬉しかったです。

 昨日は仕事のためLFJ新潟は個人的に一日お休み。最終日となる本日27日をまるまる楽しませてもらう所存でした。取っていたチケットは3つ。ハンガリーの民族音楽グループ ムジカーシュ、燕喜館でのマリナ・シシュによるJ.S.バッハとバルトーク、クルタークの無伴奏ヴァイオリンソナタ、そしてハンガリアン・ジプシー・トリオ。どれも濃そうな、クラシックというよりはむしろハンガリーの民族音楽を聴きに行くような風情の取り方です(笑)。

 まずは能楽堂でのムジカーシュ。これがいきなり最高でした。もうノリノリ生粋のハンガリー音楽で、客席から自然と手拍子・拍手が起こるテンション高い演奏。また、色々と不思議な楽器も披露してくれて、「へえ、こんな楽器があるのか」と感心したりもしました。ガルドンというはどこぞの山奥(よく聞き取れなかった)にしか使わっていない楽器なので英語の名前も日本語の名前もないそうで、チェロのような形をしているのですが旋律を奏でるのでなくストラップで肩にかついで弓で叩いて音を出す打楽器(!)です。最初「チェロの古い楽器が地方に残ってたのかな」と思って見ていたら、いきなり弓使って弦の部分をタンボーラみたいに叩きだす。「へえ、こんな奏法もあるのか。弦弾いたらどんな音が鳴るのかな?」とか思ってると、ずっといつまでも叩いてる。打楽器なのかと!そうなのかと!そのチェロみたいな形で弦も張ってあるのにオマエは打楽器なのかと!衝撃的な楽器でした、ガルドン。でも楽しかった。ムジカーシュが今日弾いた楽器は、なんともう200歳にもなるものなんだそうです。

 他にもフルヤというフルートを縦にしたみたいな楽器は、何と歌いながら吹く楽器だそうで、管で歌と楽器の音が同時に鳴って、まるでホーミーみたいに一つの音源から二つの音が同時に出る。リコーダーに近い楽器なのですが、わざと強く吹くことで尺八みたいなノイズを付け、さらに喉で歌うことで全体の音量を増しているそうです。これも非常に面白かったです。実音と倍音で2つ音が鳴るというよりは、歌も笛も実音でしっかり鳴る感じ。地味な音色ではありますが力強い。この楽器で何と2000年も前のハンガリーの音楽を奏でてくれたのだからたまりません。ムジカーシュ、ノリノリなだけでなく色々と歴史的にも面白い楽器・音楽を紹介してくれて、最高のステージでした。

 そんなムジカーシュでテンションを上げた後は一時的に家族と合流。LFJのお祭り的な空気を楽しみつつ屋台で食事など取り、午後からは燕喜館にてマリナ・シシュさんが奏でる無伴奏ヴァイオリン・プログラムです。J.S.バッハの『シャコンヌ』、バルトークの無伴奏、そしてマリナ・シシュの師でもあるクルタークの『サイン、ゲーム、メッセージ』よりの抜粋。燕喜館は去年も弦楽四重奏を聴きましたが、音の響きが少々デッドで豊かな残響といった要素は期待できない反面、演奏者の前、同じ高さに座布団に座って聴くという距離感が非常に近い会場のため、楽器の音がダイレクトに伝わってくるのは魅力です。何よりも右手に見える素敵な和の庭園を眺めながら、こんな金屏風の前でマリナ・シシュさんみたいなきれいなフランス人が演奏するなんて、日本人の文明開化ゴコロをくすぐてくれるじゃありませんか。

 マリナ・シシュさんはLFJの運営から「バルトークの無伴奏を中心にプログラムを」と言われた時、すぐにバッハのシャコンヌとクルタークの音楽が頭に浮かんだそう。バルトークはバッハを参考にしたし、ハンガリーの作曲家であり師・クルタークは両者と関係があると。 バルトークの無伴奏を中心にその前の時代であり当然バルトークの無伴奏にも影響を与えたであろうJ.S.バッハの無伴奏と、バルトークより後の時代のハンガリーの作曲家で当然バルトークから影響を受けたであろうクルタークの無伴奏を並べる。その無伴奏ヴァイオリンの歴史を俯瞰するような選曲はなかなかに興味深かったです。マリナ・シシュさん曰くクルタークの音楽は「まるで禅のようで、より少なく語ることでより多くを語る。今日演奏された短い曲達は、まるで俳句のように少ない音数で多くを語る」と。この話を聞いて何となく思い出したのはブローウェルの『俳句(警句による前奏曲集)』。この曲は一度、ゆっくりと聴き直してみたいなと思いました。

 燕喜館でのコンサートが終わり、手持ちのチケットの最後であるハンガリアン・ジプシー・トリオまでは大分時間がありました。そこで急遽参戦することにしたのがコンサートホールで行われるドヴォルザークのチェロ協奏曲。オーレリアン・パスカルの独奏、大友直人指揮 群馬交響楽団の演奏です。こうして思いついたらフラッとコンサートに行けるのがLFJの醍醐味ですよね。

 ドヴォルザークのチェロ協奏曲、自分は実演どころかCDでも滅多に聴かないから実に久しぶりに聴きました。どのくらい久しぶりかって、正直どんな曲だったかまったく思いだせないくらい久しぶりですが、いやさすがドヴォルザーク、琴線にふれる暖かい美旋律がこれでもかと。ブラームスが「ドヴォルザークがゴミ箱に捨てた旋律を拾い上げて自分の曲に使いたいくらいだ」と言ったのも思わず納得する、しみじみと琴線に触れるメロディーの素敵な曲。パスカルのチェロはその暖かく胸にしみる美旋律を、明るい音色で素直に引き込むように聴かせてくれました。濃ゆく歌い回さないのがかえっていいんだ、これが。そして群馬交響楽団の白髪のフルートの人と隣のクラリネットの人、とてもうまい!丁寧に的確にパスカルのチェロを支えてました。これは聴いて正解、大当たりのコンサートでございました。

 今年のLFJ新潟、自分のシメはハンガリアン・ジプシー・トリオです。ジプシーとは言いつつも、グレッチのギター(ヴァイオリンと交代で持ち替える)とベースにキーボードで普通にジャズ・トリオみたいな音楽。モルダウやりますとか言いつつ、すぐにアドリブ始めて最後にとってつけたようにまたモルダウに戻ったりする辺り相当にジャズ。ハジけるヴァイオリン/ギターに、クールにグルーヴするベースがカッコいい!『枯葉』も演ってくれて、それはホントにカッコよかったんだけど、やっぱり民族音楽じゃなくてジャズなんじゃん!と。パンフにはしっかり「民族音楽」と書いてあるのですが、なかなか看板に偽りあり(笑)。でもいい音楽だからいいのです。民族音楽の要素もちょっと取り入れたジャズ・トリオ、ノリノリで楽しませてもらいました。

 今年のLFJ新潟は個人的にはとにかくハンガリー!ハンガリーの民族音楽も、それを元にしたクラシックも、実に濃い密度で楽しませてもらいました。色々珍しい楽器も知れたし、J.S.バッハからバルトーク、そしてクルタークへとつながる無伴奏ヴァイオリンの流れも感じられたし、ドヴォルザークのチェロコンは実は名曲だということも思い知ったし、オーレリアン・パスカルというチェリストも収穫だったし、最後はグルーヴ感最高のジャズでシメられたし、一日とことん楽しませてもらいました。また来年も楽しめるといいな。また、来年も新潟でやってくれるんですよね、LFJ…?今から楽しみにしてます。

2014年2月9日日曜日

佐村河内守ショック - それでも音楽に罪はない

 2月5日以後、クラシック界は佐村河内守氏の話題で持ちきりだ。交響曲第1番『HIROSHIMA』の製作過程がNHKスペシャルのドキュメンタリーとして放映され、それ以後一躍クラシック界の寵児としてもてはやされていた佐村河内氏。その『HIROSHIMA』や、ソチ五輪で高橋大輔選手が使用する楽曲『ヴァイオリンのためのソナチネ』を含む氏の名義の曲が、18年間ずっとゴーストライターによって書かれていたという事実が発覚したのだ。そのゴーストライターは新垣隆氏。新垣氏の会見で、佐村河内氏は楽譜も読めず、ピアノの腕もほとんど弾けないといっていい程度、『HIROSHIMA』も元々広島のために書かれた曲というわけでなく、あまつさえ全聾というのも偽りではないかなど、様々な黒い話が湧いてきた。全聾の苦悩の作曲家と、広島や東日本大震災の被災地といった苦難の歴史を結び付けた巨大な物語で売り込まれ、記録的なセールスを記録した音楽の、その物語部分がまったくの虚構だったわけだ。まさにスキャンダル。

 ところで、昨年の2013年8月13日、自分はこの佐村河内守氏の交響曲第1番『HIROSHIMA』をりゅーとぴあで実演で聴いている。演奏はもちろん大友直人指揮 東京交響楽団。この曲はこのちょっと前から大きな話題になっていて、自分はあまり話題になりすぎると引くタイプなので、少し距離を置いて遠巻きに眺めていた。曲を聴いてみることもなかったし、Nスペは録画はしたものの見ていなかった(これを書いている現時点でもまだ見ていない)。そんな調子だったのだけど、話題になっている現代の作品がこの新潟で演奏されるなら一つ聴いてみようか、コンテンポラリーな空気を生で感じてみようかと、このコンサートに行ってみることにしたのだ。それもどうせここまで聴いてこなかったのだから、いっそ世界初演を聴くつもりで聴いてみようと、それから一切の予習はなし、当日も事前にパンフなどは読まずに、できるだけまっさらな状態で臨むことにした。当日の感想はTwitterに連投してあるので引いてこよう。

これから始まる交響曲第1番『HIROSHIMA』のコンサート、急遽作曲者である佐村河内守氏も立ち会われることになったとのことで、新潟の観客に向けてメッセージが出されていた。作曲者が同じ空間にいるという緊張感は素敵だ。 https://twitter.com/ayumnote/status/367144265429692416/photo/1

佐村河内守 交響曲第1番『HIROSHIMA』新潟公演終演。りゅーとぴあであそこまで盛大なスタンディング・オベーションは初めて見た。ざっと目勘でも軽く観客の半分以上が立ち上がっての盛大な拍手。新潟でこれほどのスタンディング・オベーションが起きるのはちょっとした事件だと思う。

佐村河内守 交響曲第1番『HIROSHIMA』、これまでCDでもTVでも聴いたことがなかったので、本日の新潟公演でいきなりの実演。聴いてみた印象はとにかく重苦しい曲。最初から、最後クライマックスで長調に転調する時まで、ほぼ絶え間なくコントラバスが呪詛のように低音の持続音を奏でる。

この低音の不吉な持続音が、広島の苦しみ、困難を象徴的に表しているのだろう。この絶え間ない重苦しさが、常に音楽の裏で耳につく。実に80分のうち70分くらい。後半は「もうやめてくれ」と感じるほどに。もしかしたらこの持続音は、佐村河内守氏自身が苦しむ耳鳴りとも重ね合わされているのか。

そのバッソ・オスティナートどころじゃない持続音の印象と、もう一つ強く心に残るのが、各楽章で一回ずつ鳴らされる鐘の音。佐村河内守氏によれば「同じシの鐘の音が、まわりの音によって」各楽章ごとに運命の鐘に、絶望の鐘に、そして希望の鐘に、聞こえるという、その鐘はやはりとても印象的に響く。

そして最終楽章、ようやく重苦しい持続低音から解放され、安らぎや希望の優しい旋律を弦が奏で始める。その後対位法的な複雑な絡みを経て、最後壮大なクライマックスへ。執拗に苦しみが続いたその分だけ安らぎと希望の意味は大きい。演奏終了と同時に沸き起こる大きな拍手喝采。凄い盛り上がりだった。

終演後、作曲者である佐村河内守氏が招かれてステージに上がると、新潟では実に珍しいスタンディング・オベーション。それも数人程度ならたまに見るが、実に観客の半数以上が立ち上がっての讃辞。新潟県民は恥ずかしがりなのか、普段スタンディング・オベーションなんてほとんど起きないのに。

佐村河内守氏は、新潟での交響曲第1番『HIROSHIMA』の公演に合わせて、当初多忙と体調不良で来場を諦めていたが、それでも何とか直前の8月9日に急遽来場を決めてくれたという。開演5分前、客席に現れた氏を、観客は拍手で迎えた。作曲者と同じ空間を共有できる幸せは現代音楽ならではだ。

佐村河内守作曲、交響曲第1番『HIROSHIMA』。正直聴くのは楽じゃなかった。あまりに重苦しく、随所に現れる美しい旋律さえその重力に引き落とされ、まるで苦悩を追体験させられるよう。でも、だからこそ最後の救いが希望に満ちて響く。作曲者と空間を共有できたことも含め、よい体験でした。

 上記のように佐村河内守氏も来場した中、自分を含む新潟の聴衆はいつになく熱気をもって、この公演を迎えた。新潟で見かけるのは本当に珍しい大勢のスタンディングオベーション。座っていた客席から立ち上がって、振り返って何度もお辞儀をしていたあの佐村河内守氏が作曲者本人であると、当時は疑ってもみなかったのだけど。結果としてこの「作曲者とも空間を共有したコンテンポラリーな音楽の現場」という自分の高揚が今回の騒動で裏切られてしまったは正直寂しい。これだけ連続でツイートしていることからもわかるように音楽自体には感銘を受けたのもまた事実だったし、作曲者と同じ空間でコンテンポラリーな音楽を堪能したという体験に高揚感を覚えていたのも事実だから。予習は控えていたとはいえ、自分の感想にもかなり事前情報によるバイアスがかかっているのもまた正直否めない感はあるけれど。

 ここで今回の騒動に関する自分のスタンスを明確にしておくと、佐村河内氏が行ったことは明確に詐欺であり、その音楽を受容した人達や広島の人達、そして聾の人達に対する、まさに背信という言葉通りの所業だと思っている。偽りで固められた物語で音楽を売り込む、だけならまだ許容できなくもないが、広島や障害者といった特定の層が望むと望まざるとに関わらず持っている物語まで巻き込んで、それらに対して信を偽ったことは許すに値しない。だから佐村河内氏や、ゴーストライターである新垣氏が、仮に刑事罰の対象となることがあるのであればそれはそれで仕方がないことだと思う。それだけのことをしたのだ。人が犯した罪はどんな形であれ人の罪だ。

 ただ、この歪んだ共作関係の中で生まれた音楽達。それらの音楽には罪はない。だからこの騒動に関して色々な反応を追っていて、その中に「こんな詐欺師の作った音楽なんて聴く価値もない」みたいな意見を見かけると悲しくなる。どんな経緯で作られたものでも、音楽は音楽なのだから。それこそ人殺しの曲だって、恩人の妻を寝取るような破天荒な男の曲だって、少年に性的暴行を加えるような演奏家だって、時が経った今では普通に聴かれている。音楽自体に時を超える価値があれば。そこだけは明確に訴えたい。この点に関しては、『森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~』という記事が自分以上に的を射た言葉で語ってくれている。この記事から引用させていただくと、

新垣氏のような作曲技術に長けた人が自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった。なぜロマン派~ペンデレツキ風、みたいな書法の制約を自ら課すのか、という問いに答えようがないからだ。自分はもっと面白いことができるはずなのに。しかし、発注書があれば話は別だ。なぜそんな制約を課すのかって? そういう発注だからだ! わかりやすい。書法のことを置いておいても、現代社会において80分の大交響曲が生まれるというのはまずありえない。交響曲に必要とされる精緻なスコアを書くための知性と、交響曲を書こうという誇大妄想的な動機がひとりの人間に同居するというのは相当に考え難い状態だからだ。

佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。

 現代音楽では既存の書法で書かれた音楽は手垢のついた無価値なものとされるので、基本的にはそういった書法の制約を課した音楽というのは書かれない。多くの音楽家達が『HIROSHIMA』を稚拙と表現したのはそれが過去の書法の焼き直しでできていたからだ。けれど、現代音楽的な自由な書法で書かれた音楽は、往々にして一般の聴衆には馴染まないことが多い。というかほとんどだ。だから現代の最高峰の音楽的才能の持ち主が書いた曲を、一般の聴衆が耳にするという機会はほとんどない。その奇跡が、今回の佐村河内氏と新垣氏の歪んだ共作では生まれたわけだ。それは現代音楽から見れば言葉は悪いが妾の子かもしれないが、それでも一般のクラシックファンの中にも、例えばベートーヴェンやマーラーみたいに聴ける新曲を聴いてみたいなと思っていた人はいたはずで、佐村河内守名義の曲の数々は、そんな欲求にもある程度リーチしていたと思う。そして何より、新たな書法を開発しないといけないという現代音楽の定義からすれば古典的な手法は無価値かもしれないが、それが一定の層にリーチする以上、音楽とすればそれは無価値ではない。その価値を、正しく評価するべきだと思う。

 中にはこの『HIROSHIMA』始め佐村河内守名義の音楽は、物語とともに売りだされたのだからその物語が崩壊した今、音楽なんて聴く価値もないと言う人もいる。でも、それもまた寂しいと思う。確かに物語は崩壊したが、音楽は残る。真の作曲者である新垣氏は、それこそこの虚構の物語とは関係なく音楽を書いていたわけで、そこから生まれた音楽は、少なくとも楽しめるかどうか天秤に乗せてみる価値はあると思うのだ。そして確かに、これはいい曲だと自分は感じる曲がいくつもある。逆に物語のマイナスイメージが強く作用する今こそ、音楽の力が逆に試される、感じられる時なのかもしれない。

 佐村河内守名義の曲を過去にCDや実演で聴いて感動したという人で、今はもう感動できなくなってしまったという人も一定数いることだろう。少し悲しいことではあるけれど、でもそれは仕方ないことなのかなと思う。人が音楽や、あるいは他の芸術なり他の何かに感動するということは、その時の自分の心象風景の中にその対象と共鳴する何かがあったということだ。聴いた当時心の中にあった物語が実は虚偽だったと知った時、心象風景のその共鳴していた部分に変化が起きてしまえばもう感動はできないのだから。そういう人達は音楽というよりは物語のBGMとしての音楽を楽しんでいたのだろうと思うけれど、それはそれで否定はできない。音楽をどう受容し、楽しむかは人それぞれだ。

 だからせめて、「自分はクラシック音楽が好きだよ」と自認する人くらいは、改めて佐村河内守名義で作られた新垣隆氏の音楽を聴いてみてほしいのだ。自分は物語とは関係なく、音楽が好きなんだよという人達に。『HIROSHIMA』の実演に接した時の自分がそうだったように、初演のつもりでとか聴いても物語は完全に消えてはくれないし、そこには既に今回の騒動という新しい物語が付与されているわけで、音楽自体を聴こうと言ってもあまり説得力はないのかもしれない。でもせめて、「詐欺師の音楽は聴くだけ無駄」ではなく、「現代音楽として稚拙で無価値」と切り捨てるのでなく、「どんなものかちょっと聴いてみよう」くらいの気持ちで聴いてほしいと思う。はっきり言おう。自分は実演で心動かされた過去の自分を擁護しているのかもしれない。でも、やっぱりいい曲はあると思う。『ヴァイオリンのためのソナチネ』とか、確かに書法的斬新さはないけれど、素晴らしい曲だと思う。今回の騒動で仮に人が抹殺されることがあったとしても、音楽まで抹殺しないでほしい。音楽に、罪はないのだから。