2003年6月30日月曜日

2003年6月25日水曜日

横ばいのリンゴ達

 実家からリンゴジュースが大量に送られてきました。ふじ、ジョナゴールド、王林、つがる、紅玉と五種類のリンゴが楽しめる100%果汁のいかしたヤツです。それは非常に美味しく、風呂上がりや朝などに喜んでいただいているわけですが、一つだけ難点があります。・・・箱デカすぎ。おかげで今私の家の玄関は、リンゴジュースが入っている箱が入り口を占拠して、それを避けながら出入りをしなければなりません。倒れたらビン割れそうで縦には置けないし。朝寝ぼけてる時なんかに家を出ようとしてジュースの箱を思い切り踏んづけたりしないかどうかが心配です・・・。

2003年6月24日火曜日

 なんぼ俺が酒に強いっていったって、ものには限度ってもんがあります。世の中上には上がいるんだなぁ、とそう思う今日この頃です。

2003年6月22日日曜日

自問

 まずはデタラメにインプットしろ、あらゆるものを、少しでも多く
 心は覚えていてくれる、たとえそれを、取り出すことはできなくとも
 水面に揺れる影が、いつかそっと、消えてしまう前に
 僕らはいつも、手遅れでなければならないのだろうか

2003年6月21日土曜日

両義性、ないしは対立性

 全身黒の衣装をまとった白の司祭と、全身白の衣装をまとった黒の司祭。

2003年6月16日月曜日

『亡き王女のためのパヴァーヌ』編曲に当って

 さてさて、今年も立命クラギタAアンの編曲を頼まれている私ですが、実は今回は編曲を行うに当たり相当色々と悩んでいます。曲はラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。ギター編も色々あり、資料にはこと欠かないので、ただ編曲するだけなら雑作もないことなのですが、その「ギター編も色々ある」ところが逆に私の悩みの種となっているのです。ジュリアン&ジョンの『超絶のギターデュオ』の中で聴けるブリーム編、大萩康司が弾いているディアンス編、私が譜面を持っているデュアルテ編と、デュオ、ソロを問わずこの曲はギターのレパートリーとして既に成熟してしまっている感があるのです。だからこそギターにトランスした際のイメージはつかみやすくてやりやすいのですが、そのデュオやソロで完成した感のある曲を今敢えて合奏である意義は何か、そして合奏で表現できてソロやデュオで表現できないことは何か、偉大な先人の編曲がある上で、敢えて素人の私が編曲で挑めることは何か、とまぁ色々と考えてしまうわけです。下手したらブリーム編やディアンス編、デュアルテ編を切り張りして各パートに分けただけ、ってな印象の代物にもなってしまいかねません。困ってるんですよねぇ、マジで。マイケル・ヘッジスばりにタッピングやフライング・レスト・ストロークや重音ハーモニクスを縦横無尽に鏤めたらどんな顔されるかな、とかそんな危険な思想を思わず持ってしまうくらいです(ってゆーかあの曲でフライング・レスト・ストロークなんぞどこで使うんだ!?)。まぁまぁそれは冗談にしても、さ~て、どうしましょうかねぇ・・・?

2003年6月13日金曜日

男心と梅雨の空

 梅雨空、雨空、曇り空。灰色のもこもこがひたすら続く季節になってしまいました。ただでさえ湿気の溜まりやすい私の部屋は、これから真菌類とのバトルが始まります。今もその前哨戦として、キャビネットの脇にビッシリと生息していたカビをトイレクイックルで拭き取ったところです。これから晴れて夏が来て秋になって湿気が飛んでいくまで、この闘いは長く、孤独に続いていくのです・・・。

2003年6月11日水曜日

想像力の欠如した世界

 『Garbage』を読み返していて何となく思ったことなのですが、小説中で「消滅」を宣言し(某白い集団みたいだな・・・)、それを実行するチャットルームの連中は、何というか物凄く、想像力というものが欠除しているように思います。自分達が消した相手も自分達と同じように現実世界で生活していて、息をして、飯を食べ、会話も交わすということを想像する能力。本当ならそこに気付くことくらい想像力とすら言わないでしょうが、彼らはモニタの中で応答する文字から先の、そういった当たり前のことすら想像できないくらい圧倒的に想像力が欠除しているように感じられるのです。そこにあるものはあくまで応答を返す文字であって、ネットワークの先につながっている誰かではない。彼らにとって「消滅」は本当に、ただ文字が消えるだけのことに過ぎないのです。そう考えると何だか恐ろしい気もします。ただ文字を消す感覚で人も消せる。圧倒的な想像力の欠除。まぁ実際に現実世界のネット世界にはまっている人達がそうだと言っているわけではありませんが、最近は世界から想像力というものが欠除してきているなと感じるようなことはままあります。

 思えば、犯罪なんかもいつの頃からか、そのような想像力の欠除が生み出したような印象を受ける事件がたくさんあります。もう随分古い話になったような、神戸の例の事件もそうですし、大阪の小学校の事件もそうです。その他コンビニでいきなり立ち読みしてる人の背中を突き刺した例の事件や、度重なる通り魔事件、ストーカー事件・・・。相手が自分と同じような、極端に言えば同じ人間だということを想像する能力の欠除。まさにそれこそがモンスターではないのかなと思うわけです。

 自分の書いたものを少したってから読み直してみると、自分でも書く時意識してなかったことに気が付くようなことがままあったりします。まぁ私の場合、テーマ、タイトル、書き出し、結末だけ大雑把に決めたら、後はアドリブのノリで書いていって、書き上がったら誤字脱字のチェックくらいして「はい、終了」ってのがほとんどですからなおさらです(苦笑)。今回に至ってはテーマ、タイトル、書き出しだけ決めて結末すら決めず、「さぁ、書いてくれ、俺の両手よ!後は何が出るかわしゃ知らん!(←オイ)」くらいの勢いで書いて、本気で一回も読み直さずに上げたので尚更です。しかしまぁ、これくらいの短いものならそれでいいのですが、本格的な長編となると最後までいつもの自動筆記というわけにもいきません。構成やペース配分をちゃんと意志の統率下に置いてあげないと色々ととんでもないことになるのは目に見えています。自動筆記のリハビリはしたので、次は落ち着いてしっかりと書くことのリハビリですね。

2003年6月10日火曜日

『Garbage』アップ/あとがきに代えて

 気付いている人がどのくらいいるかわかりませんが、実は昨晩10時半過ぎくらいにNOVEL『Garbage』をアップしました。とりあえず色々な意味でリハビリを兼ね、昨日一日で一気に書いてみました。とはいえ、熱を出して汗をかいて、洗濯物も溜まっていたのでそれを洗ったり(計2回)、汗を吸って湿った布団を干したり、病み上がりで体力がなく「もうダメだ~」と昼寝したり、結構休み休み書いてましたが(苦笑)。

 今回のテーマは「オブジェクト指向的恐怖」です。プログラムの世界には『オブジェクト指向』という考え方があり、それは無理矢理一行にまとめるなら「コンピュータ上に現実の写像を作り上げる感覚でシステムを構築する」という手法です。まぁここでは細かく深いところまではツッコミませんが、その『オブジェクト指向』を実現できる言語(の一部)に備わっている『Garbage Collect』という機構が今回の小説のテーマの発端です。

 "Garbage"という言葉の意味は「廃品」、「不用品」、「ゴミ」といったものですが、プログラムの処理中にいらなくなったオブジェクト、つまりはプログラム上に写像された現実の「もの」を、自動的に回収してくれる機構が『Garbage Collect』です。プログラム上に作られたAさんが不要になれば、この機構が自動的にAさんを回収してくれて、Aさんがいなくなった分のスペースを他の何かが使うことができるようになります。これはプログラムを組む上では非常に便利なものなのですが、これがもし現実世界にあったらどうなるんだろう?というのが今回の小説のテーマです。『Garbage Collect』が不要オブジェクトを判断する基準は、(本当のところの細かい種類やアルゴリズムは置いておいて)他のどのオブジェクトからも参照されない、ということです。まぁ現実世界的にいうなら「声をかけられない」ってところでしょうか。そこから小説『Garbage』の奇妙な世界観が出来上がるわけです。誰からも必要とされないものは消滅していく世界、というわけです。

 実は、そこまで極端な世界設定をしなくても、この現実世界はこの『Garbage Collect』の恐怖に近いものが存在するように思うのです。誰からも参照されないことへの恐怖、平たく言えば孤独への恐怖です。ネットワークは、それを埋めるどころか助長してしまったようです。距離も時間も飛び越えて、簡単に誰ともつながってしまえるからこそ、逆に離れた時の恐怖が大きくなる。いつの頃からか聞くようになった、「ネットワーク依存者」というものは、この「オブジェクト指向的恐怖」に取りつかれてしまった人達のように思えるのです。

 実はこの『Garbage』、本当はもっと長くつなげようと思えばいくらでもつなげられました。というか、この小説自体はもっと長い、大きな器を求めていました。私はその作品の要求に応えてもっと長く書くことも考えたのですが、「やっぱダメだな」と思って最後無理矢理叩き切るような感じで仕上げてしまいました。なので、この作品の構成は非常にアンバランスです。何故そこで無理矢理短く切る道を選んだかというと、実はこの「オブジェクト指向的恐怖」というのは、今私が本気で一年くらいかけて書こうと思っている長編のテーマの一つなのです。その長編に取りかかる前に、リハビリと準備運動もかねていくつかあるテーマの中から一つだけを切り出してそれを書いてみよう、と思ったのがこの作品なのです。なので、この作品の中で出し尽くしてしまいたくなかったんですよね。だから短くバッサリ煙に巻くような形で切り上げたと(笑)。そういうわけなのです。

2003年6月8日日曜日

発熱

 熱を出してしまいました。昨日昼くらいから、とにかく寒くて仕方なく、首筋を中心に全身がビシビシと痛むので「こりゃヤバイかもなぁ・・・」等と思いつつ、でも夕方に外せない打ち合わせがあったので頑張って仕事を続けていたのですが・・・。もう打ち合わせの途中からはすっかり元気もなくなり、お客さんが席をちょっと外した際には上司に「どうした?今日は元気ないな?」と耳打ちされる程。お客さんのビルを出た時には、6月の冷たくもないはずの風が異常に寒く感じられ、肩をすぼめて震えながら駅まで歩きましたとさ。そしてその後、「これは電車で立って帰るのは無理だ」と判断した私は夕方6時を回っていたので、「今日はこれで帰らせてください」と、駅前でタクシーを拾って家まで帰ったのです。ウチから結構近いところでしたので。

 そして家に帰って熱を計ってみてビックリ。なんと39度1分。そりゃしんどいはずです(苦笑)。「ここまで熱が上がったら市販の解熱剤じゃ効かねーんだよなぁ」と開き直った私は、大量に買い込んできたレモンウォーターと、葛根湯を頼りに昨日一晩を乗り切りました。結局一時期はMax39度4分をマークした熱も、朝方にかけて少しずつ38度台へと推移していき、今は今朝病院でもらった薬もあってか37度台で落ち着いています。でもまぁ、さすがにフラフラですね(苦笑)。やっぱあの雨の引越しが効いたんでしょうか・・・?

2003年6月4日水曜日

時のつながり

 今を捨てることは結局、明日を捨てることと等しい
 昨日を無くすことは結局、今を無くすことと等しい
 時は流れる、区切られるのでなく
 時は積み上がる、流れるのでなく

2003年6月3日火曜日

嵐の中の引越

 先週の金曜日から日曜日にかけて、実は私の会社は引越しでした。何と入社以来3度目の引越しです(爆)。それも、前の2回は私のグループと隣のグループだけだったのですが、今度は本格的に全社的な引越しです。これまでいたビルを完全に引き払って新しいビルへ移ったわけです。とはいえ駅はこれまで同じ渋谷、出口も変わらず、道路を渡らなくて済む分むしろ一層近くなりました。それはいいのですが新しいビル、何かと住みにくさも満載で、実働開始初日にして結構居心地の悪さに悩んでいたりします。建物自体は広く大きく綺麗になったのですが、室内食事厳禁で、弁当買ってきてもそこらの階段とかで食べないといけないし、夜八時を過ぎたらシャッターが降りてしまうから、出ることはできても入ることができず、コンビニに買い出しに行くのも一苦労です。その他色々あるわけですが、とにかく総じて住みにくい世の中になりました・・・。

 ところで、先週金曜~日曜といえばその間に30年振りに5月に台風が上陸したわけですが、当然我々の引越しも相当の被害を被りました。私はその中でも大きな被害を受けた一人です。何と台風が来るまさにそのピークの中、雨ガッパを着て風雨に打たれながらトラックからビルの中に荷物を搬入する係だったのです(泣)。カッパに守られている上半身の被害は比較的少ないものの、膝から下はもう川にでも浸かったかのように水に濡れ、ジーンズは水を吸って重くなり、スニーカーは中まで浸水して靴の中でピチャピチャ音が鳴り・・・、そりゃもう大変でした。しかもその土曜日、私は夕方から客先でした。・・・そう、そのまま、濡れたまま、客先に向かって行ったのです。またその客先がガンガン冷房効いてて寒い寒い。「このズブ濡れの状態でこんな冷房効き過ぎなところにいたら風邪ひくゆーねん、コラァ!?」とか心の中で叫びつつ、寒さに震えながらキーボードを叩いていましたとさ。

 ・・・ちなみに、土曜日はもちろん他の2日も、久しぶりの本格的な肉体労働にしてやられたためか、家に帰るなりロクに飯も食わずに眠りに就く日々が続いていましたとさ。わしも年をとったのぉ・・・。