2016年3月9日水曜日

美女と野獣 2nd修正

 先日アップした美女と野獣のスコアですが、案の定というか2ndのみ少々単純な間違いがありましたので譜面修正いたしました。1st、3rdに変更はありません。

総譜
パート譜(2nd)

 変更点は以下の通り。

・19小節目:レのナチュラルをオクターブ高く変更
・32小節目:4拍目のシの音が抜けていたので追加
・42小節目:最後のミをオクターブ高く変更
・67小節目:最初のミの音を削除
・67~70小節目:オクターブ高く変更
・74小節目:オクターブ高く変更

 また、本番Hまで弾いて終わりにしようというお話になるみたいですが、その場合最後の75小節目、3rdは5弦解放のラの音で終わってください。6弦5フレットでもいいです(同じ)。

 直前の修正で申し訳ないですがよろしくです。

2016年2月28日日曜日

美女と野獣

 シノさんの結婚式用『美女と野獣』の譜面、完成いたしました。合奏参加者の皆さまはどうぞご確認ください。以下のファイルに総譜、パート譜、参考の音源が入っています。

譜面・音源データ

 元の譜面は金管五重奏で、そのままのキーだとフラットだらけでギターだと弾きづらいことこの上ないので半音下げて調整しました。E→G→Aと2回転調するので、譜読みの際は気を付けてください。1stは重音の箇所がありますが、そのまま弾いてもいいですし2人で上と下分けて弾いてもいいと思います。そこはおまかせします。

 で、そう極端に難しくはないですが言うほど簡単でもありません。不可解な変拍子が出てきたりするので、ちょっと合わせづらいところがあるかもです。練習機会がほとんど取れないか、少なくとも自分はぶっつけ本番になるので、丁寧に音さらっておいた方がいいと思います。

 一応以下に総譜のリンクも置いておきます。スマホからならこちらから譜面を確認できると思います。

総譜

 ちょっと急いでやったのでもしあやしげなところや不明なところあればご指摘を。

2016年2月16日火曜日

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 今更ながら、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に挑戦してみました。古典の名作中の名作と言われてはいるものの、何か敷居が高い気がしてずっとこの作品を、ドストエフスキーを、遠ざけてここまできていたのです。何故今読む気になったかというと、正月にたまたま目についてkindle版を買って読んでいた『ゲンロン1 現代日本の批評』にこの作品の新訳を出した亀山郁夫の対談が収録されており、テロと文学、そしてこの『カラマーゾフの兄弟』との関係など語られていて興味を持ったのがきっかけです。探してみるとKindle版もあるようだし、それならまぁ読んでみるかということで早速注文してみました。購入したのもはもちろん亀山郁夫訳です。

 で、読み始めたのはいいけど正直第1巻の序盤はなかなか読書が進まない。フョードル、アリョーシャ、ドミートリー、イワンといったカラマーゾフ家の人物の生い立ちやら何やらが描かれるのだけど、これを読んでいくのがなかなかの苦行。この生い立ちを読むことがこの後の小説の展開にどの程度関わってくるのかまったく読めないまま、あれが当時のロシア風なのかそれともドストエフスキーの芸風なのか、とにかく冗長な長台詞をひたすら読まされる感じ。多分『指輪物語』を読み切ってなかったらこの段階で挫折してたんじゃないでしょうか。ずっと心の中で「『指輪物語』に至っては1巻まるまる旅立ちの準備で全然面白くなかったじゃないか。でもその後は一気に面白くなった。この作品もそうに違いない。きっとそうに違いない」と何度も繰り返して立ち向かっていました。ですがこの『カラマーゾフの兄弟』は『指輪物語』ほど凶悪ではなく、ちゃんと第1巻の3分の2を読み進める頃にはもう面白くなってきます。そこからは読書ペースも一気に上がっていきました。

 見てみると第1巻を注文したのが1月5日。第2巻の注文が1月24日。第3巻が1月30日。第4巻が2月1日。そして最終巻が2月4日注文で、読み終わったのが2月10日。第1巻を読むのに時間がかかった割には、その続きは一気に読み進めているのが顕著にわかります。また第3巻~第5巻の本編が終わる頃合いまでは幸か不幸かインフルエンザで寝込んでいたので、尚更読書ペースが上がりました。で、第5巻は本編はすぐ読み終わったものの、その後の亀山氏の解説はのんびり読んでたので少し時間がかかったと。第2巻以降はもうほとんど一気です。こんなに面白いとは思わなかった。この巨大さにしてこの緻密さ、生々しい人間の姿、普遍的な哲学、凄まじい。

 カラマーゾフの登場人物達は、時に高潔で、時に愚かで、一貫してないことも多く、でもそれゆえに「ああ、こういう人っているなぁ」と思わせるのです。今お付き合いさせてもらっている農家の方、特にビジネスという「場」に必ずしもはまっていない古い世代の彼らは、時に人間を剥き出しに振る舞うこともあるので、それこそ突然この作品の登場人物のような長舌な語りを始める方もいたり、感情のままに周りを振り回すような場合も時にはあったりします。新潟に戻ってきたばかりの頃、社会人としてはビジネスシーンという様式美の世界での人付き合いが主だった自分はその生々しさに戸惑い、これが農家独特の文化なのかと軽いショックを受けたものでした。でも、それは別に農家に限ったことでなく、ビジネスシーンという様式美をなくしてしまった時に見えてくる、生の人間なんだなということに次第に気付いてきました。

 この小説に出てくる人物たちは、そういった生の人間が凄く剥き出しの形で描かれるのです。フョードルの恐ろしいほどの道化っぷり。自分の欲求に、愛するものに忠実で、他人からは理解しにくいこだわりや誇りを持つドミートリー。無神論者で自説を滔々と語り、非常に理知的・理性的であるがゆえに自分の影に隠れた欲望に苛まれることになるイワン。卑屈な下男かと思いきや、終盤で思いの外狡猾で理知的に狂言回しの役を演じるスメルジャコフ。アリョーシャは、この小説では案外個性が薄い博愛の人ですが、ドストエフスキーの死によって叶わなくなったこの小説の続編ではもっと強烈な個性を見せるはずだったんでしょう、きっと。個性的な女性陣や検事・弁護士に至るまで、それぞれどぎついくらいの個性を、人間臭さをもった登場人物たち。どこかのレビューで「大勢の人間ドラマの大河」という言い回しを見ましたが、まさにそのような感じです。親殺しというテーマと、それに続く犯人探しという大きなストーリーの中に、登場人物それぞれの生々しい人間ドラマがぎちぎちに詰め込まれ、それが大河となりうねっているいる。そして言い回しこそ多少時代がかってはいるとはいえ、そこで描かれる人間の振る舞いや哲学的・神学的な問いかけ、巨大な物語のうねりはまったく古くさくないのです。シェイクスピアを読んだ時にも感じる、時代を超えた普遍的な哲学であり、人間の姿。これは確かに古典として残る凄みのある小説だと感嘆しました。

 第2部でイワンが語る大審問官。宗教は果たして人を救うのか?天上のパンか地上のパンか?という神学的・哲学的な問いの深さに重さ。第3部でいよいよフョードル殺害が起きる時点におけるドミートリーの怒りや失望、混乱の生々しさ。そしてそこから乱痴気騒ぎの中でそれらが急速に希望や歓喜へと変わっていく過程。そして次の瞬間にはそこから突き落とされるジェットコースターのような展開。どれ一つ取っても非凡な問いであり、描写であり、迫力なのです。

 特に圧巻だった第4部。イワンの内面の葛藤とスメルジャコフとのやり取り、それにより軋み、崩れていく精神の描写が凄み。崩れていく理性の描写としては芥川龍之介の『歯車』も読みながらゾクゾクした覚えがありますが、こちらもまた読むうちに崩れゆく理性の渦に巻き込まれ、次第に目眩がしてくる、まるで文章の中に吸い込まれていくかのような迫力。この辺りはもう文字から目をそらすこともできませんでした。そしてその崩壊した心の中にのみ残された真実はついに裁判では照らし出されることはなく、事実から「推察される真実」は見方によって様々に色を変え、心象を変え、裁判は進んでいきます。そう、やはり芥川龍之介の『藪の中』のように、真実は断片の切り方によっていくらでも姿を変えるのです。そして結局、真実は最後まですべての姿を見せてはくれないまま裁判の幕が閉じる、その無情さを感じする隙すらないようなあっけなさ。

 正直この作品がこんなに面白いとは、こんなに力があるとは、思ってもみませんでした。エピローグで感じるまっ白なカタルシスは、そこまでの様々な登場人物の、長く生々しいドラマを、登場人物は登場人物として、そして読者は読者としても、乗り越えてきたがゆえ。この人類の原罪に挑むかのような壮大なテーマに比して意外なほど爽やかで美しいラストは、読後に清々しい達成感を残してくれました。

 親殺しという神話からつらなるテーマを中心に、様々な人間模様や哲学、事実が真実を表すとは限らないというテーゼ、そして唐突で不条理とも思える結末。長さなど気にならず、最後まで一気に読ませてくれます。語る人物それぞれに、生々しい「人間」を感じるのです。そう、この言葉を何度も使いました。「生々しい」。この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物たちは、実に生々しいのです。最近の物語の、ちょっと近くにはいなさそうな「キャラクター」ではなく、明日も会いそうな、今も隣にいそうな、等身大でカッコよくも悪くもある、欠点だって普通に持った、ありふれた人間の人生が紡がれて大河となっている小説なのです。だから、この小説のあらすじに意味はないのです。単純に数行で書き尽せるあらすじにこの小説の神髄はなく、ストーリーの流れから見るとむしろ寄り道にも見える一人ひとりの人間ドラマが、滔々とした哲学や美学の語りが、そこに描き出される思いや迷いが、普遍的な広がりをもって流れていくのです。もっと早く読んでおけばと思いつつ、でもこの歳だからこそわかる部分も多いのかもなとも思うのは負け惜しみでしょうか。これはいつかまた読み返してみたい小説です。その時はまた、別の訳で。

 とりあえず次は、『罪と罰』でも読んでみようかな?