2004年9月29日水曜日
哲学的に考える
2004年9月28日火曜日
見えない終わりと月と飛行機
とりあえず、飛行機の窓から月を眺めてみました。地上では曇っている夜空も、飛行機が離陸して雲の上に出てしまえばまるで関係ありません。あと一歩で真ん丸になる満月が、波打つ白い静かな光で迎えてくれます。飛行機の窓はやはりぶ厚くて、ジェットエンジンはやはりやかましすぎて、ひんやりと冷たい優しさの光も、近くの音をすべて持ち去ってしまって、ここではない遥か遠いどこかで響かせるような不思議な静けさも、まるで伝えてはくれなかったけれど。何となく思ったことだけど、月の光が醸す空気と、降り積もる雪が運ぶ空気は、芯のところがよく似ている気がするのです。だから何だと言われても答えられないのだけれど。
2004年9月21日火曜日
イマイチな連休の終わり
2004年9月20日月曜日
2004年9月15日水曜日
道徳の諸条件
この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかない。きみ自身やきみの愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。それが嫌なら、自分が殺す場合も同じではないか、と。
~中略~
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい。
「生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい」。今更のようだが、なるほどと納得した。増加傾向にある理不尽な殺人等のいわゆる凶悪犯罪の理由がわかった気がした。結局、今の生に可能性が見出せず、絶望の虚無の中にはまりこんでしまっているから、彼らの中に倫理や道徳といったものの根拠が存在しないわけだ。バブル崩壊以後ビッグなアメリカンドリームどころか、一生懸命勉強して一流大学に入って一流企業に就職して終身雇用で安定した一生をというジャパニーズドリームすら崩れてしまい、没個性の嘆きと相克するようにコマーシャリズムに乗った複製可能な個性が蔓延する昨今。大部分の大人には人生の希望なんてものは見つけることすら難しく、それを見る若者にはなおさらそれは難しく。浮遊する生は、意味や希望や可能性というものを失っている。村上龍は『希望の国のエクソダス』の中でこう言った。「この国にはすべてがある。ただ、希望だけがない」、と。言い得て妙である。希望をなくしたこの国は、同時に倫理の根拠をもなくしている。若年層に凶悪犯罪が増えるのも納得である。
朝からそんなことを考えていたら、奇しくも今日、付属池田小事件の犯人、宅間死刑囚の死刑が執行されたというニュースが入った。何の前触れもなく突然小学校に乱入し、児童8人を殺害、15人に重軽傷を負わせたこの事件を最初に知ったのは、平日は大抵そうなのだが、仕事中にインターネットニュースでだった。日本も酷いところになったもんだと、月並な感想を抱いた。日本は戦場じゃない。激しい民族や宗教の対立で日々死傷者が出ているわけでもない。言ってしまえば、"死"というもの、特に意図的な暴力による"死"というものから可能な限り無菌培養的に切り離された日常世界を構築しているのが日本という国だ。それを平和だと言うのならそうなのかもしれない。その平和を切り裂いたこの事件は、言うなれば"死"から切り離された日常という、この国の前提を覆すインパクトがあった。宅間死刑囚は裁判中も反省の色をまったく見せず、あまつさえ遺族への誹謗中傷すらしたという。そして今日、遺族が「せめて」と望んでいた謝罪の言葉さえも、彼は墓の中へ一緒に持っていってしまった。「どうせ死刑になるなら早く殺してくれ」と言い放ち、三ヶ月以内の執行を希望する宅間死刑囚。「自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力」だという事実を、嫌という程納得させてくれた。もしこの先もずっと、この国には希望がないとしたら、たとえ他のすべてがあったとしても、やはりこういった犯罪は増えていくのだろう。そしてそれが尚更、またこの国から希望を消していくのだ。
自分の生を肯定できない人間は、心の内に倫理や道徳の根拠を持たない。生を肯定できること、つまりは希望の復権ということが、そういう意味で大事なのだろう。なかなか、道は険しそうだ。
2004年9月13日月曜日
ビジネスという名の宗教
ある程度以上ビジネスに一生懸命な人というのはそのビジネスというプロセスそのものにあまり疑問を差し挟まない。それは仕事のやり方とか何とかいうのでなく、キャリアプランだとか仕事の美学だとか、コスト意識だとか何だとか。なるほど、常識だ。少なくともビジネスをやる以上、企業内でやっていくにしろ独立独歩でやっていくにしろ、当然考えなければやっていけないことだ。キャリアプラン、結構だ。最終的にコンサルがやりたいから今の仕事からもっと上流設計の方へシフトしないといけない、そのために必要な知識やスキルは・・・、とか考えながらセミナーを受講したり本を読んだり、普段の仕事を意識したりする。結構なことだ。費用対効果、一時間の作業でいくら、その他諸々積み上がっていくコストに対するメタ認識、それがコスト意識と呼ばれるもの。結構なことだ。
だが、たまに不思議に思うことがある。もっと言えば、気持ち悪くなることすらある。何というか、ビジネスの世界でそういったことを意識してよくできている人であればある程、逆にビジネスの世界に捕われている気がする。ビジネスという舞台の外に視点を外すことができなくなっているような気がする。ビジネスの世界でキャリアプランを立てるのは理解できても、その外に踏み出すことは理解できない。うまく言えないのだが、金を儲けるのが当たり前、出世するのが当たり前、様々な経験や知性や感性はビジネスにつなげることが当たり前、ビジネスの世界のできる人は、どうもその段階で思考停止しているようにも思える。別にビジネスにならない要素をそのビジネスのすぐ隣で肩も触れ合わんばかりの場所で無関係にやっていてもいいだろうと、私なんかは思うのだが、どうもそういった辺りがビジネスに熱心な人にはわからないようだ。勿体ないとか何とかよく言われる。下手すればもっとこれこれこうしてこういうふうにすればビジネスにもなるのに、とかすら言われる。どうも彼らにとってはビジネスとは全てが最終的につながっていく絶対概念らしい。そしてその中で彼らはアイデンティティを確立するなり何なりして、生きることの業を消化していく。その辺りが、ビジネスは宗教だと私が感じる所以である。どちらも絶対的な真理を置くことで、それに対する信仰を置くことで、精神の救済を得ている。別に悪いことだとは言わない。少なくともビジネスという宗教はそれを精進することによって現実的に、実際的に豊かになれる。ビジネスという信仰は、またきっと心さえも豊かにできるだろう。キルケゴールのいうところの、孤独と絶望のうちに見いだす可能性というものがビジネスというものであり、それが可能性の最大級である信仰のレベルにまで至るのならば、それはそれで結構なことだ。きっと充実した人生を送れるだろうし、その弊害もほとんどない。ごく一部の人間に対してを除いては。
ビジネスにせよ何にせよ、信仰というものの弊害は(それが実害があるにせよないにせよ)世界の固定化という面にある。要は「まずそれありき」の世界になってしまうのだ。まず「ビジネスありき」だったり「神ありき」だったりするわけだ。自然、視点も狭まるし、その固定化された世界の中でその人の常識が決まる。例えばビジネス畑の人の常識というのは、アカデミックな研究者や、そこまで行かずとも学校教員の人達から見れば、まぁおかしいとは言わないまでも多かれ少なかれ奇妙なはずで、それはまた逆も然り。でも世界が完全に固定されている人は下手したらそれにまったく気がつかない。研究はビジネスに活かされてなんぼだし、教育は将来ビジネスの役に立つものであるべきだ、となる。まぁそこまで直接的で短絡的ではないにしても。何にせよ、一つの世界に固まってしまうと他の世界の立場に立つのが難しくなるし、いくつかの世界を見比べてみることなどそもそも発想の前提から消えてしまう。だから、そのような理由でビジネスが好きになれない。宗教が好きになれないのと同じように。私は私で仕事には誇りを持っているし、美学も持っているし、収入も悪くはないし、不遜ながらお客さんのウケもいいし、社内での立場も定まってきている。別に何が悪いということはないのだけれども、ただ気持ち悪い。何の疑問もなく、目を輝かせてビジネスの中にいることに、何か違和感がある。気付かない内に、ビジネスの中でその視点に絡めとられているのではないだろうか、その世界の中だけの常識に固まってしまっているのではないだろうか、そんな恐怖がある。ビジネスという宗教は、資本主義優勢のこの時勢の基本活動だけに知らないうちにはまることも多い。決してそれが正義というわけでも真理というわけでもないのだけれど(真理という問題は語りだすと哲学的なスコラ議論にはまりがちだから避けるとしても)。
ビジネスという言葉をLONGMAN現代英英辞典(4訂新版)でひくと、第一義として以下のように解説されている。
BUYING OR SELLING GOODS OR SERVICES - the activity of making mony by producing or buying and selling goods, or providing services.
一言で要約すると、ビジネスとはお金を稼ぐことであると、そうなる。人生に可能性を見出し、価値を定めていく究極の形が信仰であるならば、資本主義社会においてこれを超える宗教は原理上ありえない。乱暴に言ってしまえば、資本主義における価値とはイコール金銭だ。最も単純に考えれば、最も金を持っている人間が最も価値のある人間だ。単純論理で行けばそうなる。ならまさにビジネスとは価値を生み出す信仰だということになる。ビジネスの成功者が、あるいはこれから成功してやろうという人が、ビジネスを絶対正義のように語り、すべてをそれにつなげようとするもの無理はない。ビジネスというのは絶望のうちの可能性という純粋に宗教的な信仰と、資本主義における価値、どちらも必要充分に満たせる概念だからだ。資本主義社会のシステムに組み込まれたその活動は、時にその過熱や異常性をも当事者達から見えにくくする。価値を生み出すことが悪いはずはないから。
・・・時には、前提を疑ってもいい。
2004年9月12日日曜日
ビジネスという名の宗教、書きかけ
・・・と、昨日ここまで書いて、途中でそのまま眠ってしまった。もちろんここで終わるはずもなく、久しぶりの(?)長編日記になる予定だったものだ。どうやら、疲れているらしい。今週は確かに夜も遅かったし徹夜もあったけれど。今日は一日中眠っていた。昼の12時半まで寝て、飯を食べて読みかけの本を30分くらいで読み切ってから、またさらに夕方6時過ぎまで寝ていた。たまっていた食器を洗って買い出しに出る頃にはもう日が暮れて真っ暗になっている。どうやら疲れていたようだ。
こうして、休みの一日がまた過ぎていく。
2004年9月7日火曜日
machkic、結婚
式が日曜の朝から大阪でだったので私は前日夕方から京都に入り、エース893(今回クラギタから参加したのは俺とエースの二人)と共にジャズバーBUTTER CUPでウィスキーを控えめにしこたま飲んで、俺はたっちーの家に泊めてもらっての参加でした。余談ですがエースと待ち合わせたJEUGIAの3Fで、俺はどうもぎぃ助の代のちーちゃんとニアミスしていたような気がしてならないのです。「あれはちーちゃんだろう」という確信を70%にまで高めつつも、結局声はかけずじまい。ぎぃ助よ、4日の夜7時過ぎくらいに彼女がJEUGIAにいたか確認するのだ!?
式の方はチャペルで挙式、そして披露宴という流れ。チャペルで式を挙げた後、新婦の手を取りチャペルを後にしていく時の、緊張からの足取りの早さが印象的でした。いや、普通もっとゆっくり歩くから!フラワーシャワーはスポーツ刈りをキンキンに固めた頭髪に刺さってるし(爆)。ともあれ披露宴の随所で流れるBGMの選曲は、HR/HMをこよなく愛する彼らしくてよかったです。クイーンの『I was born to love you』とか、うまいこと使ってましたね。さすが元HR/HM系番組のラジオAD。ストラトバリウスの大阪公演の後、共にとあるロックバーの前で飲みに来るメンバーを待ち伏せて、ティモ・トルキやティモ・コティペルトからサインをもらったあの日が懐かしい。これまでの人生を俯瞰する恒例のスライドショーでも、途中にしっかりフェア・ウォーニングのメンバーと一緒に撮った写真使ってるし。ウレ・リトゲンやヘルゲ・エンゲルケと写った写真なんぞ普通披露宴で使わん(爆)。他にもキャンドル・サービスは普通のキャンドルじゃなくて、テーブルの上の燭台に二人が水(のようなもの)を注ぐと幻想的に光るというものだったり、ウェディングケーキの中には当たりのお菓子が入っていたり、色々と趣向に富んだ披露宴でした。思わぬ懐かしい友人・知人との再会もあり、なかなか楽しかったです。
machakicも結婚直前は公私ともに色々あり非常に大変で、叶わなかった望みもまたあるようですが、でもきっと、彼ら二人にとってもいい結婚式だったんじゃないかなと思います。彼らしい暖かい空気でした。余計な言葉は無粋でしょう。おめでとうございます。噂の強面上司が仰っていた「幸せは自分の心が決める」という言葉の通り、是非、幸せに。
2004年9月2日木曜日
時を積み上げるウイスキーのように
人間もこのウィスキーのように美しく時を重ねていくことができるだろうか。そんなことを考える。ウィスキーの熟成は一年で人間でいうところの三年分の時間だという。非常に優秀なものは8年とかでも世に出るが、大抵は12年から15年、少し早めでも10年がウィスキーが生まれてから世に出るまで熟成を続ける時間だ。人間でいうなら30才~45才。ということは27才なんてまだ、世に問う程は熟成なんてされてないということ。例え多少は自信があったとしても。熟成されたという気持ちを自分で持ってしまうのが一番危ない。一つの戒めとして、特にお気に入りのクラガンモアの12年を一口含む。まだまだここまでの爽やかさと華やかさ、心地よい広がりを自分が身につけているなんて到底言えない。クラガンモアは正規の長期熟成ものは別格の29年ものくらいしかないし、それを飲んだことはないけれど、況んやその深みをや。時は流れる、区切られるのでなく。時は積み上がる、流れるのでなく。