2016年2月16日火曜日
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
で、読み始めたのはいいけど正直第1巻の序盤はなかなか読書が進まない。フョードル、アリョーシャ、ドミートリー、イワンといったカラマーゾフ家の人物の生い立ちやら何やらが描かれるのだけど、これを読んでいくのがなかなかの苦行。この生い立ちを読むことがこの後の小説の展開にどの程度関わってくるのかまったく読めないまま、あれが当時のロシア風なのかそれともドストエフスキーの芸風なのか、とにかく冗長な長台詞をひたすら読まされる感じ。多分『指輪物語』を読み切ってなかったらこの段階で挫折してたんじゃないでしょうか。ずっと心の中で「『指輪物語』に至っては1巻まるまる旅立ちの準備で全然面白くなかったじゃないか。でもその後は一気に面白くなった。この作品もそうに違いない。きっとそうに違いない」と何度も繰り返して立ち向かっていました。ですがこの『カラマーゾフの兄弟』は『指輪物語』ほど凶悪ではなく、ちゃんと第1巻の3分の2を読み進める頃にはもう面白くなってきます。そこからは読書ペースも一気に上がっていきました。
見てみると第1巻を注文したのが1月5日。第2巻の注文が1月24日。第3巻が1月30日。第4巻が2月1日。そして最終巻が2月4日注文で、読み終わったのが2月10日。第1巻を読むのに時間がかかった割には、その続きは一気に読み進めているのが顕著にわかります。また第3巻~第5巻の本編が終わる頃合いまでは幸か不幸かインフルエンザで寝込んでいたので、尚更読書ペースが上がりました。で、第5巻は本編はすぐ読み終わったものの、その後の亀山氏の解説はのんびり読んでたので少し時間がかかったと。第2巻以降はもうほとんど一気です。こんなに面白いとは思わなかった。この巨大さにしてこの緻密さ、生々しい人間の姿、普遍的な哲学、凄まじい。
カラマーゾフの登場人物達は、時に高潔で、時に愚かで、一貫してないことも多く、でもそれゆえに「ああ、こういう人っているなぁ」と思わせるのです。今お付き合いさせてもらっている農家の方、特にビジネスという「場」に必ずしもはまっていない古い世代の彼らは、時に人間を剥き出しに振る舞うこともあるので、それこそ突然この作品の登場人物のような長舌な語りを始める方もいたり、感情のままに周りを振り回すような場合も時にはあったりします。新潟に戻ってきたばかりの頃、社会人としてはビジネスシーンという様式美の世界での人付き合いが主だった自分はその生々しさに戸惑い、これが農家独特の文化なのかと軽いショックを受けたものでした。でも、それは別に農家に限ったことでなく、ビジネスシーンという様式美をなくしてしまった時に見えてくる、生の人間なんだなということに次第に気付いてきました。
この小説に出てくる人物たちは、そういった生の人間が凄く剥き出しの形で描かれるのです。フョードルの恐ろしいほどの道化っぷり。自分の欲求に、愛するものに忠実で、他人からは理解しにくいこだわりや誇りを持つドミートリー。無神論者で自説を滔々と語り、非常に理知的・理性的であるがゆえに自分の影に隠れた欲望に苛まれることになるイワン。卑屈な下男かと思いきや、終盤で思いの外狡猾で理知的に狂言回しの役を演じるスメルジャコフ。アリョーシャは、この小説では案外個性が薄い博愛の人ですが、ドストエフスキーの死によって叶わなくなったこの小説の続編ではもっと強烈な個性を見せるはずだったんでしょう、きっと。個性的な女性陣や検事・弁護士に至るまで、それぞれどぎついくらいの個性を、人間臭さをもった登場人物たち。どこかのレビューで「大勢の人間ドラマの大河」という言い回しを見ましたが、まさにそのような感じです。親殺しというテーマと、それに続く犯人探しという大きなストーリーの中に、登場人物それぞれの生々しい人間ドラマがぎちぎちに詰め込まれ、それが大河となりうねっているいる。そして言い回しこそ多少時代がかってはいるとはいえ、そこで描かれる人間の振る舞いや哲学的・神学的な問いかけ、巨大な物語のうねりはまったく古くさくないのです。シェイクスピアを読んだ時にも感じる、時代を超えた普遍的な哲学であり、人間の姿。これは確かに古典として残る凄みのある小説だと感嘆しました。
第2部でイワンが語る大審問官。宗教は果たして人を救うのか?天上のパンか地上のパンか?という神学的・哲学的な問いの深さに重さ。第3部でいよいよフョードル殺害が起きる時点におけるドミートリーの怒りや失望、混乱の生々しさ。そしてそこから乱痴気騒ぎの中でそれらが急速に希望や歓喜へと変わっていく過程。そして次の瞬間にはそこから突き落とされるジェットコースターのような展開。どれ一つ取っても非凡な問いであり、描写であり、迫力なのです。
特に圧巻だった第4部。イワンの内面の葛藤とスメルジャコフとのやり取り、それにより軋み、崩れていく精神の描写が凄み。崩れていく理性の描写としては芥川龍之介の『歯車』も読みながらゾクゾクした覚えがありますが、こちらもまた読むうちに崩れゆく理性の渦に巻き込まれ、次第に目眩がしてくる、まるで文章の中に吸い込まれていくかのような迫力。この辺りはもう文字から目をそらすこともできませんでした。そしてその崩壊した心の中にのみ残された真実はついに裁判では照らし出されることはなく、事実から「推察される真実」は見方によって様々に色を変え、心象を変え、裁判は進んでいきます。そう、やはり芥川龍之介の『藪の中』のように、真実は断片の切り方によっていくらでも姿を変えるのです。そして結局、真実は最後まですべての姿を見せてはくれないまま裁判の幕が閉じる、その無情さを感じする隙すらないようなあっけなさ。
正直この作品がこんなに面白いとは、こんなに力があるとは、思ってもみませんでした。エピローグで感じるまっ白なカタルシスは、そこまでの様々な登場人物の、長く生々しいドラマを、登場人物は登場人物として、そして読者は読者としても、乗り越えてきたがゆえ。この人類の原罪に挑むかのような壮大なテーマに比して意外なほど爽やかで美しいラストは、読後に清々しい達成感を残してくれました。
親殺しという神話からつらなるテーマを中心に、様々な人間模様や哲学、事実が真実を表すとは限らないというテーゼ、そして唐突で不条理とも思える結末。長さなど気にならず、最後まで一気に読ませてくれます。語る人物それぞれに、生々しい「人間」を感じるのです。そう、この言葉を何度も使いました。「生々しい」。この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物たちは、実に生々しいのです。最近の物語の、ちょっと近くにはいなさそうな「キャラクター」ではなく、明日も会いそうな、今も隣にいそうな、等身大でカッコよくも悪くもある、欠点だって普通に持った、ありふれた人間の人生が紡がれて大河となっている小説なのです。だから、この小説のあらすじに意味はないのです。単純に数行で書き尽せるあらすじにこの小説の神髄はなく、ストーリーの流れから見るとむしろ寄り道にも見える一人ひとりの人間ドラマが、滔々とした哲学や美学の語りが、そこに描き出される思いや迷いが、普遍的な広がりをもって流れていくのです。もっと早く読んでおけばと思いつつ、でもこの歳だからこそわかる部分も多いのかもなとも思うのは負け惜しみでしょうか。これはいつかまた読み返してみたい小説です。その時はまた、別の訳で。
とりあえず次は、『罪と罰』でも読んでみようかな?
2014年12月19日金曜日
梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』
この本の内容は大きく二部に分かれる。前半は2005年4月に国際シンポジウム「グローバリズムと現代アジア」の中で二日間にわたって行われたベネディクト・アンダーソンの講演の収録。そして後半は編著者である梅森直之氏によるアンダーソンを読むに当たっての基本的な考え方の紹介と講演の解題という形になっている。
自分の勉強も兼ねてこの本の内容をまとめてみようとこの記事を書き始めてみたのだが、これが非常にまとめにくい。これは本の前半に来ているアンダーソンの講演が事前に氏の著作を読んでいることを前提にしているため、予備知識なしで頭から読み進めていくと少々わかりづらい点があるからだ。なのでこの記事は本の内容を書かれている順にまとめていくことはせず、本を読んでここから自分が理解したことをまとめていくような形で進めていくことにする。
ベネディクト・アンダーソンはナショナリズム、ひいては「国民」「ネーション」という意識はいつどこで、どのようにして生まれ、世界に広がってきたのかを考える。そしてその意識が世界にどのように影響を与え、相互作用してきたのかを注意深く観察していく。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とはアンダーソンの有名な言葉だが、果たしてそれはどのような意味なのか。
今では「国民」や「ネーション」といった概念は一般に普通に受け入れられている。だが法律的には、例えば日本人なら日本国籍を持つものが日本人でいいはずなのに、実際の「国民」の意識の区切りはそうなっていない。例えば日本に帰化した外国人は日本人か?逆に日本で生まれ育ったが外国に帰化した日本人はどうか?仮に日本に帰化した元横綱・武蔵丸を日本人とみなさず、ノーベル賞受賞時には既に日本国籍のない中村修二氏を日本人とみなすようなことがあるのであれば、その国籍以外の要素で区切られる国民、ネーションの意識とは何なのか。この点をまずアンダーソンは探求する。ナショナリズムとは何なのか。
それはまず、近代の発明(国籍という制度ができたのと同時に発生した概念)であるはずの「日本人」が、あたかも太古の昔に起源を持ち、今日に至るまで面々と続いてきたと主張する(国民の古代性)。次にそれは、実際にはかなりの人が出たり入ったりしているはずの「日本人」の境界を、閉ざされたものであるかのように装う(国民の閉鎖性)。最後にそれは、さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体に変える(国民の共同性)。-『想像の共同体』より
この問いへの答えとして、アンダーソンは時間と空間に着目する。どのように人々が時間というものを認識しているのか。宗教的な時間、民俗的な時間、デジタルに刻まれる時間によって、人々の認識がどのように変わるか。また同様に、目に見える景色が、地図に描かれた空間が、人々の認識にどのような影響を与えるか。それがネーションの意識を規定すると。
時間が何故ネーションの意識を規定するものとなりえるのか。アンダーソンは「2014年12月20日 21時27分」というような日常で用いられる標準的な時間を「均質で空虚な時間」とし、このような標準的で過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間の感覚は歴史の中で発明されたものだと言う。本来歴史や文化によって多様であった時間感覚を、世界共通の「均質で空虚な時間」が浸透することにより人々の間に「同時性」の感覚が生まれた。そのことで世界の人々は時間を共有することが可能になった。かねてより人類学の世界は提唱されている、時間の発明だ。標準的な時間を得ることにより、まず人類は「時間を共有するコミュニティ」としてまとまることになる。
ここから時間を共有した人々の中にさらに「ネーション」という概念が生まれるには、加えて空間が境界によって区切られなければならない。解放された時間による共有から、空間による細分化によりネーションが生まれる。その役割に、ネーションを境界で区切るきっかけ作りに、貢献したのが言葉だった。ネーションの意識の空間的な源泉として、言葉が通じる範囲、つまりコミュニケート可能な範囲が原初のネーションとして意識されたわけだ。
標準的な時間と言葉によって区切られた原初のネーションの意識を、さらに細分化し強化したのが「出版資本主義」だとアンダーソンは指摘する。出版資本主義はまず商圏の拡大のために方言を統一化した「標準語」を生み出した。日本語で例えれば、東北弁で書かれた新聞を九州の人がすんなり理解するのは難しいので、便宜的に日本全国で通じる文字通り「標準的な」言葉として標準語が生み出された。これにより出版資本主義は新聞や雑誌を「全国に」売り出すことが可能になる。そして人々は新聞や雑誌を読む度に同じ時間と、言葉によって区切られた空間を共有し、集団への帰属意識を高めていった。このようにして「想像の共同体」は生まれる。
そして時間と空間で区切られた共同体に愛着を与え、ナショナリズムを生み出すきっかけとなったのが植民地で生まれ育った人々、クレオールだという。決して本国と同等の立場になることのないクレオールの本国に対するコンプレックスはそのまま自らが属する共同体への愛着へと裏返され、そこに「国民」「ナショナリズム」という観念が生まれる。後でまた触れるが、その植民地で生まれたネーションへの強い愛着、「国民」という強い意識が、ナショナリズムとなって一連の植民地解放運動の力となった。
そして一度生まれた「国民」という概念は模倣可能な「モジュール」となり、模倣を通じて世界中に伝播していくことになる。2005年の公演、この本の前半部では、アンダーソンはそのモジュール化されたナショナリズムが初期グローバリズムの中でどのように世界各地で模倣され、広がっていったかについて語っている。
もう一つ、クレオール発の国民意識を民衆の意識に自発的に芽生えたボトムアップ的なナショナリズムだとすれば、権力側が民衆を自分たちの帝国により強く結び付けようと意図的に国民意識を植え付けるトップダウン的な「公定ナショナリズム」とアンダーソンが呼ぶものが生まれてくる。これは世界、特にヨーロッパ各地でナショナリズムというモジュールが模倣され、伝播し、民衆運動が盛んになる中、それを脅威に感じた権力が民衆をより強く自国に結び付けておくために試みられた。開国から明治国家形成に至るまでの日本のナショナリズムもここに分類されている。黒船来襲以来、外国の脅威を目の当たりにしたこの時期の日本は、他国に飲みこまれないためにも国民の帰属意識、ナショナリズムを強めていく必要があったのは想像に難くない。
では実際、上記のように生まれたナショナリズムの概念が19世紀末から始まる初期グローバリズムの中でどのように広がっていったか。グローバリゼーションが生まれる要因も含めてアンダーソンは言及する。グローバリゼーションの発生・発展のきっかけとなった出来事は2つ。1つはモールスによる電信の開発、そしてもう1つは世界中をつなぐ輸送、物流の発展だった。
およそ130年前、瞬時に情報を世界中に伝えることができる電信の誕生によって初めてグローバリゼーションは可能になり、誕生した。電信は1850年代に急速に世界中に広がり、1870年代には海底ケーブルが主要な海洋をすべて横断し、つなぐまでに発展。やがて絵や写真も送れるようになる。この電信により人類史上初めて、情報が瞬時に世界中を駆け巡る時代が到来する。もちろん現在のインターネットほど便利ではないが、それでも情報が一瞬で世界中に届く時代は、もうこの頃に生まれていた。
そして汽船や鉄道の整備が世界中で進んでいき、1874年に万国郵便連合が設立されると、手紙、書籍、雑誌、新聞などがこれまでにない規模で国境を越えて大量に輸送されるようになる。これによりローカルにいながらにして世界中の情報、写真等にも触れることができるようになっていく。早くて安全な蒸気船の交通網が発達することで世界の物流は効率化され、海を渡る巨大な人の流れも生まれる。これら電信と輸送の発達を背景に出版と商業がつながり情報がグローバル化したこと、これをアンダーソンは「出版資本主義」と呼んでいる。出版資本主義は先の標準語の発明で商圏をまとめ、さらに翻訳によって世界中に情報を運んでいった。この「出版資本主義」が世界中の植民地で起こるナショナリズムをつなぎ、伝え、そしてそれが世界各地で模倣されたのが初期グローバル化の空間だったとアンダーソンは言う。
19世紀の末、世界各地で同時多発的に白人帝国主義と植民地の戦いが始まる。ホセ・マルティが起こしたキューバ革命、ホセ・リナールのフィリピン革命、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦い…。発展した電信と輸送は、これらの国々の植民地勢力がお互いに連絡を取り合うことを可能にした。また他の国々は新聞や雑誌等を通じてこれらの植民地解放運動の情勢を知ることとなり、それはあらためて自国の「ネーションとは何か、どうあるべきか」を意識させるきっかけとなった。出版資本主義はネーションの概念を伝えるだけでなく、植民地解放のためにどう戦うかまでもモジュール化し、模倣の助けとなっていた。
同様の情報伝搬による模倣は19世紀末から20世紀初頭のアナーキズムにおいても起こり、それは世界各国の主導者の暗殺という形で具現化された。アナーキストたちは世界各地の情報をグローバルに見聞きし、模倣し、実行したわけだ。その実行には各地のナショナリストも多く関わった。アナーキストたちは要人の暗殺を世界に対するメッセージとして利用し、それは出版資本主義により世界各地に伝えられ、目論見通りの効果を上げた。
このように、通信と輸送の発達によって遠い国のナショナリズムやアナーキズムがグローバルに広がっていき、世界中にナショナリズムが強く意識され、芽生え、実行されていく。それが初期グローバル化の時代に起きていたことだった。
公演後の質疑応答の中でアンダーソンは今後ナショナリズムによる国家の領土の拡大は考えにくいが、逆にネーションのさらなる分割は充分起こりえると話している。特に脆弱なのはイギリス、ロシア、中国にインド。ヨーロッパではスペインも、と。この講義が行われたのが2005年、本として出版されたのが2007年。その後、世界ではアンダーソンが言及したような事象が多数起きてきている。アラブの春では民衆蜂起によるチュニジア政権崩壊を発端に、ヨルダン、バーレーン、リビア、そしてシリアと次々に飛び火。Facebookを使った情報のやり取りはまさにモジュール化され、模倣されていった。ウクライナではクリミア自治区が騒乱を起こし、スコットランドではイギリスからの独立を問う住民投票が実施された。時期を同じくしてスペイン・カタルーニャ地方でも独立を問う非公式な住民投票が実施されるなど、ここ数年でナショナリズムの動きは活発化しているように思える。隣国中国の尖閣諸島、韓国の竹島での動きももちろんだ。
これらの動きに対して、この本では予見はしていてもその後どうなるか、どうすべきかという話は出てこない。それはこれから語られるべきこと、あるいは我々が自分で考えていくべきことなのだと思う。
自分はベネディクト・アンダーソンをレヴィ=ストロースや、あるいはガルシア・マルケスの正当な後継者だと感じた。本人も『想像の共同体』は正真正銘の構造主義的テクストだと思っていたと語っている(ただし、実際にはデリダやフーコーの影響が強く感じられるポスト構造主義的、ポストモダン的なテクストとして受容されたとも語っている。執筆当時アンダーソンはデリダもフーコーも読んだことはなかったそうだけど)。そしてこの『想像の共同体』は意外なことにあのジョージ・ソロスによって旧ソ連内のすべての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本の1つに選ばれている。意外な人物が出てくるものだ。
最後に、ここ数年また活発化してきているナショナリズムの今後を占うために、『想像の共同体』の時点では考慮されていなかったがその後アンダーソンが重視するようになったというネーションとグローバリズムの関係について触れておきたい。ネーションの比較研究のためにはネーションをあたかも境界づけられた1つの単位であるかのように扱い、比較の物差しをはっきりさせないといけないとアンダーソンは言う。けれども実際のネーションは絶え間ない動きのうちにあり、変化し、他のユニットと相互作用していく。だからこそナショナリズムをグローバルな文脈で比較し、論じるためにはナショナリズムがそこで生じ、変化し、相互作用する重力場について見なくてはいけない。今後の世界情勢を見ていく時、この視点は重要だと感じる。ナショナリズムの動きが世界で活発になってきている現在、アンダーソンのような視点でその動きを解明していく思考は大切ではないだろうか。自分としては今後是非、『想像の共同体』を始めとする氏の著作も読んでいきたい。
2013年7月29日月曜日
桜木 紫乃『起終点駅(ターミナル)』
この作品は、六編からなる短編集だ。そこに出てくる人物は、皆何かしら後ろ暗いもの、決定的な欠落を抱えて生きている。『かたちないもの』では突如明確な理由も告げずに別れて離れていった恋人への、思いと最終的な死別であり、『海鳥の行方』では理不尽な上司との軋轢に苦しみながら、恋人の病にも何も思わない自分自身だったり、過去に殺人を犯した男の現在と最期だったりする。表題作『起終点駅』はかつての恋人との不倫の果てに、相手は自殺し、妻子にはその事実は何も告げずに離婚した男。『スクラップ・ロード』は中学生の時に父が蒸発し、片親ながらエリート出世コースを進んでいたもののその途中で職も婚約者も失ってしまった男。『たたかいにやぶれて咲けよ』、-----これはさすがに詳細は書かない方がいい。『潮風の家』は家族も捨てて天涯孤独な人生を送ってきた女二人の話。
こうして並べてみると、あくまでファンタジーではなく日常の物語ではありながら、テーマ設定はすべて重く、暗い。その中で、当然登場人物たちはもがきながら生きていくのだけれど、その誰もがひたむきで前向きなわけではない。その重く苦しい現実を、受け止めている人もそうでない人も、立ち向かっている人もただ流されている人もいる。その、簡単に希望や救いを拠り所にしない、乾いた叙事的な語りが、かえってしんみりと心に染みてくる。世界は、重いかもしれない。暗いかもしれない。そんな中、生きていればどうにかなるなんてこともまたないのかもしれない。そこで力強く、「でも生きるんだ」となるのでなく、ただ生きている人の姿が描かれていて、それが逆説的に物凄い説得力がある。人間いつだって前向きなわけじゃない。重く暗い現実に立ち向かえない時もある。でも生きている。もしかしたらひっそりと、立ち続けるくらいのことはできるかもしれない。そんな控えめなメッセージ。
作者の桜木 紫乃は直木賞の受賞者インタビューで、「一生懸命生きている人の口から幸せだとか、不幸だとかいった言葉を自分は聞いたことがない。そういった人達を自分は今後も書いていきたい」みたいなことを言っていた。なるほど、ここで描かれている人は幸せだとか、不幸だとか、そういったことではないのだなと思う。一生懸命生きているのだ。例え前向きに希望を見るような生き方でなくとも、重く暗い人生に、静かに自分自身を順応させるような生き方だったとしても、一生懸命、生きているのだ。その姿を、情に流されずに描くからこそこの作品は情に訴える。
だから、このオビに書かれていたコピー、「苦しんでも、泣いても、立ち止まっても、生きて行きさえすれば、きっといいことがある」というのは違うと思う。コピーライターが大して作品も読みこまずに書いた浅薄なコピーだなと、読み終わった今では憤りさえ感じるほどに。自分が同じ調子でコピーを書くなら、こうだろうか。「苦しんでも、泣いても、立ち止まっても、それでも、人は生きている。幸せだとか、不幸だとか、そんな言葉とは関係なく」。あくまで、希望や救いを簡単に拠り所にしないところが、この作品の美しさなのだ。生きていたっていいことなんてないかもしれない。力強く前を向いて「生きて行くぞ!」なんて活力は出ないかもしれない。でも、生きていくのだ。そんな等身大の、虚飾のない人間たちが、静かに淡々と描かれた物語。個人的には表題作『起終点駅』、そして『たたかいにやぶれて咲けよ』、その前編としての『海鳥の行方』は本当にすばらしい作品だと感じた。
2011年11月29日火曜日
今だから考えさせられる『COPPELION』
『COPPELION』は爽快で涙もあり、とても面白いけど正直深い話ではない。けれど、震災後の今読むと色々と考えさせられる。セシウムやストロンチウム、中性子等の性質もちゃんと出てきて、ある程度科学的に正しいから尚更だ。もちろん科学的にまったくあり得ないことも出てくるが、まぁそこはマンガの世界。つっこむのは無粋というものだろう。
挿話的に描かれるのは、震災発生時、放射能漏れを隠して自衛隊に救助をさせ、自分達は逃げ出した政府。事故の実態を隠そうとする電力会社。責任を感じて一人で東京に生存者の理想郷を創り上げる原発設計者や、軽視される安全管理の中で危険を承知の上で現場に残った技術者など。そして一番痛ましいのは、自分の意思で残ったのではなく、逃げ遅れる形で汚染された東京に残されてしまった多数の一般市民。今となってはどれも現実的だ。読んでいるとこの悲劇は福島でも現実にあり得たのだと思ってしまう。
『COPPELION』を読んでいると、今までなら「まぁマンガの世界だしな」で片づけられる部分がそれで片づけられない。今となっては、恐ろしい程のリアリティがあるからだ。「そんなマンガみたいな」とはよく言うけれど、そう、マンガみたいな世界に、なってしまったのだなと。
このマンガは震災後は不謹慎との批判もあるらしいし、福島の人から見たら実際精神的にも苦しいのだろうと思う。その人達に対して自分は何も言うことはできないのだけれど、個人的な希望を言えば不謹慎とは言わずに続けさせてほしい。今だからこそ、想像力に働きかける物語でもあるのだから。
2011年10月24日月曜日
『いまだから読みたい本-3.11後の日本』 坂本龍一+編纂チーム著編
少なくとも、3.11後に国や東電に「だまされた」と声高に叫んでいる人達は、この中の伊丹万作による「戦争責任者の問題」だけでも読んでみるべきだ。戦後、日本の国中に「国にだまされた」という空気が漂っていた、その時代の鋭い考察はこの3.11後の日本でもそのまま当てはまる。
その他、管啓次郎の「七世代の掟」は、そのまま短いスパンでの利益のみを求める現代資本主義社会-それは当然原発利権も含む-への強烈な警鐘となるだろう。直接の被災者の方々は「先住民指導者シアトルの演説」に涙するかもしれない。確かに3.11後に読むべきテキストが集められた一冊だ。
それにしても、坂本龍一がさらなる参考図書としてレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』や中沢新一のカイエ・ソバージュのシリーズを挙げているのはさすがの慧眼。私自身の思考体系にも大きく影響を与えたこれらの書だが、確かに3.11後の今の世界でこそ読み直され、見直される価値がある書だと思う。
2011年2月20日日曜日
『さよならニッポン農業』神門 善久 著
本書が一番の警鐘を鳴らしているのは転用や耕作放棄を含む農地の無秩序な利用。最終的には規制緩和の名の下にそれこそ農地をだれでも自由に取得して自由に利用していいという形になることを警戒する。この無秩序な農地利用に国や地域が歯止めをかけ、農地に競争力を与えることでこそ農業の復興の可能性と説く。ここでいう"競争力"とは世間一般で叫ばれる規制緩和により誰でも農地の取得・利用をできるようにするという見せかけの自由競争ではない。それでは無秩序化がさらに進む。土地利用の方法や手法を細分化して規定化した上で、その規定に沿って土地利用をする限りでは土地の利用権のやり取りを自由化するという方策を提言する。それにより土地利用の無秩序化を抑止しながら価格面での自由競争を促進するわけだ。その際の前提として農地基本台帳を法定化し、平成の検地をおこなって農政を策定・運用する際の基本情報を整理する必要があるというが、これには強く同意する。そもそも自分の農地の権利関係が自分でもわからずに困っている農家も多いのだから。
著者はその他にも無秩序化を抑止するための様々な意見を述べているが、一貫しているのは現状での無秩序な農地利用のままでは日本農業に未来はないということ。その意味で本書のタイトルは『さよならニッポン農業』なわけだ。まだTPPという話が大きくなり始める前に出版されているので本書中にTPPという言葉こそ出てこないが、ドーハ・ラウンドやFTAを視野に入れつつ、貿易自由化の際の影響も視野に入れており、その提言は貿易自由化への対応としても有効と感じる部分も多い。現状をみると非常に理想論的に思えるが、論拠が完全なまでに現実的なだけに現状への悲嘆と将来への可能性をどちらも感じる本だ。
この本は農家ならずとも農業界に身を置く人間としては耳に痛い言葉も多い。だが、感情的にでもなく、行政やJAへの批判というわけでもなく、冷静に歴史と現状を分析して問題点と解決案を問いかけてくる本書は非常に説得力がある。是非一人でも多くの人に読んでもらいたい本だ。
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・・・と、ここまで書いてFacebookのリンクを使って書評として登録しようとしたら文字数オーバーと言われた(苦笑)。どうやら420文字しか書けないらしい。短いな・・・。なので、とりあえず原文はこの雑記帳に記載して、Facebookには抜粋版を掲載。もう子供達が起きるから、後でBLOGをFacebookに反映する方法を試してみよう・・・。
2008年5月5日月曜日
ルリユールおじさん
大切にしていた植物図鑑が壊れてしまった少女は、それを直してくれる人を捜して歩く。町の人に「ルリユールのところにもっていってごらん」と言われ、ルリユールを尋ねて回る。ルリユールとは、有り体に言えば本の装幀職人だ。この職業については、絵本の最後に作者による注釈が付いている。
RELIEURは、ヨーロッパで印刷技術が発明され、本の出版が容易になってから発展した実用的な職業で、日本にはこの文化はない。むしろ近代日本では「特別な一冊だけのために装幀する手工芸的芸術」としてアートのジャンルに見られている。出版業と製本業の兼業が、ながいこと法的に禁止されていたフランスだからこそ成長した製本、装幀の手仕事だが、IT化、機械化の時代に入り、パリでも製本の60工程すべてを手仕事でできる製本職人はひとけたになった。
この本は少女とルリユールの老人との不器用な交流を通じて、落ち着いた静かな絵とともに色々なことを伝えてくれる。それは道徳的な意味では本を大事にすることの大切さかもしれないし、少女と老人の交流かもしれない。しかし、この本の根底に流れているのは2つ。1つは職人の誇りであり、もう一つは受け継がれるもの、だ。
職人の誇りやこだわりを描いた文学作品といえば日本では芥川龍之介の『地獄変』がまず浮かぶし、外国文学であればスティーブン・ミルハウザーの『アウグスト・エッシェンブルグ』や『エドウィン・マルハウス』が思い浮かぶ。ちなみに、いずれも私が心から素晴らしいと思う作品だ。だが、この『ルリユールおじさん』で描かれている老人はそこまで天才肌や偏執狂的な職人ではない。父の代より受け継いだ、ごく平凡な、だがしかし胸には小さいながらもルリユールとしての誇りを抱いた、そんな老職人だ。そのルリユールとしての小さな誇りがきっと、少女の植物図鑑を少女が期待する以上の形で、夜遅くまでかかってでもその本をなおしてあげようと、「きみの本は明日までにつくっておこう」と彼に言わしめたのだろう。その職人の不器用さと暖かさはしんみりと胸を打つ。
この老職人は、父も同じルリユールだった。幼い頃のこの老職人は、父の手により修復されていく本を見て、「とうさんの手は魔法の手だね」と言っていた。「修復され、じょうぶに装幀されるたびに本は、またあたらしいいのちを生きる」と。今、老職人は少女の本を修復しながら、「わたしも魔法の手をもてただろうか」とひとりごちる。小さいながらも、確かに受け継がれていく意思と技術。この老職人が直した植物図鑑は、もう壊れることはなかった。そしてその少女は大きくなり植物学の研究者になる。形を変え、世代を超えて、心は受け継がれていく。実に、美しい絵本だ。
娘がこの本を読めるようになるのはまだまだ先のことだろう。読み聴かせる分には幼稚園くらいでもいけるだろうが、まぁ、つまらないだろう。自分で読むなら早くても小学校低学年くらいか。それでもまぁ、まだ面白くはないかもしれない。できることならば、小学校と言わず、もっと大人になってからでいい。この本の美しさがわかる人間になってほしいと願う。
最後に、この本のモデルとなったルリユールの工房に掲げられていたという一文を。
「私はルリユール。いかなる商業的な本も売らない、買わない。」
2007年11月12日月曜日
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ
元々は書店(確か渋谷ビックカメラの隣の文教堂)で平積みされていて、カセットテープが一面にモノトーンで描かれている表紙に目が止まった。次にタイトルに引かれた。カズオ・イシグロもちょっと読んでみたかったんだよなと思い出したが、結局その場では買わず、後に古本屋で見つけて買ってきた。
主人公の女性、キャシー・Hの独白の形で綴られる、この作品の語り口は静かだ。自らを優秀な介護人と自負するキャシーが、静かに仕事や、自分の幼少期を語り始めることから物語は始まる。静かで一見ありきたりだが、少女や少年の細かな心の揺れが見事に追体験できる見事な筆致に引き込まれる内、少しずつ、微妙にだが確かにどこかタガが外れた、その世界のずれが明らかになっていく。
最初は、幼少期や青春期の挿話を交えた介護小説のようなものかと思っていた。レベッカ・ブラウンが『体の贈り物』や『家庭の医学』で描いてみせたような世界だ(ちなみに、どちらの小説も素晴らしい)。だが、この『わたしを離さないで』は明らかにそれとは違う。非常に残酷な運命に振り回される少年・少女達を、その内面を精緻に生々しく描きながら、それでも全体としてはむしろ淡々と、整然と、解説の中の言葉を借りれば非常に抑制の利いた文体で、巧妙に描き出している。長編全体を通して決して焦らず、少しずつその世界を垣間見せていき、様々な挿話が見事に伏線となって絡んでいく、そのじっくりゆったりとにじり寄るようにクレッシェンド・アッチェランドをかけていくような構成が、平凡に思えるエピソードにすら不思議な緊張感と不穏な空気を持たせていた。そして少しずつ明らかになっていく悲劇的な運命に対する内面の心理の描写と全体としての距離の置き方が非常に絶妙で、それがこの小説の静かさに満ちた情感を生み出している。
Amazonのレビューや一般の書評ではSFやミステリーといった分類も見られるが、この小説の本質はそこにはない。これは人間を描いた小説だ。運命と、人間を描いた小説だ。それも素晴らしい構成力と、叙情性を伴う叙事性を核に持った、素晴らしい小説だ。カズオ・イシグロの他の小説も読んでみたくなった。次はやはりブッカー賞受賞作『日の名残り』だろうか。
2007年4月8日日曜日
ソラニン
この作品が描いているのは一言で言ってしまえば"イマドキの若者像"だ。主人公の芽衣子は社会人2年目のOL。付き合って6年目、同棲して1年が経つ彼氏の種田はバイトをしながらバンドを続けるも、そのバンドにも完全に本気にはなれていない。"仕事が嫌というよりは、疲弊してくたびれていく自分が嫌だった"芽衣子が、「人生のレールなんて外れて自由になっちゃえばいいじゃん」という黒い囁きと種田の言葉をきっかけに会社を辞めた時から、自由と現実の闘いが始まる。貯蓄残高という期限付きの自由。おそらく人生最後のモラトリアム。芽衣子に種田、そしてバンドの仲間達はそれぞれに自由と現実との境界線を眺めつつ、自由であること以外平凡な生活を、将来への不安を抱きながら過ごして行くことになる。
この漫画のステキなところは、そんな青臭いテーマを扱いつつも、決して浮ついた雰囲気は感じさせずに作品の空気をしっとりと落ち着かせているところだ。若者が侵された微熱を微熱として扱うのではなく、そこをまた一歩外から冷静に見つめる繊細な心理描写と、美しく描かれる背景達がそれを可能にしているのだろう。そして随所に現れるユーモアのセンスもいい。何カ所か、結構笑った。自分と社会との折り合いを見つけようとする若者達の葛藤という、普遍的だが陳腐にもなりかねないテーマを実にすっきりと読ませてくれる。そしてこの『ソラニン』に出てくる人物達は皆キャラが立っている。それぞれがそれぞれの思いを抱えていて、読み進める程に皆が好きになってくる。芽衣子も、種田も、ビリーも、加藤も、皆愛着が持てる。読んでいてキャラ自体をこんなに好きになることは珍しい。何となく「コイツラとなら仲良くなれるんだろうな」とか思ってしまう。それがまたこの作品の魅力をいっそう引き立てている。
ネタバレになるので控えめに書くが、全2巻完結のこの作品は、1巻と2巻のつなぎ目で非常に重大な事件が起こり、その前後で作品自体の様相がガラッと変わる。作中の人物達が向き合わなければいけない対象が変わる。過去を引き継ぐべく、未来へ進むべく、決意とともに芽衣子は自分でギターを持つ。それまでほとんど弾いたことがないにも関わらず。『ソラニン』というのは作中で種田が作詞・作曲した曲のタイトルだ。前に進もうとするその芽衣子の心境に呼応するように、その歌詞の解釈は作中で変わっていく。2巻のクライマックスで芽衣子はギターを持ち、歌う。この『ソラニン』を。「この曲が終わったら、またいつもの生活が始まるんだ」と思いながら。余韻を残しながら引いていく、若さという微熱の終わりが重なるそのシーンは、まるで真夏の花火のように、美しく、そして儚い。その直後に入る回想の挿話も含めて、そう、ゆっくりと消えていく大きな大輪の花火を見ているような気分になった。遠くに響く残響と余韻を残して、大輪の花火も消える。祭りは、終わる。微熱も、引いていく。儚くとも、それを一つの終わりとして、それを新たな始まりにしようという芽衣子の、そしてその他のメンバーの、ある種の決意が胸を打つ。
もし、自分が大学の時にクラシックギターを選ばずにバンドの方に進んでいたら、自分はどのような大学生活を、そしてその後の人生を送っていただろう?そんなことはあまり考えなかったけれど、この『ソラニン』を読んでふとそんなことを思った。それ程、読んでいくうちに作品に、作中の人物達に心が引かれていく。それ程、すべてが身近に感じられる空気がある。変に浮世離れしたところがないこの漫画は、映画でもいい表現ができる作品だろうなと思った。映像イメージが実に美しい。漫画や小説に対して「映画化してもよさそうだ」とはホントに滅多に思わないのだけれど。調べてみたらつい先日映画化が決定したらしい。実写かアニメかはまだ決まってないそうだが、是非、実写でやってほしい。キャスティング次第では、とてもいい映画になるだろう。詳細はまだわからないが、楽しみだ。
2007年3月4日日曜日
夜は短し歩けよ乙女
が、いざ買おうと思って探してみると、東京だとこの本はなかなか売っているところすらみかけない。今日初めてMosaic港北のBook1stで売っているのを見かけたが、それまで東京・横浜ではひたすらみかけなかった。結局他の本を買う用事と一緒にAmazonで買った。やけに地域差のある本だなと思ったが、恐らくそれはこの本の舞台設定に由来しているのだろう。そう、この本の舞台は京都だ。
これは非常に可愛らしい恋愛小説だ。少しばかりの浮世離れと、意識的な時代倒錯を交えて、独特の文体で不思議にコミカルにテンポよく、恋愛小説特有の甘ったるさや気恥ずかしさを一切感じる間もなく読み切れる、実に爽快な希代の恋愛小説だ。以下にそのヘンテコな文体の一例を少し引用してみよう。
よろしいですか。女たるもの、のべつまくなし鉄拳をふるってはいけません。けれどもこの広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、そうでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。
彼女がその本を追い求めて古本市をさまよっていたことを聞いた刹那、「千載一遇の好機がついに訪れた」と直感した。今ここに一発逆転の希望を得て、ついにふたたび起動する私のロマンチック・エンジン。彼女と同じ一冊に手を伸ばそうなどという幼稚な企みは、今となってはちゃんちゃらおかしい。そんなバタフライ効果なみに迂遠な恋愛プロジェクトは、その辺の恋する中学生にくれてやろう。
・・・おかしな文だ。少なくとも、いわゆる普通の恋愛小説っぽい文ではない。この昭和っぽい錯誤を感じさせる文体の中にテンポよく小気味よく、珍妙なキーワード達が並べられてつなげられて行く。おともだちパンチ、詭弁論部、偽電気ブラン、李白、古本の神、韋駄天コタツ、パンツ総番長、象の尻、偏屈王、風雲偏屈城・・・。まだまだある。ハッキリ言ってこれだけでは意味不明だ(笑)。とても恋愛小説とは思えない。ところが、これが面白い。サークルの後輩に一目惚れした先輩が、彼女の目に少しでもとまろう、彼女の気を引こうとして繰り返す小気味いいドタバタ劇。春の夜の先斗町と百鬼夜行のような一晩の出来事を、夏の下鴨古本市とそこに渦巻く運命の連鎖を、秋の学園祭を巻き込む壮大な『偏屈王』の騒動を、冬至に猛威を振るう風邪の神様との闘いを、理屈っぽく妄想屋でネガティブな先輩と、明るくプラス思考でとぼけた彼女が、かみ合いすれ違い駆け抜けて行く。実に楽しい小説だ。なんとなく、新潟のとある仲間が読んだらどんな感想を持つかなと思ってもみた。ま、アイツは「この日本語は読む気にならん」とかその他の理由でバッサリ切って捨てそうだが(笑)。
この小説は、実は技巧的にも単純ながらよくできている。出てきたキーワードはきれいに全部つながって行き、そして実に大量に、例外的に大量にキーワードが乱発されるにも関わらず、漏れもなければとって付けたように見えることもなく、非常にまとまりよく構成されて行く。スケールは小さいながらもここまでちゃんと構成がしっかりした小説は現代日本の小説家の中では久し振りに読んだ。流れ重視で全体の構成がアンバランスになっている小説が多い昨今、この作品は気持ちいい。
甘酸っぱいが甘ったるくなく、ロマンチックだが気恥ずかしくなく、珍妙で滑稽で、単純だが巧妙で、ひよこ豆のように可愛らしい恋愛小説。本屋大賞にノミネートされたのもうなずける。久し振りに手放しに楽しい小説を読んだ。
2007年1月5日金曜日
『失われた町』 三崎 亜紀
三崎亜紀の小説にはいつも、現実世界をベースにその世界のネジを何本か外して前提をずらしたような、突飛な世界設定がある。『となり町戦争』では"目に見えないが確かに行われているらしいとなり町との戦争"だったし、『バスジャック』中の短編『動物園』では"動物園で本物の動物を飼育して公開するのでなく、一種の幻術のようなもので観客にそこに動物がいるかのように見せることを職業とする人達"、『バスジャック』では"ブーム化し、形式化された、ある種日常を巻き込んだ競技的なバスジャック"だったし、今回の『失われた町』では"突然中に住む人達を理不尽にすべて消滅させてしまう町"だった。常に、現実世界の中から描きたいテーマを見つけると、それを描きやすいようにまず世界の方をずらす。三崎亜紀はそのような手法を使う。その突飛な世界設定から、"SF作家"と言う人も多いようだが、まぁそれは誤った指摘だろう。大体"Science Fiction"では、どう見てもない。藤子・F・不二雄の言葉を借りて、「すこしふしぎ」の略としてのSFならいけるだろうが。
というわけで『失われた町』だ。ある程度定期的に(作中でうかがい知れる範囲では30年周期)発生する町の消滅。町の意思によって消滅順化させられ、町から逃げ出すことも外の人にS.O.Sを伝えることもできない中の住人は、ある日理不尽に町からすべて姿を消す。そうして消滅した町は、消滅の余波による汚染の拡大を避けるために管理局という組織によってきれいに歴史からも地図からも個人の持ち物からも消され、初めからなかった町として、空間的・時間的な空白地帯として扱われることになる。町の外に住んでいた残された遺族は、消滅した人々のために悲しむことすら禁じられ、消滅に関わるすべての事柄は"穢れ"として忌避されている。そんな中で、管理局の一部と、残された何人かの遺族が力を合わせて次の町の消滅を食い止めようとする。あらすじをざっと書くならそんなストーリーだ。ネタバレになるので控えめに書くが、管理局の重要人物と、母親を消滅で無くした子供、恋人を無くした女の子、消滅からの生き残りの子供・・・、多様な人物が様々な角度から町の意思である消滅に立ち向かい、やがてその人間相関がグルリとつながって一つの輪ができあがっていく展開は読んでいて気持ちがいい。
全体を貫くのは、"意思は受け継がれる"というシンプルなテーマ。登場人物達は先に消えた、あるいは亡くなった人達の意思を受け継ぎ、自らの心を固めることで世間から蔑まれる消滅、ひいては町との闘いを続けて行く。住人の理不尽な消滅と悲壮なまでの意思が全体を支配する割に、重苦しくなく最後まで読めてしまうのは作者独特の空気のせいだろうか。
まぁ、正直アラが目立つ作品でもある。登場人物が多い割にページ数が少なく、いくらか取って付けられたような印象を受けるエピソードもあるし、視点も散漫になっている。複数の人物の視点による連作短編と考えるには章ごとのつながりが強すぎる(連作短編とするなら途中のどの章を切り取ってもそれ一つで短編として機能するべきだ)し、一つの長編小説として考えるには視点に統一感がない。
おそらく、作者はもっと長い話にしたかったのではないだろうか。端々に見える中途半端に終わるエピソード達を見ていると、どうもそんな気がする。それをあまりに長すぎるとエンターテイメントして重すぎるからか、商業的な理由からか作者の気力的な理由からかは知らないが、半ば無理矢理短く詰めた、そんな印象を受ける小説だ。そういう意味では『となり町戦争』の方がまとまりはよい。
とはいえ読んでいて面白い小説であることは確かだ。久し振りに一気に読んだ。多少センチに過ぎるきらいはあるものの、舞台設定も、最初に見せられた結論から次々と過程が示されていき、登場人物の相関が少しずつ形成されて行く展開もいい。少しずつ小説中の世界に対する疑問が氷解していく面白みにつられて退屈しない。心の中の町という概念は、村上春樹の名作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させる。『失われた町』はあそこまで内面深くは潜って行かないけれど、逆にそのより表層近い感情的な部分をフューチャーしている辺りがこの小説のわかりやすさにつながっているのかもしれない。村上春樹が海外で知られるようになって以降、アメリカの方ではエイミー・ベンダーやジョージ・ソウンダース等の作家を始めとする、こうした日常から少しずれた不思議な舞台設定を多用するマジカル・リアリズムともいうべき潮流が形成されつつあるそうだが、その流れを日本で体現するならこうなるんだろうなと、そういう気がする。そういえば、村上春樹の流れを汲んでいるように思える作家は日本には意外といない。
2006年10月9日月曜日
北原白秋『落葉松』(水墨集より)、そして『働きマン』
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
『働きマン』というマンガを読んだ。以前深夜にTVを観ていたら(まぁ私がTVを観るのは大抵深夜0時過ぎではあるのだが)、このマンガがアニメ化されるというのでその特集をやっていて、それを見てちょっと気になっていたのだ。この週末、歯医者の帰りに古本屋に寄ったら売っていたので一つ所望した。
この『働きマン』というマンガもさすが最近レベルの高いモーニング誌の中でも不定期連載という立場でありながら話題をさらっているだけあって非常に面白い。また、働くということについて色々な角度から、色々なキャラクターから眺めているので、一応人並みに働いている身としてはなかなか考えさせられることも多い。これは基本1話か2話で一本のストーリーが完結し、ストーリーごとに色々な人物に焦点を当てて、様々な視点から仕事を切り取るという手法がなせる技だろう。この『働きマン』についてはこれはこれでまた別途書きたいところではあるのだが、実はこのマンガを読んで一番心に響いたのが、作中で引用されているこの北原白秋の『落葉松』(←「からまつ」と読む)。実に、静かで、それでいて侘び寂びがあり、それでいながら沈みきっていくのではなくふっと前を見て進んでいく前向きさも感じられる、非常に美しい詩だと思った。作中の引用は抜粋だったので、すぐにネットで全文を検索して調べてみた。便利な世の中になったものだ。
作中では自分ではこだわりをもって仕事をやっているつもりなのに、なかなか周囲とはずれて理解されない中年(だろう)男性との比較描写で使われる。
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
というわけだ。仕事をしていると(特に多忙きわまりない時に)ときたま感じる寂しさや侘びしさに近い感情を、この描写は間接的ではあるがなるほど非常に見事に描写している。そしてまぁ色々とすったもんだあるわけだが、最後にこの物語は、そして北原白秋は、こう締めるわけだ。
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
実に、美しい。「さびさびといそぐ道」の先の、希望が見えてくる。
余談ではあるがこの『働きマン』、アニメ版のテーマソングはユニコーンの名曲『働く男』のPUFFYによるカバー版だそうだ。この選曲もなるほど、絶妙である。
2006年9月23日土曜日
作らなければ壊せないが
それと同じように、自分の歩みが、必ず否定される時が来るのだということを含みながらする、それが哲学であり、神学なのです。では初めから何も作らなければよいではないか、と思われるかもしれません。そうではないのです。作らなければ壊せないのです。壊すために作るかというと、そうでもないのです。われわれが生きていくということは結局そのようなことではないでしょうか。
2006年7月12日水曜日
ある偶然の再会 - 戸田誠二『説得ゲーム』
会社の帰りに電車の中で早速読んでみる(さすがに仕事中は読まない)。すると、その中の『キオリ』と『説得ゲーム』は、読めば読む程聞いたことのある話だった。最先端の脳の研究所に持ち込まれた若い自殺未遂の女性の脳。体はもう使えないので脳だけで培養されていくが、結局は萎縮して消えてゆく運命を辿る。その作品の中、主人公の「体なんてなくても大丈夫ですよ」「今の時代脳さえあれば」で完全に思い出した。そう、以前に読んだことがある。インターネットでだ。いつだったか、ネットで読めるマンガを探していてこのマンガを掲載しているHPに辿り着いた。この戸田誠二のHPは1999年より運営されているそうなので、きっともう何年も前に見たのだろう。今も、運営されいる。この『COMPLEX POOL』がそうだ。このHPを見つけたとき、結構時間をかけて何点もの作品を読んだのを覚えている。少なくとも『キオリ』と『説得ゲーム』、そして今回買った単行本には入っていないものの『唄う骨』は当時に読んだ記憶が蘇ってきた。「そうか、ちゃんとした本になったんだな」と、なんとなくちょっと嬉しくなった。
彼の作品は単純と言えば単純で、巧妙な伏線やら予想外の展開やらがあるわけではない。大体、「こう終わるんだろうな」という期待を裏切らずに予定調和的な安心感の中で読める。世の中のちょっと歪んだ部分、事件でも非日常というほど大きなものでもないけれど、日常の中に点在するわずかな歪み。そこを静かな視点で描いているマンガで、ともすれば少し寂しかったり暗かったりとなりがちな題材が多いが、そこをさらりと後味のいいようにまとめてくれる。劇的ではないからこそ逆に共感はしやすい。そんなマンガだ。
彼の作品は常に変化が描かれている。描くための題材は毎回異なるが、キーとなるテーマは明らかに変化だ。日常の、ともすれば絶え間なく連綿と、いつまでも続くように思える"当たり前"の連続。そこからのちょっとしか変化の瞬間が常に描かれている。それも前向きに、しかし控えめに、ほんの一歩だけの決定的な変化。行動の選択肢は多様になった現代だが、それは結局以前の行動のバリエーションに過ぎず、結局日常は同じテーマが繰り返される。私は以前それをパッサカリアやシャコンヌといった曲の形式に例え、だからこそこれらの曲は繰り返す人生を感じて心に響くのだと言った。彼の作品はその同じ主題による執拗な変奏の繰り返しから、一歩抜ける瞬間を描こうとしている。それが簡単ではなくなってしまった世の中だからこそ、共感できる人が多いのかもしれない。
2005年10月30日日曜日
2005年8月21日日曜日
新品で買おうとは思わないのだけれど
ところがそんな作品達も、古本屋でみかけると案外迷うことなくスッと手に取ってカウンターに持っていったりしてしまう。下手すればもう一年近く、そんな状態だった本を今日二冊古本屋で購入した。それは白石一文の『見えないドアと鶴の空』であり、三崎亜記の『となり町戦争』だ。前者はよくわからん青緑色の基調に手書きでパステルで書いたっぽい半身の宇宙人のようなカバーと、一見意味がわからないちょっとシュールなタイトルがやけに気になっていたものだし、後者は"ある日届いた「となり町」との戦争の知らせ。僕は町役場から敵地偵察を任ぜられた。だが音も光も気配も感じられず、戦時下の実感を持てないまま。それでも戦争は着実に進んでいた"(オビより引用)という設定と各方面で賛否両論話題を呼んでいた辺りが興味津々だった。何にせよ手に入ってみれば読むのが楽しみだ。読んでみて期待はずれだったということがないよう祈りつつ、あと短編一本を残すのみとなった『僕の恋、僕の傘』を読了しだい読んでみようと思う。うむうむ。
2004年5月19日水曜日
『サーカス』中原中也
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での一と慇盛り
今夜此処での一と慇盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安価いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
咽喉がなります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
野外は真っ闇 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
『サーカス』中原中也
6-7行目:一と慇盛り→「ひとさかり」
11行目:頭倒さに→「あたまさかさに」
12行目:屋蓋→「やね」
15行目:安価い→「やすい」
17行目:咽喉→「の(ん)ど」
19行目:真っ闇 闇の闇→「まっくら くらのくら」
21行目:落下傘奴→「らっかがさめ」
2004年2月24日火曜日
『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』
さて、受賞した2作品『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』、まずはタイトルが気になっていた前者から読んでみました。私より先にこの作品を読んでいた人も言ってましたが、うん、なるほど、この背中は蹴りたい(爆)。蹴りたい気持ちはよくわかる、というそんなタイトルの持つ象徴性が非常にはっきりした作品でした。学校という集団の中で浮いた二人の、集団や個人との距離の取り方に見らる迷いや期待や憤り、そんな心理描写を泥臭くなくさらりとまとめた、という印象があります。ただ何か不完全燃焼というか、もじもじしたまま最後まで爆発しきれずに終わってしまうみたいな。"蹴りたい背中"は本当の意味でけっ飛ばされることはなく終わってしまうのです。いや、実際物理的には蹴ってるんですけどね(笑)。
『蛇にピアス』の方は一転、ピアスで大きな穴を開けたり舌先を蛇のように割ってみたり、入れ墨を入れてみたりと肉体改造をしていく3人の10代の男女の物語。学校というありふれた場のありふれた世界を書いていた『蹴りたい背中』とは全然違った印象です。こちらの方は、うまく言えないのですが情念、個性、依存、そんなキーワードが断片的にちりばめられた、ある種テーマのオムニバスといった趣のある作品に思えました。改造することで差別化されていく肉体に依存し、人の愛に依存し、そしてその愛はまた改造された肉体に依存する。そんなウロボロスのような情念、個性、依存の無限ループ。すべてがすべてを追いかけるから、終わりがない、止まらない。鎖が一つ抜け落ちても。実際に、グルグル回る小説です。
両作品を通じて、描く世界はあまりに違うものの、根底となっているものはほぼ同じもののような印象を受けました。一言でいうなら、どちらも「こんな時代の普通」なのです。『蹴りたい背中』の主人公が距離を計った"集団"というものをデフォルメしていくと、依存関係の輪廻が回る『蛇にピアス』の世界になるのでしょう。「こんな時代の普通」をまったく逆サイドの視点から、望遠の縮尺を変えて作品にしたのが今回の芥川受賞2作品のように思うのです。その意味ではよくも悪くも共時代的な作品です。ただ、どちらも何というか力が足りない気もします。時代を見抜く(というかただ純粋に感じてる?)視点や感性はいいと思うのですが、作品に説得力が足りない気がするのです。どこが悪いとかはうまく説明できないのですが。なんかエンターテイメントではないし、あまり好きな言葉ではないのですが純文学として考えてもちょっともうひとつ。ただ、時代性の描き方に素直な共感は持てる。そんな感じでした。まぁ、私としては最近読んだ中ではこの『雪沼とその周辺』がダントツに好きです。
2004年1月15日木曜日
『世界は終わらない』チャールズ・シミック
中には薄闇のみ。君の薄闇か 石の
薄闇か、誰にわかる? 静寂の中 君の心臓は
黒いコオロギみたいに聞こえる。
チャールズ・シミック『世界は終わらない』より
2003年7月25日金曜日
トールモー・ハウゲン『夜の鳥』
この『夜の鳥』というのは児童文学としては結構グロいというか妙にリアリスティックというか、そんな変な作品なのです。魔法とかそういうのは一切出てこない。神経症になって働けなくなって、医者のところにも「行く」と言って行かない父親、夫のために本意でない職場で働いてるのだけど一日も早く自分の夢に向かって転職をしたい母親。そんなアンバランスな家庭と日常が舞台なのです。そんな離婚すら見えかくれする家庭で、少年ヨアキムが抱く不安感とそれが元となる恐怖の想像。それが『夜の鳥』なのです。
この作家、文章が凄く綺麗なんですよ。綺麗と言うのは、表現がきらびやかだとか詩的だとか、そういうのではなく、無駄に装飾をしたり引き延ばしたりせず、必要最小限の適確な言葉で物凄くいきいきと情景も心情も描き切ってしまうのです。特別な言葉もトリルみたいな修飾もなしで。『夜の鳥』は全体的にモノトーン的な小説なのですが、トールモー・ハウゲンのその文章が小説世界に素晴らしいしなやかさと生命力を与えています。そこは訳の山口卓文氏の力も大きいのでしょうが。北欧文学というのはなかなか邦訳が出て紹介されるのも少ない分野ではありますが、この作品はお薦めです。ちなみに、私もまだ読んではいませんが(買ってはある)、続編の『ヨアキム』という作品もあります。