2000年9月29日金曜日
『威風堂々』編曲完了
アンコールファイルをZip圧縮したものも上げておきます。アンコールの譜面の方は前回配った譜面から修正があったところはすべて修正済みのものです。安心してご利用ください。なお、MIDIの方はサビの部分でどういうわけかバグがおこり、旋律の上で延々とGの音が鳴り続けていて実に耳障りですがお気になさらぬよう。この曲は最後のシメのクロマティックスケールの嵐をどう克服するかが課題でしたが、結局ギターでのポジションを調べた結果私の中で「根性さえありゃあれは回る!」ということになったので(爆)、皆さん頑張ってください。あと、バスはやはりとても大事です。少人数でも全体を支配するくらいの音量とキレを求められますのでよろしくお願いします。
2000年9月28日木曜日
2000年9月26日火曜日
2000年9月23日土曜日
バロックが弾きたい
まぁとにかく最近バロックが弾きたいわけです。何を弾きましょうかね?ヴァイスの『ファンタジー』なんかいいですね。スカルラッティの『ソナタ』(←どのソナタじゃ!?)もカッコいいですね。バッハの『シャコンヌ』は、・・・一生の課題です(苦笑)。バッハなら無伴奏バイオリンパルティータ第1番の『サラバンド-ブーレ-ドゥーブル』とか、『リュートのための3つの小品』とか、BWV1000の『フーガ』もいいですね。さ~て、何にしようかな・・・?
2000年9月22日金曜日
幻想論
一つ言えることは、この「幻想」という言葉を使う場合、人は事実を素直に見つめることから逃避しているということだ。先程の「恋とは幻想だ」という台詞を例に取るなら、この場合発話者は恋を「幻想」であると否定しながら恋が「幻想的」であるという事実を見つめることを放棄している。同様に、例えば人生がすべて薔薇色だという幻想に取りつかれた人は人生の暗部を見つめてはいないし、逆に人生が真っ暗だという幻想を抱く人は自分が暗闇しか見つめていなくて、闇に隠れたものや闇の向こう側に視線を送ってはいない。幻想に支配されたものは、幻想しか視界に入って来ないのだ。虚像をぬぐい去った素直な事実は決して目に入っては来ない。もっとも、虚像を完全にぬぐい去った事実を認識することが果たして我々人間に可能なのであろうかという問題はあるが・・・。
結局のところ、
「愛とはつまり幻想なんだよ」と言い切っちまった方が楽になれるかも、なんてね
というこのミスチルのesの歌詞の一節が、このような瞬間が、人が一番幻想から離れ素直に事実を見つめられている瞬間なのではないだろうか。
なお、先程も触れたがこの「幻想論」は「幻想」という言葉の意味により、「幻想」という言葉を用いて「幻想」を語ろうとした時点でその意味効力を失効している。
2000年9月19日火曜日
寺山修司『電球論』
人生論を読みすぎて
たった一人の祖母を銃で殺して埋めた
目撃していたのは
アパートの階段口の薄暗い電球だけであった
私の青春の前途は
これでまったく明るいというのに
電球はいつでも薄暗すぎる
というわけでソケットから電球をはずして
台所口の屑箱の下に埋めてしまった
ざっとこんな感じの詩です。この後折に触れ「電球さん、土の中でもあなたは灯もるの」といった寂しい歌を聴き、電球から離れられない思考が自虐的であるようにも思えるがニヒルかつクールに生活を、聴こえてくる歌を表現していくのが実にシュールで私好みです。表現も「私は大学の研究室で毎日せっせと『動物園の老人たち』に関する論文を書いている」とか「どもりの執事がエスキャルゴ料理について婦人と議論しているという推論、その方程式は親指+ミルクX=ヨーロッパ史の概略、アインシュタインという名の犬を取り締まれ!」とか実にシュール。特異で難解な世界ではありますが、そのシュールな表向きの文字の裏に隠された哲学やら何やらはなかなか私好みのものがあります。その辺を知りたい人は寺山修司の作品を読みましょう。
2000年9月18日月曜日
新潟へドライブ
まぁ今回も色々ありました。行き道は入善PA(富山)の辺りから名立谷浜SA(新潟)の間、ガソリンが底を尽きかけた状態でジャンクスが必至で高速道路を80km/hで経済走行し続け、高速のくせに対面走行&急カーブ&トンネル多しという難所「親不知」を燃料メーターとにらめっこしながら走り続けるということがありました。もうすぐ燃料切れのランプがつきそうなのに、看板で次の給油所まで50数kmあると知った時には泣きたくなりました。もっともそうなった原因は、入善までの間私が道が空いてる上に下り坂になってるのをいいことに一時140km/hものスピ-ドを出して「抜くに抜けない初心者マーク」やってガソリンを大量に消費したからなのですが・・・。ごめんよ、ジャンクス。ちなみに私はスピード狂ではありません。ガソリン入ってからジャンクスも同じことやってたし(?)。しかも何故か冷房が効かずに(吹き出し口から温風が出る)、高速で窓を開けて走って日本海の潮風にさらされたりもしました。トンネルの中窓を閉め忘れて空気の悪さに死にかけたこともありました。おかげで新潟に着いた時はもう汗だくの状態でした。
そして新潟の我が家で一泊した後は私の母校巡りが始まります。新飯田小学校及び中学校へ歩いていき、その近辺の私がよく釣りをした川の橋やら最近できた公園やらを巡り、車に乗って三条高校を巡り・・・。京都に持ってきてない中学の卒業アルバムやら高校の修学旅行の写真やらバンドの演奏会の時の写真やらも紹介し、今回の旅は私の歴史を辿る旅のような様相を呈しました。帰りは結局行きの感触から乗鞍スカイラインを攻めるのは時間的に不可能だと判断、高校を見てから適当に三条及び燕を車で巡り、そのまま三条燕インターから高速にのって帰ってきました。ちなみに燕からインタ-に出る時RYOMA邸の近くのバス停のある道を通ったのは言うまでもありません(って、RYOMA本人にしかわからんネタだが)。帰りは寄るSAでいちいちさざえの浜焼きやらほたての浜焼きやら鴨の串焼きやらを買い食いし、日本海の夕陽を堪能しながら走ってきました。日本海に沈む夕陽は美しい・・・。途中前を走る明らかに性能がこちらより数段上な車を抜かすために「スピードを上げるなら下り坂だ!(←注:間違いです。真似してはいけません)」とかほざいてまた140km/hで下り坂の長いカーブを駆け抜け車の列をすっぱ抜いたり(決してスピード狂ではありません)、滋賀の黒丸~大津間でまたガソリンが切れそうになり、しかも渋滞に巻き込まれて「大丈夫かよ」と経済走行に徹したりもしました。とまぁ例によって例のごとく、といった感じですが、まぁ無事に生きて京都に帰ってこれたのでよしとしましょう。ジャンクスよ、お疲れさまでした。
しかし高速を走ってて、脇をスカイラインやらランサーやらといったスポ-ツ系の車が凄まじい加速ですり抜けていくのを見てると、つい自分でもそういったスカッとした加速ができる車を運転してみたくなりますね(何度も言いますが私はスピード狂ではありません。最高速度はそんなでなくてもいいからとにかく加速のいいマシンに乗りたいのです)。
2000年9月16日土曜日
Rainbow-staff新人募集開始
そう、明日からジャンクスと二人で車を駆って我が地元新潟まで一泊二日の旅をしてきます。帰りは何と新潟からあの合宿をした岐阜の乗鞍スカイラインを通り、あの乗鞍を通るということは必然的にシャレ-中西の脇を抜けて(爆)、そして京都に帰ってくる予定という地獄の道のり。帰りは距離の目算が合宿の時の3倍は楽にあります。さて、我々は無事に京都に辿り着いて月曜日の練習に出ることができるのでしょうか?すべては因果の流れの中です・・・。
2000年9月15日金曜日
成績発表
2000年9月13日水曜日
試み -『少年時代』を編曲しよう-
2000年9月12日火曜日
エスプラナードフェスタ
2000年9月10日日曜日
エスプラナードフェスタ前夜
2000年9月9日土曜日
爆睡
2000年9月8日金曜日
チャット設置
2000年9月7日木曜日
無題
2000年9月6日水曜日
音楽理解の認知論
世の中には色々な音楽があります。いわゆる西洋音楽理論体系に基づく音楽だけでもペンタトニックを基調とした童歌みたいのからシェーンベルグやらウェーベルンやらといった12音技法を用いた小難しい曲まで色々です。我々が音楽を聴く時、「これはわかりやすい」とか「難解だなぁ」とか、そこまで思わずとも「聴きやすい」とか「わからない」とか思う場合は多いと思います。ではその「聴きやすい」というのはどういうことなのでしょう?それは曲が悪いのでしょうか、それとも聴く人が悪いのでしょうか?
こんな研究レポートがあります。音楽の認知、すくなくとも心地よい音楽として判断できる基準はある一定の発達段階をもっているというものです。つまりまずは先に挙げたいわゆる『ヨナ抜き』、その調のドレミファソラシドからファとシを抜いた5つの音から成る『ペンタトニックスケール』を理解できるようになり、続いてファとシも加えたドレミファソラシドすべての音階から成る音楽を、そしてそこから短調やらスケールアウトした半音やらという風に高度に音楽の理解は発達していくというものです。つまり高度な理論に基づいた音楽は、それが高度であればある程聴く側にもそれなりの資質を要求するというわけです。このレポートは音程だけでしたが、リズムや和声その他の理解にもほぼ同じことが言えるでしょう。はじめは上に出た旋律だけの聴取、理解にとどまり、続いて低音の旋律等が耳に入るようになり、内声、和声・・・、といった具合でしょうか。音楽はその構造が複雑になればなる程聴く側にもそれを受け入れるだけの器を求めるのではないでしょうか。
そして楽器を演奏する人と自分で演奏はしないでただ聴く人との差も考えられます。私はギター弾きですのでギターの曲をまず引き合いに出させてもらいますが、弾く人とそうでない人で決定的に理解の差が出るのはブローウェルの音楽でしょう。彼の作る曲は、特に『舞踏礼讃』や『シンプルエチュード』などはそうなのですが、実際弾いてみるとわかる面白さというものがあります。逆に言えば、ギター以外の楽器だったらこの曲は生まれていないだろうという楽器特有の面白味とでもいうのでしょうか。これはギターならギターを弾いている人でなければわかりえないものです。そのはずです。だがしかし、それも楽器を弾いてなくてもわかる奇特な連中も中にはいるのです。私の仲間にいわゆる絶対音感を持つピアノ弾きがいます。耳に入る音が全部音階で聞こえるというあれです。その仲間にブローウェルの音楽を聴かせたところ、「ああ、こういう音の配列になってるのか。面白いなぁ」とか、「へぇ、こんなところでこんな音が出てくるなんて以外だけどいいね」とか、ギタ-弾きなら楽器の運指の特徴で理解できるけどそうでない人にはわかりえないであろう音の並びをすべて一回聴いただけで「面白い」と思えてしまっていたのです。ギターは弾けないそいつがです。ある意味愕然としました。私は『舞踏礼讃』なんかは試みに弾いてみるまでその面白味はわからなかったというのに・・・。聴く方にも才能というものはあるのですね、これが。より高度な音楽を理解するためにはより高度な訓練や才能が必要。音楽の世界は厳しいです。クラシックの現代曲なんかは私にも音楽に聞こえないのはよくありますが、そういうのは私がその曲を聴くだけの素養を持っていないのでしょう。
しかし、聴く方にも高度な能力を求めるいわゆる「高度な」音楽が必ずしもよいとは限りません。私はブローウェルのような今回の定義でいけば「高度な」音楽も好きですが、メタルやらJ-POPやらも好きです(J-POPはかなり選り好みしますが)。はっきり言ってJ-POPなんて音楽的にはかなり稚拙なものが多いですし、メタルも高度な音楽理論を用いてとうたわれているDream Thaterをはじめとするプログレ系だってブローウェルほどのことはやってません。理論的には高度なことはやっていても、演奏の方が高度になりきれていないのです。それは下手という意味ではなく、ある意味ではメタルというかエレキ音楽の限界だと私は思っています。そしてエレキ音楽はその限界を知ってか知らずか、クラシックにおける表現とは違った方向に進化を見い出してやってきているように思えます。結果は同じでも過程が違うのですね。今回は深く言及しませんが。ですが、私はそういったエレキ音楽が音楽として高度なクラシックの下とも思いません。いいもんはいいのです。そこにクラシックもメタルもありません。自分の素養が足りずに理解できない音楽があるのは残念ですが、理解できるだけの素養があるのにつまらんことを気にして「あれは駄目だ」とやるのはもったいないと思います。私はヨ-クの曲は簡単だとよくバッシングしますが、それは演奏する場合に簡単で深みがあまりないからつまらんといっているだけで、聴く分には好きです。つまらないことで受け皿を狭めてしまうのはもったいないでしょう。どうせならいい曲にはたくさん巡り会いたいものです。かの大ピアニスト、グレン・グールドはこう言っています。
「1才半くらいの幼児を誘拐して音楽のまったく聞こえない山奥に幽閉したとする。そしてシェーンベルグなどの純粋な12音技法を用いた音楽を慎重に選び、そういった曲ばかりを聞かせたらどうなるだろう?6才か7才になる頃になるとその子はこんな旋律(12音技法の意味不明の旋律)で歌い出すと思うかい?」
この彼の言葉は実に示唆的であると思います。
2000年9月3日日曜日
合奏団
そうそう、オサルさんは今日も元気であられました。彼は明日高知に発ちます。