2003年2月24日月曜日
『ブエノスアイレスの四季』カルレバーロ編
今回買ったのは『ピアソラ作品集』というCDで、基本的にはリベルタンゴとかを室内楽団がやっているのですが、『タンゴの歴史』や『ブエノスアイレスの四季』ではセルシェルがギターを弾いています。特筆すべきは、この『ブエノスアイレスの四季』、カルレバーロ編でもアサド編でもなく、なんとマニアックにカルレバーロ編(爆)。私が知る限り唯一カルレバーロ編の四季が全曲聴けるCDです。カルレバーロ編はアサド編なんかと比べると横には音の隙間が多いですが、ときたま非常に危険な不協和音がビビッと決まってくる、渋く玄人好みの編曲です。カルレバーロはタンゴに精通しているので、ベニーテス編と違ってタンゴを離れてギター的なカッコよさを出すよりも、タンゴそのもののあやしさを活かしている感じですね。とはいえ『冬』は最後長調に転調せずに、とことんあやしいままで終わってくれるのは如何なものかと思いましたが。春を迎えずに冬のまま終わってやがる(爆)。寒いまま終わられても困るんだよなー、とか思ってしまいましたとさ。
2003年2月23日日曜日
ちょっとした修正
・・・そうそう、余談ではありますが私は昨日も今日も出社でした。予定通りです(爆)。このまま三月末まで土日がない状態が続くという可能性も否定しきれません。さて、今回の期末ラッシュはこれまでの最多連続出勤記録を塗り替えることになるのでしょうか!? ・・・あまりそうなってほしくはありません・・・。いや、仕事があまりに忙しすぎると本読む時間もなくなるのが嫌なんですよね。プライベートな本にしても仕事関係の本にしても。当然ギター弾く時間がなくなるのも問題ですし。早いとこグループ全体の体質改善を図らねば・・・。
2003年2月21日金曜日
憧憬
やはり、時は流れています。高校の頃まではバンドで将来やって行こうと思っていた私は、大学でエレキギターをクラシックギターに持ち替え、今はコンピュータで飯を食っています。ですが、それでもやはり止まっている時もあるようで、屋根裏を見つけた時はまるで長年会っていなかった古い友人にでも会ったかのような懐かしさと共に、憧憬に近い感覚と理由のわからない寂寥がありました。なんなんでしょうね。そして夕方6時半くらいに客先を出た時、屋根裏ではないのですがそのお客さんのビルの近くのライブハウスの前に行列ができていました。きっと、今日ライブがあったのでしょう。バンドにしろクラシックギターにしろ、私が最後にステージに立った時から、もう2年が過ぎようとしています。
2003年2月20日木曜日
ひびが入るaの爪
2003年2月17日月曜日
『都会の夜に』アップ
2003年2月16日日曜日
お似合いの音楽
2003年2月15日土曜日
2003年2月12日水曜日
2003年2月11日火曜日
エミール・クストリッツァ
話は変わって、私は映画は結構好きですが、でもある特定の監督や俳優が特別好きというタイプではありません。そんな私ですが、「この人の映画はいいね」と思う監督が一人います。でも今日まで名前が思いだせませんでした(爆)。その監督の名はエミール・クストリッツァ。世界3大映画祭の主要な賞を総なめにして、世間では天才と言われているらしいです。まぁ、私は世間のことは知りません。そもそもは大学の時『ヨーロッパの音楽』という名の明らかに西アジアの音楽ばかりやる授業(爆)でエミール・クストリッツァ監督の『ジプシーのとき』を観たのが始まりです。その映画のくせに恐ろしく生々しい本気の民族音楽と、それにかき立てられるように湧き出てくる剥き出しの感情のエネルギーにやられました。その後丁度タイムリーに、マスコミに書き立てられるのが嫌で引退宣言をしていたクストリッツァの復帰作『白猫・黒猫』が京都で上映され、その作品のエネルギーに打たれました。とにかく物凄い説得力のある映画を作る人です。
またクストリッツァの考え方がいい。「自分には流れに逆らう血が流れている」と平気で言い切ってしまうアナーキーさ、「音楽をやってるとき監督をやってて、監督をやっているとき音楽の構成を作ってる」という音楽と映像を交錯する感性、その辺りがあの力強く生々しい作品の源泉なのでしょう。そして、彼の映画には常に本物の音楽が流れているのです。中途半端にソフィスティケートされたり、コマーシャルに作り込まれたものでなく、本物の土着の音楽が。それがまたカッコいいのです。『ジプシーのとき』ももう一度観たいのですが、あの作品はビデオもDVDも出てないんですよね・・・。誰かウチの大学の江川某先生からビデオ借りてきてくれませんか(笑)。
2003年2月10日月曜日
仕事仕事
2003年2月9日日曜日
羊達の沈黙
しかしここ一年くらい、あまり新作の映画で面白そうなのは出てきてませんでしたが、最近になってよさげな映画が結構出てきましたね。一つは言うまでもなくこの『羊達の沈黙』と同シリーズに当たる『レッド・ドラゴン』。Dr.レクターのさらなる活躍に期待です(?)。そして『戦場のピアニスト』。私は基本的にカンヌ映画祭系の色々な意味で生々しい映画の方が、いかにもなハリウッド映画より好きなわけですが、最近カンヌもちょっと勢いがないなぁと思っていた頃にやっとよさそうなのが出てきました。似たようなタイトルの映画で『コレリ大尉のマンドリン』も微妙に見たくて見に行けませんでしたが、こちらは是非見に行ってみたいと思います。・・・東急文化会館でやるかなぁ?あそこでやってくれれば会社の帰りに見られる(笑)。
2003年2月7日金曜日
ものづくりの本質
良い機械を設計するには、まず「何をする機械か」という目的を絞り込んで設定する必要がある。その上で目標実現のための仕掛けを、なるべく技術的に無理がないシンプルな形で組み合わせていくのだ。
この原則は実はプログラムも同じです。「何をするプログラムか」をまず要求仕様という形ではっきりさせた上で、その実現のためにもっともシンプルな形での実装を行っていきます。余計に高度なテクニックやひねったアルゴリズムなんかはそれだけ難解になりバグも潜みやすければ修正もしづらいのです。そしてそういうプログラムはバグ修正や仕様変更がある度に現在のプログラムに無理矢理つぎはぎのパッチを当てるような形で追加修正がされていき、最後にそのつぎはぎのプログラムが破綻して大きなトラブルが起きた時にはもうどこが悪いのかさえ突き止めるのは難しくなっていたりするのです。それは、(この記事を読む限り)今回のスペースシャトルの事故もまったく同じです。
オブジェクト指向というプログラム手法の原則の一つは、「なんでもできる」クラス(プログラムの単位とでも思ってください)を作らないということです。ひとつのクラスはひとつの責務を果たすのみに留め、債務過多の状態は避けねばなりません。でなけば非常に膨大で難解なプログラムができあがるか、あるいは帯に短したすきに長しなものになるかです。そしてスペースシャトルが辿った運命は後者の方でした。「本来何をすべきものなのか」という目標を見失った創作物は、どんなものでもみじめなものになってしまうといういい例かも知れません。
私は、そこがものづくりの本質の一つなのではないかなと思います。「何をしたいのか」、「何を表わしたいのか」、その本来の目的も忘れてただものができあがることのみに焦点を定めて作られたものは、いつも悲しい末路を辿ってしまいます。これは一つの教訓でしょう。私がプログラムを書き、文章を書き、あるいは音楽をやり続ける限り、あるものを作り上げることによって「何がしたい」のか、「何を伝えたい」のか、あるいは「何を表わしたい」のか、その本質を見失わないでいきたいものです。