2001年2月27日火曜日
ドタバタ
そう、新潟昨日今日となかなかハードに雪が降ってましてね、その影響かわからないのですが、実家ではPHSが使えなくなっているのですよ。夏は問題なく使えたんですけどね・・・。圏外表示がされてるわけでもないのに全然つながらん。私は雪が電波を乱しているのだと勝手に解釈しています。おそるべし、雪・・・。
2001年2月20日火曜日
寺田屋拝見
さてさて、『何もない未来へ』の第五章、アップしました。ついでに第四章、早速ですがちょいと手直しが入りました。とりあえず書けるうちに書いときます。今日なにげにエンディングまでの構成を計算し直してみたら、まだ実は結構書かなければいけないことが判明。東京に行く前に書いておかないと、また一年とか続きを書かずにいそうなので、できれば京都にいる間に完成させたいのですがどうなることやら・・・。
2001年2月19日月曜日
尚永ギター教室発表会
演奏の方はまぁ細かいミスはそらありますが、大方無難に弾けたのでとりあえずは及第点かなと?ただし総じて粗さが目に付きました。まぁ今回は定演で弾いた時とはちょいとバージョンを変更しまして、『ブエノスアイレスの夏 ayumバージョン(別テイク)』って感じのものにして弾いてました。細かい変更なんですけどね。部分的に和音をアルペでばらしたりカッティングのリズム変えたり終わりのハ-モニクスの出し方変えたり中間部の運指変えたりテンポの揺らし方変えたりした程度です。こう書くと「結構変えてるじゃん」とか思われそうですが、実際聞いてみれば案外そうでもありません。下手すりゃ変わってることにも気付かないでしょう。そんなものです。演奏会終了後、元合奏団のYさんに「よかったよ」と言ってもらえたのはちょいと嬉しかったですね(まぁ社交辞令かな?)。演奏会後、京大の聖帝殿と共に3月の喫茶アルハンブラでのコンサートに乗り込む決意を固め、今日の演奏会は終了しました。ちなみに金がなかったのでコンパは行けませんでした(苦笑)。やれやれです。
そう、そして一部の皆さん(日本語おかしいな?)お待たせしました。一年以上もブランクが空きましたが、『何もない未来へ』の続きをアップしました。そして今回のアップで『何もない~』を正式にNOVELの方にアップし直し、第一章を少しだけ修正しておきました。最初から読みたい方はNOVELから、第四章から読みたい方はこちらから行ってください。私に早く書けと言ってくれていた皆さん、申し訳ありませんでした。そしてありがとうございました。しかしこの小説、試しに文字カウントしてみたら第四章までの時点で15,000字。卒論より長いじゃねーか・・・(爆)。
2001年2月17日土曜日
パラサイト・シングル考と『Tango Zapateado』
『パラサイト・シングル考』
一昨日から今朝にかけてと朝日新聞の朝刊でパラサイトシングルに関する特集をやっていた。数名のパラサイトシングルと思われる人達の生活と言葉を載せるというものだ。
ところで、パラサイトシングルという言葉はご存じだろうか。その定義は2/14付けの同特集によれば「成人し、仕事を持っても親元を離れず、経済的にも家事等の労力の面でも」親に依存する人ということになるらしい。私の記憶が正しければ、従来その定義に「結婚もせず」というものが入っていて、故に「パラサイトシングル(親に寄生する独身者とでも訳すのか)」という言葉が生まれたはずだ。この言葉が社会問題として取り上げられる場合は「自立できない成人」が問題になる。就職して給料をもらっても家を出ることもなく、家にお金も入れないか入れてもわずかで、家事等も親に負担をかけ楽をする成人というイメージが社会問題として取り上げられるパラサイトシングルなのだ。だが、例によって作り上げられたイメージというものは実際とは異なることも多いもので、今回の特集では病気の親を看病しながら生活費を稼ぎ、結婚する余裕もなかった人等も紹介されている。端から見れば「パラサイトシングル」に見えても、この場合実際は「パラサイト」という言葉とは程遠い。もちろん、イメ-ジ通りのパラサイトシングルももちろん取り上げられている。稼いだお金は全部自分のお金、生活費は親まかせというものだ。中には「結婚式や新居の費用も一部援助してもらえると思っていた」という人もいる。成人の自立という問題について考えさせられる。
ただ、そうしていわゆる典型的なステレオタイプ通りのパラサイトシングルを自立ができていないと非難し、問題視するのは簡単だが、私も実際自分のことを考えてみると胸が痛いものがある。今は学生である。私は仕送りをもらえていて、学費から生活費まですべてを稼ぐ必要がないという意味ではそれらすべてを自分で稼いで大学生をやっている人達にくらべればはるかに恵まれている。だが、ふと「これはどうなのだろう?」と思った。あまりに当たり前だったのだ、仕送りというものが。これは事実上「パラサイト」ではないのだろうか。「まだ学生だから」と割切るのは簡単だし、実際「今大学生です。仕送りもらって生活してます」と公言したところで別に世間から白い目で見られることはないだろう。だが、私も今年で24才。この歳ですでに社会に出て稼ぎを得ている人間は多い。だというのに私は未だ親からの仕送りをメインに生活しているのだ。それでも親元にいて毎日親と顔を合わせてられるなら今回の特集でもそう言っていた人がいるように「甘えるのも親孝行」と開き直ることもできるかもしれないが、私の場合そういうわけにもいかない。ただ金のみを吸い取っているわけだ(ちなみにこの「甘えるのも親孝行」という言について、実際親も「いてくれた方がいい」というケースも少なくない。この場合は心理学的に「共依存」と呼ばれる状態が発生していることが考えられ、この状態がいわゆるAC、アダルトチルドレンやアルカホリックチルドレンを生み出すという論も根強いので無視できない問題ではあるが、それをやり出すと長くなるのでまた別の機会があれば)。そう考えると実に質の悪いパラサイトである。
4月からは就職して働けるのはせめてもの心の救いではあるが、正直生活に余裕があるかどうかもわからず、家に金を入れることができるのかどうか・・・。そう考えると「パラサイトシングル」の自立の問題は自身の問題であり、実際には私と同じような状況にある人も含めれば一体どれだけの「パラサイト」が存在するのか・・・。私のようなケースは敢えて社会問題になるようなものではないかもしれないが、自覚の問題として、あるいはこのパラサイトシングルについての論でよく言われることではあるが「日本人特有の甘えの構造」についての問題として何処か頭の隅ででも考えておく問題ではないだろうか。もちろん自身の問題として考える分には頭の隅どころかより多くの思考スペースを確保してやるべきだ。ただし、私がこの問題を自分自身のこととして考えようとするとあまりに胸が痛いため、このエッセイも敢えて論旨を曖昧なままここで締めさせてもらう事にする。
・・・、と続けて『史上最高の演奏家は?』というエッセイを書き始めたのですが、音楽家の時代と近代自我の芽生えやら演奏家の直観による無意識とのコンタクトやらまで話が及んできて恐ろしく長くなりそうだったので止めます。他に『"遊び"と"学び"』、『教育問題と教育者の在り方』、『恋愛論ショート・ショート~バレンタイン編~』、『偶然の拡大』等概要が頭の中で渦巻いているのはたくさんあるんですけどね、止めときます。例によって私は気紛れなので、次はいつ書くかわかりませんので悪しからず。
とはいえエッセイを数編と冒頭で予告しておいて一編のみというのもなんだか味気ないので、代わりにたった今できたMIDIデータをアップします。曲はスペインのギタリスト兼作曲家のAngel Barrios(『大聖堂』とかで有名な方のバリオスではない)の『Tango Zapateado』。Angelは『グラナダの花』や『トナディージャ』が代表曲なのですが、今回は敢えてこの曲を。私の知る限りこの曲を録音しているギタリストはいないので実際に誰かの演奏は聴いたことがないのですが、何故か譜面を持っていて曲名がやけに気になったので一発打ち込んでみました。だってタンゴとサパテアードが組み合わさったらどんな曲になるのかって興味津々じゃないですか。で、MIDIを作ってみたのですが、そしたらまぁ明るいんだか暗いんだか、カッコいいんだか悪いんだか・・・。不思議な曲です。とにかく滑稽なリズムのオンパレード。まぁ聴いてみてください。そしてこの曲を弾きたいというチャレンジャーがもしいた場合は私まで。譜面コピーさせてあげます。そんなに指は難しくないですよ。中間部のおかしいリズムをどう取るかだけですね、この曲は。ちなみにMIDIは今日2時間程でパッと作ったものなので、どこか間違えてるかもしれませんのでご了承下さい。
2001年2月16日金曜日
社会人への準備
2001年2月15日木曜日
日雇いバイト
2001年2月14日水曜日
人は増える、ある日の晩餐
当初の予定では私とジャンクスにPCK、そしてきよの4人が確定の面子で、シノさんとにらめっこが来れるかどうかということでした。それがまずPCKから来られなくなったとの連絡が入り、その代わり(?)てっちゃんが加わり、まずはその4人で飲み始めました。その4人でほどほどに出来上がった頃、突然PCKから連絡があり、「今から行く」とのこと。この時点でおよそ9:00 P.M.。彼が神戸から来るとなると11時近間になります。「本気か!?」と思う我々の心配をよそに、彼はしっかり11時くらいには現れました。そして5人に人数が増え盛り上がっていると、話の流れの中、キムに電話をかけることになります。そして今の状況を説明すると「来る」という。その時既に午前0時前。これもまた本気かと思いきや、しっかり数十分後には「車どこに停めればいい?」とのメールが・・・。そしてキムが来る直前に参加が危ぶまれていたシノさんににらめっこも加わり人数は8人に。ついにしーさんも呼ぼうということになり、深夜1時前に彼女も参加し9人に、最後に忍も呼べとなり、彼も参加して総計10人、久しぶりに私の部屋が飽和状態になるくらいに人を詰め込み、朝までわいわい盛り上がって楽しんでいました。いやいや・・・。しかしこんな馬鹿騒ぎをするのもあと何回あるのでしょう? そんなことを皆帰って一人になってから考えつつ、2月のある日は過ぎていきました。私がこの部屋を去る前、また皆で集まって「クレージー最後の晩餐」を行いましょう。
2001年2月11日日曜日
金欠
2001年2月10日土曜日
2001年2月9日金曜日
卒業旅行@野沢温泉スキー場
初日は前日に降った新雪がとても軽くて最高のコンディション。山頂の中級コースは見晴しもとてもよく、葉の落ちた木の枝に細かい雪がついて凍って日の光に輝き、とても美しい状態で晴々と滑ることができました。雪国・福島で鍛えた腕をいかんなく発揮するてつやま51に、前のめりにデンジャラスなこけかたをするオム、おっかなびっくり滑ってパタンと転ぶしーさんに腰が引けてるきよ、何げに安定した滑りをみせるみ蔵に問答無用で駆け抜けていく私というようにそれぞれの滑りで楽しんでました。宿屋のシュプールあおぎりは、肉と魚が両方毎食食べられしかも美味しいという素晴らしい宿で、皆御満悦で食事をしていました。いつもはあまり食べない私がご飯を毎回2~3杯食べ、おかずも完食する姿に皆は驚きを隠せない様子でしたね(笑)。野沢温泉は大湯を始めとする13の温泉があり、そのすべてが無料で入れるといういかしたところで、毎回手近なところから潰して入っていきました。
二日目は初日の延長で無難に滑り、私とてっちゃんのみ山頂の中級コースを上から下までノンストップで超スピードで突っ切るという荒行をこなして楽しんでました。そして三日目に入り、そろそろ数ある上級コースを攻めに行こうかということになり、手始めに私とてっちゃんが二人で一番手頃そうなスカイラインコースを偵察に行きます。このコースは山頂から一番下まで全長5,000mを超えるロングコースで、尾根伝いにコースがあるので道幅が狭く、下手に勢いをつけて転ぼうものなら一気に谷底に転落していくというややデンジャラスなコースでしたが、傾斜自体は最大傾斜30度でどうということはなく、尾根伝いだけに周りの風景が見事にパノラマとなって広がっているという絶景。まぁこれなら慎重に滑れば皆行けるだろうということで皆をスカイラインに案内し、それ以来そこは風景の美しさと適度なスリルから皆のお気に入りコースとなりました。私とてっちゃんが最初に偵察した時は上の方に深い霧がかかっていて、中腹に差しかかるまでは只でさえ狭い道の50m先も見えず、どこからが崖になっているのかすらわからないという実にデンジャラスな状態でしたけどね・・・。
そして最終日には皆征服欲も高まってきて、てっちゃんはきよとみ蔵を引き連れて急傾斜とコブが上から見るとあまりにヤバイ牛首コースに牛の首を取りに、私は一人で最大傾斜32度と上級コースにしては控え目な傾斜のくせにこの野沢温泉スキー場の誇る超難関と謳われるシュナイダーコースに出かけていきました。別れ際「シュナイダーを落としてくるぜ!」と私は意気揚々と出かけていったのですがが・・・。てっちゃん達の方は見事牛の首をあげて、ついでにモーグルコースまで行って楽しんできたらしいのですが、私が一人挑んだシュナイダーの方はもう・・・。途中まではコブもなく、スカイラインの急な部分くらいの傾斜がずっと続いているだけで快適に飛ばせるコースだったのですが、途中で同じく上級のユートピアゲレンデとシュナイダーに分岐するところからはもう鬼のよう。ユートピアの方に行けばもはや「崖じゃん!」と叫びたくなるような急傾斜が待ち構えていて、シュナイダーの方はさすが名物コースと思わず納得の、バランスをとることすらままならないくらいの深くてハードなコブ&32度の斜面。泣きたくなりました。そこに至るまでの間に見事なウェーデルンで颯爽と私を追い抜いていった明らかに私より腕が確かなにいちゃん達ですら立ち止まり、一気に突っ切ることができずにひとつコブをターンでクリアしては立ち止まり、様子をみて次へ、というようにゆっくり進んで行きます。同じくかなり腕が立つと思われたおっちゃんも、難所に差しかかってから1/5もいかないくらいのところで早くも大クラッシュ、両足のスキーが外れて道行く人に助けられるというありさま。大体これまで私が見たどの上級コースでも、誰か一人くらいは皆が立ち止まる中颯爽と駆け抜けていく人がいるものなのですが、このシュナイダーはそんな人が一人もいない。皆ゆっくりゆっくりおっかなびっくり降りていきます。そらそうです。コブがあまりに深く、しかも270度くらいの角度で溝ができているため、まともじゃターンすらできません。無理矢理コブを抉り取るようにターンしようとすると、スキーがアイスバーンと化した斜面に流されるは突き刺さるはでもう大変。方向転換しようとしただけでバランスを取ることすらできなくなってしまうくらいのエグイ斜面に、私は本気で恐怖感を覚えました。それでも何度か倒れつつ、ゆっくりゆっくり降りていって、半分くらい行ったところで上と下を眺めてため息をついたりしながら、どうにかこうにか降りてきました。最後「あと少しだ」と意地でいくつかのコブを一気にジャンプしながらさばいて、無事下の初級コースに合流できた瞬間には「やった!」という達成感ではなく、「抜けた~」という解放感だけがありました。そらそうです。私はあのシュナイダーに、いいようにあしらわれてほうほうの体で逃げ帰ったようなものなのですから・・・。帰りに集合場所に向かってゴンドラに乗っている間はいつか絶対あのコースを制覇してやると心に近いつつも、だがしかし確かな恐怖感の残り香を心の片隅にまた感じていましたとさ。どっとはらい。
2001年2月4日日曜日
幸せは借りてこなければならない
『ソリチュード(孤独)』
この地球は涙の谷
悩みごとや悲しいことで一杯だ
そこで喜びはどこからか借りてこなくてはならぬ
その借り方は---あまり有効な方法ではないが、しかしこの方法しかないので、あえていうが---、とにかく笑ってみること
笑うことで喜びを借りてくることができる
氏は、この詩について「悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びは誰かが作らなければならないという詩です」と解説を付け加えています。なかなか説得力のあるものではないでしょうか。この世界には、悲しみははじめからあっても喜びは作り出さねばならない。待ってるだけで幸せが向こうからやってくるわけではないのです。だからこちらから歩いていかなければならないのでしょうねと水前寺喜代子(漢字不詳)の『365歩のマーチ』みたいなことを言ってみたり・・・。
というわけで、私はこれからきよ・のざ・オム・しーさん・そして謎のみ。さんとスキーに行ってきます。8日の朝に帰ってきます。無事こけて骨折などしないで帰って来れるよう祈っていてください。
2001年2月1日木曜日
フェアウェル・コンサート
『大聖寺』は当日の昼休みまで何も打ち合わせをせず、当然練習などほとんどせず、適当にぶっつけで『大聖堂』と『ブレリアス』をくっつけてネタを加えて完成したという不真面目な技術部二人の味爆発な出来栄が適度にデンジャラスで個人的に面白かったです。キムとやったアドリブのデュオに関しては一回も合わせず、打ち合わせも一言二言のみでステージに立ったという極まりぶりです。私の歌も完成したの昼休みでしたしね。なんと即興性の高い演奏会でしょう(爆)。しかしキムの『エレクトリック・タルレガ』は端で見てたらかなり後輩いじめに近いものを感じました・・・(苦笑)。
私の『シャコンヌ』もそうですが、シノさんとにらめっこの『Streets of London』や合奏の『In my life』など、各自思い出深い曲を最後にもう一回やれた演奏会でもありました。この部の中で時代を経て微妙に受け継がれてきた『コユンババ』もギリギリで受け継がれましたし(実は『シャコンヌ』も結構脈々と受け継がれてきた曲の一つ)、色々と意義深い演奏会だったことでしょう。そう、合奏でやった『In my life』も、実は当日までやるとか言いつつ譜面がない状態で、当日の朝にきよに譜面を持ってきてもらって皆に配って、午前中にちょっと練習して本番を迎えたという・・・。ウチらはそんなんばっかりか!? あの曲も一回生会のJアンでやった曲で、PCKが指揮を振った唯一の合奏であり、きょ・オム・のざの3人がまだ衣笠にいた頃彼らも入ってやった同じく唯一の演奏であり(きよとのざは一回の時夏合宿ブッチしやがったからな・・・)、しーさんが参加した唯一の合奏でもあり、のざがエレキで参入という、クラシックギター合奏にエレキを組み込んだ唯一の合奏であるという実にレアな合奏曲です。こいつを最後にやれたのはやっぱり嬉しかったですね。
その後のコンパ、二次会も無事に楽しんで終了し、今日は一日疲れで死んでました。っていうか、昨日演奏会で使ったパイプ椅子をBoxから運んでまた戻すという作業が効いたのか、今日寝て起きたら両腕筋肉痛になってるしな・・・。まぁ色々語りたいこともあるのですが、とりあえず今日はここまで。