2011年6月28日火曜日

復興支援演奏会inミュンヘン ズービン・メータ『第九』

復興支援演奏会inミュンヘン ズービン・メータ『第九』 楽しみにしていたCDが届いた。ズービン・メータが2011年5月2日にミュンヘンで行った、東日本大震災の復興支援チャリティーコンサートのライヴCD。以前TVで放映されたN響との復興支援コンサートの演奏は、強い決意と並々ならぬ霊感に満ちた、まさに一世一代ともいうべき名演だったので、その時と同じ曲目が演奏されるこのコンサートCDにはとても期待していたわけだ。手元にこのCDが着いたのは一昨日の6月26日。AmazonやHMVの画面では6月28日朝5時半現在でまだ「6月29日発売予定」の状態になっている。「こんなに早く届いていいんだろうか?」と思いながらも、発売日前に聴けることにちょっとわくわくしながら、早速届いた当日、ライナー・キュッヒルが登場するN響アワーそっちのけで聴き始めた。

 2011年5月2日、この日メータが振ったのはバイエルン国立歌劇場管弦楽団及び合唱団、バイエルン放送交響楽団及び合唱団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と合唱団、実にバイエルンとミュンヘンの名立たる3つのオーケストラ・合唱団が集った連合オケ。バイエルンの弦、ミュンヘンの管が一つになるというだけでも垂涎のオーケストラ。彼らが旧知の間柄であるメータを通じて集まり、日本の復興のためにコンサートを開いてくれたわけだ。その心意気にはただただ感謝。

 コンサートはN響の時とまったく同様、演奏開始前に亡くなられた方々のために黙祷が捧げられた。その列にはバイエルン放送響の首席指揮者、マリス・ヤンソンスも加わったという。そして震災で亡くなられた方々に捧げる意味でバッハの管弦楽組曲第3番より『アリア』が始まる。いわゆる『G線上のアリア』。鎮魂の祈りとして演奏されたこの曲は、N響の時も今回も、メータの意思により演奏後の拍手は慎み控えるようにお願いされた。CDではさすがに黙祷の間は収録されていないが、静謐の祈りの空間から静かに浮き上がるように始まるこのアリアは、震災で沈んでしまった日本の心を、重い地面から、暗い闇から、静かに両手ですくい上げてくれているように感じた。わずかではあるかもしれないが、それでも確かに。願わくば、亡くなられた方々の魂もそうでありますように。

 そしてベートーヴェンの『第九』が始まる。静かなアリアの終わりから、思った以上に力強く入ってくる第一楽章の導入部。メータの指揮は全体に急ぎすぎず、聴かせどころではオケを煽って走っていくよりもむしろテンポを落としてじっくり聴かせる、そのような演奏をしてくれている。バイエルン/ミュンヘン連合オケのぶ厚い弦と管に支えられた、非常に響きの濃い、充実した演奏。

 正直、この演奏にはN響の時のような指揮者にもオーケストラにも満ちていた目が離せないような圧倒的な霊感、音に満ちていた強い意思とも無心な祈りとも感じる不思議な力は感じられない。だから、N響と同じものを期待して聴いていると少しイメージが違ってくる。自分も最初そうだった。あのN響の時に感じた圧倒的なオーラが感じられない。そればかりが最初は気になっていた。でも、最終楽章に入り、歓喜の歌の旋律をバスが最弱音で奏で始めた時、いきなりそこで印象が変わった。そうだ、この演奏はこれでいいのだ、と。N響の演奏は震災で被災した当事者の祈りだ。そこにはそこにしかない痛み、思い、祈り、希望、絶望、様々なものが渦巻いていた。だからこその演奏だった。でも、今演奏している彼らはそうではない。震災の当事者ではない。彼らの演奏はこう言っているのだ。

 我々は震災にあったわけではない。だから被災された方々の痛みは半分も理解はできないかもしれない。けれど、それでも我々は立ちあがろうとするあなたの傍にいることはできる。共に立ち上がろうとすることはできる。この音を通じて、と。

 そう感じると、これは非常に暖かい演奏だった。バイエルン国立歌劇場が、バイエルン放送響が、ミュンヘンフィルが、一堂に集って、通常よりも大きな編成で『第九』を演奏している。これだけの人が、この音を通じて傍にいてくれる。歓喜の歌の旋律をなぞるバスに、バイオリンが、他のパートが、加わってくる。自分もいるよ、自分もいるよ、と。たくさんの声が合唱から聞こえてくる。これだけの人が、今、ここにいるんだよ、と。とても暖かい、励ましの意味が込められた『第九』だった。

 そもそもメータは選曲をする際、「Allle Menschen werden Bruder(すべての人は同胞になる)」というメッセージを込め、この『第九』を選んだそうだ。このコンサートのプローベ初日、バイエルン/ミュンヘンの連合オケを見渡して開口一番「みんな知っている顔ばかりだ」と笑顔を見せたというマエストロは、その同胞達と共に被災された方々に、日本に、「我々も傍にいる」とメッセージを送ってくれたわけだ。N響の当事者の祈りとは違う、バイエルン/ミュンヘン連合オケによる、震災を包み込むとても暖かい『第九』。最後まで感じられるこのたくさんの人の息吹、暖かさが、とても力になるように感じられた。この暖かさが直接の被災をしていない自分だけでなく、本当に被災された方々にも届くことを願ってやまない。

2011年6月25日土曜日

米の輸出と原発問題

 2010年度の新潟県の米輸出量は約335トンと前年度から倍増していたらしい。輸出は日本の米農家が生き残り発展をするために欠かせない道の一つだと思うので、この実績は喜ばしいなと思う。

 一方、福島第一原発の事故を受けて、米の主な輸出先の一つである中国が新潟を含む10都県の米を禁輸にしているとのこと。やはり原発事故による農業への影響は、この新潟でも既に始まっている。

 ところで、原発事故の影響で輸出ができなくなるのなら、いよいよもってTPP参加は農業に壊滅的打撃を与えてしまう。輸出もできずにひたすら受け入れるだけになれば、さすがに日本農業はもたないだろう。輸出に希望を持った上でならTPP参加は検討の余地があったわけだが、原発事故の影響を考えると厳しい。困った事態になったものだ。

 原発問題で派生する米の国内供給に関しては、少なくとも今年は大丈夫だろう。政府備蓄米もあるし、いざとなったら転作で飼料米として出荷する米を主食用に回すこともできる。飼料米ったって主食用品種を普通に作ったのを減反のため便宜的に飼料米にしてるだけ。それらが主食用として供給されるまでの間に多少の政治的、あるいは流通的な混乱はあるかもしれないが、最終的に米の供給が足りなくなることは恐らくないだろう。新潟まで放射能検出されたら危ないけど。

2011年6月19日日曜日

鈴木秀美/リベラ・クラシカの『ジュピター』

 最近は朝4時に目覚ましをかけて、7時半に家を出るまでの間は子供達に気を取られずに済む自分のための活動タイムにしている。本を読んだり、黙々とネットをしたり、・・・まぁ大体はそんな感じだ。そして気分に合わせてBGMをかけるわけだが、今朝はモーツァルトでも聴きたい気分だった。CDラックのモーツァルトの辺りを物色し、鈴木秀美の『ジュピター』か、コリン・デイヴィスの40番、41番か迷った上に前者にした。鈴木秀美指揮、オーケストラ・リベラ・クラシカ演奏のモーツァルト交響曲41番『ジュピター』。そういえば買った時に1~2回聴いたが、あまり聴きこまずにそのまま放置してしまっていた。小編成で爽やかなイメージがあったと思うが、どうだったか・・・?そう思いながら、CDをかける。

 『ジュピター』の最大の楽しみは、やはりクライマックスのジュピター主題によるフーガの展開からエンディングまで。鈴木秀美氏の解説によると、C-D-F-Eのジュピター主題はメッサ・ディ・ヴォーチェと呼ばれる、音の膨らみと減衰の形にも当てはまる非常に普遍的な旋律らしい。モーツァルトのジュピターはこのジュピター主題の印象があまりに強烈なため、最終楽章のクライマックスではこのジュピター主題から最後のエンディングにどう着地するかが問題になってくる。個人的な主観では、ここを上手に着地できてる演奏はほとんどなく、大体はなし崩し的にエンディングに突入する。比較的上手に着地しているのは圧倒的な構築力で終始楽曲をガッチリと固めたクレンペラー指揮フィルハーモニア管(TESTAMENT盤)の演奏。これがこれまで聴いた中で最も好きな『ジュピター』の一つだ。鈴木秀美氏の演奏ではこのクレンペラーや他の多くの指揮者とは違い、立派に高らかにジュピター主題を歌い上げる感じではない。ジュピター主題を柔らかに展開した後、すぐにエンディングに向けて演奏を盛り上げるのではなく、フーガの終わりに達してもその柔らかな演奏を引き継ぎ優しくつなげ、自然な曲線を描くようにそのままエンディングに軟着陸していく。そして接地後に一気に大団円へと盛り上げていき、派手ではないが透き通った響きのフィナーレを迎える。実に自然で無理のないまとめ方だ。こういう解決の仕方があったかと納得した。圧倒的な力で直線的に音楽を構築して組み上げたクレンペラーの演奏と対比すると正に剛と柔。小編成のオーケストラで優しく柔らかく、ギリシャ神ゼウスを意味する堅牢な『ジュピター』というよりは、女性的な平和の象徴としての『ジュピター』。語源からは少しイメージが離れてしまうけれど、それもまたよし。この柔らかで爽やかな『ジュピター』も素晴らしい。

 そしてその次に流れるアンコールのハイドン交響曲47番の緩徐楽章。これがまた『ジュピター』の余韻を静かに引き継ぎ、火照った心を静かにクールダウンしてCDを終わらせてくれる。このリベラ・クラシカのシリーズは演奏会をそのままCD化しているだけあって、最後まで素晴らしい音楽の流れを感じさせてくれる。とても心地よい一枚だ。