2012年2月29日水曜日

2・29の日記

 まだ朝だが、今日は日記を書こうと思う。それは日記じゃないんじゃないかというツッコミもあるだろうが、とにかく日記だ。せっかく4年に一度のうるう年、2月29日があるのだから、その日付の日記を残さないわけにはいかないというのがその理由だ。だから最近のツイート履歴の中から、「私にとって哲学とは」を語ったものを補足しながら書いてみよう。

 哲学とは何かと問われたら、世の中の具象的なあれこれの中から普遍性の高い抽象的な真実を探す試みだと答える。抽象的であることは曖昧であることではない。物事の外延を広げ、内包を狭めて論理を汎用化・普遍化すること。言いかえれば純粋性の抽出であり、その抽出のための過程が哲学となる。

 例えば雪と白米と白紙について考えてみよう。これらは雪、白米、白紙である限りそれぞれ別個の異なるものだ。それらの内包を見ていくと雪は白く、冷たく、空から降るものだし、白米は白く、穀物であり食物で、炊くことによって食べることができるし、白紙は白く、薄く、ペンや鉛筆で何かをそこに書くことができる。外延を見る限りは雪は雪であり、中にぼた雪や粉雪は含むが、白米や白紙は含まない。白紙も普通紙、和紙、コピー用紙は含むが雪や白米は含まない。そういうことだ。だが、ここから「白い」という抽象概念を抜き出すと、その「白い」という概念はどうなるだろうか。外延は一気に広がる。「白い」という概念は雪も白米も白紙も内包できる外延を持つ。が、「白い」という概念の内包はとても少ない。白いからと言って何かができるわけではない。他の色に染まりやすい、等が内包になる。外延を広げて内包を狭めた抽象概念を取り出すとはそういうことだ。

 この例えは単純なモノだったが、これを自身の体験や見聞きした事象・論理に対して行うことが哲学なのではないだろうか。一見つながりがないように見える様々な体験・事象・論理から、余計な内包を捨象して外延を広めていった結果見つかる、抽象化された真実。それを探る試みが哲学なのではないだろうか。

 だから「哲学なんて役に立たない」という言い分には反論できる。哲学によって抽出された抽象的な真実は、その外延の広さゆえに元々抽出された事例を超え、同じ外苑に含まれる事象に今度は具象化して実装することが可能になる。その実装の過程が時により実践と呼ばれたり、発想の転換と呼ばれたりする。 雪・白米・白紙から抽出された「白い」という概念は、逆に具象化していけば今度は白いシーツや白い犬なんかにも使える。「白い」という外延に含まれる以上、「白い」が持つ内包はその具象的な何かも持ち合わせているのだなと理解・対応ができるわけだ。

 ある物事から抽出された真理を別の物事にも適用することで、個別の具象的なことに例えそれが初見であっても応用を効かせることができる。これほど役に立つものもないんじゃないかな?世間の具象的なもののあれこれに、すべて具象的に立ち向かい、理解しようとしたら気力も時間も足りなくなってしまう。

 この抽象化の哲学は、青木淳氏の『オブジェクト指向システム分析設計入門』に大きく影響を受けた。オブジェクト指向の技術書ではあるけれど、オブジェクト指向という技術の思想性を教えてくれ、そしてさらにその思想の裾野の広さ、深さに気付かせてくれた。SEを辞した今でも大切な、稀有な名著。

 2月29日、うるう年の日記。改めて、自分が前職でオブジェクト指向的思考から得た哲学について書いてみた。

2012年2月26日日曜日

グレンツィング・オルガンの魅力 山本真希オルガンリサイタル@りゅーとぴあ

 いつもりゅーとぴあのコンサートホールに行く度に、ステージ後ろ2階席から天井にかけて大きく壮麗に鎮座しているパイプオルガン。常々どんな音・鳴り方をするのか聴いてみたいと思っていたのですが、ようやく聴くことができました。りゅーとぴあが誇るグレンツィング・オルガン。りゅーとぴあの専属オルガニスト山本真希が奏でるオルガンは多彩な音色・響きで音楽を立体的に組み上げて行き、素晴らしい空間が出来上がっておりました。

 当日の題目は『J.S.バッハとスペイン音楽』。前半はエレディアやアラウホ、パブロ・ブルーナといったスペインの作曲家による音楽が演奏され、後半はバッハと新潟出身の馬場法子によるグレンツィング・オルガンのための委嘱新作の初演という形になります。スペイン音楽、バッハ、そして現代の作曲家による委嘱新作の初演という、この実に魅惑的なプログラムもこのコンサートが聴きたかった理由です。

 エレディアの『エンサラーダ』で始まったコンサート。実はパイプオルガン自体生で聴くのは初めてだったので、その音色というとよくバッハの『トッカータとフーガ BWV565』でよく聴かれるような、荘厳できらきらと金属質で輝くような音色ばかりだと思っていた私は、出だしの意外とデッドな響きに少し肩透かしをくらいます。「あれ?」と。「こんな音なの、パイプオルガンって?」と。まるで小学校の音楽室にあった足踏みのオルガンのような、丸くて温かくはあるけれど、飾り気のないデッドな音色。ところがそれが曲を進むうちにどんどん音色が変わっていく、増えていく。フルートみたいなコロコロと転がるような優しい高音、自分のパイプオルガンのイメージ通りの金属的で艶やかな響き、唸りをあげるような低音、そしてトランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色!その他様々に細かいニュアンスで音色が変わっていくし、声部によってまったく違う音色が同時に弾き分けられたりする。パイプオルガンとはこんなに多彩な音色が奏でられるものなのかと驚きながら聴いていました。そしてこの多彩さはパイプオルガン全般に言えることなのか、それともこのりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンにだけ言えることなのか、それが非常に気になりました。自分はパイプオルガンと言えばJ.S.バッハのオルガン曲を中心にほんの少しばかりしか聴いていないわけですが、その中ではパイプオルガンにここまで多彩な音色があるとは感じられなかったのですから。前半の最後、作者不詳の『有名なバッターリャ』ではその多彩な音色が次々に現れ、金管が強演するような鋭い音圧・迫力に圧倒されます。プログラムの解説には「スペイン特有の水平トランペットやエコーが効果的に用いられ…」とのシンプルな言及。休憩時間に入り、早速このりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンについて調べてみました。

 りゅーとぴあのパイプオルガンは、スペインのグレンツィング工房が作成したもの。パイプオルガンの中でも特にスペインの音楽が演奏できるようスペイン独特の構造が取り入れられて製作されたとのことでした。一つの鍵盤の高音部と低音部で異なる音色を使うことができる「分割ストップ/分割カプラー」、正面に向いて水平に金管が取り付けられた「水平トランペット管」、さらにはスペイン風のフルート管やプリンシパル管等、スペインの多彩な音色を必要とするオルガン音楽を奏でるための独特な機構を持った、多機能・多彩なオルガン。それがりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンというわけです。なるほど、私が「トランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色」と感じた音色は水平トランペット管だったわけです。確かに管が客席正面を向いて水平に出ているわけですから、それは突破力のある音にもなるでしょう。そしてパイプオルガンの音楽はほぼバッハくらいしか聴いていなかった自分は、その水平トランペット管の音色など知らないはずです。確かに後半のバッハの楽曲では水平トランペット管の音は出てきませんでした。そういうことだったのです。

 りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色の理由に納得がいったところで今度は後半戦、J.S.バッハと馬場法子による委嘱新作です。後半1曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声あり BWV645』は自分にとってもお馴染みの大好きな曲。そして何より『前奏曲とフーガ ト長調 BWV541』の演奏が素晴らしかった。山本真希の演奏は、多彩な音色を持つグレンツィング・オルガンの個性を活かして細かく音色を使い分けながら、バッハの高度な対位法が裏に隠し持つ旋律のリズム感をテンポ良く転がしながら気持ちよく聴かせてくれます。音色も音量もしっかりと練られ、組み上げられた非常に立体的な音楽。だからフーガの各声部も明確に聴き取れ、心地よい響きに身を委ねていればクライマックスではしっかりといつの間にか到達した大音量で盛り上げて大きなカタルシスとともに終わってくれます。このBWV541は本当に素晴らしい演奏でした。

 そしてプログラムの最後は新潟出身の作曲家、馬場法子による委嘱新作『クリスマスの歌"高き天より我は来たり"によるカノン風変奏曲 BWV769と4つの間奏曲』。これはバッハのBWV769の5つの変奏の間に馬場法子が作曲した間奏曲が挿入される形となっています。つまりバッハ-馬場-バッハ-馬場…という形で音楽が進んで行く。どのような音楽になるのか、実に興味津々でした。

 バッハのBWV769の第一変奏が終わり、いよいよ『Intermezzo Ⅰ Knock and ring』。オルガンを「息を送られることによって生きている巨大な生物」と感じたという作曲者が、「彼が本当に生物なのかを確かめるべく、体をノックしたり呼び鈴をならしてみたり」する様を描写したという音楽です。静寂の中から、音を出さずに風だけを送り、ブオー…と巨大な息遣いを思わせる描写、続いてカンカン、というノックや高音の呼び鈴等、描写的な手法によるいかにもな現代音楽。私の左側に座っていた小学生くらいの女の子は隣の母親に小声で「何やってんの?」と聞いてました(爆)。個人的には風を送る音による息遣いや、蠢き、慟哭を聴いている内に確かにこのオルガンが巨大な生物で、今にも動き出しそうな印象が感じられて、この曲はなかなか、面白いなぁと思いながら聴いておりました。如何にも現代音楽、って感じではありますが、この曲はいい。

 ただ、2つ目以降の間奏曲は少々期待外れというかわからなかったというか…。まぁグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色は活かしていたけど、オルガンの魅力を活かしていたかというとそうでもないように思えて、あまり感じ入ることができなかったというところが正直なところです。解説を読めば、まぁやりたいことはわかるんですよ。「ああ、それでこうなるんだね」と納得もできる。このスペイン様式のオルガンの多彩な音色でなければ実現できない音楽を作ろうとしたのはわかります。で、確かにその意味ではそれは実現されているんだけど、もう少し普通に音楽を聴いての感動とか、気付きとか、面白さがあてもよかったなぁ、と。1曲目の間奏曲にはそれがあったんですが。2曲目以降の間奏曲を聴きながら、この音楽は今日ここで初演されて、それだけならいいんだろうけど今後10年、20年、あるいはそれ以上、このりゅーとぴあでこのオルガンとともに新潟市民に愛され続ける曲になるのかと言えば、そうはならないだろうなぁと、そんなことを考えてしまいました。どうせこのオルガンのために委嘱新作が書かれるのなら、例えばりゅーとぴあでのオルガンのコンサートの最後のアンコールの1曲はお約束でこの曲みたいな、そういう新潟のオルガンを聴く人々に長く愛されるような音楽だったらよかったなぁ、と。まぁそんな耳当たりのいいような音楽では現代の作曲家の野心は満たせないのでしょうけど。そこだけ、少し残念でした。

 まったくの余談ですが、前半私は一階席の後ろの方正面に座っていたのですが、その時に席一つ空けた隣に外人の男性連れの女性が座っていました。カーテンコールで作曲家が紹介された時にわかったのですが、その女性が作曲家の馬場法子でしたとさ。

 ともあれ、りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンの多彩な音色と素晴らしい音楽を堪能でき、満足なコンサートでした。この日は山本真希がりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンで録音したCDの発売日ということで、会場でCDの即売及びサイン会も行われ、しっかりゲットして帰ってきたとのことです。このCDはりゅーとぴあでしか販売されないそうです。そもそも、りゅーとぴあがCDを製作したのってこれが初めてなんじゃないでしょうか?ともあれ、りゅーとぴあ専属オルガニスト山本真希によるオルガンコンサート、楽しませてもらいました。次はあのオルガンでサン=サーンスの交響曲『オルガン』聴いてみたいですね。