2014年12月19日金曜日

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 ナショナリズムの画期的な研究家として名高いベネディクト・アンダーソン。日本でも右傾化が懸念され、隣国である中国や韓国、北朝鮮の動きも気になる中でナショナリズムとは何かを考えてみたいとずっと思っていた。奇しくもスコットランドやスペイン・カタルーニャ地方の独立騒動もあったこの年、まずはベネディクト・アンダーソン本人の著作の前に、比較的手軽そうな新書から手を出してみようとこの本を手に取った。

 この本の内容は大きく二部に分かれる。前半は2005年4月に国際シンポジウム「グローバリズムと現代アジア」の中で二日間にわたって行われたベネディクト・アンダーソンの講演の収録。そして後半は編著者である梅森直之氏によるアンダーソンを読むに当たっての基本的な考え方の紹介と講演の解題という形になっている。

 自分の勉強も兼ねてこの本の内容をまとめてみようとこの記事を書き始めてみたのだが、これが非常にまとめにくい。これは本の前半に来ているアンダーソンの講演が事前に氏の著作を読んでいることを前提にしているため、予備知識なしで頭から読み進めていくと少々わかりづらい点があるからだ。なのでこの記事は本の内容を書かれている順にまとめていくことはせず、本を読んでここから自分が理解したことをまとめていくような形で進めていくことにする。

 ベネディクト・アンダーソンはナショナリズム、ひいては「国民」「ネーション」という意識はいつどこで、どのようにして生まれ、世界に広がってきたのかを考える。そしてその意識が世界にどのように影響を与え、相互作用してきたのかを注意深く観察していく。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とはアンダーソンの有名な言葉だが、果たしてそれはどのような意味なのか。

 今では「国民」や「ネーション」といった概念は一般に普通に受け入れられている。だが法律的には、例えば日本人なら日本国籍を持つものが日本人でいいはずなのに、実際の「国民」の意識の区切りはそうなっていない。例えば日本に帰化した外国人は日本人か?逆に日本で生まれ育ったが外国に帰化した日本人はどうか?仮に日本に帰化した元横綱・武蔵丸を日本人とみなさず、ノーベル賞受賞時には既に日本国籍のない中村修二氏を日本人とみなすようなことがあるのであれば、その国籍以外の要素で区切られる国民、ネーションの意識とは何なのか。この点をまずアンダーソンは探求する。ナショナリズムとは何なのか。

 それはまず、近代の発明(国籍という制度ができたのと同時に発生した概念)であるはずの「日本人」が、あたかも太古の昔に起源を持ち、今日に至るまで面々と続いてきたと主張する(国民の古代性)。次にそれは、実際にはかなりの人が出たり入ったりしているはずの「日本人」の境界を、閉ざされたものであるかのように装う(国民の閉鎖性)。最後にそれは、さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体に変える(国民の共同性)。-『想像の共同体』より

 この問いへの答えとして、アンダーソンは時間と空間に着目する。どのように人々が時間というものを認識しているのか。宗教的な時間、民俗的な時間、デジタルに刻まれる時間によって、人々の認識がどのように変わるか。また同様に、目に見える景色が、地図に描かれた空間が、人々の認識にどのような影響を与えるか。それがネーションの意識を規定すると。

 時間が何故ネーションの意識を規定するものとなりえるのか。アンダーソンは「2014年12月20日 21時27分」というような日常で用いられる標準的な時間を「均質で空虚な時間」とし、このような標準的で過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間の感覚は歴史の中で発明されたものだと言う。本来歴史や文化によって多様であった時間感覚を、世界共通の「均質で空虚な時間」が浸透することにより人々の間に「同時性」の感覚が生まれた。そのことで世界の人々は時間を共有することが可能になった。かねてより人類学の世界は提唱されている、時間の発明だ。標準的な時間を得ることにより、まず人類は「時間を共有するコミュニティ」としてまとまることになる。

 ここから時間を共有した人々の中にさらに「ネーション」という概念が生まれるには、加えて空間が境界によって区切られなければならない。解放された時間による共有から、空間による細分化によりネーションが生まれる。その役割に、ネーションを境界で区切るきっかけ作りに、貢献したのが言葉だった。ネーションの意識の空間的な源泉として、言葉が通じる範囲、つまりコミュニケート可能な範囲が原初のネーションとして意識されたわけだ。

 標準的な時間と言葉によって区切られた原初のネーションの意識を、さらに細分化し強化したのが「出版資本主義」だとアンダーソンは指摘する。出版資本主義はまず商圏の拡大のために方言を統一化した「標準語」を生み出した。日本語で例えれば、東北弁で書かれた新聞を九州の人がすんなり理解するのは難しいので、便宜的に日本全国で通じる文字通り「標準的な」言葉として標準語が生み出された。これにより出版資本主義は新聞や雑誌を「全国に」売り出すことが可能になる。そして人々は新聞や雑誌を読む度に同じ時間と、言葉によって区切られた空間を共有し、集団への帰属意識を高めていった。このようにして「想像の共同体」は生まれる。

 そして時間と空間で区切られた共同体に愛着を与え、ナショナリズムを生み出すきっかけとなったのが植民地で生まれ育った人々、クレオールだという。決して本国と同等の立場になることのないクレオールの本国に対するコンプレックスはそのまま自らが属する共同体への愛着へと裏返され、そこに「国民」「ナショナリズム」という観念が生まれる。後でまた触れるが、その植民地で生まれたネーションへの強い愛着、「国民」という強い意識が、ナショナリズムとなって一連の植民地解放運動の力となった。

 そして一度生まれた「国民」という概念は模倣可能な「モジュール」となり、模倣を通じて世界中に伝播していくことになる。2005年の公演、この本の前半部では、アンダーソンはそのモジュール化されたナショナリズムが初期グローバリズムの中でどのように世界各地で模倣され、広がっていったかについて語っている。

 もう一つ、クレオール発の国民意識を民衆の意識に自発的に芽生えたボトムアップ的なナショナリズムだとすれば、権力側が民衆を自分たちの帝国により強く結び付けようと意図的に国民意識を植え付けるトップダウン的な「公定ナショナリズム」とアンダーソンが呼ぶものが生まれてくる。これは世界、特にヨーロッパ各地でナショナリズムというモジュールが模倣され、伝播し、民衆運動が盛んになる中、それを脅威に感じた権力が民衆をより強く自国に結び付けておくために試みられた。開国から明治国家形成に至るまでの日本のナショナリズムもここに分類されている。黒船来襲以来、外国の脅威を目の当たりにしたこの時期の日本は、他国に飲みこまれないためにも国民の帰属意識、ナショナリズムを強めていく必要があったのは想像に難くない。

 では実際、上記のように生まれたナショナリズムの概念が19世紀末から始まる初期グローバリズムの中でどのように広がっていったか。グローバリゼーションが生まれる要因も含めてアンダーソンは言及する。グローバリゼーションの発生・発展のきっかけとなった出来事は2つ。1つはモールスによる電信の開発、そしてもう1つは世界中をつなぐ輸送、物流の発展だった。

 およそ130年前、瞬時に情報を世界中に伝えることができる電信の誕生によって初めてグローバリゼーションは可能になり、誕生した。電信は1850年代に急速に世界中に広がり、1870年代には海底ケーブルが主要な海洋をすべて横断し、つなぐまでに発展。やがて絵や写真も送れるようになる。この電信により人類史上初めて、情報が瞬時に世界中を駆け巡る時代が到来する。もちろん現在のインターネットほど便利ではないが、それでも情報が一瞬で世界中に届く時代は、もうこの頃に生まれていた。

 そして汽船や鉄道の整備が世界中で進んでいき、1874年に万国郵便連合が設立されると、手紙、書籍、雑誌、新聞などがこれまでにない規模で国境を越えて大量に輸送されるようになる。これによりローカルにいながらにして世界中の情報、写真等にも触れることができるようになっていく。早くて安全な蒸気船の交通網が発達することで世界の物流は効率化され、海を渡る巨大な人の流れも生まれる。これら電信と輸送の発達を背景に出版と商業がつながり情報がグローバル化したこと、これをアンダーソンは「出版資本主義」と呼んでいる。出版資本主義は先の標準語の発明で商圏をまとめ、さらに翻訳によって世界中に情報を運んでいった。この「出版資本主義」が世界中の植民地で起こるナショナリズムをつなぎ、伝え、そしてそれが世界各地で模倣されたのが初期グローバル化の空間だったとアンダーソンは言う。

 19世紀の末、世界各地で同時多発的に白人帝国主義と植民地の戦いが始まる。ホセ・マルティが起こしたキューバ革命、ホセ・リナールのフィリピン革命、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦い…。発展した電信と輸送は、これらの国々の植民地勢力がお互いに連絡を取り合うことを可能にした。また他の国々は新聞や雑誌等を通じてこれらの植民地解放運動の情勢を知ることとなり、それはあらためて自国の「ネーションとは何か、どうあるべきか」を意識させるきっかけとなった。出版資本主義はネーションの概念を伝えるだけでなく、植民地解放のためにどう戦うかまでもモジュール化し、模倣の助けとなっていた。

 同様の情報伝搬による模倣は19世紀末から20世紀初頭のアナーキズムにおいても起こり、それは世界各国の主導者の暗殺という形で具現化された。アナーキストたちは世界各地の情報をグローバルに見聞きし、模倣し、実行したわけだ。その実行には各地のナショナリストも多く関わった。アナーキストたちは要人の暗殺を世界に対するメッセージとして利用し、それは出版資本主義により世界各地に伝えられ、目論見通りの効果を上げた。

 このように、通信と輸送の発達によって遠い国のナショナリズムやアナーキズムがグローバルに広がっていき、世界中にナショナリズムが強く意識され、芽生え、実行されていく。それが初期グローバル化の時代に起きていたことだった。

では現代はどうだろう。アンダーソン曰く、第二次世界大戦の終結から実に1980年代までナショナリズムはヨーロッパにおいて妖しげな観念に他ならなかった。ヒトラーと様々なナショナリズム、ファシスト政権、日本の軍国主義的帝国主義、それらが引き起こした凄惨な光景を目の当たりしたからこそ、ヨーロッパでナショナリズムは反動的で遅れたもの、研究する価値のないものとみなされていた。しかし1960年代から1970年代にかけて、世界各地で多くの地域が植民地からの独立を勝ち取っていき、75年のポルトガル帝国の崩壊を持って植民地解放の時代が終わる。そしてさらに重要なことに、時期を同じくしてヨーロッパ内部において地域ナショナリズムの萌芽が芽生え始める。スコットランド、ウェールズ、カタルーニヤ、バスク、ブルターニュ、シチリアなど。これら植民地の解放と地域ナショナリズムにより、時代遅れと思われていたナショナリズムは新たな形で勃興していく。

 公演後の質疑応答の中でアンダーソンは今後ナショナリズムによる国家の領土の拡大は考えにくいが、逆にネーションのさらなる分割は充分起こりえると話している。特に脆弱なのはイギリス、ロシア、中国にインド。ヨーロッパではスペインも、と。この講義が行われたのが2005年、本として出版されたのが2007年。その後、世界ではアンダーソンが言及したような事象が多数起きてきている。アラブの春では民衆蜂起によるチュニジア政権崩壊を発端に、ヨルダン、バーレーン、リビア、そしてシリアと次々に飛び火。Facebookを使った情報のやり取りはまさにモジュール化され、模倣されていった。ウクライナではクリミア自治区が騒乱を起こし、スコットランドではイギリスからの独立を問う住民投票が実施された。時期を同じくしてスペイン・カタルーニャ地方でも独立を問う非公式な住民投票が実施されるなど、ここ数年でナショナリズムの動きは活発化しているように思える。隣国中国の尖閣諸島、韓国の竹島での動きももちろんだ。

 これらの動きに対して、この本では予見はしていてもその後どうなるか、どうすべきかという話は出てこない。それはこれから語られるべきこと、あるいは我々が自分で考えていくべきことなのだと思う。

 自分はベネディクト・アンダーソンをレヴィ=ストロースや、あるいはガルシア・マルケスの正当な後継者だと感じた。本人も『想像の共同体』は正真正銘の構造主義的テクストだと思っていたと語っている(ただし、実際にはデリダやフーコーの影響が強く感じられるポスト構造主義的、ポストモダン的なテクストとして受容されたとも語っている。執筆当時アンダーソンはデリダもフーコーも読んだことはなかったそうだけど)。そしてこの『想像の共同体』は意外なことにあのジョージ・ソロスによって旧ソ連内のすべての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本の1つに選ばれている。意外な人物が出てくるものだ。

 最後に、ここ数年また活発化してきているナショナリズムの今後を占うために、『想像の共同体』の時点では考慮されていなかったがその後アンダーソンが重視するようになったというネーションとグローバリズムの関係について触れておきたい。ネーションの比較研究のためにはネーションをあたかも境界づけられた1つの単位であるかのように扱い、比較の物差しをはっきりさせないといけないとアンダーソンは言う。けれども実際のネーションは絶え間ない動きのうちにあり、変化し、他のユニットと相互作用していく。だからこそナショナリズムをグローバルな文脈で比較し、論じるためにはナショナリズムがそこで生じ、変化し、相互作用する重力場について見なくてはいけない。今後の世界情勢を見ていく時、この視点は重要だと感じる。ナショナリズムの動きが世界で活発になってきている現在、アンダーソンのような視点でその動きを解明していく思考は大切ではないだろうか。自分としては今後是非、『想像の共同体』を始めとする氏の著作も読んでいきたい。

2014年12月9日火曜日

日本農政私感-自由競争の前提条件

 突然訪れた衆院選。アベノミクスに対してYESかNOかというような論点が主流のようだが、そんな中今、日本の農政はどのような方向に進むのがよいのか。これまであまり考えを表立っては述べてこなかったが、自分なりの意見をここに書いてみたいと思う。

 まず現在の農業、特に新潟をとりまく状況を簡単に眺めてみる。新潟と言えばやはり生産者の収益やマインドに大きく影響するのは米、特にコシヒカリの動向だ。新潟コシヒカリ(一般)の生産者米価を見てみると、近年だけを見ても2012年に15000円だったものが今年2014年は12000円に下がっている。わずか2年で実に20%の下落。消費低迷や在庫過剰、MA米、TPP(これはどうなるかまだわからないけれど)の現状を考えると今後も米価自体が上がっていく状況にあるとは考えにくい。この見通しが新潟の米生産者の意欲に暗い影を落としている部分があることは正直否めない。

 例えば生産者米価の全国下限が7000円程度になれば国際市場でも価格的に戦えるという。国としてはTPPを見据えてこのレベルまで米価を下げたいという思惑があるらしい。今年の仮渡金の全国下限が8810円。それを7000円まで落とすには現在からさらに2割強価格を落とす計算になるので、同じ割合で新潟コシの価格も下落すると仮定するとその時の価格は約9500円。一万円を切ってしまう。ここ2年で2割生産者米価は落ちたというのに、さらにそこからまた2割落とす。当然その分売上は小さくなり、収益を圧迫する。

 そんな中、国の政策は簡単にいえば大規模化・集約化。若く意欲のある農家に農地を集めて大型機械を導入し、作業の効率化をはかることで生産コストの低減を図り競争力を上げようというもの。でも冷静に考えてほしい。大規模化・集約化程度のことをいくらやったところで、生産者米価の2割下落×2をカバーできるほどのコスト削減ができるだろうか?それほど大きなコスト削減は、ただ単に大型化と集約による効率化だけでは難しいと言わざるをえない。今回の選挙の街頭演説でも一様に候補者は「米の値段が下がる。苦しいです。でも頑張りましょう」と声を張るが、どう頑張れと言うのか?

 さらに言えば機械のコストは上がる一方。大きな要因として鉄や原油等の原料の値上がりがあるが、それ以外に政治的な要因がここにきて大きく響いている。その最たるものがディーゼルエンジンの排ガス規制。この排ガス規制は2014年11月から50馬力以上が、翌2015年9月からは25馬力以上が規制の対象になり、それぞれ排ガスをクリーンにするための装置を付けていかなければならない。その装置を付けることにより機械の実売価格がモノにより違いはあるものの30万円~100万円も跳ね上がる。500万円クラスの機械で100万円上がるケースもある。現在米の生産者が使用しているトラクターやコンバインは個人でも30馬力以上が主流になっているし、大規模な生産法人となれば50馬力以上のものが一般的だ。果樹で使う防除機、ステレオスプレーヤも600L以上のクラスはすべて25馬力以上のディーゼルエンジン。これらが軒並み政治的な理由で、生産性が上がるわけでもない機械の更新により価格が大きく上がる。

 エンジンだけでなくモーターも値上がりする。省エネ法の施行により2015年4月以降生産される機械に関しては現行のモーターよりエネルギー消費効率のよいトップランナーモーターを使用しなければいけなくなる。それによりモーターを使っている機械はモーター一つ当たり軒並み3万円~5万円価格が上がる。米農家の機械でいうなら乾燥機や籾摺機がこの対象になる。農水省の議事録を読んでいると相変わらず農業は省エネやエコに積極的に貢献していくべきだとの論調ばかりでそれに対するコスト面の批判は出ていないようだが、余計なことをやるとコストは上がるということは少しは認識してほしいもの。

 その他ビニールや肥料、農薬といった資材の価格もデフレ下においてですらずっと上昇が続いており、生産物の消費者価格が下がる一方でコストは右肩上がりに上がっていく。

 このように最終生産物の価格が下がっていくのにコストは大きく上がっていく中、農業が生き残るために必要な要素は何か。補助金だったり海外生産だったり色々と考えられることはあるが、一番大事なことは生産物の価格決定権を生産者に与えることだと思う。関税自由化も市場原理による自由競争も結構なことだが、自由競争といいつつ農協等の卸が買い取り価格を一方的に決め、生産者がその価格で出荷するという現在の制度では農業経営も何もあったものじゃない。

 米なんてその最たるもので、昨年の在庫がたくさん残っているから買い取り価格を下げますという指示を全農が出し、民間の業者の買い取り価格すら程度の差はあれそれに準じる。供給過多で値段が下がるのはマクロ経済における神の手として理論上理解できるが、それを卸が勝手にやるのが自由経済なのか。それは神の手ではない。人の手だ。

 去年の米が余ってるから今年の米を安く買いますというのもおかしな話で、去年の古米と新米では誰が食べてもわかるくらい風味には違いがあるのに、それを同列に扱って新米を安く買いますよというのは完全に卸の都合でしかない。本来は次の年の新米が出てくる時分になっても買った米が余ってるのは買った卸の責任で、卸は風味の落ちる古米を安く売る等で在庫処分しなければならないはず。なのに売れ残った責任を生産者に押しつけて自分達は新米を安く買う。そもそもこういったことがまかり通っていること自体が自由競争というならおかしいだろう。卸は次の年まで残らないように見越して米を仕入れ、もし次の新米が出てくるまで在庫があったなら安売りでも何でもして在庫処分。つまり買った分に関しては自分がリスクを負うのが正しい形なのに、そうはならずに卸がリスクを徹底的に押しつけて今の農業界は成り立っている。

 現状は農協が需給を見て価格調整する形で、その代わりに生産者がいくら出しても農協側では(等級等検査はあるものの)買い取りますよという形で成り立っている。少なくとも米に関しては野菜と違ってせっかく作ったものを出荷できずに廃棄というようなことは(一定品質に届いていない分は除いて)起きていない。生産者としては作った米を出荷できないリスクはない代わりに、価格決定権は手放していたという形だ。

 今後は減反廃止に合わせて生産者が需給を見て、例えば主食用米を作るのか飼料用米を作るのかを決めていってほしいと国は言う。そうであるなら合わせて農協等の卸も自己責任で在庫管理を行うようにし、出された分は何でもかんでも全量買い取るという方向を改めるべきだ。卸が主食用米が供給過剰・在庫過多でもう買えないし、生産者も主力用米を作っても売れないという状況で自らの意思でそれでも買い取りをしてもらえる飼料米に生産をシフトするなら話はわかる。けれども今のように卸が主食用米の価格を下げて、仕方がないから飼料用米と補助金で息をするというような在り方はとても自由経済とはいえない。

 だからまず、健全な自由競争を行う上で、農協のような卸があらかじめ価格を決定するのでなく、生産者が価格を決定できることは絶対必要になる。そうして初めてコストの転嫁や需給調整ができる。農協のような卸も米が残ったから安く買うなんてことはできなくなり、自分の仕入れに責任を持たなければいけなくなるから、売れる見込み分しか仕入ないようにするしかない。そのような状況になれば生産者も供給過多で自分が提示した金額で買う卸がいないなら価格を下げようか、あるいは需要が多くて価格を上げられるなら上げようか、それとも何か違ったものを作ろうかという自由競争が行えるようになる。

 農業で自由競争を導入するなら、合わせて農協の解体も必要になってくるだろう。よく言われるのは金融部門の切り離しだが、自分はむしろ集荷・出荷業務、いわゆる農協の卸業の部分のみ切り離し民営化でいいと思う。農協の営農支援や金融は生産者にとって有益な部分も多くあり、むしろ急いで民営化する理由は自分には見当たらない。

 農協の卸業部分を切り離す目的は、民営化・営利化することで農協間の卸業務の価格競争を促進すること。そのために現在広域合併が進み巨大化している農協を、民営化のタイミングで再度細かい地域レベルに細分化する。生産者が最寄りの農協が自分の提示価格で買ってくれなくても簡単に隣近所の農協に買ってくれるかどうか打診できる状況が大事だ。そのような状況を生み出すことで「この価格で出さないなら買わない」と卸の側が強気に出ることを牽制する。農協の卸業務が民営化されれば独禁法の対象外となるので、地域の農協すべてが結託して価格決定ということも当然できない。このようにして自由経済が活動できる場をまず整えることが肝要だ。

 今でも産直ではこのように生産者が価格決定権を持った上で自由経済を営むという動きは出ていて、自分はそれを歓迎している。けれども、一般的に産直でさばける量は農協やスーパーへの出荷と比べると多くはない。一部スーパー等で生産開始前にあらかじめ価格を決定した上での契約栽培等の方法も出てきていているが、それもまだ一般的というには程遠い。だからこそ量を確保できる農協等の卸に対して生産者が価格決定権を持つということは重要になる。

 前提として、生産者側でも原価を正確に管理することは必要だろう。現状、生産コストが正確にいくらかかっていて、品種や作物ごとの利益率はどのくらいかということを正確に把握している生産者は少ない。でもそこをしっかり管理し損益分岐点を正確に把握することで初めて値下げをどこまでできるのかの駆け引きもできるようになる。余談ながら、日本の農業でIT化を導入するとしたら、オランダのIT農業みたいに生産物の管理をする前に、まずこうした労務費も含めたコスト管理の部分から始めるのが費用対効果としては高いのでないかと思っている。それは価格決定権を持った自由競争下で効いてくる投資となる。

 生産者が価格決定権を持ち、農協等の卸が仕入に責任を持つようになることで、国が望むようにTPPを見据えた農産物の輸出にもむしろ対応はしやすくなるだろう。現在は輸出用の米は数少ない業者が主食用米よりも安い価格で買い、生産者側へのメリットとしては輸出米分は減反分として認めることで調整されている。そうではなく、卸は生産者から主食用米と同じ価格で仕入れればいい。仕入れた後国内に売るのか輸出するのかというのは販売する卸の責任であって生産者の問題ではないのだから、輸出するからといって生産者が卸への販売価格を下げる理由は本来ない(始めから輸出用にコストを抑えて安価な品種を契約栽培、といった形は別として)。農産物の輸出を国が促進していきたいというのなら、その分の補助を生産者に出すのでなく輸出を行う卸業社に出せばいい。そうすることで農産物の輸出業者は自動車などの工業製品と同じ「輸出企業」になるわけだから、そのサポートはこの国は手慣れたもの。円安誘導もできるし、法人税の特例措置で税金下げてもいいし、輸出量に応じて補助金を出してもいい。国も大好きなグローバル企業と同じ扱いで農業の促進もできるようになるのだから、むしろ扱いやすくなるのではないだろうか。円安で日本の農産物価格が安くなり海外需要が増えれば、卸はどんどん国内の農産物を仕入れればいい。そのサイクルがうまく回れば国外へ向けての供給が増え生産者価格も上がり、農業の景気もよくなるだろう。何しろ世界的に見れば今も、そして今後はもっと、食糧は不足しているのだから。

 まとめると、自分が考える今後の農業の理想形は大雑把に以下のようになる。

 ・生産者が生産物に対して価格決定権を持つ
 ・農協の卸部門は切り離し、民営化する
 ・卸は仕入れた生産物の販売を生産者に責任を押し付けず自己責任で行う
 ・生産者はコスト管理をより厳密に行う

 最低限上記をクリアすることで市場原理の中で農業が自由競争を行う準備が整うことになる。その上で、卸が販路を国内だけに向けるのでなく海外へ輸出するという動きを、国には精一杯サポートしてほしい。人口減少時代に入る日本では、国内需要を大きく伸ばすことは難しい。それよりも今後食糧不足が深刻になる世界に向けて食糧を供給していくことが明るい道だ。自分はそう考える。

 今回は特に大規模大量生産の一般的な農業生産者が発展するための条件について書いてみたが、これとは別に品質やブランド化にこだわり、プレミアのついた生産物を少量生産することで発展する道もあると思う。あまり肯定的ではないけれど六次産業化なども実はこちらの道だ。こちらについてはまた、いつか改めて書いてみたい。

 …で、このように思い描いているヴィジョンを現実のものとするためには、自分は今回の衆院選、一体どこに投票すればよいのだろう???

2014年12月1日月曜日

雑記帳を振りかえって

 先にお知らせしました通り、当『あゆむの雑記帳』は2014年11月一杯をもってこのGoogle Bloggerに引越をいたしました。このタイミングで一つ、究極の自己満企画としてこの雑記帳のこれまでの歴史を、自分用の記録の意味も含めて振り返ってみたいと思います。

 かねてより7月7日を「この雑記帳の公開記念日」としているように、さくらのサーバにHTMLをアップしてインターネットで公開を始めたのが1998年7月7日。自分が大学2年の時です。が、公開前の記録も僅かながら今でも辿れる部分があります。それによると同年5月24日、この日に初めて『あゆむの雑記帳』の原形がサーバにアップされたようです。といっても学内からのみアクセス可能なサーバで、まだインターネットに公開したわけではありません。HTMLやホームページ作成のお勉強も兼ねて、イントラネット内に上げただけでした。このころはページのタイトルが『Beyond the Dayunite』となっていて、背景は公開時のようなノートスタイルではなく黒一色だった、…ということですが、そのデザインはおぼろげに記憶には残っているものの、記録には残っていないので今となってはどのようなものだったか…。

そして6月17日にデザインを一新、初代『あゆむの雑記帳』として公開された時の左のようなノートを意識したデザインに変わります。縦フレーム使って左にメニュー、右にコンテンツ。当時このスタイル流行ってました。ボタンの画像やロゴも、当時大したアプリも持ってなかったし、今みたいにフリーの画像加工ソフトもない中クラリスワークスやGraphic Converterで一生懸命作った記憶があります。何もかもが懐かしい…。スクショはバックアップして取っておいてあいた当時のHTMLファイルを開いて撮りました。

 このデザインに変更後、とりあえず公開できる体裁は整ったと判断したのか、6月23日に学内のサーバながらインターネットに公開できる位置にとうとう雑記帳のHTMLをアップします。仮公開というわけですね。そしてその後、さくらインターネットのレンタルサーバーで正式公開を始めたのが当HPの開設記念日としている7月7日ということになります。当時のURLは「http://na.sakura.ne.jp/~ayum/」でした。そのタイミングでいささかのJavaScriptも装備。ただ時間ごとに表示するメッセージを変えるだけの簡単なスクリプトではありますが、当時の自分は大満足でした。夜11時台に表示される「テレホーダイだ!戦闘開始!!!」というメッセージなど、実に時代性を表していてノスタルジックです。そう、当時はまだ今みたいなネットへの常時接続なんてなくて、ISPに電話をかけて回線をつなぐダイヤルアップしかなかったのですよね。だから当然電話代が普通にかかる。日中好きなようにネットにつなぎっ放しにしていると電話代の請求がとんでもないことになるので、多くの人は夜11時~翌朝7時までの間、あらかじめ登録してある特定電話番号への電話がかけ放題になる『テレホーダイ』なるサービスを利用してインターネットを利用していたわけです。だから夜11時を過ぎると如実にネットが賑わい始める。そんな時代でした。テレホタイムという言葉も今は昔、ですね。あのダイヤルアップルータがつながる時の「ピッポッポッパッパッパ…、ガーーーッ、キーンキーンキーン」みたいな音が懐かしい(笑)。

 当時既にHomepage BuilderやPageMillみたいないわゆるホームページ作成ソフトは出回っていたし、いくつかは持っていたのですが、そこは敢えてHTML手打ちにこだわり、テキストエディタJEdit2を使ってEUCエンコードで、ひたすら手組でHTML組んでHPを作成してました。ホームページ作成ソフト使うと色々と余計なタグが付与されるのが気に入らなかったんですよね。なので左のような過去のアーカイブへのリンク、これもある程度まとまった時点でHTML分けてリンク作って…、っていちいち手でやってたわけです。う~ん、頑張ってましたねぇ、自分(笑)。

 この初代雑記帳にはPerlによるCGIでBBSなど用意してありまして、大学の仲間なんかはよくそのBBSへの書き込みで盛り上がったものです。そういう意味ではこの頃が一番訪問者も賑やかだったと思います。

しばらくは上記のような体制で運営していた雑記帳ですが、2000年台に入りHTML手打ちも時代の趨勢に合ってないなというのと、当時仕事でMovable TypeだのXoopsだのいじる機会もあったので、そろそろ自分のHPもシステム化しようかと考え始めました。それで準備を始めたのが記録によれば2004年10月。自分のMacbookにMovable Typeを入れたという記録が残っています。それ以降コツコツとデザインを作っていったりコメントスパム対策入れてみたりと準備を進めていき、最終的にドメインも取得してayum.jpとして公開したのは翌2005年7月31日。元の記事では7月31日になってるのですが、Blogger移行時に何故か記事の日付が8月1日としてインポートされた様子。原因究明はさておき、ほぼ2005年8月1日からMovable Typeによる新体制『あゆむの雑記帳』がスタートしたわけです。

デザインはネットでフリーで公開されていたテンプレートをベースに、トップページは3カラムながら日記等の詳細に入ると2カラムで広く表示、というスタイルにこだわりカスタマイズ。シンプルでスッキリ見やすいデザインは気に入っていました。自分でデザインやるとなかなかこうはできないですね(苦笑)。

 Movable Type導入で一番助かったのはやはり更新時にHTMLを手打ちしなくても済むようになったこと。おかげで更新の労力は大分少なくなりました。ただ、やはり記事中に画像を入れようと思ったらテーブルを手で組まないと並ばないんですよね。画像のアップロード機能もちょっと頼りないので、結局自分でサーバに直接アップしたり。それでもこのシステムで9年半、さすがに親しんできたので乗り換えるのはやや寂しい思いもあったのは確かです。でも次第にスパムのコメントやトラックバックに悩まされるようになってきて、ここ1年はどちらも完全に閉鎖してしまうありさまでしたから、システム的にもさすがに寿命だったと考えています。コメント欄の閉鎖の代わりに、Facebookのソーシャルプラグインを埋め込んでFB経由でコメントをできるようにはしてみましたが、それほど活用はされませんでした。やっぱり基本的に日本ではネットは匿名文化ですからね。FBの中だけでならまだしも、FBの外でまで実名でコメントしようってのはなかなか心理的にもハードル高いのかもしれません。

 そして今、2014年12月からこのGoogle Bloggerでの運用が始まるわけです。HTMLファイルからシステムに移行した前回と違い、今回はシステムからシステムへの移行なので準備期間はかなり短く済みました。Movable Typeからデータをエクスポートして、Movable TypeのデータをBloggerへのインポート用の形式に変換してくれるMovabletype2Bloggerというサービスを用いてデータを変換、Bloggerへインポートで済みます。簡単です。過去記事をHTMLからコピペして一つ一つ移行していた前回から比べると天国のようです。とはいえそれなりの年月が経ち記事数が増えたこの雑記帳、一日のインポート数の上限に引っかかったりなんだりで少しは手間もあったのですが、それでも前回に比べれば遥かに楽です。およそ1580の日記が暇を見ての作業で一週間程度で完了するんだから大したものです。前回はシステム構築からデータ移行まで、全工程で半年以上かかっているというのに、引越しを決断したのが11月中旬で、その月のうちにもう公開までこぎつけるのだから素晴らしい。今のブログサービスはデザインの変更のしやすさ等も含めてとてもユーザビリティしっかりしてます。投稿時の画像の埋め込み、レイアウトが簡単にできるのも非常にいい。ローカルからのアップロードだけでなくてPicasaウェブアルバムからも取ってこられるのは嬉しいです。まぁいいことばかりでもなく、これを書いている現時点では設置したブログ内検索で自分のブログを検索しても何も引っかかってこないとかあるわけですが。DB内を直接検索してるわけではなくて、あくまでGoogleのブログ検索を利用しているわけですからクロールされるまでのタイムラグがどうしてもあるわけですね。そればかりは仕方ない。

 さてさて、こまごまとこの雑記帳の歴史を語ってみました。思い返せば色々なことがあるわけですが、16年を超える月日を細々と続けてきたこのページ、新しいサービスに引越しはしましたがまだまだこれからも続けていく所存です。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。