2007年12月31日月曜日

2007年の終わりに

 今年も年末がやってきた。何もない一年など存在しないという前提はさておき、今年はやはり色々なことがあり、色々なことを思う一年だった。明日大晦日は実家に戻っているので、今日のうちに簡単にでも2007年という一年を総括してみようと思う。

 思えば、実に個人的な一年だった。新しい会社に分社化されてそちらに移り、新しい職務が始まり、祖父が亡くなり、娘が生まれ、仕事上の個人的な閉塞感を抱え、ちょっとしたトラブルがあり、様々な個人的な変化と、整理しきれない社会的立場上のあれこれを抱えたまま、この2007年は終わる。娘のことは例外として、個人的に降りかかってきた出来事の大きさの割には意外と考えることが少ないのは何故だろう。それは結局、考えることを放棄することによって結論を先延ばしにしているせいからなのかもしれない。色々な意味で不完全燃焼な一年だった。仕方ないと言えば諦めに聞こえるが、まぁそんな年もある。自分が歩んできた一年の結果として年末に思い返した際に突きつけられる事実は、それが事実である以上受け入れるしかない。否定はただ現実逃避を助長するだけだ。

 やはり一番大きな変化は娘の存在だ。妻と二人だけであれば、多少の無茶をしても取り返しが効いた。自分たちの人生は結局自分達が責任を取ればいいからだ。けれど、娘がいる今はそうはいかない。娘が今の私と同じ台詞を「自分たちの人生は結局自分達が責任を取ればいい」と言えるようになるまで、様々な面で道筋を立ててやるのが親の責任だからだ。また、「自分たちの人生は結局自分達が責任を取ればいい」と言える程度まで、幸せに育ってほしいと願うからだ。今だからわかるが、この台詞が言えるということは実はとても幸せなことだ。そのことに関しては、私はいくら感謝しても尽きることはないと思っている。とにかく、娘のことを考えた際に、自分の人生はどのような選択を行うべきか。そのような視点が自然と入るようになってきた。嬉しいことではあるが、正直、ほんの少しばかり寂しいことでもある。入社一年目の頃、家が近い隣のグループの長と飲んでいる時に、その人が言っていた台詞を思い出す。

 子供ができてから、どうしても子供を一番に考えて仕事でも何でもするようになったよね。それでまぁ人生つまらなくなったと言えばつまらなくなったけど、それを差し引いてもやっぱりかわいいからね。

 その当時はそんなものかと思っていたが、今はその頃よりは理解できる。子供というのはそういうものだと、素直に納得できる。実際に生まれてみるまでは自分が子供に対してどのように感じるかなんて、まったくわからなかったものだけれど。

 今は友人の結婚式でギターを弾いたときのお礼にともらったモルトを飲んでいる。山崎のOwner's Cask、1993年。長野屋という店の名前がラベルに入っている。入っているシリアルナンバーは167。私の結婚記念日のナンバーをと、わざわざ苦労して探してくれたそうだ。その時に弾いたのはJ.S.バッハ、D.ラッセル編の『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。娘が生まれた二日後の土曜日にその結婚式があって、そこでギターを弾くために娘に会いに行くのを一日遅らせた。入場の際に曲を弾いた後で、二日前に子供が生まれたばかりだと司会の方から紹介されて、何だか妙に照れた。とても大切な友人の結婚式だったのだが、それ以上に色々な意味で記憶に残る一日となった。この一年を締めくくるのに、その時にもらったこのモルト以上の一杯があるだろうか。

 バランスが取れた優等生のイメージが強い山崎だが、このモルトはそのドライで潮っぽくスパイシーな香りからしてその固定観念を壊してかかる。その荒々しさの中に山崎らしい麦と樽の甘みと温かい太さを持ち、それでも表面にはピリピリと刺激的な個性を強調しながら長く鮮烈な余韻を残す。どちらかというとおとなしいイメージが強い山崎だが、このモルトは暴れん坊だ。しかし深い甘みと味わいがある。恐らく、もっと後から思い返した際にはこの2007年はそのような年として思い出されることだろう。今は口に含んだばかりのやや強い刺激ばかりが舌先についているけれど。

 明日の更新もあるかもしれないですが、それでは皆さん、今年も一年どうもありがとうございました。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

2007年12月30日日曜日

なんとか

 納まる気配のない仕事を無理矢理納め、年末年始の休暇に入ることができました。今年は久しぶりに途中出勤の予定がない年末年始。まぁのんびりといくとしましょう。とりあえず、久しぶりに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み返しています。この本を読み返すのは本当に久しぶりですが、相変わらず静と動、二つの世界がある程度密接に、そしてある程度粗結合的に絡み合いながら進んで行く構成と文章が美しい。小説としての物語性と構造的美学と、そのバランスが非常に優れた作品です。純粋な面白さと、その裏に潜む深遠さは村上春樹の作品群の中でも秀逸です。色々と、アウトプットに疲れてしまった感がある昨今、このような作品に刺激を求めてみるのはまぁ悪くないのかなと思ってみたりしています。

2007年12月19日水曜日

師走はやはり

 忙しい。結構久しぶりだ。これでも当初のスケジュールよりは余裕が出てきているのだが。

2007年12月10日月曜日

追悼・ミックス

 昨年の夏に金魚を飼い始めて以来、初めて一匹が亡くなった。琉金系の雑種で名前はミックス。ウチにいる5匹の中では一番濃い赤色が鮮やかで、長い尾ひれとおちょぼ口がチャームポイントだった。華やかな色合いと尾ひれの割に性格は地味なヤツで、大概一匹でフィルターの下でのんびりと休んでいたりしたものだ。他の金魚は皆ペットエコ港北NT店で購入したが、コイツだけはペットエコ本店で購入した。購入時は少しばかり尾ひれが擦れていたのだが、それもすぐによくなって、長い尾ひれをたなびかせて水槽内を泳いでいた。たかが金魚、されど金魚。一年以上飼っていた金魚はやはりかわいいし情も移る。4匹になった水槽はやはりちょっと寂しい。

 ミックスは最後の二日、ずっと水槽の底で横たわっていて、時たま苦しそうに必死にエラを動かして呼吸していた。それをらんちゅうがずっと側にいてじっと見守っていた。金魚同士も心配はするのだろうか。原因もわからず急に始まった闘病生活は、わずか三日で幕を閉じた。最後はマンションの窓から見える木の根元に埋葬してあげた。ミックスの闘病生活においては何もわからずに何もしてあげられなかったのが残念だ。せめて、冥福を祈る。

2007年11月30日金曜日

多忙と酒と

 仕事が忙しくなると酒が増える。といっても一人で好きな酒をのんびりと楽しむというスタイルがすっかり定着してしまった感があるので、別に飲み会が増えるわけではないのだが。まぁ、ある程度は仕方がないのかもしれないなと自分を正当化してみる。忙しい仕事でたまったストレスはどこかで発散しなければ、さすがにいつかは壊れてしまう。これから待ち受ける12月は、久しぶりにゾクゾクするほど忙しい。いや、・・・これはゾクゾクする。

2007年11月26日月曜日

のんびりとした三連休

 お見舞いに行き、娘を膝に乗せながら買ってきたLED ZEPPELIN『Mothership』のDVDを観て、川崎ラゾーナのアカチャンホンポとビックカメラで買い物をし、花屋に行って、ディスカウントスーパーで食料品や生活雑貨を買い出して、最後に金魚の水を換える。そんなのんびりとした三連休。晩秋らしく、キリッと冷え込む空気はあったが、おおむね秋晴れに恵まれていた。今日、金魚の水を換えながらベランダから眺めたオレンジとピンクが微妙に混ざった、直接見てもあまり目に痛くない晩秋の夕日はなかなか悪くなかった。妻と娘はぐっすりと昼寝していたけれど。最後はゆっくりとモルトを楽しみながら、明日からの戦いにまた備えるとしよう。

2007年11月17日土曜日

雑記

 徒然なるままに。

 また何かとゴチャゴチャ始まった。いい加減にしてほしいものだ。そんな国内の小さな談合やら献金やら、瑣末事にかまけていられるステージなど既に通り過ぎていることに気付かないほど無能な輩ばかりというわけでもあるまいに。全体の何パーセントにも満たない小さな問題を大きく取り扱っている間に、何十パーセント分もの大きな問題はどんどん取り返しがつかなくなっていく。一社ないしは一つの業界の瑣末事に振り回されている間に、日本経済全体の長期的な機会損失は膨らんで行く。まったく、クズ野郎どもが多すぎる。

 いいから頭を使え。仕事をしろ。そんな細かい利益はくれてやる。このままくだらない空白と下世話な処理に時が費やされて行くのなら、そう遠くない将来この国は墜ちる。アジアの三流国家に成り下がるだろう。『半島を出よ』で描かれた日本の末路は、決して非現実的なものではない。経済にも見識がある村上龍は、その辺りはわかっている。どうも最近の報道を見ていると、マスコミはこの国を潰したがっているようにしか思えない。もちろん、それをどうにもできない政治家も腐っている。政治については語らないというのが信条だが、いい加減苛ついてきた。

 そもそも頭を使うまでもなく選択の余地がない議論すらグダグダしている。どこかのゴシップ記事で見かけたことかもしれないが、福田首相は「消費税を上げずに済むだなんて思っているのか?」と言ったという。本当に彼がそう言ったかどうかの真偽はともかく、その言葉の意味するところは正しい。他にも色々と思うことはあるのだが、政治については黙せよという自身の信条故、ここまででとどめる。

 話は変わって、「mixi疲れ」という言葉が今年の現代用語の基礎知識に載ることになったという。私はmixiは余裕で二日で疲れた(爆)。かつてはICQも一週間で疲れた。今でもあの手のメッセンジャー系のソフトは入れていない。疲れるのですよ、ああいうコミュニティは。長期的に見るとどうしても。来たい時ににフラッと来て、好きなようにのぞいて飽きたら去る。コメントは残したい時だけ付ければいい。HPなんてそれでいい。メールも元々、手の空いた好きな時に見れるというのがリアルタイムを強制する電話と違ったメリットだった。今はとてもそうは思えない。ネットも村社会。結局日本人というのはそういうものなのかもしれない。

 しかし季節ものだからと思い飲んでみるが、相変わらずボジョレー・ヌーボーはあまりおいしくない。コンビニのやつなんてもはやワインとすら認めがたい。去年エノテカで買ったヤツはまぁそこそこおいしかったけど、あの値段出せばもっとおいしいワインなんていくらでもあるよなー、と素直に思う。季節ものは概してコストパフォーマンスは悪い。だから今年はエノテカではボジョレーでなく、同じ値段でもっとおいしいのを買った。結局コンビニでハーフボトルのボジョレーは買ったのだけど、飲んでみて気分を害した。敢えてどのコンビニのとは言わないけれど。

 昨日は渋谷のいつも行くバーで飲んできた。オーバンのダブルマチュード、オーヘントッシャンのスリーカスク(確かアメリカンオーク、スパニッシュ・オロロソ、ペドロヒメネスの3つの樽で寝かせたものだったと思う)、白州の原酒秘蔵モルト(蒸留所でしか手に入らないらしい)とシェリーが効いた実に優しくてでもズッシリとした旨味もある素晴らしいモルトを立て続けにいただき、最後に締めでエクスクルーシヴ・モルトの新ラベルのラフロイグをいただいてきた。このラフロイグも期待通りの強烈な香りとドライながらもしっかりした甘み・旨味が素晴らしいモルト。最初は疲れと風邪もあるので優しい口当たりのいいシェリーの効いたものを、締めにはパンチの効いたドライなアイラをという私のリクエストにしっかりと期待通り、期待以上に応えてくれるあそこのバーテンダーさんは素晴らしい。いい仕事をしている。イメージ通りのものを期待以上に。仕事とはかくありたいものだ。

2007年11月15日木曜日

多忙と風邪で

 妻と娘が帰省している間に一人の時間をゆっくり楽しもうという野望を抱いていたわけだが、ここ数日の生活はそれとは裏腹に久しぶりに多忙な仕事、久しぶりにひいた本格的な風邪のせいで割とひどくすさんでいる。バーにウィスキーを飲みに行きたいのだがなぁ・・・。

2007年11月12日月曜日

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ

 いきなりタイトルと無縁で恐縮だが、風邪を引いた。激しい喉の痛みと嫌な粘液から始まり、今は微熱と咳になっている。ちょっとしたトラブルがあったこともあり、この週末は割とドタバタしていたのだが、家で落ち着いてから、読みかけていた残りの3分の1くらいを一気に読んだ。カズオ・イシグロ、日本生まれのイギリス育ち、名前は100%日本人だが書いている小説は英語だ。そして普通の海外小説のように和訳されている。イギリスで最高の文学賞であるブッカー賞を『日の名残り』で受賞した。そこまでは知っていた。けれども、この作家の作品を読むのは今回が初めてだ。

 元々は書店(確か渋谷ビックカメラの隣の文教堂)で平積みされていて、カセットテープが一面にモノトーンで描かれている表紙に目が止まった。次にタイトルに引かれた。カズオ・イシグロもちょっと読んでみたかったんだよなと思い出したが、結局その場では買わず、後に古本屋で見つけて買ってきた。

 主人公の女性、キャシー・Hの独白の形で綴られる、この作品の語り口は静かだ。自らを優秀な介護人と自負するキャシーが、静かに仕事や、自分の幼少期を語り始めることから物語は始まる。静かで一見ありきたりだが、少女や少年の細かな心の揺れが見事に追体験できる見事な筆致に引き込まれる内、少しずつ、微妙にだが確かにどこかタガが外れた、その世界のずれが明らかになっていく。

 最初は、幼少期や青春期の挿話を交えた介護小説のようなものかと思っていた。レベッカ・ブラウンが『体の贈り物』『家庭の医学』で描いてみせたような世界だ(ちなみに、どちらの小説も素晴らしい)。だが、この『わたしを離さないで』は明らかにそれとは違う。非常に残酷な運命に振り回される少年・少女達を、その内面を精緻に生々しく描きながら、それでも全体としてはむしろ淡々と、整然と、解説の中の言葉を借りれば非常に抑制の利いた文体で、巧妙に描き出している。長編全体を通して決して焦らず、少しずつその世界を垣間見せていき、様々な挿話が見事に伏線となって絡んでいく、そのじっくりゆったりとにじり寄るようにクレッシェンド・アッチェランドをかけていくような構成が、平凡に思えるエピソードにすら不思議な緊張感と不穏な空気を持たせていた。そして少しずつ明らかになっていく悲劇的な運命に対する内面の心理の描写と全体としての距離の置き方が非常に絶妙で、それがこの小説の静かさに満ちた情感を生み出している。

 Amazonのレビューや一般の書評ではSFやミステリーといった分類も見られるが、この小説の本質はそこにはない。これは人間を描いた小説だ。運命と、人間を描いた小説だ。それも素晴らしい構成力と、叙情性を伴う叙事性を核に持った、素晴らしい小説だ。カズオ・イシグロの他の小説も読んでみたくなった。次はやはりブッカー賞受賞作『日の名残り』だろうか。


2007年11月7日水曜日

夜景に染みるKeith Jarrett

 先週末は妻の実家である佐賀に帰省していた。盆と正月は新潟に帰るということで、今の時期に佐賀へ娘を連れて帰省した訳だ。今回は妻と娘はそのまま佐賀に二週間滞在し、私は日曜に単身福岡空港経由で横浜に帰ってきた。羽田空港からウチの最寄り駅である日吉へは、三、四年ほど前から直通のリムジンバスが通っている。値段は電車で行くよりわずかばかり高くつくが、確実に座れるし、乗ってしまえば後は眠っていても羽田まで、日吉まで連れて行ってくれるので非常に楽だ。そんな訳で、この直通バスが運行を開始してからは羽田-日吉間は必ず利用している。ここ数年は公私ともに飛行機を使う機会が増えているので、年に10往復以上は使っているだろう。

 このバスは、高速道路を利用して横浜駅、みなとみらいを通過していき、横浜ベイブリッジを渡って羽田に向かう。帰りも当然同様のルートだ。羽田から日吉に戻る場合、時間帯は大体夜9時や10時になる。するとこのバスはベイブリッジからみなとみらいの夜景を堪能できる、絶好のハイウェイルートを通り抜けていく。羽田からの帰りで、密かに楽しみにしてる風景だ。

 ベイブリッジから見る夜景は、その橋の両側で極端に風景が変わる。羽田から帰る際は、右手にコスモクロックやクイーンズ・スクウェア、インターコンチネンタル・ホテル等が見渡せる、小洒落た横浜らしい都会的で静かな夜景だ。サングラスにトレンチコートを着たニューヨーカーがクールに立つように、静かにすましてそれらのみなとみらいの建物達は風景を作る。それはビルの白く冷たく明るい光と、空にポツポツと、しかし多数の輪郭を描く航空機の赤く暗い、記号的で寡黙な誘導灯、そしてアクセントのように数少なく、しかし目を引く、若い星のような青いイルミネーションの夜景だ。要するに都会的で洒落ていて、クールな夜景だ。

 一方、左手側には今度はベイブリッジよりも下の視線一面に光熱灯のオレンジ色の明かりに照らされた無数のクレーンやコンテナ、倉庫が見える。右側の都会に隠れた、ちょっと治安の悪いダウンタウンのように、少しばかり野粗な空っ風を身に纏ったように、やはりこちらも寡黙にたたずんでいる。ベイブリッジからはその両方の夜景を目にすることができる。

 その夜景に合わせて、いつの頃からだろうか、羽田をバスに乗って出る際は、必ずKeith Jarrettの『The Koln Concert』をかけるようになった。Keith Jarrettに限らずだが、ジャズには都会の夜がよく似合う。あるいは大都会でなくとも、小洒落てはいなくとも、とりあえずビルのある夜景によく似合う。演奏者や曲によって、横浜のような港町の夜景なのか、西新宿・都庁周辺のようなどこまでも無機質に礼儀正しく格調を整えたビル群の夜景なのか、それとも京都・先斗町のような雑多な音と人にあふれた夜景なのかはともかくとして、とにかくジャズはある種の都会の夜景によく似合う。よく晴れた秋の日の、爽やかな風が多少強すぎるにしても心地よい阿蘇山の原野の真ん中では、なかなかジャズを聴きたいとは思わない。とにかく、このベイブリッジから見える左右風合いの違った都会の夜景を、いつもKeith Jarrettの『The Koln Concert』を聴きながら窓越しに眺める。その音楽は、都会の夜景の美しさと冷たさ、華やかさと儚さを、いつもしんみりと引き立ててくれる。それはこう語りかけているように思える。この素晴らしく美しい壮大な景色は、僕達が作り上げた紛れもない現実であり、結晶だ。けれどもそれは同時に、怖いぐらい儚い夢でもあるんだよ、と。

 羽田を出発する際に『The Koln Concert』の再生を始めると、ちょうどPart1がクライマックスに差しかかり、音楽の中から芽生えた息吹が少しずつ大きく躍動を重ねていく中でベイブリッジを渡り、横浜駅の上を回っていくことになる。ほぼ間違いなく、そのタイミングだ。夜のハイウェイはそれほど混まない。この音楽の美しい躍動感が逆説的に語る都会の夢を後に、横浜駅の葉の裏の気孔のような形に連なったホームを最後に上からグルッと眺めて、横浜の都会的な夜景は終わりを告げる。その頃に大体時を同じくして、Part1も少々の余熱を残して演奏が終わる。後は薄暗い沈黙が居座るバスが、放っておいても律儀に事務的に日吉駅前まで送り届けてくれる。しんみりと、夜景は終わる。

2007年10月31日水曜日

グレンモーレンジ テイスティング・セミナー@画亭瑠屋 (2)

 さて、ちょっと間が空いてしまったがグレンモーレンジ テイスティング・セミナーの続きを書こうと思う。今回は新ラインアップのオリジナルの他、エクストラ・マチュアド3つをテイスティングできる。一つずつ感想を述べていこう。

 まずはラサンタ(LASANTA)。「LASANTA」はゲール語で温かさと情熱を意味するそうだ。また、発音の語感がスペイン語に近いこともシェリー樽熟成のこの製品の名称に使われる理由の一つだそうだ。旧シェリーウッド・フィニッシュだ。バーボン樽で10年熟成させた後にオロロソ・シェリー樽で2年の熟成を加えるという基本的な作り方自体は変わっていないが、利用するシェリー樽の品質が向上したことによる製品全体の底上げが期待できるとのこと。一般にシェリー樽熟成と言えばマッカランのような濃厚なアンバーを思い浮かべるが、グレンモーレンジのラサンタ(あるいは旧シェリーウッド・フィニッシュも)はそこまで濃いアンバーではない。むしろ落ち着いた琥珀色という印象だ。香りの方もオリジナルのような柑橘系の香りももちろん奥に潜んでいるのだが、やはりシェリーらしい甘いナッツのような香りが感じられる。セミナーで配布された資料では主にワインレッドからアンバーといった色でそのアロマの印象が表現されていた。とはいえそこはグレンモーレンジ。マッカランのようにフルボディでどっしりとした感じではなく、濃厚さとフレッシュさ、甘みとキレのバランスを取りながら、非常に上品な仕上がりを見せている。

 ただ、正直言うとこのラサンタ、今回の中では一番中途半端な印象だった。シェリー樽フィニッシュの割にはシェリーの印象が強くなく、何となく焦点がぼやけた感じが否めないのだ。まぁグレンモーレンジの身上には濃厚一辺倒のシェリー仕上げにするのは合わなかったんだろうなというのは想像に難くないが、それでももう一歩踏み込んだ濃厚さが欲しかったように思う。これはこれでバランスは確かにとれていていいのだけど。

 次はキンタ・ルバン(QUINTA RUBAN)。「QUINTA」はポルトガル語でブドウ園、「RUBAN」はゲール語でルビーだそうだ。旧ポートウッド・フィニッシュだ。これもバーボン樽10年の後にルビーポート樽で2年という作り方自体は変わっていない。が、このキンタ・ルバン、実際に見てみるとその色が実に特徴的だ。ポートルビー樽で熟成されているので本来当然と言えば当然なのだが、色が純粋なゴールドではなく、わずかに赤みがかったピンク・ゴールドになっている。ポートルビー樽でフィニッシュされたモルトは他にも色々あるが、実際にピンク・ゴールドの色彩をしているものは初めて見た。これは恐らくノンチルフィルターで色彩が落ちずにそのまま残っていることに起因しているのではないだろうか。香りは非常に揮発性が強く、むせかえるよう。カカオのような香りの中に落ち着いた甘みと、その奥にかすかに他のグレンモーレンジに通じる爽やかなテイストが見え隠れする。ポート・フィニッシュというと概して味わいはライトになりやすいものだが、これはしっかりとしたボディを持った、香り・味ともに飲み応えのあるモルトだ。そしてテクスチャは非常に滑らか。今回、このキンタ・ルバンは印象がよかった。

 そして最後、ネクター・ドール(NECTAR D'~OR)だ。「NECTAR」は神々が嗜む甘口の酒を意味し、「~OR」はゲール語とフランス語で黄金を意味する。旧ラインアップでは免税店等で限定的にリリースされていたソーテルヌウッド・フィニッシュ。文字通りソーテルヌ・ワインの樽で最後2年をフィニッシュしたものだ。これは旧ラインアップでも非常に評価が高く、正規ラインアップでのリリースが多く望まれていたそうで、今回待望の標準化となる。名称に"黄金"とわざわざ入れているだけあって、色は明るく透き通った黄金色。香りもトロンと甘い上品な蜜のような、実に魅惑的なものだった。口に含むとふわっと優しく広がる甘みが素晴らしい、上品で甘口なモルト。その意味ではモルトというよりブランデーに近いのかもしれない。なるほど、これは正規ラインアップへの追加を望まれるわけだと、飲んでみて実感した。確かに素晴らしくおいしい。一仕事終えて充実した疲れをゆっくりと噛み締めながら癒したい時などに、最上の一杯を提供してくれるだろうモルトだ。一番のお気に入りを回答する際、セミナー参加者も大多数がこのネクター・ドールを挙げていた。グレンモーレンジを飲み続けて25年の画亭瑠屋のマスターもこのネクター・ドールに(両手で)投票していた。これはモルトを飲みなれていない人にもお薦めできる、上品で滑らかな甘口のモルトだ。講師の方も言っていたが、なかなかこのような性格のモルトは存在しない。確かに。

 ところで話は少し変わるが、オリジナルはアーティザン・カスク熟成の原酒の比率が上がったというのなら、このエクストラ・マチュアドはどうなのか、気になるところだ。回答としては、やはりこのエクストラ・マチュアドにもアーティザン・カスク熟成の原酒は少々入っているらしい。ただし、その比率はオリジナルに比べるとかなり小さいとのこと。やはりそれぞれのフィニッシュ樽の個性を尊重したいこのシリーズでは、アーティザン・カスクの個性を出しすぎるのは控えたのだろうというのが私の解釈だ。

 もう一つアーティザン・カスクについて聞いた話では、グレンモーレンジ社は2008年分のアーティザン・カスクの発注を、これまでの約3倍に増やしたらしい。アーティザン・カスクを作成するための費用は通常の樽の数倍かかるが、これにはその投資の価値があると判断したそうだ。グレンモーレンジ社がMHD参加に入ったことのメリットの一つは巨大な資金力が得られたこと。ここではそのメリットが活かされた形になる。

 とするとだ。アーティザン・カスクが大量に作られて、新樽はまずバーボンの熟成に使われた後にモルトの熟成に帰ってくるので、実際に原酒が樽に入るのは2年後くらいになる。そこから熟成期間を考えると、2020年前後にはアーティザン・カスク熟成の原酒が大量に出来上がる。その頃には、もしかしたらアーティザン・カスク100%のモルトが正規ラインアップに乗ってくるのかもしれない。あるいは、もっと時を経て、18年等の長期熟成のアーティザン・カスクが出てくるのかもしれない。楽しみだ。今回のセミナーでも、一度アーティザン・カスクの話が出ると皆そこに食いついてアーティザン・カスクについての質問ばかり立て続けに出ていた。それほど、皆(私を含め)高く評価していて気になっているということなのだろう。おそるべし、アーティザン・カスク。

 というわけでグレンモーレンジの新ラインアップのテイスティング・セミナー、おいしく楽しんで色々と有益な情報も得られて、実に有意義な一時間半だった。MHDに買収され、売り方も急にブランド付いてきたが、肝心の中身はそのクオリティを上げてきている。以前と変わっているのは確かなので、古くからのグレンモーレンジ・ファンにはその変化を惜しむ向きもあろうが、個人的にはこの変化は悪くないのではないかなと思う。しっかりと、おいしいモルトを出してきてくれている。これからはグレンモーレンジを飲む機会も増えそうだ。


2007年10月28日日曜日

グレンモーレンジ テイスティング・セミナー@画亭瑠屋 (1)

 日吉に画亭瑠屋というバーがある。まだ3、4回しか行ったことはないのだが、今回そこでグレンモーレンジの正規輸入代理店であるヴーヴ・クリコ ジャパンの講師を迎えテイスティング・セミナーを行うという情報を聞きつけ、興味津々で申し込んで今日行って来た。そもそもグレンモーレンジは、2005年にMHD(ディアジオ・モネ・ヘネシー株式会社)の傘下に入っており、その際に日本での正規輸入代理店が同じMHD傘下であるヴーヴ・クリコ ジャパンになった。あの高級・高品質・高価格(爆)の有名シャンパン、ヴーヴ・クリコである。そしてそのMHDのブランディング戦略の影響もあり、先週からグレンモーレンジはラインアップを一新し、ラベルも中身もそれまでとはまったく変わった製品群を打ち出してきた。今回はその新ラインアップのお披露目というわけだ。

 セミナーでは当然グレンモーレンジの歴史や新ラインアップへの思い等も前置きとして色々と語られるわけだが、とりあえずは新旧のラインアップを比べてみよう。旧ラインアップはグレンモーレンジ10年を標準品とし、ウッドフィニッシュ・シリーズと呼ばれた4製品、シェリーウッドフィニッシュ、ポートウッドフィニッシュ、マディラウッドフィニッシュ、そしてバーガンディウッドフィニッシュ、18年、25年というものであった。新では、10年はグレンモーレンジ オリジナルという名称になり、ウッドフィニッシュ・シリーズはエクストラ・マチュードという名称に変更され、ラサンタ(旧シェリーウッド)、キンタ・ルパン(旧ポートウッド)、ネクター・ドール(旧では標準品ではないがソーテルヌウッドフィニッシュに相当)、18年、25年となる。名称をパッと見ただけで、相当変わったんだろうなというのは想像に難くない。

 ではまずは旧10年に相当するオリジナルから。ノージングした瞬間に感じられる、非常に明るく爽やかな柑橘系の香りが第一印象だ。正直、意外だった。グレンモーレンジは実は旧10年は飲んだことがないのだが(苦笑)、その他の製品の印象からはここまで爽やかな柑橘系のイメージがなかったからだ。聞くと、やはりこのオリジナルは10年の後継と言っても10年とは相当味わいが変わっているらしい。10年間バーボン樽熟成のみという手法自体は変わってないのだが、先にこのBLOGでも紹介したアーティザンカスク、あの樽を使った原酒の割合が相当増えているらしい。なるほど言われてみると、このオリジナルで感じられる華やかな柑橘系の香り、そこから感じられる明るい黄色のイメージはあのアーティザンカスクに近い。今日初めて知ったのだが、最近では旧10年でもあのアーティザンカスクで熟成された原酒がある程度入っているのだそうだ。それを初めて100%アーティザンカスク熟成の原酒のみで製品化したのが先の『グレンモーレンジ アーティザンカスク』だったということらしい。

 話は逸れるがこのアーティザンカスク、出してみたら非常に評価が高かったそうで、ヴーヴ・クリコの方に再発を希望する声が大量に届いているそうだ。そして今日もその魅力を知っている受講者数名から再発の要望が上がっていた。確かに、私も素晴らしく美味しいと思ってリピートしてしまったわけなので納得である。話が逸れたついでにもう少し書くと、アーティザンカスクの作成過程で、敢えて樽となる木材を2年もかけて自然乾燥させることにも意味があるそうだ。自然乾燥で樽を乾かすと、その途中過程で雨や風が木材をさらし、その木材の臭みやエグみというものを取ってくれる。それをまだ臭み・エグみが残っている段階で機械乾燥にかけてしまうと、木材に残っている歓迎できない臭みやエグみが残ったまま樽になってしまうので、当然原酒もその影響を受けると説明していた。アーティザンカスク、聞く程に恐ろしいこだわりようである。

 さて、オリジナルに話を戻すと、味わいの方は相変わらずグレンモーレンジらしい麦の風味をしっかりと感じられる質実剛健なものだった。そして何よりも非常に舌触りが滑らかだ。講師の方曰く、これは旧10年は43度で瓶詰めしていたものを、オリジナルは40度に下げたことに由来するとのこと。度数を下げることでアルコールの揮発性の強い刺激を下げ、香りを感じやすくし、そして刺激を抑えることで滑らかな舌触り、テクスチャを実現したとのこと。結果、このオリジナルは非常に華やかで飲みやすいモルトに仕上がっていた。アーティザンカスクで熟成された原酒の割合が増えたことで、全体的なクオリティの底上げも行われていることだろう。素直においしいモルトだ。

 さて次からはラサンタ、キンタ・ルパン、ネクター・ドールのエクストラ・マチュアド、つまりは旧ウッドフィニッシュ・シリーズということになる。このウッドフィニッシュはグレモーレンジが先駆けとなり業界にムーヴメントを作り出した部分でもあるので、そこをここまで大きく変えて来るということは当然作り手の思いも大きいはずだ。ということでまず冷静にラインアップを見てみると、まずエクストラ・マチュードに変わって製品の数が1つ減っていることに気付く。旧は4つ、新は3つ。しかも旧のマディラとバーガンディに相当する製品は新ラインアップにはない。この点についてヴーヴ・クリコの方は各製品をまったく違った個性に仕上げたかったということと、常に高いクオリティを維持するための方策だと説明していた。ぶっちゃけ、マディラとバーガンディについてはこれらの製品を維持していくための高品質の空き樽を、今後も一定量確保し続けるのは難しくなったという一面もあるそうだ。反対にシェリーとルビーポートに関しては、これまで品質がブレやすかったものが、今後は一定の品質のものを望む量だけ確保することができるようになったのだそうだ。それにより、グレンモーレンジの特にシェリーで熟成している製品に関しては、旧とまったく中身や製法を変えていない18年でも以前より品質は向上しているとのこと。まぁ、色々ある。

 そして一番気になる名前の由来だが、これはそれぞれの製品が持つイメージを表す言葉を商品名として選んだのだそうだ。そして、バーで実際に注文を出す際に、例えば「シェリーウッド・フィニッシュをください」と言うのと「ラサンタをください」と言うのと、どちらが注文を出しやすいかという統計分析を取った結果、ラサンタのような愛称がある方が圧倒的に注文が出やすかったという報告結果もあり、そのようなネーミングを行うことになったということだ。その辺りさすが天下に名立たるMHD、ブランディング戦略は一流である。ちなみに例えば「ラサンタ」はゲール語で「温かさと情熱」を意味する。それぞれの言葉の意味はそれぞれについて触れる際に再度言及しよう。

 さらにこのエクストラ・マチュード、ウッドフィニッシュ・シリーズ時代とは製法も異なっている。このエクストラ・マチュードは度数を下げたオリジナルとは逆に度数を46度に上げ、ノンチルフィルターで作られているとのこと。ウィスキーを作る際は通常、樽由来の油脂分を取り除くため、摂氏4度以下まで一度冷やして油脂分を結晶化させ、濾過を行って取り除くというチルフィルターという処理を行う。これを行っていないと冷たい水で割った際などに油脂分が結晶化し、液体が白く濁ってしまうのでそれを嫌って行っている処理だ。ところがこのチルフィルター、油脂分と一緒にテクスチャと色という2つの魅力も一緒に少々ではあるが奪ってしまう。グレンモーレンジは今回このチルフィルターによるテクスチャと色の(僅かばかりの)減衰は、個性を大事にするエクストラ・マチュードには命取りだと考え、他蒸留所と比べてもオフィシャルのモルトとしては珍しく、ノンチルフィルターで瓶詰めする道を選んだ。そしてそれを実現するために度数を46度に上げたとのことだ。今回のこの決断が、エクストラ・マチュードの品質向上に大きく貢献することとなる。

 大分長くなってきたので続きはまた明日。


2007年10月26日金曜日

曖昧な月

 20代最後の夜は、何も特別なことはなく過ぎていった。22時半まで仕事をし、本を読みながら電車に揺られて家に帰る。読んでいた本は村上龍の『半島を出よ』。村上龍のよいところがふんだんに味わえるよい作品だ。あと、少しで読み終わる。駅から家まで帰る際、丘を登って病院を超えて、最後マンションの玄関に突く前に、0.5ヘクタール程度の小さな畑が道沿いにある。そこだけは街灯も少なく、道が他と比べて一段薄暗い。そして街灯の光が弱いそのほんの100メートル弱程度の道沿いでは、月の光がこの辺りにしては珍しくよく届く。今日は、ほぼ満月に近い丸い月だった。白い静かな波のような光が、薄い雲にやわらかくぼやけた、そんな曖昧な月だった。

2007年10月22日月曜日

バレンボイム指揮『モーゼとアロン』

 この週末は新潟の両親が遊びに来ていた。すっかりバレンボイムがお気に入りになってしまった父親が、今回の来日の最終公演であるシェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』を観に来るというのが名目だ。この『モーゼとアロン』、私も一緒に観て来たのだが、これがまたかなりよかった。まぁシェーンベルクと言えば新ウィーン学派の大御所。シュプレヒシュティンメや12音技法を編み出した、誤解を恐れずに言えば"理解できない現代音楽"の創始者だ。当然この『モーゼとアロン』も、一般的にいってわかりやすい曲とはお世辞にも言えない。けれども12音技法のあやしい旋律と随所に織り交ぜられる不協和音とシュプレヒシュティンメが重なった異常な緊張感を持ったコーラス等、現代音楽の響きに慣れた私にはむしろシェーンベルクとしてはまだ聴きやすい曲だった。しかもさすがバレンボイムが指揮するベルリン国立歌劇場、その曲の持つ緊張感を、最初から最後まで集中力を切らさずに一気に聴かせてくれた。さすが、素晴らしい。

 今回は演出もなかなか面白く、旧約聖書の出エジプト記を題材にしたストーリーなので歴史背景は当然紀元前と取るのが普通なのだが、そこを敢えて男女ともすべての登場人物を黒のスーツにサングラス、そしてオールバックで統一し、まるで映画マトリックスのようなイメージでまとめあげていた。もちろん、モーゼもアロンもマトリックスだ。正直、群集にまぎれるとモーゼとアロンですら他と見分けがつかない(爆)。だが、これがまたよかった。

 第二幕、山にこもったきり降りてこないモーゼにしびれを切らした群衆をなだめるため、アロンが神の偶像を民衆に与えたところから退廃が始まる。その場面はステージ下から黒スーツにサングラスの民衆が手に手に蛍光灯のように白く光るライトサーベルを持ってステージに上がって来る。それを盲人が白い杖を突きながら進むように、地面を右に左に彷徨いながら、各人がてんでバラバラに方向感無く歩き回っていく。それは想像すらできない神を信じることができなかった人々が、それぞれの小さな希望の光を手に、暗闇の世界をやっと照らせる範囲で迷いながら彷徨う様の象徴のように思え、緊張感溢れる音楽とともに非常に強いメッセージ性を打ち出していた。この『モーゼとアロン』は実に哲学的なストーリーとなっているので、他にも色々と考える部分はあるのだが、一番印象に残ったのはその場面だ。人々は、その手に持った光の剣が他の人のものとぶつかると、それで闘いすらする。非常に強烈な印象だった。

 講演終了後、最終日だったその日はステージ上で鏡割りも行われ、CDを購入した人を対象に急遽バレンボイムのサイン会も行われた。私の誕生日祝いだと父がCDを買ってくれたので、サイン会には父に参加してもらった。バレンボイムからCDにサインをもらい、珍しく非常にホクホクとした感じでサイン会から戻って来た。父が無条件に喜びを表に出すことは珍しい。それでも「バレンボイムは肌にもツヤがあって健康的だったからまた日本に来てくれるかもしれない」といったことしか台詞には出さず、結構照れ隠しをしていたようだが。

 そして日曜は和光堂主催のベビーコンサート。書き始めるとまた長いので、これはまた次の機会に。ではおやすみなさい。

2007年10月1日月曜日

いきなり秋

 この週末は金曜が夏に帰ったように暑かったところからいきなり気候が急転直下、なんと前日比マイナス13度という無茶な下がりっぷりで突然寒くなりました。朝方とか半袖で寝てると普通に寒かったですね。毎年夏から秋へはある日突然変わったなと感じるものですが、それにしても今年はちょいと極端に過ぎるようです。おかげで急に水温が下がった金魚達も心なしかおとなしいのです。まぁ、夏の間高すぎたのが適温に戻ったというレベルなのですが。とはいえこのジェットコースターのような気温の急変、皆さん、お互い風邪などひかないよう気をつけましょう。

2007年9月24日月曜日

Amazonの不手際?

 AmazonでCDを3枚買った。まぁそれ自体特に特筆すべきことでもないのだが、昨日届いた荷物を見て、「おや?」と思うことが一点あった。それは、届いた3点のCDのうち一つが、完全に梱包が破られた状態で届いたことだ。

 他の2点は問題なかった。ちゃんと輸入版独特のビニールとテープに包まれ、新品であることを疑う余地はなかった。が、1点、ビニールも何も包装が無く、CDケースがむき出しのまま、他の2点と一緒に段ポールで包まれて届けられたCDがあった。しかも、ケースはなんとなく、だがしかし明らかに少々、汚れている。当然、マーケットプレイスで買ったものではない。Amazonで正規の注文として新品を購入した(はずの)ものだ。まぁそもそもが廃盤すれすれのマニアックな海外盤だし、少々の事故はありえるのかもしれないが、にしても明らかに包装が破れたケースの汚れた中古品っぽいものが送られて来るというのは一体どういった事情なのだろう?改めて製品のページを読み直してみるが、どこにもそんな記述は無い。そもそも、Amazon自体基本的にはそんな商品の売り方はしないはずだ。

 ちょっとクレーム付けようかとも思ったが、届いた製品自体に間違いはないし、とりあえず盤面はきれいで新品同様、再生にはまったく支障がなかったので、まぁ食べ物や生き物ではないし、とりあえず即の行動は起こさなかった。今後Amazonのしかるべき部署に説明を求めるかどうかまでは現時点では未定である。しかしまぁ、こんなこともあるんですなぁ。

2007年9月18日火曜日

ミッション・三連休

 この三連休には大きな目的があった。それは、車を購入することだ。今乗っている、妻が嫁入り道具的に持って来たアルトは、2人だけのうちはまだよかったのだけど子供ができた今は手狭すぎる。もう10万km近く走ってるし、家の近辺の細い山道ではちょっと大きな荷物を積んでいるとアクセルベタ踏みでも30km/h前後しか出ないで後ろの車を苛立たせていたし、エアコンの効きが悪いと娘は怒るし・・・。というわけで、引越以来頑張ってくれたアルト君に敬意を表しつつ、より実務に耐えうる車を購入しようという計画が持ち上がったわけだ。

 というわけで、トヨタとニッサンの車に目を付けた我々は、この三連休でそれぞれを試乗し、営業の人の話を聞いて交渉しつつ、次のマイカー選びに腐心していたわけだ。ちなみにホンダは今回選んだ車と同クラスの車種は「一杯道を走り過ぎているからイヤ」という妻の一言で却下。スバルは「実質はともかくイメージがよくない」という私の一言で却下など、スクリーニング段階で理不尽に消されていった車も多かったのを付け加えておく。

 まぁ結局、色々とすったもんだあったわけだが、最終的にはトヨタに決めた。私も妻も基本的に車、ひいてはモーターに特別の興味があるわけではないので、万人向けにソツなく快適に作られているトヨタはやはり心地よく見えた。とりあえず今は納車が非常に楽しみだ。今度は、快適に走ってくれるんだろうなー・・・。

 まったくの余談ではあるが、実は私はプジョーに乗ってみたかったということを一言付け加えておく。プジョー、カッコいいね。

2007年9月10日月曜日

松阪牛(どこかで聞いたような)

 妻がもらってきた引き出物のカタログで、松阪牛のすき焼き肉を頼んだ。届いた牛肉を、早速今日すき焼きにしていただいたわけだ。さすが最高級松阪牛、見事な霜降りで脂もまったく嫌みがなく、実に美味しい贅沢な夕食を堪能させてもらった。

 ところで、驚いたのが肉に松阪牛の血統書が添付されていたこと。わざわざこんなもんつけるんだと思って見てみると、今回の肉となっている牛さんの血統書が鼻紋付きでちゃんと載っている。今回私達が美味しくいただいた牛は二頭。ちかこ6とふくこという名前の牛達だ。ちかこ6、ふくこ、美味しくいただかせていただきました。そして曾祖父母の代まで律儀に家系図が書いてあるわけだが、ちかこ6の方を見ていると何やらどこかで見たような名前が。そう、「祖母 きよふく」と書いてある。ふむ、ということはちかこ6の何年か前、松阪牛に「きよふく」という名前のものがいたことになる。松阪牛のきよふく。おわかりになる方は既にお気づきだろうが、なかなかシュールだ(笑)。

2007年9月7日金曜日

過剰反応

 どうも最近の報道を見ていると、本来どうでもいい些細なことに過剰反応をしすぎなような気もする。あまり神経質になりすぎると、本来の目的を見失う。いくつか例はあるのだが、一番わかりやすいのは横浜の警官が電車内で拳銃形ライターを他の乗客に向けていた高校生を平手打ちしたというもの。注意したその警官は(オフで酒を飲んでいたらしいが)傷害容疑で逮捕された。そのニュースを知った時、それはちょっと違うだろうと思った。

 確かに平手打ちで高校生を殴って軽傷を負わせたわけで、傷害と言えば傷害だろう。だが、それ以前にその高校生には明らかに非があった。拳銃型のライターなんて物騒なものを持って他の乗客に銃口を向けて迷惑をかけているような無礼な若造に、注意して口論になった挙句に平手打ち程度喰らわせたところでそれが不祥事だろうか。個人的にはそうは思わない。自分たちが学生の頃なんて、生徒をグーで殴るような教師が学校に一人はいた。最近は、それが不祥事になる。確かに程度というものはあるが、時にはお灸が必要なこともある。単純に暴力イコール不祥事という図式を見ていると、何もそこまでしなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。これは報道の仕方の問題だ。

 こう言うと反発を覚える方もあるかと思われるが、最近の日替わり状態の閣僚の政治と金の問題についても、実は同じことを考えている。あるべき論はともかくとして、現実問題まったくあやしい金の影も匂いもしない政治家なんてほぼいないのだから、あまり細かい金銭の受け渡しをスキャンダルとあげつらっても仕方ないんじゃないかと思う。正直、そろそろ辟易としてきた。あまりに目に余る例はともかくとして、そんなことはある程度どうでもいい。それよりそんなスキャンダルにかまけてるヒマがあったらちゃんと仕事して政治して国をよくしてくれ、と思う。極端な話、不正な金の一千万くらいくれてやるから100億分国に貢献しろと思う。それなら投資対効果としては素晴らしい。あまり目を向けたがる人は多くないようだが、日本の国の財政状態は非常に悪い。年金問題ばかり取沙汰にされるが、その前の根幹をしっかりしないと話にならない。教育環境や福利厚生もイマイチだ。だから、そんな細かい金銭スキャンダルにかまけている時間はない。仕事しろ!というかマスコミよ、政治家にちゃんと仕事をさせろ!寛容になるといい。実際に激務だし結果次第で多くの人の生活に影響が出る立場なのだから、一千万くらいくれてやればいい。その代わり、100億分の貢献をしてさえくれれば。

 どちらにも共通して心配しているのは、あまりこういった細かい問題ばかり取沙汰されて問題だ問題だと報道されていると、現場の方が不祥事を恐れるあまりに萎縮して何もできなくなってしまうのではないかということ。警察も政治家も、それではまったく意味がない。だから、あまり問題ばかりを無理に探してあげつらうよりは、ある程度細かいことには寛容になった上で本来の仕事をしっかりやってもらえた方がいいのではないかと思うわけだ。大事の前の小事とでも言えばいいのか。ちょっと違うかもしれないが、とにかく最近の本来の目的の達成を明らかに妨害している程の報道の過剰反応には、ほとほとうんざりしてきたわけだ。寛容になろう。一昔前はその辺りはある程度うまくバランスが取れていた気がする。もう一度、考えてみたらどうか。そもそも、本来の目的はどこにあって、その目的に対して報道内容はただの妨害になっていないか。報道に萎縮して行動を起こさない現場が常態化してしまっては、社会に希望はない。

2007年9月4日火曜日

無題

 秋の匂いがし始める。朝方は、もう大分涼しい。色々と、物思いにふけりたくなる季節が来る。

2007年8月27日月曜日

一週間

 この一週間は、いくつかイベントがあった。簡単にまとめて行こうと思う。

 まず先週日曜日。龍大のまんごれがウチに遊びに来た。エグベルト・ジスモンチのコンサートを聴きに上京するので、ウチに宿を求めて来たわけだ。京都学生ギター連盟の古き盟友。久し振りに積もる話などして、京大の聖帝殿との最近の活動など聞きつつ、相変わらずエネルギッシュなまんごれの活動っぷりに刺激を受けたりしていた。そして会話の中で「お互いにブログがくどい」という話しになった。脱・くどいブログということで、これからは短くスッキリとまとめるよう努力したいと思う。

 今年の甲子園は佐賀北高校が優勝した。その名の通り、佐賀の県立高校。妻が佐賀県出身なので、一回戦からウチも両方の実家も応援していた。延長15回引分再試合を制し、さらに帝京との延長13回の息詰まる攻防、そして決勝での劇的な逆転満塁ホームラン。もう何でもアリの熱い闘いだった。特に帝京との一戦は素晴らしかった。お互いに幾度ものピンチを素晴らしい守備で凌ぐ守り合い。帝京の二遊間のグラブトスからの送球、佐賀北のライトからの素晴らしいバックホームや二度のスクイズ阻止。実に緊張感のある素晴らしい試合でした。今年の甲子園も面白かった。新潟明訓も、頑張っていた。新潟からあんなに三振が取れるピッチャーが出て来るとは思わなかった。大したものです。

 土曜日はマンションのガーデンパーティーがあった。今年は輪番で回って来た理事会の副理事をやっているので、当然色々と準備に奔走しなければならなかった。まぁ始まってしまえば後はただ飲んでいればいいだけだが。とりあえず、このマンションには実はクラシックギター弾きが2人、アマチュアオーケストラでバイオリンをやっている人が1人、音大のピアノ課卒の人が1人いるということがわかった。

 そして今日、日曜日は、寝ていた。そんな一週間。

2007年8月19日日曜日

新潟の夏

 新潟は夏が好きだ。冬の雪や、降る前のピンと張りつめた緊張感のある澄んだ空気も好きだけれど、一番好きな季節を挙げろと言われるとやはり夏になる。

 よく勘違いされるところだが、新潟の夏は別に涼しくない。湿度も高いし、日本海側に台風が来ればフェーン現象で40度近い気温をマークすることすらある。そうでなくとも30度を超えることが珍しい北海道とは違い、8月ともなれば平常的に30度くらいは超える。他の県より1度くらいは低いかもしれないが、別に涼しくはない。夏らしく暑い。それが新潟の夏だ。その、夏らしい新潟の夏が好きだ。

 私の実家は越後平野のど真ん中、信濃川と中之口川という二本の川に挟まれたところにある。山がなければ水田の果てに地平線が見えるであろう広大な米作地域だ。その中で真夏の照りつける太陽の下、片道10km以上の道のりを両サイドが水田、街灯もないような細い農道を毎日自転車で通っていた。それが私の夏の原風景だ。だから、私にとっての夏は海ではない。山でもない。延々と続く平野に広がる水田と、そこで軽く会釈する程度に穂を垂れる、まだ緑の米の稲穂と、その稲穂や茎を輝かせ、葉を白く透き通らせる太陽が夏だ。信濃川や中之口川を吹き抜ける風と、光に乱反射する水面が夏だ。それらは今も夏に帰省すると、当時と何ら変わることなく、美しく躍動感溢れるその姿を見せてくれる。

 新潟の夏は美しい。どこまでも続く平野と水田に稲穂、ゆったりと輝きながら流れる信濃川に中之口川、そしてそれらを新鮮に輝かせる太陽。それらが織りなす水と緑の供宴が美しい。東京や横浜、あるいは京都でも、このような夏の美しさはない。新潟の平野の夏は独特だ。

 高校の通学路は家路に着こうとすると校舎を出てすぐに橋を渡ることになる。どの橋を渡るかはいくつか選択肢があるのだが、普段は当時あったマルヨシに近い橋を渡って通学していた。その橋の上から見える夏の川の景色が好きで、毎年夏の間はその景色を楽しみにしていた。今でも覚えている。ある日いつものようにその橋に自転車で差しかかった際、そこから見える夕陽と、それに映し出される水面に垂れ込めるような木々と静かに流れる川の景色が、あまりに美しくて橋の上で自転車を止めた。そして光が陰るまで、ずっとその場で景色を見ていた。夏の日の夕陽が輝くのは一瞬だ。ふと見ると、それは既に残照に変わってしまっている。多分橋の上で立ち止まっていたのは、ほんの数分のことだったろう。夏の輝きが一瞬の侘びしさを連れて夕闇に変わっていくその風景は、今でも夏の原風景の一つとして心に残っている。

 これから先、どこに行くのか、何をやるのか、結局確かなことは何もわからない。意図した通りに人生がいくとも限らない、いかないとも限らない。ただ、どのようになっても、この新潟の夏の風景は忘れたくないし、できることなら、守りたいと思う。そこは、自分の立つ心の足場の一つなのだから。

2007年8月12日日曜日

猛暑

 今日は全国的に気温が30度後半をマークしました。群馬とかでは38.3度を記録したらしいです。まさに酷暑。その熱中症患者がバタバタと出る猛暑の中、ウチはエアコンが壊れました・・・。付けても15分くらいは動いているのですが、風はまったく冷たくなく、当然部屋も冷えず、15分前後運転したところでエラーを出して止まる。最低でした。何もこの暑い日に、です。室内の温度は最高35度を記録しました。

 自分一人だったら涼しいところに買い物に出かけたり、マンガ喫茶で過ごしたりする等、適当に涼むことはできるのですが、如何せん今は三ヶ月の娘がいます。当然そんな非常手段を取るわけにもいかず、せいぜい部屋の窓を全解放して、風通りをよく保ち、扇風機と扇子を頼りに何とか乗り切りました。この暑さで今はエアコンの修理依頼が殺到し、アサインに時間がかかるということで、ウチに修理が来るのは帰省明けの17日。もう少し、耐えなければならないようです。

 しかしまぁ、この真夏日に冷房なしで一日過ごすというのはやはり少々しんどかったわけですが、久し振りに一日の変化を感じた日でもありました。朝、少々寝苦しい程度の暑さで目が覚めて、午後にかけてジリジリと暑くなっていき、午後2時前後のピークには部屋の中でダラダラと汗を流し、夕方には少し気温も下がり、風も出てきて体感が一気に涼しくなる。日差しの強さや雲の流れ、風の到来と共に感じられるその当たり前の一日の移り変わりが、なんだか妙に久し振りなように感じられました。やはり一日冷房の効いたオフィスにいると(ウチの会社は冷房弱めなので結構暑いのですが)、そんな細やかな一日の移り変わりも気付かずに、忘れてしまうものなのだなと、熱中症寸前のボーッとした頭で考えていました。一日冷房なしで過ごした後に、やってくる夕方の涼しさは落ち着きと開放感と安らぎもつれて来てくれて、とても気持ちいい。夕涼みというのは本来そういうものだったのでしょう。冷房のない夏も、それはそれで気持ちがいいものです。ただし、今日みたいな猛暑でなければ・・・。

2007年8月9日木曜日

無題

 何となく最近、世の中は動いているのだなぁ、と感じる。まぁ改めて感じるまでもなく、理屈から言えばこれまでも動いているのはわかってはいた。ただ、最近は「理屈から言えば」という注釈抜きで実感として、世の中が動いていることを感じる。私が寝ていても世界は動く。いてもいなくても世界は動く。実体としても仮想としても、どんな方向に出さえ動く。今更だ。世界は、目に見える部分だけで構成されているわけではない。ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻が発生する。そのようにして、ともあれ世界は動いているし、つながっている。見方一つで世界は変わるが、見方と関係なく世界は動く。ねぇ、思った以上に、この世界は複雑だ。

2007年8月4日土曜日

近況

 週末にいい仕事をすると、気持ちよく家に帰れる。何か理由がないとグラスに注ぐ気にならないような、ちょっといい一杯を楽しむとしよう。

 娘ももう三ヶ月近い。最近は、「あー」とか「うー」とか「くきゃあ」とか、そんな言葉で何となく話しかけてくるようになった。機嫌がいい夜は6時間とか寝続けてくれるので、夜中に泣いて起こされることも毎晩ではなくなった。これは夜泣きが始まるとまた寝られなくなるのかもしれないが。そして最近は仰向けばかりでなくたまにうつぶせにすると、子ガメのようにグググッと首を持ち上げようとする。両手で踏ん張って、一生懸命持ち上げる。最初右向きだった顔を持ち上げて、必死で左に向き直る。右から左へ受け流す。一つ一つ、細かいことが、「ああ、成長してるんだなぁ」と、実感できる。

2007年7月30日月曜日

とある週末と参院選

 先週の日曜日、遊びに来ていた弟夫婦が帰った後に、妻が出産で実家に帰る前に買っておいたチャイルドシートをいよいよ車に取り付けて、娘を車に乗せて初めてのお買い物に行こうとした。ところが、何かがおかしい。ウチの子はまだ二ヶ月なので当然首はまだ座っておらず、寝かせて乗せることができるチャイルドシートを購入したはずなのに、何故か手元のチャイルドシートではそれができない。普通に座らせて乗せることができるだけだ。説明書をいくら読んでも寝かせる方法が書いてない。あまつさえ、対象年齢3才からとか書いてある。確かに購入する際は新生児から使えるものを選んだはずなのだが。

 泣く泣く先週は初ドライブを諦め、どうしたものかと悶々としていた。買う時に商品を間違えたのか、それとも店が発注を間違えたのか。もう開封したどころかレシートもなければ箱すら処分してしまった状況だし、何しろ購入したのが一月だ。仮に店側に否があったとしても返品が効くとは思えなかったが、間違えたのは誰かだけでもはっきりさせないと気がすまなかったので、今週購入した店に電話した。担当の人と話しをしてみると、確かに私が購入したのは、新生児から使えるチャイルドシート。でも実際に届いているのは3才以上対象のジュニアシートということだった。意外に、何も言わずとも先方からすぐに本来の商品を送ってくれると言ってきた。レシートも箱もないですよと言うと、それはいいから同梱する返品用伝票で品物だけ返送してくれと言う。思った以上に丁寧な対応にちょっと嬉しくなった。元々間違えたのは向こうと言えばそうなのだが、それでも箱もレシートもなくとも無条件で交換してくれるというのは気分がいい。正直諦めていただけにありがたかった。これで来週末こそは念願の初ドライブに行けそうだ。

 さて、そして日曜は参院選。与野党逆転が成るかどうかが話題だったわけだが、まぁ23時時点での形成を見る限り与党・自民の大敗は確定といったところでしょう。政治に対するコメントはこの場では最小限にと決めているので少しだけ書くと、そもそも今回の選挙は個人的に最大の要解決事項であると考えている国の負債の問題に、どの政党も明確な策を打ち出さずに議論すらしていなかったのが非常に心外だった。その中の最も国民にわかりやすいはずの消費税増税の論争ですらほとんど行われなかった。TVで誰かが言っていたが、これでは次の選挙まで消費税増税について大きな決定は行うなと決めなければならない。今の日本の財政状況を踏まえ、負債がこのくらいある中で財源をどのように確保してどのように割り当てれば国の財政は改善するのか、その議論や具体策が何も提示されなかったこの選挙は、私に言わせれば結果以前に既に死に体だ。消費税増税だって、それらの説明が正しく行われた上で、単純な一律増税ではなく外国を例に品目毎の税率を妥当に設定すれば一般国民的にもやぶさかな話しではないだろう。それを説明の労力と、増税という表面だけ取られて真意が伝わらないリスクを恐れて議論すらしない状態では、国民のための政治とは思えない。その意味では、どの政党も失格だ。何年か経って「やっぱり遅かったです」ではダメなのだ。日本がアルゼンチンの二の舞にならないことを祈る。


2007年7月28日土曜日

ゆっくりと

 今、一本のウィスキーを空けた。Cragganmore Double Matured 1988。シングル・モルトにはまり始めた頃に買った一本で、当時はこれを購入することが金額的にかなりの冒険に思えた。元々クラガンモアは好きだったので、そのDouble Matured版もさぞおいしかろうと期待を込めて手にし、実際これはおいしかった。開栓したのがちょうどウィーンフィルを観に行く少し前だったので、実に三年近くかけてやっと空けたことになる。さすがにここまで引っ張ったのは珍しい。

 環境や年月で品質が変わりにくいウィスキーとはいえ、さすがに開栓して三年も経つと劣化は否めない。味わいは少し甘みが抜けて平坦になった気がする。クラガンモア特有のグラスに注いだ瞬間に華やかにふわっと広がる香りも、さすがに少々色褪せた。色々な人達と一杯ずつ楽しんだこのモルト、最後の一杯は娘をラックで揺らしながらいただいた。三年も部屋にあったボトルは、さすがに少し名残惜しいものだ。

2007年7月25日水曜日

戦場跡

 夜23時過ぎに家に帰ると、また部屋が静まり返っていた。娘はリビングでラックに乗せられてスヤスヤと眠っており、妻は普段着のまま寝室でグッタリと眠っている。きっと、また娘が寝付かずに大暴れして、やっとの思いで寝かしつけたのだろう。そして力尽きて自分も眠ってしまったのに違いない。ご飯と煮物が作ってあったので、それにインスタント味噌汁を付け足してありがたくいただき、そっとシャワーを浴び、そしてそっとネットをやる。こうして娘と妻と、どちらも力尽きる程の激しい戦闘があった後は、娘はいつも実に心地よさそうな顔をして寝ている。きっと、疲れからグッスリと眠れているのだろう。寝姿からも疲労の色が伝わって来る母親とは対称的だ。何にせよ、子育ては戦場だ。夜討ち、朝駆け、何でもありの戦場だ。それでも、この寝顔や笑顔が見られるならいいかなと、今日の闘いにまるで参加しなかった父親は無責任に思う。さて、夜討ちは自分が迎え撃たなければならない。

2007年7月17日火曜日

中越沖地震と結婚記念日

 三連休の最終日の今日、孫に会いに来ていた両親と共に朝食を食べ終わった朝10時過ぎくらいのことだった。足下が、ユラッと揺れた気がした。両親も揺れに気付き、「地震だ」と周囲を窺う。かなり長い間、大きくゆったりとした横揺れが続いていた。金魚の水槽で水が溢れそうに左右に振られている。結構、大きな地震だなと警戒していると、BS1で観ていたメジャーリーグの画面に地震速報が映った。速報にしても妙に早いなと思っていたら、ここ横浜についての速報ではない。10分程前、新潟で震度6強という速報。一瞬、理解ができなかった。今まさに、まだ足下は揺れている。しかし画面に映る速報は10分程前の新潟の情報。しばらくして、やっとつながった。新潟で起きた地震が、200km超の距離を10分程かけて伝わってきて、今ここ横浜が揺れているのだと。

 何人かの新潟の仲間にメールで連絡を取ってみると、とりあえずその当初は皆「ものはいくつか落ちたが、大丈夫」という回答が多数。ニュースも地震発生後すぐの時点ではそれ程壊滅的な被害を報道していなかったので、まぁ一旦一安心した。ただ、両親は今こっちに来ているので、実家には祖母が一人だ。当然のように電話はつながらない。メールは比較的つながるものだが、祖母は携帯など持っていない。実家の状況が知りたいところだが、そうもいかないのが気になるところだった。

 話は変わるが、今日は私達の結婚記念日。一年目ということで、両親に娘を見てもらってレストランで食事をしようということで、横浜のレストランのランチを予約してあった。ので、地震発生から一時間も経たない内に、情報が整理されて報道が始まる前に家を出た。横浜から公衆電話で実家にかけてようやくつながった時には、とりあえず祖母は元気とのことだった。

 ところがいざ16時過ぎに帰宅してみると凄いことになっている。ここ数年天災・人災続きの柏崎が特に壊滅的な打撃を受けたのを中心に、三条・燕・加茂でも震度5強。怪我人も続出。この三地域が震度5強ということはそこに挟まれた実家も恐らく同程度の被害でしょう。両親が帰ろうにも、夕方17時の時点で新幹線は越後湯沢-新潟間で完全に止まっています。それでも一旦東京駅まで出るとのことで、夕方に両親はウチを出て行きました。ところがそこからが大変です。18時過ぎに「新潟まで新幹線が復旧して、それに乗れた」と連絡が入ったまではいいのですが、その一時間後くらいにまた連絡が入り、「落石が見つかったのでまた新幹線が不通になった」と言って高崎で足止めです。その後21時を目処に復旧を目指すとのことでしたが、両親は最悪もう一泊ウチに泊まってから新潟に戻ることを視野に入れ、一旦高崎から東京に戻ります。そして21時過ぎに今度こそ復旧したという新幹線にやっと乗れ、23時現在まだ燕三条には着いていないようです。

 そしてこれを書いている23時15分過ぎ、また横浜で地震がありました。ギシギシと揺れる酒ラック。またか、と思ってテレビを付けて速報を待つと、今度は東北・北海道の方で震度4弱。また、違う地震のようです。今やっと更新されたYahoo! 地震情報を見てみると、今度は京都府沖。でも何故か被害は北海道の震度4を中心に東北寄り。ただ、震源地を見る限りやはり日本海側のプレートから来ているようです。日本海側のプレート、連鎖反応を起こしているのでしょうか。まだまだ、警戒が必要のようです。

2007年7月8日日曜日

開設9周年

 また今年も七夕がやってきた。ということは、この雑記帳の開設記念日である。1998年7月7日が開設記念日なので、実に今年で9周年。最近書く記事数が減ってしまっているところが来てくださっている皆さんにも自分自身にもすまないところだけれど、ともあれ9年間続いたことになる。これからも可能な限り意欲的に更新を続けていきたいと思うので、皆さんも気が向いた時にはこの『ayum's note - あゆむの雑記帳』を訪れてあげてください。よろしくお願いいたします。

 ところで、9年前この雑記帳を7月7日に立ち上げた時のことで覚えていることがある。当時私は大学2回生。RAINBOW Staffの仕事もまだまだこなれておらずに忙しさを感じながら、部活ではギタ連定演に向けて後に"ブランデンブルグおんぼろ四重奏団"と自称(自嘲?)することになる京大の聖帝、龍谷のつっきー、工繊のS女史との四重奏の練習を(あまりできていないなりに)やっていた頃だ。授業はどんなだったか、よく覚えていない(苦笑)。その年の七夕は詳細は忘れたものの妙に忙しい一日で、大学を夕方に出て家に帰り、それまで学内のイントラ内のサーバにあったこの雑記帳をさくらインターネットに移行して、その後日が暮れてからギターを担いで丸太町通を東へ急ぎ、京大のBOXに練習に行った記憶がある。確か聖帝とつっきーが練習後にウチに泊まりにきて、二人乗りで私の後ろに乗って移動していたつっきーが私の自転車を壊したのはこの時ではなかっただろうか?そこはあまりよく覚えていないのだけれど。

 先日、久し振りにそのつっきーからコメントが入っていた。今思えば卒業後10年続く程たくさんの接点があったわけではない彼と、これだけの時が流れた今もこういったやり取りができるのはやはり嬉しい。そして彼のBlogを読むと「相変わらず頑張っているんだな」と思い、こちらも負けてはいられないなと思う。そういった小さなつながりを保てているだけでも、この雑記帳を9年続けてきた意味はあると感じているし、まだこれからも続けていこうと思う。その時々の自分を映す鏡として、時間に伴う変化を刻む軌跡として、人と人がつながる待ち合わせ場所として。時には、それは例えば、人気のない神社を守る神主のように。

 改めまして、今後もこの雑記帳をよろしくお願いいたします。

2007年7月3日火曜日

静粛に

 家に帰ってみると、妻と娘は眠っている。部屋の様子から察するに、ずっと泣きわめいていた娘がやっと眠って、自分も疲れて一眠りといったところだろう。お湯でも湧かすと物音で目覚めるといけないので、あるものを持ってとりあえず自分の部屋で夕食を取る。当然、音楽もかけない。静粛に。静粛に。息を殺して、本を読み、インターネットをぶらりと眺める。たまに忍び足で娘の寝顔を見に行ったりして。ところで、二人とも一体いつまで寝ているんだろう・・・?

2007年7月1日日曜日

子供がいる生活

 妻と娘が佐賀からウチに帰ってきて、早一週間が過ぎました。先週土曜はウチに妻の両親と私の両親も泊まっての祝宴。日曜は川崎に住んでいる叔母にも協力してもらい、7人+赤ちゃんで大倉山の熊野神社にてお宮参りをしてきました。熊野神社は由緒は正しいが最近改装されたばかりでお宮は新しく、そして何より空いていて落ち着いている。でも祈祷はちゃんとしてくれる神社で、ストレスもなくあっという間にお宮参り終了。人もほとんどおらず、お宮参りの参拝者も私達の他にもう一家族しかいなかったので、参拝後もお宮の前で皆で記念写真を撮ったりと、ゆっくりお参りしてきました。なかなかよかったです。ちゃんとお札ももらえましたし(まぁ、当然か)。あれでBGMの雅楽がCDでなくて生演奏だったら最高だったのですが(笑)。

 そしていよいよ妻と娘と3人での生活です。夜の帰りがひどく不規則な私は、朝に子供を風呂に入れてから会社に行くという選択肢を取りました。自然、朝が一時間程度早くなります。そして夜は(ウチの娘は比較的おとなしい方らしいですが)3時から4時くらいに一回は起きてミルクをくれと大泣きする赤ちゃん。そこから一時間くらいかけてミルクをあげて寝かしつけるので、睡眠時間は格段に削られます。いやー、疲れますね(苦笑)。育児もなかなか大変です。

 そして土曜である今日は妻を買い物にやって、日中私が一人で赤ちゃんを見ていたのですが、これがなかなか大変です。アメリカの査定企業が子育て専業主婦に賃金を払うとしたら妥当な年収は1,600万円という調査結果を出していましたが、なるほど、こいつは精神的にも肉体的にも重労働です。疲れという意味では会社に行ってた方が楽だな、とか思ってしまいました。

 話は少し変わりますがこの一週間、子供が泣いたり寝付けなかったりする時に色々と音楽を聴かせてみていました。バッハ、モーツァルト、ビーバー辺りを中心にアーリーバロックからモーツァルトまでを試していたのですが、その中でいくつかわかった傾向があります。
・音楽をかけると赤ちゃんなりに聴いてはいるようだ
・協奏曲や交響曲よりは独奏から弦楽四重奏くらいが好きらしい
・ピアノよりはヴァイオリンやギターが好きらしい
そんな中で、特にお気に入りのCDは今のところ次の2枚です。
『J.S.Bach Cello Suites』Jaap ter Linden
『Bach on Lute Volume. 3』Nigel North

 前者は古楽器のチェロ(現在のものと違いガット弦)奏者の第一人者で、A.マンゼとの活動で知られるテア・リンデンが弾く無伴奏チェロ組曲の全曲集。タワレコでBRILLIANT CLASSICから出ているこの盤の廉価版が2枚組680円で売っていたので買ってきたのですが(Amazonでは廉価版が見つからなかったのでリンクは正規版)、これが素晴らしい当たりでした。古楽器の響きも、ゆったりと情感溢れる演奏も素晴らしい。ウチの子はお腹の中にいる頃からよくこのCDを聴かせていたのですが、やはり今でもこのCDを聴くと落ち着くようで、よく寝てくれます。

 後者はリュートで演奏される、同じく無伴奏チェロ組曲。ウチの子、無伴奏チェロ組曲が好きらしいです。鎮静作用としてはこちらのCDの方が優れているようで、最初のチェロ組曲第一番の『プレリュード』が終わる頃にはもう大体興奮も収まってうとうとしていてくれます。このCDはリュートによる演奏自体も素晴らしいですが、その素晴らしい録音・マスタリング技術によりオーディオマニア受けが非常にいいLINNレーベル、やはり音が実にきれいに再生できます。

 どちらも子供に聴かせるにも自分が聴くにもお薦めの一枚です。子育ては大変だということが早くも実感できているわけですが(苦笑)、子供も大人も癒されるこういった名盤を見つけつつ、自分なりに頑張っていこうかと思っております。

2007年6月23日土曜日

降臨前夜

 明日、とうとう妻と赤ちゃんが横浜に帰ってくる。赤ちゃんの方は「帰ってくる」というよりは「やって来る」という感じだが。そんな時期にタイミング悪く仕事は妙に忙しく、深夜に慌てて色々片付けやら何やらやっている。慌ただしいなりに静かな夜も今日で終わる。明日からはきっと賑やかで、時にうるさいくらいの日々が始まるのだろう。楽しみなような、不安なような、愛おしいような、名残惜しいような。ともあれ確かに、変わっていくのだ。酒も飲まず、音楽も聴かず、ただ黙々と大量のグラスを洗って眠りにつく、最後の静かな夜。いつも通り、金魚は一匹ひっくり返る。

2007年6月16日土曜日

Bowmore - ボウモア15年 ハートブラザーズ






Hart Brothers ボウモア15年

Distillery : Bowmore

Years : distilled in May 1989 and bottled in July 2004, aged 15 years

Area : Islay

Bottler : Hart Brothres

Cask Type : Unknown

Product : 46% vol, 700ml

Price : -

Remarks : -


 突然だが、ボウモアには結構当たり外れがある。少なくとも、私はそう思う。おいしいボウモアはとてもおいしいが、どうも香りに妙なひねりが強すぎたりして、ちょっと首をひねりたくなるボウモアもある。それは気分や日によって違う(気温の違いのせい?)微妙な香りの立ち方でも変わってくるのだが、意外にオフィシャルのボウモアには外れが多い気がする。逆に言うと、当たりはボトラーズものに多い。このハートブラザーズのボウモアは、そんなおいしい当たりの一つだ。

 色は明るい黄金色。だが、どうもボウモアは全般的にそのような気がするのだが、何だか少しばかり色は暗く淀んでいる。密かに陰を背負った明るい黄金色だ。ほんの少し、微妙に濁っているのだ。言葉では表しにくい。そして香りはボウモアらしく落ち着いている。もちろんアイラモルトなのでアイラらしいピートの香りはする。だが、長熟のボウモアにあるようなしっとりとした落ち着きが感じられる香りだ。ムッと広がる強烈なアイラの薬臭さではなく、グラスの底でゆったりとたゆたう穏やかな海の香り。華やかではないし、刺激的でもないが、適度にしっとりと落ち着いた潮と煙と薬品の香り。実にいい。口に含むとボウモアとしては珍しくまず麦の甘みが前面に出てくる。だから初めて飲んだ時はボウモアのくせに妙に甘いモルトだと思った。そして一口目の口当たりはアイラらしくないマイルドさも感じられる。ところが喉を通るとその第一印象がスッと消えて行き、今度はピリピリとしたスパイシーな後味が長く口の中に残り、甘みが消えて行くのに反比例してモルト侍が「ダシ」と形容している旨味が浮かび上がってくる。その味わいの移り変わりが非常に心地よく、じっくりと飲みたくなるモルトだ。シェリー樽で余計な味や香りがついていない分、ボウモア自身の持つ良さが非常によくわかるボトリングだと思う。

 私が家で飲むアイラとしてボウモアを好むのは、決して押し付けがましくないがかといって弱々しくもなく、落ち着きと刺激、甘みと旨味のバランスが絶妙に取れているからだ。バーではよくアードベッグも頼むが、家ではあれはちと辛い。ラフロイグも家で飲むならオフィシャルなら15年くらいこなれてきてないとやはり辛い。ボウモアか、意外にブルイックラディ辺りが結構いける。このボウモアはそんな私のストライクゾーンのど真ん中に入った、非常にバランスのいいモルトだ。落ち着いた刺激を伴う香り、甘みから旨味へと遷移する味わい、どちらも素晴らしい。ピアソラなんかを聴きながら、少しかすれた辛酸のような、それでいてどこか優しさも感じられるこのアイラを楽しむのがいい。

 最後になったが、今回のボトラーのハートブラザーズは1988年操業。元ホワイト&マッカイのブレンダーであったアリステア・ハートとドナルド・ハートが兄弟で運営している。


2007年6月14日木曜日

PHS、故障

 それは月曜の朝のことだった。目が覚めて、いつものようにPHSのメールをチェックしようとした時のこと、確かに昨晩は電源が入っていたはずのPHSが切れていることに気が付いた。前の晩は珍しく充電しないまま放置していたので、電池が切れたかなと思いコンセントにつないで電源を入れた。いつものように電源が入り、Willcomのロゴが表示される。その直後のことだ。一瞬、画面が青く稲妻のようにビカッと光り、次の瞬間にはふっと事切れたように暗転していた。電源は、入っていない。何のことだかわからなかった。寝ぼけた頭で「PHSまでブルースクリーンかよ!」とツッコミを入れた。だが、何度試しても青い閃光の後にPHSは事切れる。電源は、入らない。

 とりあえず購入した店舗に持って行った。けれどそこでは手に負えない。Willcomストアに持って行ってくれと言われる。しかし渋谷から一番近いところでも新宿。まぁ遠くはないが、昼休みにちょっとというわけにはいかない。仕方がないので、とりあえずサポートに電話してみた。宅配業者が引き取りにくるというので、会社に来てくれるように頼む。そして今日、やっと故障した私のPHSは引き取られ、代替機が届けられた。丸二日間、PHSが使えなかったことになる。まぁ、静かと言えば静かだが、やはり不便なものだ。そしてそういう時に限ってやはり、急ぎで連絡が取りたい用事というのは出てくる。何にせよ、ずっとPHSを持ち続けて初めて修理が必要な程のトラブルに遭遇した。なかなか、面倒だ。

2007年6月11日月曜日

大掃除 - お迎え準備として






酒ラック この週末は大掃除の二日間でした。出産後、佐賀で経過観察をしている妻と娘は共に健康。特に娘は元気すぎてほとんど眠らずに母親をグロッキーにさせる程の実力者ぶり。私も抱き癖があってなかなか寝ない赤ちゃんだったそうですが、どうやらその路線を踏襲しているようです(苦笑)。というわけで、経過が順調なので今月末にでも妻と娘は横浜に帰ってくることとなり、さすがにまだまだ小さい赤ちゃんを今の荒れ果てた部屋に招き入れるのは気が引けるため、今回のこの大掃除となったわけです。




 引越の時程ではないですが、今回も大変でした。まず土曜日に溜まっていた新聞、雑誌等を整理し、食器を洗い、掃除機をかけ・・・。そして日曜は助っ人として参上してくれた両親と一緒に風呂場、便所、洗面を母親が、部屋の掃除と整理を私と父が受け持って、朝からバタバタと大掃除です。とりあえず、正月にIKEAで買って以来その40kgという重量に負けて一人では組み立てられなかった強化ガラス製のコレクションラックの組み立てに成功しました。そしてそれは私の部屋の酒ラックとして使われ、これまでバラバラとスチールラックに入れられていた酒瓶達がきれいにディスプレイされるようになったとのことです。写真はその様子。いやー、こうしてみると我ながらよく集めたものです。しかも結局全部は入りきらずに横の段ボールの中にも酒瓶入ってますからね。びっくりです(笑)。しかしまぁちょっときれいにディスプレイされたコレクション達を眺めて、私はご満悦だったわけです。

 そして部屋内のホコリや真菌類を制圧し、ちらかっていたものを整理して、大掃除にケリが付いたのはもう夕方五時くらいでした。三人掛かりで朝の八時から始めてです。いやー、疲れました。でもおかげでかなり部屋がきれいになりました。最後は窓や網戸まで掃除してましたからね・・・。これで後は来週細々としたものを買ってくれば一応妻と娘を迎えられる準備は万端でしょう。よしよし。

2007年6月4日月曜日

四十九日

 この週末は祖父の四十九日の法要のため新潟に帰省していた。金曜の深夜に帰宅し、今日の夕方に燕三条を出る、あまり落ち着いたとはいえない里帰りだった。まぁ、用事の内容からして当然といえば当然のことなのかもしれない。とはいえこれで、一旦は区切りがついたことになる。短いながらも色々と思うところもあった帰省なのだが、今回はセンチメンタルにも理屈っぽくにも前向きにも後ろ向きにもならず、一旦ここで指を止めよう。仕事が次の日に控えた深夜、焦って忙しなく物事を書きたい気分でもない。四十九日を終えると死者はこの世でもあの世でもない境界から、あの世の方へと渡って行くという。「いってらっしゃい」と言い、そしてまた、「いってきます」と言う。

2007年5月29日火曜日

佐賀空港はANA

 先の週末は妻と娘に会いに佐賀に行っていました。土曜日にいつも通りANAにて羽田より佐賀へ。ここまでは問題ありませんでした。向かい風のせいで15分ほど到着が遅れたとしても、まぁそんなものは問題のうちに入りません。が、問題はその帰りに起きました。そう、日曜のニュースを散々騒がせたあのANAのシステムトラブルです。佐賀空港に就航しているのは今のところANAのみ。ANAがダメだからといって、他の選択肢などありません。そのニュースを佐賀で知り、「オイオイ、帰りの飛行機はちゃんと飛んでくれるんだろうな?」ととりあえずANAのホームページを確認します。どうやら佐賀空港発の飛行機は全て無事に飛んでくれているようです。まぁ、すべてといっても佐賀空港発は日に4本くらいしかないのですが。その状況を確認し、「とりあえずは大丈夫そうだな」と一息つきながらも、実際佐賀空港に着いて搭乗手続きをする際はなかなかスリリングでした。

 航空券を機械に通すと、いきなり「出発便は1時間15分遅れですがそれでもよろしいですか」とメッセージ。なかなか不意をつかれましたが、何しろここは佐賀空港。羽田に行く便は日に3本しかありません。そして私が乗る18時35分発のANA456便はその最終便です。大阪行きの便は既に終わっています。「よろしいですか」と訊かれても、「はい、よろしいでございます」と言う以外に選択肢がない(苦笑)。とりあえず同意し、カウンターで1,000円分のお食事・お買物券をくれるというのでそれをもらい、佐賀空港でのんびり自動販売機のカップコーヒーなどすすりながら友人達に窮状を告げるメールをしていたとのことです。

 しかしまぁ、佐賀空港だったのが唯一の救いですかね。佐賀空港では18時35分発のANA456便がその日の最後の飛行機で、しかもそれも小さいエアバスだから180名しか乗らない。ので、この非常事態にも関わらずターミナル内は混雑した感じもせず、のんびりとベンチに座ったり、大して混雑もしていない土産物売り場で明太子を物色したりできました。これが福岡空港や新千歳空港だったら大変だったことでしょう。というか、ベンチに座ってコーヒー飲みながら入口上にある大きいディスプレイで見ていたニュースに映し出される、羽田の出発ロビーの惨状は凄まじいものがありました。「これからあそこに帰るのか・・・」と思うとなかなかブルーになりましたが、案外到着ロビーは混乱はしていなかったとのことです。まぁ、さすがにいつもよりは混雑していましたが。

 そうそう、娘は無事に大きくなってきていました。目も大分パッチリ開くようになってきて、黒目の多い切れ長の目は私に似てきた気がします。生まれて二週間で結構顔の印象って変わるものだなぁと思いましたよ。そしてまだ新生児の平均にも達していない2600グラムそこそこの体でもの凄い大きな声で泣くんです。全身の力を振り絞って泣くんです。なかなかいいシャウトです。しかし、なかなか泣き止んでくれないときは本当に弱ります。それがまた妻の母親、娘の祖母が抱っこするとピタッと泣き止んだりするのです。さすが娘三人育て上げて、ウチの子で孫も三人目となるお義母さん、キャリアが違います。とりあえず抱き方や角度なんかをじっと研究してみるのですが、いやー、なかなかまだうまくはいきませんね(苦笑)。まぁ、これから先は長いですからね。

 しかし赤ちゃんは面白い。見ていると笑ったりぼーっとしたり、何かを不思議そうに見てみたり顔をくしゃっとして伸びをしてみたりと、色々な表情をしてくれて飽きません。大変なことも多いですが、やはりかわいいものですね。うん、かわいいものです。

2007年5月23日水曜日

靴底を減らして

 敢えて書かないようにしてきたことだが、たまには、まぁたまには、仕事について書く。以前にも引き合いに出した『モルト侍』で、非常に耳の痛い記事を読んだ。まずは、こちらを読んでほしい。あまりこういった公の場で込み入ったことを書くのはどうかと思うので、事情やら背景やら、そういった詳細は抜きにして最低限今の気持ちだけ書く。

 最近は靴底は相変わらずもの凄い勢いで減ってはいるが、結局どこにも辿り着けていない。一つの目的地への一行に帯同できず、もう一つの目的地へは自ら歩いていくことを拒否した私は、結果としてとぼとぼと当てのない道を、しかし業界特有のやるせないスピードで、まるで砂漠を流砂に流されながら歩くように進んでいる。靴底は減る。減るどころか砂漠の熱に溶かされすらする。しかし二つもの目的地に背を向けた私は、どこかに辿り着くという希望は持てないまま、すり減っていく靴底に焦燥感を覚えながら、それでも当てもなく歩き続けるしかない。一人でもとりあえずは歩いていけるだけの体力があったのが、私にとっての幸運であり同時に不幸だ。二つある目的地の、一つからはもうあまりに遠く離れ過ぎた。このまま、当てもなく靴底を減らしながら歩き続けるのにも限界というものはある。靴底が溶けてすり切れてなくなる前に、私は自分の目的地を見出せるのだろうか。それとも、とりあえず目に見える辿り着けそうな目的地を目指したりするのだろうか。それとも・・・?

2007年5月21日月曜日

ある日曜日

 よく晴れた初夏の風が気持ちいい5月の日曜日。休日の割には早起きをして、朝から買い物に出かけていた。娘の服と妻の服と、ついでに自分のシャツを一枚。昼食を取ってから日用品の買い出しもしてから家に着いたのは、まだ正午を過ぎたばかりの頃だった。たまには早く行動を起こす休日も悪くない。爽やかな日差しの下、時間はまだたっぷりとある。

 このまだ涼やかで心地よい日差しの午後に、ひたすらBGMにモーツァルトを聴いて過ごした。こんなにモーツァルトを聴いたのも久し振りだ。むしろ初めてかも知れない。『フィガロの結婚(抜粋):カール・ベーム指揮 ウィーンフィル』『グラン・パルティータ/アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク: カール・ベーム指揮 ベルリンフィル, ウィーンフィル』『シンフォニーNo.38, 40:ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア響』『シンフォニーNo.29, 25, 38:レーナード・バーンスタイン指揮 ウィーンフィル』。部屋の掃除をしながら、パスタを茹でながら、食事をしながら、よく聴いた。しかも『フィガロの結婚』は二度聴いた。この曲を聴いたこと自体久し振りだったが、やはりよい。この序曲は当時としては実にエキサイティングに聴こえたのではないだろうか。今聴いても実に華やかな魅力のある名曲だ。ベームの演奏も素晴らしい。モーツァルトに関しては困ったらベームを選んでおけば基本的に間違いない。非常に高いレベルでまとまった演奏を聴かせてくれる。

 そして今はエッシェンバッハの弾く『ピアノソナタ第11番 イ長調 K.331 トルコ行進曲付き』を聴いている。意外に思われるかもしれないが実はこのK.331、全楽章通じて非常に好きな曲なのだ。とはいえ明日は月曜日。トルコ行進曲まで聴いたら眠るとしよう。

 よく晴れた気持ちのいい初夏の日曜の午後に、モーツァルトはよく似合う。意外に今日は、マンゼやサヴァールといった指揮者のピリオド楽器ものの演奏は聴かなかった。ピリオド楽器ものは颯爽としててカッコいいのだけれど、ちょっとテンポが早すぎる。元気よくいきたいときはそれでいいのだけれど、ゆったりと時間を慈しみたい時にはちょっとばかりあくせくしすぎる。部屋で一人で音楽を聴いているときは、曲のテンポこそがまさに時間を区切るのだから。

2007年5月16日水曜日

命名の儀



命名 子供の名前が決まった。「芽生(めい)」と名付けることにした。親戚にサツキちゃんもいるので、二人で『となりのトトロ』ができる(笑)。"メイ"という響き自体は名付け選考の結構初期段階から候補に挙がっていたのだが、字は妻と私でいくつか意見が分かれていた。結局、先月に一日違いで妻の祖母と私の祖父が亡くなり、母方・父方両家ともに意気消沈している時に生まれてきた新しい命だからこそ、願いを込めて「生きる」という文字を使いたいといった妻の言葉に打たれて、「芽生」となった。何気に画数も結構いい。"メイ"という響きも古くさくもなく奇抜でもなく、シンプルでかわいらしくてなかなか気に入っている。早速今日、出生届を佐賀市役所に出してから飛行機で横浜に帰ってきた。

 余談ではあるが私の父に当たる芽生の祖父より、「プレゼントとしてプラトンの『ソクラテスの弁明』のワイド版を芽生ちゃんにあげよう」という提案をいただいた。もちろんありがたい。ありがたいが、・・・初孫の、しかも女の子への初めてのプレゼントとしては何処か間違っている気がする(笑)。ま、父らしいと言えば父らしい。

2007年5月14日月曜日

第一子誕生!

 去る5月10日、実家に帰省していた妻が待望の第一子を出産した。午後3時51分、2374グラムの女の子だった。超音波検査ではもう2700グラムくらいあるのではないかと予測されていたが、実際は割と体が小さかった。胎児の体重は頭の大きさで測定するのだが、どうやら、頭が結構大きかったらしい。ともあれ、母子ともに無事に元気に生まれてきてくれた。

 その知らせを最初に受けたときは、まさに寝入りばなというところだった。5月9日の夜から10日の深夜3時前までギターを弾いて、ラッセルの新譜『Art of the Guitar』をBGMに眠りにつこうとしていた。そして心地よい眠りに入って間もない時、部屋の電話が鳴った。一回目は、現実の音と夢が混じり合っていて何が何だかわからなかった。よくは覚えていないが、はっきりしない意識の中で極彩色の何かがモヤモヤと、しかし激しくグルグルと回っていたような、そんな気がする。電話の音が鳴り止んでからやっと目が覚めて、ぼーっと布団の上に座っていた。CDはまだ続いている。眠りについてからそれほどの時間は経っていないということだ。一度完全に完全に油断して寝ていたせいか、目が覚めても布団の上から動くことはできなかった。二回目の電話が鳴る。今度は受話器を取った。出産準備のため実家に帰っている妻からだった。陣痛が来たという連絡。これから産院に行くという。深夜3時半頃だった。電話を切って、眠ることもできずに布団の上に座っていた。ふと窓の外を見ると、ほんの少しだけ夜が白み始めている。ちょうどCDの最後の曲が鳴り始めていた。E.S.デ・ラ・マーサの『暁の鐘』。ぼんやりと薄められ始めた夜空に、ラッセルの弾くトレモロの旋律が小さな音量で流れる。「ああ、暁だよ、暁」と、障子越しにその景色を見ながら思ったのを覚えている。学生時代、先生から指導を受けた最後の曲『暁の鐘』。何となく、落ち着いたらもう一度弾いてみようかなと思った。

 その日は一日あるセミナーで講師をしなければならず、深夜4時からでは当然代役は立てられないので、結局朝から落ち着かないまま壇上に立っていた。昼休みに付き添ってくれている妻の両親と連絡を取りながら、ともあれ無事を祈る。夕方5時過ぎにセミナーが終わってPHSを確認すると、無事に生まれましたとのメールが入っていた。ほっとしたし、何より嬉しかった。

 夜に赤ちゃんの写真を送ってもらうと、まだ会ってもいないのにひどくテンションが上がって、何度も何度もその写真をじーっと見た。生まれてくるまでは正直なかなか実感がつかめないところもあったのだが、いざ生まれてみると自分でも驚くくらい嬉しい。そして何よりも子供がかわいい。親になったという実感や責任感よりも、まずは嬉しさとかわいさが大きく大きく先に立った。結局親になるということはやはり、社会的なことの前にまず個人的なものなのだろう。だから何よりもまず嬉しいしかわいい。責任感やら身の引き締まる思いとやらはその次に来る。40週と1日の妊娠生活を超えて、最後出産まで頑張ってくれた妻と、無事に元気に生まれてきてくれた娘に今はただ感謝のみだ。

 これから、どんな風に育っていくのだろうか。自分に用意して上げられるものはすべて用意してあげたとして、その先で人生を歩いていくのは結局この子自身だ。自分がこの子の人生に与える影響はやはり果てしなく大きいが、同時に限りなく小さい。「こんな子に育ってほしい」という思いはあるが、それはここでは書かないことにしよう。本当に大切な思いは、やはり声に出して直接伝えるのがいい。開かれて書かれた言葉は、風化する。まずは元気に、健康にと祈る。

2007年5月9日水曜日

もう少し

 色々と書きたいこともあるのですが、今は23時や24時に帰宅して一時間日記を書くよりも、その一時間をギターに充ててあげたいのです。だから、本格的な日記の復活まではまだあともう少し。なに、大丈夫です。今の手持ちのネタもありますが、やはりもう少ししたらどうしたって書くことになるであろう、大きな大きな出来事も待ち構えているのですから。だから、そう、復活までもう少しです。きっと。

2007年5月6日日曜日

実家のネコ






小春 実家といっても妻の実家だ。立春の日に羊羹屋からもらわれてきた小春という名前のネコがいる。元来ネコにはそれほどなつかれた経験がないのだが、何故かこのネコはとてもよくなついてくれて、スタスタと歩いてきて当然のように膝に座り、ひとしきり毛繕いをするとそのまま眠りこけてしまう。あまり長く眠っているとちょっと疲れたりもするのだが(苦笑)、家に帰るとネコはいないし、まぁかわいいのでよしとしている。いやー、ネコになつかれたのは初めてだ。



2007年5月1日火曜日

渡辺 範彦『幻のライヴ』

 昨日、久し振りに池袋まで繰り出して現代ギター社まで行ってきた。5/12に結婚式でギターを弾く予定があるので、そこに向けて弦を購入するのが一番の目的だったが、当然のようにいいCDや譜面があったら合わせて購入しようという思惑があった。果たして今回は、ロドリーゴの『はるかなるサラバンド』と『パストラル』が含まれる譜面と、以前より現代ギターがやけに推しているCD、『渡辺 範彦 幻のライヴ』というCDを買ってきた。村治 佳織の新譜『AMANDA』がずっと店内で流れていて、しかもそれがかなりよかったので買おうかどうか迷ったのだが、まぁ村治 佳織のCDはどこでも売ってるので、どうせならポイントがつくタワレコ辺りで買うことにして、今回は現代ギターから出ているCDの『渡辺 範彦 幻のライヴ』を所望したというわけだ。

 しかし聴いてみて驚いた。福田 進一が「14才の時に渡辺 範彦さんの演奏を聴かなければ、僕はギターを志さなかっただろう」と語っているように、今現在日本で大御所と呼ばれている世代の一回り上の世代のギタリスト。荘村 清志と同世代だ。日本人演奏家として初めてパリ国際ギターコンクールで審査員満場一致で優勝し、NHK教育の「ギターをひこう」で講師をしていたという。スタジオレコーディングでも録り直しなしでほとんど一発でO.K.が出たとか、レコーディングでもほとんどノー編集、ノーミスといった完璧な演奏が伝説となっているらしい。

 このCDは成蹊大学ギターソサエティが渡辺 範彦を客演として迎えた際のコンサートを、オープンリールで録音していた音源をCD化したものらしい。となれば、2004年に故人となってしまった氏の演奏は、当然後からの編集はないものと考えていいだろう。聴いてみて本当に驚いた。ノーミスの伝説は本当だった。コンサートを通じて、私がミスと断定できたのは一ヶ所しかない。まぁ少々テンポが走ったとか、そういう部分は目をつぶるとしてだ。これまで国内外の名だたるギタリストのコンサートを目にしてきたが、もしこのCDに本当に何の編集もないとするならば、ここまでコンサートで実際にノーミスで演奏をしているギタリストを私は他に知らない。ジョン・ウィリアムスも、ラッセルも、藤井 敬吾先生も、もう少し目につくミスは多かった。その一点だけを見ても、日本にこれだけのギタリストがいたのかと、今さらながらに驚かされる。

 しかし敢えて苦言を呈するなら、演奏会でノーミスということが取りざたされること自体から他の楽器と比べた際のクラシックギターのレベルの低さがうかがい知れる。ヴァイオリンやピアノ等、他の楽器ではミスはしないのが当たり前で、そこから先が問われるわけだ。もう2年半前になるだろうか、ダニエル・バレンボイムがJ.S.バッハの平均律クラヴィア曲集第2巻を全曲演奏するコンサートを聴きにいった。当然のように、バレンボイムはミスなどしなかった。少なくともあからさまに音が外れたり切れたりするような、という意味でだが。クラシックギターでは他の楽器のプロでは当たり前のそこの部分さえまだできていないのだなと、昔から実は思っている。だからこそ、10代からクラシックギターを始めた人間がプロを目指せる程度の薄い層しかまだ形成できていないわけだ。そこは希望でもあるのだが、同時に絶望でもある。ただし、セゴビアはコンサート中に音を一つ外しただけでも自分に対して恐ろしく激昂していたらしい。同時代のあらゆる一流の演奏家と交流を持っていた彼こそは、そういった音楽の厳しさをギターの世界で一番肌で感じていたのかもしれない。そういえば、彼の録音は1920年代から40年代の後から編集などという技術がない時代のものでも、当然のようにミスは見当たらない。

 話が逸れた。渡辺 範彦である。とにかく、ビックリした。これほど確かな技術力と音楽性を兼ね備えたギタリストがかつて日本にいたことに何よりも驚かされた。一曲目、フレスコバルディの『アリアと変奏』の輪郭のはっきりした素晴らしい演奏に、まず打ちのめされた。ヴィラ=ロボスの『エチュード一番』でも、一つ一つの音が立った上で全体の流れが作り出されているその迫力に圧倒された。正直、演奏スタイルはやはり今から見ると少々古い(例えばポンセのプレリュードやバッハのBWV1006aのプレリュードは今のギタリストならもっとサラッと軽快に弾くだろう)が、どんなに音数が多くとも一つ一つの音を明確に、正確無比に弾き出す圧倒的な技術力と、常に曲に対して余裕を持った表現力は現代の一流ギタリストと比べても見劣りしない。どころかむしろ輝いてすら見える。

 1969年にパリギター国際コンクールを制した渡辺 範彦は80年代後半にはすでに活動を縮小していったらしい。その短い活動期間の中で残された録音も決して多くはないそうだが(何しろ本人は他の人がどんなにいいと言っても「自分の演奏は人に聞いてもらう程のものではない」という異常なまでの謙虚さがあったらしい)、それにしてももっと知られていてもいいのではないか。そう考えると、クラシックギターの世界を一般に認知させようと日本で苦労をした福田 進一の功績の大きさがわかる。彼の前には、これほどのギタリストですら認知されなかったのだ。

 今聴くと、やはり彼の演奏には古くさい部分は多々感じられる。けれど、そのことが彼の確かな技術力と感性を傷つけることはない。今の時代にセゴビアの演奏を聴くことに意味があるというのなら、同様に渡辺 範彦の演奏を聴くことにも意味があるはずだ。我々日本でギターを弾く人間にとっては、少なくとも。


2007年4月29日日曜日

祖父の訃報

 大分経った。もう10日も前のことになる。朝、会社に出かける直前に、母から祖父が亡くなったとの連絡が入った。肺を患って17年にもなる祖父。一月前に入院した時から心の片隅で「もしや」とは思っていたものの、いざその報を受けた時には、どうしても実感がつかめずにいた。とりあえずその日一日で木金の仕事を引き継ぎ、休みをもらって、最終の新幹線で新潟に帰った。燕三条駅で迎えてくれた父の、いつになく重苦しい表情が妙に記憶に残っている。

 色々と、書こうかとも思った。ウチは3世代同居(一時期は4世代同居)で、小さい頃は結構おじいちゃん・おばあちゃんっ子だった私は思い出を書こうと思えば書き切れない。けれど、書くべきではないような気もした。それで、今まで書かずにいた。書くとしても、どう書こうか迷っていた。HPという場では、どうしてもある程度他人の目を意識せざるを得ない。この話をHPに書くことで、それを一つの美談のように仕上げようとしている自分がいないか。そう考えると、書くことができなくなった。ので、結局書かないことにした。この場では、このことに関してはこれで止める。とはいえ書くことか、あるいは弾くこと、歌うことでしか辛いことを乗り越えてこなかった私である。どこかで、書かなければきっと消化できはすまい。ので、どこかここではない、他人の目には触れない場所で書くことにする。記憶は変成する。風化するか、そうでなければ美化される。現在の心境は現在でしか書くことはできない。

 一点だけ。祖父は、私にとって非常に個人的な人だった。父からは明確に社会人としての顔も見えるが、祖父は純粋に個人的な存在であった。祖父は物心ついた頃から最後まで、あるいは今現時点でも、あくまで私の"おじいちゃん"だった。曾祖父・曾祖母の時はまだ小さかったこともあって正直実感が湧かなかったので、今回初めて身近で個人的な人を亡くしたように思う。寂しいとか、悲しいとか、辛いとか、そういった言葉ではどうもまだ実感がつかめない。ただ、もう動かない祖父の顔を見る度に涙が出た。火葬場に着いた際に、持病で手足が悪い祖母がもう遺影を持っているのが辛いからと、内孫の長男である私に遺影を持ってくれと言ってきた。その遺影が妙に重く感じられた。

 お通夜通しは祖父の8人の孫と叔母夫婦で行った。久し振りに、従兄弟達とゆっくりと語り合った。「せっかくおじいちゃんが集めてくれたんだから」と、葬儀の次の日に予定されている従兄弟の結婚式に、本来出席する予定ではなかった私を含む東京・京都の遠隔地に住む従兄弟も式だけ顔を出すことにした。もしかしたら、成人してから従兄弟達とこんなにじっくりと話をしたのは初めてだったかもしれない。普段はあまり意識していないものだが、こういう時には小さい頃から親しい親戚達のありがたみが身に染みた。

 夏に会った時、祖父は「そういえばしばらく歩とも将棋を指してないな」と言っていた。申し訳ないけれど、もうしばらく待ってください。いつか俺がそちらに行った時、ゆっくりと指しましょう。今なら飛車・角を抜いてもらわなくてもいい勝負ができるでしょう。昔は飛車・角を抜いたおじいちゃんと数時間に及ぶ対局をして、「名人戦らな」と笑っていたものだけれど。

2007年4月16日月曜日

初挑戦!フットサル

 昨日のことになりますが、初めてフットサルなるものをやってきました。ウチの会社と普段付き合いのある派遣会社とで、若い人間が集まってちょっと交流試合のようなものをやろうということで、お互い10人ずつ集めてフットサルをやったわけです。高校卒業以来本格的な運動とは縁のない私も声をかけられ、「まぁたまには運動も悪くないか」と参加を承諾したわけです。

 運動を(一応)やっていた中学・高校時代でさえサッカーはやっていなかった私です。足技は不得手なことこの上ありません。正直、自信のある分野ではまったくなかったのですが、まぁでも久し振りに運動してみたらこれが結構気持ちよかったわけです。走ってみたら自分で思った以上に意外に走れたので、調子に乗って走り過ぎてしまいました(苦笑)。最後の方はシュートしようと右足を振りかぶったら左足に力が入らなくて膝が折れるという体たらく。さすがに運動不足は否めません。少し運動しようかなと、ちょっと本気で考えました。

 んー、でも、青空の下で汗を流すというのもやはり気持ちいいものです。最近は仕事で変な汗流すことはあっても、気持ちよく爽やかな汗というのはあまり流してませんでしたからねー・・・。フットサルも意外に悪くないと、そう思いましたとさ。

 ちなみに、昨日は家に着くなり服だけ着替えてシャワーも浴びずに崩れるように眠りに落ち、今日は起きるなり足腰を襲う激痛に苛まれながら、反動で実に無気力な一日を送っていたとのことです。どっとはらい。

2007年4月8日日曜日

ソラニン

 『ソラニン』という漫画を読んだ。結構前から日吉東急内の天一書房で平積みにされてフューチャーされていて、どんな作品なのかもどんな作者なのかもよくわからなかったが、河岸の風景写真の中に作中のキャラがぽつんと配置されたジャケットと、"ソラニン"というタイトルがずっと気になっていた。ソラニン。ジャガイモの芽に多く含まれる神経伝達物質阻害系のアルカロイド。まあ、端的に言えば毒だ。そんなものを作品のタイトルに持ってくるとはなかなかいいセンスをしている。何となく漫画が読みたい気分で、何か知らない作品を漁ってみようと思って本屋に行って、その他いくつか選択肢はあったのだが、全2巻完結という手軽さもあり今回はこの『ソラニン』を読んでみることにした。そしたら、これがまた相当な当たりだった。

 この作品が描いているのは一言で言ってしまえば"イマドキの若者像"だ。主人公の芽衣子は社会人2年目のOL。付き合って6年目、同棲して1年が経つ彼氏の種田はバイトをしながらバンドを続けるも、そのバンドにも完全に本気にはなれていない。"仕事が嫌というよりは、疲弊してくたびれていく自分が嫌だった"芽衣子が、「人生のレールなんて外れて自由になっちゃえばいいじゃん」という黒い囁きと種田の言葉をきっかけに会社を辞めた時から、自由と現実の闘いが始まる。貯蓄残高という期限付きの自由。おそらく人生最後のモラトリアム。芽衣子に種田、そしてバンドの仲間達はそれぞれに自由と現実との境界線を眺めつつ、自由であること以外平凡な生活を、将来への不安を抱きながら過ごして行くことになる。

 この漫画のステキなところは、そんな青臭いテーマを扱いつつも、決して浮ついた雰囲気は感じさせずに作品の空気をしっとりと落ち着かせているところだ。若者が侵された微熱を微熱として扱うのではなく、そこをまた一歩外から冷静に見つめる繊細な心理描写と、美しく描かれる背景達がそれを可能にしているのだろう。そして随所に現れるユーモアのセンスもいい。何カ所か、結構笑った。自分と社会との折り合いを見つけようとする若者達の葛藤という、普遍的だが陳腐にもなりかねないテーマを実にすっきりと読ませてくれる。そしてこの『ソラニン』に出てくる人物達は皆キャラが立っている。それぞれがそれぞれの思いを抱えていて、読み進める程に皆が好きになってくる。芽衣子も、種田も、ビリーも、加藤も、皆愛着が持てる。読んでいてキャラ自体をこんなに好きになることは珍しい。何となく「コイツラとなら仲良くなれるんだろうな」とか思ってしまう。それがまたこの作品の魅力をいっそう引き立てている。

 ネタバレになるので控えめに書くが、全2巻完結のこの作品は、1巻と2巻のつなぎ目で非常に重大な事件が起こり、その前後で作品自体の様相がガラッと変わる。作中の人物達が向き合わなければいけない対象が変わる。過去を引き継ぐべく、未来へ進むべく、決意とともに芽衣子は自分でギターを持つ。それまでほとんど弾いたことがないにも関わらず。『ソラニン』というのは作中で種田が作詞・作曲した曲のタイトルだ。前に進もうとするその芽衣子の心境に呼応するように、その歌詞の解釈は作中で変わっていく。2巻のクライマックスで芽衣子はギターを持ち、歌う。この『ソラニン』を。「この曲が終わったら、またいつもの生活が始まるんだ」と思いながら。余韻を残しながら引いていく、若さという微熱の終わりが重なるそのシーンは、まるで真夏の花火のように、美しく、そして儚い。その直後に入る回想の挿話も含めて、そう、ゆっくりと消えていく大きな大輪の花火を見ているような気分になった。遠くに響く残響と余韻を残して、大輪の花火も消える。祭りは、終わる。微熱も、引いていく。儚くとも、それを一つの終わりとして、それを新たな始まりにしようという芽衣子の、そしてその他のメンバーの、ある種の決意が胸を打つ。

 もし、自分が大学の時にクラシックギターを選ばずにバンドの方に進んでいたら、自分はどのような大学生活を、そしてその後の人生を送っていただろう?そんなことはあまり考えなかったけれど、この『ソラニン』を読んでふとそんなことを思った。それ程、読んでいくうちに作品に、作中の人物達に心が引かれていく。それ程、すべてが身近に感じられる空気がある。変に浮世離れしたところがないこの漫画は、映画でもいい表現ができる作品だろうなと思った。映像イメージが実に美しい。漫画や小説に対して「映画化してもよさそうだ」とはホントに滅多に思わないのだけれど。調べてみたらつい先日映画化が決定したらしい。実写かアニメかはまだ決まってないそうだが、是非、実写でやってほしい。キャスティング次第では、とてもいい映画になるだろう。詳細はまだわからないが、楽しみだ。


2007年4月7日土曜日

深夜のFair Warning

 仕事が終わって家に帰り、晩飯も食べて風呂にも入って後はもう寝るだけになってから、久し振りにHR/HM系のCDが聴きたくなって、いくつか手に取ってかけてみた。もう深夜だ。ボリュームはかなり絞っている。主にBon JoviとFair Warning。前者は高校時代に、後者は浪人から大学2回生くらいまで非常にヘヴィローテーションでかけていた曲達だ。たまに聴いてみるとやはりカッコいい。久し振りに聴いた曲でも、好きだった曲達は意外な程今でも歌詞を覚えている。口の中でつぶやくようにして歌いながら(何しろ皆さんご存知の通り、私が本気で歌ったらえらいことになるので・・・)、体をリズムに合わせて動かしながら、それでも歌詞に耳をすませて聴いていた。歌詞。最近は歌のある曲でも声も純粋に楽器の一つとして聴いてしまい歌詞を意識しなくなっているので、歌詞なんて聴いたのは実に久し振りだ。

 本当ならバーボンのロックでも飲みながら、といきたかったのだが、意外にもウチにはあれだけスコッチがあるくせにバーボンが一本もないので、とりあえずパンチの効いたアイラのモルトを飲みながら聴いている。道に迷っている時や、前に進むパワーがほしい時には、ロックがいい。希望は湧かないかもしれないが、少し顔を上げられる。ロックというのは起源はともあれその本質は、反骨精神でもなければ気持ちよさでもない。それは道を探す精神だと思う。それは、迷いの中の音楽だと思う。

2007年4月2日月曜日

桜は嵐に負けず






窓から見える桜 今年も桜の季節がやってきた。やってきたが、今年の桜は例年以上に短命そうだ(苦笑)。昨日になって家の周りを歩いていたら、ふと桜が満開に近づいていることに気付き、「ああ、そうか、春か・・・」と感慨に耽ろうとしたのだが、何かおかしい。何か。そう、昨日は日中晴れてはいたものの非常に風が強く、まだ八分咲きの桜が満開になる前に咲いた傍から強風で吹き飛ばされて、あっという間に桜吹雪になってしまっているのだ。満開になる前に散ってしまったのでは、いつまでたっても満開の桜にはお目にかかれそうにない。加えて夜の台風のような強風と豪雨。窓ガラスが割れるんじゃないかと思うくらいに春の嵐が荒れ狂っているのを見て、「ああ、こりゃ今年の桜は全滅だ・・・」と思ったものだ。




 ところが朝、窓を開けてみるとどっこい結構きれいに咲いている。さすがに部分的に吹き飛ばされて葉が見え隠れしてはいるものの、なかなかどうして、充分桜だ。日本的儚さの象徴として扱われることも多い桜だが、意外に強烈な嵐にも負けないような芯の強さを持っている。まだ散る時期ではない桜は、実はそう簡単に雨風に吹き飛ばされたりはしないものなのだなと、変に感心した。実に見事に日本的な美学を体現している。満開の桜の、淡く控えめな色で華やかに空までも染め上げる静かに存在感のある美しさ。散り行く際に風に吹かれて宙を舞い、優雅に余韻を引きつつも、それでも「まだもう少し見れたらいいのに」と思っている間にすっと身を引いて消えて行くあの潔さ。そして散り行くべきではない時には凶暴な春の嵐にすら負けずに花を咲かせる凛とした芯の強さ。大したものだ。この木が日本人に愛されるのは単に花が美しいからだけではないのだなと改めて感じた。

 とりあえず写真はウチの窓から見える一番近い桜の木。この辺りには方々に桜が咲いていて、丘を登りきって一番高い場所に位置するウチのマンションの窓からは眼下に住宅の間を縫うように折り重なって咲いている桜のパノラマが広がっていてなかなかきれいだ。去年ここの鍵を受け取った時にちょうど桜が咲いていて、なかなかこの景色は気に入った。また、来年も美しく咲いてくれることを祈る。

2007年4月1日日曜日

一年の終わり

 随分と長い間更新をサボってしまいました。おかげで2007年3月度は過去最低の月当り記事数というあまり嬉しくない記録を更新してしまうことが決定的です(泣)。年度末が多忙なのは毎度のことですが、今回はそれに加えて週末も10日-11日は仕事で札幌、17日-19日はプライベートで佐賀、24日-25日は同じくプライベートで新潟、とどめとばかりに新潟から帰ってきた明けの26日には仕事で日帰り名古屋と、週末も日本各地を北へ南へ、東へ西へと飛び回っていたので、土日ですら家でMacに向き合う時間がほとんどなかったのです・・・。いやー、言い訳ですが、疲れました(苦笑)。

 3月13日、ウチの会社があるニュースリリースを出しました。それはウチと住商情報システム株式会社が組んで、ジョイントベンチャーを立ち上げるというものです。この会社は現在ウチでプロダクトとして販売しているX-pointやX-Webformといった製品の企画・開発・販売を扱っている部門、X-point事業部を切り出して分社化するという形を取っており、X-pointの開発最初期から関わり、今もX-point事業部に所属している私もこの新会社に移ることになります。とはいえ当面は場所も変わりませんし(フロア内で多少の席移動はありますが)、業務自体もこれまでと比べて突然大きく変わるわけではありません。新会社設立ということで契約やら原価管理辺りの細かい諸事は最初は戸惑うこともあるでしょうが、まぁ大勢に影響はないでしょう。何はともあれ名目的には、私の今の会社での仕事は2007年3月30日を持って終わりということになるわけです。新卒で入社して丸6年。とりあえずお疲れさまです。4月2日からはあまり代わり映えのしない(苦笑)新会社。実務的な面での変化には乏しいですが、特に営業や上層部を中心に「やってやろう」という気概が妙に溢れています。事業部から会社へと変わったことで、業務の内容自体が変わらなかったとしてもそれにつきまとう責任はより一層大きくなります。心機一転、と言い聞かせながら、また新しい一年に向き合っていきましょう。

今日の一言:重要なのは体制ではない。文化なのだよ。

2007年3月17日土曜日

北へ南へ

 明日は妻を実家に送りに佐賀に行く。先週は札幌、今週は佐賀。週末日本を北へ南へ。我ながらよく動くものだ(苦笑)。

2007年3月5日月曜日

月とコスモクロック

月とコスモクロック 今日は久し振りに元町~みなとみらいへ出かけてきました。明日が妻の誕生日であることと、そろそろその妻は実家に強制送還される身なので、その前に横浜の休日を堪能しておこうという寸法です。何しろ実家から妻が再びこちらに帰ってくる時には家族が一人増えているわけで、しばらくはゆっくりと横浜を散策することもできないでしょう。ので、まぁ体は重いにしろゆっくりとはできる今のうちに見納めておこうというわけです。幸い今日は3月としては例外的に暖かく、気持ちいい青空も広がっていて、でかけるにはよい天気でした。

 電車で元町・中華街に繰り出し、まずは春並みの陽気の下、山下公園を散歩。たくさんの家族連れと犬連れに混じりながら、周りをベイブリッジとみなとみらいの高層ビル群に囲まれた海を眺めます。休日の山下公園はのんびりしていて、人は多いけれども割にスペースはあるのと、今日は特に風が気持ちよかったので、まったく狭苦しさを感じることもなく、ゆっくりスッキリと散歩することができました。柔らかい陽の光の中、潮風とカモメの鳴き声が心地よく感じられます。
 その後有名なパンケーキの店らしいモトヤで遅めのランチを取り、一路横浜へ。カバンを探してベイクォーターに行ってみるも、お洒落ではあるがあまり面白そうな店がなかったので(最近増えてる20代-30代のお金のある独身カップル向けと見ました)、今度はそごう、ジョイナス、高島屋とハシゴ。そして東急ハンズまで行くも全て外れ(苦笑)。この時点で夕方19時過ぎです。最後にクイーンズ・スクウェアに戻ってカバン探しを続行。しかし20時で閉店の段階でクイーンズ・イーストを閉め出され、本日のカバン探しは終了となりました。やれやれ・・・。
 そしてクイーンズのベランダ通路に出て一休みしようとすると、よく晴れた空に満月がポカリとコスモクロックの上に浮かんでいるのに気が付きました。光の扇風機のようにきらびやかに色を変えるコスモクロックの上に、目立たずに静かに佇んでいる満月。みなとみらいの街の灯の仲までは、さすがに満月の光も届きません。風情があるような、何だか味気ないような、不思議な都会の夜の満月。思わず一枚撮った写真がこれです。コスモクロックがきれいに光ってくれるまで、結構待ちました(苦笑)。その後クイーンズ・スクウェアの店で晩ご飯。たまたまコスモクロック側の窓際の席が取れたので、みなとみらいの夜景を楽しみながら、のんびりと横浜の夜を楽しんだとのことです。
 さてさて、次に二人でこんなにのんびりと横浜を楽しめるのは一体いつになるのでしょうか。

2007年3月4日日曜日

夜は短し歩けよ乙女

 表題の通り、『夜は短し歩けよ乙女』という小説を読んだ。この本、元々は久し振りのジャケ買いというか衝動買いというか、まったく予定外にポンと買った本だ。1-2月に仕事と弟の結婚式で計4回ほど大阪・京都に出かけた。その際、京都駅の文教堂でも梅田の紀伊国屋でもたくさん平積みされていたのがこの本だった。とりあえずはそのやや古風で珍妙なタイトルと、同じくやや古風な昭和チックな表紙が目に止まったわけだ。少し手に持ってみるも、京都や大阪では買わずに一旦そのまま帰ってきた。


 が、いざ買おうと思って探してみると、東京だとこの本はなかなか売っているところすらみかけない。今日初めてMosaic港北のBook1stで売っているのを見かけたが、それまで東京・横浜ではひたすらみかけなかった。結局他の本を買う用事と一緒にAmazonで買った。やけに地域差のある本だなと思ったが、恐らくそれはこの本の舞台設定に由来しているのだろう。そう、この本の舞台は京都だ。

 これは非常に可愛らしい恋愛小説だ。少しばかりの浮世離れと、意識的な時代倒錯を交えて、独特の文体で不思議にコミカルにテンポよく、恋愛小説特有の甘ったるさや気恥ずかしさを一切感じる間もなく読み切れる、実に爽快な希代の恋愛小説だ。以下にそのヘンテコな文体の一例を少し引用してみよう。

よろしいですか。女たるもの、のべつまくなし鉄拳をふるってはいけません。けれどもこの広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、そうでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。

彼女がその本を追い求めて古本市をさまよっていたことを聞いた刹那、「千載一遇の好機がついに訪れた」と直感した。今ここに一発逆転の希望を得て、ついにふたたび起動する私のロマンチック・エンジン。彼女と同じ一冊に手を伸ばそうなどという幼稚な企みは、今となってはちゃんちゃらおかしい。そんなバタフライ効果なみに迂遠な恋愛プロジェクトは、その辺の恋する中学生にくれてやろう。

 ・・・おかしな文だ。少なくとも、いわゆる普通の恋愛小説っぽい文ではない。この昭和っぽい錯誤を感じさせる文体の中にテンポよく小気味よく、珍妙なキーワード達が並べられてつなげられて行く。おともだちパンチ、詭弁論部、偽電気ブラン、李白、古本の神、韋駄天コタツ、パンツ総番長、象の尻、偏屈王、風雲偏屈城・・・。まだまだある。ハッキリ言ってこれだけでは意味不明だ(笑)。とても恋愛小説とは思えない。ところが、これが面白い。サークルの後輩に一目惚れした先輩が、彼女の目に少しでもとまろう、彼女の気を引こうとして繰り返す小気味いいドタバタ劇。春の夜の先斗町と百鬼夜行のような一晩の出来事を、夏の下鴨古本市とそこに渦巻く運命の連鎖を、秋の学園祭を巻き込む壮大な『偏屈王』の騒動を、冬至に猛威を振るう風邪の神様との闘いを、理屈っぽく妄想屋でネガティブな先輩と、明るくプラス思考でとぼけた彼女が、かみ合いすれ違い駆け抜けて行く。実に楽しい小説だ。なんとなく、新潟のとある仲間が読んだらどんな感想を持つかなと思ってもみた。ま、アイツは「この日本語は読む気にならん」とかその他の理由でバッサリ切って捨てそうだが(笑)。

 この小説は、実は技巧的にも単純ながらよくできている。出てきたキーワードはきれいに全部つながって行き、そして実に大量に、例外的に大量にキーワードが乱発されるにも関わらず、漏れもなければとって付けたように見えることもなく、非常にまとまりよく構成されて行く。スケールは小さいながらもここまでちゃんと構成がしっかりした小説は現代日本の小説家の中では久し振りに読んだ。流れ重視で全体の構成がアンバランスになっている小説が多い昨今、この作品は気持ちいい。

 甘酸っぱいが甘ったるくなく、ロマンチックだが気恥ずかしくなく、珍妙で滑稽で、単純だが巧妙で、ひよこ豆のように可愛らしい恋愛小説。本屋大賞にノミネートされたのもうなずける。久し振りに手放しに楽しい小説を読んだ。


2007年2月28日水曜日

無題

 書く気が起きないなら起きないなりに、まぁ何となく書いてみようとMacに向かうも、やはり書く気は起こらない。試しに2年程前の日記を見てみると、今より結構頑張っている。ふむ、・・・とは思うわけだ。

2007年2月25日日曜日

微熱

 風邪をひきました。今シーズンはここまで割と順調に来ていたのですが・・・。まだガタガタ騒ぐ程ひどいわけじゃありませんが、今日は風も冷たくて寒いので、カタカタと長い記事を書くのは控えてお休みさせていただきます。う~ん、やっぱ寒気が・・・。

2007年2月21日水曜日

続・コメントスパム対策・2

 もう一度、ここを読んでくれているほとんどの皆様にはつまらない話題を書く。日曜日に作成したコメントスパム・フィルターはなかなか上々だ。日曜に作成したバージョンでは大分スパムを潰せたものの、まだすり抜けてくるものも結構あった。今朝それにちょっとだけ手を加えたバージョンは、今のところスパムの侵入を許してはいない。Movable Typeのログを見ると、スパムフィルターに搦めとられたスパムの屍が累々と積み上がっている。・・・素晴らしい。

2007年2月19日月曜日

コメントスパム対策・2

 最近コメントスパムが異常に増えてきてちょっとムカつくくらいになってきたので、以前から入れているコメントスパム対策プラグインを参考に、もう少しばかり制限をきつめにかけたプラグインを作ってみました。最初はJavaScriptによるクライアント側の入力制限だけで簡易的にかわせばいいかなと思っていたのですが、様子を見ているとどうやら最近のコメントスパムは律儀に画面から手入力して投稿しているわけではなく、機械的にPOSTでHTTPリクエストを送りつけてくるようなので、仕方がないのでサーバーサイドで弾くためにMovable Typeのプラグインを作成したというわけです。Movable TypeのプラグインはPerlで書かなければならず、仕事はもちろん個人的にもPerlなんぞロクに書いたことはないわけですが、まぁそこは3分も調べれば今回やりたい程度の基礎構文はO.K.だし、正規表現はJava等お得意の言語で使い慣れているので、その経験を基にサクッと作ってしまいました。といってもこれまでのスパムブロックのロジックに、実に単純な排除ルールを一つ足しただけですけど。トラックバックの方は当面放置です。まぁ、これで少しはマシになるといいのですが・・・。

2007年2月16日金曜日

地元のトリビア

 iPodの背面を覆う鏡面ステンレスのパーツ。あれを作っているのは、「昔から金属洋食器などの金属加工が盛んだった新潟県燕市の中小企業」らしい。びっくりだ。燕かよ!新潟以外の人に説明すると、我が実家から200mほど行って川を渡るともう燕市だ。そして、通っていた高校があった三条市とは隣同士であり昔から敵同士だ(苦笑)。新潟大合併後はどうなったかイマイチ記憶が曖昧だけれど。もしかして今、燕はiPod景気で活気付いたりしているんだろうか?

2007年2月12日月曜日

弟の結婚式

 昨年7月に自分が結婚式を挙げたばかりですが、今日は大阪にて弟の結婚式が行なわれました。お相手は弟が以前勤めていた会社で知り合った方で、非常に明るくて活発で行動的な、いい意味で大阪人らしい女性です。ウチの両親も言ってますし本人達も認めていますが、実に夫婦で正確がよく似ています。二人とも仕事が忙しいですが、きっとその中でも明るい家庭を築いていってくれるのではないでしょうか。

 まぁ式の次第は友人達の出し物の歌あり、二人の出会いのDVDありと、予定より一時間半も押すほど色々なイベントがあったわけですが、とりあえず思ったのはアイツはアイツでいい仲間達に囲まれてここまでやってきたんだなということ。結婚式というのはある意味でそれまでの人のつながりの総まとめです。そこを見れば二人がどんな人達とどんな付き合いをしてきたかが、まぁ何となくは大体わかる。仕事関係の人も多い披露宴でしたが、若く、明るく前向きな人達ばかりのあの席は、堅苦しさもない暖かい空気を醸していました。そしてその人達が一様にまた、新郎・新婦を式場での社交辞令ではなく、本当に公私とも大切に思っている。そんなことが伝わってきました。だから皆が色々なことをやろうとして、結果イベントを詰め込みすぎになって時間が押してしまったのでしょう。ま、仕方ありますまい(笑)。

 二次会が終わって帰る前、新婦の弟さんとその婚約者さんに挨拶だけしてから駅に戻ろうと思っていた私は会場の外で立って待っていました。そうすると、弟の会社に勤め始めたばかりだという人と、これから勤めることになったという若い二人が「お兄さんですよね?」と話しかけてきます。どうやら心から弟の仕事っぷりに感心しているようで、その熱い語りっぷりは聞いていて私まで嬉しくなりました。下の人間からの心からの賛辞は、上の人間がそれをやるのと違って、現場で肌で体感した上でないと出てきません。だから逆に重みがあります。実践を由来とした信頼があります。話を聞きながら、「うん、大したもんだ」と思ったものです。両親はいまだに弟のことを非常に心配しますが(何しろ小さい頃のアイツは大変だったので・・・)、まぁそれは親の仕事としていいとして、私としてはいつの間にか頼れる弟ができていたのだなということを実感する一日でした。まぁ頼れるからといって実際に頼るかどうかは別問題なわけですが(笑)。

 お互いにお互いを守り、助けていこうという強い思いを持つ二人。あの二人のことなので相手のことだけを考えて自分のことは考えないなんてこともないのでしょうし、当然自分のことも考えなきゃいけないわけですが、でもそれ以上に最後は相手のことを考えることができる優しい二人だと思います。どうぞお幸せに。そして、これからも長いお付き合いになりますがよろしくお願いします。

2007年2月8日木曜日

古今341

昨日といひ今日とくらしてあすか川流れてはやき月日なりけり

2007年2月5日月曜日

新しい曲を

 久し振りに本格的に新規の曲を弾くことになりました。例によって友人の結婚式で弾くのが目的です。今回は本人達立ち会いのもと、ウチで選曲会議が行われ、J.S.Bachのコラール『目覚めよ、と呼ぶ声あり』(D.ラッセル編)を式の入場の際に弾くということで落ち着きました。最近はちょこちょこと新しい曲を見てみることはあっても、なかなか集中して一曲を最後まで仕上げることはなかったので、人前で弾くことを前提に新曲に取りかかるのは実に久し振りです。

 とりあえずまずはこの曲、そもそも楽譜を持っていなかったのでそれを注文。ラッセルの編曲版はドーベルマン社から『2つのコラール前奏曲』というタイトルで『主よ、人の望みの喜びよ』とセットになって出版されています。最初は現代ギター社で探したのですが、品切れ中なのか(以前は確かあったと思うのですが)なかったので今回はFANAにて購入。ついでにCDと弦も買って、後は届くのを待つばかりです。

 しかしこの曲、音を聴いている限りでは何気に結構難しそうなんですよね。少なくとも端で聴いているほど楽な曲でないのは確か。う~ん、まぁ少しずつリハビリしながら頑張りますか。まだ3ヶ月あることですし。


2007年1月28日日曜日

賑やかで、寂しい夢 -時間と存在の輪廻-

 色々と、たくさんの人が出てくる夢を見ました。職場の人間、高校の部活の先輩達や同級生、中学の仲間・・・、それぞれ時代毎にグループになって、会社だったりカラオケに向かうエレベーターだったり飲み屋だったりで、実際に会ったとしても同じことを話しそうな内容を、ずっと笑いながらしゃべっていました。何故か大学時代だけは出て来ませんでした。職場の人とは実に実際的な打ち合わせをして、「よし、これで段取りは済んだな」と満足していたものです(苦笑)。とにかくたくさんの人達が出てきて、ここ数年一度も思い出していないような人まで出てきて、非常に賑やかな夢でした。

 ただし、寂しい夢でもありました。時代毎にグルーピングされた様々な人達と笑顔で話し、歌い、飲む。その後に、その場を離れる際は何故か必ず私は一人になっていました。一人になって少し歩き、気付くとまた違うグループの人達に囲まれている。そしてまた一頻り騒いで、別れて、一人になって・・・、とそれを繰り返す夢でした。そうすると不思議なもので、祭りの楽しさよりもその後の寂しさの方が後を引いて残ります。総じて、寂しい印象の夢でした。非常に、音響的には騒々しい夢ではありましたが、心情的には静かすぎるくらいに静かな夢でした。

 目が覚めた時、周囲の静けさに少し驚きました。もう朝の7時半くらいで障子越しの光は既に白く明るいのですが、人の話す声も大きな物音も聞こえない。妻の寝息だけがスースーと聞こえてくる。その世界が妙に静かに思えました。逆に不自然な静寂に感じました。それほど、賑やかな夢だったのです。

 そしてその現実の静寂の中にしばらく身を置いていると、今度は音楽が聞きたくなってきました。曲は藤井敬吾先生の『スウェーデン民謡<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』。マンドリンとギターの二重奏です。北欧らしい雪が降る予感を感じさせる澄んだ冷たい空気の中に、どこか諦観や達観を含んだ哀愁に満ちた旋律が非常に美しい『麗しき薔薇を知る者』をテーマに、その主題を1パターンずつ繰り返す度に変奏が展開されて行くという、非常にわかりやすい形式の変奏曲です。その意味ではパガニーニのカプリース24番なんかと似た進み方をします。そして変奏曲と言えど、自由にどこまでも発想を拡げていくものではなく、あくまで元の旋律のイメージを崩さずに、最初に提示された旋律を重ねながら聴くことができる程度に展開が抑制されたその曲は、パッサカリアやシャコンヌのように1パターンが終わる度にまた最初に戻って繰り返しているような、そんな感覚を聴く者に与えます。

 そういった曲の形式は、いつも私に次のようなことを連想させます。変奏され、表に出てくる形は変わったとしても、根本は変わらずに、間に何も挟まずに繰り返される日々。今過ごしている時間、期間は、過去のある時間、期間の変奏であり、結局その頃と根本は何も変わっておらず、そしてこれからも変わることはないだろうという、日常の輪廻。自分という存在が自分である限り繰り返す、ある程度のスパンで見た場合の根本的な時間経過の中での在り方。いつの時代も、結局はその在り方の変奏でしかない。では、その在り方によってもたらされた過去の結末が今わかるのであれば、結局未来も同じ結末になるのではないかという、そんな安堵と不安。以前にも書きました。こういったことを思い起こさせてくれるから、私はシャコンヌやパッサカリアという形式が好きなのです。そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』も同じです。それは時間に対する存在の輪廻だと、私は思うのです。

 今朝の夢は、実に端的な形でそれを映像化したものでした。だからこそ寝覚めてからあの曲が聴きたくなったのでしょう。時代毎の仲間達と話して、また次の時代へ、次の時代へ・・・、と切り替わって行くうちに、やはり何も変わっていないなということに気付きます。時代は、ただ変奏し、繰り返されているに過ぎない。その思いがあるからこそ、夢の中で最後私は一人になって、そしてその寂しさが後を引いて行くのかもしれません。シャコンヌやパッサカリアや、そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』は、結局最後まで主題を繰り返し続けます。だからこその音楽達です。では、私は、どうなのでしょうか?


2007年1月25日木曜日

たまご

やわらかい黄身を守るために
たまごのからはある
いずれ黄身はひよこになって
からをやぶって外に出て行く
黄身はやわらかいまま
からの中でくさっていくためでなく
ひよこになって外を歩くために黄身でいる
ひよこもずいぶん頼りないけど
それでも外を見て感じて、歩けるのだよ
からの中の黄身よ
今はまだたまごでいい
やがてひよことして
からを中からやぶれるように

2007年1月23日火曜日

両親学級

 年が明けてから、1月は仕事が忙しいのが目に見えているので書けるうちに書いておこうと思い序盤頑張っていたこの日記も、いきなり10日間も飛ばしてしまいました(苦笑)。いやー、なかなか、ハードでした・・・。まぁとりあえず今月一杯はそのハードさは続き、来月上旬までは出張ラッシュにその余韻が残るわけですが、今日はとりあえず溜まりに溜まった代休を取得、一日お休みをいただいて港北区が主催する両親学級なるものに行ってきました。ついでに、これまで忙しくて行けなかった免許の住所変更にも行ってきました。引っ越したの四月下旬なのにやっとです・・・。

 横浜市港北区が初めての妊娠・出産の妊婦さんを対象に行っているこの講座は、区が主催するだけあって無料で色々教えてもらえるらしいので、それは是非いってらっしゃいということで妻が通っているわけです。といっても週に一回で計四回。そんなに数が多いわけではないですが。その中で今日だけは夫同伴が推奨される、赤ちゃんの入浴のさせ方講座だったというわけです。赤ちゃんの体の洗い方やら服の着せ方のコツやら、まぁなかなか勉強になりました。ウチの場合近くに最大の先生足り得る親がいないわけで、こういうサービスを利用して事前に学んでおけるならそれにこしたことはないわけです。

 いやー、しかし大変そうですね。特に生まれてから二ヶ月は起きる・泣く・飲む・寝るを昼夜問わず二時間ごとに繰り返すと言いますからね。夜も眠れないそうで、ちょっと前にお子さんが生まれた同じ部署の人もその時期は寝不足で大変そうでした。そんな話を聞く度に戦慄する今日この頃です。それでも自分の子どもなら頑張れるのでしょうか。まぁ、頑張るしかないんでしょうが(苦笑)。色々凄いことにはなるんでしょうが、慣れない日々を二人で頑張っていくしかないのだろうなと、こういうイベントがある度に少しずつ、本当に少しずつ実感と覚悟が湧いてくるわけです。まだ、それが力強い確信というほどでは正直ないのですけれど。まぁ、少しずつ・・・。

 余談ですが代休届を総務に提出した際、今月は8日と13日に休日出勤しているので1/8分代休と書いて出したら、「2005年8月の分から代休が残っているので古い方から消化してください」と差し戻されてきました。2005年って、・・・覚えてねーよ!っつーか使えるんだ、2005年8月分の振替休・・・。というわけで本日は2005年8月18日分の代休です。あといくつ代休残ってるんだろう?有給は34日残ってるのはわかってるんだけど・・・。


2007年1月13日土曜日

無題

 私の話がつまらないのはかまわない。なら、その面白い話を私にも聞かせてくれ。

2007年1月11日木曜日

パストラル

 ロドリーゴの『祈祷と舞踏』が聴きたくて、久し振りに『パストラル』をかけた。何となく、そういった鬼気迫る緊張感のある曲が聴きたかったのだ。ゆっくりとモルトを飲みながら、他に何をするでもなく聴く。音楽は昔と変わらないイメージを心に浮かばせる。闇の中で何かに追い立てられるかのように焦燥しながら、一心不乱に踊るフラメンコの踊り手のイメージ。我ながらこの曲のタイトルとスペインの作曲家という出自を考えるとステレオタイプ的なイメージだと思ってしまうが、まぁでもそんな映像が実際に浮かんでくるのだから仕方ない。相変わらず、そのような視覚的要素を強く換気させる力のある曲だ。

 さて、『祈祷と舞踏』を聴き終わり、次は『スペイン風3つの小品』を聴こうとリモコンを手にした。最初の『ファンダンゴ』の7曲目のボタンを押そうとした時、流れてきた音に手が止まった。先程までの何かに追い立てられ、駆り立てられているような焦燥感、緊張感から打って変わって、温かく、ゆったりと、牧歌的に流れてくるシンプルな旋律。このCDの最後の曲であり、アルバムのタイトルでもある『パストラル』だ。最初の1フレーズを聴いて、「ああ、いい曲だな」と思った。そして次に、そう思った自分に驚いた。これまでは、この曲は特別"いい曲"という認識は持っていなかったのだ。当然、何度も何度も聴いていたはずなのに。

 「鬼気迫る緊張感のある曲が聴きたい」と始まったCDの、ふっと緊張の解けた柔らかい音の流れの中で手が止まる。こんなはずじゃなかったんだけどな、と思いながら、曲を変えようとしていたリモコンを置いて耳を澄ます。やはり、いい曲だった。それを確かめるように、続けて3回、同じ曲を聴いた。何故今まで気付かなかったんだろうか。それとも、やっとこの曲のよさに気付けるようになったんだろうか。何にせよ、大好きなこのアルバムを聴く楽しみが、またこれで1つ増えたことになる。

 自分で弾いてみたいなと思ったけれど、まずは譜面を持っていない。あったとしても、ゆったりのんびりした主旋律とは裏腹に、ベースはかなり容赦なく細かい動きをする曲なので、聴いている印象より遥かに弾くのは難しそうだけど・・・。


2007年1月10日水曜日

仕事始め

 2007年、今日が仕事始めでした。とはいえ私は昨日も10:00-20:00で出社して長い休みのリハビリ(?)をしていたので、正確な意味で仕事始めではなかったのですが。まずは目先が忙しいこの1月。しばしの休息を終え、また戦場へ赴きます。

 最近見つけて読み始めた『モルト侍』というBLOGがあります。池袋でJ's Barというモルトを中心としたバーをやっているオーナー・バーテンダーさんのBLOGです。元々は当然ながらモルトの記事が目的だったのですが、実はこの『モルト侍』、他にもなかなか面白いことが書いてあったりします。今日の記事"「スタンダード18」という考え方。"にはこう書いてありました。

酒を飲めば苦しみを忘れることはできるが、それは一時的なことだ。翌朝、目が覚めれば、また昨日の続きの今日がやって来るだけ。面倒なことはなくなりはしない。

僕はあなたの苦しみを取り除いてあげることができない。だから、愉しいことを増やしたいと思う。僕は今年もそれを仕事にしようと思う。

 酒の長所短所を見て、自分の長所短所、そして哲学的な部分まで含め、実に明快に、そして確信を持って、自分の仕事の目指す場所を語っています。凄いな、と思いました。そして羨ましくもなりました。私は自分の仕事の使命を、ここまで端的に、そして確信を持っては言う自信がありません。いまだ、スタンス・ドットは定まっていません。今年はそれを明確にできるよう仕事をしたいものだと、この記事を読んでそう思いました。

 で、それはそれとして、この記事の本題である「スタンダード18」にも相当興味ありです(笑)。いつか、行ってみることにします。

2007年1月8日月曜日

白らんちゅうがやってきた

らんちゅうと白らんちゅう
 金魚の飼育開始から約4ヶ月が経過し、とうとうウチにも5匹目の金魚がやってきました。白い体にキュートな黒目がチャームポイントの白らんちゅうです。先月元々いた4匹のうち3匹を購入したペットエコ港北NT店に大掃除の水換えの際に使う交換用の濾過材等を買いに行った際にこいつがいたのですが、ウチの桜琉金(命名"さくら")のような透明な体と黒いキュートな瞳に、らんちゅうのコミカルな体型がくっついたこの金魚に妻は一目惚れ。その時は見送ったのですが、今日また行ったらまだ売れずに残っていたので、「まぁ、水槽のキャパにはまだ余裕はあるしなぁ」ということで購入してきました。写真は元々ウチにいるらんちゅう(命名"らんちゅう")とのランデヴーです。写真ではわかりづらいですが、白らんちゅうは元々いたらんちゅうの半分くらいの大きさしかない小さい仔魚です。



 実はこの白らんちゅう、店にいたときは他の体の大きさが同じくらいの小さな白らんちゅう達と遊泳していて、その中で一際元気に動き回り、他の魚を突っついていじめたりするような暴れ者でした。ですが、いざウチの水槽に来てみると、他の金魚は全部単純に体長で見ても自分の倍以上はある大きい魚ばかりです。体積で見れば5倍くらいありそうなヤツもいます(さくら)。しかも、食欲がハンパじゃありません(笑)。あまりの周囲との力の差に、このおチビさんはすっかり落ち込んでしまったようで、他の金魚に喧嘩をふっかけることはおろか、泳ぎ方すら店にいたときと比べて何だかおとなしくなったような気がします。いやー、怯えてるのかもしれません。頑張れ、おチビな白らんちゅう。負けずにエサを食べて、早く大きくなるのです。ちなみに、名前はまだありません。
 しかし新しい魚を入れてみるとよくわかるのですが、ウチの金魚、大きくなりましたねー・・・。そりゃあんだけエサ食べてりゃなぁ(笑)。ちなみにウチの金魚達は、エサの食べ過ぎでひっくり返ってしまうヤツが2匹ほど出てきたので、今日は一日絶食させてました。琉金系やらんちゅう等の丸型の金魚に出やすい転覆病の心配もしたのですが、一日エサを抜いたらひっくり返ることもなくなったので、まぁ純粋に食べ過ぎだったのでしょう。特に普段テトラフィンのような浮上性のエサを与えている金魚の場合、エサを食べる際に空気が大量に体内に入ってしまいそれが原因でエサを消化して空気が体から抜けるまで転覆病に類似した症状を示す場合も多いようですし、生き餌や乾燥餌の場合は食べ過ぎ等が原因の消化不良で同様の状態になることも多いそうなので、転覆病を疑う前にまず食い過ぎを疑って絶食させてみた方がいいようです。今回はエサを断っただけで水温を上げる等の処置はしていないのですが、昨日ひっくり返っていた連中も今日はひっくり返らずに元気にスイスイ泳いでいます。金魚は食べ過ぎ注意です。ちなみに、金魚がひっくり返ったままになってしまっていて浮袋(鰾)の辺りがふくれてお腹がプクンと出てきている場合は明らかに転覆病です。まずは水温を25度以上にキープし一週間程度の絶食、そして0.5%食塩水浴辺りを試してみることをお薦めします。詳細はこのページが参考になります。

2007年1月5日金曜日

『失われた町』 三崎 亜紀

 大晦日の日に整体を予約していたのだが、12時からだったのを間違えて11時に下山(自宅から日吉の街に下りることを我が家ではこう呼ぶ)。整体が終わったらすぐに帰って大掃除をするつもりだったので時間を潰すための本もなく、東急の本屋で急遽購入したのがこの三崎亜紀の『失われた町』だった。デビュー作『となり町戦争』がいきなりブレイクした作者の、短編小説集を一つ挟んでの2作目の長編小説だ。実はこの作者なかなかのお気に入りで、これまで出した3冊は全て読んでいる。『となり町戦争』は、正直おまけして70点ってところだったのだが、次の『バスジャック』がよかった。ので、今回も購入してみた。

 三崎亜紀の小説にはいつも、現実世界をベースにその世界のネジを何本か外して前提をずらしたような、突飛な世界設定がある。『となり町戦争』では"目に見えないが確かに行われているらしいとなり町との戦争"だったし、『バスジャック』中の短編『動物園』では"動物園で本物の動物を飼育して公開するのでなく、一種の幻術のようなもので観客にそこに動物がいるかのように見せることを職業とする人達"、『バスジャック』では"ブーム化し、形式化された、ある種日常を巻き込んだ競技的なバスジャック"だったし、今回の『失われた町』では"突然中に住む人達を理不尽にすべて消滅させてしまう町"だった。常に、現実世界の中から描きたいテーマを見つけると、それを描きやすいようにまず世界の方をずらす。三崎亜紀はそのような手法を使う。その突飛な世界設定から、"SF作家"と言う人も多いようだが、まぁそれは誤った指摘だろう。大体"Science Fiction"では、どう見てもない。藤子・F・不二雄の言葉を借りて、「すこしふしぎ」の略としてのSFならいけるだろうが。

 というわけで『失われた町』だ。ある程度定期的に(作中でうかがい知れる範囲では30年周期)発生する町の消滅。町の意思によって消滅順化させられ、町から逃げ出すことも外の人にS.O.Sを伝えることもできない中の住人は、ある日理不尽に町からすべて姿を消す。そうして消滅した町は、消滅の余波による汚染の拡大を避けるために管理局という組織によってきれいに歴史からも地図からも個人の持ち物からも消され、初めからなかった町として、空間的・時間的な空白地帯として扱われることになる。町の外に住んでいた残された遺族は、消滅した人々のために悲しむことすら禁じられ、消滅に関わるすべての事柄は"穢れ"として忌避されている。そんな中で、管理局の一部と、残された何人かの遺族が力を合わせて次の町の消滅を食い止めようとする。あらすじをざっと書くならそんなストーリーだ。ネタバレになるので控えめに書くが、管理局の重要人物と、母親を消滅で無くした子供、恋人を無くした女の子、消滅からの生き残りの子供・・・、多様な人物が様々な角度から町の意思である消滅に立ち向かい、やがてその人間相関がグルリとつながって一つの輪ができあがっていく展開は読んでいて気持ちがいい。

 全体を貫くのは、"意思は受け継がれる"というシンプルなテーマ。登場人物達は先に消えた、あるいは亡くなった人達の意思を受け継ぎ、自らの心を固めることで世間から蔑まれる消滅、ひいては町との闘いを続けて行く。住人の理不尽な消滅と悲壮なまでの意思が全体を支配する割に、重苦しくなく最後まで読めてしまうのは作者独特の空気のせいだろうか。

 まぁ、正直アラが目立つ作品でもある。登場人物が多い割にページ数が少なく、いくらか取って付けられたような印象を受けるエピソードもあるし、視点も散漫になっている。複数の人物の視点による連作短編と考えるには章ごとのつながりが強すぎる(連作短編とするなら途中のどの章を切り取ってもそれ一つで短編として機能するべきだ)し、一つの長編小説として考えるには視点に統一感がない。

 おそらく、作者はもっと長い話にしたかったのではないだろうか。端々に見える中途半端に終わるエピソード達を見ていると、どうもそんな気がする。それをあまりに長すぎるとエンターテイメントして重すぎるからか、商業的な理由からか作者の気力的な理由からかは知らないが、半ば無理矢理短く詰めた、そんな印象を受ける小説だ。そういう意味では『となり町戦争』の方がまとまりはよい。

 とはいえ読んでいて面白い小説であることは確かだ。久し振りに一気に読んだ。多少センチに過ぎるきらいはあるものの、舞台設定も、最初に見せられた結論から次々と過程が示されていき、登場人物の相関が少しずつ形成されて行く展開もいい。少しずつ小説中の世界に対する疑問が氷解していく面白みにつられて退屈しない。心の中の町という概念は、村上春樹の名作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させる。『失われた町』はあそこまで内面深くは潜って行かないけれど、逆にそのより表層近い感情的な部分をフューチャーしている辺りがこの小説のわかりやすさにつながっているのかもしれない。村上春樹が海外で知られるようになって以降、アメリカの方ではエイミー・ベンダージョージ・ソウンダース等の作家を始めとする、こうした日常から少しずれた不思議な舞台設定を多用するマジカル・リアリズムともいうべき潮流が形成されつつあるそうだが、その流れを日本で体現するならこうなるんだろうなと、そういう気がする。そういえば、村上春樹の流れを汲んでいるように思える作家は日本には意外といない。


2007年1月3日水曜日

恩師の訃報

 実家からの電話で、小学校時代の恩師が亡くなられたことを知った。六年生の時の担任で、生徒はもちろん、父兄の間でも有名な、今で言うところの名物先生だった。当時既に50歳前後だったはずだが、痩身で浅黒く焼けた肌と、顔に刻まれた深いしわと気迫に満ちた目は迫力満点で、それだけで小学生を震え上がらせるに充分だった。この先生が"名物"たりえた所以はもう一つある。常に持って歩く"魔法の棒"の存在だ。僧侶が座禅の時に「喝っ!」とか言ってひっぱたく、あの棒である。それに手書きで色々な言葉を書き込んだ棒を授業中もいつも持ち歩いていて、何か悪いことをした生徒がいるとその棒でコンコン、と床を叩いてにらみつけ、「○○っ!」と名前を呼んで前に出させる。そして出てきた生徒を罪の深さに応じて、その棒でふくらはぎや尻をスパーンとひっぱたくのだ。罪が深かった時などはこれはかなり本気で痛い。時代が今ならPTA辺りから「暴力教師」として吊るし上げを喰うかもしれない。だが、私達の親の間では躾をきちんとしてくれる先生として信奉されていたようだ。

 もちろん、ただ怖いだけの先生ではなかった。特に生徒の健康には非常に気を遣う先生で、持病を持った生徒には毎日のように具合はどうかと確認していたし、私が小学校の鼓笛隊の指揮者をやる時も、当時病弱で体も学年で一、二番を争う小ささだった私に「食べて力を付けないと町まで棒振って歩けないから」と給食のおかずで一番体力付きそうなものを私に毎日分けてくれていた。鼓笛隊の指揮者は普通列の後ろの方からでも棒がよく見えるように体の大きな人がやるものだったが、私が"体の小さい指揮者"に先鞭を付けて以降、小さい指揮者も見られるようになった。私の次の代の指揮者も私に負けず劣らず体が小さい女の子だった。最初は体力のない私が指揮を振るというのはどの先生も反対したものだ(同じ理由で楽器が重いアコーディオンも却下された)。それでもやると言い張って、教師側が折れる形で実際やるとなったら後は何も言わずに「体力を付けろ」と暗に示しながら、毎日おかずを分けてくれる。そんな先生だった。

 白根市内の小学校別対抗水泳大会へ向けての練習で、真夏の学校のプールで目にした先生の姿が何故か一番記憶に残っている。歳不相応に痩せた、でも鍛えられているので貧相な感じはしない体に、白い水泳帽をかぶっている。少し、カッパに似ていた。次は、卒業式の時の緊張が一気に解きほぐれたような笑顔だろうか。無邪気に、無条件に、笑ってくれていた。

 成人式の後、小中学校の同級生が一堂に会した席で、先生を呼んでみようという話になった。私が卒業した小中学校は全学年一クラスしかない、実質的に小中一貫校なので(苦笑)、そこにいるのは皆先生の教え子だ。だが、その時はクラスの代表が先生と電話で話をしただけで姿は見せなかった。確か、その時既に体調を崩していたのではなかったろうか。結局、その後もお会いする機会のないままになってしまった。またよりによって私が帰省しない年末年始にと、少し思わなくはない。すべてがあまりに急で、お通夜にも告別式にも参列することができなかった。だからせめて、(先生は特別音楽が好きというわけではなかったけれど)モーツァルトのレクイエムを聴きながらこうして思い出を書き綴ることでせめてもの手向けとしようと思う。基本的に"先生"という人種が好きでなかった私は、その後大学に至るまで教師に敬意や親近感など持ったことはなかったが、唯一この先生だけは恩師と言える先生だった。学校という社会を通じて、何がよくて何が悪いのかを、やり方は厳しいながらも教えてくれ、頑張っていることに対しては無言で力強く応援してくれる先生だった。先生が教壇に座って、しかめ面をしながら魔法の棒で床を二回コンコン、と叩く、あの姿が懐かしい。

 大野先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2007年1月2日火曜日

2007年 元日

 今年は一身上の都合によりラッシュを忌避し、新潟にも佐賀にも帰らず、横浜で妻と二人、のんびりと過ごす正月を選択しました。ので、今年は新潟の皆さんとも新年の儀を執り行うことなく新春は過ぎて行きそうです。ほっとした方も、多いのではないでしょうか(笑)。元日の東京はよく言われるように、普段に比べて格段に人も少なく、静かで、空気も澄んでいます。いつも混んでいる川崎の新しいショッピングモール、ラゾーナでさえいつもより空いているくらいでした。たまにはこんなにのんびりした東京(正確には神奈川ですが)を体験するのも悪くはないものです。

 直接挨拶できる人は少ないですが、このHPを見てくださっている皆さん、今年もよろしくお願いいたします。忙しさの中、更新も滞りがちではありますが、それでも、皆さんの気が向いた時にいつ来ても少なくとも"こちらはまだ生きてるぞ"と、控えめな笑いをもってでも迎えられるよう、頑張っていきます。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

2007年1月1日月曜日

2006年 大晦日

 2006年もとうとう最後の日を迎えた。今年は結婚という生活の重大事を超えて、相変わらず忙しい仕事を抱えながら、なんとかかんとか新しい生活のペースを作ろうと、慣らそうと、試行錯誤していた年だった。仕事では4月以降ほぼ何もできずに終えたスランプの一年。これから、色々なことをまず整理する必要があります。公私とも、様々なことが一度に振ってきて、受け止められなかったことも多かったというのが2006年の反省点。さてさて、どうしていきましょうか。

 ともあれ皆さん、今年も色々とありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。よいお年を。