2016年2月28日日曜日
美女と野獣
譜面・音源データ
元の譜面は金管五重奏で、そのままのキーだとフラットだらけでギターだと弾きづらいことこの上ないので半音下げて調整しました。E→G→Aと2回転調するので、譜読みの際は気を付けてください。1stは重音の箇所がありますが、そのまま弾いてもいいですし2人で上と下分けて弾いてもいいと思います。そこはおまかせします。
で、そう極端に難しくはないですが言うほど簡単でもありません。不可解な変拍子が出てきたりするので、ちょっと合わせづらいところがあるかもです。練習機会がほとんど取れないか、少なくとも自分はぶっつけ本番になるので、丁寧に音さらっておいた方がいいと思います。
一応以下に総譜のリンクも置いておきます。スマホからならこちらから譜面を確認できると思います。
総譜
ちょっと急いでやったのでもしあやしげなところや不明なところあればご指摘を。
2011年10月23日日曜日
サイトウ・キネン・オーケストラ バルトーク・プログラム
少女ミミを演じていた方、お名前を失念してしまいましたが(確か井関佐和子さん?)実に艶めかしく表情豊か。ギリギリの緊迫感を持つ音楽の中、一際輝く舞を魅せてくれました。これまで音楽でだけ聴いていた『中国の不思議な役人』の曖昧なイメージを一気に吹っ飛ばして、凄くシュールで官能的な世界観を植えつけられた感じです。
以前BSで春の祭典を観た時にも思ったけど、バレエ音楽って音楽だけでも楽しめる曲が多いけど、やはり実際に踊りが付くとその魅力が全然変わりますね。視覚的に楽しめると、そこに絡まる音楽の意味と魅力もまた変わってくる。バレエ音楽はやっぱり舞台を見てみるべきなんですね。『ペトルーシュカ』とか『くるみ割り人形』とか観てみたいなぁ・・・。
2009年4月5日日曜日
心をつないだ名曲達
秋も深まる晩秋の11月頃から年明けにかけて、私のiPodでヘビーローテーションだったのはブラームスの交響曲第4番。この曲は第一楽章からまるでため息そのもののようにもの憂げなヴァイオリンの旋律から始まり、晩秋に寂しく舞い落ちていく落ち葉のような管と弦の掛け合いに続く、交響曲という言葉からイメージされる勇壮さや外向性とは程遠い、寂寥と哀悼の音楽だ。もちろん両端楽章のコーダなんかは楽曲的にも相当盛り上がるが、ベートーヴェン的な苦悩から歓喜へといった趣ではない。憂鬱から苦闘へ、といった感だ。要は、結局救われない(苦笑)。しかもこの交響曲、最終楽章はパッサカリア形式で書かれている。パッサカリアやシャコンヌといった執拗低音を持つ形式に私が持つ特別な感情は以前にも書いた。このことがさらに私がこの曲にのめり込む要因となったのは間違いない。
この頃は仕事に全く光が見えず、右手で新年度カットオーバー予定の大規模プロジェクトの指揮を振りながら、左手でいくつかのトラブル案件の消火・押え込みをしているような状態で、精神的にもお世辞にも明るいとは言えない時期だった。何しろ左手側は元々救いがないにせよ、右手側ですら成功のイメージがまったく描けずにいるような状態だったのだ。晩秋から冬にかけてという季節と、そんな仕事の状態から来る精神状態が、この最後まで徹頭徹尾悲哀をまとった交響曲に妙にマッチしてしまい、この頃はこのブラームスの4番を非常によく聴いていた。
演奏は最初の頃はカルロス・クライバー/ウィーンフィル、その後色々と試行錯誤をした後に、年末辺りに辿り着いたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィルだ。最初にこの曲のよさに気付かせてくれたのはカルロス・クライバー盤。クライバー特有の颯爽と前進しながらも自在に伸縮するテンポが、ともすると湿っぽくて地味に聴こえがちなこの曲を、強い求心力で聴く耳を引きつける音楽に仕上げていた。それでいてこの曲の持つメランコリックな美しさが微塵も損なわれていないのがさすが。
それから色々とこの曲は買い集めて、今では10近い演奏を持っているが、他と比べて圧倒的な衝撃と感動を与えられたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィル盤。1986年、東京文化会館でのライヴ盤だが、ミュヘンフィル自身がチェリビダッケと残した最高のブラ4と認めている演奏だ。EMIからチェリビダッケの全集が出る際、ミュンヘンフィルはこのライヴの録音が残っているか主催者側に問い合わせたものの残っていないという回答が返ってきて、それで仕方なく全集版では別のライブを選んだらしい。その後、当日のマスターテープが発見されてリリースされたという曰く付きの音源だ。
この演奏はブラ4に内包されているすべての要素が完全に昇華された凄まじい名演だ。第一楽章の入りの深刻に過ぎることはない、適度な憂いを帯びた艶っぽいため息の音色、散り行く管と弦の揺らめくような美しさ、全編を覆う哀しみと途切れない緊張感、そして両端楽章のコーダでは「フンッ!」とうなり声を上げながらオーケストラを爆発させるチェリビダッケ。私にはこの曲でこれ以上の演奏は思いつかない。だから、この演奏に巡り会って以後はほとんどこの曲はこの演奏で聴いている。後でもいくつかCDを買ってはみたものの、やはりこの演奏には敵わない。他に聴くとしたらやはり解釈が全く異なる前出のC.クライバーくらいか。
余談ではあるが元々レパートリーが極端に狭かったC.クライバーは、89年以後は指揮台に立つ数少ない機会の中でさらに同じ曲ばかりを演奏するようになる。その中の一つがこのブラームスの4番だった。それは単純に得意ということもあるのだろうが、恐らく終世、父であるエーリッヒ・クライバーとの比較に内心怯え、音楽そのものに対しても非常に神経質になっていった彼の悲哀の心中が、この憂いを纏った曲調に投影されているように思えてならないのは私の勘ぐり過ぎだろうか。
次に年明け1月中頃から3月中頃、つい最近までそれこそ何度も執拗に聴いていたのがバルトークのピアノ協奏曲第3番だ。バルトークの絶筆の傑作(といっても残されたのはわずか17小節のオーケストレーションのみで、ほぼ完成していた)であり、白血病を患っていた彼が自分の死後もピアニストであった彼の妻がこの曲を演奏することで生計を立てていけるようにと願って作られた。
バルトークの複雑に入り組んだリズム構成や、野趣に溢れ、時に原始的とすら思える程の特徴的な音階構成は元々好きだったのだが、私がこの曲で特に強く惹かれたのは第二楽章だ。ゆったりと、澄んだ弦の響きで始まるこの楽章は、一言でいうなら非常に美しい。ただし、その美しさは手放しに喜びに満ちたものではなく、むしろ滅びを予感させる。優しいが冷たい、破滅的な美しさだ。
控えめに、透明で神々しく響くオーケストラの合間に、決して音数の多くないピアノが歩を進むのをためらうように、一音一音ゆっくりと美しい旋律を歌い上げていく。その様は、春が来る直前の冬の終わりに、春の兆しが感じられるよく晴れた白い静かな日の光の中、髪の長い40代くらいの美しい女性が白い壁に囲まれた病室で死の床につきながら窓の外を眺めている、そんなイメージを私に想起させずにはいられない。これから訪れる希望と、その先触れの美しい日差しの中、ただその中にいる人だけが絶望に包まれている。そんな悲しいイメージだ。外の世界に広がる希望と、自身の中で広がる絶望を、諦観とともに同時に静かに見つめる姿。時折諦観が薄れて苦悩が見え隠れするその人間味。悲しい言い方になるが、この曲には別れを前提とした切ないまでの愛がある。だからこそ純白の美しさと、悲しさを兼ね備える。
この頃は左手で処理していたトラブル案件は落ち着きを見せ、新規大規模案件にやっと集中できるようになってきてはいたものの、様々な大どんでん返しの連続でその対応に昼夜休日まで追われ、プロジェクトの完遂という点に対して非常に不安を持っていた時期だ。「ここを乗り越えれば・・・」という山を一つ越えるか超えないかといった辺りで、必ず次の新しい山が見える。それこそ「あの坂をのぼれば、海がみえる」だ。「だがしかし、まだ海はみえなかった」。あといくつ山を超えればいいのか、と憔悴しつつも、「でもまぁこの山を越えれば・・・」という希望も見え始めた時期。ちょうどその2月頃に、この曲をよく聴いていた。
演奏はソリストがゲザ・アンダ、指揮がフェレンツ・フリッチャイの盤。両者とも作曲者であるバルトークと同郷。それ故か曲に対する理解・思い入れの強さが伝わってくる。フリッチャイは元々バルトークの演奏では定評があるが、特にこの演奏は自身も白血病に倒れ、病から復帰した直後のレコーディング。同じ病に倒れた同郷の士の最後の作品に対して、並々ならぬ思い入れがあったことは想像に難くない。作曲者が命を賭して書いた曲に、同じく命を賭して挑む指揮者の凄みがここにはある。
それとこれも余談ではあるが、この曲の第二楽章は透明に澄んだ弦の和音が非常に印象的だが、フリッチャイの演奏で聴いていると私にはその響きがまるで雅楽の笙のように聴こえる。この曲は全体を通して教会旋法で書かれているが、当然西洋の教会であって日本の神社ではない。調べてみるとどうやら確かに雅楽の和声と教会旋法には共通点があるらしい。教会音楽も雅楽も洋の東西は違えどどちらも神に仕える音楽。この共通点が文化交流の結果として生まれたものなのか、あるいは自然発生的に出来上がった共通点なのか、そこは音楽とそれが聴き手に与えるイメージという面で非常に興味深いものがある。いつか調べてみたいものだ。
前の日記で「私は今回も生き延びました」と書いたわけだけれど、この2曲がなければ最後まで心が折れずに持っていたかどうかはわからない。体は、別問題だ。これまで何度も修羅場を経験してきたが、その度、音楽に救われる。私は心の支えとして宗教は持っていないが、信じる支えという意味では音楽がその役割を果たしてくれているように思う。それは癒しではない。支えだ。大体癒しなら、もう少し明るい、やんわりとした曲を選ぶんじゃないだろうか。結局のところ、私にとって音楽とは共感だ。共感による自己肯定が支えとなる。例えそれが暗い状況の肯定でも。暗い状況から目をそらす癒しではなく、暗い状況を肯定する共感が、結局最後の孤独を救う。
2009年1月26日月曜日
一挺のバイオリンで描かれた宇宙
例えば『シャコンヌ』を含むパルティータ2番は実はギター編でもよく音楽の魅力が引き出せていると思うし、実は私は『シャコンヌ』に至ってはギター編の方がバイオリンよりよいと感じている。セゴビアが初めてこの曲をギター編で世に出した時はバイオリンに対する冒涜呼ばわりされたものだが。この曲は、バイオリンではどうしても最初と最後の和音の響きがどうしても甲高くヒステリックに聴こえてしまう。名手シェリングやミルシテインですらそう感じる。その点ギターでは奏者に人を得ればその和音が実に荘厳に響く。その後に繰り返される変奏も本来ギターのために書かれていたかのように自然に響く。最大の盛り上がりどころである高速のアルペジオが続くパッセージもバイオリンではともすると音や響きが曖昧になりがちだが、ギターではそのアルペジオが一音一音堅牢に、粒を揃えて響かせることができる。私は随分前にも「バイオリンは単音に悲しみを宿し、ギターは和音で悲しみを響かせる」とこの日記で書いた。パルティータ2番ではその楽器の個性がうまく音楽にはまり、ギター編でも素晴らしい音楽が引き出される。
だが、パルティータ3番BWV1006はやはりバイオリンがよい。あのプレリュードの、高温の伸びやかな旋律の響きはギターでは出ない。元の曲が素晴らしいのでギターでもよい音楽になるが、あのバイオリンの繊細に輝くようななめらかな高音の節回しはギターではできない。ローロのゆったりした歌もギターではともすると間が持たない。ロンド風ガヴォットもやはり展開部の伸びやかな歌がバイオリンで気持ちよく響く。これをギターでカバーするには、それだけで演奏者に相当の技量がいる。まぁ、ギター編でも素晴らしい音楽になるには違いないのだけれど。
ところで、バッハという人はもしかしたら純粋に音楽を目指したかった人なのではないだろうかと、ふと思うことがある。それは広い意味での音楽ではなく、楽器や編成にしばられず、極論すれば記譜だけで表現できなくもない、楽器も音色もない、ただ音列としてだけの純粋音楽だ。『フーガの技法』や『音楽の捧げもの』に明確な楽器指定がないのは、その意味での純粋音楽を極めたかったからではないのだろうか。楽器の物理的な制約や、ともすれば音色からの制約すら離れて、ただ純粋に理論を極めた音楽を作りたかったのではないだろうか。バッハの時代の作曲家は基本的には委嘱作品のような形で、スポンサーのために音楽を作っていた。ただ、その時代でも稀に作曲者自身が誰のためでもなく、ただ作りたいから作った曲があるという。間違いなく、『フーガの技法』はそうだ。楽器編成や、ともすれば曲調まで依頼されて作る音楽ではなく、そういった依頼のしがらみはおろか楽器のしがらみすら捨てて、彼は彼の音楽を作りたかったのではないだろうか。無伴奏のバイオリンやチェロのためのソナタという、事前に例がほとんどない音楽で彼が絶後の名作を生み出したのも、最小限のシンプルな楽器のみに編成を絞ることで、楽器編成という音楽に関する音色という色彩的な付加要素を排除したかったのではないだろうか。
私はベートーヴェンが最晩年まで弦楽四重奏という形式で音楽を書き続けたのにも同じ理由があるのではないかと思っている。管弦楽の様々な楽器の音色は音楽に多様な色彩をもたらすが、それはその音色の多様性が逆に音列としての音楽を見えにくくする枷ともなる。バッハや弦楽四重奏を作る時のベートーヴェンは、そこから解放されたかったのではないだろうか。今となっては、確かなことを知ることはできない。
だが、バッハはその無伴奏バイオリンという編成で、「一挺のバイオリンで宇宙を描いた」と言われる程の深遠な世界を作り出した。ベートーヴェンは後期の弦楽四重奏で精神の崇高な高みにまで達した。そこには彼らが余計な要素を排した上で純粋に音楽と向き合い、精神の奥深くまで潜り込んでいった結果が現れているような気がする。彼の曲に楽器を変えても魅力が消えない作品が多いのは、それだけ楽器という"色"に頼らず音楽を作っていたという証拠だろう。
バッハは『フーガの技法』で病床、最後のフーガを書く手を止めて天へと向かった。彼は、何故最後あの極限の技巧的名作を完成させなかったのだろうか。ただ単に力尽きただけなのだろうか。もしかしたら、彼は知っていたのかもしれない。対位法、ポリフォニーという音楽の完成者は自分であり、そこが頂点であることを。彼以後、音楽はポリフォニーからモノフォニーへと移行して行き、その後彼程の対位法作曲家が世に出てこないことを。最後のフーガを完成させてしまえば、対位法による技巧はとうとう極まってしまい、本当の完成を見てしまう。その完成は、本当の対位法の死を同時に意味することを、彼は意識したのかもしれない。これも、今となっては確かなことは知ることができない。
夜、久し振りにバイオリンで無伴奏ソナタ&パルティータを聴きながら、当てもなくそんなことを考えていた。今日は日曜日。大倉山の梅林では、少ないながらも咲いた梅が冬にしては暖かい日差しの中、静かに上品に佇んでいた。
2008年9月24日水曜日
GLOBAL METAL
この『GLOBAL METAL』、これがまた実によかった。最初はブラジルから始まり、いきなりセパルトゥラから始まる。アングラのラファエル・ビッテンコートのインタビュー等を挟みつつ、ブラジルではメタルが若者の間での新しい文化、民主化の象徴として浸透してきたと語る。
次に日本。マーティー・フリードマンと伊藤政則が語る日本のメタルシーンは(特にマーティーが語る分には)やや偏りがある気もしたが(苦笑)、まぁ面白かった。マーティーはビジュアル系が面白いといい、その代表としてX JAPANが紹介される。どうせビジュアル系を取り上げるなら欧州でもっと売れてるDir en greyとかにしときゃいいものを。あるいは『Death Pandaデス!』が何でも様々な要素をミックスしてしまい、他の国ではありえない取り合わせが生まれるという日本の特質を表す曲として紹介されてみたり。なかなかマーティー、面白い。
対して伊藤政則が語る、「日本ではメタルに政治的な思想や社会への反発、自己実現といった要素を求めて聴いている人はほとんどいないと思う」という台詞には共感が持てた。実際、私にとってメタルとはあくまで音楽であり、思想やアイデンティティの問題ではない。逆にそれが日本という国の独特なところなのだろう。思想や立場から切り離されて、音楽が音楽として浸透していく。それはゆとりなのだろうか、それとも弛緩なのだろうか。余談だが、先日会社の人間と行ったロックバー『Blackmore』が日本のメタルファンが集う聖地として紹介された際はちょっとニヤッとした。
その後もどんどんマニアックな各国を回っていくが、どんどんメタルへの風当たりは強くなる。インドネシアでは一度だけメタリカのコンサートが開催されたが、会場周辺で暴動が起き、それ以来メタルのコンサートは禁止になった。レバノンではメタルも長髪も禁止されており、髪を伸ばしていたりロックTシャツを着ているだけで警察に逮捕され、悪魔崇拝者か、それともメタルファンかと尋問を受ける。常に戦地としての側面と隣り合わせであるイスラエルでも事情は似ている。そこでメタルを演奏するバンドは、
「ここでは争いが絶えず、ただ道を歩いているだけでいつ殺されるかもわからない。自爆テロにだって巻き込まれるかもしれない。道で悪魔に襲われても怖くない。ここでは、生きている人間の方が怖い。恐怖は、身近に溢れすぎている。だから自分は希望を歌いたい」
と語る。日本は、なんと平和な場所だろう。中近東で唯一安全にメタルを楽しめるイベントであるデザート・ロックにはその日を楽しみに大勢のファンが詰めかけるという。彼らがメタルに対して持っている熱狂はきっと我々とは明らかに種類が違うものだろう。
映画の最後はインドでアイアン・メイデンが初めてコンサートを開く場面に移っていく。『Hallowed Be Thy Name』の最初の鐘の音が、あのように緊張感のある期待と不安を持って響いたのは初めて聴いた。かつてウィーンフィルのメンバーがフルトヴェングラーのタクトの下、ベートーベンの『英雄』を演奏した際に述べたと言われる「最初の二つの和音があのように響くことはもう決してないだろう」という言葉が、あの『Hallowed Be Thy Name』の最初の鐘の音にも通じるように思えた。インドで響く『Hallowed Be Thy Name』や『Fear Of The Dark』。自他ともに認める敬虔なヒンドゥー教徒がほとんどを占めるこのインドという国で、彼ら聴衆は一体どのような思いで"Hallowed Be Thy Name"と叫んでいたのだろう。それは確固たる宗教、神を心の中に持たない私には決してわかり得ない胸中のように思えた。
この映画は確かにメタルのドキュメンタリーだが、単純にそれだけではない。それは今も世界中に残る、抑圧や差別、不自由、恐怖との闘いだったり、その精神といったものをメタルという音楽を通じて炙り出す、実に考えることの多い映画でもあった。この映画は観てよかった。DVDが出たら買うかもしれない。しかし使われた音楽は随分とエクストリーム系ばかりで激しかったなー・・・。
余談ではあるが、本編の最後を締めた曲は『Hallowed By Thy Name』。だが、エンディングのスタッフロールの際に流れていた曲が私も一緒に行った人も何だかわからなかった。あれは一体誰の何という曲なのだろう?結構、カッコいい曲だった。
2007年1月11日木曜日
パストラル
さて、『祈祷と舞踏』を聴き終わり、次は『スペイン風3つの小品』を聴こうとリモコンを手にした。最初の『ファンダンゴ』の7曲目のボタンを押そうとした時、流れてきた音に手が止まった。先程までの何かに追い立てられ、駆り立てられているような焦燥感、緊張感から打って変わって、温かく、ゆったりと、牧歌的に流れてくるシンプルな旋律。このCDの最後の曲であり、アルバムのタイトルでもある『パストラル』だ。最初の1フレーズを聴いて、「ああ、いい曲だな」と思った。そして次に、そう思った自分に驚いた。これまでは、この曲は特別"いい曲"という認識は持っていなかったのだ。当然、何度も何度も聴いていたはずなのに。
「鬼気迫る緊張感のある曲が聴きたい」と始まったCDの、ふっと緊張の解けた柔らかい音の流れの中で手が止まる。こんなはずじゃなかったんだけどな、と思いながら、曲を変えようとしていたリモコンを置いて耳を澄ます。やはり、いい曲だった。それを確かめるように、続けて3回、同じ曲を聴いた。何故今まで気付かなかったんだろうか。それとも、やっとこの曲のよさに気付けるようになったんだろうか。何にせよ、大好きなこのアルバムを聴く楽しみが、またこれで1つ増えたことになる。
自分で弾いてみたいなと思ったけれど、まずは譜面を持っていない。あったとしても、ゆったりのんびりした主旋律とは裏腹に、ベースはかなり容赦なく細かい動きをする曲なので、聴いている印象より遥かに弾くのは難しそうだけど・・・。
2006年12月17日日曜日
ベートーベンの誕生日
まずはやはりカルロス・クライバー指揮 ウィーンフィル演奏のシンフォニー5番&7番。『運命』と7番の組み合わせ。今さら説明不要な曲・演奏だが、やはりよい。実に力強いエネルギーの躍動は聴いている者を問答無用で曲の世界に引きずり込まれていく。何しろこの演奏を聴いただけで私はすっかりC.クライバーの虜になってしまった。ぎぃ助達の世代のクラギタから『こうもり序曲』の編曲を頼まれた時も、音源のサンプルには迷わずC.クライバー指揮のものを選んだものだ。是非とも一度生で聴いてみたかった指揮者だ。ちなみに、リンク先のCDはJ.シュトラウスの作品集オムニバスだが、一枚目のワルツ、ポルカ、マーチ集ではカラヤン、アバド、ベームら名指揮者がウィーンフィルを振った演奏で、2枚目の『喜歌劇<<こうもり>>(抜粋)』はすべてC.クライバー指揮の演奏。ユニバーサル・クラシックが出しているこのオムニバス・シリーズ『パノラマ』は著名な名演をまとめて安価で楽しめるので、なかなかお買い得だ。他にも例えばラフマニノフの作品集とかドビュッシーの作品集、ショスタコーヴィチの作品集等、色々出ている。一枚1,500円と安価にクオリティの高い演奏で各々の作曲家の代表曲に触れられるので、「この作曲家はどんな曲を書いているんだろう?」と興味を持った時なんかにお薦めのシリーズだ。
次はこのCD。ジョージ・セル指揮 クリーヴランド・オーケストラ演奏の交響曲第3番『英雄』。以前の日記で紹介した際は『英雄』のCDとして紹介したし、実際このCDのメイントラックはやはり『英雄』だが、一番聴いてほしいのは実は『エグモント序曲』。というか、実は曲としては『英雄』は特別好きではない。この『エグモント序曲』は私の大のお気に入りの曲で、学生時代に(演奏する当てもないのに)ギター合奏に編曲しようとして総譜までは購入したというくらい思い入れの深い曲だ。ちなみに、編曲は結局完成しなかった。このCDでのセルの演奏は、イントロを聴いた瞬間「うおっ、重いな!」と思った。実に、重い。重いが、実直で、堅実で、それでいて情熱に満ちた演奏はさすがジョージ・セル。彼も好きな指揮者の一人だ。
そして『エグモント序曲』と言えば、あまり知られていないが実はこれには弦楽四重奏版の編曲がある。しかもC.F.エバースというベートーベンと同時代の人物による編曲で、一説によるとベートーベン公認の下での編曲だったらしい。C.F.エバースは他にも交響曲5番、7番、8番や様々な序曲を弦楽重奏に編曲している。その弦楽重奏版の交響曲7番と『エグモント序曲』が聴けるのがこのCDだ。これも、お薦めのCDの一つ。ちなみに、このCDで演奏しているプロ・アルテ・アンティクア・プラハは、他に同じくC.F.エバース編の交響曲5番と8番の弦楽五重奏版も録音している。
そして曲として大好きなのは弦楽四重奏第11番『セリオーソ』。いきなり迫力あるスケールから切り込んでくるこの曲は、その激しい音列が紡ぐ深く重い情熱と、最終楽章で奏でられる暗い熱を帯びならがも実に官能的で美しい旋律が素晴らしい傑作と思う。個人的には同じ弦楽四重奏の中でももっと有名なラズモフスキー3部作よりもこっちの方が好きだ。お薦めの演奏はやはりアルバンベルク・クァルテットかスメタナ・クァルテットのものか。まぁ、どちらも世間一般に評価の高い盤だけど(苦笑)。
というわけで、今日はこれらのCDを聴きながら夜を過ごしている。たまにはベートーベン尽くしもいいものだ。
2006年11月27日月曜日
マタニティ・クラシック
ショパンの『華麗なる大円舞曲』で始まるコンサート、曲目はやはり聴きやすいものが中心ですが、中にはショパンのエチュード『木枯らし』等、結構聴く側にとってもいかつい印象を与える派手な曲も織り込んであったりするので油断がなりません。ショパンに始まり、ルービンシュタイン、リスト、ラフマニノフを経由して最後はベートーベンのピアノソナタ『月光』にて第一部終了。ちょっと意表を突かれた選曲もありました。
しかし岡崎ゆみ氏、マタニティ・クラシックという割には結構強気な演奏します(笑)。一曲目の『華麗なる大円舞曲』からしてかなりカツカツに強調されたスタッカートと、随所に聞かれるかなり強烈な打鍵が鮮烈に響きます。えらい主張の強いピアノだなと、そんな印象を受けました。まぁでもなかなかいいです。『華麗なる大円舞曲』や『木枯らし』、『月光』なんかではその強気さがいい方向に出ててよかったです。「これホントにマタニティか!?」というツッコミはありますが(笑)。
休憩を挟んでの後半はマタニティビクスの実演に始まり(この辺がさすがプレママコンサート)、ソプラノが出てきて『パパゲーノ』や『アヴェ・マリア』を歌ったり、バイオリンが出てきて『ツィゴイネルワイゼン』弾いたり、なかなかバラエティに富んだコンサート内容でした。欲を言えばバイオリン、『ツィゴイネルワイゼン』やるならもっと頑張ってほしかった・・・。まぁ私の中でこの曲はハイフェッツの演奏が非常に強く頭にこびりついてしまっているので、それと比べるのはさすがにかわいそうな気もするのですが。
というわけで、マタニティ・クラシックを堪能した休日でしたとさ。ちなみに現在胎教・情操教育として、寝る際のBGMを毎夜選定していたりします。例えば、こんなCD達です。
・『The Night Music』 アンドリュー・マンゼ指揮イングリッシュ・コンサート
・『ルクレール:VN・ソナタ第3番』 グリュミオー
・『The Melody At Night, With You』 キース・ジャレット
・『バッハ:ゴールドベルク変奏曲』 グレン・グールド
・『モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8・11・15番 <<キラキラ星>>の主題による変奏曲』 クリストフ・エッシェンバッハ
等です。何故かエッシェンバッハのCDがAmazonでもHMVでも見つからなかったので、比較的内容が近いCDのリンクになってます。
2006年11月19日日曜日
音楽の指向性と20世紀音楽
そもそも、大編成の交響曲や歌劇があまり好きでなかったのには明確な理由がある。それはひとえにそれらの音楽があまりに外向きに過ぎるからだ。音楽は編成が大きくなればなるほど、当然ではあるが自分一人の中に対する指向性だけでは解決ができなくなってくる。それは指揮者に対する指向であったり、あるいは他の楽団員に対する、自分以外の音や空気に対する指向性であったり、とにかく意識のベクトルを外に向けざるをえない。自然、音楽それ自体も一個人の意識の内面に潜っていくというよりも、外に、世界に対して働きかけるような形で作用する。個人の中に潜っていくのではなく外の世界へ。大編成の曲は、もはや音楽作品自体それがそのような指向性を持ってしまうし、それを演奏する側も聴く側も、無意識のうちにそういった指向性の元に音楽を表現し、体験する。ベートーベンやワーグナーの壮大な音楽や、その他現在では退廃音楽と呼ばれている様々な作品達がナチス・ドイツに利用され、旧ソ連の共産体制の中ショスタコーヴィチの音楽が(物議を醸しながらも)政治的に利用されたことも、それらの音楽が持つ外向性を所以とするのは明らかだ。大編成の音楽は、個人に向かうのではなく世界に、社会に向かう。音楽が政治的に利用されたから嫌いだと言っているのではない。単純に、私はそういった外向性を音楽には求めていない。それだけのことだ。
そもそも音楽は、元々は祈りから始まった。原初の祈りが宗教行為だったとして、その祈りは個人的なものだったのか、それとも社会的なものだったのかというのは諸説あるところではあるが、明らかなこととして、原初の祈りは人や人が織りなす社会に対してではなく、人の力が及ばない自然や超自然に対して行われていた。その超自然が形を変えると神となる。その祈りのバリエーションの一つとして始まった音楽も、元々は言ってしまえば神に対して捧げられるものであった。だが、それは時代とともに次第に人の立つ地平にまで降りてくる。いわゆるアーリー・バロックの時代に既にその傾向は見られる。その当時の西洋音楽はほとんどが教会で演奏される宗教音楽の範疇にあった。それでも少しずつ、楽器の技法を駆使するための楽曲や、作曲技法のための楽曲、そして直接的に人に対して捧げられる音楽が出始めてくる。ただ、この頃はそれでもまだ、音楽は個人のものだった。神を存在理由とする音楽は、最終的には内省へ向かう。
音楽が本格的に社会的になっていくのは、やはりベートーベン以降だろう。彼の交響曲第3番『英雄』は、その意味で音楽史的にも音楽精神史的にも、非常に大きな転機となったことは間違いない。フランス革命に欧州中が動揺する中、神に対してでも貴族に対してでもなく、初めて明確に政治的な意図を持って"民衆"のために書かれ、そして受け入れられた音楽。ここに至って本格的に、音楽は神から人へとその対象を変える。そして今に至るまで、音楽の捧げられる対象は人から神へは返っていない。私の考えではその後、シェーンベルクやベルク等の新ウィーン学派が調性や旋律の解体を始めた辺りから今度は無意識から意識へという音楽作用の対象のシフトが行われていくのだが、そこまで語り始めると長くなりすぎるので今は口をつぐむ。
そのように、外向的な傾向を持つ音楽を私は好まなかった。どこまでも、奥深く自身の意識・無意識の深みにはまっていけるような、そんな内向的な音楽ばかりを好んでいた。また機会があればこれについても語るが、そう考えると私自身のバロックと現代曲という極端にアンバランスな音楽傾向も一応理論的な説明がつく。逆に言えば、ベートーベン以降から第二次世界大戦以後数十年の音楽は、ギターやピアノの独奏、弦楽四重奏等の一部の例外を除けば基本的に私自身が避けて通ってきた音楽になる。最近は、そういった音楽も避ける前にまず聴いてみようと思い直したわけだ。
きっかけは、『20世紀音楽 クラッシックの運命』という本を読んだことだ。音楽は、特に外向的な性質を持つ19世紀後半~20世紀半ばまでのものであれば尚更、歴史とも大きな関わりを持つ。音楽を考えていくことは歴史を、人が辿ってきた精神史を考えることにもつながる。そこに興味を持った。
私の音楽に対する基本的な考え方は、歴史や背景等は音楽を聴く際には極力意識しないことだ。ベートーベンはフランス革命の動乱の中、自身の難聴の苦悩の中で『英雄』を書いたかもしれない。ショスタコーヴィチは当局の厳しい目をかわすために、敢えて交響曲第五番をアイロニカルに書いたのかもしれない(彼が後に語ったところによれば、あの最終楽章のフィナーレは「勝利の讃歌などではなく、"ほら、喜べ!"と強制された凱歌」だそうだ)。スペイン内乱の中で曲を書き続け、最後はフランコ派に処刑されてしまったアントニオ・ホセは、どのような心境であの『ギター・ソナタ』を書き綴ったのか。
ただ、そんなものは音楽それ自体には関係がない。音楽は、それが生み出されたコンテクストとは関係なく、ただそれ自身無垢に人の心を揺さぶる力を持っていなければならないというのが私の考えだ。だから、曲を聴く時には音楽それ自体に集中し、そのような背景は考えないようにする。そういった聴き方をしてきた。音楽は、作曲者や演奏者は理論や歴史・背景等を学び、糧とする義務があるが、聴く側にとっては逆にそういったものは音楽自身に対する印象のノイズとなって働くというのが私の考えだ。作曲者や演奏者が理論や歴史背景等を学ばないのはただの怠慢で、そこで得た知識的なものも含めてそれを如何に音楽に組み込んでいくかが送り手としての音楽家の責務となる。逆に、受け手は(少々残酷に過ぎるようだが)そういった音楽自身以外のコンテクストは排除した上で、純粋に音楽を享受することで音楽それ自身の価値を体験しなければならない。そう考えていた。大雑把にまとめると、音楽の送り手としての作曲者や演奏者は、知らなければならない。音楽の受け手としての聴衆は逆に、知ってはいけない。それによって、送り出された音楽がそれ自身の力によって受け手にどのように解釈されるか、どのように影響を与えるかといった音楽それ自身の力が試されるのだ。ただ、敢えてそこまで音楽に対して純粋さを求めるのでなくても、歴史背景や音楽史の流れを意識しながら聴いてみるのも、それはそれで面白いのかもしれないと思い始めた。例えそれが時に音楽に対する色眼鏡として働くことがあるとしても。その色眼鏡を作り出す力もまたある意味では音楽の力なのかもしれない。
そう思いながら、ワーグナーやマーラー、ストラヴィンスキーといった、19世紀後半~20世紀の作曲家の、比較的編成の大きな歌劇や交響曲的なものを改めて真面目に聴いてみている。マーラーの交響曲第二番『復活』など、実に劇的で壮大で、美しい。やはり、喰わず嫌いはしないにこしたことはないものだ。
2006年6月18日日曜日
オーディオ新時代 - SACD/DVDオーディオ
通常の音楽CDより高音質であることが売りのこの2つのフォーマットですが、実際どのくらい違うかって、正直ビックリするくらい違いました。音質ってやつは結局いいスピーカーやアンプ使っていい音が出せる環境を整えてあげないとなかなか違いがわからないもので、実際通常のミニコンポクラスだと"20bitデジタルリマスター"とか言われてもはっきり言って違いがわからないものです(苦笑)。けれどこのSACDやDVD-Aはもう意識しなくてもわかるほど圧倒的に音の質が違う。フォーマットの違いだけでこんなに音質が変わるとは思いませんでした。私は主にクラシックで試したわけですが、SACDやDVD-Aは通常のCDと比べて楽器の響きが明らかに自然なのです。これまでもCDの響きが不自然だと思って聴いていたわけではありませんが、SACD、DVD-Aと比べると明らかに楽器の響き方が薄いと言うか平坦な感じがするのです。それは特に弦楽器の高音域に顕著で、オーケストラで高音の弦楽器が続く部分なんかは音の響きの美しさにビックリしました。ちなみに私がそのSACDの弦楽器の響きの美しさを特に実感したのはこのゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団演奏のショスタコービチ交響曲5番&9番。演奏は賛否両論なこのアルバムですが、5番の第4楽章最後の弦の響きは非常に美しい。さすが石丸電気のSACD/DVD-A専門フロアで優良録音として紹介されていただけあります。
で、SACDとDVD-Aのあまりの音の良さにすっかり感激してしまった私は、早速次の段階に行ってしまいました。SACDやDVD-Aの魅力の1つはその高音質のみならず、最大6chをサポートするマルチチャンネル。私が買ったX-UN9(D)は別売りのオプションを買えば簡単に5.1chのシステムができあがります。しかも値段もそう高くはありません。・・・買ってしまいました(爆)。これで右、左の通常のステレオだけでなくセンタースピーカー、左右後方の2基のスピーカ、そしてサブウーファを搭載したマルチチャンネルシステムです。早速試してみました。比較材料は私の大のお気に入りの録音である、カルロス・クライバー指揮ウィーンフィル演奏のベートーベン交響曲5番&7番です。これは元々CD版を持っていたので、SACD版を購入しての聴き比べです。
この名演中の名演との誉れ高いクライバーの『運命』で比べるに、やはりCDとSACDでは音が全然違います。しかもそれがステレオから5.1chに変わるともはや比較にならないくらい違う。モノラルからステレオになった時も同じ衝撃があったのでしょうが、5.1chマルチチャンネルは通常の2chステレオと比べて明らかに音の立体感が違います。オーケストラの各楽器のそれぞれがどこに位置してどこから音が出ているかがわかるような立体感と遠近感。壮大なオーケストラの曲ではその違いは直接リアリティの違いになります。部屋の中の小さなミニコンポでもこれまでの最高級2chオーディオに負けないくらいの臨場感が味わえる5.1chサウンドは素敵です。そしてやはりSACDの素晴らしい響きとCDよりも遥かに広いダイナミックレンジがより一層の生々しさを演出してくれて、これまでのCDとは比較にならない程音の体感が違います。SACDにDVD-Dというソフトのフォーマットの違いと5.1chというハードの違い。オーディオは進化しています。
今回比較に使用したクライバーの『運命』は元々2chステレオの録音を5.1chにリミックスしたものですが、近年出ているそもそも録音からしてマルチチャンネル録音のものはまた更に一段臨場感が違います。先のゲルギエフのショスタコ5番もそうですし、アンドリュー・マンゼとイングリッシュ・コンサートのモーツァルト作品集『The Night Music』なんかも古楽器の響きとSACDのマルチチャンネルが楽しめるいい録音だと思います。
SACDもDVDオーディオも市場に出てからしばらくはイマイチ認知が広がらずなかなか苦戦を強いられていたようですが近年は主にクラシック/ジャズ界を中心にかつての名盤がSACDやDVD-Aで再リリースされたり、タワレコやHMVがプレーヤーも含めてキャンペーンを打つ等、やっと少しずつ広がりを見せ始めたように思います。ロックの世界でもクイーンの『オペラ座の夜』やDEEP PURPLEの『MACHINE HEAD』がDVD-A、PINK FLOYDの『狂気』がSACDで出てくる等、少しずつタイトルが増えてきています。クラシックギターでは村治佳織や山下和仁なんかの最近のものはSACD盤も出ています。ラッセルの新譜もSACDで出るとのことで予約していたのですが、発売するなり取り扱い不能。どうなってるんでしょうか?ラッセルの所属するtelarcは優秀な録音技師を擁し早くからSACDに取り組んでいるレーベルだけに期待が持てるのですが。ともあれしばらくはSACDとDVD-Aを買い漁る日々が続きそうです。
2006年5月28日日曜日
結婚式と二次会のギター
ともあれ私は今回もギターを弾くというミッションを受けていたわけです。まぁ披露宴ではなく二次会でということだったので、まだ緊張は薄いのですが、二次会には二次会でそれなりの敵があります。そう、それは二次会特有の落ち着かないざわついたオーディエンスです。披露宴ならまだ皆静かに聞いてくれますが、二次会となるとそうはいきません。どうしたって多少はざわつく中での演奏を余儀なくされます。そんな中無事にミッションを遂行するには、周囲の雑音にめげない強いハートが必要なのは言うまでもありません。今回はその辺りを考慮して、私の持ち曲の中では比較的雑音に強い『花祭り』をチョイスして演奏の舞台に立ちました。
その時の環境はマイクもまともにない状況でカーペットの宴会場に100人のざわついた聴衆。はっきり言ってそんな中でギターがまともに響いて聞こえるわけがありません(爆)。音を増幅させる要素がないのに音を吸収したりかき消したりする要素だけがふんだんにあります。仕方がないので「聞こえねー」とか「悲しげにはじまったぞ」とか「マジだな」とか何とか、とかく耳に入ってくるノイズを聞こえないふりをしてスルーして、ひたすら演奏に集中します。後半はもう完全に自分の世界に入ってました。ちゃんと音が聴衆に届いていたかどうかは定かではありません。まぁ緊張もあまりせず、調子も絶好調ではないけど悪くもない程度の演奏ではありましたが、返す返すもせめてマイクはほしかった・・・。どうせ弾くならやっぱり聴いてほしい、というかせめて最低限聞こえてほしいですからね。まぁ、よしとしましょう。必要な機材の指示を明確に出していなかった自分が悪かったわけですから。そんな日もあります。そして演奏が終わった後は完全に呆けた状態で、あまり他の人とも話をせずにチビチビ水割りを飲みながらイスにおとなしく座っていたとのことです。
しかしウチのグループ、今月一杯で紅一点だった今日の新婦がめでたく寿退社されるわけで、来月からは見事に野郎オンリーの環境になってしまいます。いやまぁ、だから何だと言われても困るのですが。ふむ。
2006年4月8日土曜日
ソルの『幻想曲op30』を探して
思えばこの曲を初めて(意識して)聴いたのは大阪シンフォニーホールでの村治佳織のコンサート。あの時以来ソルの曲では数少ないお気に入りの1つのこの曲ですが、なかなか録音が見つからないのです。コンサートで弾いていた村治佳織も録音では残していないし、福田進一の2枚のソル作品集にも入ってない。セルシェルが録音しているようですが、・・・品切れです。とりあえずは諦めてブリームの演奏を聴くことにします。誰かソルの『幻想曲op30』のいい演奏が聴けるCD知りませんか?
2006年2月27日月曜日
どうももう一つなクラシック
このCDは学生時代、いつだったかとにかくBKCの演奏会に行く前、京都駅地下街ポルタのJEAUGIAで買ったCD。当時バーンスタインが好きだった私は、彼が指揮するモーツァルトのシンフォニー25番を見つけて、嬉しくなって買ったものだ。実際聴いてみて、やっぱりカッコいいと思った記憶がある。ところが、今聴くとこのCDが物足りない。シンフォニー25番が全然カッコよく聴こえない。それどころか、その演奏は"私が嫌いなクラシック"そのものだった。なるほど、価値観は変わる。
気に入らない点は何かと言うと、正直それは一点だけだ。言葉で言うのは簡単だ。「リズムが生きてない」。以前にもこの日記でクラシックに対する苦言として提示していた、その一点だ。だが、それだけで音楽の魅力は激減する。モーツァルトというのはメロディーの天才だ。彼以後の作曲家が数小節を費やしてメロディーを構築して行くのに対し、彼はわずか数個の音だけであっという間に聴いているものの印象に残る旋律を作り出す。その最たる例が交響曲41番『ジュピター』の最終楽章のフーガの旋律であり、K.563の弦楽三重奏のためのディベルティメントの最終楽章であろう。ところが、そのモーツァルトの美しい旋律を聴かせるのにあまりに集中しすぎるためか、全然リズムが生きていない。ただ優雅に聴かせるだけで、リズムの変わり目に対する意識がまったく甘い。特にシンフォニー25番は拍子こそ変わらないものの、リズム的には全体を通して裏打ちの面白みを活かしながらテンポもほとんど変えずに、それでも大きく2つのリズムセクションに分かれて曲が進行する。そのリズムの境目や、あるいはリズムの聴かせ方が、音のエッジが生温くて正直リズムの輪郭がぼやけている。のんびり音が立ち上がって来るバイオリンやビオラといった弓で奏でられる弦楽器の特性上仕方ないという見方もあるが、そもそもクラシックでは響きの美しさに対する感覚に比べてリズムに対する意識が相当甘い。勇壮さを醸すのにオーケストラの音の厚みに頼っているようじゃ私に言わせればそもそも話にならない。生きたリズム感さえあれば人を引っ張る力の厚みなんて自然について来る。どうもやはり、今のクラシック音楽というのは音楽の魅力を伝えるという事に関して間違った方向に進化を続けて来たような気がしてならない。以前にも言った。旋律という音楽の美しい肢体は、リズムという血が通って初めて躍動する。クラシックの演奏家は、もう一度その事を考えてみてもいいのではないだろうか。
2006年1月29日日曜日
ハードな日常と一目惚(?)の『甘ったれクリーチャー』
というわけで肉体的な疲れはともかくとして、集中と緊張を強いられる日常のストレスはやはりどこかで解消しなければなりません。先週は『ポーラ美術館の印象派コレクション展』に行ってきましたが、今週は20時くらいに日吉に着いてから駅と一体化している東急デパートの本屋と古本屋を巡っていました。取り立ててお目当てがあるわけでも、今日は実際何か本を買ったわけでもないのですが、本屋というのは個人的にはとても落ち着く場所なのです。まぁ本は人よりは読む方だとは思うけど、本の虫という程ではない私ですが、でも本に囲まれていると落ち着くのです。そんな家庭環境だったせいでしょうか(?)。私の場合は立ち読みもほとんどせず、表紙や背表紙や本屋さんのアピール文なんかをのんびりと眺めながらフラフラと店内をさまようだけなのですが(苦笑)。
そしてとりあえず毎週のように立ち寄っている古本屋に行って何かいい本入ってないかなと物色しているとき、ふと骨太な音を出しているエレキギターの音に耳が止まりました。真空管特有のざらついているのに暖かなオーヴァードライブ。その図太いサウンドのギターリフにと裏打ちを刻むハイハットに乗る哀愁を含んだヴォーカルのメロディー。そのBGMを聴いて一瞬で「ああ、凄くカッコいい曲だな」と思いました。最初はその音と雰囲気からDIZZY MIZZ LIZZYかなと思ったのです。彼らのアルバムは一枚しか持ってないし、まぁ俺の知らない曲なんだろう、と。ところが、よく聴くとなんと歌詞が日本語です(爆)。何というか、特に大学に入ってクラシックやら民族音楽やらが普段接する音楽のメインになってから、どんどん歌詞を聴かなくなっていっている感じです。メッセージ性なら詩に持たせるのではなく音で出せという、ある意味酷な要求を突きつける嫌な聴き手です(爆)。とはいえその曲、もの凄くカッコよかったのです。よく聴くとなんか何処かで聞いたような声。どこかで聞いた声なのです。必死で思い出しました。
「・・・草野マサムネじゃん!?」
そうわかったのはいいのですが、次には混乱が私を待っていました。スピッツをちゃんと聴いていたのなんてフェイクファーをレンタルで借りたくらいが最後です。そもそもCDなんて一枚も持ってません。「あれ?スピッツってこんな骨太なギター弾くバンドだったか?」。マサムネがスピッツとは別に作ったユニットかなと本気で思ったくらいです。何しろマサムネはあの独特の声質。一度わかってしまえばまぁまず間違いようがありません。とすると『空も飛べるはず』や『愛の言葉』、『スパイダー』、『不死身のビーナス』、『チェリー』といったような私が知るスピッツでは、この重さのギターは正直ありえない。これは何だ!? って話になります。結局店内で本の物色そっちのけで一曲聴き切った私は、カウンターの方に歩いて行って今かかっているCDを確認します。『スーベニア』。・・・結局スピッツかよ!? 「こんなに重いギター弾くバンドだったっけ?」という思いはともかく、私はその古本屋を後にしてTSUTAYAへ向かいます。中古CDも売っているそのお店、本来はそこで買って行くべきなんでしょう(苦笑)。ごめんなさい・・・。
無事にTSUTAYAで『スーベニア』をレンタルできた今、部屋ではかなりのヘビーローテーションでその一目惚れの曲だった『甘ったれクリーチャー』がかかっています。ん~、やっぱりカッコいい。ほとんど他の曲そっちのけです(爆)。絶対カラオケで歌ってやろうと思うわけですが、この曲って音の割に歌詞が何かちょっとはずかしいなぁ・・・。
2005年12月12日月曜日
A Cry For The New World
さて、受験生時代より「集中したいならBGMはメロディアスなメタル系の音楽が一番」という私は、社会人になってからもここ一番のBGMにはよく様式美系またはプログレ系のメタルを使います。最近はDream Theaterの『Octavarium』と『Train of Thought』が一番のお気に入りで、永遠の定番としてはROYAL HUNTの『PARADOX』が控えている私の"集中したい時のBGM"。今日はPRAYING MANTISの『A Cry For The New World』。実に久しぶりに聴きました。ちなみに上述のDream Theaterの2枚はこれまでの彼らの作品の中でも別格のクオリティを持った大傑作だと私は思っているわけですが、それについてはまた別の機会に。
そもそもPRAYING MANTISというバンド自体がかなりマニアックで(苦笑)、恐らく私と同世代のメタル好きだとFAIR WARNING辺りを好きで聴いていたら周りの誰かに「それならこれも好きになるんじゃない?」って感じで紹介されるというパターンが多いのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。同じような出会い方はHEARTLANDなんかも。
このPRAYING MANTISというバンドは特に深い思い入れがあるわけでも何か気の効いたエピソードがあるわけでもないのですが、久々に何となくかけてみたらいやこれが結構よかったのです。特にアルバムのタイトルトラックである『A Cry For The New World』。少なくともこの曲は哀愁に満ちたハーモニーのサビとヘヴィなギターのリフが融合した素晴らしい名曲だと思います。たまにゃしばらく聴いてないCDでも引っ張り出してみるもんです。ここ一年半ほど、朝の目覚ましはずっとレミオロメンだったわけですが、久しぶりにCDを変えてみました。明日の朝は『A Cry For The New World』です。朝っぱらからなんかちょっと悲しげですが(苦笑)。
We should be breaking chains
Not breaking hearts and souls
A Silent Voice will grow
A Cry for the new world...
2005年11月20日日曜日
免許の更新と『アルハンブラ宮殿の思い出』
さて、私の免許は実は前回まで「眼鏡着用」の条件がない、その気になれば裸眼でも運転ができる免許でした。最近は仕事でもずっと眼鏡かけてるし、会社の健康診断でも裸眼で運転できる程の視力は出てなかったように記憶しているので、今回は「眼鏡着用」の条件を追加してもらおうと思っていたのです。視力検査の際、係員の人に「今回は眼鏡着用でお願いします」と言うと、係員の人は「そう?でもまぁまず裸眼から測ってみましょうか」と笑って返します。仕方がないので眼鏡を外して「右、下、下・・・」と適当に答えていきます。するとちょっとして係員曰く、「うん、見えてるね。裸眼でいいですよ」。ほう。
・・・今回もまだ裸眼で免許を更新できました。
さてその後、この5年以内に駐車禁止違反が一回ある私は一時間の一般講習を受けるわけですが、そこで観る映画がなかなか熱かったのです。父母に子供三人という家族の母親が交通事故に遭うところから始まり、SE(と思われる)父の多忙な仕事の合間を縫ってのほとんど寝ずの生活の看病にも関わらず母が死んでしまい、その後父が仕事をしながら中学生の長男、小学生の長女、幼稚園の次男を男手一つで育てていこうとするというストーリー。父の忙しい仕事に気遣い、話したいことも話せずにすれ違う長男、母になら言えたことも父には言えずに苦しむ長女、まだ小さくて手のかかる次男、そんな状況の中家族はすれ違い、最後は次男が父方の実家の祖父母の元に引き取られて家族が離ればなれになっていきます。交通事故に遭った家族のその後の悲惨さをこれでもかというくらいフューチャーした、暗くて重い映画です。
ところで、私がここで話題にしたいのはこの映画の内容ではありません。その中で使われていた音楽についてです。母が亡くなってしまった際、火葬場からの帰りに次男が「お母さんの所へ届け」と紙飛行機を投げます。その際、静止する中空の紙飛行機のバックグラウンドに、おもむろに音楽が流れ始めます。哀愁溢れるクラシックギターのトレモロの旋律。そう、『アルハンブラ宮殿の思い出』です。「アルハンブラかよ!」と心の中でかなりツッコミ入れました。
この映画の中でこの曲は母のテーマソングとして扱われるらしく、父、長男、長女、次男それぞれが母を思い出す際、ピアノ編曲版や歌唱曲版など、様々に形を変えながら流れてきます。例えば長女。日記に「辛い時はお母さんが好きだった歌を口ずさんでがんばっています」と書いて、おもむろに窓を開けて歌を口ずさみ始めるわけですが、その曲もやはりアルハンブラ。いや、口ずさまねーよ!アルハンブラを好きなのはいいけど、それを鼻歌って無理があるだろ!音程が高く跳躍するところ辛そうだし!・・・なかなか、素敵です。アルハンブラが好きだった母、一体何者でしょうか。自分でギターを弾かないのに子供にまで「お母さんが好きな曲」としてアルハンブラを印象付けるのはまずありえないでしょうから、何かしらギターとは関わりがあったのでしょう。亡くなった時点では専業主婦で、結婚前は出版社に勤めていたという情報が映画の中で出てきました。とすると仕事がギター関係ということはないでしょう。やはり学生時代に弾いていて、仕事を辞めて専業主婦になってからまた趣味の一つとして再開したとか、そんな感じかと思われます。なかなかやります。まぁ映画の中にギターの映像は一度も出てこなかったわけですが。
しかし『アルハンブラ宮殿の思い出』ってそんなに悲しい曲でしたでしょうか?映画の中で聴くアルハンブラの主旋律は、何だか妙に神妙で悲しく聴こえたのです。あの曲って確かにギターらしい哀愁はあるけど、悲劇的ってほどの重い悲しみは持っていない印象だったのですが・・・。やはり音楽を聴く際その裏にある背景というのは印象に大きく違いを与えるものです。おかげであれ以来、アルハンブラの旋律が私の耳を離れてくれません。これまで(あれだけ曲を弾いてきたにも関わらず)アルハンブラだけは明確な意志を持って弾かずにいた私ですが、最近ちょっと弾いてみようかななどと思ってみたりもしています。私にそのような心境の変化をもたらしてしまうとは運転免許の更新時講習、恐るべしです。
2005年10月6日木曜日
ハバネロとギター
高校時代も卒業後も随分バカな真似をしてつるんだ仲、その程度の頼みならどんと来いと二つ返事で引き受けたのはいいけれど、さて何を弾くかが問題です。正直最近は期末の忙しさと編曲がかぶったせいで、独奏曲はホントにほとんど弾いてません。すぐに人前で出せると言ったら『花祭り』や『シャコンヌ』といった学生時代から得意とするレパートリーくらいですが、前者は派手すぎるし後者は暗すぎる(苦笑)。一ヶ月半でできる簡単な曲でも選ぶかなぁ、とか色々考えていた時に、ふっと思い浮かびました。そうかぁ、式は11月かぁ。
・・・なら『11月のある日』でいいじゃん。
決定しました(笑)。
最近はこの曲も中間部の長調に転調する部分は弾いてなくて忘れかけていたので、早速譜面を持ち出して指を置きます。右手、左手、少しずつ感覚を思い出しながら、ゆっくり弾いていきます。少しなまってギクシャクする指がもどかしいと言えばもどかしいのですが、やっぱり楽しい。やはりどんな形であれ舞台という目標があるとギターを弾こうというモチベーションも上がるし、楽しさも増すものです。この三連休は久々にギター漬けですね。
2005年9月28日水曜日
フォルクローレメドレー編曲完了
とりあえず今回は『花祭り』の編曲に苦労しました。学生時代、独奏では『花祭り』を得意中の得意としていた私ですが、実はあの独奏用の編曲ってあまりフォルクローレっぽくないんですよね(苦笑)。で、まず自分の頭の中の『花祭り』のイメージを壊して合奏に変えるのに手間取った。またあの曲、ネイティブのバンドでも最初から勢いよく飛ばしたり、あるいはゆったりやまびこのように問いかけるように聴かせたり、暖かくほのぼのとした雰囲気に変えてみたりとバンドによって全然色合いの違う曲調にしちゃうから尚更タチが悪い。結局『灰色の瞳』と『サンフランシスコへの道』だけ先に仕上げて譜面送って、後でゆっくり『花祭り』を考えてました。んー、まぁ、ちょっとPrim2に小技を求めた編曲になってしまいましたがあれはあれなりに『花祭り』できてるんじゃないでしょうか。
これまではクラシックやポピュラーの編曲ばかりだったので、基本的に基となり参考となる譜面がある状態での編曲でしたが、今回はあるのは音源のみ、聴いて音取って編曲という初の試み。んー、さすがにちょっと苦労はしましたが結構楽しくやれました。何事もやってみるものです。
今回の編曲は何よりコンバスが楽しそう。自分で弾くんだったら迷わずコンバスを選びます。そしてエスプラナードフェスタの時のように一人で爆音で鳴らしまくることでしょう(?)。特に『灰色の瞳』はベース兼カウンターメロディみたいな感じで、全体のリズムを支えつつでも自分も歌うベースが弾くにはかなり楽しそうです。そして『サンフランシスコへの道』でかっ飛ばす、と(笑)。逆に疲れるのはPrim2。ひたすらコードですが、特に『花祭り』はブラッシング等で右手首や指を柔軟に使わないといけないし、『サンフランシスコへの道』はテンポが速いのでとにかく体力勝負。鬼門です。
後はこれにどんなパーカションがついて、どんな聴かせ方をしてくれるのか。凄く楽しみです。とはいっても今年の定演は11/29(火)。東京から出て行くにはあまりにきつい日程なのでおそらく観に行くことができないのが残念です。誰か私の代わりに聴きにいってあげてください。それでは参加する有志の皆さん、合奏を楽しんで頑張ってください。
2005年9月23日金曜日
眠れない
その後風呂に入って、一仕事終えた充実感でウィスキーなど飲みながら過ごしているとふと既に午前3時。何気なく付けていたTVからはケーナの響きが聴こえています。そう、NHKの"民族音楽紀行"です。今日は幸か不幸かチリ・ペルー・ボリビア、つまりはフォルクローレの本場がテーマのようです。
・・・それに気付いてしまったらいくら疲れていても眠るわけにはいかないじゃないですか。まして最初の一音を聴いてしまったら。もう、限界ギリギリのラインで必死に目を開けて、有名どころでは『コンドルは飛んでいく』や『太陽の乙女達』といったようなフォルクローレの演奏に聴き入ってました。いやー、あの音楽はいいですよ。