2012年12月30日日曜日

記号にできないお金たち

 先日、実家から一つの小さな箱が見つかった。その中には、自分がかつてもらったお年玉なんかが、もらった袋のままで貯金されていて、両おじいちゃんやおじさんなんかが自分の名前を宛名に書いた自筆の文字は、それだけで懐かしい気分になった。一つ、「絶対使わないお金」などとわざわざ封筒に書いてあるものもあった。小さい頃の自分が書いた文字だろう。そう書くことで貯金の意思を固めていたのだろうか。紙幣から硬貨までごちゃごちゃ混ざった中には、聖徳太子の一万円札や、伊藤博文の千円札もあって、随分小さい頃から貯めていたんだなと、昔の自分に感心した。

 それでもそうした旧紙幣を合わせても、金額的には数万円程度。今の感覚でいうとそうべらぼうに大きい金額ではない(もちろん思いがけずその金額が手に入れば純粋に嬉しいけれど)。旧紙幣はもう珍しいから、現行紙幣に両替などはせずにそのまま取っておくとして、現行紙幣でも一万五千円。これはちょっとどうするか迷った。

 例えば臨時収入として何かを買うこともできる。もちろん銀行の貯蓄用の口座に入れてもいい。何年前の紙幣かはわからないけれど、現行の紙幣だ。今すぐ問題なく使える。でも、ちょっと考えて、結局その現行の紙幣もそのまままた箱に戻して、一緒にタンスに眠らせて置くことにした。この福澤諭吉の一万円札一枚と、新渡戸稲造の五千円札一枚。昔の自分が、当時としては一万五千円なんてとても大きな金額だったろうに、それを使うのをガマンして、いつかの何かのためにと貯金しておいたお金だ。今はもう新しく書かれた文字を見ることができなくなった、祖父達の手書きの文字が書かれた封筒に入れて。そこには、金額以上の何かがあるように感じた。

 銀行に入れてしまえば一万五千円はただの一万五千円。ただの数字となり、記号となる。そして小さい頃の自分が意を決して貯金していたお金とは気付かずに、何かの機会に消費されてしまうだろう。でも、手元にある紙幣は、ただの記号としての一万五千円ではなく、あくまで小さい頃の自分が箱にしまったままの、まるでタイムカプセルのようにやってきた一万五千円だ。何に使おうと思っていたのだろうか?それとも、特に使い道は決めずにただ貯金をしていたのだろうか?ともあれ、このお金を使う時は、何か当時の自分を納得させられるような理由が必要だと感じた。だから、その時まで、また眠らせておくことにした。どんな理由なら納得するかな?今なら一番は子供のために、なんて思うけど、当時の自分は間違いなくそんなこと考えてなかったろうしな。何しろ、自分が子供だったのだから(笑)。自分の好きなものでも買うか?それったってなぁ…。

 思いがけず時を超えてやってきた、タイムカプセルのような紙幣達。お金はお金として、小さかったころの自分に感謝しながら受け取りつつ、それは単純に記号としてのお金として使う気分になれず、結局またタイムカプセルのように眠っていく。このお金は、いつか使う日が来るのだろうか?来るとしたら、どんな理由で?願わくば、使ってしまいたいワクワクをグッとこらえて箱にしまった、あの日の自分を納得できるような使い方をしたい。寂しくなるような、使い方でなく。

2012年11月26日月曜日

たむらぱん 全国ツアー@新潟LOTS 2012

かねてより楽しみにしていた新潟LOTSでのたむらぱんのライヴ、行ってまいりました。今回は先行予約でチケットを取ったら、発券してビックリまさかの整理番号1番!これは最前列でたむらぺんを振り回す等の派手なパフォーマンスをしなければならないのかと若干変なプレッシャーを感じつつ、当日を楽しみに待っておりました。開場時は整理番号を呼ばれて、当然ながら1番で会場入り。中に入った途端、本来オールスタンディングの箱である新潟LOTSにイスが並べてあるのにびっくりしましたが、整理番号1番のメリットを最大限に活かして無事最前列センターモニター横の席を確保いたしました。でもイスがあるのもいいですね。今回は一人で行ったのですが、一人でも一度席を確保してしまえばそこに張り付いている必要がない。おかげでグッズも買いに行けました。SEはBeatles。『A Day in the Life』などを聴きながらテンションを上げてスタートを待ちます。

 とりあえず当日のセットリストは大体以下の通り。ちょっとテンション上げすぎて、途中記憶はやや曖昧です(苦笑)。『でんわ』と『知らない』が反対だったかもしれないなー…、とか。訂正ありましたらご指摘ください。

1. ヘニョリータ
2. スポンジ
3. ジェットコースター
4. ふれる
5. はだし
6. ラフ
7. ゼロ
8. 十人十色
9. ぼくの
10. でもない
11. new world
12. ハイガール
13. でんわ
14. 知らない
15. おしごと
16. 直球

~アンコール~

17. バンブー
18. 責めないデイ
19. S.O.S

 例によって当日の驚きを楽しみに、セットリストは事前に確認はしていなかったのですが、当日聴いていてもちょっと意外性があったのが今回のセットリスト。バンドメンバーとたむらぱんが入場してきて、一曲目は何だと待ち構えていると、なかなかまさかの『ヘニョリータ』。『new world』か、もしかしたら『ハイガール』辺りかなと思っていたのですが。この如何にもたむらぱんらしい、キュートでポップにくるくると跳ね回る『ヘニョリータ』から、快調にライヴは幕を開けます。そしてそこから2曲目はさらにまさかの『スポンジ』。このタイミングで『ナクナイ』からの選曲があるとは思ってませんでした。しかも『スポンジ』。前回の新潟公演では「新潟の皆さん、こんばんはー!」みたいな挨拶をしていたら入りを間違えて焦っていたたむらぱん。今回は大丈夫、バッチリ入れてました(笑)。ま、リベンジってわけでもないんでしょうけど。そして次は『ジェットコースター』と、以前のアルバムからの選曲を出だしから立て続けに行う、しかも後半に出てくるイメージのある『ジェットコースター』を序盤に持ってくる辺り、一体これからどんな選曲になるのかと、非常にドキドキするセトリでした。

 『ジェットコースター』の後、MCをはさんでようやくニューアルバム『wordwide』より『ふれる』。実はこの曲、好きなんです。あのアルバムの中でも比較的インパクトは小さい曲ですが、あのサビの透明感のある旋律と"♪哀しみは通り雨~"という歌詞がとてもマッチしていて、何というか清々しい哀愁を感じてしまうのです。ちょっとJUDY AND MARYの『クラシック』も彷彿とさせるような。このライヴでもよかったですね~。"♪夕日が世界に寄り添いながら美しく照れる~"でバックライトがたむらぱんを照らしたシーンで思わずグッときてしまいました。

 その後も『はだし』に続いてMCをはさみながら『ラフ』『ゼロ』『十人十色』と、新曲よりも定番曲が並びます。前回の新潟ではアンコールラストの曲だった『十人十色』、今回もサイケデリックに音が飽和するトリップ感満載の演奏。最後ピアノの鬼気迫る乱打は、サウンドはもちろん見た目にも凄まじい迫力がありました。『十人十色』、ライヴで聴くとCDよりもずっと映える曲です。こういう曲を聴くとバンドの実力がわかりますね。物凄くレベルが高い。バックバンドとして、背景として扱ってしまうのは失礼な実力派揃いです。特にドラムの能村亮平さんとピアノの横山裕章さん。実際かなり時間を取ってメンバー紹介することからしてみても、たむらぱんもバックというよりは全体で一つのバンド、グループのように感じてるのではないでしょうか。実力もグルーヴ・一体感もバッチリのたむらぱんバンドです。

 『十人十色』で新潟LOTSを飽和させた後は、「ここからはちょっとゆっくり聴いてもらいたい」とイスに座ることをうながすたむらぱん。ここで歌われたのが『ぼくの』です。彼女いわく、歌詞に出てくる人間の関係性、距離感が凄く近しいものが多かった『wordwide』というアルバム。自分はその傾向は『mitaina』の時から感じておりましたが、その人と人の距離の近さ、あるいは距離そのものを痛切に歌い上げた象徴的な曲、それが『ぼくの』だったと思います。CDで聴いても言葉と歌が胸に文字通り突き刺さるようなとても力のある曲でしたが、ライヴで座ってじっくりと聴くこの曲は、また歌が、言葉が、突き抜けるように響いてとても心が揺らされました。この曲は、凄い。心に突き刺さる微かな痛みとともに、聴いていて歌の世界に引き込まれる。生で聴くことでこの曲の、彼女の歌の、凄さが改めて実感されました。

 引き続き座ったままの状態で次に演奏されたのが、CDではShing02とコラボしていた『でもない』。CDではラップが入って、全体的にマイナー調の冷たい響きとエコー多めのアメリカンなサウンドメイクがされていたこの曲ですが、今回はライヴバージョンということでラップなし、アレンジも全部変えて演奏されました。またこれが、よかったのです。ピアノとエレアコの弾き語りから入り、CDとは違ってメジャーコード主体の暖かい響きで歌われる『でもない』。全体として冷たい印象のCDでのアレンジとは全く異なり、ほんのり明るく暖かく、しみじみと歌われるこの曲は実に素晴らしかったです。そして聴いているといつの間にかメジャーコード主体の進行が並行短調に移動している、いつものたむらぱん節。アルバムでの音作りは全面的にShing02に委任されていたとのことですので、こちらの方が元々たむらぱんの頭の中で鳴っていた音なのかなとも思ったり。暖かな夕暮れを思わせるようなしみじみとしたアレンジに変えられた、実に素晴らしい音楽。このバージョンの『でもない』も何かの機会にCDに入れてほしいところです。

 そして次からは再び立ち上がって、エンディングに向けて一直線。『new world』、『ハイガール』といったイケイケの曲達が盛り上げてくれます。『知らない』はCDを聴いた際、「サビのバックのギターは全部タッピングで弾いてるのかな?」と思っていたのですが、ライヴで見てみたら間違いない。全部タッピングで弾いておられました。合ってた合ってた(笑)。ラストはアルバム『wordwide』でも強烈な変態曲2曲で飾られます。『お仕事』では気持ちテンポ早め、メンバー全員参加のコーラスと音の洪水で、最後の方は新潟LOTSの箱が音で飽和状態。グワングワン鳴るたくさんの音で、たむらぱんの歌も聞こえにくいくらいの大迫力サウンドでした。新潟LOTSはそれほど大きい箱ではないですが、それでも普通にバンドが演奏してるくらいじゃあそこまで音が飽和したりしないんですけど。やっぱ音数が尋常じゃなく多かったんでしょう。いやー、でもあの曲の最後のサビ前、ツーバスで盛り上がるところでヘッドバンキングしてたのは私くらいでしょうか。思わずロック魂が…(苦笑)。『お仕事』はあそこまで大仰で複雑な曲なのに、凄くライヴ映えするのにビックリしました。ラストは『直球』で元気に飛び跳ねて、ライヴ本編は終了!いやー、でも『直球』のAメロ、ノリにくい、踊りにくい!先の記事でも書きましたが、7拍子ですからね、あれ。普通にやってても踊れない。結構皆さん「あれあれ?」って感じで翻弄されてました(笑)。イチニ、イチニ、イチニサン、って数えながらノルのがコツです。

 アンコールではこれもまさかの『責めないデイ』をやってくれたのが嬉しかった。『ラフ』を聴いてたむらぱんを認知した自分が、『ブタベスト』を借りてきてこの曲を聴いてトドメをさされたのです。いつか生で聴きたいとは思っていましたが、まさか今回聴けるとは思っていませんでした。たむらぱんのアンコールには、何かしらのメッセージがある気がします。今回なら大雑把に言えば「明日からまた仕事だけれども、自分を信じて頑張れ、時にはS.O.S.を出してもいいから」と。そう言ってくれているのではないかなと、…思うのは自分だけでしょうか? そのアンコールラストは『S.O.S』の大合唱で締め、今回の公演は幕引きとなります。実に熱く、心地よくテンションが上がった空間でした。

 その他、今回新潟LOTSのステージではたむらぱんが立つステージ中央に5m四方くらい(?)、高さ10cmほどの高台が作られていました。たむらぱんちっちゃいからよく見えるようにとのことなのでしょうが、「人間不思議なもので、囲われるとそこから出たくなくなるというか…」とMCでも本人が言っていたように、本当にあまりその枠の外に出てきませんでした(笑)。小さい枠の中で踊ったり跳ねたり。前回よりも全体的にアクションが大きくなったし、幅が出てきた気もします。彼女が歌ってる表情、仕草は本当に楽しそうでいいですよね。それだけでこちらも楽しくなってきます。

 もう一つ印象に残ったMCはShing02の言葉について。指二本で出すピースサイン。皆ピースを目指してゼロから一気にやろうとするけど、まずは1を出さなきゃいけない。この1が重要なんだと。「いい言葉でしょう?これ、私が言ったんです!…そう言いたいんだけど、Shing02さんが言ったんです」と笑うたむらぱん。いい言葉が出てきて、嬉しいんだけどそれを言ったのが自分じゃないのが悔しいなぁ的な(笑)。その言葉にこだわる姿勢が、その他のMCでも随所に出てました。今回MCで敢えて歌詞や言葉に言及することが多かったのは、『wordwide』という言葉をフューチャーしたアルバム名だったからなのか、彼女の中で言葉が占める重要性が以前よりさらに大きくなってきたからなのか。ただ、アルバム『wordwide』では彼女の言葉がこれまでよりもずっと、自分の心に響いてくるようになったのは確かです。それはこのライヴの歌や、MCでも然り。『ナクナイ』の頃と比べると、凄く言葉がよくなったなぁと感じました。

 というわけで、客席後方で観ていた前回とは違い、最前列でガッツリ楽しんできた今回のコンサート。やはり素晴らしく、とても楽しめるステージでした。まぁ何と言うか、客席のノリ方にイマイチ迷いがあるのはたむらぱんならではしょうか。幅広すぎる年齢層も一因でしょうし、例えばブルーハーツみたいにとりあえずピョンピョン跳ねておけばノレるというシンプルな音楽でもない(ブルーハーツは大好きですよ、念のため)。そこがまた観客の一部のノリにためらい傷のような跡を残すのですね(笑)。でもまぁたむらぱんの場合そんなところこそが魅力なのですが。

 ライヴ後、放心状態で新潟LOTSを出て、寒風に吹かれながら家に着くまでの間、体に残る熱気の余韻を楽しみながら夜の新潟の街を歩いて行きました。今回も最高のパフォーマンスで魅せてくれたたむらぱん。また新潟でライヴやってほしいですね。

2012年11月9日金曜日

茂木健一郎氏 寺子屋授業@大島中学校

 本日、ご近所の大島中学校で茂木健一郎氏を招いて中学生と小学5・6年生相手に寺子屋授業が行われていたので、地元の一般参観として聴講させてもらいました。お客様が「こんなイベントあるよ」と教えてくれたので、市民の一般参観もあるとのことだし潜り込めるだろうと行ってきました。大島中学校の卒業生では、もちろんないんですが(笑)。

 形式は最初と最後の10分くらいずつを茂木氏が一人で話し、残りは校長先生と生徒を交えての質問コーナー。茂木氏に次々と壇上に引っ張り出され、地元のテレビカメラの前でムチャぶりに対応を迫られる小中学生達はとてもいい経験になったことでしょう。茂木氏に言わせると、こうしたプレッシャーのかかる状況で精一杯対応するということも、挑戦して克服したという脳のドーパミンが出る要素なんだとか。

 今回は小中学生相手のお話でしたので難しい話題は出てきませんでしたが、一つ参考になったのは集中力について。集中力というのは瞬発力が大事で、ダラダラしているところから一瞬でトップギアまで入れることが集中力を発揮するためにはいいということ。宿屋で新撰組に突然襲われた坂本竜馬の気持ちで目の前のことに一瞬で集中力をトップギアに入れて取りかかれと。またそうすることで、集中するための力も鍛えられていくそうです。集中すると決めたら一気にトップギア。これは自分も覚えておきたいなと思いました。

 とはいえここだけの話、茂木健一郎氏は「アハ体験」とか、「~は脳にいい」「~で脳が活性化する」とか言い始める前の方が好きだったりはするのですが。クオリアについて語る認知科学者であった頃は、あの小難しい認知科学の世界をよくこんなに平易に、面白く本にできるものだと感心していたものです。そして小説『プロセス・アイ』がなにげに面白い。

 今回は進行も細かく決めていたわけではなさそうで、大分アドリブが垣間見えるフリーダムな講演会。茂木氏は小中学生相手に終始ジョークを交え、生徒たちを会話の中に入れながら進めていき、どちらかというと聴いていてためになるというよりは、普通に楽しい講演会でした。大島中学校の今の校長先生が凄く茂木氏を尊敬しているみたいですね。それで自分の世界の見方を変えてくれた茂木氏を、子供たちのために招聘しようと頑張ったみたいです。その行動力には感服します。校長先生も外国人講師の方も茂木氏も仰っていた、この2本の川と果樹に囲まれた大島という地域に誇りを持っていってほしい言葉。やはり自分の育った環境をしっかり見つめ、誇りを持つというのは、ひいては自分の足元も固め、周囲を愛し、地元を、国を愛するためにまず大事なんだなと感じました。

 突然飛び込んだ講演会、茂木健一郎氏の話を生で聴けたというのもそうですし、色々と楽しい時間でした。今日この寺小屋授業に参加した小中学生たちはいいですね。校長先生が一生懸命にこういう場を用意してくれるというのは、実はとても幸せでありがたいこと。大島中学校、頑張ってください。

2012年11月8日木曜日

たむらぱん『wordwide』

 前作『mitaina』から9ヶ月という驚異的な短ペースでの新作となったこの『wordwide』。前作が個別の曲のクオリティとは裏腹に、何故かアルバム全体として見た場合に少し違和感を感じる内容だっただけに今回はどうか、個人的にはたむらぱんの今後の方向性を占う意味でも非常に重要なリリースになると感じていた本作。聴いてみていやいやビックリ。たむらぱんの"おもちゃ箱をひっくり返したような"キャパシティの広い音楽性と緻密なアレンジ、そしてそれを感じさせない楽しさや、あるいはこれまで感じることがなかった種類の気迫までも感じる、素晴らしい大傑作アルバムとなっていました。

 まず度肝を抜かれたのが2曲目の『おしごと』。たむらぱんのCDに初めて男声コーラスが入ってきた、クイーンばりに分厚いコーラス重ね録り。ボヘミアン・ラプソディよろしく次々に曲が展開していく壮大なアレンジのこの曲。それでいてその極度に早い展開に翻弄された後にも、オクターヴを切り替えながら歌われるサビのメロディーと歌詞がひたすら頭の中に残る、まるで呪いの歌のような音楽(笑)。一聴、思わず「なんじゃこりゃ!?」と思いました。とうとうたむらぱんもここまで来たかと。ここまで節操のない(?)展開をしておいて、それでまったく違和感がないのが凄まじい。無理矢理音楽を広げたのでなく、あくまで自然と変態を突き進むその感じ。2曲目にしていきなりのハードパンチです。

 そして次の『でんわ』。本来は2011年3月か4月にシングルでリリースされるはずだったこの曲ですが、3.11の震災後にリリースが延期(中止?)されていました。その理由を、たむらぱんはナタリーへのインタビューでこう語っています。

実はこの曲、シングル候補だったんですよ。でも、その時期に震災が起きて。「突然いなくなる」っていう感覚が全く違う方向に向いちゃう気がしてリリースしなかったんです。「電話が来た時は」「あぁ手遅れだ」って書いちゃってる自分が気持ち悪い、とも思ったし。でもそういうことって多分どこにでも起こり得ることなんですよね。そういうことを感じたりもしました。

 世界の空気に敏感だった彼女がリリースを取りやめたこの曲が、ようやくこのタイミングで聴けるようになったわけです。日常の中でのささやかなコミュニケーションとその行き違いが歌われたこの曲、最後には村上春樹の『ノルウェイの森』のエンディングを思い出しました。あれだけ待っていた電話が来たときには、もう電話の相手といるべき場所には自分はいなかったという、後悔の混じった哀しさ。それをあれだけ爽やかで耳に残るメロディーとともに歌いあげる、これもまた一回聴いたら頭の中でグルグル回る曲です。しかもこの曲、最初は基本4拍子でサビだけ3拍子なのかなと思っていたら、冷静に聴いてみるとサビもちゃんと4拍子で、Voのメロディーだけが3拍子っぽいフレージングだからポリリズムのように聞こえてるだけという、リズム遊びのたむらぱんマジック。さすがです。これだけ聴きやすいポップな曲の中に、さりげなくそんな要素を織り込んでくる。まさにプログレッシヴ・ポップ。この曲のサビ、ド○モとかa○とかにCMで使ってもらえれば一気にブレイクすると思うんだけどなー…。

 そして次の『ぼくの』がまた凄い曲なのです。これまでは比較的冷静にというか、面白いメロディーを多彩な声色で表現するというイメージがあったたむらぱんが、初めて声が掠れるほど声域いっぱいの高音を続けて、震えるような叫びを聴かせてくれています。これにはドキッとしました。そういうソウルフルなイメージがあまりなかった彼女が、一杯に声を張り上げて痛切に叫ぶのです。「ぼくをなきものにしないでよ」と。音楽は彼女にしては割と素直な名曲なのですが、その振り絞る叫びの説得力が物凄い。これは震える曲でした。曲やシーンに応じて使い分ける声のパレットと表現はたくさん持っているけれど、ストレートに訴える力は確かに少し弱いかなと思っていたたむらぱん。でもそのカラフルな歌声を聴いているとそれが不足だとは感じていなかったのですが、そこにさらにソウルフルな叫びまで加えてきました。これはかなりの新機軸です。そしてこれもまたどこまでもサビが耳に残る。印象的なメロディーを作らせたらまさに天才的な彼女ですが、ここまではその才能が凄まじいまでに炸裂してます。

 その他も歌詞が個人的に好きな『ST』、『new world』とともにシングルカットされ、伝統的たむらぱんスタイル(?)で楽しませてくれた『ヘニョリータ』等、相変わらずカラフルで様々な色合い、表情を見せてくれる楽曲達。その中でももう一つ極めて強烈なのが『直球』でした。この曲、サビだけ聴いてるとタイトルの通りストレートな8ビートギターポップかと思いきや、全体としてはとんでもない変態曲。このアルバムでは『お仕事』と双璧です。サビ以外のリズムの変化が非常に大胆かつアブノーマル。Aメロは4+3の7拍子で進んでいき、一回目のBメロは4拍子に戻ってサビの8ビートへ。そこから間奏は3+4の7拍子になってAメロはまた4+3の7拍子へ。この同じ7拍子でも内訳をAメロと間奏で変えてくる辺りが実に芸が細かい。さらに「♪ふわっふわっ」と歌ってるところなんてイマイチ何拍子かつかめないし、2回目のBメロは6/8拍子に展開して8ビートのサビに戻る。どんだけリズムで遊んでんだと(笑)。「変化球なんて使わないで直球勝負」とか歌ってる割に、音楽は全盛期の松坂のスライダー並みの勢いで鋭く変化していきます。こんな曲をサラッと聴きやすいポップなセンスでまとめてくるのが驚愕です。

 思えば前作『mitaina』は、自分としては少し違和感の残るアルバムでした。うまく言えないのですが、印象としては「メジャーを目指そうとしすぎている」感じでしょうか。楽しい音一杯、耳に残るメロディー一杯ではあるのですが、展開やアレンジが僅かに単調に感じたのです。豪華なゲスト陣を迎えてこれまで以上に華やかな音作りがされた前作の中で、その単調さ、そこがパッと聴いた際の「わかりやすさ」を目指しすぎた印象で、持ち味の意外性が僅かではあるものの損なわれていた気がしたのです。もちろん多様性はあるんです。最初の5曲『ハイガール』『ファイト』『フォーカス』『しんぱい』『白い息』はそれぞれまったく別の方向に、たむらぱんという中心から円を描くように別の方向へとそれぞれ放たれた名曲達ですが、反面曲ごとの多様性の割に曲の中での意外性は希薄だった。それが前作『mitaina』の感想でした。『やっぱり今日も空はあって』とか、ホントに素晴らしい名曲なんですけどね。

 そこへきてこの最新作『wordwide』です。実は『new world』をシングルで聴いた時には少し心配していたんです。やっぱり華やかにわかりやすさを目指した方向性で行くんだろうかと。でもこのアルバムは完全に吹っ切れたようで、たむらぱん本来の同じメロディーは同じ形では二度出てこないくらいのアレンジ・展開の多様性が見事に戻ってきました。そしてこれまで以上に耳に残る天才的なメロディメーカーぶり。よくもここまで作り込んだもんだと驚嘆するくらい、今回はすべての曲においてアレンジが緻密で単調さがまったくありません。だから全然聴き飽きもしない。

 そして『wordwide』というタイトルが示す通り、このアルバムでは言葉がとても力強く、説得力があります。これまでたむらぱんの歌詞は一部は好きなのですが全体的にはまあまあ、くらいの印象でどちらかというと器楽的に聴いていたのですが、今回は言葉の力を凄く感じます。『ぼくの』のように言葉とメロディー、歌が相まって痛切に訴えたり、『でんわ』のように文学的なストーリー性と切なさを感じたり、『ST』のように思わず自身を重ねてみたり、『知らない』のように生き方を考えさせられてみたり、これまで以上に音楽と言葉がきれいに混ざり合ってきたなと感じます。言葉にメロディーを乗せるのでもなく、その逆でもなく、言葉とメロディーがお互いに同時になくてはならないような親密感。それが言葉の説得力をさらに増していくのです。そこは凄く、いい意味で変わったなぁと。

 長々と書きましたがこのたむらぱんの最新作『wordwide』。最高傑作と呼ぶにふさわしい、音楽も言葉もこれまで以上に進化したなと心から驚嘆する一枚でした。これほどの才能は世界を見回してもなかなかいない。月末の新潟でのコンサートに行くのがもう既に待ちきれないほど楽しみです。

2012年10月29日月曜日

インバル指揮 都響 マーラー交響曲第3番@東京芸術劇場

 というわけで行ってまいりましたエリアフ・インバル指揮 東京都響、演目はマーラーの交響曲第3番!かねてより聴きたいと思っていたインバル/都響のコンビ、でも彼らはなかなか新潟には来てくれません。こちらから出向くといってもコンサートのためだけに交通費2万円はちょっと厳しい。そんな中、ちょうど友人が結婚式を27日にするからと東京にお呼ばれしたので、ついでに翌日何かいいコンサートないかなー、と探していたら見つかったのがこのコンサート。実に素晴らしい組み合わせ、演目です。マーラーの中でも1・9番と並んで好きな3番が、インバル/都響の演奏で聴ける!そう意気込んでチケットを取りました。ただ、日程が決まった時には完売…。仕方なくオークションで一番諸々の条件がよさそうなものを選んで入手しました。こんな時にはオークション便利です。

 当日、東京芸術劇場に足を運ぶだけで気分は高揚していきます。その前日から聴き始めたたむらぱんの新譜『wordwide』にも散々心をくすぐられていましたがそれはそれ。やはり会場まで来たらもうマーラーの気分にどっぷりです。期待の中、会場で席を確認すると何と最前列中央、コンサートマスターの真ん前、インバルまでわずか5mの至近距離!音のバランスは微妙かもしれませんが、インバルや楽団員の皆さんの表情まで手に取るようにわかる、これはこれでいい感じの席です。いよいよもって興奮は高まっていきました。

 いよいよ開演。冒頭のホルンの堂々たる音色にまずすっかり持って行かれました。濁りのない音で朗々と威風堂々。コンサートの最初の一音は会場の空気を作り、その後の音楽を運ぶ土台を作る上で最重要なポイントですが、このホルンはまさにその最初の一音でその後の演奏を引き受け、さらに期待させるための素晴らしい土台を作ってくれました。そしてそこに合わせてジャン!ジャン!と他のオケが入ってくる時の迫力。その後に続く第一楽章は、その長さも充実度も合わせてそれだけで単体の交響曲を一曲まるごと聴き切ったかのような興奮と満足感がありました。そしてクライマックスで一気にアクセルを踏み込むインバルに同調してテンションを上げていく都響。最高潮に達したアンサンブルは、最後ピタリと弾けて音も跳ね上がるようにしてフィニッシュします。弓を上げたところで手を止めてポーズを決めて、「どうだ」と言わんばかりの都響メンバー。実際ドヤ顔しているメンバーもちらほら(笑)。まだ曲の途中であるにも関わらず、会場中が思わず拍手しそうなのを堪えているのがわかる、圧倒的な精度・迫力のアンサンブルでした。

 第二・三楽章のスケルッツォも、音楽の生き生きとしたリズムと歌が濁りのない音色で奏でられる、とても心地よい音楽。都響の音色は、特に定評のある弦はさすがに魅力的です。濁りのない音色ながらまったくの透明なわけではなく、少し涼やかさを感じる上品な銀色を思わせる素敵な音。やはり、"濁りのない"という表現がピタリときます。また、とてもリズム・アクセントが生き生きしている。同様の印象は金管・木管も感じますが、やはり弦の魅力が目立ちます。また演奏者の表情もいいんです。曲調に合わせて、テンションに合わせて、時に笑顔すら見せながら演奏する弦セクション。素晴らしかったです。

 今回は第二楽章が終わった後に小休止があって、そこで合唱・児童合唱、歌手が入場。彼らが活躍する第四・五楽章も美しいハーモニーが堪能できました。そして第五楽章が終わった後、間髪入れずに入ってくる、弦が奏でる最終楽章のあの旋律。児童合唱の煌びやかな響きから一転、余韻を包み込むように優しく暖かく入ってきたその冒頭にゾクッとしました。比較的淡々と、でも暖かく深い感慨とともに世界を慈しむような、その歌が沁みていきます。最後どんどん音が折り重なり合いながらテンションが上がって行き、クライマックスを迎える頃にはもう背筋がゾクゾクしていました。最前列という席の兼ね合いもありましょうが、芸術劇場という巨大な箱にまったく力負けしない、大迫力のアンサンブル。それでもまったく音に濁りがない辺りがさすがです。終演後もしばらく感想としての言葉が出てこない程、素晴らしい演奏でした。

 ただ、これは演奏者の問題ではないのですが、終演後の拍手がちっとばかり早かったなー…。決してフラ拍という程でもないのですが、やや早めに数人が手を叩き始めたあのタイミングでは、まだホールに残響が少し響いていたのです。芸術劇場の高い天井の遥か上の方で、外に向かって飛んで消えていく音の最後の羽が一枚二枚、そのやんわりとした響きをもう少し楽しみたかったのですが。聞こえてなかったんだろうなー、あの最初の拍手をした人達にはその音が。そう思うことにしました。聞こえてないんだ。だから余韻が楽しめないんだ。うん。

 全体としての感想。インバル/都響のマーラー3番は、基本早めのテンポで進んでいきました。決して感情的に大きく揺さぶってくるわけではなく、むしろスッキリと素直に美しさを前面に出して聴かせてくれます。その中で様々に空気を切り替えてきて、複雑な多面性を都度表に出して行く。そして盛り上げるところでは一気にテンポ・音量のダイナミクスを大きくとって攻めてくる。その落差がとても大きいので聴いてる側のテンションは否応なしに上がるのですが、それがあざとさや不自然さは全く感じさせずにあくまで自然に心が引き上げられる。そこがまた聴いていて気持ちよかったです。音楽の流れに一体化して、一緒に進んでいける音楽。その自然さがインバルの音楽の素晴らしさなのだなと思いました。終演後の満場の割れんばかりの拍手、スタンディング・オベーションはこれだけの聴衆が音楽と一体化できた証でしょう。聴衆を音楽に引き込み一体化する力は、会場で聴いてこそのものですね。やはりコンサートを生で聴くのはいいものです。

 以下余談。インバルってかなり派手に歌うんですね。先にも書いた通り、自分は最前列中央、コンマスの前辺りにいたのですが、その位置だとインバルの声が聞こえる聞こえる(笑)。もう半分とまではいかずとも、1/3くらいは声出して歌ってたんじゃないかっていうくらいたくさん歌ってました。時々コンマスのヴァイオリンの音より響いてるくらい歌ってました。

 余談その2。演奏後、ステージ上の皆さんが感慨深げに客先を眺めているのを見て、ステージから見た満員の芸術劇場ってどんな感じなんだろうなとふと思いました。どんな景色を今彼らは見ているのだろうなと。そういえば、この位置からなら振り返ればステージ上とあまり変わらない景色が見えるな、と思い、おもむろに振り返ってみました。凄い景色でした。巨大な東京芸術劇場、その遥か上まで、正面も右も左も、すべての空間に人がいて、皆が惜しみなく拍手を贈っている。ただの聴衆に過ぎない自分でも、これだけの人とこの素晴らしい音楽を、時間を共有したのかと思うと胸が熱くなる程でした。インバルやステージ上のメンバーは、あれだけの充実した演奏を終えた後に、一体どれほどの感慨でこの景色を見ているんだろうなと。いつの日か、これほどの大きなホールで満員の聴衆相手にとは望みえないながらも、自分もまたそのステージに立ちたいものだと改めて思った次第です。ステージはね、好きなんですよ。あの緊張感も、終わった後の充実感と解放感も。まぁ、後者はいつもあるとは限りませんが(笑)。

 最後に、今回の都響はチェロ外側の通常配置で16型の編成。コンマスは四方恭子、サイドに矢部達哉。ポストホルンは舞台左裏で、トランペットの1番を吹いた高橋首席が兼任しておりました。また遠くから響いてくるこのポストホルンの音が非常に美しかったことを付けくわえて、今回のコンサートの感想とさせていただきます。いやー、このコンサートは本当に行ってよかったです。他のマーラー・ツィクルスも聴きたくなります。どれか一つでもいいから新潟でやってくれないかな…。

2012年8月12日日曜日

おしょろさまと家庭の文化

 我が家では、毎年お盆になると茶の間に精霊棚を飾りつける。地元の言葉では「おしょろさま」と呼ばれる棚飾りだ。床から戸の上部のサッシ(といっても木だけれど)の高さにちょうど合うように作られた、木の細い柱を4本立てて、ちょうど腰の高さくらいに板を引き、そこにお供え物を飾る。お供え物の奥には仏画がかけられ、周囲には多聞天、持国天といった仏教四天王の名や教文が書かれた札が下げられる。そして棚の全面上部の柱からはおしょろさま用に小さく作られたカボチャやインゲン、ホオズキなどが糸で吊るされる。手前に線香台や鐘を配置して完成だ。おしょろさまを組み立ててから家族で墓参りをし、そこで燈したロウソクの火をおしょろさまのロウソクと線香に移すことで、お盆のご先祖様のお迎えが行われる。この夏の風物詩は、いつもの茶の間に何か非日常なものが混ざり込んだ不思議な感じがして、その控えめながらもご先祖様をお迎えするという祭事的な飾りの面白さもあり、子供の頃からお盆になるとはこのおしょろさまが組み立てられるのを楽しみにしていた。

 そのおしょろさまを今年は作らず、据え付けられている仏壇の上に簡易的におしょろさま用の野菜を吊るすだけで今年は済ませた。父は表向きちょうど祖母の通院が重なった等の理由を挙げてはいたが、内心は毎年このような飾り棚を作るのが負担になっていたのだろう。おしょろさまを作ること自体もそうだし、おしょろさまがあればそれをお参りに来るお客様の相手もたくさんしなければならない。お盆休みは、三連休すら少ないウチの店にとっては年二回の貴重な長期休暇。それを煩わされたくないという思いもあるのかもしれない。

 この我が家のおしょろさまもそうだが、古くから日本各地に伝わる文化・風習には、美しいもの、風情のあるもの、土地や過去・歴史への深い敬意を感じるものがたくさんある。でも、その文化や風習というものはその中でそれを守り、実施している人達にとっては大きな負担となる側面もあることは、特にその中にいない人達からは忘れられがちだ。 特に行政からの補助は絶対に期待できないような、各家庭で行われているような文化・風習は、その地域での生活に無言の圧力をかける。わかりやすい例では親戚中集まった時のおさんどん然り。月経(つきぎょう)然り、今回お話しているお盆のおしょろさまとそのお参りもまた然り。高齢化に伴い、その負担に耐えられなくなり少しずつ諦められる文化・風習は多い。

 それでもやはり、中にいても諦めたくない美しい文化・風習も多いのだけど。このおしょろさまなどは、小さい頃から楽しみにしていたものだけに少し寂しい気もする。ただ、「もう止める」となった時に「この美しい風習を途絶えさせたくない」と単純に訴えることはできない。その重みもまた、わかるから。

 ところで、こういった文化・風習には、その中で世代的・時間的連続性をもって体験され続けることで意味をなすものも多い。そういったものを、美しさや意義、有用性といった外部的・客観的な価値観で評価することは難しい。その文化・風習の中にいる人にとって、意味や意義は閉じた形で内在するものだからだ。

 例えば今回のようにお盆におしょろさまを作ってお墓参りをし、ご先祖様の霊を家に迎え入れる。それは父も祖父も曾祖父もやってきて、自分でも幼少から自然にやっていたことだからこそ意味がある。小さい頃から繰り返すことで、自然と文化が身体に刷り込まれているのだ。ご先祖様の代からずっとやってきたことだからこそ、"家"の中でのつながりを感じるし、いつか自分もまたそこに組み込まれるのだろうという"家"の連続性を、過去や未来への連続性を、こういった風習では無意識にでも感じる。あるいはそういったものが、家というものへの帰属意識を育てていたのかもしれない。この"家"の歴史に、自分も組み込まれているのだということ。それを歴史と受け止めるか、しがらみと感じるか…。

 このような風習においては、小さな頃から自然と体験されることでその風習の意味が内在化される。それは過去への敬意であり、"家"の連続性の認識であり、自分もまたそこに組み込まれているのだという足元の確認でもある。こういった風習の価値は客観的な美しさや意義で単純に計ることは難しい。あくまで、体験から自身の中に意義が内在するものだからだ。

 だから、そこに対し、例えば「精霊棚の飾りはもっと美しい方がいいのではないか」とか「もっと簡素な作りの方が便利では」とか言われても、あまり心には響かない。時代とともにお供え物の内容などは変わるけれど、基本的には連続している、変わらない、そのことが大事なのだ。過去につながっているという感覚。未来には自分もここに還ってくるのだという、漠然とした連続性の感覚。外部から見たらただのみすぼらしい儀式でも、中の人には深い内在的な意味がある風習という行為。それを外部から評価することはあまり意味がない。基本的にそれは中にいる人にとってしか意義のないものだから。その点で、同じ伝統でも外部に向けて開かれた、最近話題の文楽のようなものとは性質が違う。

 文楽にも楽しむために必要な背景や知識理解はあるけれど、基本的には外部の人が訪れて楽しむための文化だ。外部を受け入れる用意のある伝統だ。でも、各家庭で行われているお盆の精霊棚などにはその用意はない。その中に居続ける限りにおいて意味があるのが家庭における文化・風習だ。その点が異なる。 家庭における文化・風習は、閉じていていいのだ。例えば東京から誰かが取材に来てその風習を見たとする。すると「みすぼらしい」とか「価値がない」とか感じるかもしれない。それは、外部から来たものには家庭の文化・風習に意味を感じるための内的な連続性が欠けているからだ。けれども、内部にいる人にとっては意味を、価値を持つ。家庭の文化・風習とはそういうものだ。

 そんなことを考えつつ、今年ももうすぐ、盆が来る。ここを過ぎるともう夏は終わりに向かい、後は収穫の秋へまっしぐらだ。

2012年6月25日月曜日

きよふく、結婚式

 去る6月23日、クラギタの盟友きよふくがとうとう結婚式を挙げた。思えば彼との出会いは一回生の時、4月のクラギタ新歓演奏会。当時軽音に入ってエレキの帝王になる気マンマンだった自分だが、たまたま見た軽音の新歓ライヴのレベルの低さに絶望し、身の振り方を考えていた時だった。何故かは覚えていないが二日酔いで一日クラクラしていたその日、清心館の教室の黒板の端に板書してあった「クラシックギター部新歓演奏会 本日」みたいな宣伝がやけに頭に残り、夕方帰り際に演奏会会場に気まぐれで立ち寄ったのだ。そこで出会ったのがきよふくだった。

 演奏会場に入ると、もう演奏会は終わって写真撮影をするところだった。演奏など一曲も聴いていない自分も何故か撮影の列に加わったわけだが、そこでたまたま隣にいたのがきよふくだった。何を話したのか、その場で盛り上がった自分は、そのままきよふくの下宿に遊びに行き、そこで彼の高校時代のギター部のVTRを見せられる。それが自分とクラシックギターとの"本格的な"出会いだった。これは凄いと、素直にそう思った。彼の母校、松坂商業高校は当時ギター合奏で栄華を誇り、100人を超える部員に全国連覇のクオリティをもって、海外へ演奏旅行にも出かけていた。いきなり、その鮮烈な映像を見せられたわけだ。そこから、自分のクラシックギター部での人生が始まった。当のきよふくは、高校時代の部活との落差が落胆につながったのか、大学の一回生の頃はあまり部活に熱心ではなかったのだが(笑)。

 その後数々の思い出が彼とはあるわけだけど、そんなきよふくもとうとう結婚。のざてっちゃんと共に結婚式に出席させてもらって、自分も万感の思いで一杯でした。またのざてっちゃんが本当に自分のことのように、自分のこと以上にきよふくの結婚を喜んでいるのがとても印象的。長い時間をかけて親密な空気をゆっくりと過ごした披露宴、素晴らしいものでした。

 思えば、大学時代からきよふくの言葉の端々には自分の家族をとても大切に思う気持ちが感じられた。今回、奥さんとはもちろん初めてお会いしたわけだが、その紹介や言葉を聴いていると、奥さんもまた同じように、とても家族を大切にしている人なんだなと感じた。恐らくはその大切な価値観が深いところで共有できたからこそ、結婚というところまであの慎重なきよふくが辿り着いたのだなと、そのように感じた。とてもお似合いな二人。そう思うと、やっぱり素直に嬉しい。

 新郎・新譜とも友人は二人ずつしか呼んでいなかったので、披露宴の後にいわゆる二次会はナシ。代わりに、キムとシノが披露宴が行われた津まで駆けつけてくれ、きよふくも含めて5人で飲み直した。こうして飲んでいると大学卒業後10数年の時なんてあっという間に埋まる。もちろん少し太ったとか、白髪がおか、生え際がとか、そんな小さな諸々はそれぞれあるけれど、飲んで話していると結局皆、お互いあの頃と変わってないなぁという話になり、昔のこと、今のこと、これからのこと、大切なこともどうでもいいことも、色々な話に花が咲く。今は遠く離れてしまっていても、普段はそれほど頻繁に接する機会はなくても、やはり大学時代という貴重な時間を一緒に駆け抜けた仲間というのはいいものだなと思う。会うのは本当に久しぶりでも、気を使うでもなく本音で話せる。今回はきよふくが結婚式という形で仲間が何人か集まる機会を作ってくれたけど、たまにはこのように集まるのも素敵だなと、その時皆で話していた。何年かに一回、クラギタ同窓会でもやるかと。実現するかどうかはわからないが(というかこのままだと実現しなさそうだが)、小さいなりに夢のある話だ。

 改めて、きよふく、ご結婚おめでとうございます。自分の大学時代の過ごし方に、あるいはその後の人生にも、とても大きな影響を与えてくれたきよふくの結婚式に、のざてっちゃんと共に出席できたのはとても光栄だし、嬉しかったです。奥さんとどうぞ、お幸せに。人生のパートナーを得て今後も一層の努力とともに未来を目指すきよふくに、こちらもいつでも胸を張って会えるよう顔を上げて生きていくさ。また何かの機会に楽しい酒を飲みましょう。See Ya!

2012年5月28日月曜日

東京交響楽団新潟定期『大地の歌』@りゅーとぴあ

 今日はりゅーとぴあで東京交響楽団新潟定期演奏会、プログラムはモーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』とマーラー『大地の歌』。ユベール・スダーン指揮、ビルギット・レンメルトのメゾソプラノ、イシュトヴァン・コヴァーチハーズィのテノールでした。この演目を見た時から、新潟では『大地の歌』はなかなか聴けないし、行ってみたいなと思っていたコンサートです。元々クラシックの中でも歌曲が苦手な自分は、マーラーの中でもこの曲はあまり聴きこんでいる部類ではありません。ので、演奏を聴きにいくというよりは、この『大地の歌』のどこがいいのか、その魅力を教えて、スダーン&東響、くらいの気持ちで聴きに行きました。

 配られたパンフに『大地の歌』の歌詞と対訳が付いていたので、それを見ながら聴いてみました。するとなるほど、この詩に対してマーラーが抱いたイメージがどのようなものか、音を通じて明確に伝わってくる。やはり歌曲というものは詩のイメージをつかむことが大事です。音だけではなかなかわからない。 一応歌詞があれば聴きながら追う程度にはドイツ語の読みがわかることを今日ほど感謝したことはなかったです(笑)。ちゃんと追いながら歌詞を読んでいると、詩のある部分に対してマーラーがどのように感じたのか、それを指揮者がどう表現しようとしているのか、それがちゃんと伝わってくる。そこが「ああ、面白いな」と思いました。たまに「へぇ、ここは自分が読んでいる詩のイメージとは違うな」とか、そんな面白み。

 『告別』を詩を読みながら聴いていて、友と別れて故郷に死に場所を求めて帰って行った語り手は、最後には救われたのだろうか、そんなことが気になりました。音楽は暖かいとも寂しいとも取れる不思議な静けさの中で幕を閉じます。人生の刹那さ、若さ、美しさの儚さを繰り返し歌っていくこの『大地の歌』で、最後語り手はその刹那から救われたのでしょうか。永遠の大地と同化することで。

 スダーン&東響の演奏は、マーラー独特の毒気は薄いかもしれませんが、詩を読んで、追いかけながら聴いているとその世界がイメージが、鮮明に映像として浮かんでくる。その意味で曲と演奏が、指揮者とオケと歌手が、一体となって『大地の歌』の世界を描く、実にいい演奏だったと思います。 欲を言えばテノールにもう少し声量がほしかったですが、それでもこの曲の世界を十二分に堪能させてくれました。おかげでこれまであまり聴き込んでこなかった『大地の歌』も好きになれそうです。やっぱり生で聴いて初めてわかる音楽の機微というのはあるものだなと、改めて感じたコンサートでした。

2012年5月10日木曜日

Android携帯が死んだ日

 今日まる一日、私のAndroid携帯が完全に死んでおりました。

 前の晩からひたすら再起動を繰り返し、いつまでたっても使える状態にならないので諦めて放置して眠りについたら、朝になってウンともスンとも言わず、電源が入らない状態に。「再起動しすぎて電池が尽きたか?」と思って充電しようとしても電池がたまっていきません。あまつさえ、コンセントにつないだ状態でも起動直後に一瞬画面が見えるものの、2~3秒でまたすぐ落ちる始末。「こりゃダメだ」ということで、ショップに持っていくことにしました。

 できれば午前中にも治してしまいたかったのですが、仕事がバタバタしていたためショップに行ったのは閉店間際の19時半。色々と調査をしてもらって結局本体に不具合が生じているとのことでした。私のAndroid携帯は明日でちょうど契約一年になるとのことで、なんと今日の時点でギリギリ一年未満の保証対応が可能な期限!対応してくれた店員の方も「残り1日!」と驚いておられましたが、その場で本体を新しいものに交換してくれました。これが今日持っていった場合だと、もう一年になるので店頭での交換ではなくメーカーに送っての対応で、10日ほど時間がかかってしまっていたそう。いやー、危なかったというかラッキーというか。アプリのインストールや設定はやり直しになりますが、それでも本体が新しくなって甘くなっていたボタンなんかも当然快適になったのでO.K.です(笑)。

 ショップの方の対応を見ていて、とても丁寧に原因の切り分けを行い、契約の範囲で出来る限りその日のうちに携帯を使える状態に戻そうと色々対応してくれる姿勢には非常に感服しました。一年未満で携帯本体が壊れるなんて一言クレームつけてもよさそうなものですが、その対応を見ているとクレームどころかむしろお礼が言いたくなってくる。お客様への対応の姿勢というのは、やはり大事なんだなとも感じた次第です。自分も大変な時こそ、丁寧で的確な、お客様に感謝されるような対応ができるようになりたいものだと思いました。

2012年4月23日月曜日

ラ・フォル・ジュルネ新潟プレ公演

 今年で3年目となるラ・フォル・ジュルネ新潟、今年は日程の都合上本公演には足を運ぶことができないので、せめてということで本日行われたプレ公演の方に行ってまいりました。松沼俊彦指揮 新潟交響楽団で、ショスタコーヴィチの『祝典序曲』と同郷のピアニスト小杉真二さんをソリストに迎えてのラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番。そしてチャイコフスキーの『くるみ割り人形』より抜粋です。新潟交響楽団の演奏を聴くのは初めてですし、小杉真二さんのピアノも10年ぶりくらい。楽しみにしておりました。

 演奏は一曲目のショスタコ『祝典序曲』。これがよかった。一聴ガタ響は金管にパワーがあるオケだと感じましたが、この曲のクライマックスでは正にその金管が炸裂。ステージ後方の2階席にも並んだトランペットが最後豪快に音を出して大音響・大迫力の中フィニッシュします。気迫のこもった演奏に、後ろの席に座っていた見知らぬ人も「これはアマオケのレベルじゃないな」と感心しておりました。

 続くラフマニノフのピアコン2、割と音量で力押ししてくるタイプのガタ響に対して、小杉さんのピアノは一人で立ち向かうにはちと線が細い感じでオケが強奏するとピアノはまったく聴こえなくなるくらい。特に第1楽章はほとんどピアノなんて聴こえないくらいバランスが悪く、ちょっとひやひやしたものでした。とはいえ第2楽章や、アンコールで演奏されたチャイコフスキーの『10月秋の歌』での繊細でロマンチックな歌い回しはさすが。しっかりと音楽を堪能させてくれました。

 後半最初に行われたインタビューで語ったところによると、小杉真二さんは今回ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番初挑戦で、演奏依頼があった時最初は断ったんだそう。最終的には引き受けて、この難曲に3ヶ月足らずでの準備で臨んだそうです。彼が語ったラフマニノフの言葉。「音楽は心から生まれて、心に届かなければ意味がない」。 ラフマニノフは割とカッコよさ重視のような印象を勝手に持っているのですが、そのラフマニノフがこのような言葉を語っていることは少しばかり意外でした。

 『くるみ割り人形』も多少荒っぽいながらも気持ちの入った快演。ガタ響の今回の公演にかける気持ちが伝わってくる熱い演奏でした。

 新潟のクラオタ達の話によると「とにかく揃わない、演奏力が低い」ことで有名らしい(?)新潟交響楽団。あまりにいい話を聞かず、酷い噂ばかりなので「そんなに?そんなに酷いの、ガタ響!?」と思っておりましたが、聴いてみるとなかなかどうして、そんなに悪くないじゃないですか。確かに縦の線が揃わないこともしばしばあるし、パワフルな金管に比べるとちと弦は音量不足だし、全体的にピッチの甘い感じもしますが(特にホルン)、指揮者を中心に自分達の音楽を見据えてそこに向かって突き進んでいくパワーと熱気は素晴らしい。音楽への意思が感じられる演奏でした。テクニカルな面はともかく、これなら音楽としてそう悪く言うこともないのにねと思いながら、今回の公演は幕を閉じたということです。

 さて、私のラ・フォル・ジュルネ新潟は今年はこれで最初で最後。また来年、新潟で開催してくれることを祈りつつ、本公演も行かれる皆さん、是非楽しんで来てください。

2012年3月19日月曜日

にいがた酒の陣 2012

 というわけで行ってまいりました、にいがた酒の陣2012。新潟県内90の酒蔵が朱鷺メッセに集い、試飲料2000円のみで各蔵自信の銘柄を複数飲むことができる酒飲み垂涎のイベント。昨年・一昨年は店の展示会とかぶり、なおかつ昨年は震災のため開催中止となったため、私クラスの酒好きが新潟に戻ってきたにも関わらず、今回が初参加となります。酒の陣会場ではたくさんの銘柄を飲んだので正直全部は覚えていないのですが、普段飲んでいるお気に入り(久須美酒造や緑川酒造等)、プレイベントで発掘した雪椿酒造の『越乃雪椿』の他に、特に印象に残ったものをいくつか。

 やはりさすがと感じたのは雪中梅。新潟としては甘口な高級酒として有名な銘柄でもありますが、上品な甘みと飲みやすさ、飲みごたえ、全てを満たしており、これだけたくさんの銘柄を飲んだ中でも味が映えておりました。越後伝衛門の『純米吟醸生酒あらばしり』等も酸味がありフルーティーな味わいがなかなか新鮮でした。そしてダークホースが三条・福顔酒造の『ウイスキー樽で熟 成させた日本酒』。たくさん飲んだ上に酔っぱらってしまいよく覚えていませんが、とにかくこれが美味しかったのだけは覚えております(笑)。

 10万人を超える動員があったらしいにいがた酒の陣2012、人ゴミも凄まじかったですが、あそこはまさに酒飲みのユートピアでした。また来年も行きたいものです(笑)。

2012年2月29日水曜日

2・29の日記

 まだ朝だが、今日は日記を書こうと思う。それは日記じゃないんじゃないかというツッコミもあるだろうが、とにかく日記だ。せっかく4年に一度のうるう年、2月29日があるのだから、その日付の日記を残さないわけにはいかないというのがその理由だ。だから最近のツイート履歴の中から、「私にとって哲学とは」を語ったものを補足しながら書いてみよう。

 哲学とは何かと問われたら、世の中の具象的なあれこれの中から普遍性の高い抽象的な真実を探す試みだと答える。抽象的であることは曖昧であることではない。物事の外延を広げ、内包を狭めて論理を汎用化・普遍化すること。言いかえれば純粋性の抽出であり、その抽出のための過程が哲学となる。

 例えば雪と白米と白紙について考えてみよう。これらは雪、白米、白紙である限りそれぞれ別個の異なるものだ。それらの内包を見ていくと雪は白く、冷たく、空から降るものだし、白米は白く、穀物であり食物で、炊くことによって食べることができるし、白紙は白く、薄く、ペンや鉛筆で何かをそこに書くことができる。外延を見る限りは雪は雪であり、中にぼた雪や粉雪は含むが、白米や白紙は含まない。白紙も普通紙、和紙、コピー用紙は含むが雪や白米は含まない。そういうことだ。だが、ここから「白い」という抽象概念を抜き出すと、その「白い」という概念はどうなるだろうか。外延は一気に広がる。「白い」という概念は雪も白米も白紙も内包できる外延を持つ。が、「白い」という概念の内包はとても少ない。白いからと言って何かができるわけではない。他の色に染まりやすい、等が内包になる。外延を広げて内包を狭めた抽象概念を取り出すとはそういうことだ。

 この例えは単純なモノだったが、これを自身の体験や見聞きした事象・論理に対して行うことが哲学なのではないだろうか。一見つながりがないように見える様々な体験・事象・論理から、余計な内包を捨象して外延を広めていった結果見つかる、抽象化された真実。それを探る試みが哲学なのではないだろうか。

 だから「哲学なんて役に立たない」という言い分には反論できる。哲学によって抽出された抽象的な真実は、その外延の広さゆえに元々抽出された事例を超え、同じ外苑に含まれる事象に今度は具象化して実装することが可能になる。その実装の過程が時により実践と呼ばれたり、発想の転換と呼ばれたりする。 雪・白米・白紙から抽出された「白い」という概念は、逆に具象化していけば今度は白いシーツや白い犬なんかにも使える。「白い」という外延に含まれる以上、「白い」が持つ内包はその具象的な何かも持ち合わせているのだなと理解・対応ができるわけだ。

 ある物事から抽出された真理を別の物事にも適用することで、個別の具象的なことに例えそれが初見であっても応用を効かせることができる。これほど役に立つものもないんじゃないかな?世間の具象的なもののあれこれに、すべて具象的に立ち向かい、理解しようとしたら気力も時間も足りなくなってしまう。

 この抽象化の哲学は、青木淳氏の『オブジェクト指向システム分析設計入門』に大きく影響を受けた。オブジェクト指向の技術書ではあるけれど、オブジェクト指向という技術の思想性を教えてくれ、そしてさらにその思想の裾野の広さ、深さに気付かせてくれた。SEを辞した今でも大切な、稀有な名著。

 2月29日、うるう年の日記。改めて、自分が前職でオブジェクト指向的思考から得た哲学について書いてみた。

2012年2月26日日曜日

グレンツィング・オルガンの魅力 山本真希オルガンリサイタル@りゅーとぴあ

 いつもりゅーとぴあのコンサートホールに行く度に、ステージ後ろ2階席から天井にかけて大きく壮麗に鎮座しているパイプオルガン。常々どんな音・鳴り方をするのか聴いてみたいと思っていたのですが、ようやく聴くことができました。りゅーとぴあが誇るグレンツィング・オルガン。りゅーとぴあの専属オルガニスト山本真希が奏でるオルガンは多彩な音色・響きで音楽を立体的に組み上げて行き、素晴らしい空間が出来上がっておりました。

 当日の題目は『J.S.バッハとスペイン音楽』。前半はエレディアやアラウホ、パブロ・ブルーナといったスペインの作曲家による音楽が演奏され、後半はバッハと新潟出身の馬場法子によるグレンツィング・オルガンのための委嘱新作の初演という形になります。スペイン音楽、バッハ、そして現代の作曲家による委嘱新作の初演という、この実に魅惑的なプログラムもこのコンサートが聴きたかった理由です。

 エレディアの『エンサラーダ』で始まったコンサート。実はパイプオルガン自体生で聴くのは初めてだったので、その音色というとよくバッハの『トッカータとフーガ BWV565』でよく聴かれるような、荘厳できらきらと金属質で輝くような音色ばかりだと思っていた私は、出だしの意外とデッドな響きに少し肩透かしをくらいます。「あれ?」と。「こんな音なの、パイプオルガンって?」と。まるで小学校の音楽室にあった足踏みのオルガンのような、丸くて温かくはあるけれど、飾り気のないデッドな音色。ところがそれが曲を進むうちにどんどん音色が変わっていく、増えていく。フルートみたいなコロコロと転がるような優しい高音、自分のパイプオルガンのイメージ通りの金属的で艶やかな響き、唸りをあげるような低音、そしてトランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色!その他様々に細かいニュアンスで音色が変わっていくし、声部によってまったく違う音色が同時に弾き分けられたりする。パイプオルガンとはこんなに多彩な音色が奏でられるものなのかと驚きながら聴いていました。そしてこの多彩さはパイプオルガン全般に言えることなのか、それともこのりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンにだけ言えることなのか、それが非常に気になりました。自分はパイプオルガンと言えばJ.S.バッハのオルガン曲を中心にほんの少しばかりしか聴いていないわけですが、その中ではパイプオルガンにここまで多彩な音色があるとは感じられなかったのですから。前半の最後、作者不詳の『有名なバッターリャ』ではその多彩な音色が次々に現れ、金管が強演するような鋭い音圧・迫力に圧倒されます。プログラムの解説には「スペイン特有の水平トランペットやエコーが効果的に用いられ…」とのシンプルな言及。休憩時間に入り、早速このりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンについて調べてみました。

 りゅーとぴあのパイプオルガンは、スペインのグレンツィング工房が作成したもの。パイプオルガンの中でも特にスペインの音楽が演奏できるようスペイン独特の構造が取り入れられて製作されたとのことでした。一つの鍵盤の高音部と低音部で異なる音色を使うことができる「分割ストップ/分割カプラー」、正面に向いて水平に金管が取り付けられた「水平トランペット管」、さらにはスペイン風のフルート管やプリンシパル管等、スペインの多彩な音色を必要とするオルガン音楽を奏でるための独特な機構を持った、多機能・多彩なオルガン。それがりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンというわけです。なるほど、私が「トランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色」と感じた音色は水平トランペット管だったわけです。確かに管が客席正面を向いて水平に出ているわけですから、それは突破力のある音にもなるでしょう。そしてパイプオルガンの音楽はほぼバッハくらいしか聴いていなかった自分は、その水平トランペット管の音色など知らないはずです。確かに後半のバッハの楽曲では水平トランペット管の音は出てきませんでした。そういうことだったのです。

 りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色の理由に納得がいったところで今度は後半戦、J.S.バッハと馬場法子による委嘱新作です。後半1曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声あり BWV645』は自分にとってもお馴染みの大好きな曲。そして何より『前奏曲とフーガ ト長調 BWV541』の演奏が素晴らしかった。山本真希の演奏は、多彩な音色を持つグレンツィング・オルガンの個性を活かして細かく音色を使い分けながら、バッハの高度な対位法が裏に隠し持つ旋律のリズム感をテンポ良く転がしながら気持ちよく聴かせてくれます。音色も音量もしっかりと練られ、組み上げられた非常に立体的な音楽。だからフーガの各声部も明確に聴き取れ、心地よい響きに身を委ねていればクライマックスではしっかりといつの間にか到達した大音量で盛り上げて大きなカタルシスとともに終わってくれます。このBWV541は本当に素晴らしい演奏でした。

 そしてプログラムの最後は新潟出身の作曲家、馬場法子による委嘱新作『クリスマスの歌"高き天より我は来たり"によるカノン風変奏曲 BWV769と4つの間奏曲』。これはバッハのBWV769の5つの変奏の間に馬場法子が作曲した間奏曲が挿入される形となっています。つまりバッハ-馬場-バッハ-馬場…という形で音楽が進んで行く。どのような音楽になるのか、実に興味津々でした。

 バッハのBWV769の第一変奏が終わり、いよいよ『Intermezzo Ⅰ Knock and ring』。オルガンを「息を送られることによって生きている巨大な生物」と感じたという作曲者が、「彼が本当に生物なのかを確かめるべく、体をノックしたり呼び鈴をならしてみたり」する様を描写したという音楽です。静寂の中から、音を出さずに風だけを送り、ブオー…と巨大な息遣いを思わせる描写、続いてカンカン、というノックや高音の呼び鈴等、描写的な手法によるいかにもな現代音楽。私の左側に座っていた小学生くらいの女の子は隣の母親に小声で「何やってんの?」と聞いてました(爆)。個人的には風を送る音による息遣いや、蠢き、慟哭を聴いている内に確かにこのオルガンが巨大な生物で、今にも動き出しそうな印象が感じられて、この曲はなかなか、面白いなぁと思いながら聴いておりました。如何にも現代音楽、って感じではありますが、この曲はいい。

 ただ、2つ目以降の間奏曲は少々期待外れというかわからなかったというか…。まぁグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色は活かしていたけど、オルガンの魅力を活かしていたかというとそうでもないように思えて、あまり感じ入ることができなかったというところが正直なところです。解説を読めば、まぁやりたいことはわかるんですよ。「ああ、それでこうなるんだね」と納得もできる。このスペイン様式のオルガンの多彩な音色でなければ実現できない音楽を作ろうとしたのはわかります。で、確かにその意味ではそれは実現されているんだけど、もう少し普通に音楽を聴いての感動とか、気付きとか、面白さがあてもよかったなぁ、と。1曲目の間奏曲にはそれがあったんですが。2曲目以降の間奏曲を聴きながら、この音楽は今日ここで初演されて、それだけならいいんだろうけど今後10年、20年、あるいはそれ以上、このりゅーとぴあでこのオルガンとともに新潟市民に愛され続ける曲になるのかと言えば、そうはならないだろうなぁと、そんなことを考えてしまいました。どうせこのオルガンのために委嘱新作が書かれるのなら、例えばりゅーとぴあでのオルガンのコンサートの最後のアンコールの1曲はお約束でこの曲みたいな、そういう新潟のオルガンを聴く人々に長く愛されるような音楽だったらよかったなぁ、と。まぁそんな耳当たりのいいような音楽では現代の作曲家の野心は満たせないのでしょうけど。そこだけ、少し残念でした。

 まったくの余談ですが、前半私は一階席の後ろの方正面に座っていたのですが、その時に席一つ空けた隣に外人の男性連れの女性が座っていました。カーテンコールで作曲家が紹介された時にわかったのですが、その女性が作曲家の馬場法子でしたとさ。

 ともあれ、りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンの多彩な音色と素晴らしい音楽を堪能でき、満足なコンサートでした。この日は山本真希がりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンで録音したCDの発売日ということで、会場でCDの即売及びサイン会も行われ、しっかりゲットして帰ってきたとのことです。このCDはりゅーとぴあでしか販売されないそうです。そもそも、りゅーとぴあがCDを製作したのってこれが初めてなんじゃないでしょうか?ともあれ、りゅーとぴあ専属オルガニスト山本真希によるオルガンコンサート、楽しませてもらいました。次はあのオルガンでサン=サーンスの交響曲『オルガン』聴いてみたいですね。

2012年1月30日月曜日

就農者を増やすのはお金で解決できるのか?!

 農水省が年間2万人の新規就農者を増やすことを目的として『新規就農総合支援事業』を実施することになりました。農水省のHPで公開されている資料は以下になります。

 http://www.maff.go.jp/j/budget/2012/pdf/kettei_b007.pdf
 http://www.maff.go.jp/j/new_farmer/n_syunou/roudou.html

 この新規就農総合支援事業について、わかりやすい問題提起を農家のこせがれネットワークの 脇坂 真吏さんがブログで書いてくれています。以下になります。
 農家のこせがれネットワーク ブログ『就農者を増やすのはお金で解決できるのか?!』

 詳細は上記ブログを読んでいただいた方が私が書くよりわかりやすいと思うのですが、ここで最も大きな問題提起となるのは「45歳以下の新規就農者を大幅に増やすためには所得補償をすればいいのか」という部分。脇坂さんが書かれているようにこの補助金は「すでに何かの用件によって農業に関心をもち、検討をしている人々」には利用価値はあるでしょう。農業大学等での研修期間に払われる準備型については奨学金的な考え方で見る分には悪くないとは思います。でも、経営開始型の方はよく考える迄もなく問題が多くあります。例えばこの補助金を受ける前提として、
・自ら農地の所有権または利用権を保有している
・主要な機械や施設を自ら保有または借受している

 の2点が入っていること。熱意ある新規就農者でも、その多くが引っかかるのはまずここなんじゃないでしょうか?農地を取得しようにも農業委員会の認可がなかなか下りないとか、農地法の定める5反の農地を耕作しようとするとそれだけの農地を探すのがまず難しいとか、初期の経営を支える意味でも兼業で農業を始めたいと思っても経験のない新規就農者が兼業で5反は実際問題まず難しいとか、そんなあれこれ。機械を買う資金も、そのために補助金がほしいのに機械を保有していることが前提となると…。要はこの補助金、家が農家の若手が実家に帰って農業始めるなら使いどころはあるかもしれないですが、本当の意味での新規就農者には厳しい。そしてそれでもまだお金が出るだけいいかもしれませんが、これでは今現在熱意を持って新規就農を考えている人の補助には多少なりともなりえるとしても、新規就農者のパイを増やす結果にはつながらないかなと。

 これもまた脇坂さんが書かれていますが、新規就農者を増やすためにはまず農業に興味を持ってもらう人を増やさなければなりません。そして、興味から実際の就農にまで行動を起こしてもらうには今度は農業は魅力的である、とか農業は儲かる、というイメージを持ってもらわないといけません。いくら補助金が出たって、魅力がない、儲からない産業に人は入ってきません。当然です。今はその「魅力がある」「儲かる」部分に対する努力はもっぱら農家(法人含む)個人にかかっているのが現状で、一部を除けばあまり明るいとは言えません。それが世間一般での農業に対するイメージでしょうし、全体の見通しが現状あまり明るくないという点では多くの農業の現場でもそうでしょう。私がお客様の農家の方とお話をしていても、先行きについて悲観的な見方をされている方のなんと多いことか。もちろんそうでない方もまた多くいらっしゃいますが、この現場の悲観的な声をできるだけ少なくし、明るい声を大きくして農業全体を明るくするような方向が見えてこないと、なかなか新規就農者というのは増えてこないだろうと考えています。

 では、そのために政府の施策として何をするべきか、どうしたらいいのか。真に(特に家が農家でない人の)新規就農のハードルとなっているのは実際には以下だと感じています。
・農業に明るい展望が見難い現状
・農業の技術習得
・農地の取得・借受のための資金や制度他のあれこれ
・機械の購入のための資金

 このうち、他は直接的な対策が見えやすい(実施しやすいかどうかはともかく)としても、一番重要で一番難しいのが農業に明るい展望を持たせることができるかどうかというところ。自助努力による部分が大きい現状をどうすべきか。そもそもそれは国が何とかできる問題なのか、また、何とかすべき問題なのか。

 長くなってきました。この先についてはまた考えて書いてみたいと思います。

 最後に蛇足ながら、山梨県笛吹市でも新規就農者に100万円の助成金を出そうというニュースもありました。お金で新規就農を促そうという動きは多いみたいです。
 笛吹市:就農者に年100万円助成方針 45歳未満対象、「果樹の郷守りたい」 /山梨

2012年1月2日月曜日

元旦から『山本五十六』

 明けましておめでとうございます。2012年、新たな年がやってまいりました。皆様どうぞ今年もよろしくお願いいたします。昨年は日本では東日本大震災を始めとにかく災いの多い年でした。世界に目を向けると、中東のFacebook革命を始めビンラディンやカダフィ、金正日の死去等、世界で独裁者と呼ばれた人達が去っていく年でもありました。間違いなく色々な意味で激動の年であった2011年。この新しい2012年はどういった年になるのでしょうか。願わくば、もう少し平穏な一年であることを。

  私個人的には今年は「考えて立ち止まってばかりいないで、勇気を出して前に進む」をテーマにしていきたいと思います。本当に自分がこの先仕事面で自立した経営者としてやっていくためには、思考ばかりして行動を起こせないことが多い自分の性格からまず変えないといけない。性格なわけですから簡単には変わらないと覚悟はしていますが、そこを何とか変えていけるよう、ここは本当に頑張らないとなと感じています。

 だからというわけではないのですが、元旦朝9時30分からの回で、新年早々映画『山本五十六』を観てきました。妻と二人で、1日だから1,000円だし、元旦の朝なら映画も空いてるんじゃないかということで、子供たちをおじいちゃんおばあちゃんに見てもらって行ってきました。

 いやいや新年最初から素晴らしい映画でした。実際に山本五十六があんなにカッコいい人物だったのか、考えや言動がどこまで史実に則しているのかはわからないですが(すんません…)、二重の意味で映画として非常に面白かったです。一義的にはもちろん、人間山本五十六のストーリーとして面白い。単純に山本五十六の人間性や、それをとりまく戦時中の状況の進展を眺めるストーリーとしてもテンポがよく、随所に魅力的な挿話が差し込まれて飽きがこない。

 そして、この映画は舞台こそ第二次世界大戦開戦前から戦時中をメインに描いているものの、その描写や言及はドンピシャで現在を思わせるのです。特に震災後の日本では、時代こそ違えど世の状況はこの時代と変わらないのではないか。そう感じずにはいられない映画でした。

 例えばメディア・情報について。三国同盟を締結するかどうかで揺れた大戦前、締結推進派の多くは日本語訳の『我が闘争』を読み、ヒトラーが日本を対等のパートナーと見てくれると信じていました。そして推進派の何人かが山本五十六や井上成美に「何故ドイツと同盟を組まないのか」と詰め寄る中、井上が『我が闘争』のドイツ語の原書のある部分を読みあげます。そこには"日本は取るに足らないが、同盟相手としては利用価値がある"的な書き方。「そんなことはどこにも書いてない」と動揺する推進派に、「日本語訳では都合の悪いことは削られているからな。何事も、大元までたどらねばな」と山本五十六。このエピソードが史実かどうかはともかく、この場面だけでも大いに現在に重なります。

  例えばTPP。賛成派も反対派も、多くの人が断片的な報道や日本語のソースだけを読んでああだこうだと語ります。P4の原文を少しでも読んだ上で話している人がどのくらいいるのでしょうか?あるいは原発について、どこまで技術的な詳細を調べ、どこまで経済的な資料を集め、話をしているのでしょうか?どの程度、各地の放射線量を信頼のおけるソースを探して検証しているのでしょう?戦争が始まれば景気がよくなる、先の第一次世界大戦では一気に日本経済が持ち直した、早く三国同盟を組んで戦争が始まればいいと浮かれる国民も、今のTPPについての一部の姿勢と重なります。

 現代は、当時とは比較にならない程多くの情報が手に入りますが、その多くは孫引きまたはそれ以上の末端の情報。大きな判断を下そうとする時、私達は果たして大元まで辿っているのでしょうか?ただ手元にある情報だけで思考停止して、そこに恣意性や誤謬があるとは疑わずに、あるいは恣意性をまた別の恣意性で疑ってバイアスをかけ直すだけで、ただ推論だけでものを語ろうとしていないでしょうか?山本五十六はよく部下に問います。「根拠は?」と。私達の言論は、ちゃんと大本まで辿った根拠に根ざしているでしょうか?

 新聞の在り方もそうです。山本五十六に開戦前は"三国同盟締結ありき"、開戦後は"無条件降伏の上での勝利ありき"でインタビューをする記者。実際に山本五十六が何を言うかに興味があるのではなく、自分が書きたいことを喋ってくれることを期待するだけのインタビュー。山本五十六が意にそぐわない解答をすると、気分を害して取材を切り上げる。さらにはミッドウェー海戦で実際は大敗して撤退を余儀なくさせられたにも関わらず、内心それに気付きながらも意図的に大本営発表の"転進"という言葉をそのまま使い、あたかも戦況が勝利の連続であるかのように報じる新聞。新聞はありのままの事実を伝えるのが使命ではないのかとの問いに、国民の士気を高め勝利に貢献するのが新聞の役目だと返す。この歪んだ使命感。これもまた、今のメディアと同じではないでしょうか。「世論は○○なのです」と問い詰めた記者に山本五十六が返した言葉が胸に刺さります。

 世論はどうでも、この国を滅ぼしてはいけない。

 この山本五十六の映画は、第二次大戦開戦前から戦中メインに描いていますが、その実、現在の日本を風刺し、これではいけないという強いメッセージを発するために作られたのではないか。そう思ってしまうほど、観ながら色々と考えさせられる映画でした。先日、どこかで見かけた言葉を思い出します。優秀な作品とは、決して伝えたいメッセージを表に直接さらしたりはしない。よい文学作品のように、表向きはメッセージなどないように思えても、それでも確かに伝わるのがよい作品なのだと。その意味では私にとってこの映画『山本五十六』はいい映画でした。

 元旦から、面白くもあり深く考えさせられもする映画に巡り会えた幸運。どうか2012年がこのように私にとって、また皆さんにとって幸せな年でありますように。