「あれ多分ノロウィルスだったと思うんだよね」
・・・オイ!
・・・オイ!
人間というのは疲れて追い込まれて余裕がなくなって来ると、どうやら思考が鈍く麻痺していってしまうもののようです。ぼーっと濁った薄膜が頭に張ったような感じで、不満や不安すら麻痺してしまう。世界から薄皮一枚離れて自分は存在していて、起きる出来事や、あるいは自分でやっていることでさえも何処か"向こう側"で起きている余所事に思えてしまう乖離感。逆に、意外なほど苦痛はないのです。ただ、家に着いて一人になって、濡れたまま乾いていない洗濯物を見たり、日用品や今夜のおかずを買いにスーパーに行ったりした時に、ふと「何をやってるんだろう?」と漠然と思うのです。けれどその疑問すらそこから先に進むこともなく、ただどんよりとした倦怠感だけが残って思考が止まり、そしてまた「何をやってるんだろう?」という曖昧な問いに返って、緩慢と思考がループする。活動エネルギーが明らかに低下していることだけは自分でもわかりました。先へ進もうという気がしないのです。「ああ、こうやって人は鬱になっていくんだな」と、危機感もなく思いました。危機感や焦燥感を抱くには。それなりに大きなエネルギーが必要なのです。どうやら、今の私にはそれもないようでした。
外での用事を全て終えて家に帰ります。CDをプレーヤーにかける前から、頭の中である曲が流れていました。デビッド・ラッセルが弾くヘンデルの組曲七番『パッサカリア』。以前にも日記で書きましたが、非常に短い間隔で執拗に繰り返される低音主題と、悲観的に過ぎることない儚さを醸す美しい変奏が繰り返す日常の輪廻を連想させる、そんな曲です。スピーカーの前に座って、他に何をするわけでなく目を閉じてただ聴きました。スピーカーの向こう側の演奏者と呼吸を合わせて、合奏をするように、指揮を振るように、曲の流れに身を任せて。曲が終わる頃には、すっかり音楽の世界に集中していました。そして、頭の中に張っていたもやが、少し晴れた気がしました。感動というほど大げさなものではないけれど、確かな心地よさを感じました。そのままそのCDを最後まで聴き、続いてグリュミオーが弾くヴィターリの『シャコンヌ』を聴き・・・。合間に食事をしたり風呂に入ったりしながら色々な曲を聴きました。ピアソラの『AA印の悲しみ』も心が震えました。『オデオン劇場1973』に入っている『アディオス・ノニーニョ』でアントニオ・アグリがむせび泣くように奏でるバイオリンに引き込まれました。今もまだ音楽は続いています。少しずつ、もやが晴れて来ます。再び世界が見えるようになってきます。これらの音楽達は、心を癒してくれているのか、それともエネルギーを分けてくれているのか・・・?それがどちらなのかはわかりませんが、これらの音楽達が疲れきっていた心を助けてくれたのは間違いありません。あらためて、音楽はいいなと思えるし、自分がどれだけその世界に染まっているのかを実感したりもするわけです。
色々と弱音を吐くようなことも書きましたが、どうやらまだ私は大丈夫なようです。
・・・さすがに疲れを感じない方が無理だということはご理解いただけるかと思います。一週間で三回も徹夜したのは久しぶりだ・・・。
人が何かに耳を傾けるのに、とりたてて理由はない
あるとすれば、それはただ自分を外に出したいだけだ
しかしですねぇ、誰が言ってたのか忘れましたが(この業界の有名人であることは確かです)、ただ設計図通りの仕事をこなすだけのプログラマと、真に創造的な仕事ができるプログラマは明確に区別しなければならないのです。一般によいプログラマは並のプログラマの10倍の仕事を楽にこなすと言われ、それは統計的な有意性も検証されてます。その意味での「よいプログラマ」と、さらにその上の他の誰かでは実現できないことを実現させる「真に創造的なプログラマ」は、一般に上流工程と言われ待遇の良いコンサルタントやマネージャーよりももっと評価されるべきなのです。何故なら彼ら「真に創造的なプログラマ」はソリューションの幅を大きく広げてくれる。他の誰かや世間一般でできないと言われていることを、彼らができるということでコンサルや提案の幅が広がることもあるだろうし、実装の引き出しが広い人間は目新しいわけではない既存の技術の組み合わせで、普通のシステム屋が諦めるところを、あっさり実現してみせてくれたりする。ウチの会社で扱っているTSFormなんかは既存の技術の組み合わせでまったく新しいものを作り出した典型で、これにより新たなソリューションも生まれてくるわけですし、ちょっと企業秘密で具体例は出せませんが、必要があれば既存の規格でない通信プロトコルすら自前で作り上げてしまい、まともじゃ実現できないようなことをやってのける人もいます。実際に実現できる領域以上のコンサルや企画・提案、マネジメントはありえないしあってはいけない以上、その裾野を広げてくれる土台としての「真に創造的なプログラマ」は常に高く評価されるべきなのです。それはすなわちアイディアとイコールなのですから。結局のところ、コンサルだとかプログラマだとか、最終的にはそういったレベルで評価を決めるべきではないということです。要は如何に素晴らしいアイディア、ソリューションを提供できるかというのが価値であり、評価であるべきなのです。そう、たとえどのような仕事であれ、ファンタジスタであれと。そういうことです。
まぁ、そんな評価なんての自体が個人的には好きじゃないんですけどね。というか、そんなものは所詮後追いでしかないのです。ギターであれ、文章であれ、システムであれ、自分の手を動かして周りがまったく目に見えなくなる程集中して、納得のいくものが出来上がって満足感の中でほっと息をつくあの瞬間が、そして絶好調の時の精神が高揚して時間すら先取りできるような、音すら目に見えて手につかめるような、あの感覚が、やはり私は好きなのです。
まービジネスの世界じゃそんなんどーでもいーよって言われちゃうんですけどねー。
駅に入ってみると、まんまと東横線が全線不通になっていました・・・。7時過ぎに田園調布で人身事故があったとのこと。最低です。こっちは8時からメンテナンスがあるのです。タイムリミットは9時。こんなところで足止め喰らってる場合じゃありません。とはいえ電車は東横線しか通っていないこの日吉、その肝心要が不通になってしまったのではタクシーとバスくらいしか出る手段はありません。どうしようかなと思案に暮れていると、ちょうど東横線が一部復旧し、元住吉~横浜間で折り返し運転を始めたとのこと。「元住吉までか~・・・」というのが正直なところです。日吉からわずか一駅渋谷よりの元住吉まで出たところで、他の電車に乗り継げるわけでもなく大して状況は変わりません。せめて武蔵小杉まで行ってくれればJR南武線が、多摩川まで行ってくれれば東急多摩川線があるのですが・・・。
とはいえ時間は待ってくれません。渋谷方面の復旧は目処立たずという報を聞いて、とりあえず遠回りでも横浜経由で渋谷に出ようと考えました。パッと思いつく経路は3つ。横浜まで出て湘南新宿ライン、菊名で横浜線に乗り換えて東神奈川経由で品川に出て山手線、ないしは新横浜まで出てリッチに新幹線で品川まで。まぁ新幹線はあまり現実的じゃないので、横浜から湘南新宿ラインで渋谷に出るつもりで横浜方面の電車に乗ります。ところが!この電車がまた凄まじく混むのです。すし詰めとはまさにあのこと。もう腕もキュッと強制的にたたまされる格好で、片足宙に浮いたような形で電車に揺られなければならないのです。しかも次の駅でただでさえその限界オーバーな混雑の電車の中にさらに無理矢理人が乗ってくるもんだからもう大変です。ホントにアバラがミシミシいいました・・・。「このまま押されたらアバラが折られる!」という危機感にさらされ、必死で腕の力で前の人の体からアバラを保護しますが、凄まじく大変な労力です。「こりゃこんな中横浜まで出るのは無理だな・・・」と私は判断し、菊名で横浜線に乗り換えを試みます。それからも異常な混雑は当然続くわけですが、まぁアバラがへし折られることもなくグルリと京浜東北線で品川まで出て渋谷へと辿り着きます。その時、時間は9時10分でした。そう、メンテナンス時間は終わっています。・・・朝からどっと疲れました。
・・・というわけで酒瓶が一杯になりつつあります。明らかに飲むペースより買うペースの方が早い(爆)。とはいってもあまり飲み過ぎて本当に飲んだくれになっても私自身困るので、適度に楽しみながら減らしていこうと思います。
新作の『Start From The Dark』はギターのジョン・ノーラムの色が出まくった、非常にヘヴィで暗い構成なのでうまくライブでのれるのかなという不安もありましたが、一曲目にアルバムの開始曲でもある『Got to Have Faith』が始まるとそんな不安は露と消えていきました。ジョン・ノーラムのギターはヘヴィにグルーヴィに終始高いテンションで引っ張っていってくれてるし、そのヘヴィな曲との相性が不安だったジョーイ・テンペストの歌は不安どころ無茶苦茶カッコいいし、最高でした。適度に『Superstitious』や『Carrie』等往年の名曲をはさみつつ、最後は敢えて新作からの選曲ではなく『Ready Or Not』で本編を締める。いやー、盛り上がりました。洋楽のライブでオールスタンディングに行ったのは久しぶりでしたが、最後アンコールの『Seven Doors Hotel』や『The Final Countdown』では思い切り手を振り上げて叫んでいました(苦笑)。いやー、気持ちよかったですね。私もmachakicも大満足で会場を後にしましたとさ。
さてさて、その後machakicは「福島は渋谷みたいに店が一杯ないから」と言って、生まれたばかりの子供のために店をいくつか回ってベビー服を買い込んでいたとのことです。かなり親バカになってます。しかし渋谷で男二人でベビー服を買い回るその行為が、店員はじめ周囲の人達の目にどのように映っていたかは定かではありません。とりあえずmachakic、長女の誕生おめでとうございます!きっとすくすくと元気に育ってくれることでしょう。そしてその子が大きくなって思春期を迎えた頃に、私が「君のお父さんはね、君が生まれた次の日にね、・・・」とカミングアウトしてあげましょう(笑)。幸せによい家庭を!
浪人して代ゼミの一学期の総合英語のテキストを手に取って、その中にあった言葉。この言葉をどう感じるか、どう理解するかというのは、なかなかそのときの心境や状況にも左右されるなと、改めて感じたりします。初めて知ったときから座右の銘ではないけれどたまに思い出す、好きな言葉です。
やはり新潟の空気は冷たくて、夜にはキンと冷えて靴下なしで歩くと足が痛いくらいの板張りの廊下や、寝る際に布団から出た頭が引き締まっていくような感覚は東京ではないものです。いつも冬に新幹線を降りて燕三条のホームに立つと、「ああ、この空気だ」と思うのです。寒いのではなく冷たい、雪が降る時独特の、張りつめた、輪郭がはっきりした空気。その空気を肌で感じると、「ああ、帰ってきたな」と思うのです。故郷の空気というのはやはりわかるものですね。落ち着きます。帰るところがあるというのは自分では普段気付かないけれど意外と大きな支えになっているのかもしれません。やはり私は、新潟の冬の冷たい、ピンと張りつめた透明感のある空気が大好きなのです。