2015年1月22日木曜日

よくない想像

 これはよくない想像だから、こっそり書きます。ISISが日本人2人を人質に取り、身代金2億ドルを要求している件。

 ネットでもリアルでも色々言われてはいるけれど、細かな陰謀論とか何とかはすべて脇に置いておいて、自分が今一番心配なのはこれを機にナショナリズム、全体主義的な機運が異常に高まったりしないかなということなのです。一番心配なのは人質の方の命ではないのかという意見にはごめんなさい。だからこっそり書くのです。

 人質が解放された場合でも最悪の結果になった場合でも、これを機に日本でもアメリカの「テロとの戦い」に巻き込まれたという認識はある程度出てくることと思う。それでも無事に人質が解放されさえすれば、せいぜい「今後こういったテロとの戦いに備えるためにも集団的自衛権の法的な保証が必要だ」という論調が強まるくらいだろう。もしかしたらこうした国民が直接巻き込まれた有事の際に自衛隊を海外に派遣させるための法整備を、なんて話も出てくるかもしれない。それはそれで慎重に考えるべきことであるけれど、そこまでならまだ怖くない。いや、怖いは怖いけど、まだ最悪の結果には至らないと思う。

 でも仮に最悪の結果になったら?その先の事態として、仮に日本国内でテロが起こったりしたら?その場合考えられる一番ひどい状況は、これまで日本のお家芸であった自己責任論やその他様々な他人様言論も言える雰囲気でなくなってくること。「亡くなった人を悪く言うなんて許せない」「テロを否定しないとは非国民だ」みたいな変な同調圧力が高まってきやしないかなと、それを密かに心配しているのです。そのようになってくると、まさに戦時中の日本のようになってしまう。こうなると一気に改憲だの国防軍だの、そういう話になっていくんじゃないかと、それを心配しているのです。

 Twitterで平野啓一郎氏が以下のようにつぶやいていました

 スポーツなどで国際的に活躍すると、「同じ日本人」として思いっきり共感するのに、紛争地帯で拘束されたりすると、いきなり「自己責任」と言って突き放してしまう冷たさは何なのか。

 2004年の香田さん処刑事件の際にも出ていた自己責任論。確かに冷たいようにも思えるけど、これはある種の自己防御システム、免疫のようなものなのかもしれないなと今思うのです。この「失敗した日本人」に対する冷たさは、ある意味その失敗にさらに追加のベットをしないような安全装置的な働きがあるのではないかと感じています。戦時中、少なくとも公の場ではまさに思想も言論も一つの方向に統制された状態で、無惨な戦争に身を投じたこの日本。その当時の極端な全体主義への反動から、今逆にそこに向かわないために敢えて冷たく「自己責任」と切り捨てることで距離を置いているのではないかと。今日たまたまお話をしたお年寄りの方(戦争体験者)の方もことさらに(特にビジネスで向かった人の方)を「自分で勝手に行って捕まったんだからなぁ…」と自己責任論を支持していた辺り、やはり全体主義への反動という一面はあるのでないかと思うのです。

 だから怖いのは「自己責任」とさえ言えない空気が生まれることなのです。仮に人質の2人に最悪の事態が起きた時、彼らに対して「自己責任だから仕方ない」と言える空気が残っているかどうか。香田さんの時は、良くも悪くもその余裕はまだありました。けど、今はどうだろう?ネットの発達で不寛容さが目立つようになった昨今。自己責任論の冷たさと裏腹に、日本には一度同調圧力が高まってくるとどうにもそこから抜けだせない怖さもあります。この自己責任論の冷たさが、セーフティネットにならない空気が生まれないといいと思うのですが…。

 とはいえまずは何よりも、人質のお2人が無事に帰国できることを祈っております。

2015年1月19日月曜日

インフルエンザ・パンデミック

 先週から、我が家でインフルエンザが猛威をふるっています。先週の日曜11日の夜に上の子が発熱して以来、妻も下の子も次々とインフルにかかっていきました。簡単に時系列をまとめると以下のような感じです。

11日(日) 上の子発熱。
13日(火) 上の子病院へ。インフル確定。
14日(水) 妻発熱、インフル確定。下の子微熱。
17日(土) 上の子治癒認定。下の子インフル確定。
19日(月) 上の子登校。下の子微熱。

 途中から妻もやられてしまったので、我が家は自分以外見事に全滅。15日から17日までは自分以外誰ひとり外出することができない状況にまで追い込まれました。おかげで先週は自分もまともに仕事ができたのは一日だけというありさま。ひどいものです。妻子はちゃんとインフルエンザの予防接種を受けてはいたのですが、今年流行っている香港A型は予防接種の効果が薄いタイプらしいですね。逆に予防接種を受けていない自分には(今のところ)うつってないんだからわからんものです。まぁ多分、自分はこの香港A型には過去にかかっていて免疫を持っているのでしょう。ひたすら病弱な子供時代でしたが、たくさん病気しておくのもたまにはいいこともあるものです(?)。

 今回ちとしくじったなと 思ってるのが下の子への対処。実は下の子、先週水曜からなんか37度台の微熱があったのですが、それ以上上がることもなかったからインフルではないかなと油断していたのです。でも上の子が完治の診断書をもらいに行く土曜になってもまだ微熱が続いているので一緒に診察してもらったら、見事にインフルA型判定。どうやら予防接種を受けている場合には、インフルエンザでもときたまこのように高熱にならずに微熱がダラダラ続くパターンがあるようなのです。もう発熱後大分日数が経っているのでタミフルももう効果的な時期ではなく…。ちょっと失敗しました。高熱にならずとも、周りにインフルが蔓延している際は微熱でもインフルを疑うべし。そうでないと結局治りが遅くなってしまいます。今朝も下の子は37度台の微熱。はたして完治はいつの日か。見てる分には元気なんですけどね…。

 そして今日から通学解禁の上の子、朝は学校に行きたくないと泣きじゃくっておりました。ちょうど三連休の途中から発熱し、期せずして九連休となっていた上の子。まるで冬休みが二回あったようなものです。そりゃ学校行きたくなくもなりますわな…。「おとうさんとおうちがいい!」と必死で言ってくれるのは嬉しいのですが、なかなかそうもいかないのです。ちょっと後ろ髪引かれる思いで泣きじゃくる上の子を送り出したとのことです。

2015年1月9日金曜日

仏『シャルリー・エブド』紙襲撃に思う表現の自由とその限界、リスク、責任

 新年早々痛ましく、また考えることの多い事件が起きた。フランスの風刺漫画が売りの週刊新聞、『シャルリー・エブド』編集部がイスラームの3人組に襲撃され、警官含め12人が射殺された事件。以前から度々イスラームを過激に風刺する漫画を載せていた同紙に対し、侮辱行為だと憤慨した犯人が計画的に襲撃を行ったという。現時点ではまだ確定情報ではないが、イスラームの過激派組織とのつながりも指摘されており、一連の欧米とイスラーム過激派組織の闘いの文脈の中で起きた、完全な民間人が被害者となった悲痛な事件。

 まずは犠牲者となった方々に哀悼の意を表し、いかなる理由があれ文字通り致命的な暴力という手段に打って出る行為自体に同意することはまったくないということを明言した上で、それでもこの事件については色々と思うところがやはりある。ここに至るまでの社会背景は、それこそ歴史的なものから911以後の欧米とイスラームの対立、フランス国内におけるイスラーム系移民の扱い等々複雑なものがたくさん絡んでいるが、ここでは話を単純化して、ある一点に絞って考えてみたい。

 この事件で自分が考えるのは、「表現の自由はどこまで許されるのか。許されない領域があるとしたら、その線引きはどこになるのか」ということ。今回は表現者がムハンマドを笑い物にするような漫画を風刺として送り出し、それを受け手がイスラームの聖人に対する侮辱と取ったことが直接の原因となった。犠牲者が出た非常に痛ましい事件ではあるが、これを「表現の自由に対する暴挙」と考えるのか、それとも「行き過ぎた表現の自由」と考えるのか。

 奇しくも2年前、今回襲撃を受けたのと同じシャルリー・エブド紙がやはりムハンマドの風刺画を載せてイスラームの反感を買った時、当時のフランスのエロー首相は「表現の自由は支持するが、限界はある」と指摘したという。その限界はどこなのか。

 誰しも自分が大切に思っているものを侮辱されたら、され続けたら怒る。それはわかる。だから表現の自由といってもそれは対象を明らかに侮蔑するようなものであってはならないという指摘も一理あるとは思う。けれど、果たして世界中の誰も不快にならないような表現など果たして可能であろうか?何よりも、表現が不快であるかどうかは送り手の問題でもあると同時に受け手の問題でもある。仮に送り手に侮蔑の意図がなかったとしても、受け手がそう取れば不快な表現となってしまう。メディアが発達し、価値観が多様化した現在、すべての受け手に不快を感じさせないようにと気を使い始めたら、最終的には沈黙するしかなくなる。

 では表現の自由の名の下に、我々は何を発信してもいいのだろうか?誰を、何を侮蔑しても、傷つけても?最近話題のヘイトスピーチや、現役の国の元首をパロディにした映画なども、限界なく表現の自由で保護されるべきものなのだろうか?

 一つの線引きとして、攻撃的、侮蔑的な意図をもって対象を表現することはできないとすることもできる。あるいは、表現の自由といってもその対象に対しては最低限の敬意を払うべきだと言うこともできる。でもその線引きは実に恣意的だ。その「攻撃的、侮蔑的であるか?」「対象に敬意が払われているか?」を判断するのは誰なのか?送り手なのか、受け手なのか、それともそのどちらでもない第三者なのか?先に指摘した通り、送り手にその気がなくとも受け手が「侮蔑だ」とすることもある。また、ヘイトスピーチに対する規制の話題でも、受け手の他に規制する側(権力者)がある意思をもって運用された場合、過剰に表現の自由が侵されるかもしれないという危惧が指摘されている。送り手が攻撃・侮蔑の意図はないと宣言すれば表現の自由の名の下に無罪とするのか?この例でも、先日は自分の女性器を3Dプリンタで表現したアーティストが逮捕された。猥褻罪。アーティスト自身は「猥褻な意図ではない」と宣言している。それでも彼女は逮捕された。処罰、規制の運用がこのケースをもっと極端にしたような形で行われたらどうなるか?主観でしか判断できない線引きは、いくらでも恣意的な運用ができる。これでは誰もが納得する線引きは難しい。この規制が行き過ぎると、実質的に表現の自由は失われ、非常に安全性の高い表現しか残らなくなる。最終的には伊藤計劃の『ハーモニー』でミァハが語る台詞が現実味を帯びる日がくるのかもしれない。

 昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ。誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることができたから。

 表現の自由の限界はどこまでかという話にはここで結論は出せない。けれど一点、いくら表現の自由といっても表現はその名の下にすべてが無罪でありノーリスクであるわけではないということは忘れてはいけない。法律を犯すような表現、極論すれば殺人をアートだと称することは明らかに自由の範囲を超えるし、仮に攻撃的・侮蔑的な表現が自由だとして保護されるとしても、相手にも逆に怒り、恨む権利はあるし対抗する権利もまたあるということは忘れてはいけない。怒りや恨みによる対抗的な表現もまた自由だからだ。「表現の自由で私はあなたを攻撃するよ。でもあなたは私を攻撃しないでね。これはあくまで表現。表現の自由なんだから」とはならない。

 だから表現者は自分が行う表現に対してリスクを自覚的に覚悟しなければいけない。反論や対抗の可能性を意識しなければいけない。表現に対する責任を負わなければいけない。しかるに今回の件。サウジアラビア等のイスラーム諸国では今でも神の冒涜に対して死刑が求刑され、実行される。イスラームにおいて神の冒涜は極刑に値する罪なのだ。その論理と、特に911以降の欧米諸国とイスラーム過激派の悲惨な戦闘の経緯を鑑みれば、イスラームの神や預言者を冒涜する行為の代償として死を求められるリスクは確かに存在した。そのリスクを請け負った上で、命をかけてまで表現しようという気概が果たしてあったのか。自分もネットで問題となった漫画を見たけれど、あの本当にくだらない1コマ2コマのカットにそこまでの覚悟があったとはとても思えない。画像をここに転載したくもないくらいくだらないあの漫画に、命を落とす価値があるとは、申し訳ないけれど自分にはとても感じられない。

 少し話は逸れるが、表現に対する責任を負うとは言っても、表現の結果生じた事態が、とても責任を負えないレベルに達することもありうる。最近話題になった北朝鮮の現役総書記をパロディにした映画をきっかけにサイバー攻撃の応酬が始まった件等、自分の表現が国家間の関係にまで影響を及ぼした場合、個人の表現者は一体どうやって責任が取れるのか?もし、この件で北朝鮮がミサイルを飛ばして戦争が始まったりしたら?リスクは表現者の手を離れてどこまでも拡大する可能性がある。だからといって自分の手に負える範囲でしか表現をしてはならないと言えば、それもまた表現の自由と可能性を奪うことになるのでそこには慎重にならないといけないが、せめて表現者は自分の表現のリスクに対してはある程度自覚的でいるべきだと思う。すべてを予見することは当然できないだろうけど。

 ただこの事件では、犯行者が12人もの命を奪ったのはあきらかにやりすぎだ。確かにあの漫画もひどいものではあった。正直あのただ対象をバカにするだけで政治的主張も何も感じられないような浅薄な風刺画は、表現の自由といって守るほどのものなのかなと悩んでしまうくらいだ。だが、それにしても命を奪うことはない。今回のような致命的な暴力による表現への弾圧、脅迫はあってはならない。先に「イスラームにおいて神の冒涜は死に値する」と書いたが、実はこれは国家が定めた政治的な決まりであって、教義で定められているものではない。ハンムラビ法典では「目には目を、歯に歯を」と言われるが、これもまたよく言われる「自分がやられたことをやり返すべき」という意味ではないそうだ。あくまでイスラームの教義においては相手を許すことが一番いいとされる。けれどもどうしても許せない場合には「自分がやられたことまではやり返してもいいよ」と、報復のレベルに制限をかけるための法だということだ。ハンムラビ法典は限度のない復讐を明確に規制している。だからせめて、表現による侮辱には表現による侮辱で対抗すべきだった。相手に瑕疵があるとはいえ、命を奪う手段を取るべきではない。

 今回の事件に対する抗議デモの中で、コーランの一節を引いて抗議のメッセージを掲げている写真をTwitterで見かけた。そこにはこう書かれているという。

 互いに殺しあったのはあなたがたであり、(中略)凡そあなたがたの中でこのようなことをする者の報いは,現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には,最も重い懲罰に処せられよう。アッラーはあなたがたの行うことを見逃されない。

 事件の後、今度はイスラーム関係の施設が各地で襲撃されているとの報が入ってきている。イスラームも我々も、このコーランの一節を、じっくりと噛みしめる必要があるのではないだろうか。

 このような痛ましい事件が、もうこれ以上起きないことを祈ります。