2007年5月29日火曜日

佐賀空港はANA

 先の週末は妻と娘に会いに佐賀に行っていました。土曜日にいつも通りANAにて羽田より佐賀へ。ここまでは問題ありませんでした。向かい風のせいで15分ほど到着が遅れたとしても、まぁそんなものは問題のうちに入りません。が、問題はその帰りに起きました。そう、日曜のニュースを散々騒がせたあのANAのシステムトラブルです。佐賀空港に就航しているのは今のところANAのみ。ANAがダメだからといって、他の選択肢などありません。そのニュースを佐賀で知り、「オイオイ、帰りの飛行機はちゃんと飛んでくれるんだろうな?」ととりあえずANAのホームページを確認します。どうやら佐賀空港発の飛行機は全て無事に飛んでくれているようです。まぁ、すべてといっても佐賀空港発は日に4本くらいしかないのですが。その状況を確認し、「とりあえずは大丈夫そうだな」と一息つきながらも、実際佐賀空港に着いて搭乗手続きをする際はなかなかスリリングでした。

 航空券を機械に通すと、いきなり「出発便は1時間15分遅れですがそれでもよろしいですか」とメッセージ。なかなか不意をつかれましたが、何しろここは佐賀空港。羽田に行く便は日に3本しかありません。そして私が乗る18時35分発のANA456便はその最終便です。大阪行きの便は既に終わっています。「よろしいですか」と訊かれても、「はい、よろしいでございます」と言う以外に選択肢がない(苦笑)。とりあえず同意し、カウンターで1,000円分のお食事・お買物券をくれるというのでそれをもらい、佐賀空港でのんびり自動販売機のカップコーヒーなどすすりながら友人達に窮状を告げるメールをしていたとのことです。

 しかしまぁ、佐賀空港だったのが唯一の救いですかね。佐賀空港では18時35分発のANA456便がその日の最後の飛行機で、しかもそれも小さいエアバスだから180名しか乗らない。ので、この非常事態にも関わらずターミナル内は混雑した感じもせず、のんびりとベンチに座ったり、大して混雑もしていない土産物売り場で明太子を物色したりできました。これが福岡空港や新千歳空港だったら大変だったことでしょう。というか、ベンチに座ってコーヒー飲みながら入口上にある大きいディスプレイで見ていたニュースに映し出される、羽田の出発ロビーの惨状は凄まじいものがありました。「これからあそこに帰るのか・・・」と思うとなかなかブルーになりましたが、案外到着ロビーは混乱はしていなかったとのことです。まぁ、さすがにいつもよりは混雑していましたが。

 そうそう、娘は無事に大きくなってきていました。目も大分パッチリ開くようになってきて、黒目の多い切れ長の目は私に似てきた気がします。生まれて二週間で結構顔の印象って変わるものだなぁと思いましたよ。そしてまだ新生児の平均にも達していない2600グラムそこそこの体でもの凄い大きな声で泣くんです。全身の力を振り絞って泣くんです。なかなかいいシャウトです。しかし、なかなか泣き止んでくれないときは本当に弱ります。それがまた妻の母親、娘の祖母が抱っこするとピタッと泣き止んだりするのです。さすが娘三人育て上げて、ウチの子で孫も三人目となるお義母さん、キャリアが違います。とりあえず抱き方や角度なんかをじっと研究してみるのですが、いやー、なかなかまだうまくはいきませんね(苦笑)。まぁ、これから先は長いですからね。

 しかし赤ちゃんは面白い。見ていると笑ったりぼーっとしたり、何かを不思議そうに見てみたり顔をくしゃっとして伸びをしてみたりと、色々な表情をしてくれて飽きません。大変なことも多いですが、やはりかわいいものですね。うん、かわいいものです。

2007年5月23日水曜日

靴底を減らして

 敢えて書かないようにしてきたことだが、たまには、まぁたまには、仕事について書く。以前にも引き合いに出した『モルト侍』で、非常に耳の痛い記事を読んだ。まずは、こちらを読んでほしい。あまりこういった公の場で込み入ったことを書くのはどうかと思うので、事情やら背景やら、そういった詳細は抜きにして最低限今の気持ちだけ書く。

 最近は靴底は相変わらずもの凄い勢いで減ってはいるが、結局どこにも辿り着けていない。一つの目的地への一行に帯同できず、もう一つの目的地へは自ら歩いていくことを拒否した私は、結果としてとぼとぼと当てのない道を、しかし業界特有のやるせないスピードで、まるで砂漠を流砂に流されながら歩くように進んでいる。靴底は減る。減るどころか砂漠の熱に溶かされすらする。しかし二つもの目的地に背を向けた私は、どこかに辿り着くという希望は持てないまま、すり減っていく靴底に焦燥感を覚えながら、それでも当てもなく歩き続けるしかない。一人でもとりあえずは歩いていけるだけの体力があったのが、私にとっての幸運であり同時に不幸だ。二つある目的地の、一つからはもうあまりに遠く離れ過ぎた。このまま、当てもなく靴底を減らしながら歩き続けるのにも限界というものはある。靴底が溶けてすり切れてなくなる前に、私は自分の目的地を見出せるのだろうか。それとも、とりあえず目に見える辿り着けそうな目的地を目指したりするのだろうか。それとも・・・?

2007年5月21日月曜日

ある日曜日

 よく晴れた初夏の風が気持ちいい5月の日曜日。休日の割には早起きをして、朝から買い物に出かけていた。娘の服と妻の服と、ついでに自分のシャツを一枚。昼食を取ってから日用品の買い出しもしてから家に着いたのは、まだ正午を過ぎたばかりの頃だった。たまには早く行動を起こす休日も悪くない。爽やかな日差しの下、時間はまだたっぷりとある。

 このまだ涼やかで心地よい日差しの午後に、ひたすらBGMにモーツァルトを聴いて過ごした。こんなにモーツァルトを聴いたのも久し振りだ。むしろ初めてかも知れない。『フィガロの結婚(抜粋):カール・ベーム指揮 ウィーンフィル』『グラン・パルティータ/アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク: カール・ベーム指揮 ベルリンフィル, ウィーンフィル』『シンフォニーNo.38, 40:ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア響』『シンフォニーNo.29, 25, 38:レーナード・バーンスタイン指揮 ウィーンフィル』。部屋の掃除をしながら、パスタを茹でながら、食事をしながら、よく聴いた。しかも『フィガロの結婚』は二度聴いた。この曲を聴いたこと自体久し振りだったが、やはりよい。この序曲は当時としては実にエキサイティングに聴こえたのではないだろうか。今聴いても実に華やかな魅力のある名曲だ。ベームの演奏も素晴らしい。モーツァルトに関しては困ったらベームを選んでおけば基本的に間違いない。非常に高いレベルでまとまった演奏を聴かせてくれる。

 そして今はエッシェンバッハの弾く『ピアノソナタ第11番 イ長調 K.331 トルコ行進曲付き』を聴いている。意外に思われるかもしれないが実はこのK.331、全楽章通じて非常に好きな曲なのだ。とはいえ明日は月曜日。トルコ行進曲まで聴いたら眠るとしよう。

 よく晴れた気持ちのいい初夏の日曜の午後に、モーツァルトはよく似合う。意外に今日は、マンゼやサヴァールといった指揮者のピリオド楽器ものの演奏は聴かなかった。ピリオド楽器ものは颯爽としててカッコいいのだけれど、ちょっとテンポが早すぎる。元気よくいきたいときはそれでいいのだけれど、ゆったりと時間を慈しみたい時にはちょっとばかりあくせくしすぎる。部屋で一人で音楽を聴いているときは、曲のテンポこそがまさに時間を区切るのだから。

2007年5月16日水曜日

命名の儀



命名 子供の名前が決まった。「芽生(めい)」と名付けることにした。親戚にサツキちゃんもいるので、二人で『となりのトトロ』ができる(笑)。"メイ"という響き自体は名付け選考の結構初期段階から候補に挙がっていたのだが、字は妻と私でいくつか意見が分かれていた。結局、先月に一日違いで妻の祖母と私の祖父が亡くなり、母方・父方両家ともに意気消沈している時に生まれてきた新しい命だからこそ、願いを込めて「生きる」という文字を使いたいといった妻の言葉に打たれて、「芽生」となった。何気に画数も結構いい。"メイ"という響きも古くさくもなく奇抜でもなく、シンプルでかわいらしくてなかなか気に入っている。早速今日、出生届を佐賀市役所に出してから飛行機で横浜に帰ってきた。

 余談ではあるが私の父に当たる芽生の祖父より、「プレゼントとしてプラトンの『ソクラテスの弁明』のワイド版を芽生ちゃんにあげよう」という提案をいただいた。もちろんありがたい。ありがたいが、・・・初孫の、しかも女の子への初めてのプレゼントとしては何処か間違っている気がする(笑)。ま、父らしいと言えば父らしい。

2007年5月14日月曜日

第一子誕生!

 去る5月10日、実家に帰省していた妻が待望の第一子を出産した。午後3時51分、2374グラムの女の子だった。超音波検査ではもう2700グラムくらいあるのではないかと予測されていたが、実際は割と体が小さかった。胎児の体重は頭の大きさで測定するのだが、どうやら、頭が結構大きかったらしい。ともあれ、母子ともに無事に元気に生まれてきてくれた。

 その知らせを最初に受けたときは、まさに寝入りばなというところだった。5月9日の夜から10日の深夜3時前までギターを弾いて、ラッセルの新譜『Art of the Guitar』をBGMに眠りにつこうとしていた。そして心地よい眠りに入って間もない時、部屋の電話が鳴った。一回目は、現実の音と夢が混じり合っていて何が何だかわからなかった。よくは覚えていないが、はっきりしない意識の中で極彩色の何かがモヤモヤと、しかし激しくグルグルと回っていたような、そんな気がする。電話の音が鳴り止んでからやっと目が覚めて、ぼーっと布団の上に座っていた。CDはまだ続いている。眠りについてからそれほどの時間は経っていないということだ。一度完全に完全に油断して寝ていたせいか、目が覚めても布団の上から動くことはできなかった。二回目の電話が鳴る。今度は受話器を取った。出産準備のため実家に帰っている妻からだった。陣痛が来たという連絡。これから産院に行くという。深夜3時半頃だった。電話を切って、眠ることもできずに布団の上に座っていた。ふと窓の外を見ると、ほんの少しだけ夜が白み始めている。ちょうどCDの最後の曲が鳴り始めていた。E.S.デ・ラ・マーサの『暁の鐘』。ぼんやりと薄められ始めた夜空に、ラッセルの弾くトレモロの旋律が小さな音量で流れる。「ああ、暁だよ、暁」と、障子越しにその景色を見ながら思ったのを覚えている。学生時代、先生から指導を受けた最後の曲『暁の鐘』。何となく、落ち着いたらもう一度弾いてみようかなと思った。

 その日は一日あるセミナーで講師をしなければならず、深夜4時からでは当然代役は立てられないので、結局朝から落ち着かないまま壇上に立っていた。昼休みに付き添ってくれている妻の両親と連絡を取りながら、ともあれ無事を祈る。夕方5時過ぎにセミナーが終わってPHSを確認すると、無事に生まれましたとのメールが入っていた。ほっとしたし、何より嬉しかった。

 夜に赤ちゃんの写真を送ってもらうと、まだ会ってもいないのにひどくテンションが上がって、何度も何度もその写真をじーっと見た。生まれてくるまでは正直なかなか実感がつかめないところもあったのだが、いざ生まれてみると自分でも驚くくらい嬉しい。そして何よりも子供がかわいい。親になったという実感や責任感よりも、まずは嬉しさとかわいさが大きく大きく先に立った。結局親になるということはやはり、社会的なことの前にまず個人的なものなのだろう。だから何よりもまず嬉しいしかわいい。責任感やら身の引き締まる思いとやらはその次に来る。40週と1日の妊娠生活を超えて、最後出産まで頑張ってくれた妻と、無事に元気に生まれてきてくれた娘に今はただ感謝のみだ。

 これから、どんな風に育っていくのだろうか。自分に用意して上げられるものはすべて用意してあげたとして、その先で人生を歩いていくのは結局この子自身だ。自分がこの子の人生に与える影響はやはり果てしなく大きいが、同時に限りなく小さい。「こんな子に育ってほしい」という思いはあるが、それはここでは書かないことにしよう。本当に大切な思いは、やはり声に出して直接伝えるのがいい。開かれて書かれた言葉は、風化する。まずは元気に、健康にと祈る。

2007年5月9日水曜日

もう少し

 色々と書きたいこともあるのですが、今は23時や24時に帰宅して一時間日記を書くよりも、その一時間をギターに充ててあげたいのです。だから、本格的な日記の復活まではまだあともう少し。なに、大丈夫です。今の手持ちのネタもありますが、やはりもう少ししたらどうしたって書くことになるであろう、大きな大きな出来事も待ち構えているのですから。だから、そう、復活までもう少しです。きっと。

2007年5月6日日曜日

実家のネコ






小春 実家といっても妻の実家だ。立春の日に羊羹屋からもらわれてきた小春という名前のネコがいる。元来ネコにはそれほどなつかれた経験がないのだが、何故かこのネコはとてもよくなついてくれて、スタスタと歩いてきて当然のように膝に座り、ひとしきり毛繕いをするとそのまま眠りこけてしまう。あまり長く眠っているとちょっと疲れたりもするのだが(苦笑)、家に帰るとネコはいないし、まぁかわいいのでよしとしている。いやー、ネコになつかれたのは初めてだ。



2007年5月1日火曜日

渡辺 範彦『幻のライヴ』

 昨日、久し振りに池袋まで繰り出して現代ギター社まで行ってきた。5/12に結婚式でギターを弾く予定があるので、そこに向けて弦を購入するのが一番の目的だったが、当然のようにいいCDや譜面があったら合わせて購入しようという思惑があった。果たして今回は、ロドリーゴの『はるかなるサラバンド』と『パストラル』が含まれる譜面と、以前より現代ギターがやけに推しているCD、『渡辺 範彦 幻のライヴ』というCDを買ってきた。村治 佳織の新譜『AMANDA』がずっと店内で流れていて、しかもそれがかなりよかったので買おうかどうか迷ったのだが、まぁ村治 佳織のCDはどこでも売ってるので、どうせならポイントがつくタワレコ辺りで買うことにして、今回は現代ギターから出ているCDの『渡辺 範彦 幻のライヴ』を所望したというわけだ。

 しかし聴いてみて驚いた。福田 進一が「14才の時に渡辺 範彦さんの演奏を聴かなければ、僕はギターを志さなかっただろう」と語っているように、今現在日本で大御所と呼ばれている世代の一回り上の世代のギタリスト。荘村 清志と同世代だ。日本人演奏家として初めてパリ国際ギターコンクールで審査員満場一致で優勝し、NHK教育の「ギターをひこう」で講師をしていたという。スタジオレコーディングでも録り直しなしでほとんど一発でO.K.が出たとか、レコーディングでもほとんどノー編集、ノーミスといった完璧な演奏が伝説となっているらしい。

 このCDは成蹊大学ギターソサエティが渡辺 範彦を客演として迎えた際のコンサートを、オープンリールで録音していた音源をCD化したものらしい。となれば、2004年に故人となってしまった氏の演奏は、当然後からの編集はないものと考えていいだろう。聴いてみて本当に驚いた。ノーミスの伝説は本当だった。コンサートを通じて、私がミスと断定できたのは一ヶ所しかない。まぁ少々テンポが走ったとか、そういう部分は目をつぶるとしてだ。これまで国内外の名だたるギタリストのコンサートを目にしてきたが、もしこのCDに本当に何の編集もないとするならば、ここまでコンサートで実際にノーミスで演奏をしているギタリストを私は他に知らない。ジョン・ウィリアムスも、ラッセルも、藤井 敬吾先生も、もう少し目につくミスは多かった。その一点だけを見ても、日本にこれだけのギタリストがいたのかと、今さらながらに驚かされる。

 しかし敢えて苦言を呈するなら、演奏会でノーミスということが取りざたされること自体から他の楽器と比べた際のクラシックギターのレベルの低さがうかがい知れる。ヴァイオリンやピアノ等、他の楽器ではミスはしないのが当たり前で、そこから先が問われるわけだ。もう2年半前になるだろうか、ダニエル・バレンボイムがJ.S.バッハの平均律クラヴィア曲集第2巻を全曲演奏するコンサートを聴きにいった。当然のように、バレンボイムはミスなどしなかった。少なくともあからさまに音が外れたり切れたりするような、という意味でだが。クラシックギターでは他の楽器のプロでは当たり前のそこの部分さえまだできていないのだなと、昔から実は思っている。だからこそ、10代からクラシックギターを始めた人間がプロを目指せる程度の薄い層しかまだ形成できていないわけだ。そこは希望でもあるのだが、同時に絶望でもある。ただし、セゴビアはコンサート中に音を一つ外しただけでも自分に対して恐ろしく激昂していたらしい。同時代のあらゆる一流の演奏家と交流を持っていた彼こそは、そういった音楽の厳しさをギターの世界で一番肌で感じていたのかもしれない。そういえば、彼の録音は1920年代から40年代の後から編集などという技術がない時代のものでも、当然のようにミスは見当たらない。

 話が逸れた。渡辺 範彦である。とにかく、ビックリした。これほど確かな技術力と音楽性を兼ね備えたギタリストがかつて日本にいたことに何よりも驚かされた。一曲目、フレスコバルディの『アリアと変奏』の輪郭のはっきりした素晴らしい演奏に、まず打ちのめされた。ヴィラ=ロボスの『エチュード一番』でも、一つ一つの音が立った上で全体の流れが作り出されているその迫力に圧倒された。正直、演奏スタイルはやはり今から見ると少々古い(例えばポンセのプレリュードやバッハのBWV1006aのプレリュードは今のギタリストならもっとサラッと軽快に弾くだろう)が、どんなに音数が多くとも一つ一つの音を明確に、正確無比に弾き出す圧倒的な技術力と、常に曲に対して余裕を持った表現力は現代の一流ギタリストと比べても見劣りしない。どころかむしろ輝いてすら見える。

 1969年にパリギター国際コンクールを制した渡辺 範彦は80年代後半にはすでに活動を縮小していったらしい。その短い活動期間の中で残された録音も決して多くはないそうだが(何しろ本人は他の人がどんなにいいと言っても「自分の演奏は人に聞いてもらう程のものではない」という異常なまでの謙虚さがあったらしい)、それにしてももっと知られていてもいいのではないか。そう考えると、クラシックギターの世界を一般に認知させようと日本で苦労をした福田 進一の功績の大きさがわかる。彼の前には、これほどのギタリストですら認知されなかったのだ。

 今聴くと、やはり彼の演奏には古くさい部分は多々感じられる。けれど、そのことが彼の確かな技術力と感性を傷つけることはない。今の時代にセゴビアの演奏を聴くことに意味があるというのなら、同様に渡辺 範彦の演奏を聴くことにも意味があるはずだ。我々日本でギターを弾く人間にとっては、少なくとも。