2002年9月30日月曜日

不自然な空

 曇りの日の東京の空は、なんだか不自然に白く明るい。その事実に今日気付きました。街の灯が低くかぶさっている雲に反射して、まるでプラネタリウムの上演が始まる前のドームのような、妙に白くて明るい夜空が見えるのです。まるで薄い布を空からかぶせて、その裏で照明がついているかのように。天幕という言葉もその意味でよく当てはまります。よく考えてみればおかしな話です。新潟でも、京都でも、夜空は暗く、深く広がるものでした。ですが、ここ東京では、少なくとも曇り空の日は、まるで乳白色の煙のような不確かな光達が明るく白く、奥行きなく空をおおっているのです。うまく言えませんが、何かが不自然です。違和感があります。これが都会というものなのでしょうか。

2002年9月29日日曜日

日曜終電帰宅

 昨日も今日も納品のため会社に出ていた私ですが、今日はなかなか危険でした。夜も11時を周り、調整作業も大詰め。まぁ、まだ余裕だろうと思ってのんびりしていたら会社を出るのが0時を回ってしまったのです。そして駅に着いてみると、後1分くらいで家に帰れる最終が出て行くところではありませんか。いや~、危険でした。ってゆーか、なんぼ納品のためとはいえ日曜日に終電で帰路につくというのもなかなかシュールなものですな・・・。

2002年9月26日木曜日

嫌な予感

 やはり何度どう考えても、基本的にも応用的にも今の私は忙しいようです。来月中旬までがおそらくヤマ場。でもこのままいくとなんか来月一杯はほとんど休みのないシュールな日々が続きそうな気もします。やれやれですな・・・。

2002年9月23日月曜日

束の間の休息と海辺のカフカ

 今回の三連休も、昨日一昨日と出社して納品に向けての追い込み作業に従事していた私ですが、今日は突然「皆身が持たないから一日くらい休もう」という結論に達し、急遽家でのんびりできることになりました。とりあえず村上春樹の新作『海辺のカフカ』を読み、ちょっとギターを弾き、ちょっと編曲をして、・・・とやっているとあっという間に時間が過ぎていきます。書きたい文章もあるのです。一、二ヶ月程前と違って、今は書く言葉があるような気がするのに、今度は書く時間がないのです。そりゃそうです。冷静に考えたら学生の間ずっと途切れのない時間の中でやってきたこと達を、今日一日ですべてやることなどできるはずがありません。社会に出て一人で生活していくために奪われる時間を差し引くと、手に残された時間はやりたいことをすべてやるにはあまりに少なすぎます。本を読むとか、あるいは簡単な編曲とかなら細切れの時間で少しずつやることもできますが、本だっていい本は集中して読みたいし(今回の『海辺のカフカ』のように)、ギターやもの書きに至ってはまとまった時間で意識を高めて集中させないととてもまともなものにはなりません。時間が足りないのです。一体何故こんなことになるのでしょう。もう一回ミヒャエル・エンデの『モモ』でも読み直してみましょうか・・・。

 さてさて村上春樹の『海辺のカフカ』ですが、この作品はまた色々な意味で実に村上春樹らしい作品でした。まぁこれから読む人もいると思われるので話の詳細については語りませんが、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『スプートニクの恋人』でも見られるような構成の中で、いつの頃からか村上春樹が追い続けている言葉達が鏤められています。言葉で説明しても伝わらないものはまったく説明しないのがいちばんいいので具体的に何がどうとは申しませんが(笑)。

2002年9月22日日曜日

バッハの譜面の美しさ

 思えばバッハというのは凄い作曲家です。編曲を実際に行ってみると、彼の曲が持つ完全なまでの構築美はまさに見事という他なく、他のどんな作曲家も少なくとも音の構成という面ではバッハほどの緻密さも美しさも持ち合わせていないように思えてしまいます。またバッハの曲は譜面を作っていくとその音符の配置がただそれだけで見た目的にも美しい。バッハの自筆譜は今も残っていて、それは結構至る所で見ることができたりしますが、彼の自筆譜がまた下手な印刷なんかよりよっぽど丁寧に律儀に書いてあるのです。あれだけ音数が多くて細かい譜面を手であんなに綺麗に仕上げるとは、きっと相当な完璧主義者だったんでしょうね。一体彼は何を思いながらこのような音楽を生み出していったのでしょうか。もし生きていたら、突然押しかけてでも話をしてみたいものです。

2002年9月21日土曜日

BWV826のSinfoniaをギター編に・・・

 さてさて、只今バッハのパルティータ2番(BWV826、ピアノのやつ)のSinfoniaをギター独奏に編曲しようと試みているわけですが、ここに来て見事に頓挫しかけています。いや、編曲に挫折したというより、編曲しても弾けないという事実に気付き始めたのです。・・・編曲始める前に気付けって話もありますが、まぁまぁそれは置いておいて、とにかくまずキーがどんなに頑張ってもギターに合わない。原曲はCmなのをEmに移調して、おそらくこれがギターでこの曲を弾ける可能性のある唯一の調だなと頑張ってはみたのですが・・・。なにしろ臨時記号でひたすらEとBにフラットを付けられたんじゃあギターじゃ弾きにくいことこの上ない。それでも2拍子で進んでいる内はまだいいのですが、3拍子に転調してフーガに入ってからは調性がどうのこうのというよりとにかく人間にゃあ弾けません。一体何がどのくらい弾けないかって、それはとりあえずMIDIを聴いていただければ理解していただけるかと思います。・・・二重奏なら問題なく弾けるんだろうけどなぁ・・・。


 そうそう、この曲は元々3部構成で、最初の和音を中心にゆったり進んでいくところは現在まだ編曲しておりません。後から付ける予定ですが、とりあえず今は2部から始まります。

2002年9月16日月曜日

平穏な一日のはず

 今日は三連休唯一の(泣)休み。12時間睡眠から目覚めた私は、「そういや昨日は晩飯も食わずに寝続けてたな」と腹が減っていることに気がつき、とりあえずいきつけのラーメン屋に飯を食いに行き、その後ドトールでコーヒーを飲みながら読書というやることがない休日の定番のノルマをこなし、ギターを弾いてバッハを編曲して一日が過ぎていきました。なんてことのない平穏な一日のはずです。そう、なんてことのない一日のはずです。

2002年9月15日日曜日

12時間睡眠

 帰宅後倒れるように眠りにつき、怒涛の12時間睡眠をかましてしまいました。やはり疲れていたのでしょうか・・・。久しぶりに朝Macでの更新です。さ~て、ドトールでも行って朝飯食ってこようかな・・・?

2002年9月14日土曜日

侵入者発見

 ここ二週間の間、予想されていたこととはいえとにかく仕事が忙しく、日付けが変わる前に家に帰れた試しのない生活が続いています。そしてとりあえず今日も明日も会社なのです。う~ん、疲れますなぁ・・・。

 で、ウチに入り込んでいる鳴く虫なのですが、とうとう今日姿を拝見することができました。どうやらヤツの正体はコオロギのようです。家に帰ってから、窓を開けてくつろいでいると、外で鳴いている虫の音に引かれたのかキッチンの方から部屋の方へピョコピョコと這い出してきたのです。姿が見えたのでつかまえて外に出してやろうと思って近付いていくと、また彼はどこか目の届かないところへ姿を消していきましたとさ。

2002年9月10日火曜日

風流でやかましい侵入者

 どうやら家の中にキリギリスだかマツムシだか、とにかく鳴く虫が入り込んでいるようです。帰宅してから今まで、ずっと玄関の辺りでキィキィキィキィキィキィ・・・、と鳴き続けています。これがまたウチの玄関からキッチンの辺りはよく音が響くんですわ。なんというか、もはや風流を通り越して純粋にうるさいの域に達しつつあります(苦笑)。姿を探せど姿は見えず、あからさまに物音を立ててみても数秒後にはまたすぐ鳴き始め・・・。もう諦めてこれは風流なのだと自分にいい聞かせて眠ることにします。

2002年9月7日土曜日

生活とテンポ

 早すぎるテンポは、不自然に歪められたものなのだろうか。音楽のテンポは生活のテンポと密接な関係があるとよく言われる。バッハやモーツァルトの時代には、馬より早い速度を人が体験することはなかった。だから最も速いプレストでもせいぜいBPMで140といったところだ。モーツァルトのト短調シンフォニーだって、現在ではBPM150オーバーで演奏されるのも普通だが、当時はそれよりもっとゆっくり演奏されていた。

 今はどうだろう。車やバイク、あるいはそれよりもっと上の速度を経験できる現在、BPMが200を超える曲だって珍しくない。テンポはそのまま刺激と見るなら、昔のゆったりした甘ったるい刺激では、現代のテンポにはついていけないのかもしれない。もっとも、現代ではその刺激の強さはニアイコールでストレスの強さにもなっているようだが・・・。

 テンポが速くなった。世界が狭くなった。それだけで飽き足らず、今度は時間と空間を飛び越えるかのように、テンポ感なんてまったく無視してしまうかのように、仮想のネットワークをパケットが飛び交うようになった。移動する距離が速度に比例しない世界で、一体テンポの概念はどうなってしまうのだろう。距離と速度が結びつかないこの現実で。そしていつからか、ステップを忘れてしまったかのように、踊りはドタバタと不様になり始め、最後には踊ることすらできなくなってしまう。「踊らされるな、自ら踊れ、周りが見とれてしまうほど」とずっと言い聞かせてきたにも関わらず。踊れなくなるだけならいざ知らず、そもそも踊らされることすらできなくなる日も来るかも知れない。世界は縮まり、壊れていく。人はつながり、拡散していく。情報は膨らみ、感性は削られていく。つながる世界は、孤立している。

 何のことはない、ただこの場でやりたかったことは、誰のためでもなく、ただ知りたかったことは、一つ問いを投げかけてみること、次のステップをためらう自分にいつなったのかということ。一体いつから、踊ることができなくなったのだろうか。それとも元々、踊ることなんてできやしなかったんだろうか。

2002年9月5日木曜日

コミュニケーションツールとしてのコンピュータ

 コミュニケーションツールとしてのコンピュータは、時間と空間の概念を限りなく圧縮してしまうことでコミュニケーションの範囲を拡大することに関しては未だ底知れない可能性を秘めている。が、それと同時にコミュニケーションツールとしてのコンピュータの限界もまた少しずつ見え始めている。

 ひとつには基本的にコンピュータは「冷たいコミュニケーション」しかとれないということが挙げられる。コミュニケーションのモーダリティとしてよく挙げられる視覚や聴覚、運動神経、距離、リアルタイム性や相互作用性、それらの条件がうまく機能しなくなるためだ。高画質なビデオ会議では、実際面と向かうのと比べてもほとんど視覚情報や聴覚情報他の欠落はないにも関わらず、コミュニケーションの効率は著しく低下するという実験結果もある。それがチャットや電子メールになると、視覚や聴覚によるリアルタイムなコミュニケーション情報は皆無になる。表情や筋肉の動きやアクションによる相互作用や、それらによる文脈の強調効果がなくなるばかりか、声の抑揚やテンポといった情報も失われていく。そしてコミュニケーションの粒度は粗くなる。そしてそれがそのチャットや電子メールでのコミュニケーションの場でだけ効率が悪くなるのならまだよいが、コンピュータでのコミュニケーションの比率が多くなってくると今度は現実に面と向かい合った時に、普段コンピュータにない表情やら声色やらの情報を処理することができなくなってくる。何か最近、そんな人が増えてきているような気もするが・・・。

 少し話は変わって、コンピュータでシステムを作ろうとする場合、特に最近はナレッジマネジメントなどが流行りとなりつつあるが、何よりも致命的なのがコンテキストの欠除である。我々は誰かと面と向かって話す時、明確に意識はしていなくても「この相手にならこういう言い回しで通じる」という、相手と自分が共有するコンテキストを意識してコミュニケーションを行っている。例えば私がクラギタの人間と話していて、頭が禿げてきたらとかいう話題で盛り上がっていたとして、「ブリームは嫌だなぁ」という。きっとそこで話しているクラギタの人間には通じるだろう。が、同じことを同じ文脈で会社の人間に言ってみても通じないだろう。コミュニケーションの不可能性は、相手にメッセージを伝えることはできないという事実に基づく。メッセージは伝わるのでなく、受け手が自分のコンテキストの中で解釈しているだけなのだ。同じ会話の流れで同じ言葉を口にしても、常に相手に伝わるとは限らない。そのコンテキストを、不特定多数のコンピュータネットワークの中でどう形成していくのか。コンテキストなしでただ知識だけをマネジメントし、創造していくことができるのだろうか。ってゆーか、今それを作れと言われてるんだよ、わしゃ!ああもう、どないせーゆーねん!? ってゆーか日付け変わる前に家帰らせろ!

 きよが日記でコンピュータコミュニティ(?)について書いていたのを見て職業柄思うところも多く、少しだけ書いてみました。そう、笑いあってこその職場だし教育現場だよ、きよ。わしゃあもう疲れたけん、あんたぁ頑張っておくんなせぇ・・・。

2002年9月1日日曜日

無題

 まだまだ心に迷いがあるな。・・・脆い。人とはなんと脆いものよ・・・。