昨日、久し振りに池袋まで繰り出して現代ギター社まで行ってきた。5/12に結婚式でギターを弾く予定があるので、そこに向けて弦を購入するのが一番の目的だったが、当然のようにいいCDや譜面があったら合わせて購入しようという思惑があった。果たして今回は、ロドリーゴの『はるかなるサラバンド』と『パストラル』が含まれる譜面と、以前より現代ギターがやけに推しているCD、
『渡辺 範彦 幻のライヴ』というCDを買ってきた。村治 佳織の新譜
『AMANDA』がずっと店内で流れていて、しかもそれがかなりよかったので買おうかどうか迷ったのだが、まぁ村治 佳織のCDはどこでも売ってるので、どうせならポイントがつくタワレコ辺りで買うことにして、今回は現代ギターから出ているCDの『渡辺 範彦 幻のライヴ』を所望したというわけだ。
しかし聴いてみて驚いた。福田 進一が「14才の時に渡辺 範彦さんの演奏を聴かなければ、僕はギターを志さなかっただろう」と語っているように、今現在日本で大御所と呼ばれている世代の一回り上の世代のギタリスト。荘村 清志と同世代だ。日本人演奏家として初めてパリ国際ギターコンクールで審査員満場一致で優勝し、NHK教育の「ギターをひこう」で講師をしていたという。スタジオレコーディングでも録り直しなしでほとんど一発でO.K.が出たとか、レコーディングでもほとんどノー編集、ノーミスといった完璧な演奏が伝説となっているらしい。
このCDは成蹊大学ギターソサエティが渡辺 範彦を客演として迎えた際のコンサートを、オープンリールで録音していた音源をCD化したものらしい。となれば、2004年に故人となってしまった氏の演奏は、当然後からの編集はないものと考えていいだろう。聴いてみて本当に驚いた。ノーミスの伝説は本当だった。コンサートを通じて、私がミスと断定できたのは一ヶ所しかない。まぁ少々テンポが走ったとか、そういう部分は目をつぶるとしてだ。これまで国内外の名だたるギタリストのコンサートを目にしてきたが、もしこのCDに本当に何の編集もないとするならば、ここまでコンサートで実際にノーミスで演奏をしているギタリストを私は他に知らない。ジョン・ウィリアムスも、ラッセルも、藤井 敬吾先生も、もう少し目につくミスは多かった。その一点だけを見ても、日本にこれだけのギタリストがいたのかと、今さらながらに驚かされる。
しかし敢えて苦言を呈するなら、演奏会でノーミスということが取りざたされること自体から他の楽器と比べた際のクラシックギターのレベルの低さがうかがい知れる。ヴァイオリンやピアノ等、他の楽器ではミスはしないのが当たり前で、そこから先が問われるわけだ。もう2年半前になるだろうか、ダニエル・バレンボイムがJ.S.バッハの平均律クラヴィア曲集第2巻を全曲演奏するコンサートを聴きにいった。当然のように、バレンボイムはミスなどしなかった。少なくともあからさまに音が外れたり切れたりするような、という意味でだが。クラシックギターでは他の楽器のプロでは当たり前のそこの部分さえまだできていないのだなと、昔から実は思っている。だからこそ、10代からクラシックギターを始めた人間がプロを目指せる程度の薄い層しかまだ形成できていないわけだ。そこは希望でもあるのだが、同時に絶望でもある。ただし、セゴビアはコンサート中に音を一つ外しただけでも自分に対して恐ろしく激昂していたらしい。同時代のあらゆる一流の演奏家と交流を持っていた彼こそは、そういった音楽の厳しさをギターの世界で一番肌で感じていたのかもしれない。そういえば、彼の録音は1920年代から40年代の後から編集などという技術がない時代のものでも、当然のようにミスは見当たらない。
話が逸れた。渡辺 範彦である。とにかく、ビックリした。これほど確かな技術力と音楽性を兼ね備えたギタリストがかつて日本にいたことに何よりも驚かされた。一曲目、フレスコバルディの『アリアと変奏』の輪郭のはっきりした素晴らしい演奏に、まず打ちのめされた。ヴィラ=ロボスの『エチュード一番』でも、一つ一つの音が立った上で全体の流れが作り出されているその迫力に圧倒された。正直、演奏スタイルはやはり今から見ると少々古い(例えばポンセのプレリュードやバッハのBWV1006aのプレリュードは今のギタリストならもっとサラッと軽快に弾くだろう)が、どんなに音数が多くとも一つ一つの音を明確に、正確無比に弾き出す圧倒的な技術力と、常に曲に対して余裕を持った表現力は現代の一流ギタリストと比べても見劣りしない。どころかむしろ輝いてすら見える。
1969年にパリギター国際コンクールを制した渡辺 範彦は80年代後半にはすでに活動を縮小していったらしい。その短い活動期間の中で残された録音も決して多くはないそうだが(何しろ本人は他の人がどんなにいいと言っても「自分の演奏は人に聞いてもらう程のものではない」という異常なまでの謙虚さがあったらしい)、それにしてももっと知られていてもいいのではないか。そう考えると、クラシックギターの世界を一般に認知させようと日本で苦労をした福田 進一の功績の大きさがわかる。彼の前には、これほどのギタリストですら認知されなかったのだ。
今聴くと、やはり彼の演奏には古くさい部分は多々感じられる。けれど、そのことが彼の確かな技術力と感性を傷つけることはない。今の時代にセゴビアの演奏を聴くことに意味があるというのなら、同様に渡辺 範彦の演奏を聴くことにも意味があるはずだ。我々日本でギターを弾く人間にとっては、少なくとも。