2013年11月23日土曜日

特定秘密保護法に警鐘

 特定秘密保護法のいけないところは、前提として憲法で明記されている「知る権利」を差し置いて、国家が恣意的に「特定秘密」を設定できるところにあります。そして何が秘密にされているのかも明らかにされず、秘密を調べようとすると(それが秘密であるとわからなかったとしても)罰せられる可能性がある。これが情報統制でなくてなんでしょうか。

 世界でも各国とも特定秘密保護法的な法律はありますが、日本と違って知る権利は尊重しています。政府による秘密の指定において知る権利や人権など配慮すべき点を示した「ツワネ原則」を見てみましょう。

ツワネ原則の重要15項目 
1)国民には政府の情報を知る権利がある
2)知る権利を制限する正当性を説明するのは政府の責務である
3)防衛計画や兵器開発、諜報機関など限定した情報は非公開とすることができる
4)しかし、人権や人道に反する情報は非公開としてはならない
5)国民は監視システムについて知る権利がある
6)いかなる政府機関も情報公開の必要性から免除されない
7)公益のための内部告発者は、報復を受けない
8)情報漏えいへの罰則は、公益を損ない重大な危険性が生じた場合に限られる
9)秘密情報を入手、公開した市民を罰してはならない
10)市民は情報源の公開を強制されない
11)裁判は公開しなければならない
12)人権侵害を救済するための情報は公開しなければならない
13)安全保障分野の情報に対する独立した監視機関を設置しなければならない
14)情報を無期限に秘密にしてはならない
15)秘密指定を解除する手続きを定めなければならない

 ほぼどれも守られていないです。あまつさえ重罰の対象となる漏えいも、他国が主に「外国、及び敵国への情報漏えい」を問題視しているのに対し、日本で制定されようとしている特定秘密保護法ではただ「特定秘密の漏えい」としているだけで、ただブログやSNSでそれに触れただけで処罰対象になる恐れさえある。これはいけないです。
 国を守るためだの何だの理屈をつけても、情報統制以外の何物でもないこの法律。大戦中のような国に都合のいい情報だけを国民に知らせる情報統制が最悪のケースとして目に浮かぶだけに、この法律は看過できないなと感じております。
 ちなみにツワネ原則、元記事はこちらになります。

2013年7月29日月曜日

桜木 紫乃『起終点駅(ターミナル)』

 この土日、何かさらっと小説でも読んでみたい気分になったので、土曜に本屋に行って一冊選んできた。本命は今年の芥川賞・直木賞の受賞作品だったわけだけど、芥川賞の藤野可織『爪と目』は売り切れ(?)で置いてなく、ならば直木賞の桜木紫乃の『ホテルローヤル』にしようかと思ったが、書棚に並べてあった他の桜木紫乃作品をパラパラとめくっていたら『起終点駅(ターミナル)』という本が一番面白そうだったのでそれを読んでみることにした。本当はもう一冊、何かネットで「綿谷りさが震災をテーマにした新作が出たよ」みたいなニュースを見たので、それも面白そうだなと思ってはいたのだけど、本屋にも置いてないしAmazonで検索してもそれらしき本は出てこないので、何かの見間違い(恐らく作者を見間違えた)なのかもしれない。ともあれ、この桜木 紫乃『起終点駅(ターミナル)』を、この土日で読んでみた。以後はネタバレ注意。

 この作品は、六編からなる短編集だ。そこに出てくる人物は、皆何かしら後ろ暗いもの、決定的な欠落を抱えて生きている。『かたちないもの』では突如明確な理由も告げずに別れて離れていった恋人への、思いと最終的な死別であり、『海鳥の行方』では理不尽な上司との軋轢に苦しみながら、恋人の病にも何も思わない自分自身だったり、過去に殺人を犯した男の現在と最期だったりする。表題作『起終点駅』はかつての恋人との不倫の果てに、相手は自殺し、妻子にはその事実は何も告げずに離婚した男。『スクラップ・ロード』は中学生の時に父が蒸発し、片親ながらエリート出世コースを進んでいたもののその途中で職も婚約者も失ってしまった男。『たたかいにやぶれて咲けよ』、-----これはさすがに詳細は書かない方がいい。『潮風の家』は家族も捨てて天涯孤独な人生を送ってきた女二人の話。

 こうして並べてみると、あくまでファンタジーではなく日常の物語ではありながら、テーマ設定はすべて重く、暗い。その中で、当然登場人物たちはもがきながら生きていくのだけれど、その誰もがひたむきで前向きなわけではない。その重く苦しい現実を、受け止めている人もそうでない人も、立ち向かっている人もただ流されている人もいる。その、簡単に希望や救いを拠り所にしない、乾いた叙事的な語りが、かえってしんみりと心に染みてくる。世界は、重いかもしれない。暗いかもしれない。そんな中、生きていればどうにかなるなんてこともまたないのかもしれない。そこで力強く、「でも生きるんだ」となるのでなく、ただ生きている人の姿が描かれていて、それが逆説的に物凄い説得力がある。人間いつだって前向きなわけじゃない。重く暗い現実に立ち向かえない時もある。でも生きている。もしかしたらひっそりと、立ち続けるくらいのことはできるかもしれない。そんな控えめなメッセージ。

 作者の桜木 紫乃は直木賞の受賞者インタビューで、「一生懸命生きている人の口から幸せだとか、不幸だとかいった言葉を自分は聞いたことがない。そういった人達を自分は今後も書いていきたい」みたいなことを言っていた。なるほど、ここで描かれている人は幸せだとか、不幸だとか、そういったことではないのだなと思う。一生懸命生きているのだ。例え前向きに希望を見るような生き方でなくとも、重く暗い人生に、静かに自分自身を順応させるような生き方だったとしても、一生懸命、生きているのだ。その姿を、情に流されずに描くからこそこの作品は情に訴える。

 だから、このオビに書かれていたコピー、「苦しんでも、泣いても、立ち止まっても、生きて行きさえすれば、きっといいことがある」というのは違うと思う。コピーライターが大して作品も読みこまずに書いた浅薄なコピーだなと、読み終わった今では憤りさえ感じるほどに。自分が同じ調子でコピーを書くなら、こうだろうか。「苦しんでも、泣いても、立ち止まっても、それでも、人は生きている。幸せだとか、不幸だとか、そんな言葉とは関係なく」。あくまで、希望や救いを簡単に拠り所にしないところが、この作品の美しさなのだ。生きていたっていいことなんてないかもしれない。力強く前を向いて「生きて行くぞ!」なんて活力は出ないかもしれない。でも、生きていくのだ。そんな等身大の、虚飾のない人間たちが、静かに淡々と描かれた物語。個人的には表題作『起終点駅』、そして『たたかいにやぶれて咲けよ』、その前編としての『海鳥の行方』は本当にすばらしい作品だと感じた。

2013年7月23日火曜日

2013年 参院選、ネット選挙の夜明け

 2013年の参院選は、自民党の大勝という結果と同時に、日本で初めてネットを利用しての選挙活動が可能になった選挙として記憶に残ることとなった。とはいえ今回の参院選、NHKの出口調査によればネットを参考にした人はまだわずか16%。ちょっと聞くと少ないようだが、これは案外と腑に落ちる数値だ。まだ世代別投票率の詳細は出ていないものの、要はネットを参考にするだろう若年層の投票率が上がってきていないことの証左だろう。恐らく現在の若年層が歳を重ねるにつれ、つまり有権者にネットの親和性が高い世代が相対的に増加するにつれ、選挙におけるネットの影響力は大きくなっていくだろう。

 そんな中、いくつかの政党や候補者は確かにネットで存在感を示し、まだ全体からみれば限定的ではあるもののネットの力をうまく味方につけることに成功した。政党レベルで言えば最大のネット選挙成功者は共産党だと思う。志位委員長の、政治以外にもクラシック音楽を始めとする文化に深い造詣を示すツイートの数々は、共産党の闘争・革命一辺倒の近付きがたいイメージを確かにある程度払拭した。そのイメージ転換は、今回の共産党の躍進に間違いなく貢献していると思う。

 候補者レベルで今回ネット選挙を象徴的に表していたと感じるのは山本太郎氏と三宅洋平氏。山本氏はネット上でも賛否両論で、熱烈な応援運動と同じくらいの落選運動が交錯していた。その渦の中でもまずは「ネット上で話題になった」ことそのものが、氏の知名度を上げ、最終的に得票、当選につながったように思う。

 もう一人、緑の党の三宅洋平氏は失礼ながら元々はさして有名でもないミュージシャンがネットで話題になって、Twitter上で演説動画の拡散やボランティアの文章書き起こしが出てきて一気に広がった。氏を応援する層がTwitter上でどんどん動画や書き起こしのテキストを拡散していくのを見て、ネットの拡散力の強さをまじまじと感じたものだ。最終的に比例でみんなの党や共産党の比例トップ当選者を上回る17万票を得たから凄い。三宅氏の場合は党全体の得票数が足りなかったため、それだけの票を集めても当選はできなかったのがご本人にとっては残念なところだろう。

 逆にネットを積極的に利用しながらも、その失敗例を教えてくれたのは自民党の伊藤洋介氏だ。氏はネット選挙で合格するという意気込みで、いわゆるドブ板よりもネットでの発信を重視。毎日動画での演説配信や、浜崎あゆみやSAM、ホリえもんといった有名人との対話・写真をアップしていくことで知名度のアップと得票を狙った。だが、文化人・有名人を利用したネットでの積極的な情報発信は、確かに知名度を上げたのかもしれないが、氏の場合それが最終的な得票にはつながらなかった。それは何故か。一つにはTwitterでYuco氏が言っていたようなことが確かにあると思う。

いくらネット選挙といっても、社会起業家とか文化人とか、社会の上澄みみたいな人たちがネットで応援するだけではダメなんだろうなー。彼らがブログやtweetで応援しても、それを見ても見なくても同じ人に投票するような人までしか届かない。ネットはクラスタを超えない。

 例えば浜崎あゆみのファンがある政治家を応援している投稿をブログか何かで見たとして、そのファンがその政治家を応援するかというとまた別の話だ。そのファン達に一度は名前を目にされるだろうが、大体は「ふーん」で終わってしまって、それ以上の拡散はしないだろう。政治家の名前を目にすることと、そこから目にした人が自主的にその政治家の情報を拡散してくれることの間には大きな壁がある。だから、「ネットはクラスタを越えない」。

 対して山本太郎氏や三宅洋平氏は、ネットよりもまず地道なドブ板を猛烈に繰り返していた。特に三宅氏は「選挙フェス」と称して、街頭ライヴと演説を織り交ぜるような独特な手法で、道行く人をどんどん足止めしていった。その聴衆の中から自主的に「この人を当選させたい」という人が現れ、動画の拡散が始まり、スピーチをテキストに書き起こすボランティアが生まれ、その熱意は簡単にクラスタを越え、どんどんネットに広まっていた。

 ネットの最大の武器は拡散力だ。だがその拡散力は、結局のところ候補者が有名人・文化人の虎の威を借る形で情報発信するだけでは起動しない。やはり最終的には人なのだ。人の心を動かして、ネットユーザーに「拡散しよう」という気を起こさせなければいけない。その拡散の萌芽は、今回の選挙戦では主にリアルから始まっていた。ネット発の発信でなく、リアルで触れ、心動かされた人達が、その動きで生じたエネルギーをネットに持ち込んでいった。そしてリアルからネットに情報が移され、拡散の萌芽が生まれた後は、ネットのもう一つの武器である双方向性を活用して、その萌芽を丁寧に守って育ててあげないといけない。唯一共産党だけは、リアルのイメージの払拭という形でネットでの情報発信が先行する形になっていたが、その共産党も、ネットで反応があった際は意外なほど細やかに丁寧な対話を行っていた。三宅氏もネットでの拡散が始まってから、その支援者には丁寧な対応をし、細やかにリツイート等で自身の情報拡散を行っていた。やはりネットの利用者(この場合は候補者)が、一方的な情報発信のツールとしてしかネットを見ないのであれば、ネットが持つその強力な拡散力も発揮されない。これは見ていて強く感じたことだ。

 もう一つ印象に残ったのは、ネットにおける落選運動というのは応援運動ほどには拡散しないなということ。これは心理的なものなのだろうが、やはり人間は人を貶めるのにはある程度の覚悟がいるもので、何となく流れてきた落選運動の情報(当然、対象となる候補者のマイナスイメージが書かれている)を見て、ある程度はその通りだなと思ったとしても、自分が主体となってその人の悪口を言うにはやはりそれなりの覚悟がいる。熱心な人ならまだしも、それなりにしか選挙を考えていない人、それなりにしかその候補を落としたいと思っていない人は、マイナスイメージの拡散を躊躇する場合が多いのだろう。だからか、山本太郎氏も結果的には落選運動より応援運動の方が優勢だったし、ワタミの落選運動も激しかった割に結局最後には当選した。人を呪わば穴二つ。人を貶める噂はネットでも広がりにくいのかなと感じた。

 ようやく日本でも解禁されたネット選挙も、実際に現場で開票に関わっている複数の人から「ネット選挙の影響は感じられない」という声も聞いた。ただそれは、投票所での開票という"場"の問題なのではないかと思う。投票所は必ず特定の土地にローカライズされているから、そこで開票作業をしているとその土地の有力団体票はまとまって入ってくるからどうしても目立つ。対してネットは土地に縛られないロングテールで、特に比例では全国に散らばった影響者の票を広く細く拾うことになる。だから各投票所レベルで見れば票数は必ずしも多いわけではなく、地元の組織票ほどは目立たない。投票所でネットによる変化がまったく感じられないというのはそういう理由もあると思う。大きなイオンができて人の流れが変われば目立つけど、Amazonが地元の書店を無言で駆逐しても目立たない。そういうことだ。ただ今回はネットの影響はまだ限定的で、地元を駆逐とまではいかなかったけど。

 ネット選挙元年、まだネットが目に見えて大きな影響を与えたとは正直言い難い。今回ネットで話題となった山本氏、三宅氏、伊藤氏といった面々は自分とは肌が合わない候補者だったのも個人的には少し残念だ。けれど、確かに新しい動きは見られたし、可能性は感じた。地盤、看板、カバンと呼ばれた旧態依然の選挙態勢が、今後ネットでどのように変わっていくか。それは結構楽しみだ。

2013年7月15日月曜日

ニーチェの馬

 久しぶりにレンタルで映画を観た。タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』。ハンガリーの鬼才、タル・ベーラ監督が自身最後の作品と公言しているこの作品。この映画は1889年のトリノの広場で、疲弊した馬車馬が鞭打たれているのを見つけたニーチェが泣きながらその馬の首をかき抱き、「母さん、私は愚かだ」と言い残して倒れ、ついにその後正気に戻ることはなかったという、鮮烈なそのエピソードにインスパイアされたという。その後、その馬はどうなったのか?その疑問から始まるこの映画は、極限まで台詞を排した静謐で、単調で、重苦しく、救いもなく、だがそれでありながらとても美しい。この後の感想は、ネタバレも含むので観ていない方はご注意ください。

 『ニーチェの馬』、この映画が始まるとすぐ、先に紹介したニーチェのエピソードがナレーションで流される。そして白黒の画面で延々と長回しで映される、父親が疲弊した馬車を引く姿。この映画は、この父親と娘の六日間を描いた物語だ。物語といっても、基本は単調な生活が延々と、記録映画のように映されていくだけ。音楽もたった一つ、古い闇の底で沈殿して蠢いているような重苦しい低音が、控えめに流れているだけだ。土煙を上げ、木の葉を激しく舞わせる嵐の中、起きて、着替えて、水を汲み、たった一つのジャガイモを食べる。そんな単調な繰り返しの日常が描かれる。

 とりあえず、普段映画というとハリウッドという人は観れない作品だ。何しろ最初にナレーションが入った後、20分程は台詞が一切ない。白黒で叙事詩のように描かれる単調な日常。ようやく来訪者があるのは60分過ぎとなる二日目。でも物語は突然動くわけではない。その男は「風で街は終わってしまった」という。だがその話に父親はとりあわない。三日目に井戸水を狙って訪れた流れ者たちは「アメリカに行く」と言う。

 そして四日目、いつもの単調なルーチンの中で、とうとう決定的なことが起きる。井戸水が枯れるのだ。嵐が吹きすさぶ荒野の一軒家であるこの家庭は、当然その井戸水がなくては生きていけない。親子は、引越を決意し、荷物をまとめて家を出る。木の葉が水平に舞うような嵐の中、一本だけ木が生えた不毛の丘が、ロングショットで延々と映される。馬を連れて、荷車を引き、丘の向こうに消えていく親子。その後も余韻をなびかせるように、延々とその景色が流れる。このまま、終わるのかなと思っていたら、丘の向こうから親子が帰ってきた。そして元の家に戻っていく。水がなければ、その場所では生きていけないのはわかりきったことであるのに。二日目の男が言っていた、「街はもう壊れた」というのは本当だったのだろうか。家に着き、荷解きも終わった後、家を外から映したショットで、悲愴というのでもない、諦観というのでもない、悲観的な無表情とでも言えばいいのか、そのような顔で窓の向こうに写る娘の表情を少しずつズームしながらまた延々と映す絵が、空恐ろしく記憶に残っている。

 その後、五日目には外の明かりが消え、ランプの灯すら点かなくなる。世界から、明りが消える。六日目には、火がないのでゆでることもできない、生の堅いジャガイモで、暗闇の中で食事をしようとするシーンを最後に、映画は終わる。暗く、静かに、ある意味で、無表情に。死と向き合う闇の中で、それでも「食べなければいけない」という父の台詞が、そうでなくとも寡黙なこの映画における最後の言葉だ。

 けれども、そもそも彼らは何故「食べなければいけない」のだろう?もっと言えば、何故生きなければいけないのだろう?映画中でも延々と、何度も繰り返された単調な生活。その絶望的な単調さは、その後生きていたとしても変わらないだろう。悪い言い方をすれば、変化や、進歩から遠い、ただ単調な暮らしを続ける彼らに、最初から生きる意味などあったのだろうか?それでも光すらなくなった最後のシーンで、静かに、当然のように生きようとする父の台詞。死と向かい合う人間の尊厳がこの映画のテーマとしてよく言われるようだけど、個人的にはもう一つ、「生きる」ということそのものの価値への懐疑、正確には「生きることに価値を見出すことへの懐疑」が、隠れているのではないだろうか。生きることに価値があるかないかなのではない。生きるのだと。そもそも、価値とはある基準があって初めて生み出されるものなのだから。むしろ価値にこそ本当は価値などないのだと。難しい映画だ。

 四日目まではとにかく、日々のルーチンがそれこそ冗長で退屈なほど繰り返されるこの映画。それでもそのルーチンを、毎回映像として違う角度で切り取って見せ、またその絵がすべて、そのまま静止画のショットとしても非常に美しい、繊細で叙事的で、静けさと単調さが小さな声で呼びかけてくるような絵になっている。だからこそ、一度引き込まれてしまえばその絵の力で単調さにも耐えられる。そして毎日、一つずつその単調さからパズルのピースが抜け落ちるように大事なものが一つずつ消えていき、最後には光すらなくなるその重苦しさ。そこから問われる人間、生。非常に、何というか、無言になる映画だ。これほど印象深い映画はなかなかない。モノクロの灰色の世界に魅入られて、その灰色の空気の中で思考まで灰色に染まるような、そんな映画だった。

2013年7月14日日曜日

木下大サーカス

 人生初、サーカスというものに行ってきた。一応名目は子供が喜ぶかなというものだけど、実は自分もサーカスは観たことがないので密かに楽しみにしていた。今回新潟にサーカスが来たのは8年ぶり。大体およそ10年ごとにしか来ないということなので、まぁせっかくならという思いもあった。

 で、実際に行ってみるとこれが楽しい。本格的なオープンの前から男女ペアのピエロが出てきて、大きなバルーンを客席に投げてキャッチボール(?)をしてウォームアップ的に観客をかまってくれる。いざ始まると、大音響のBGMと、次々息をつく間もなく展開されるショーの連続で、あっという間に時間が過ぎていく感じだった。子供らも結構はしゃいでいて、特にシマウマやキリンが出てきた時なんて下の子は飛び上がって大喜びしていた。上の子も空中ブランコなど楽しそうに眺めていて、ゾウが二本足で立って(おしっこを漏らしながら)歩いてくる姿に悲鳴を上げながら笑ったり、わかりやすい面白さは子供にも大人にも楽しいものだなと。

 やっぱり上手なのがショーのつなぎ方で、下で芸をやっている間に次の空中ショーの準備をしたり、大規模な舞台転換が必要な間は冒頭に出てきた二人のピエロがコントかまして、その間に用意をしたり。とにかくうまいこと観客の視線・注意を転換が必要な部分から逸らした上で静かに準備を進めて、ハラハラや笑いが途絶えないように細心の注意が払われているのです。これは観客の側の心理まで含めて、よく考えられているなぁと。

 総じて、あれは楽しいものですね。子供はもちろん、大人まで、観ている人を飽きさせないよう細部まで工夫が凝らされたエンターテインメント。子供騙しで終わらない、ファンタスティックな妙技と演出で、ピエロの笑いも含めて堪能できました。新潟の片隅に組み上げられたテントの中という一時的で限定された空間で、二時間だけ現れる非日常の夢の国。難しいことは全部忘れて、ただ楽しめばいいというその時間・空間は実に祝祭的で、いいものだなと思いました。次に来るのは、また10年後くらいなんでしょうかね???

2013年7月8日月曜日

ひそやかに15周年

 最近はネットに出没する頻度もブログよりはTwitterの方が圧倒的に多くなってしまい、こちらの更新もやや滞ってしまっておりました。そんな中訪れた7月7日。この雑記帳のオープン記念日です。今年は更新頻度が少ないこともあり、これまで以上にひそやかな感じで記念日を迎えることになりました。

 Twitterというのは確かに便利なサービスで、日常の中で感じたその瞬間単位の思考をパッと投稿できて記録できるというのはブログとはまた違った指向のツールだなと感じています。散文的、あるいは短歌的とでもいいましょうか。連続してまとまった思考を表現するには足りないが、思考がまとまっていく過程、あるいは思考にまで辿り着かないただの雑感を記録・表出していくツールなのだと感じます。

 かつてはこの雑記帳にもそういう「過程」の記録の意味も含ませていました。大学時代などは日々の記録、過程も含めた記録として、生の思考をここで書き遺していました。でも今はそういった瞬間的な思いを書きつづるのはTwitterに移行して、この雑記帳ではよりまとまった、140文字×いくつかの範囲では収まりきらないまとまった思考・文章を残す場として使っていきたいなと考えております。だから、更新頻度は少なくなるでしょう。でもより練った形の思考や文章、あるいは交流も多くなってきたTwitterではちょっと書きにくいような意見なんかを、こちらで出していければいいかなと思っています。ひとりごとのはずのTwitterで交流が盛んになり、情報発信のはずのブログがひとりごとみたいになるとは皮肉なものだなとは思うのですが。

 ともあれ、ひそやかにこの雑記帳も15周年。訪れてくださる方々への感謝とともに、今後もこの雑記帳は静かに歩み続けたいと思います。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

2013年1月31日木曜日

桜宮高校処遇に思う

 大阪の桜宮高校でバスケ部の主将が顧問の継続的な体罰が原因で自殺した事件。非常に痛ましい出来事で、これだけでも思うところはあるのだが、さらに橋下市長の対応を巡って賛否両論、色々な意見が交わされている。ここではそうした詳細な経緯や状況分析、合理的な判断といったものは一旦置いておいて、残された体育科の在校生達について、情緒的な感情論を少しだけ、書いてみたいと思う。

 桜宮高校の体育科は全国大会を目指す強豪チームが多いと聞く。今回問題となったバスケ部もそうだとのこと。もちろん、全国大会を目指して桜宮高校に入学する生徒も多いだろう。その彼・彼女らが、今回の一件で部活動の無期限(現時点では解禁が見えないという意味で)停止を余儀なくされている。厳しい状況にさらされている教師や保護者もそうだが、一番もやもやとした気持ちを抱えているのは体育科の在校生達ではないだろうか。特に現二年生、来春に三年生になる生徒達の心中は、混乱や怒り、悲しみ等で暗澹たるものではないかと察する。

 現状や背景はともあれ、彼・彼女らは三年間を部活に捧げるつもりで頑張ってきた。二年生はこれまでの約二年ずっと。自分達の上の三年生が引退したことでやっとレギュラーの座をつかんだりベンチ入りしたりして、最後の大会を心待ちにしていた人も多いだろう。それが突然、ある日を境に、思ってもみない形で世間の注目にさらされ、部活も活動停止となり、最後の大会に出場できる目途も立たずにいるわけだ。単純に大会にかける気持ちだけでも混乱を来たすだろうし、体育での推薦で大学進学を狙っていた生徒などは最後の大会に出場できないことが自身の進路・将来にまで影響しかねない。その不安は、如何ばかりのものだろうか。

 桜宮高校の在校生への処遇は、第二次世界大戦後にナチスの片棒を担いだとして音楽活動の停止を余儀なくさせられたフルトヴェングラーを思わせる。あるいは、一夜にしてそれまでの価値観が崩壊したという点では終戦当時の日本の子供達の状況にも近いかもしれない。塩野七生『サイレント・マイノリティ』では、当時の子供達の状況が端的にこう書かれている。

終戦を境にして、一夜のうちに権威は崩壊し、昨日までの威張り腐っていた人々はオロオロすることしか知らず、教科書は墨で塗りつぶされ、そして、何にも増して苦しまされたあの飢餓感。

 というわけだ。ある事件をきっかけに、これまでの指導は、環境は間違っていたと全否定され(教科書に墨を塗られ)、行き場を無くした目的意識やモチベーションは精神的な飢餓をもたらす。このある"点"を境とした劇的な価値観の転換という点で、桜宮高校の在校生達は非常にラディカルな状況にさらされていると感じる。

 ただ、フルトヴェングラーは1947年には再びベルリンフィルの指揮台の上に立つことができたし、戦後の子供達も、ある"点"を境とした価値観の大転換に戸惑いつつも、その後の人生を再構築する時間はあった。ただ、高校生たちはどうだろうか?現在高校二年生、新三年生となる生徒達の時間は二度と帰って来ない。

 大人の立場からすれば"一年のガマン"かもしれないが、在校生の立場からすればその一年は人生の中でポッカリと抜けた、失われた一年となる。高校生という多感で、文字通り二度と帰って来ない時間環境の中で、その一年の大きさは計り知れない。その一年を、奪ってもいいのかという気持ちになる。確かにその後の人生を長い期間で見れば、この転換点を乗り越え人生を再構築する時間は彼・彼女らにもあるだろう。だが、例えば"最後の大会に出られなかった"という思いは、その後の人生に一つの欠落をもたらすに違いない。二度と帰って来ない時間の欠落として。それが例えば、今回の決定を下した公的権力への、あるいはその他の形での、歪んだルサンチマンとして彼・彼女らの人生の中に沈み込んでいったりはしないか。その点がとても気になる。

 もちろん、ここに書いてきたのは細かい状況分析や合理的判断を差し控えた至極情緒的で、感情的な語りだ。書きながら、でも「現状を冷静に考えるとこうするよなぁ」という点で、今叫ばれている入試中止や、部活動の自粛等の措置は全面的に間違いだとも思えない。状況を分析し、考えればこの文章とは別の帰結に自分も辿り着くと思う。ただせめて、これは上述したようなひどく情緒的な理由からだが、生徒達の自主性による部活動は解禁してあげたらどうか。如何な問題があったとはいえ、人生の一部、それも二度とやり直すことができない高校生活の一年を奪うという罰は、連帯責任という形で負わせるにはあまりに重すぎる。大人の一年であれば、まだ多少なりともやり直しは効くだろうけれど。

 そして最後に、これはここでは軽く触れるだけにとどめるが、仮に体制改革や罰則強化、監視等で体罰が目に見えてなくなったとしても、それだけではこの問題は終わらないだろうことにも留意しておきたい。今回問題となったのは表面化して目に見えた体罰であるが、真に問題なのは体罰という形で暴力が噴出せざるを得なかった人間関係・精神構造の方にある。それは例えば先生もOBも保護者も「強くなるために体罰を容認する」といったような体質の問題とはまた違った、関係性であり集団としての精神構造の問題だ。そちらを変えなければ、どんなに物理的な体制や規則が変わっても、結局体罰に代わる"暴力的な何か"が、また違った形で、より見えにくい形で、現れてくるだけだと思う。それに関しては、またいつか。

 願わくば、桜宮高校の在校生達の失われる時間と人生が、できるだけ小さくすみますよう・・・。