2012年8月12日日曜日

おしょろさまと家庭の文化

 我が家では、毎年お盆になると茶の間に精霊棚を飾りつける。地元の言葉では「おしょろさま」と呼ばれる棚飾りだ。床から戸の上部のサッシ(といっても木だけれど)の高さにちょうど合うように作られた、木の細い柱を4本立てて、ちょうど腰の高さくらいに板を引き、そこにお供え物を飾る。お供え物の奥には仏画がかけられ、周囲には多聞天、持国天といった仏教四天王の名や教文が書かれた札が下げられる。そして棚の全面上部の柱からはおしょろさま用に小さく作られたカボチャやインゲン、ホオズキなどが糸で吊るされる。手前に線香台や鐘を配置して完成だ。おしょろさまを組み立ててから家族で墓参りをし、そこで燈したロウソクの火をおしょろさまのロウソクと線香に移すことで、お盆のご先祖様のお迎えが行われる。この夏の風物詩は、いつもの茶の間に何か非日常なものが混ざり込んだ不思議な感じがして、その控えめながらもご先祖様をお迎えするという祭事的な飾りの面白さもあり、子供の頃からお盆になるとはこのおしょろさまが組み立てられるのを楽しみにしていた。

 そのおしょろさまを今年は作らず、据え付けられている仏壇の上に簡易的におしょろさま用の野菜を吊るすだけで今年は済ませた。父は表向きちょうど祖母の通院が重なった等の理由を挙げてはいたが、内心は毎年このような飾り棚を作るのが負担になっていたのだろう。おしょろさまを作ること自体もそうだし、おしょろさまがあればそれをお参りに来るお客様の相手もたくさんしなければならない。お盆休みは、三連休すら少ないウチの店にとっては年二回の貴重な長期休暇。それを煩わされたくないという思いもあるのかもしれない。

 この我が家のおしょろさまもそうだが、古くから日本各地に伝わる文化・風習には、美しいもの、風情のあるもの、土地や過去・歴史への深い敬意を感じるものがたくさんある。でも、その文化や風習というものはその中でそれを守り、実施している人達にとっては大きな負担となる側面もあることは、特にその中にいない人達からは忘れられがちだ。 特に行政からの補助は絶対に期待できないような、各家庭で行われているような文化・風習は、その地域での生活に無言の圧力をかける。わかりやすい例では親戚中集まった時のおさんどん然り。月経(つきぎょう)然り、今回お話しているお盆のおしょろさまとそのお参りもまた然り。高齢化に伴い、その負担に耐えられなくなり少しずつ諦められる文化・風習は多い。

 それでもやはり、中にいても諦めたくない美しい文化・風習も多いのだけど。このおしょろさまなどは、小さい頃から楽しみにしていたものだけに少し寂しい気もする。ただ、「もう止める」となった時に「この美しい風習を途絶えさせたくない」と単純に訴えることはできない。その重みもまた、わかるから。

 ところで、こういった文化・風習には、その中で世代的・時間的連続性をもって体験され続けることで意味をなすものも多い。そういったものを、美しさや意義、有用性といった外部的・客観的な価値観で評価することは難しい。その文化・風習の中にいる人にとって、意味や意義は閉じた形で内在するものだからだ。

 例えば今回のようにお盆におしょろさまを作ってお墓参りをし、ご先祖様の霊を家に迎え入れる。それは父も祖父も曾祖父もやってきて、自分でも幼少から自然にやっていたことだからこそ意味がある。小さい頃から繰り返すことで、自然と文化が身体に刷り込まれているのだ。ご先祖様の代からずっとやってきたことだからこそ、"家"の中でのつながりを感じるし、いつか自分もまたそこに組み込まれるのだろうという"家"の連続性を、過去や未来への連続性を、こういった風習では無意識にでも感じる。あるいはそういったものが、家というものへの帰属意識を育てていたのかもしれない。この"家"の歴史に、自分も組み込まれているのだということ。それを歴史と受け止めるか、しがらみと感じるか…。

 このような風習においては、小さな頃から自然と体験されることでその風習の意味が内在化される。それは過去への敬意であり、"家"の連続性の認識であり、自分もまたそこに組み込まれているのだという足元の確認でもある。こういった風習の価値は客観的な美しさや意義で単純に計ることは難しい。あくまで、体験から自身の中に意義が内在するものだからだ。

 だから、そこに対し、例えば「精霊棚の飾りはもっと美しい方がいいのではないか」とか「もっと簡素な作りの方が便利では」とか言われても、あまり心には響かない。時代とともにお供え物の内容などは変わるけれど、基本的には連続している、変わらない、そのことが大事なのだ。過去につながっているという感覚。未来には自分もここに還ってくるのだという、漠然とした連続性の感覚。外部から見たらただのみすぼらしい儀式でも、中の人には深い内在的な意味がある風習という行為。それを外部から評価することはあまり意味がない。基本的にそれは中にいる人にとってしか意義のないものだから。その点で、同じ伝統でも外部に向けて開かれた、最近話題の文楽のようなものとは性質が違う。

 文楽にも楽しむために必要な背景や知識理解はあるけれど、基本的には外部の人が訪れて楽しむための文化だ。外部を受け入れる用意のある伝統だ。でも、各家庭で行われているお盆の精霊棚などにはその用意はない。その中に居続ける限りにおいて意味があるのが家庭における文化・風習だ。その点が異なる。 家庭における文化・風習は、閉じていていいのだ。例えば東京から誰かが取材に来てその風習を見たとする。すると「みすぼらしい」とか「価値がない」とか感じるかもしれない。それは、外部から来たものには家庭の文化・風習に意味を感じるための内的な連続性が欠けているからだ。けれども、内部にいる人にとっては意味を、価値を持つ。家庭の文化・風習とはそういうものだ。

 そんなことを考えつつ、今年ももうすぐ、盆が来る。ここを過ぎるともう夏は終わりに向かい、後は収穫の秋へまっしぐらだ。