2003年12月29日月曜日
久しぶりのプライベートコンサート
2003年12月27日土曜日
嵐の後、年末に向けて
2003年12月22日月曜日
2003年12月20日土曜日
ホーリー接待、危うく
「・・・24日しか空いてないなぁ・・・」
ほほう?24日。なるほど、クリスマスイブですな?つまりこの俺に24日にお客さんをホーリー接待しろと、あなたはそう仰るわけですな?確かに仕事以外予定のないクリスマス、別にそうなったって実害はないです。が、さすがにそれは何か精神的にくるものがあります。まぁ結局この日はお客さんの都合が悪く、飲み会は新年に持ち越しになったので24日に飲みに行くことにはならなかったのでよかったのですが。まぁ別に今さらクリスマスに何がなくても何も起こらなくても悲しみはしません。ですが、
・・・やっぱ24日にお客さんをホーリー接待ってのは辛ぇ・・・(爆)。
2003年12月19日金曜日
"Only1"にケリを入れろ!
まず何よりも、「キサマ本当にNumber1よりOnly1の方がいいと思っているのか!? ってゆーかそっちの方が楽だとでも思っているのか!?」と問いたい。Number1なんて、なろうと思えば実は結構すぐなれます。揚げ足取るような言い方するなら、「俺はこの三人の中でジャンケン一番強いぜ!」とか言い切ってみたってNumber1はNumber1なわけです。少なくとも言葉的に間違っちゃいない。ところが、Only1となると話が変わってきます。そもそも「Number1よりOnly1」というこの歌詞、「個性が大事」だとする現代の(半ば押し付けや洗脳に近い形で与えられた)風潮から来てるわけです。とするなら、この歌詞は「何かが誰よりもよくできる人よりも、誰よりも個性的な人の方がカッコいいんだよ」と歌っているわけです。いや、多少強引な解釈だということは百も承知、半分ネタとしてこのまま突き進ませていただくと、要はこの歌詞は個性礼讃なわけです。なるほど、それ自体確かに悪くない。別に私も否定しません。ですが、無責任に個性の開拓というイバラの道に若者を送りだしてもいいものなのでしょうか(爆)。
冷静に考えてください。個性的であるということは要は差別化であり、オリジナリティであるわけです。ではオリジナリティとは何か。それは独創性です。独創性というのはその原義的にも本来共通性とは相反します。極端なことを言うと、ある人が何か新しいことを考えたとして、その考えが他の誰かに理解されてしまったなら、それはもうその人だけの独創性ではなくなるわけです。つまり、個性がカッコいいというのであれば、そのカッコよさが他人に理解された時点で、つまり他人にもカッコいいと思われた時点で、それは既に個性としてのアイデンティティを失うわけです。私に言わせりゃ「Only1はLonely1」以外の何物でもありません。「周りから個性的でカッコいい人だと思われたい」とか考えてるヤツは、そのOnly1の意味を履き違えたただの甘ちゃんに過ぎません。
ではOnly1を体現している人に会うためにはどうしたらよいのでしょう。・・・精神病院にでも行ってください。個性的で独創的な方はいくらでもいらっしゃいます。ただし、そこでもまだ厳しさが残ります。精神病院に入っている人達の言葉や行動にも、やはり文化圏ごとにある程度頻出するパターンというものがありますし、さらに言うなら全人類的に共通して頻出する言動や行動のパターンもあります。重度のアルコール中毒者が見る蛇の夢などはその典型でしょう。つまり精神病院に至るまで極めてしまっても、それでもまだほとんど大部分の人が真のOnly1になどなれてはいないのです。・・・あなたはそこまでしてOnly1を目指す覚悟がおありなのですか? と、そう問い詰めたいですね。
とまぁかなり強引にここまで話を進めてまいりましたが、すいません、ただ単に「Number1よりOnly1」という歌詞をちゃかしたかっただけです(爆)。とはいえ、この歌がよくも悪くも現代社会を的確に表わしているのは確かで、その意味ではなかなかバカにもできません。私の目には今の社会ではOnly1が均質化されているように映るのです。本来意味的にありえないことなのですが。「これがOnly1だ」とメディアで流れたものを、そのまま身につけて「自分も個性的だ、Only1だ」と思っている、そんな大量生産の個性。これも思考停止の一形態ですよね。傍受した情報を何の解釈も通さないままそのまま身につけてしまうから、そもそも大量にメディアで流れているような服やアクセサリーや音楽や言葉で身を包んだところで、そんなもの他に持っている人もたくさんいるただの既製品の一つだということにすら気付かない。渋谷の街を歩いているとつくづくそう思います。そして多分彼らは意識はしてないんでしょうが、Number1っていうと例えば東大合格とか、そんな世間的なステータスしか彼らの目にはNumber1に映らないわけで、それは無理だろうという甘えが安易なOnly1志向に流れていくわけです。ただ情報を傍受するだけのスタイルに慣れきっているから、逆に葛藤がないんですね。思考を流す習慣がないから、逆に行動がすぐ流れる。周囲の世界が与えてくる情報にいちいち解釈をつけていく、その習慣もないから自分のことだけを考える。そしてそれが直接的に個人主義につながっていく。
まぁ、数は今程多くなくても、実はそんな人間は昔からいました。それでもそんなのでも認めざるを得ないような凄い才能を持ったヤツならまだしも(ロックの世界にはそんなヤツもいくらかいる)、残念ながらそんな人間世の中に何人もいません。凡才や並の天才は、どこかで思考停止やそこから派生する個人主義からは脱出しないといけないと思うわけです。以前もこの日記で紹介した気がしますが、JUN SKY WALKER(S)の『My Generation』という曲にこんな一節があります。
大人になる前に知るべきことがある
自分のやり方とわがままの違いを
個人主義も結構ですが、わがままは端で見てて見苦しいからやめていただきたい。仕事をやっているとわかるのですが、個人主義を貫いていて仕事ができて、しかも周りからも信頼されている人は、やはり自分のやり方とわがままの違いをよく理解していると思うのです。そのためには、常に世界の情報を解釈していかなければならないのです。・・・疲れますけどね、実際。
2003年12月16日火曜日
自分に言い聞かせる言葉
2003年12月15日月曜日
おいしい焼酎を高円寺で
今回行った高円寺の『鶏の穴』という店は料理は鳥が専門の店で、焼酎や日本酒も非常に品が揃っているという実に素敵な店で、美味しい鳥刺しやレバ刺しでお好みの焼酎が楽しめます。また鳥がムチャクチャうまいんだ、これが。高円寺はフラメンコで有名な店もある(らしい)ですし、寺山修司の世界を彷佛とさせる(?)異様にゴシックな世界を構築している喫茶店や、明け方まで開いている沖縄料理・泡盛の専門店『だちびん』もあり、飲み遊ぶには最適な場所です。
昨日飲んだ中でのお薦めは『流鶯』という芋焼酎。『ルオウ』と読みます。一杯900円で、しかも飲み方はストレートのみでしか出せませんという店のこだわりっぷりが素敵なこの焼酎、非常にまろやかで深い味わいが素晴らしかったです。個人的には1,200円の『喚火萬膳』より美味しかったですね。芋焼酎が好きな方にはかなりお薦めです。
その後はコーヒーを一杯飲んで少し落ち着いた後、さらにバーに入ってウィスキーを二杯ばかりいただいて、やたらと混んでる終電に体力を削り取られながら家路につきましたとさ。総計ビール1杯、焼酎10杯近く、キューバ・リバー1杯、I.W.ハーパー2杯。・・・さすがにしんどいです。焼酎やウィスキーは次の日に残るダメージは少ないからまだよかったものの、それでも朝はひどい頭痛とムカムカする胃で相当不快な目覚めをしたとのことです(苦笑)。
2003年12月12日金曜日
2003年12月11日木曜日
土日に普通に休むために
・・・あ~、しんど・・。
2003年12月9日火曜日
2003年12月8日月曜日
HA-HA-HA-
あの瞬間、日吉の駅で相当話題沸騰なバカップルでした!!!
2003年12月7日日曜日
生活がかかった音楽と生活に根付いた音楽
2003年12月5日金曜日
All we are saying is...
All we are saying is give free a chance!!!
2003年12月3日水曜日
2003年11月30日日曜日
チンザノ・ドライの飲み方
学生時代、元々はマティーニ作るために買ってきたドライ・ベルモットですが、マティーニって基本的にそんなに量飲めるもんじゃないし(っつーかあれを何杯も飲むようじゃアル中街道まっしぐら)、そもそもマティーニって作るのに凄い神経使うし、なんかもうチンザノ・ドライ冷蔵庫で冷やして飲めばいいじゃんと飲んでみたらこれが結構美味しくてはまったのです。1L瓶で1,000円切るくらいなので安いですしね。それ以来、チンザノ・ドライはよく私の家の冷蔵庫で冷やされているようになりましたとさ。当時は下宿の冷蔵庫が小さかったので500mlのペットボトルに小分けに入れて冷やしてましたが、今は普通の冷蔵庫があるので1L瓶をそのまま冷やせてハッピーです。
チンザノは店で飲むならバーはもちろん、ちょっとカクテルに力入れてる普通の飲み屋でも置いてあったりします。ただ、その場合はチンザノ自体を冷やしてあることは(特に飲み屋では)あまりなく、仕方なしにロック等で飲むことになる場合が多いです。お薦めはやはり冷蔵庫で冷やしておいてストレートですね!
美味しいチンザノ・ドライの飲み方
1, とりあえず1,000円用意し、チンザノ・ドライを買ってくる
2, 冷蔵庫で数時間冷やし、できればグラスも冷やしておく
3, グラスにそのままチンザノ・ドライを注ぎ、さぁいただきましょう!
今日のカクテルレシピ
マティーニ
ドライ・ジン 3/4
ドライ・ベルモット 1/4
以上をステア(かき混ぜ)して、レモンピールを振りかける。ちなみに、マティーニを作る時のベルモットはノイリープラットのドライが一般的。ドライ・マティーニを作る場合はジンとベルモットの比率は4:1になります
ベルモット ハーフ&ハーフ
ベルモット(ドライ)1/2
ベルモット(ロッソ)1/2
以上をロックでいただく。こいつをチンザノで作ったカクテルを特に『チン・チン』と言うらしい。オイオイ・・・。
2003年11月29日土曜日
2003年11月27日木曜日
2003年11月25日火曜日
羊と山羊 - 続報
そう、キリスト教を調べてて知ったのですが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教って、元は1つの流れで始まったんですね。知らなかったんか!? って話ですが。要は「アブラハムの宗教」ということでくくれてしまうらしいです。イスラム教のコーランですらイエスがメシアだとして扱われているし、メッカで神の啓示を受けたマホメッドが、それが本物の啓示だと確認する基準はキリスト教の聖書だったりするわけです。キリスト教がユダヤ教を更新するような形で出てきたように、イスラム教はキリスト教を更新するような形で表れ、産業革命以前はキリスト教よりもずっと優勢に世界を席巻していたとか。ちょっと現在のイメージとは違います。
しかし元々は同じ流れの宗教ってことを考えるとキリスト教とイスラム教の宗教闘争って、何だかなぁ・・・、って思います。キリスト教ってそりゃいわゆる原理主義もあるけれど、大部分的には意外に結構てきとーで、日本で神道と仏教が混在しているような感じで世界の色々な地域の土着の宗教や神と共存して祭を共有してたりする(ケルト文化とうまいこと融合してる地域もある)一神教らしからぬざっくばらんさがあるんですから、もっとうまいことやってきゃいいのにとか思ってしまいます。科学の進歩と政教分離の結果、欧米ではキリスト教がおおらかに落ち着いてきた反面、キリスト教の倫理を抜いた論理だけが政治経済の世界で一人歩きして大暴れしているような気もするのです。まぁ、この最後の台詞は『キリスト教』という本の受け売りですけど。
2003年11月23日日曜日
2003年11月22日土曜日
最高のペプシ
2003年11月20日木曜日
「委員長」と「道なり君」
大学に入るとそういった「委員長タイプ」の人間は力を発揮する場が少なくなるためか(私はゼミにはあまり参加してなかったし、Toward eveningや虹色電脳集団、クラギタはそのタイプとは無縁)あまり見かけなくなりましたが、今度は何と言うか、「道なり君」みたいなのをよく目にするようになりました。「大学生になったんだからバイトもしないと」とか、「学生の本分はやっぱり勉強だから勉強しないと」とか、非常に短絡的な因果関係に疑問もはさまずそのまま動いているタイプです。見渡してみると何とこいつが非常に多い。そして彼らは大体において、「~だからこうこうしなきゃいけないし、でも自分はそんなんじゃないし、どうしよう」とかいった感じで悩んでたりするわけです。なんだかなぁ、と思いますね。
こんなのも思考停止の一形態ではないでしょうか。「委員長」は与えられた正義のステレオタイプをそのまま受け入れ、妄信的にそれを実践します。「道なり君」は一般論を自分の状況に適応させることすらせずその差異にとまどいます。どちらも出来合いのものをただそのまま身にまとい、その時点で自分で思考することを放棄しているのです。ところが「委員長」は周りの「法」とでもなるべき自分の「正義感」を自分の「考え」だとして疑わないでしょうし、「道なり君」はそもそも世間の平均値だか最瀕値だかを取った「一般論」なんてもんが「自分」という個人にぴったり隙間なく合うはずもないのに、そのギャップを自分と世間との「ずれ」のように認知して勝手に悩む。悩んでるから一応頭は回っているわけで、そんな人が自分が思考停止してるなんてこれまた当然思うわけがない。前提が間違ってるんですけどね(爆)。「てめぇは悩むとこ間違ってる」と軽く小一時間説教したい気分で一杯です。
「常識」とか「一般論」とか「風潮」とか、そんな曖昧なもの絶対的に受け入れてしまう人があまりに多い気がします。別に否定しろと言っているわけじゃありません。自分自身の思考なり行動に組み込む前に、ちょっと一回立ち止まって考えてみてもいいんじゃないかと言いたいのです。「一般論」等といったある程度どこにでも適用できそうに思える(当然自分もそこに含まれるように思える)ものとは実は粒度が結構粗いもので、だからこそ「自分」というより粒度の細かい範囲を対象として考えた場合どうしても過不足が出るものです。だから仮に一般論を受け入れるにしろ、自分にもっと合うように余計なものを削ったり足りないところを付け加えたりしてもいいんじゃないかと思うのです。そのまま受け入れるのでなく、「自分の場合はどうなんだろう」というステップを入れることで自分により似合う「自分的一般論」にしていけばいいんじゃないですかってお話です。そうすりゃ少なくとも「道なり君」なんかは相当悩み減ると思います(笑)。そもそも彼らの悩みの大半は「自分」の方を無理に「一般」に合わせようとするそのギャップから出てくるものなのですから。
例えば本当に学費や生活費を稼ぐ必要があってバイトする人なら「バイトしないと」とは悩まないでしょう。義務感からの焦りとかもっと他のことしたいのにとかいう不満等はあっても実体のない悩みじゃありません。ところが「大学生になったんだからバイトもしないと」とか言って頭抱えてるヤツに限って、実はそんな必要なかったりするヤツばかりなのです。そりゃ現実問題として必要ないものを「一般論」から強制されたんじゃ嫌にもなるだろうよ(爆)。まず別にバイトしなくてもやってけるんならする必要ないってことに気付こうぜ。そうすりゃ他にどんな生活の選択肢があるのかも考えられるでしょう。「学生の本分は勉強だ」って、じゃあアンタその勉強やってどうすんの?って話です。好きならいいです。でもそう言ってるヤツに限って楽しそうじゃない。何も満面の笑みでデカルト読めとは言いませんがね。目的があるわけでも楽しみがあるわけでもないのに何故勉強ができるんでしょうか?まぁ勉めることを強いると書いて勉強なわけですから、ある意味彼らは彼らの言う「学生の本分」を忠実に全うしているのかもしれません。ちなみに私は大学は勉強するところではなく自分の可能性を探すところだと思ってました。
ところで、「委員長」は相変わらず私には理解が難しいのです(笑)。何やりたいんでしょうね、彼ら?
2003年11月18日火曜日
2003年11月16日日曜日
2003年度衣笠CGC定期演奏会
会場に着いてアルティの前に止まっている自転車の数にまず驚き、開演が六時だったことにも相当驚いたわけですが(余裕だと思ってたのにギリギリだったとは・・・)、とりあえずそれはさておいて今回の演奏会全体の印象をまず一言。総じて演奏に安定感のある、安心して聴けるステージでした。アンサンブルも独重奏も、見ていて心配にならないんですね(笑)。高いレベルで演奏のツブがまとまってきたなぁ、って感じです。
Cステージで最初『ゴリーウォークのケークウォーク』、『アニトラの踊り』と私の知らない曲を2連発でやられ、その印象派的な空気に惑わされ、「・・・最近Cではこういったのが流行ってるのか?時代は変わったなー・・・」と何だか妙に感心してみたりもしました。どちらも私達の代とかだとまず選択肢にすら昇らない曲でしょう。そもそも基本的にドビュッシーとペールギュントをギターで演ろうという発想がありません(苦笑)。その意味で非常に楽しませてもらいました。いいでもなく悪いでもなく、時代はただ変わるのだなぁ、とか。そしてT北ソロ。個人的に彼のソロ結構好きなのです(笑)。選曲はともかくとして、とにかく聴かせるのがうまい。歌心が凄い。音楽ってのは指が回ってナンボでもなければ、教科書通りに弾いてナンボでもないですし、格式だの格調だのでナンボってわけでもありません。今挙げたようなテーゼを真正面から否定して、とにかく歌を聴かせる彼のギターは私的には非常に好きなのです。「コイツはわかってる!」ってところです。特に格式だの格調だのなんて演奏会の概念に持ち込むのは私は大嫌いですからね。そんなのを全部無視して弾きたい曲弾いて、それでしっかり音楽聴かせてくれるT北はいいと思うわけです。アンサンブルでの確実なサポートも含めて、さりげなく今回のMVPです。
そしてC技殿。うまいとは聞いてましたが、なるほど、本当に彼うまいですね。ビックリしました。イントロの部分からしっかり聴かせてくれて、そこからして「ああ、コイツは違うなぁ」と思わせる堂々の演奏ぶり。弾いた曲が曲だけに京大(卒)の聖帝殿も頭をよぎりましたが、聖帝殿のように「サラッと優雅に」というよりは多少の粗さと力強さを持つしっかりした音で安定感のある演奏は、聴いてて純粋にうまいなぁと思いましたね。とはいえ手放しでもつまらないので、敢えて「欲を言うと」ってところを言わせてもらうと(爆)、もう少しダイナミクスの幅を有効に活かせるようになると素晴らしいかなぁ、と思うのです。彼は非常にうまいですし微細な表現にこだわるだけの余裕もあるのですが、まだ表現の幅が狭く、ちょっとまとまりすぎな印象を受けてしまうのです。全体的に硬い音使い過ぎかなとも感じますし、ホールよりの音とブリッジよりの音の落差、そしてピアノをもっと思い切って落としてダイナミクスを広くとって観客の耳をそのギャップに引き付ける駆け引き、そんなものをもっとうまく利用すればもっと観客を飲み込んでしまうようないい演奏ができると思うのです。そしてクレッシェンド・デクレッシェンドの際はその広く取った落差の中で音の出し方のアーティキュレーションを操作して、曲の緊張感や高揚感といった空気を音楽の場に合わせて操作する。それができればもう最強ですね。要は音色・音量のダイナミクスをもっとうまく活用しましょうと。特にピアノはもっと思いきり落としてもいい。・・・まぁ、ステージでピアノを落とし切るのって実は結構根性いるんですけどね。ピアノを落とし過ぎると客席に聞こえないんじゃないかとか発音に失敗するんじゃないかっていう不安もあるし、状況次第では自分にも音が聞こえなかったりする。まぁそこは経験とステージ度胸でしょう(?)。
そして大合奏、今年も私が編曲した『亡き王女のためのパヴァーヌ』は頭の中にあったイメージ通り(実は曲的にあまり変わりようがない?)落ち着いた演奏を聴かせてくれていい感じに演奏してくれました。途中1stでハーモニクスが連発する中間パートのところで突然テンポが上がったのにはちょっとビックリしましたが、それもなかなか勢いと個性が出ていてよかったです。こうしていい演奏を聴かせてくれると、編曲してよかったなぁって思いますね、やっぱり。ところで、客席で吉田先生にお会いして話していたら、「ハープのアルペジオのところだけ音の並びがおかしかったから直させてもらった」と仰っていたのですが、誰か吉田先生版の校定譜私にくれませんかね?微妙に気になってたりします。多分ギターでセーハしてアルペするだけで弾けるよう音列を変えたところのことだと思うんだけど・・・。
大合奏最後の『花のワルツ』は、私も2回生の時のAアンで弾いた曲、そしてあの曲を引っさげて大分に演奏旅行に行ったという思い出の曲です。当時私は2ndで、パートリーダーはまりもさんでした。ところがあの曲、イントロからしてハープの32分音符が弾けない弾けない(爆)。そこでまりもさんと指揮者が相談して、音を半分にして弾いてたりしたのです。その他あの『くるみ割り人形』の編曲にはギター的に無理がある編曲が随所にあったり、あまつさえ『小序曲』は定演まで一ヶ月切るくらいまで編曲上がってこなかったりでとにかくグダグダで、それに切れた私が2回生会議で「もういい、来年は俺が編曲する!」と言い切ったのが私のAアン編曲の始まりなのです(笑)。なのですが、今年の皆さん、あの編曲元々の譜面のまま普通に弾いてましたねー・・・。あれは正直「おお、やるなぁ」と思って聴いてました。この曲はもう聴いてて当時の練習風景やら大分の演奏旅行やら初めてのAアン本番のことやら、とにかく色々思い出してきてたまりませんでした。最後フィニッシュを決めるところなんて、吉田先生が前に立って「よく指揮見てな」と言って歌いながら何度も練習した時の光景が本当に思い出されました。懐かしい気分でした。よくあの曲演ったなぁって思います。その懐かしさのせいでしょうか、変な話ですがステージ上の演奏者の皆さんと勝手に一体感を感じていました。自分もステージにいるような、とまではないにしろ、でも心の中で一緒に演奏しているような、そんな感じです。何か気持ちよかったですね(笑)。よくやってくれたよ、って感じです。
その他思いつくままに。ポピュラーアンサンブル、4回生中心の落ち着いた演奏が、最上回生らしい心遣いで曲が奏でられていてとても好印象でした。これって軽く4回生ステージみたいなもんだったんでしょうか?フラメンコ、これも元F技殿、ぎぃ助、りとりとの4回生トリオの足の地に着いた演奏はさすが最上回生って感じでしたね。こいつらが「足の地の着いた」とか感じさせる最上回生になっているとは時の流れとは恐ろしいものです(爆)。そしてF技デュオの『Tangos』は音の出方といいリズムの安定感といい、非常に堅実で風格のある演奏でよかったです。なんか去年くらいからフラメンコちょっと落ち着いてきたなぁって印象を受けますね。それはいい意味で。私達の代にあったような熱気とは違う落ち着きを感じるようになってきました。
演奏者及びスタッフの皆さん、お疲れさまでした。そして特に4回生の皆さん、これで最後の定演ですが、4年間本当にご苦労さまでした。あの代も活気のある代でしたからね。きっと色々と思うところもあるんじゃないかなーと勝手に想像しています(←オイ!)。非常に気持ちのいい演奏会でした。
2003年11月14日金曜日
頑張れ衣笠CGC!
2003年11月13日木曜日
届かない新譜
2003年11月12日水曜日
ちょっとはまっていること
2003年11月9日日曜日
養老孟司の言葉 - 考えることをやめてはいけない
で、いざ番組が始まってみるとまず養老孟司のテンポ(というか思考)についていけないかわいそうなレポーターと、それにややあきれ気味の養老孟司という構図が非常にぎこちない印象を与えてくれたわけですが(ってゆーかもうちょっと使えるレポーター出せよ)、養老孟司の言葉自体には結構色々と考えさせられるものがありました。彼はなんというか、頭がいいとか知識があるとか、そういったものよりも「ものの見方、捉え方」を非常に重視するし、またその勘所を知っているなぁと思いましたね。例えそこにTVドキュメンタリーにありがちな余計なおセンチが当然のようにいくらか入ってくるとしても。
今回彼が言っていたことは、少々乱暴に要約するなら「考えることをやめてはいけない、結論を決めてはいけない」ということです。例えば誰かに何か、そうですね、「あなたは何故ギターを弾くのですか」等とたずねる時、そこには相手が何かしらの(それは例え予想だにしなかったものであれ)結論を一つ決定的に返してくるものという、たずねる側の思い込みがあります。ところが、そのたまたま返ってきた一つの答えに満足した時にそこで思考は停止しています。養老孟司は言います。現代は何でも出来上がってしまっている中で生活しているから、その出来上がったものの中で生活していればいいだけで、自分で考える必要というものがあまりなく、自分で考えることができない人が増えていると。これはやはり私の周囲をざっと見回しても言えることで、出来合いの現実の中でその既製品を受け取るだけで、自分自身の思考を停止していることの何と多いことか。本当はここでその辺りに関する私の見解を述べたいのですが、恐ろしく長くなりそうなのでそれは明日にでも回すとして、この養老孟司の言葉は共感するところが多かったです。「自分の意見に固執して相手の意見を聞こうとしない学生が多くなってきた」というくだりで出てきた女学生は、自分の考えを持ってはいるものの、それを世の中に出して妥当性を検証していく段階での思考停止を象徴しているように思えました。ケンケンガクガクの調子で持論を展開し、熱く(端で見てるとむしろヒステリックなほど)雄弁に語るものの、養老孟司の言うことには結局耳を貸さずに自分だけの思考の壁の中から出てこようとしないのです。つまり「主観」だけで思考を停止してしまい、「間主観」としての妥当性を確かめようとしない。でも確かにしっかりとした意見を持っていると言えばそうなわけで、だからこそその女学生はきっと「自分は思考している」と思っていることでしょう。実はある段階から先の思考を切り捨てているにも関わらず。厄介な話です。
この辺り語りたい気持ちは一杯なのですがそれもやはり日記というレベルの長さを超越してしまうこと必至なので止しておいて、最後にもう一つ印象的だった言葉を書き留めておきたいと思います。
現代の、特に日本人は死体や胎児といったものを自分達と同じと見ていない。それらは自分達のコミュニティに関わっていないものであり、無関係なものなのだ。そういったものは目をそらすべきものであり、普段見ないようにしているものでもある。鎌倉時代、日蓮宗や浄土真宗などの宗教が出来た頃の日本では、世界でも例を見ないほど正確な死体の描写が行われた絵画があり、つまりは死体を見つめ、向き合う目を持っていたにも関わらず。そして、それらを出来るだけ見ないようにと排斥してきた結果、現代ではそれらを見る時「見てはいけないものを見た」という気分になる。何故そんな気分になるのか。それを見てしまうとこれまでの価値観や感性といったものが変わってしまうように感じるからだ。けれど、胎児にしても死体にしてもそれは凄く自然なことで、誰もが通ってきて誰もが行き着くところだ。それを見ることで自分の中で何かが変わるというならば、むしろ変わった方がいい。そっちの方が自然なのだから。それが嫌だというならば、頼むから生まれないで、死なないでくれ。
番組中の言葉より、大意
2003年11月7日金曜日
羊と山羊 - 追記
2003年11月5日水曜日
羊と山羊
すると、何と恥ずかしながらこの時初めて知ったのですが、「羊と山羊の違い」というのはキリスト教においては非常に重要な意味を持っているらしいのです。最後の審判において神が「羊飼いが羊と山羊を分けるように」善人と悪人を分け、善人には永遠の命を、悪人には永遠の罰を与えるというのです(『マタイによる福音書』ではどうやらそうらしい)。なるほど、だからキリスト教というものが根底にある西洋文化においては山羊が何かヤな役割を負わされるんだなと納得はいったわけですが、にしても何故「羊と山羊」が「善と悪」ほど違うのか、その辺りどうにも腑に落ちないのです。山羊だって羊と比べてそんなに悪いもんじゃなかろうと思うのですが。
ともあれ、もし「羊と山羊」が「善と悪」という対義語ほど違うというのなら、眠れない夜は羊を数えるといいというように、眠りたくない時は山羊を数えればいい、ということになります。・・・早速仕事中に眠くなった時に試してみたいと思います。
2003年11月3日月曜日
暑すぎる社内
2003年11月2日日曜日
デビッド・ラッセル『バッハ作品集』レビュー
すると、何とあろうことかラッセルのバッハ作品集が出ているではありませんか(っつーか今年の1月末に出てたとは・・・)!しかも曲目も危険に熱すぎる選曲。これは買わなければなりますまい。ラッセルの新譜というだけでも無条件で購入ですが、しかもそれがバッハ作品集となればもう金がなければ万引きしてでも手に入れなければならない代物です(?)。
というわけでラッセルのCDを購入し、悦に入りながら聴いていたわけですが、やっぱラッセルいいですねー。彼の、きらめくような美音(特に高音域の)や繊細かつ大胆な表現力に関しては今さら多くを語る必要はないでしょうが、今回改めて感じたのは「ラッセル、トリルが物凄いきれいだなー」ということ。そもそも彼は一音一音の輪郭が非常にはっきりとしているギタリストです。ギターではぼやけてしまいがちな早いスラー系のパッセージでも、あたかもチェンバロででも弾いてるかのようなくっきりとした音の輪郭が決して崩れません。それ故に随所できれいにインテンポでさらっと入ってくる(ただし結構複雑な)トリルが非常に美しく響くのでしょう。そしてもう一つ改めて実感したのが、ラッセルというのは音を響かせる天才だということ。潜在的ポリフォニーを持った単音旋律が、本当にあたかも複数の楽器で複数の声部が演奏されているかのように響いて聴こえたり、和音が鳴った瞬間にふわっと音が広がってくるのがとても心地よかったり。藤井敬吾先生に「これはできなくていいから、とにかく頭では覚えておいて」と前置きされた上で、「ギターという楽器は基本的には平均律の楽器だが、本当のプロは微妙な加減で音程を調節してギターでも純正律で弾く」と言って実際にその響きの違いを実演して教えられた時のことを思い出します。残念ながら私は比較する平均律の響きがないとその音が純正律なのかどうかわかりませんが(というか実際比較すればよほど耳がザルでない限りその違いなんて一目(耳?)瞭然ですが)、きっとラッセルも純正律の響きで弾いているからこそ和音があんなに美しく響くのでしょう。あんな音で弾けたらなー、と心底思います。
今回のお気に入りは何といっても4曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』。きっと聴けば誰もが耳に憶えがあるであろう有名なコラールですが(ただしギター編はほとんど聞かない)、ラッセル編のこの曲は彼の豊かに膨らんでいく和音の響きと、明快にかつ流麗に奏でられるトリル、そしてクリアで明るく優しい音色がもう心行くまで堪能できる素晴らしい名演です。聴いてて本当に気持ちよかった。『シャコンヌ』はちょっと独特な感じでしたね。ラッセルは今回のアルバムではグールドばりに低音のスタッカートを多用して、短く切る音と余韻を残して響かせる音の間の落差を表現の手段として用いています(だからといってどう聴いてもラッセルの演奏がグールドに似ているわけではありませんが)。当然『シャコンヌ』の早いパッセージが続いた後にアルペジオに流れていく、前半の最大の盛り上げどころでも低音がスタッカートで歯切れよく切れていきます。低音が凄くサクサク切れるのに、上の方はむしろ逆に落ち着いて焦るふうもなくゆったり弾いているというそのギャップに少し違和感を覚えました。何しろ長調に転調する前の最後のアルペジオの部分でさえ、他のギタリストがこれみよがしに低音をダーンダーンと鳴らしているあの部分でさえ、ダーンダン、ダーンダン、ってスタッカートで切ってるくらいです。なんというか、斬新でした。長調に入ってから和音や異弦同音が続く辺りの聴かせ方はさすがでしたが、長調から短調に戻っていく時だけ他と比べてやけに焦っているようにも聴こえたり・・・。この『シャコンヌ』だけはちょっと?でしたねー・・・。あと、リュート組曲4番の『ローロ』ではトリルが上から入っていたような・・・?気のせいでしょうか。
『シャコンヌ』に多少の疑問符が付くとはいえ、『プレリュード、フーガ、アレグロ』や『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』、『リュート組曲4番』、『主よ人の望みの喜びよ』ではラッセルらしい素晴らしい演奏が聴けます。何しろ本当は『シャコンヌ』まで聴いたら風呂を入れようと思っていたのを、「せっかくいい演奏なのに風呂を入れる水音に邪魔されたら台無しだ」と風呂は後回しにしたくらいです。グールドみたいなスタッカート奏法も他では非常にいい感じです。普段音が切れてるから、和音が突然ふわっと広がった時にその感覚が凄くよくわかっていいんですよ。やっぱりラッセルは違います。
2003年10月30日木曜日
修羅場、開始
2003年10月27日月曜日
完璧な日曜日
2003年10月26日日曜日
本棚の整理
しかし、捨てるとか売るとかでなく実家に送るという軽めの選択肢にも関わらず、手放す本の選択は意外に難しいのです。まずいつ読み返したくなるかわからない本当にお気に入りの本(村上春樹の大部分やカポーティ等がこれに当たる)はとっておきたいですし、いつか日記に使う予定のネタ本(イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』やフォルケルの『バッハ小伝』等)も手元になければ話になりません。その他心理学系の本はものを書く時に参考にする可能性が高いですし、そういった資料性の高い本(薬物・毒物関係や法医昆虫学の数少ない読み物『死体につく虫が犯人を告げる』等)も手元に置いておかないといけません。『術語集』や『悪魔の辞典』等も同様です。
・・・一向に整理が進みません・・・。
2003年10月24日金曜日
芸術性と大衆性
少数なるものを満足せしめよ
シラー『選択』より
・・・元々二行詩なので、上記に引用した二行目の後に一つのフレーズを入れてこの詩は終わります。「多くの者を喜ばすことは悪しきことなり」と、この詩は結ばれます。大衆の喝采と真の芸術は両立し得ないという、崇高な地平。確かに音楽でも何でも、より高度で複雑なレベルのものを理解するにはそれなりの資質なり訓練なりが必要だということは(以前にもこの日記で紹介しましたが)認知科学的にも証明されています。ということは、なるほど専門的な訓練を積んだわけでもない人間が大部分であろういわゆる大衆に理解できるものは「高度で複雑」なものではないということでしょう。「真の芸術」というものが「高度で複雑」でなければならないとするなら、「大衆の喝采と真の芸術は両立し得ない」というテーゼは科学的に証明されてしまうことになります。その論理を諸手を叩いて歓迎したい「崇高な」方々も世の中には多くいらっしゃることでしょうし、「理解されない芸術に意味はあるのか」と物申すか、あるいはそこまで理屈っぽくなくても一般受けも大事だと仰る方も相当数いらっしゃることでしょう。どちらを否定するわけでもありませんが、私はそしてこう言います。
まず、始めから大衆受けというものを狙って作るもの、それは確かに真の芸術たりえないでしょう。可能性はゼロではないですが、限りなくゼロに近いでしょう。ならば高度に専門的な訓練を積んだ識者達にしか理解し得ないような難解なものを作ることが真の芸術になりえるのかというと、それも当然そうとは限らないでしょう。確率的には前者より幾分はマシかもしれませんが。敢えて大衆を「人的」なもの、高度で崇高なものを「神的」なものと二極化して定義するとすると、その時点でどちらかの立場に立ったものはもう片方の立場を捨てることになります。それは等しく表現の帯域を狭めて限定することに他ならないのです。大衆受けを狙うなら高い認知能力を必要とするような技法は使えないし、それを悪とするならわかりやすいシンプルな手法を捨てることになります。「人」と「神」は絶対的な壁に隔てられることになるわけです。別にこだわる必要はないんじゃないかなと思います。「人」としての芸術にも「神」としての芸術にも。作品が求めるもの次第で、「人」にも「神」にもなれるし抗える(特に時間芸術においては一つの作品の中でそれが遷移することすらあり得る)、そんな柔軟さ、奔放さが真の芸術には必要なんじゃないかなと思うわけです。どちらかにこだわることはそれだけ可能性をせばめることになるわけですから。まぁ、ザックリ言うなら「受けるも受けねぇも気にすんな」ってことです(?)。
・・・しかし「人」と「神」の間を自由に行き来することが真の芸術への近道だとするなら、カルト宗教のトップとかが一番真の芸術に近い位置にいるということでしょうか。信者の前で「神」になり、「人」としての欲望も望むままにし・・・。う~ん・・・(苦笑)。
2003年10月22日水曜日
2003年10月20日月曜日
哲学的な感性の音楽 - ステファノ・グロンドーナ
とはいえステファノ・グロンドーナです。かのオスカー・ギリアの高弟であり、85年にとあるインタビューでセゴビアが「最もお気に入りの弟子の一人だ」と名指ししたという(ちなみに同列に並べられたのはジョン・ウィリアムス、オスカー・ギリア、そしてアリリオ・ディアス)知る人ぞ知る名ギタリストです。まぁ世界的な評価の割に日本ではやけにマニアックというかあまりに知られていないだけなのですが。私も彼のことは知らなくて、昨年の5月にマンゴレの熱い誘いを受けて行った『音楽の絆フェスティバル』でグロンドーナ氏のマスタークラスを聴講し、その堅実で流麗な技術と、豊かな音楽性を裏付ける哲学的な思索と確かな感性に魅力を感じ、また他に類を見ない「哲学者」的なギタリストという印象から、その後も非常に興味を持っていたのです。しかし彼のCDってなかなか売ってないんですよ。なんとAmazonでも見つけられなかった・・・。それがタワーレコードでほとんど偶然に見つかったので、給料日前の苦しい懐具合にも関わらず思わず衝動買いしてしまいました(苦笑)。いいんです、CDには2種類あるんです。買おうと思えば後で買えるCDと、見かけた時に買っておかないともう二度と出会えないCDと。
今回入手したのは前述のバッハ、スカルラッティ、フローベルガーの曲を集めた『BAROQUE IMAGES』、そして歴史的価値の非常に高い12本のヴィンテージギターを弾き分け、タルレガ、リョベート、セゴビアの作曲・編曲物を中心に編纂した2枚組『鳥の歌』です。ステファノ・グロンドーナはギター史やギター製作の研究家としての顔も持っており、『鳥の歌』では演奏家としての彼と研究家としての彼が両方楽しめます。曲に合わせてA.トーレス(しかも様々な年代の)やブーシェ、ハウザー他計12本の歴史的名器を弾き分けていくこのCDは、曲や演奏も素晴らしい上に様々な名器の音色も堪能できるという素敵な1枚です。しかし、このCDを聴く人は「やっぱり同じ人が弾いても楽器によってこんなに響きが違うんだな」というテーゼと「やっぱりどんな楽器を弾いても結局はその人の音になるんだな」というテーゼ、そのアンビバレンツに苦しむ羽目になりかねません(爆)。いや、本当不思議なんですよ、これが。ともあれ、ギター史やギター製作史に対する深い理解を持った上で一曲一曲に注がれる深い洞察、内省的な奥行きが聴く程に伝わってくるこのCDはかなりお薦めです。この音楽を楽しむためなら多少アンビバレンツに苦しむくらいはいいじゃありませんか(?)。ちなみに、もう1枚の『BAROQUE IMAGES』の方は今聴いているのですが、こちらも楽器はA.トーレスです。敢えてバロックをトーレスで弾く意味は?という疑問はさておいて(トーレスはいわゆる19世紀ギター、収録されている作曲家が生きたのは17世紀)、フローベルガーという作曲家をギター編で聴けるのはそれだけでなかなか珍しいことです。
・・・というわけで、先のジョン・ウィリアムスのコンサートもあり、ここ数日私の中ではギター熱に相当火がついてしまっているとのことです。
2003年10月19日日曜日
ジョン・ウィリアムズ@すみだトリフォニーホール
客電が落ち、ジョンがステージ上に現れてバッハのリュート組曲第四番BWV1006aからコンサートが始まるわけですが、私がまず最初に思ったのは「ちょっと待て、今着てるその服、絶対何かのCD(『ザ・ギタリスト』?)のジャケットで着てたヤツだろ!?」ということ(笑)。大抵の場合ステージ上にいる人物とCDのジャケットに写っている人物というのは印象が微妙に異なるものですが、ジョンに限ってはまったく印象が同じでした。そして演奏です。どうやら彼は極端なスロースターターらしく、BWV1006aの『プレリュード』は結構何度も音外してました(苦笑)。同組曲の『ロンド風ガボット』くらいから切れ始めて、前半の最後グラナドスの『アンダルーサ』、『ゴヤのマハ』、アルベニスの『朱色の塔』、『セビリア』と続く流れは凄まじかったです。『セビリア』カッコよかったなぁ・・・。
ジョンの演奏を聴いていて思ったのは、とにかく右手のタッチがしっかりしているということ。マイクなんてなくても生音でこのすみだトリフォニーホールを掌握できるんじゃないか?と思えるくらい骨太な力強い音が出るのです。そしてハーモニクスが異様にデカイ。実音とほとんど音量差のないハーモニクスがバッツンバッツン鳴り響く様はかなり圧巻でした。しかし彼の右手、弾いてる時は指の第一関節から先がほとんど見えない位置にいるんですよね。ラスゲアードの時ですら指先が客席の視界に入ってこない。それだけ無駄の少ない小さな動きで弦を弾いているということなのでしょうか。
後半は『ザ・マジック・ボックス』収録の曲達から始まります。もうこの頃にはジョンはかなりノリノリで、アフリカ音楽であるこれらの曲達を凄く気持ちよくリズミカルに聴かせてくれました。CDで聴いてると端正でソツのない演奏といった印象の強いジョンですが、実際この『ザ・マジック・ボックス』のようなアフリカの音楽や最新作『解き放たれた悪魔』に収録されているようなベネズエラ音楽での演奏を生で聴いてみると、端正でソツがないというよりは気分屋でノリ重視といった感じさえ受けます。のってくると止まらないってタイプでしょうか。そして『舞踏礼讃』です。この曲で私はジョンの左手に脱力の究極形を見ました。この『舞踏礼讃』という曲は基本的に弾き手本位な曲でして(爆)、特に左手は一度手の形を決めたらそれをそのまま縦なり横なりに動かしていくだけで弾けてしまうという部分が結構あります。ただしそれも理論上の話で、実際はその手の形が結構無理があって力が入ってしまってフォームが崩れて音がびびったり、手の形は同じでも開放弦を交えて高速なスラーで移動しなければいけないので左手指が非常にバタバタしてみたりとなってしまいがちです。ところがジョンは、左手の形が一旦決まってしまうともうピクリとも指が動かない。スラー交じりに縦に左手を移動させていくフレーズのところも、当然指は動いているはずなのですが見た目は本当に指は静止したまま手だけが平行移動しているように見える。ゾクッとしました。どんだけ無駄のない小さな動きで弾いてんだと。かつて藤井敬吾先生が喫茶アルハンブラで半音階で左手の指の動きをいかに最小限に抑えて弾くかということを実践して見せてくれた時も衝撃でしたら、それを実際の曲の中であそこまで見事に実践しているのを見たのは初めてです。しかもまた『舞踏礼讃』の演奏が凄くよかったんですよ。あの曲を妖しいだけじゃなく本当の意味でカッコよく音楽として聴かせてくれるギタリストはなかなかいませんからねー。
そして曲は私の中で本日一番のハイライトである『大聖堂』に移ります。そう、私が初めて買ったクラシックギターのCDはジョン・ウィリアムスの『バリオス作品集』です。そして三回生の定演までずっとそこに収録されている『大聖堂』を目標にやってきたわけです。その名曲が、最初に買ったCDと同じジョン・ウィリアムスが、まさに目の前で弾いているわけです。そりゃ熱くならないわけがありません。そして演奏の方も期待通り、もう最初の一音から客席の空気をすべてかっさらっていくような、オーラに満ち満ちたものでした。ジョンの音って透明でクリアというよりは、少しかすれた感じの丸みがある暖色系のものだとこれまでの演奏からは思っていたのですが、この『大聖堂』の第一楽章ではちょっと毛色が変わりました。丸みのある暖色系の音という底の部分は変わらないのですが、かすれた感じが消え去って、透明感が増したというか輪郭がスッキリしたというか、彼独特の力強いハーモニクスがそのまま実音で出ているような、そんな音に突然変わりました。今思えばこの変化は、もしかしてPAで調整してたのかもしれませんが、とにかくその音にすっかり私は引き込まれ、第三楽章の最後の和音を軽く流して終わるまでずっと固唾を飲むどころかその固唾を飲むために集中力がわずかにそれるのも嫌だというくらいじっとステージから流れてくる音に聞き入ってました。終わった後はもう会場中その日一番の拍手です。客席の何処かから「ブラボー」と叫ぶ声が聞こえます。鳴り止まない拍手にステージ上のジョンが何度も何度も笑顔を返し、次の『森に夢見る』のために調弦を変えようにも拍手がうるさくて困ったなくらいの表情でたたずんでいました。
次の『森に夢見る』もいい演奏でしたし、最後ベネズエラのギター音楽ではまた後半の開始と同じように、気持ちよく音楽に乗っていけるセンスのいいリズム感で観客を楽しませてくれて、コンサートの本編は終わりを告げました。アンコールは三曲、すべて『解き放たれた悪魔』からの曲で、最初の曲はちょっとわかりませんでしたがあとは『星の涙』と『別れへの前奏曲』でした。最後のアンコール前のスピーチで、「これも『解き放たれた悪魔』からの曲で、『Prelude del Adios』です」と告げて「これでアンコールストップですよ」と暗に告げるジョンの、ちょっと悪戯っぽい笑顔が印象的でした。アンコールストップも終わり、ジョンが袖に帰っていきます。それでも当然拍手は止みません。もう一回出てきてくれないかなと皆思ってるわけです。が、鳴り止まないカーテンコールも上がった客電に有無を言わせず止められます。拍手も一気に小さくなっていきます。が、その瞬間客電がまた落ちて、袖からジョンが笑顔で両手を広げて小走りに出てきます。そんなちょっとした悪戯が、無邪気な笑顔によく似合っていました。いやー、このコンサート聴いてジョン・ウィリアムスが好きになりました。彼の演奏は決して「端正で上品にまとめる」だけでなく、聴き手を引き込むオーラとリズムセンスに裏打ちされた力強い説得力のある演奏家なのだなと、私はジョンへの認識を改めましたとさ。
・・・しばらくは『解き放たれた悪魔』が部屋でヘビーローテーションでかかりそうです。
2003年10月15日水曜日
暗い幻影
2003年10月13日月曜日
最近弾いている曲達
2003年10月12日日曜日
2003年10月11日土曜日
小さくとも形になった感性達
次は当時付き合っていた彼女のバイト友達で、シンガーとしてちゃんとした事務所に所属してやっていて、その当時メジャーデビュー一歩前くらいの位置にいた人が参加したコンピレーションアルバム。何度か一緒にカラオケに行ったこともあるけれど、可愛ければよしのアイドル系ではなく真面目にシンガーやってプロ目指してるだけあって、さすがにそこらへんの女の子や学生バンドの女ボーカルなんかより全然うまかったですね。どうなったんだろう、私は名前を聞きませんが、メジャーデビューできたんでしょうか?
そして3枚目は今聴いているCDで、まりも氏の強い勧めで何度かライブも観てこのCDも持っている、みじんこ!の『ケンビキョウと宇宙』。当時立命の軽音の看板バンドの一つで、くるりのメジャーデビューなどで盛り上がっていた立命のバンドシーンの中でも一際目立っていた、というか個性を発揮していたバンドです。・・・とまぁ知ったかぶってますが、二度程バンドに在籍したり引き込まれそうになったりはしたものの(苦笑)、私も立命のバンドシーンにそんな詳しかったわけではないのでまぁ個人的な印象です。で、このみじんこ!が結構いいんですわ。正直、特別うまいわけではないんですよ。もちろん下手でもないですけれど。ただこう、音といい歌詞といいなんかホッとするんですよね。ボーカルの人、確か体の小さい、長めのおかっぱ頭の女の人だったように記憶してますが、学園祭でギターを弾きながら気持ちよさそうに揺れながら歌っていた姿が思い出されます。それを見て私も「もう一度バンドやってみるのもいいかもなぁ」とちょっと感化されたものです(笑)。音楽性としては敢えて言うならスピッツに近いけど、もう少しおっとりとした浮遊感が漂う、なんかちょっと天然系の暖かな音です。リードギターもセンスの塊のような人で、曲の流れの中で随所にビビッとくる演奏を聴かせてくれていました。確か、卒業記念にこのCDだけ出して解散したんでしたっけ?
こうして見てみると、昔はちょっと周りを見回せばそういったセンスや行動力を持った人達がたくさんいたんだなぁ、って思います。社会人になったからなのでしょうか、それとも学生の頃の環境があまりに特殊だったからなのでしょうか、今周りを見回しても、そんなセンスを磨いてそれを外に出していこうという人なんてほとんどいません。ギリギリ一杯一人いるかな、くらいです。きっと私なんか及びもつかないような、想像もできないくらいのセンスや見識や行動力を持った人もいるんでしょう。ですが、少なくともそれらが発揮されているところをお目にかかる機会はありません。正直、つまらないですね。外からの刺激に飢えています。刺激といってもストレスはもうたくさんです(爆)。私の感性を刺激して、つっついて、赤く腫れ上がるくらいにぶっ叩いて、「負けてられるか」と思わせてくれるような、そんな感性に飢えています。だからこそ先週もみなとみらいまで一人で繰り出したりするわけで、狂ったように次から次へと小説を読みあさったりもするわけです。ですが、なかなかうまくいきません。なかなかうまくいきません。感性を刺激してくれる、そんな空気に飢えています。ライブとか何とかそういうことではなく、日常の中に溶け込んだ創造というものに向き合う空気に。学生時代は気付かなくても常に周りに、当然クラギタの中にも、Toward eveningの中にもあった、あの空気に。正直、つまらないですね。
2003年10月10日金曜日
涙の六本木ヒルズデビュー
「まぁ、場所も近いしこのマシン(私がいつも使っている開発マシン)担いでタクシーに乗って行ってもいいな」
・・・ほほう、この私の省スペースどころか思っくそ普通のタワー型のデスクトップマシンを担いで客先まで行くと。なるほど、それなら確かにマシンパワーの問題は解消します。ですが・・・、
「デモってどこでやるんですか?」
「ん?六本木ヒルズ」
・・・ほほう、確かにそりゃ近いな。っていうかヒルズかい!? というわけで、今日私は今日本で最もホットなスポットの一つであることに疑いのない六本木ヒルズを、いつも会社で使っているタワー型のデスクトップを担いで闊歩していました(爆)。プライベートで行った人の話によると実は意外とつまらないらしい六本木ヒルズ、商品一つ一つ当たりの展示スペースがやたらに広く、その空間の広さに呼応するかようにお値段の方もやたらと高いブランドものばかりが並び一般庶民が買い物できるスペースがほとんどないという六本木ヒルズ、そこを私はタワー型のマシンを重そうに担ぎながら歩いて行ったわけです。とにかく最新鋭な六本木ヒルズ、オフィス棟に入るためには空港のようなセキュリティチェックを受けなければなりません。探知機の間を通る時、このマシンがチェックに引っかかって止められたらどうしようかと思いました(苦笑)。何はともあれセキュリティチェックでも止められずに無事通過することができたわけですが、ってゆーか逆にPC担いでても無事に通れるセキュリティチェックって、一体何をチェックしているのでしょう?こんなでかいタワー型のマシンなら中に爆弾の1つや2つ隠せるんですがねぇ・・・。帰り際、ヒルズの静かで高速なエレベーターで、制服姿のキャイキャイ騒ぐ女子高生達とスーツを着込んでタワー型のマシンを抱えた私が乗り合わせるその風景や、ガラス張りの回転ドアをタワー型のマシンを抱えた私がくぐり抜けてきて、水が流れるアクリルの壁の横を抜けてエスカレーターに乗り込む様は、きっと端から見ると得体のしれないシュールさが漂っていたに違いありません・・・。今日という日に、そんななんとも言えない微妙な気まずさが残るヒルズデビューを私は果たしたのでした。どっとはらい。
2003年10月7日火曜日
原点
2003年10月6日月曜日
Sputnik Sweetheart
今朝、9時半と休日にしては早めに起きた私は、洗濯や買い出しといった日常の諸事を手早くすませます。そして行き際にスーツをクリーニングに出し、ラーメンで昼食をすませた後に桜木町行きの電車に乗り込みました。終点で降り、バスターミナルの向こうで回るコスモクロックを横目にエスカレータで上の動く歩道に昇り、一路ランドマークタワーの方を目指します。そしてランドマークタワーの横を抜けて扉をくぐり、回廊状のエスタレーターを5階まで上がればもうランドマークホールはすぐそこです。近未来的でお洒落で先進的なみらとみらいランドマーク近辺に、20代の一人攻めを敢行している人間は男女を問わずほとんど皆無に等しいですが気にしちゃ負けです。手前にある有燐堂の『世界のトランプ展』とやらが目についたので立ち寄ってみて、妖しいタロットカードにちょっと惹かれながらも意外と高かったので諦めてみたりしながら、私はランドマークホールに向かっていきました。受付を済ませ、来場者全員プレゼントというポストカードをもらって中に入ると、美術館というよりはイベントホールといった雰囲気で(というか実際そこはイベントホール以外の何物でもないのですが)、薄暗く照明を落とした空間に、意表を突いたことに静かなBGM的な音楽でなく、大音量のいわゆるネオクラシックとかネオフラメンコとかいった類いの音楽が流されいています。ある種学園祭の出し物につきものな浮き足立った熱気にも似た印象を受ける、ある意味で実に斬新な空間です。版画はまぁお決まりって感じで黒い幕に暖色の電球で照らされていましたが、その明らかに美術館とは一線を画した雰囲気は、微妙に若者受けを狙っていたりするのでしょうか?
中に入って「むう、シャガールだ(やっぱ相変わらずこんなんだな、オイ)」等とすっとんきょうな感想を持ちながら一枚目の版画を近寄ったり離れたり角度を変えてみたりしながら眺めていると、スーツをビシッと着込んだ、短めに刈り込んだ茶髪を爽やかに上に立てた同じ歳くらいの説明員が満面の笑みで声をかけてきます。
「シャガールお好きなんですか?」
・・・ほう、俺がシャガールが好きかと?なるほど、休日にイベントホールのシャガール展に一人で立ち寄って、しかも一枚目からじっと数分立ち尽くしているくらいだから、確かに他の人から見たら「シャガール好き」に見えるのかもしれない。が、何しろ俺は初めてではないにしろ美術全般に大した見識があるわけでもない、「なんちゃって美術好き」です。彼の質問に大真面目に「ええ、いいですよね、シャガール」と答えることもできず、仕方がないので開き直って「いやー、ぶっちゃけよくわからないんですけどね、まぁ観るのは嫌いじゃないんで」等とひきつった笑みとともに答えてました。それでも彼は「この金色の額がシャガールが生前に自分で作成したもので、それ以外の物は死後に出た復刻で・・・」と説明してくれました。それはそれで嬉しかったりはするのですが、素人同然の人間が美術の展示会場に単身乗り込んできて、しかも適当に流すでもなく一点一点じ~っと首を捻りながら観ているというのも少し気まずかったりします。何しろ本当に「よくわからん」のですから(苦笑)。ん~、ムンクは凄く感性に響くものがあるし、カンディンスキーも素直に響くものは響くなりに、わからんものはわからんなりに、もっと色々感じるものがあるのですが、シャガールはよくわからん・・・。
その会場にはシャガールの他にスペインの作家や日本や中国の現代のアーティストの作品も展示されていて、むしろそっちの方がよかったです。まぁ、ただ単にわかりやすかっただけって話もありますが(爆)。ただあれですね、このことはまた機を見て書こうと思いますが、そこに展示されていた現代のアーティスト達は、凄く透明で幻想的な綺麗な作品を作っていて、確かにその技術には感心するのですが、その作品の中で何かしらの形をとって息づいていなければならないはずの魂が見えなかったのです。表面的な美しさだけで終止してしまっているような、そんな印象を受けました。シャガールの作品は理解できないなりにそういった「力」のようなものはやはり感じますねぇ。それともこれも色眼鏡なのかなぁ・・・?
そしてその後、有燐堂に再び立ち寄り、奥の方に渋谷のブックファーストより充実した洋書コーナーがあるのに気付き、そこで一時間程立ち読みをして過ごしていました。いや、村上春樹の英訳版があって、最近じゃ海外でも英訳された村上春樹の小説が非常に評価が高く読まれていると聞いたので、「英語で読むとどんな印象をうけるんだろう?」と、興味津々で立ち読んでいました。しかし、英訳されたタイトルがいちいち微妙です(苦笑)。例えば『ねじまき鳥クロニクル』は『The Wind-Up Bird Chronicle』。いや、まぁ、確かに「ねじまき」は「Wind up」なのかもしれないけどさぁ・・・。『神の子どもたちはみな踊る』は『After the Quake』。むぅ、確かに『神の子どもたちはみな踊る』は阪神淡路大震災から作者が受けた心象をもとにした連作短編集だ。・・・が、敢えてその中の作品の一つを本のタイトルにもってきた作者の意図は何処へ・・・?とか。『ノルウェーの森』や『アンダーグラウンド』なんかはそのままですね。で、唯一「この英訳タイトルはセンスいいなぁ」と思ったのは『スプートニクの恋人』。訳して『Sputnik Sweetheart』。これは村上春樹の作品としては正直私の中で比較的評価の低い作品ですが(そのくせ文芸方法論のレポートでは当時出たばかりのこの作品を、必死で読みといて色々な所に付箋張り付けたりして珍しく熱心に研究してレポートを書いた)、英訳版を読むならこれかなぁ、とか思ってしまいました(笑)。なんかいい感じじゃないですか。『Sputnik Sweetheart』。まぁ実際ヒロインのすみれがSweetheartかどうかはともかくとして。
ところで、ペーパーバックってよく裏表紙や中の扉に作者の経歴やバイオグラフィーが載ってたりするじゃないですか。村上春樹のも載ってたんですが、彼、京都の生まれだったんですね(←知らなかったんか!?)。ずっと神戸だと思ってました。しかも、村上春樹の写真初めて見ました・・・。それらに衝撃を受けるにつれ、「そういや俺ってそんなことも知らずに彼のファンやってたんだろうか・・・?」と思ってしまいましたとさ。いいんです、俺は彼の作品が好きなのであって、彼の写真やバイオグラフィーが好きなわけではないのです。・・・まぁでも普通、好きな作家の写真くらい8年もファンやってりゃ一度くらいは目にしますよねぇ・・・。
バイオグラフィーで思い出しましたが、今日は私の遠い友人の誕生日でした。今では連絡先もわからなくなってしまって、どこでどうしているのかもさっぱりで、まさに『遠い声、遠い部屋』といった趣もありますが。折角思い出したのだからこの場で一言くらいお祝いをいいたいと思います。しかしどうしてるんでしょうね、ホント?お~い、元気か~?
2003年10月5日日曜日
壊れかけの・・・。
2003年10月2日木曜日
弁解余地なし
・・・にしても昨日日記に書いたばかりでもう今日かい・・・。
2003年9月30日火曜日
忘れられるタオル
2003年9月28日日曜日
S・ミルハウザー『湖畔の一日』より
スティーブン・ミルハウザー(柴田元幸 訳)『湖畔の一日』より
2003年9月26日金曜日
疑惑→結論
2003年9月23日火曜日
疑惑
2003年9月21日日曜日
分かれ道
漠然とした意志が揺れて、ただ足だけが釘付けになる
冷たい雨を運ぶ雲が、また後ろから影を連れて
無情に流れる空の風が、止むこともなく雲を乗せて
進まなければいけない、追いつかれる前に
刺すような雨に、打たれる前に
自らはめた足枷に、縛り付けられた世界の中で
ただ、足だけが前へ出ずに
そう、これは何処かで見た風景
何もない、がらんどうな分かれ道
喪失という名の下に、目の前で消えていった幻達
音もなく沈みゆく街で、吹きすさぶ風に肌が怯えて
冷たい雨を運ぶ雲が、また後ろから影を連れて・・・
2003年9月20日土曜日
CM大賞
ハイ、
♪燃焼系、燃焼系、ア~ミノ式・・・
2003年9月19日金曜日
飲み過ぎた翌日
昨日飲んでいたということは、当然今日は仕事です。それが社会人の辛さです。とはいえ、これまで私は酒を飲んだ次の日に会社を休んだり遅刻したりしたことは入社二日目(←オイ!)しかありません。酒に負けてはいけないのです。大丈夫。大丈夫、・・・と思っていました。
・・・が、朝7時半、あまりの胃の気持ち悪さに目が覚めます。今さらのように胃の中でアルコールが燃えて、胃壁を荒らして喉を遡ってくるような、横隔膜が不自然に蠕動を繰り返すあの不快感。起き上がって便所に向かおうとすると、頭の右後頭部の奥の方で、揺れた脳が頭蓋骨にぶつかってひしゃげて響くような、鈍く深い痛みが走ります。この手の頭痛は決して手の届かない深い所で響くので、どうにも耐えることもできません。胸のむかつきを抑えつつ、その痛みに耐えかねて一端そのまま頭を枕に落とし、もう少し休もうとします。枕に頭が触れた際、そのささやかな衝撃でまた頭に鈍痛が走ります。あー、これはヤバイなぁ・・・。胃袋からは今にもブツが飛び出してきそうです。必至に手を口で押さえますが、当然そんなことで胃に蓋ができるはずもなく、口の奥から止めどなく溢れる酸っぱい粘液がどんどんと口中に溢れてきます。ここで吐くわけにはいかない!そう思って、重苦しい鐘が響くような頭痛と、だるく震える手足を引きずって体をくの字に折り曲げながら、よたよたと便所に向かって歩きます。そりゃもう命懸けでした。水泳の50Mの折り返しでターンする時のように、精一杯手を伸ばして進む方向への慣性にまかせた形で便所の電気のスイッチのすぐ下にバンッと手をつき、指を少しずらして電気をつけます。倒れ込むように便器にかがみ込み、口の中にたまった唾液や粘液を吐き捨て、次の瞬間、堰を切ったように胃の中のものが逆流を始めました。敢えて描写はいたしませんが、前の晩はトマトベースのペーストをパンに塗ったものを好んで食べていたとだけお伝えしておきます。あの胃散が喉を焼いて、口の中に酸っぱく生臭い匂いが広がる・・・、やめておきます。とにかく、しばらく便器に上から覆いかぶさりしがみつくような感じで、何回かわかりませんがとにかく吐きました。いや~参りました。何とか吐き気だけは落ち着いて、便所から出てきたのが8時過ぎ。定時に出社するには9時15分には部屋を出なければなりません。
・・・寝てられるのはあと40分か。
半休取ろうかな?という気持ちは正直ありました。何しろ、二日酔いとはいえ本気で辛いのです。まともに出社できるような体調ではありません。が、社会人としての責任とか何とか、そんな世間一般の美徳はさておいて、ここで休むのは個人的に屈辱でした。ここで休んだら、俺は酒に負けたことになる・・・。それは許し難いことです。風邪とかいつもの自律神経失調症でこの体調だったら、もう迷うことなく会社は休んでいたことでしょう。ですが、今朝のこの不調は酒が原因です。ここで休みをとったら、私は酒に負けたことになります。それはプライドが許しません。酒に負けてはいけないのです。・・・その信念だけを胸に、クラクラする遅い夏の日射しの中、定時に間に合う電車に向けて私は家を出て行きました。胃腸薬と頭痛薬で精一杯体をごまかして。電車の中では金曜夜の終電の酔っぱらいよろしく、ずっと吊り革に全体重をかけてぐったりしていて、震える手足で必死に体重を支えていました。コンビニでアミノサプリを買って会社に辿り着いたのは10時5分前。ちょうどオンタイムの出社です。午前中は正直仕事になりませんでした。後輩の指導という名目で休みつつアミノサプリを飲み切って、どうにか昼食にはきのこハンバーグを食えるくらいには回復しました。いや~、久しぶりに本格的な二日酔いにやられました。ラクにやられましたね、ラクに(ラクとは葡萄から作られるトルコの蒸留酒。まずいし悪酔いする・・・)。
しかも今日、またもお客さんと飲む用事があった私は、酒を見るだけでも嫌だと言ってしまいたい心境を抑えつつ、失礼のない程度にジョッキ2杯と日本酒グラスで1杯だけ飲んで、ギリギリ終電で帰ってきたとのことです。ってゆーかこの日記長過ぎですね。早く寝たいのに・・・。
2003年9月18日木曜日
2003年9月16日火曜日
2003年9月13日土曜日
2003年9月12日金曜日
歪められた太陽
真夏の都会の暑さは人の汗とビルの照り返しの暑さだ。熱されたアスファルトが靴のゴム底を歪め、自動車のタイヤを歪め、人の顔を歪め、そして空気を歪める。歪められたものたちはそれぞれ少しずつ、微かだが何かしらの匂いを放ちながら道を行き過ぎる。街路に植えられた樹の丈より、はるかに太陽に近い所から熱をため込んだビル群が、さらにジリジリと大気を煮詰め、濃いドロドロした、淀んだ粘液のようになった空気が肌にまとわりつく。停滞した人の流れに、詰め込まれたように集まる人の体は近く、その体温がさらに濃度を上げる。体から発散された汗も、流れはあるのに風の吹かない空気の中、ビル群の上にかぶせられた透明な蓋から外に出ることができずに行き場をなくす。浮遊霊のように漂う人の数だけの汗の蒸気が、また熱をため込み湿度を上げて、同じような幽霊を増やそうとする。地面に、ビルに、人と人の汗に、都会の空気は煮込まれ、味付けされ、そして腐敗させられる。作りかけられたまま放置され、ドロドロのまま腐っていく未完成のジャムのような、コレステロールが詰まった血管の中を、苦しそうに身を捩らせながら通る血液のような、淀み、遅滞した、陰鬱な熱気。ひどく人工的な、不自然な熱気。太陽は、何処に行ったのだろう。今、無気味な程青く深く透き通っているその空に浮かぶ光体は、本当のところ太陽ではないのではないか。その熱は、もうこんなにも歪められてしまっているのだから。
2003年9月11日木曜日
The Slang War
私は今日、会社の用事でちょっと遠い、初めて行く駅に出かけていきました。そしてその駅に向かう途中、JR中央線から西武多摩線に乗り換える必要がありました。ホームは同じエリアにあり、改札を出なくても中央線から多摩線に乗り継ぐことができます。こういった場合、最終的に辿り着いた駅でイオカードとパスネットを2枚重ねて自動改札に投入か、あるいは自動精算機、最悪でも駅員のところで精算ができるものです。ですが、目的の駅に行き慣れている会社の同僚は言いました。「向こう(最終的に辿り着く駅)で精算できないから、この駅で精算して切符買ってきて」。・・・ほほう?私は微かに、しかし確かないら立ちを感じました。降りた向いのホームにもう乗り継ぐ電車が来てるのに、わざわざ階段を上がって精算して来ないといけないのかと。私は尋ねます。「向こうでできないの?」。同僚答えて曰く、「できない」。私のいら立ちはピークを迎えました。ピークといっても、どの道大した話ではないので、切れるとかそういったレベルの話ではありません。ですが、内部にたまったいら立ちというマグマは、少量とはいえやはりどこかに吐き出してやらなければなりません。私は決然と、そう、決然と顔を階段の方に向けて踵を返しながらこう呟きました。
「ファック!」
すると、私の右前方30度の方向で20代前半くらいの白人が二人、何やら激高して色々とまくしたてている一人をもう一人がなだめるといった感じで話しています。やたらと文句を並び立てている方は、短く刈り込んだネイビー風スポーツカットに淡い金髪、ベージュの短パンに水色のポロシャツを着た、いかにもステレオタイプ的なアメリカンヤングといった感じです。背は私と同じくらいで、体の線は白人にしてはやや細いかなと感じ、日本人としては標準くらいの、適度に締まった体つきをしています。白人特有のクールな垂れ目で、眉をハの字に釣り上げた彼が、私がいら立ちの言葉を口にしたわずか2~3秒後、まさに本場の言葉で、両手も掌を上にして体の横にハの字に広げ、語気を強めて前に勢いかがみ込みながらこう叫んだのです。
「Fuck!!!!!」
・・・やられました。完全にネイティブです。たった四文字ですが、負けました。同僚も笑っています。私も笑うしかありません。私がカタカナ英語で吐き捨てた台詞を、わずか数秒の後に演技でも何でもない本気のネイティブな叫びで押し返されたのです。完敗です。叫んだ彼は、相も変わらず仲間に向かってあれやこれやとまくしたてています。不思議と、いら立ちも消えていました。「じゃ、精算してくるよ」。私はそう告げて、階段を登っていきました。
2003年9月10日水曜日
人の輪の理論より
・・・が、そんなことは今の私には実はある程度どうでもよくて(←オイ!)、実はこの話をどの本で読んだのかが思いだせなくて四苦八苦しているのです。いや、この話を最初に思い出したのですが、「あれ?これ何の本で読んだんだっけなぁ?」と考え始めたら見事に思い出せずにはまってしまい、この話そのものより出典の方が大事になってしまったという(爆)。まぁまぁ、世の中そんなものです。なんだっけなぁ?なんか仕事関係の本だったような気もするんだけど・・・。
2003年9月8日月曜日
バッドトリップ
・・・私のように電車に酔って最悪なバッドトリップを体験できるかもしれません・・・。
酔って電車に乗ることは別に珍しくないけれど、電車に乗って酔うとはまさに不覚。マジな話、吐きかけました・・・。病んでるな・・・。
2003年9月7日日曜日
明日が来なくても
♪明日が来なくても 僕と君がここで死んでも
昨日という日は 確かにあった僕の中に
♪くたびれた努力にはお別れしよう
みんな愛しいから捨てきれなくて
すべて抱え込んで倒れてしまう
僕は走るために荷物をおろした
まぁなんと言いますか、今考えてみると実に若気って感じです(苦笑)。こういうと当時の自分にはきっと怒られるのでしょうけど(そしてそれを言うなら、「何エレキやめてクラシックなんて弾いてるんだよ」とか「サラリーマンやってんじゃじゃねぇよ、ボケ」など、当時の私からすればきっと今の私はツッコミどころ満載なのです)。気づいたら、中学の頃の自分が目指していた自分とは随分遠い所にいるような気がします。罪悪感という程ではないにせよ、いくらか申し訳ない気持ちもあります。よくも悪くも、人は変わります。過去の自分の夢をすべて、叶えてあげられるはずもありません。現在の夢だってどうなるかわからない、それが世の中なのですから(あるいは、そう言ってしまう人間こそ、当時の私は忌避していた人間像なのかもしれませんが)。
2003年9月6日土曜日
2003年9月4日木曜日
2003年8月31日日曜日
JPHONE風『ロンド風ガボット』
2003年8月29日金曜日
時間と空間と金の諸問題
空間と金は、ある程度どうにかなる問題のように思える。確かに今現在既にこの部屋では本棚に入り切らない本が溢れ出て、机の上や床の上に本が山と積み上げられている。CDラックも一杯で、仕事中用のCDはそもそも会社に置いておくことで負荷分散を試みているものの、当然根本的な解決にはなっていないわけで、会社から家に持って帰ってきてもそれらのCDは行き場がない(苦笑)。そして実際このままではもう本だって本棚にも入らないが、そもそも本棚が結構無駄な使われ方をしている部分もあるので、学生時代CDラックでそうしたように、一度本格的に整理すれば今床に積まれている分は入るような気がする。・・・少し無理っぽいけど。あるいは、これは金の問題とも絡んでくるが、手元に置いておく必要なしと判断した本やCDは売ってしまえばいい。Amazonのマーケットプレイスで売れば、確実に買い手が見つかるとは限らないものの郵送する手間さえ惜しまなければ古本屋に売るよりずっといい値段で売れる。そして当然売れた分空間も空くし、金も入ってくる。一度買った本やCDで手放してもいいかなと思えることがあまりないのが難点だが、これは一つの有効な打開策だ。Amazonであまりに売れないようなら、とりあえず従来通りブックオフにでも持ち込めばよい。入る金は少ないが、とりあえず空間は確実に空く。
・・・が、金や空間と違って解決策の欠片も見当たらないのが時間の問題。コイツだけは難しい。節約したり有効に利用することはできても、増やすことだけは絶対にできない。寝る時間をいくら削ったって時間そのものが増えるわけじゃない。ある本を読むということは別の本を読む時間が減るということだし、同時にギターを弾く時間が減るということでも、自分で文章を書く時間が減るということでも、音楽を聴く時間が減るということでもある。それは他の行為にしても同様に。ある時間の中で一つの可能性を選択するということは、逆に他の可能性を選択しないということだ。そして僕らが時間に対してできることは、時間の中に内在するほぼ無限とも取れる可能性、その中の一つを選択するということだけ。そして、その選択すらできないことも珍しくはなく。僕らは限りある時間の中に意志を詰め込んでいくことくらいしかできない。
とまぁそんなことを最近よく考えてみるわけです。我ながらガツガツしてるというか、生き急いでいるというか、端的に言うなら余裕がないなぁと思うわけです。時間の大半を仕事に使う中で、音楽を聴いて、本を読んで、ギターを弾いて、文章を書く。今の私はそのバランスを、時間の都合だけでなく空間と金の兼ね合いも合わせた上で多次元的に折り合いを付けていかなければならないわけですが、どうもその、多次元的なバランスを取ろうとすることにエネルギーを使い過ぎて、肝心のバランスよく配分した外身の中に詰める何か、それをよく忘れてしまっているような気がします。わかってはいるんですよ。外身を配分することが大事なのでなく、配分した後に何を詰めるのかが大事なのだということくらい。ですが、そのバランスキープに必死だと、バランスを保った先のことに回す余力がなかったりすることがままあるのもまた事実です。そんな中、凄く久しぶりにミヒャエル・エンデの『モモ』を読み直してみました。そして、時間泥棒は一体いつ自分のところに現れたのだろうと、そう思ってしまうわけです。モモも、カシオペイアも、まだ来てくれません。時間の花は、まだ氷付けにされたまま冷たい部屋で眠っています。
2003年8月27日水曜日
最近つまらないですね?
何か面白いことないのですか?
何か言いたいことないのですか?
「いま」とか「ここ」が、不満なのですか?
「~でない」何かに、憧れるのですか?
それがすべての、原因なのですか?
最近つまらないですね?
もっと話題はないのですか?
否定や虚勢でないお話は?最近つまらないですね?
・・・この日記に対するモノローグ
2003年8月25日月曜日
バーデン・パウエルの似合う日曜日
2003年8月24日日曜日
表現力とは?
ぼんやりと思うことは、それはやはり全体のコンテクストの中で決まってくるのだろうなということ。「春の熊と同じくらい好きだ」という言い回しを『ビタミンF』に出てくる主人公達が口にしても説得力はないでしょうし、ワタナベ君が「俺の人生は、これか」とつぶやいてもイマイチでしょう(『ノルウェイの森』も『ビタミンF』に収録されている『なぎさホテルにて』も、どちらも私は非常に好きな作品です、念のため)。・・・とすると、非常にやっかいなことになってきます。「生き生きとした描写」とやらのためのマニュアルやら方程式といったものは存在しないということになるからです。当たり前のことですが、どんなに色々な文章を読んで研究してみたり、たくさんの語彙を仕入れてみたりしたところで、自分のコンテクスト内で鮮烈な描写をしたければ、そのコンテクストで映えるような表現を探さないといけない。今さらのようですが、厄介な話です。さてさて、どうしましょうか・・・?
2003年8月22日金曜日
2003年8月20日水曜日
2003年8月19日火曜日
弦を替えたら
そう、私は今回2本のギターの弦を同時に交換しました。ということは、2本同時に調弦をしないといけないということです。1本合わせたらもう1本を、それが終わったらまた戻って・・・。ひたすらそれを繰り替えします。そして、2本のギターを調弦するために、私は当然何度も音叉を叩かなければなりませんでした。私は音叉を自分の膝で叩きます。机とかで叩く人もよくいますが、あまり固いもので叩くと音叉の音程がずれることもあるのであまりよくありません。ので、私はいつも音叉を右膝で叩きます。膝で叩くといってもそれももう手馴れたもので、音叉はなるけど膝は痛くない、そんなギリギリの力加減をちゃんとマスターしています。ので、今回も単純計算で普段の弦交換の際の倍以上の回数音叉を叩いたにも関わらず、痛みというものはまったく感じていませんでした。ジーパンをはいていたので、痛みがない以上当然自分の膝はまったく無傷なものと思っていました。・・・が!その日、風呂に入ってみると、右膝の上の辺りが内出血して赤黒く滲んでいます。それを見て、私は最初「何だろう?」と思いました。その内出血の原因に、まったく心当たりがなかったのです。・・・結論に行き着くまで10秒ほどかかりました。「ああ、音叉!あれか!確かにたくさん叩いたわな」、と。
痛みは感じなくとも、何度も繰り替えし金属の音叉で叩かれた右膝は、確実に悲鳴を上げていたようでございます。どっとはらい。
2003年8月17日日曜日
隠れた達人・柴田杏里
そうそう、「実はかなり凄いらしい」と実に曖昧な情報を仕入れてから三年程、見事に放置してしまっていた柴田杏里ですが、中古のCDを見つけたというのもありようやく二枚買って聴いてみました。一部の人々の中では柴田杏里というといち早く藤井敬吾先生本人以外で『羽衣伝説』をCDに録音した人というイメージが強いでしょうが、今回私が買ったのはそれ以外の二枚です(苦笑)。・・・だって中古なかったし・・・。まぁそれはさておき、私が柴田杏里氏が凄いという情報を仕入れたのはまだ東京に出てきたばかりの時、藤井敬吾先生がGGショップでマンドリンの柴田高明氏とコンサートを行った際の打ち上げて知り合った人からです。その人は柴田杏里氏の演奏を生で何度か聴いて、確か習ったこともあると言ってたように思うのですが、曰く「日本人離れしたリズムセンスでラテン系の曲をカッコよく弾く」とのことでした。しかしいざCDを手にしてみて最初に思ったのは、実はこの柴田杏里、何と『リブラ・ソナチネ』の第三楽章フォコや『タンゴ・アン・スカイ』、『ヴィラ=ロボス讃歌』第四楽章トゥーンといった今では定番となったディアンスの名曲たちを大萩康司よりも福田進一よりも鎌田慶昭よりも早く録音しているのですね。なかなか先見の明を持っています(?)。でも、彼のディアンスは正直イマイチです(爆)。なんか、彼のディアンス凄いゆっくりなんですよ。しかも『タンゴ・アン・スカイ』ではわけのわからないところにわけのわからないハーモニクス入ってるし。正直凄い違和感があります。ですが、確かにスペインものやラテンものはもの凄くカッコいいです。しかもさりげにアンヘル・バリオスも『グラナダの花』、『トナディーリャ』他数曲入れてます。が、『トナディーリャ』は藤井敬吾先生の演奏を聴き慣れているとやはり違和感があります。やっぱりゆっくりですし、曲の作り方が全然違う。まぁ、柴田杏里の方がスペインっぽいといえばスペインっぽいのですが。ですがアジャーラの『セリエ・アメリカーナ』よりの抜粋や、R.S.デ・ラ・マーサ、E.S.デ・ラ・マーサ、ロドリーゴ、ファルーといったスペイン/ラテンものの演奏はヤバイくらいカッコいいです。特にR.S.デ・ラ・マーサの『ロンデーニャ』はいい!これを聴くためだけでもCD一枚買う価値はあると思います。しかし柴田杏里、デビューアルバムでスペインものの曲を集めたのはいいのですが、スペインものやってアルベニスもグラナドスもファリャも一曲も入れず、ロドリーゴも有名どころは一曲も入れず(『朱色の塔の影にて』という曲が収録されている。普通こんな曲知らん)、R.S.デ・ラ・マーサやE.S.デ・ラ・マーサ、アンヘル・バリオスといった辺りを中心に据えて来るというのはかなりいい度胸してます。絶対売ろうと思ってねぇ(爆)。
ともあれ柴田杏里、曲レベルで多少の辺り外れはあるものの(ってゆーかそれも好みの問題かも)、スペインものは相当マニアックな曲を相当カッコよく聴かせてくれます。果たして彼は、『羽衣伝説』を一体どのように弾いているのでしょうか・・・?
2003年8月16日土曜日
8月の秋雨
2003年8月13日水曜日
爆死、勤務中
会社で私はちょっと休憩をしていて、ペットボトルのお茶を飲みながら軽く本を読んでいました。本を読みながら、ペットボトルに手を伸ばし、特別なことをやるわけでもなく、何か話しながら飲もうとするでもなく、ただおもむろに一口、ただし量は結構多めに、ゴクッと口に含み、飲もうとしました。・・・その時です。その多めに含んだお茶は、何を間違ったのか食道の方に(おそらく一滴も)入ることなく、ダイレクトに思いっきり気管に流れ込んでくれたのです。まさに「ゴフッ!」って感じでした。当然激しく咳き込もうとするわけですが、まだ口の中にお茶が残っていてまともに咳をしたら一気に吹き出てしまいます。とはいえ水分を肺の外に押し出そうとする圧力が強く、中から吹き出る空気圧と、それを押しとどめる弁の役割を果たす閉ざされた口のせいで間違った意味に胸が一杯になり、顔も紅潮してもう大変です。息もできません。「ヤバイ。これはヤバイ。死ぬぞ!?」と思った私は、さすがにこんな間抜けな死に方もしたくなかったのでとりあえず手近にあったお茶を買ってきた時のコンビニ袋に口の中の水分を吐きだしました。まさに「背に腹は代えられず」というヤツです。これで堂々と咳き込めるわけで、これでちょっとは楽になるだろうと思ったのですが・・・。何と、まだ息が全然できません。肺に水が溜まっているせいなのでしょうか、激しく咳き込む間に必死で息を吸っても、全然肺に空気が入ってくる感じがしない、少なくとも血に酸素が回っている感じがしないのです。本気でヤバイと思いました。咳でどんどん肺の中の空気は出て行くのに、いくら吸っても空気が肺に届かないのです。そりゃもう苦しかったですよ、ええ。終いにゃ空気を吸い込もうとする息すら細くなりかけたわけですが、そこまでいった段階でやっと、少しずつ吸った空気が肺に届くようになってくれました。まだ最初はひどい喘息の発作の時のように、思いきり吸っても潰れたストローの中を無理矢理通ってくる感じの線の細い空気が微かに吸えるだけでしたが、それも少しずつよくなり、どうにか数分後「普通に咳き込んでる」感じのところまで回復することができました。その後もしばらく、声を出そうとすると肺に何かつっかえた感じがしてうまく声にする息が出てこなかったり、息と一緒に水分が出てきたりしましたが、本当にギリギリ一杯、今は無事に元通りの体に戻れました。いや~、息ができるって素晴らしいですね(笑)。
・・・しかし、私は一体どれだけの量の水分をどれだけの勢いで肺にブチ込んでしまったのでしょうか・・・?
2003年8月12日火曜日
2003年8月9日土曜日
働けってか!?
・・・とまれかくまれ、今年は盆休みも取れないことが確定した私はそうやさぐれてみましたとさ。いや、まぁ振替休日は取れるのですが、一体いつ取れというのでしょう?下手すりゃ年末まで持ち越しだったりします・・・。
2003年8月8日金曜日
小さな本屋では
2003年8月5日火曜日
2003年8月4日月曜日
熟成されたウィスキーのように
ウィスキーが正しく年を経るにはやはり、相応の労力がいる。ただ放っておけば若者が老賢人になるわけではないように。僕らも、年をとる。僕らは、時とともに価値を高めていくことができるのだろうか。熟成されたウィスキーのように。
2003年8月3日日曜日
自転車で日吉巡り
日吉というところは基本的にも応用的にも山です。道はあまり広くないし、坂も視界を遮る段差や木々等の障害物も多く、視野はあまり開けていません。ので、自分が普段通る道から少しでも外れてしまうとそこはもう、視野にすら入ったことのない完全な未体験ゾーンが待ち構えているのです。とりあえず家の前の坂を駆け上がり駅前まで行った私は、ただでさえ普段は絶対通らない浜銀通り、そこを奥まで突っ切っていこうと思い、進み始めました。それはなかなか大変な道のりでした。浜銀通りを普通に走っている内は登りよりは下りの方が多くて楽だったのですが、途中左に折れてからは突然急な斜面に出くわすは、かと思えば「どこまで降りるんだ、この坂は!?」と思うくらい急で長い下り坂に突然出てみたり、とにかく大きな坂にやたらとぶち当たるのです。息を切らしながら坂を駆け上がり、不安に駆られながら坂を降りを繰り返す内、気付いたら私の家の近くにあるでっかいマンションが遥か丘の上に見えるようになっていました。・・・あそこまで登らないと帰れないのかよ。ってゆーかそもそもここどこだ!? その時には既に私は軽く道に迷っていました(笑)。そもそも地図も持たずに知らない道に向かって問答無用で突き進んだわけですから当然といえば当然です。しかも「あっちが家」と方向的にはわかっていても、坂が多くて道のつながりがまったく見えないし、そもそもまともじゃ駆け上がるのは絶対無理な坂に阻まれていたりして普通じゃ帰れそうもありません。・・・その後私が知った大通りに出るまで実に一時間以上、日吉の山の坂と格闘を繰り替えしていたとのことです。疲れた・・・。
2003年7月31日木曜日
eric jonson再評価
そう考えると、昔と比べると私の音楽的なキャパシティはかなり広くなってるんだなぁ、と改めて感じます。冷静に考えれば大学時代から、クラシックギターから現代音楽、ケルト、アンデス等の方々の民族音楽、ボサノヴァ、バーデンパウエル、ピアソラ、マイケル・ヘッジス・・・、と種々の音楽世界を意識的に渡り歩いて、それぞれの分野で実際頑張っている人達とも触れてきたのはいい経験だったのかもしれないですね。色々な音楽を抵抗なく理解できるキャパシティというのは、単純に考えてそれだけで世の中の楽しみが広がるわけですから。
・・・で、eric jonsonです。ジミ・ヘンドリクスの再来と呼ばれ、エフェクターに使う電池の種類にまでこだわる(爆)という恐ろしいエピソードも持つ彼ですが、何が凄いってその独特の音となめらかなフレージングです。とにかく彼の音は他のどんなギタリストも出せない。例えディストーションをかけて歪ませていても、不思議と透明感のある音。聴けば一発で「あ、これeric jonsonが弾いてるな」とわかります。綺麗なんですよね、音が。エレキのギタリストであそこまでクラシックギターと同じ意味での音の綺麗さというものを意識して、しかも実践する人というのはなかなかいない。そして、どんなに速いフレーズを弾いても決して少しも音が潰れたり単調になったりブツ切れになったりしない、信じられないくらいなめらかなフレージング。速く弾くとどんなギタリストでも大抵音に多少のアラが出てくるものなのですが、eric jonsonの場合はそれがまったくない。もちろん、荒々しさが必要な曲で敢えて荒々しく弾くことは当然あります。が、例えば『Lonely in the Night』のラストで聴けるギターソロのように、音の綺麗さとなめらかさを崩してはいけないようなときは本当に少しも乱れない。流麗に、かつ表情豊かに、速いパッセージを気持ちよく歌うように弾き切ってしまうのです。あれは凄いですね。久しぶりに聴いてぞっとしました。「コイツ、・・・凄ぇ!」と。
しかしあれですね、やはりどう考えてみてもジョー・サトリアーニとスティーブ・ヴァイとエリック・ジョンソンの三人でスーパー・ギター・トリオとしてツアーをやったというのも、音楽的に考えて組み合わせの理由がよくわからんのですな(苦笑)。ん~、でもそれを言い出したらパコとアルとマクラフリンのトリオも組み合わせに謎が多いのかもなぁ・・・。
2003年7月28日月曜日
本格的な日曜日
2003年7月26日土曜日
時代とラーメン
「あの頃のラーメンは、とにかく油の旨さが勝負だった。世間で旨いと評判になるラーメンは、とんこつか、あるいは鶏ガラベースでもたっぷりと油をスープに浮かせなければならなかった。背脂が好きとか嫌いとかに関わりなく、とにかく雑誌やテレビなんかで紹介されるラーメンは皆、脂の旨味が効いたこってりしたものばかりだったから、自然おいしいラーメン屋を探そうと思うとそういった傾向の店にばかり行き着くことになる・・・・・・・」
上記のような文章を、絶対書くような気がするのです。私でなくともあるいは誰かが。思えば、昔幼い頃に食べたラーメンって、そんなに背脂がたっぷりと効いたものって記憶に残ってないんですよね。いや、そりゃあるにはあったんでしょうけど、今ほど幅を効かせてはいなかったのも確かでしょう。そういや三条にある大油ラーメンって結構昔からあるみたいですが、あそこは今の方が流行ってるんじゃないでしょうか。高校の頃に食べに行きましたが、あれは結構キツかった・・・。当時あそこまで大量の油を使うラーメン屋は新潟では珍しかったのです。
ちょっと話は変わりますが、油の効いたラーメンを食べる時、油に弱い人が犯してはいけない過ちというのがいくつかあります。その中でも盲点なのが「海苔のトッピング・追加注文」です。これが、意外とはまるのです。海苔というのは基本的に油をよく吸います。更に悪いことには、店によっては韓国海苔よろしく海苔の表面に油を塗っておくところもあります。それはそれで確かにおいしいのですが、油に弱い人がギトギトしたスープを飲むことに疲れて、その際にひとときの箸休めを脇に並んでいる海苔に求めたりしてしまった場合、・・・大変なことになります。そう、スープを吸ってしなっとなった海苔を口に含んで、まだ少しくらいはパリッとした感触が残っているのを期待しながらそれを噛みます。その瞬間、濃縮された旨味の効いた、濃い脂分が海苔から染み出して口の中に広がります。・・・そう、海苔はスープを吸っていたというよりは、むしろ油を多く吸っているのです。そして、不意を付かれて一気に胸が悪くなるのです。
話を戻しますと、それがまぁいわゆる「今という時代のラーメン」なんだろうなと思うわけです。確かにおいしいんだけど、そもそも脂に頼り切ってしまっているし、脂というものの性質上基本的に万人受けはしない。万人受けはしないはずなんだけど、他に「うまいラーメン」の基準というものが見つからないものだから、本来脂があまり好きでない人でも「これがうまいラーメンだ」というわけで何となく食べて納得してしまうわけです。重い胃を引きずり、グズグズと灼ける胸を気にしながら。そういう時代なのでしょう。万人受けしないはずの基準が何故か万人受けして、本来それを許容できないはずの人達は、それに違和感を覚えながらも拒否感は示せずにいる。仕事でも人間関係でも、ラーメンの流行りでもそうなのだと思います。深夜にカップラーメンを食べながら、何となくそんなことを考えたのでした。
・・・『風の歌を聴け』にはなんて書いてあったっけ?
深夜に冷蔵庫をあさるような人間にはそれだけの文章しか書けない
そして、それが僕だ
とか、そんな感じで書いてあったっけ?
2003年7月25日金曜日
トールモー・ハウゲン『夜の鳥』
この『夜の鳥』というのは児童文学としては結構グロいというか妙にリアリスティックというか、そんな変な作品なのです。魔法とかそういうのは一切出てこない。神経症になって働けなくなって、医者のところにも「行く」と言って行かない父親、夫のために本意でない職場で働いてるのだけど一日も早く自分の夢に向かって転職をしたい母親。そんなアンバランスな家庭と日常が舞台なのです。そんな離婚すら見えかくれする家庭で、少年ヨアキムが抱く不安感とそれが元となる恐怖の想像。それが『夜の鳥』なのです。
この作家、文章が凄く綺麗なんですよ。綺麗と言うのは、表現がきらびやかだとか詩的だとか、そういうのではなく、無駄に装飾をしたり引き延ばしたりせず、必要最小限の適確な言葉で物凄くいきいきと情景も心情も描き切ってしまうのです。特別な言葉もトリルみたいな修飾もなしで。『夜の鳥』は全体的にモノトーン的な小説なのですが、トールモー・ハウゲンのその文章が小説世界に素晴らしいしなやかさと生命力を与えています。そこは訳の山口卓文氏の力も大きいのでしょうが。北欧文学というのはなかなか邦訳が出て紹介されるのも少ない分野ではありますが、この作品はお薦めです。ちなみに、私もまだ読んではいませんが(買ってはある)、続編の『ヨアキム』という作品もあります。
2003年7月24日木曜日
無人島に持っていきたい三冊
・『風の歌を聴け』村上春樹
・『鏡の中の鏡』ミヒャエル・エンデ
・『勝者に報酬はない/キリマンジャロの雪』アーネスト・ヘミングウェイ
次点としてシェイクスピアの『リア王』を挙げておきたいのですが、やはり上記三作品で決まりでしょう。少なくとも今の私には、ということですが
2003年7月23日水曜日
伊坂幸太郎『重力ピエロ』
「春が二階から落ちてきた」で始まり「春が二階から落ちてきた」で終わるこの小説は、分類するならミステリーに入ることでしょう。ですが、正直ミステリーとしては二流です。犯人や人間関係の裏付けはすぐに予想できてしまうし、犯人追跡の場面描写も凝ったものとは言えません。ですが、ミステリーとしてよりも純粋に小説として、この本は非常に面白いです。『ジョーダンバット』の最後に書かれているように、これは遺伝子と連続放火事件についての話なのです。ガンジーやら芥川龍之介やら、とかく色々な先人達の言葉や作品を直接的に引用しながら、遺伝子、性、正義、憎悪といったもの達を独特の言い回しで切って見せるこの作品は、読み始めたら止まらない不思議な求心力を持っています。突飛な言い回しや引用が、話が進むにつれすっと一つにまとまっていく不思議さ、予定調和のようでいて少しピントのずれたような、そんな疎結合的な言葉と物語の破片達。実に独特な面白さがある本です。ミステリー形式の哲学書というのは言い過ぎかもしれませんが。是非、一度読んでみてください。
2003年7月22日火曜日
人生への焦り
が、なんとなくこの三連休で色々と考えてみるうちに、何となく、おぼろげに、その正体が見えてきたような気がします。それは焦燥感なのかも知れません。自分の人生に対する焦燥感。もしかしたら10年後、あるいは5年後なんかに、「俺の人生ってこんなもんか、案外つまらないもんだな」とか思う瞬間が来てしまうのではないか、という焦り。そうならないために、どうにか「今」をなんとかしなきゃならないという焦り。そうして知らず知らずの内に不安が募り、心がいびつになっていたのではないでしょうか。そりゃそうです。何しろ今の私には「つまらなくない人生」ってのがどんなものなのか、それが見えてないのですから。それなのに「つまらない人生だな」と思ってしまう瞬間を怖がり、避けようとしても、進むべき方向すらわからないんだから当然道にも迷います。そして、焦りだけが表面化していたのではないでしょうか。
気付いたら、もう私も今年で26です。以前に比べ、自分の行動のあらゆることが自分の人生全体に対し予想以上の大きなコミットになることが多くなってきました。仕事を頑張るのも怠けるのも、続けるのも辞めるのも、誰かと付き合うのも別れるのも、です。それら一つ一つが今後の人生に対して非常に大きな方向付けを与えてくる、そんな微妙で重要な分岐点に来ているように思えてならないのです。だから一つ一つの決定に対し非常にナーバスになり、決定を下すのを先延ばしてしまうことすらよくあります。そして、ただ焦りだけが募り、漠然とした不安の中で抑鬱気味な日々を送っていたりするわけです。
心のイライラの出元が(とりあえず)わかった(気になっている)わけですが、正味今のところ「だからどうしよう」とはあまり考えていません。どうしようもないんじゃないかな、とすら思ってしまいます。先のことなんてわからないし、焦ったってしょうがないとも思いますが、だからといって人生はよくも悪くも一度きり。「つまらなかったな」と気付いてからでは遅いのです。さて、どうしましょうか。さて、どうしましょうか・・・。
2003年7月20日日曜日
2003年7月17日木曜日
Aアン用『亡き王女のためのパヴァーヌ』編曲完了
パート割はプライム1st-3rdにBass、WBass、アルトは使わずに編曲しました。アルトはどうしても音の線が細くてキンキンしがちなので、柔らかな音で旋律を弾かなければいけないこの曲には不向きと判断しました。調はイ長調、原曲から1音上げています。音域の問題より、ハーモニクス等を使う際の融通と響きの点でデュアルテ編に倣ってそう変えてみました。ギターはやはり基本的にはシャープ2つ以上付く調の方が響かせやすいですしね。今年は曲が曲だけに去年のように激しく速いスケールが息の続かないくらい長く続く、というようなことはありませんが、さりげなく運指は結構厳しい所があります。特に3rdと1st。まぁ、今回は試しに私が全パート一応弾いてみたのでやってやれないこともないでしょう。結構指を考えないと難しい所もありますが・・・。後は体裁の調整と音の最終チェックをして終了です。さて、今年はクラギタの皆さんが、どんな風にこの曲を仕上げてくれるのでしょうか。非常に楽しみです。皆さん、頑張ってください。
2003年7月14日月曜日
2003年7月13日日曜日
沈み酒
2003年7月8日火曜日
都会の夜の天の川
・・・と、殊勝に月並みなご挨拶を述べさせていただきましたが、実は今日この七夕の日、HP開設五周年というこの日、今日は下手したら今までの人生で最悪じゃないか、っていうくらいのくだらねぇ酒を月曜から飲んできました。いえ、決して酒自体がまずかったわけではないのでしょう。ただもう、あの場が・・・。はぁ、くだらねぇ・・・。なんであれが決起集会なんでしょうか。所詮今回のプロジェクトなどその程度、ってことでしょうか。決起集会のはずなのに、何だか一気にモチベーションも下がってしまい、「こんなんだったら家帰って編曲するなり本読むなりしてた方が100万倍はいい、ってゆーか会社で仕事してた方がよっぽどいい」くらいのノリで非常にブルーになって帰ってきました。深夜0時を回って家に着いた時、「何で俺は今日こんなに遅いんだろう?」と、いつもに比べ遅いわけでもないのになんだかやけに憂鬱に感じましたからね。はぁ、くだらねぇ酒を飲んだ・・・。
話を七夕に戻しましょう。たまにはそんな、ちょっとセンチに過ぎるような話を扱ってみるのもいいかもしれません。まぁ、私が語ってセンチになるか、というのはまた別問題なわけですが。ご存じの通り七夕は、お互い愛しあいながらも天の川を隔てて輝いている織姫と彦星が、年に一度だけ天の川を渡って邂逅を果たせるという、今でいう所の遠距離恋愛的な夜空の伝説です。私達の視点からすればお互い見える位置にいるような二つの星は、彼らからすればきっと絶望的なほど離れているのでしょう。
ただ、東京で夜空を眺めていても、彼らを決定的に引き離しているはずの天の川など、ただの一度も見えた試しがありません。ミルキーウェイというその名の通り、暗い夜空に薄く白くかかった静かな光の流れは、明るすぎる東京の空では僕らの世界の光にかき消され、まったく飲み込まれてしまっているのです。では、隔てるものがなくなった織姫と彦星は、一緒に幸せに暮らしているように見えるのでしょうか。哀しいことではありますが、実はそれもそうとはとても見えません。そもそも、織姫と彦星すら下の世界の人工的な光の闇に消されてしまい、僕らの目には見えないことがほとんどなのです。世界を明るくしようとした光が、皮肉にも夜の空を暗く包み込む闇になる。どうあがいてみても光には常に影が付きまとう、ということなのかもしれません。暗い光に包まれながらも時折姿を見せる織姫と彦星は、枯れ果てた天の川の河畔で、やはり光に飲み込まれてしまった他の周りの星達のことを偲びながら、ただ孤独に輝いているようにも見えるのです。そんな二人は、この七夕の夜に出会うことができたのでしょうか。流れなき枯れた天の川を渡って、荒涼とした、妙に明るい白くぼやけた夜空の大地に歩を進めて。七夕伝説自体ロマンチックながらも悲劇的な要素の強いお話ですが、現代の七夕伝説はもう純粋な悲劇でしかないように思えます。
いまだに鮮烈に焼き付いています。幼い頃、実家の車庫の屋根に昇って、夜空を眺めた時の風景を。灰色の空でなく、暗く、何もなければただ不安だけを思い起こさせるような真っ黒な空に、白く静かに瞬いている星が鏤められるように鎮座しているその風景を。そしてその中を、本当に白く薄く、微かに揺れてたなびくように流れている天の川を。今思えば、年に一度とはいえその川を渡って出会う織姫と彦星の物語は、確かに悲劇というよりは美しく儚い夢物語という気がします。きっと、それは哀しい宿命の中でも希望に包まれたお話だったのでしょう。今となっては、こっちが気恥ずかしくなってしまうような夢物語。逆に憧れすら抱いてしまいそうな。ねぇ、渡るべき天の川は今も存在するのでしょうか?
今日の一言:『暗い夜空が、一番明るい』
2003年7月7日月曜日
伊坂幸太郎『重力ピエロ』より
「そうとも、重力は消えるんだ」
伊坂幸太郎『重力ピエロ』より
2003年7月3日木曜日
焦り
2003年7月1日火曜日
2003年6月30日月曜日
2003年6月25日水曜日
横ばいのリンゴ達
2003年6月24日火曜日
2003年6月22日日曜日
自問
心は覚えていてくれる、たとえそれを、取り出すことはできなくとも
水面に揺れる影が、いつかそっと、消えてしまう前に
僕らはいつも、手遅れでなければならないのだろうか
2003年6月21日土曜日
2003年6月18日水曜日
2003年6月17日火曜日
2003年6月16日月曜日
『亡き王女のためのパヴァーヌ』編曲に当って
2003年6月13日金曜日
男心と梅雨の空
2003年6月11日水曜日
想像力の欠如した世界
思えば、犯罪なんかもいつの頃からか、そのような想像力の欠除が生み出したような印象を受ける事件がたくさんあります。もう随分古い話になったような、神戸の例の事件もそうですし、大阪の小学校の事件もそうです。その他コンビニでいきなり立ち読みしてる人の背中を突き刺した例の事件や、度重なる通り魔事件、ストーカー事件・・・。相手が自分と同じような、極端に言えば同じ人間だということを想像する能力の欠除。まさにそれこそがモンスターではないのかなと思うわけです。
自分の書いたものを少したってから読み直してみると、自分でも書く時意識してなかったことに気が付くようなことがままあったりします。まぁ私の場合、テーマ、タイトル、書き出し、結末だけ大雑把に決めたら、後はアドリブのノリで書いていって、書き上がったら誤字脱字のチェックくらいして「はい、終了」ってのがほとんどですからなおさらです(苦笑)。今回に至ってはテーマ、タイトル、書き出しだけ決めて結末すら決めず、「さぁ、書いてくれ、俺の両手よ!後は何が出るかわしゃ知らん!(←オイ)」くらいの勢いで書いて、本気で一回も読み直さずに上げたので尚更です。しかしまぁ、これくらいの短いものならそれでいいのですが、本格的な長編となると最後までいつもの自動筆記というわけにもいきません。構成やペース配分をちゃんと意志の統率下に置いてあげないと色々ととんでもないことになるのは目に見えています。自動筆記のリハビリはしたので、次は落ち着いてしっかりと書くことのリハビリですね。
2003年6月10日火曜日
『Garbage』アップ/あとがきに代えて
今回のテーマは「オブジェクト指向的恐怖」です。プログラムの世界には『オブジェクト指向』という考え方があり、それは無理矢理一行にまとめるなら「コンピュータ上に現実の写像を作り上げる感覚でシステムを構築する」という手法です。まぁここでは細かく深いところまではツッコミませんが、その『オブジェクト指向』を実現できる言語(の一部)に備わっている『Garbage Collect』という機構が今回の小説のテーマの発端です。
"Garbage"という言葉の意味は「廃品」、「不用品」、「ゴミ」といったものですが、プログラムの処理中にいらなくなったオブジェクト、つまりはプログラム上に写像された現実の「もの」を、自動的に回収してくれる機構が『Garbage Collect』です。プログラム上に作られたAさんが不要になれば、この機構が自動的にAさんを回収してくれて、Aさんがいなくなった分のスペースを他の何かが使うことができるようになります。これはプログラムを組む上では非常に便利なものなのですが、これがもし現実世界にあったらどうなるんだろう?というのが今回の小説のテーマです。『Garbage Collect』が不要オブジェクトを判断する基準は、(本当のところの細かい種類やアルゴリズムは置いておいて)他のどのオブジェクトからも参照されない、ということです。まぁ現実世界的にいうなら「声をかけられない」ってところでしょうか。そこから小説『Garbage』の奇妙な世界観が出来上がるわけです。誰からも必要とされないものは消滅していく世界、というわけです。
実は、そこまで極端な世界設定をしなくても、この現実世界はこの『Garbage Collect』の恐怖に近いものが存在するように思うのです。誰からも参照されないことへの恐怖、平たく言えば孤独への恐怖です。ネットワークは、それを埋めるどころか助長してしまったようです。距離も時間も飛び越えて、簡単に誰ともつながってしまえるからこそ、逆に離れた時の恐怖が大きくなる。いつの頃からか聞くようになった、「ネットワーク依存者」というものは、この「オブジェクト指向的恐怖」に取りつかれてしまった人達のように思えるのです。
実はこの『Garbage』、本当はもっと長くつなげようと思えばいくらでもつなげられました。というか、この小説自体はもっと長い、大きな器を求めていました。私はその作品の要求に応えてもっと長く書くことも考えたのですが、「やっぱダメだな」と思って最後無理矢理叩き切るような感じで仕上げてしまいました。なので、この作品の構成は非常にアンバランスです。何故そこで無理矢理短く切る道を選んだかというと、実はこの「オブジェクト指向的恐怖」というのは、今私が本気で一年くらいかけて書こうと思っている長編のテーマの一つなのです。その長編に取りかかる前に、リハビリと準備運動もかねていくつかあるテーマの中から一つだけを切り出してそれを書いてみよう、と思ったのがこの作品なのです。なので、この作品の中で出し尽くしてしまいたくなかったんですよね。だから短くバッサリ煙に巻くような形で切り上げたと(笑)。そういうわけなのです。
2003年6月8日日曜日
発熱
そして家に帰って熱を計ってみてビックリ。なんと39度1分。そりゃしんどいはずです(苦笑)。「ここまで熱が上がったら市販の解熱剤じゃ効かねーんだよなぁ」と開き直った私は、大量に買い込んできたレモンウォーターと、葛根湯を頼りに昨日一晩を乗り切りました。結局一時期はMax39度4分をマークした熱も、朝方にかけて少しずつ38度台へと推移していき、今は今朝病院でもらった薬もあってか37度台で落ち着いています。でもまぁ、さすがにフラフラですね(苦笑)。やっぱあの雨の引越しが効いたんでしょうか・・・?
2003年6月4日水曜日
2003年6月3日火曜日
嵐の中の引越
ところで、先週金曜~日曜といえばその間に30年振りに5月に台風が上陸したわけですが、当然我々の引越しも相当の被害を被りました。私はその中でも大きな被害を受けた一人です。何と台風が来るまさにそのピークの中、雨ガッパを着て風雨に打たれながらトラックからビルの中に荷物を搬入する係だったのです(泣)。カッパに守られている上半身の被害は比較的少ないものの、膝から下はもう川にでも浸かったかのように水に濡れ、ジーンズは水を吸って重くなり、スニーカーは中まで浸水して靴の中でピチャピチャ音が鳴り・・・、そりゃもう大変でした。しかもその土曜日、私は夕方から客先でした。・・・そう、そのまま、濡れたまま、客先に向かって行ったのです。またその客先がガンガン冷房効いてて寒い寒い。「このズブ濡れの状態でこんな冷房効き過ぎなところにいたら風邪ひくゆーねん、コラァ!?」とか心の中で叫びつつ、寒さに震えながらキーボードを叩いていましたとさ。
・・・ちなみに、土曜日はもちろん他の2日も、久しぶりの本格的な肉体労働にしてやられたためか、家に帰るなりロクに飯も食わずに眠りに就く日々が続いていましたとさ。わしも年をとったのぉ・・・。
2003年5月29日木曜日
2003年5月28日水曜日
噴火
2003年5月27日火曜日
間に合うように、踏み出せるように
・・・とまぁそんな感じで書いてみましたが、私が今立っているのはそんな迷い道ではないようです。いや、見知らぬ迷い道なのかも知れませんが、不思議と道そのものに迷っているという感覚はあまりありません。ですが、今来た道に、何かとんでもないものを置いてきてしまったようです。この道では、当然後戻りもできません。一度戻ったが最後、再び今立っている場所に帰ることはできないでしょう。第一、後戻りなんてしてたら時は過ぎて、大事な用も、果たせなくなるでしょう。・・・さて、また何処かで見たような道にやってきました。何度か、見たような道です。どちらに、足を踏み出すのでしょうか?あるいは、足を、踏み出せるのでしょうか?
2003年5月25日日曜日
『ダスト8』
さてさて、実は今日気付いたのですが、どうやら世間では『手塚治虫マガジン』なるものが出ているようです。月刊誌で、『鉄腕アトム』や『ブラック・ジャック』、『リボンの騎士』など手塚氏の代表作が何話か分かずつまとめて掲載され、短編が数編付くというなかなかリッチな(?)雑誌です。小さい頃には手塚氏のマンガを結構読み漁っていた私としてはなんとなく無視することができず、思わず一冊所望してしまいました。
手塚氏の作品の中で私が最も好きなものといえばやはり『ブラック・ジャック』や『火の鳥』なわけですが、実はあまり知られていない短編・中編にもかなりいいものが存在します。そんな中で私が好きなのは『ダスト8』という中編。間違って生命を司る命の山がある空間に迷い込み事故を起こした旅客機の中で、8人の人だけが触れるものに命を与えるという命の石の力で生還します。その8人は常に石を肌身離さず持っていないと死んでしまうのです。しかしそもそも現世にあってはいけないはずの命の石。その命の山の主はキキモラというその世界に住む生物に石の奪還を命じます。そしてキキモラは人間の姿に化けて石を取り戻しにいくのです。8人がその石を巡って生き、そして死んでいく人間ドラマは、生というものの力強さや人間という存在の在り方を描き出していてなかなか素晴らしいのです。是非機会がありましたら読んでみてください。ちなみにこのマンガ、連載当時は不評極まりなく(爆)、『ダスト18』のタイトルで18のエピソードが紹介されるはずが、なんと6エピソード目で打ち切りになってしまった代物だそうです。で、それを新たに改訂・加筆したものが今世に出ている『ダスト8』なんだそうな。う~ん、俺はこの話好きなんですけどねぇ・・・。
2003年5月20日火曜日
書き直し
「幸せ」というのは、難しいものです・・・。
2003年5月19日月曜日
スニーカー選び
今日の一言:「やっぱオクラと納豆一緒に食うのは失敗だったか・・・」
2003年5月15日木曜日
遠い言葉
「私に何かできることがあったら言ってね」
何の前触れもなく蘇った、遠い過去に埋もれた記憶。あの川の堤防から、今年の夏もあの頃と変わらない花火が見えるのだろうか・・・。
2003年5月14日水曜日
2003年5月12日月曜日
演奏、結婚式にて
しかし結婚式というのはやはり特殊な空間です。ものものしいと言えばものものしいのですが、やはり新郎新婦やその御両親などを見ていると幸せそうで、また感慨深そうで、なんだか素直に「いいなー」と思ってしまいます。今回は新郎はピアノとホルンを、新婦はバイオリンを弾く人なので、自分達も演奏したり、新郎のピアノをバックに新婦が両親への手紙を読むなどの趣向が色々あったわけです。両親への手紙を読みながら涙を流す新婦や、最後のスピーチで必死に涙を堪える新郎の姿はやはり、こう胸に来るものがありました。人生の、非常に大きな節目です。彼らはこの日をどういう気持ちで迎えたのでしょうか。これから、どう生きていくのでしょうか。・・・もし、私が結婚式を挙げる日が来るのなら、その時は一体どういう気持ちなんだろうなと、そんなことをふと思ってしまいましたね。まぁ、いつのことかはわかりませんが。
2003年5月10日土曜日
久しぶりの演奏前夜
2003年5月8日木曜日
熱気を感じるアイリッシュ・ケルト『Lunasa』
というわけで泡銭も入ったことですし(爆)、今日は定時を回ってから会社を抜け出し、タワーレコードにCDを買いに出かけました。買ってきたのは二枚、最近ひたすらご執心のMicael Hedgesのベスト盤『Beyond The Boundaries』、アイリッシュ・ケルトの人気バンドLunasaの1stです。Micael Hedgesに関しては以前この日記で熱く語ったような記憶もあるので、今回はLunasaに焦点を合わせてみましょう。
アイリッシュ・ケルトというと日本ではエンヤがひたすら有名で、ほっておくとあの手のゆったりと叙情的なハーモニーを主体とした音楽とばかり思われてそうですが、実はアイリッシュ・ケルトの音楽にはもう一つの顔があります。そう、フィドルやパイプ、フルートやホイッスルがところせましと駆け回る、映画『タイタニック』でディカプリオが酒場で踊っていた時流れていたような、旋律は叙情的でありながらもアップテンポで熱く勢いのあるダンス・チューンです。このLunasaというバンドはそのダンス・チューンの方を演奏するバンドで、その圧倒的なまさに「熱のこもった」グルーヴ感と各楽器の織り成す比類なきアンサンブルの感性度の高さは他の同ジャンルのグループと比べても抜きん出ています。学生時代、アイリッシュ・ケルトにはまっていた京大の聖帝殿に貸したら「これは凄くいい」とのたまっておられました。特筆すべきはフィドルのショーン・スミスとギターのドナ・ヘネシーの二人が持つ、凄まじいまでのリズム感。フラメンコでいうところのコンパス感でしょうか。曲のリズムのアクセント、押し引きを力強く、軽やかに、本当に空を駆け回るように表現しながらアンサンブル全体をひっぱっていくフィドルの旋律とギターのリズムがこのLunasaというバンドの原動力です。このバンドではギターはリズム楽器なのです(笑)。ヘネシーのギターは難しいことをやるわけではありませんが、とにかく歯切れのいい、ダイナミクスやコンパス感がしっかり出てるリズムワークで、聴いてるともう体を動かさずにはいられないような気持ちいい演奏をしてくれます。純クラシックの演奏家にはなかなかないセンスなんですよね、これって(だから大抵のクラシック畑の人間が演奏するピアソラ始め南米系やフォルクローレの曲なんかは味気ない)。
ノリや即興を大切にし、ライブの空気を大事にする彼らは、この1stの大半は各地で録音したライブをそのままCDにしてしまったものだとか(爆)。恐ろしい熱気と、ライブとは思えない完成度です。中にはリハーサルなどまったくせず、合わせるのも初めてのぶっつけ本番でライブをやって、しかもそれがそのままこのCDに収録、という曲もあるとか。「どれだよ!?」って感じですね。どれも信じられない程いい演奏なんですよ。元々このLunasaというバンド、メンバー各々が色々なアイリッシュ・トラディショナル・バンドから引っぱりだこで、リハーサルの時間など取れないから、いつも現地でサウンド・チェックをしながら曲決めて編曲して、それでちょっとリハして本番、とかそんな感じらしいです。化け物だコイツら・・・。
この1stでのイチオシは6曲目の『Meitheamh』。空を駆け回るような奔放なフィドルをキレのいいギターが伴奏、という2つの楽器だけで始まり、フィドルがパイプに変わり、旋律が何回りかした後に一瞬のブレイク、そしてトュッティという私の中では「これこれ、これがLunasaだよ!」と叫びたくなる展開。ブレイクからトュッティに入る瞬間のリズムがたまらなく気持ちいいのです。Lunasaのエッセンスが凝縮されたようなこの曲、この名演は、明らかにライブ音源です。是非、機会があったら抜けるような青空がよく似合う、自由で生き生きとした彼らの演奏を聴いてみてください。
2003年5月6日火曜日
演奏準備
2003年5月5日月曜日
2003年5月2日金曜日
AirH" Phone導入
さてさて、実際に使ってみると、やはりこれがまた凄いのですよ。とてもPHSとは思えない。内蔵のブラウザでインターネットのWebサイトやiモードを見られるというのもそうですが、それだけではH"としては革命的ですが機能としては最近の携帯と変わりません。こいつの強みは何と言ってもノートPCにつなげばそれがそのままAirH"として機能してネットにつながってしまうこと。これは便利です。そしてファイル交換ユーティリティを使えばなんと電話帳やブックマークがPCで編集できる!PHSの画面でURLとか入力するのは面倒なので、これは意外に便利です。さらに、MIDIまで再生できてしまうという恐ろしさ!これは本当にビックリしました。マジでちゃんと再生してやがります。着メロって、世のダウンロードサイトに行っても『黒いデカメロン』とかの着メロがあるわけじゃなし、Synphony Xの『The Damnation Game』の着メロがあるわけでもなし、意外と好みのものは見つかりません。じゃあ自分で入力するか、っていうとこれがまたPHSの画面で作るのは非常に面倒臭いもの。その点MIDIならPCでいつも譜面を作るように自分の好きな曲を好きなようにガシガシ作れば実に簡単です。おまけに、世のWebサイトではMIDIのデータなんていくらでも漁ることができます。そのサイト数、データ量は着メロサイトの比ではありません。これで着メロの世界も広がろうというものです。とりあえず、まりも氏が『バロック組曲』を着メロにしたということで、私も同じP's MIDIさんのところから『ミニマ・アレグラ』を着メロに設定しました。やべぇ、この曲カッコいい・・・。PHSだから音声通話もきれいだし、料金もネットだって使い放題だし、いつぞやのH"のCMじゃないですが、「終わったな、携帯の時代も」って感じですね。あとは内蔵カメラさえ付けば完璧ですか。いつまでH"は外付けの『Toreba』にこだわるつもりなんでしょうか?
とはいえ上記のようにPCとの親和性が非常に高く、私のような人間には非常に便利なAirH" Phoneですが、必ずしも万人向けというわけではない気もします。まず、ノートPCを持ち歩いてモバイル的に使おうと思わなければそもそもAirH"である必要がない(爆)。iモードで充分じゃん、って話です。まぁ、ヘビーにネットを使うならつなぎたい放題なAirH" Phoneもアリかもしれませんが、PHSから月に何十時間もネットはつながないでしょう・・・?MIDI環境はまぁ、自分で作らなくても適当にダウンロードしてくればいいにしても、使いこなすのに少しばかりコンピュータの知識はいります。ってゆーかコンピュータがいります。ので、PHS一台だけで何かするっていうには明らかに過剰スペックですよね、AirH" Phoneは。ある程度コンピュータの存在が前提になってるようです。まぁ、私のように公私ともにコンピュータをガリガリ使うような人間には非常に便利です。
今日の落とし穴:
H"からAirH" Phoneへは電話帳の移行ができず、
すべて手で入れ直す羽目に・・・。
2003年5月1日木曜日
♪燃焼系、燃焼系♪
♪こんな運動し~なくても
燃焼系、ポッポッポッ、ア~ミノ式♪
・・・ヤバイです。なんとなくあのシンプル極まりないメロディーが頭について離れない。どうでもいいですけど、「こんな運動しなくても」ってやってるあの無茶な運動、見る度に飽きもせず「できるか、そんな運動!」と厳しくツッコミを入れているのは私だけでしょうか?
そしてやはりアミノレンジャーです。「♪サプリした肉体はTシャツがよく似合う」って、似合ってねーよ!ってゆーかレッド、キサマに至っては腹がはみ出してる!そもそもだな、サプリした肉体じゃないからTシャツから腹がはみ出るんじゃねーのか!?まだサプリしてないよね、それ、レッド!? 恐るべしです。何しろレッド、あの肉体が宙に浮きますからね、スキップで。そして最後に五人でこいでいくあの自転車、もしも急な坂道でレッドが力尽きたら、果たして後ろの四人だけでレッドを押し上げながら坂を上がることができるのでしょうか?とにかくツッコミどころ満載のアミノレンジャー。非常に素敵です。今後の彼らの動向にも注目せざるを得ないでしょう。
2003年4月30日水曜日
本日のお買い物-バーデンパウエル、他
まずはクラシックギター弾きとして、NAXOSの『ブローウェル作品集』第3弾に触れてみましょう。・・・実はMichael Hedgesとバーデンパウエルを先に聴いててまだ聴いてないのですが(←オイ!)、今回はグレアム・アンソニー・デヴァインというギタリストが、比較的ブローウェルの中でもマニアックな領域の曲を弾いてます。・・・いや、そうでもないか。コボの第1弾の方がマニアックかも。まぁリカルド・コボが弾いた第1弾以来、非常にレベルの高い内容が続いているシリーズだけにきっと今回もあの妖しさ爆発なブローウェル・ワールドを堪能できることでしょう。曲目は『ソナタ』、『3つのラテン・アメリカ風小品』、『悲歌』、『組曲第2番』、『エリのためのパッサカリア』、『鐘の鳴るキューバの風景』、『オリシャスの祭礼』、『11月のある日』。個人的に注目は『3つのラテン・アメリカ風小品』と『オリシャスの祭礼』でしょうか。あの『天使の死』を第1曲として擁する『3つのラテン・アメリカ風小品』(俗に『天使の死』ブローウェル編と呼ばれているものは実はこの組曲の第1曲で、正式名称は『ピアソラのタンゴによる変奏曲』)は、実は3曲とも凄くカッコいいのです。私は『花祭り』と同じフォルクローレ調の空気を持つ第3曲『Danza del Altiplano』が弾きたくて、学生時代譜面を探すも見つからず・・・。私が知る限り同組曲を全曲レコーディングしているのはフレイビオ・クッキだけですが、ここに新たな演奏が加わる形になります。さ~て、どんな演奏を聴かせてくれるのでしょうか?そしてアルヴァーロ・ピエッリに献呈された『オリシャスの祭礼』は、意外に録音が少ない結構レアな曲。献呈されたピエッリ本人と、あと誰が弾いてるんだろう?高田元太郎氏がコンサートで弾いていたという情報は入ってきてますが。とにかくブローウェルらしい不吉に妖しいこの曲も注目でしょう。
そして今日買ってきたバーデンパウエルのCD、これがまた凄くいい!基本的にライブ音源なのですが、この中の『サンバ・トリステ』が切れまくってる!同曲はライブ/スタジオを合わせて3種類くらいの演奏をこれまで持ってましたが、このアルバムのが一番乗ってるし切れがいい。「あんたぁ神だよ!」と思わず納得してしまうような圧倒的なグルーヴ感がたまりません。これはいいCD買いました。しばらく愛聴の一枚になりそうです。
2003年4月28日月曜日
便所タンク・パニック
2003年4月27日日曜日
ダウン
2003年4月22日火曜日
シンデレラ
2003年4月21日月曜日
そして音楽は始まる
2003年4月18日金曜日
Michael Hedgesの譜面を手にして
しかし、2~5分の曲がわずか6曲収録されているにすぎないにも関わらず、譜面中に記載された特殊技法の記号を解説するページが6ページもあります・・・。『羽衣伝説』ですら最後に1ページ、譜面中に解説されてるのを入れても2、3ページくらいなのに・・・。実に恐ろしい話です。とりあえず私が弾きたかった、アルバム『Breakfast In The Field』に収録されている『Eleven Small Roaches』を今Silent Guitarで夜中にチビチビと弾いてます。ちなみにこの曲の調弦は下からCGDGBD、Hedgesの曲にしては珍しく特殊技法もあまりなく、セーハとスラー、アルペジオの基本さえできてればそんなに難しくはありません。私は一日で指は簡単に置けました。曲名の"Roach"はウグイに似た小魚という意味と、タバコの吸いさしという意味とあるらしいですが、ここではおそらく前者の方でしょう。小魚が小気味よく水面下をスイスイと泳ぎ回っているような、そんな感じの曲です。そして最後は水面に波紋が静かに広がっていく中で、小魚達が小さく跳ね回るようにアルペジオが回っていき、収束していきます。比較的地味な曲なのですが、結構雰囲気がよくて好きな曲です。ちなみに同じアルバムに収録されている『Layover』や、アルバム『Aerial Boundaries』のタイトルトラックなどは危険に難しかったです・・・。『Layover』もカッコいいんだけどなぁ・・・。
2003年4月16日水曜日
ジャンバラヤ
2003年4月14日月曜日
空白への恐怖と選挙戦のあり方
ともあれ、今日は統一地方選挙でした。私はいつものように選挙自体には投票に行くものの、相変わらず誰にも票を入れずに白紙投票というスタイルを貫いてきました。「テメェら全員不信任だ!」という確固たる意志の表れですが、選挙的にはただの無効票です(苦笑)。ってゆーか、投票者の名前を書いて入れるだけじゃなくて、「全員不信任」という選択肢も作っておいてほしいですね。いや、マジで。
そもそもですね、選挙運動の一般的なスタイルが気にくわない。宣伝カーやら何やらが走り回るとか、そんなのは別にいいのですが、どいつもこいつも政策そっちのけでひたすら候補者の人柄やら政治的後ろ楯やらばかりを繰り返すばかり。「まじめ、まじめ、まじめ」って、COLTか、キサマら!? そして肝心の政策をアピールする前に「お願いします、お願いします」って、どう考えても卑屈なだけです。朝っぱらの駅前で候補者自ら会社に向かう人々としきりに握手をしていたり(私も求められましたがガンくれて去っていきました)、「雨の中、最後の最後のお願いをしに参りました」って、「お願い」じゃねーだろ、とかブチ切れてみたり。どいつもこいつも卑屈なだけで、圧倒的な求心力を持って人を引きつけるようなヤツがいない。「お願い」だなんて言わなくても、ビジョンやオーラに触れるだけで思わず投票したくなってしまうようなカリスマ性がまったく感じられません。やれやれです。こんなのばかりじゃ日本も暗いななどと思いつつ、私は今日も全員不信任の意図を込めて白紙投票をしてきた次第です。
しかしですね、今の選挙のシステムってちょっと問題があるような気もするのですよ。候補者が街頭演説やら何やらで、各自それなりに政策なり主義主張なりをアピールすることはあっても、例えば県議会なら県議会に立候補している人全員の考えを一度に聞くことができる場というのがまったくない。街頭演説とか雑誌の記事だとか、たまたま出会ったり出会わなかったりで、実に偶発的です。よほど強い意志を持って「全員の意見を聞いてやろう」と思わない限り、それは実現しないというのがそもそも間違っているように思うわけです。そしてそう思ったところで、私達には仕事なり何なりといった日常の諸事があるわけで、忙しくて結局実現は難しいでしょう。
何というかですね、選挙区ごとにでも何でもいいですが、立候補者のプロフィールとか政策とか主義主張とかを全員分まとめて掲載しているHPとかあってもいいかなと思うわけです。既にあるのかもわかりませんが、一応ネットの動向には詳しい(はずの)私が知らない辺り、一般にはそんなに広まってないでしょう。そういうのがあれば候補者を一人ずつ追っかけたりしなくても、とりあえずそのHPにアクセスすれば一通りの情報が手に入るわけです。結構効果的だと思うんですがねぇ。選挙に行かない人だって、大きな理由の一つは「誰が何言ってるわからないから決めようがない」ってことでしょう。政治にそもそも根底から無関心なヤツらには「じゃあテメェら、消費税が200%になっても徴兵制ができたとしても文句はねーんだな!? そん時になってから文句言うんじゃねーぞ?」とバッサリ切ってやればいいわけですが、投票には行こうと思っても上記のごとき理由で二の足を踏んでる人達には候補者全員分の情報が一度に見られるHPは結構有効だと思うのですよ。まぁ視野は短期的になるかも知れませんが、まったく知らないよりはいいでしょうし、きっかけとしてもいいでしょう。何でそんなのやらないんですかねぇ・・・?
2003年4月12日土曜日
2003年4月11日金曜日
ひどいもんだ
2003年4月9日水曜日
2003年4月7日月曜日
久しぶりの休みと人恋しさ
何となく、誰かに会いたいと思いました。最初は特定の「誰か」ではなく、本当に曖昧な「誰か」でした。頭の中に浮かんでは消えていく「誰か」達は、今はここから遠いところにいるか、あるいは例え海外にいるとしても所在が知れていればまだいい方で、今は何処で何をやっているのかすらわからなかったりします。あの人は、今の私を見たら何と言うのでしょうか。聞きたいことも、色々あるような気もします。ねぇ、俺は今、どんな顔をしてるんでしょう・・・?
2003年4月2日水曜日
2003年4月1日火曜日
社会人二年目最後の日
まぁまぁ何と言うか、今年は特に、「気付いたら春」って感じですね。仕事が2月から異常に忙しくて、目をくれる間もなく駆け抜けていたら、なんと今日はもう電車の中から桜が咲いているのが見えました。とりあえず、残務はあるものの一区切りの付いた今日になって、やっと季節が変わっているのに気がついたわけです。病んでますね。病んでます。以前にも、こんな春があった気がします。何故か喪失感と虚無感が漂う春。桜は、儚く散っていきます。そう、今を待たずに・・・。
2003年3月31日月曜日
2003年3月30日日曜日
お薦め:マイケル・ヘッジス
この一ヶ月程、私は社内にいて定時を過ぎた後は「音楽でも聴かなきゃやってられるか!」と心の中で叫びつつ、常にヘッドフォンでCDを聴きながら仕事をしていたわけですが、最近はちょっとクラシック畑を離れて(といっても元々純クラシック一筋というわけではありませんが)、バーデンパウエルとマイケル・ヘッジスにご執心でした。バーデンはちょっと疲れ気味の時なんかにヤツの天に召されているとしか思えない圧倒的なリズムセンスが非常に気持ちいいのです。『ジャンゴの歌』とかヤバイですね。
ヘッジスは、多分この雑記帳に訪れる人達の音楽層とは少し違った位置にいるギタリストです。彼はウィンダム・ヒルといういわゆる『ニューエイジ・アコースティック』と呼ばれるジャンルの音楽を専門に扱っているレーベルの大御所で、97年に不慮の死を遂げていますが恐ろしいくらいのテクニックを持ったギタリストです。ウィンダム・ヒルの音楽は以前PCKが「ヨークはニューエイジ・アコースティックの影響を受けているんじゃないか」と言っていたように、ヨークみたいなちょっと耳当たりのいいヒーリング系のものです。多分ヨークが好きな人はウィンダム・ヒルの音楽は非常に心にヒットするのではないでしょうか。・・・が、ウィンダム・ヒルのギタリスト達はどいつもこいつも恐ろしいくらいうまいです。はっきり言って化け物だらけです。ヨークと違い、誰も真似できないくらいの技術力を駆使してるのに、それをあっさりすっきりと苦もなく弾いてみせるからぱっと聴いてると凄い簡単な曲のように思える普通の癒し系音楽なのに、どう弾いてるのかを冷静に考えてみると背筋も凍ります。
マイケル・ヘッジスはその中でも特に際立ったテクニックを持ったウィンダム・ヒルの看板ギタリストで、切れ味鋭いハンマリング(クラシック風に言うならスラー)と正確かつ超高速なハーモニクスが印象的です。藤井敬吾先生もヘッジスのことを賞賛していました。山下和仁が大きく体を揺らすのに演奏が全然乱れないのは、どんなに体が動いても体とギターを位置関係が絶対にずれないからだという話の流れでのことです。
先生:「マイケル・ヘッジスって知ってる?」
ayum:「『AERIAL BOUNDARIES』は持ってますけど・・・」
先生:「そう、僕は全部持ってるけどね」
ayum:「・・・!!!!!」
などというやりとりの後、「ヘッジスはあんな難しい曲をピョンピョン飛び跳ねながら平気で演奏するからね」と言っていました。只でさえ今の私が聴いてもこれをギター一本でやってるとはとても信じたくないような曲達を、です。『サンバースト』みたいな高速で明るく爽やかなフレーズを、最初は実音で弾いたかと思えば次は突然全部ハーモニクスで弾いてみたり、コードをかき鳴らしているだけのように聴こえるのに何故か至る所からスラーで駆け巡ってる音が聴こえてきたり・・・、とにかく超高度な基本技術の組み合わせと、ギターという楽器の既成概念ごと破壊する超絶な特殊技法の嵐。『ムーンタン』も『リブラ・ソナチネ』も『羽衣伝説』も、ヘッジスに比べれば可愛いものです・・・。しかもそれを音楽の中にさらっと無理なく自然に取り込んでしまうもんだから、ギターを知らない人が聴いたらきっと綺麗で爽やかでお洒落な癒し系、って感じに聴こえてしまうのが凄まじい。まぁ、私が聴くと「いや待て、冷静に考えろ!今のどうやって弾いたんだ!?」ってなのばっかりで、全然、まったく癒されやしませんが(笑)。・・・マイケル・ヘッジス、熱いです。
2003年3月24日月曜日
2003年3月23日日曜日
The War
2003年3月19日水曜日
みちのくを夢見て
まぁとにかく、近頃日々テクノストレス及び普通に過労のストレスに曝される私は、その広告を見て「たまった代休使って秋田に旅するのもいいかもなー・・・」とか思ってしまいましたとさ。・・・マジで行って来ようかなぁ?
2003年3月17日月曜日
お祭り予報
2003年3月15日土曜日
体力を使い果たす朝
「×××のサーバが落ちたらしい!」
一気に目が覚めました。「マジかよ、朝っぱらからハードやな」などと思いつつ、自宅から作業をする環境がない私は他の人が(どうやら通勤途中の駅からノートPCで)作業する進捗を聞きつつ、トラブったのはインターネットサイトでしたので家からその復旧状況を確認していました。まぁ、それ自体は後で聞いた話では停電らしく、サーバが起動さえしてしまえばそれで滞りなく事は済んだのですが、問題はここからでした。正常稼動を確認し、一安心した私は、何を思ったのかおもむろに二度寝を始めてしまったのです(爆)。その時点で8時過ぎ、私はフレックスですが、コアタイムは10:00-16:00です。ハッと気付いた時、時計の針は9:10を指していました。「何やってるんだよ、俺は!?」と心の中で叫ぶも時は無情に流れていきます。会社に間に合うには9:26の急行がリミット、家から駅まで歩けば10分です。しかもそんな時に限って、もう目も当てられないくらい私の頭は爆発しているのです(苦笑)。「そういや昨日は髪乾かさないで寝ちまったな、クソ」などと今更悔やんでも仕方なく、シャワーで一気に髪を流してドライヤーをかけ、微妙に生乾きくらいの段階で「もういい!」と見切りをつけてスーツに着替えて家を飛び出しました。
この時点で9:20。普通に歩いてたんじゃ急行には間に合いません。走りました。日吉の急なアップダウンが繰り返される心臓破りの道をただひたすら。運動不足が身に染みます。駅前に付く頃には、もう足はつま先が踏ん張りきれずにバタバタの状態でした(苦笑)。そしてどうにか急行が入ってくるのとほぼ同時にホームに降りた私は、なんとか遅刻はせずに済んだとのことです。・・・が、朝から体力を使い切ってしまい、午後に客先にいく時も足が回復しきれてなく吊革にかなり頼ってみたり、そもそも体力が尽きてるので一日集中力もイマイチだったり散々でしたとさ。皆さんも朝から体力は使い果たさないよう気をつけましょう・・・。
2003年3月14日金曜日
2003年3月12日水曜日
卒業する大学生へ
しかし大学出るとそれまでと人生変わりますよ、やっぱり。そりゃもう色々な意味でですね。こればっかりは出てみないことにはわからないと思いますが(私もそうでしたし)、ともあれ今ある自分を信じて頑張ってください。そして時には手を抜いてください(笑)。何事も過ぎたるは尚及ばざるがごとしです。体壊すだけならまだしも、精神も壊した上に人生まで破壊した日にゃあどうしようもありませんからね。・・・ちなみに、最近の私は体より先に精神が壊れてしまいそうな勢いです(苦笑)。うわー、こんな状態で「何事も過ぎたるは尚及ばざるがごとし」とかほざいてみても説得力ねーなー・・・。
今日の一言:「ちっ、孤立無援かよ・・・」
2003年3月10日月曜日
CDコピーにケリを入れろ
これは明らかに価値概念の崩壊です。音楽という仕事に対する敬意の欠除です。本当にその音楽が好きならMP3やらCD-Rやらで済ませるんじゃなくてちゃんと買え!と俺は言いたいわけですね。そのCD一枚出すためにどれだけの才能とクンフーが費やされていることか。彼らの才能やクンフーは3,000円にも満たないとCD-Rでコピーするだけの連中は言うのでしょうか? 価値観が壊れています。
まぁ、もう絶版になった音源やらその他の理由で入手困難なものを知り合いからコピーしてもらったり、誰かに聴かせたいからCD-Rに焼いてあげたり、あるいは勉強用に先生からもらったりすることまで否定するつもりはありませんが、そこらで売ってるものを誰かから借りてCD-Rに焼いて、その上で「ああ、俺そのアーティスト凄い好きなんだよ、いいよね、あれ」とかほざいてるバカ! ・・・殺したいですねぇ(怨)。キサマの敬意はそんなに安いのか!? なら俺がキサマの仕事をCD-R一枚分の値段で買い叩いても文句は言わないんだろうな!? ・・・などと軽く小一時間問い詰めてやりたくなります。
・・・と、何やら私怨が混じってまいりましたが上記のごとく価値概念の崩壊がここ数年一気に進んできて、その崩壊した価値観を追い掛けるように価格が崩壊してデフレが進んで行っている、とそう思うわけです。そもそも価格というのはイコール価値なわけですからね。
・・・だからホントに好きなCDなら買えゆーねんなぁ・・・。
2003年3月9日日曜日
急ぎ廻れ、砕けても
果敢無く散るが故にも
今を待たずに
まわれHurry merry-go-round
生き溺れても
また 春に会いましょう
急ぎ廻れ、砕けても。そう、春に会いましょう、・・・って、そろそろ春なんだけどねー(笑)。まぁ、四月の半ばまでには今の状況にケリをつけて、たまった代休でロングバケーションを、と夢見ています。
2003年3月6日木曜日
2003年3月5日水曜日
言葉のこだわりどころ
例えば、同じ句読点で短くセンテンスを切っていく場合でも、それはゆっくり落ち着いて読ませたいからそうすることもあれば、逆にテンポを上げてアッチェランド気味に緊張感を出したいからそうすることもあります。使う手法は同じでも、そのコンテクストによって意図や効果は違う。この例では『都会の夜に』では前者だし、『理想郷』では後者です。そのようにして、とにかく常に、音楽を奏でるような気持ちでリズムを創っていくのです。
話はそれますが、文章に限らず何をするにも、ものを創ったりする際にはある程度よいものを作るための「原則」のようなものがあります。文章にもありますし、もちろん音楽にも、プログラムにもあります。それらに共通して言えることは、まずその「原則」や「基本」をしっかりと理解し、実践しなければならないということ。まずはこれが最低限のレベルです。そして次に、「その原則や基本を破る場合はいつか」というのをしっかり意識できること。これが非常に重要になってきます。何事も、杓子定規な原則だけでは「最低限のレベル」から次へは進めないのです。この辺りになると汎用的な「規則」から外れる分、人によっての哲学的な面が出てきます。私が文章を書く場合でしたら「その原則や基本を破る場合はいつか」という問いに対する一つの答えは「文章のリズムを守る時」ですし、多分他の人なら違うことを言うでしょう。そして、「規則や原則を破る」タイミングを知るためには、哲学的な規則とは別にまたもう一つ大事な能力が必要になります。それが『メタ認知能力』です。
以前にも日記に書いた気がしますが、ある認知科学の実験で、何かを行うことに長けている人は、その作業に対するメタ認知能力が平均的な人と比べて発達しているという報告がされています。メタ認知能力とは、平たく言えば「自分がいまその作業の中で何をやっているのか」を理解する能力です。低レベルな例で言えば、文章を書く際自分は今起承転結の起の部分を書いているのか承の部分を書いているのかというのを理解する能力ということです。もちろんその作業に長ければ長ける程、そのメタ認知能力はミクロレベルでもマクロレベルでも素早く正確に働いていくことになります。それは本人が明確に意識していてもいなくても、です(専門用語で言えば認知的意識の中にメタ認知があっても認知的無意識の中であっても)。私の場合は今書いているところはセンテンスの中でどういう流れにあるのか、あるいはそのセンテンスは全体の中でどのようなリズムの位置付けにあるのか、ということですね。『ブエノスアイレスの夏』のテーマを弾いてるのか、中間部のゆるやかで即興的な休止部を弾いているのかでは、例え音階が同じだとしても当然テンポやそのダイナミクスの持って行き方も変わってきます。このメタ認知能力が欠けていると、「原則を破る」タイミングを間違って、たった一度の例外で全体を壊してしまいかねないのです。何しろ「原則を破る」ということは、基本的には「よいものを作るためのセオリー」に反することなのですから。
なんとなく文章にまとまりがなくなってきて、「そろそろ寝たいのにどうまとめよう」と泣きかけなわけですが(苦笑)、要は私が文章を書く、あるいはそれに限らず「創作」というものを行う時の哲学を少し語ってみたくなったわけなのです。というわけで、語るだけ語って私は逃げることにします(爆)。ではおやすみなさい。
2003年3月4日火曜日
2003年3月2日日曜日
休みなし
今日の一言:『天が私を滅ぼすのだ、誰がそれを止めることができようか』
2003年2月24日月曜日
『ブエノスアイレスの四季』カルレバーロ編
今回買ったのは『ピアソラ作品集』というCDで、基本的にはリベルタンゴとかを室内楽団がやっているのですが、『タンゴの歴史』や『ブエノスアイレスの四季』ではセルシェルがギターを弾いています。特筆すべきは、この『ブエノスアイレスの四季』、カルレバーロ編でもアサド編でもなく、なんとマニアックにカルレバーロ編(爆)。私が知る限り唯一カルレバーロ編の四季が全曲聴けるCDです。カルレバーロ編はアサド編なんかと比べると横には音の隙間が多いですが、ときたま非常に危険な不協和音がビビッと決まってくる、渋く玄人好みの編曲です。カルレバーロはタンゴに精通しているので、ベニーテス編と違ってタンゴを離れてギター的なカッコよさを出すよりも、タンゴそのもののあやしさを活かしている感じですね。とはいえ『冬』は最後長調に転調せずに、とことんあやしいままで終わってくれるのは如何なものかと思いましたが。春を迎えずに冬のまま終わってやがる(爆)。寒いまま終わられても困るんだよなー、とか思ってしまいましたとさ。
2003年2月23日日曜日
ちょっとした修正
・・・そうそう、余談ではありますが私は昨日も今日も出社でした。予定通りです(爆)。このまま三月末まで土日がない状態が続くという可能性も否定しきれません。さて、今回の期末ラッシュはこれまでの最多連続出勤記録を塗り替えることになるのでしょうか!? ・・・あまりそうなってほしくはありません・・・。いや、仕事があまりに忙しすぎると本読む時間もなくなるのが嫌なんですよね。プライベートな本にしても仕事関係の本にしても。当然ギター弾く時間がなくなるのも問題ですし。早いとこグループ全体の体質改善を図らねば・・・。