7月30日が土曜日だったので、週が明けて8月1日からすぐ修理依頼が来るかと思いきや、実際に依頼が来始めるのは1日おいて2日から。1日の時点ではまだ地面がドロドロで、お客様も状況を確認したくても入っていけないエリアも多かったのです。そこから何枚も続く、水に潜った機械の修理伝票。改めて、災害の被害の大きさを感じます。
今年は東日本大震災もあり、和歌山でも豪雨被害があり、全国的に自然災害が多い年でした。自然ばかりはどうにもなりませんが、来年は大きな災害がないようにと願う年の暮れです。
今年は東日本大震災もあり、和歌山でも豪雨被害があり、全国的に自然災害が多い年でした。自然ばかりはどうにもなりませんが、来年は大きな災害がないようにと願う年の暮れです。
特に印象に残ったのはまず第27番の第2楽章。音楽が始まった瞬間、その場の空気が変わりました。柔らかく透明な音色に包まれた、あの優しく牧歌的な旋律。「ああ、27番ってこんなにいい曲だっけな」と思うほど、会場をその音楽の世界で満たしていました。
そして第30番での泉からどんどん湧き上がる清い水のような音楽。第2楽章では時にペダルを踏む足音を響かせながら鬼気迫る演奏を聴かせてくれます。本当にあの細い体のどこからあれ程の鋭く気迫に満ちた音が出てくるのか。
第31番では嘆きの歌からフーガへつなぐ和音の、嘆きがためらいながらも救済のフーガへ収束していくその自然と息が吸い込まれるようなアーティキュレーションに目を見張りました。
そしてやはり凄かったのが第32番。力強く、デモーニッシュな迫力すら感じる第1楽章から、美しさを極めた第2楽章へ。清澄した水の玉が輝いているような高音が、本当に天国的に美しい。最後のトリルに入った時は「ああ、もう終わってしまう」と曲が進むのが残念に思えるほど、その素晴らしい音楽にひきこまれていました。
イリーナ・メジューエワの何が凄いかというと、もちろんその音色の美しさや強奏時の迫力、その切り替えや多彩な表情も見事なのですが、それらを駆使して演奏をする果てに、最後にはメジューエワという奏者を超えて曲そのものの素晴らしさが見えてくるところ。彼女の演奏を聴いていると、この曲はやはり素晴らしいなと素直に感じられるようになってくる。演奏が凄いと感じるのでなく、音楽が素晴らしいと感じてくる。そこが、何よりも凄いところだと思います。美しい音色も、力も、確かな技術も、あらゆる発想も、持てるものをすべて使い切った果てに音楽が浮かび上がる。素直で、清廉に磨き上げられた音楽そのものの魅力が。それこそ、確かな音楽性によるものなのだと思います。そして、その音楽が心を洗い流してくれる。
今日は素晴らしいコンサートでした。聴衆も非常にリテラシーが高く、曲が終わった後すぐに拍手をしたりしない。メジューエワが手を下ろし、一息つくまでまってから熱烈な拍手。音楽の余韻までしっかり味わうことができました。終焉後、第32番が収録されているCDを所望し、サイン会でサインをもらって、感動に加えてほんのりミーハーな喜びも満たして帰ってきましたとさ。
でもこんなに素晴らしい内容なのに、かなり席はガラガラだったのです。おかげでCD買うのにもサインもらうのにも大して時間かからなかったのはいいのですが、これだけのコンサートにあれだけしか人がいないのは、正直寂しい気もしました。平日だからでしょうか?ベートーヴェンの後期ピアノソナタは『悲愴』『熱情』『月光』辺りと比べて人気がないからでしょうか?それともイリーナ・メジューエワがまだあまり名前が知られてないせいでしょうか?あまりに、もったいない。これだけの音楽が、新潟で比較的手ごろなお値段で聴けるのに、とかもちょっと思ってしまいましたとさ。
見ていると、この先生はこの発表会に向けて生徒が選んだ曲は、ポピュラーでもジャズでも、先生自身が知らない曲でも、それでよしと認めて指導してきた様子。普通先生って自分の知らない曲、ジャンル外の曲って嫌がるんですけどね。それもあって生徒達は自分の好きな曲をいきいきと演奏していたのだなと思いました。
ある程度以上のレベルを目指すなら、課題曲を通じて技術的なステップをクリアしていく過程も必要でしょう。でも、それ以上に先生はまず音楽を楽しむことを大事にしているようで、それは凄くよいことだなと思いました。ピアノが上手になるために、音楽が嫌いになったら意味がないですから。いい先生についたなと感じる、暖かい発表会でした。来年はウチの子も出られるようになってるといいなぁ。
余談が長くなりすぎましたが、当時の自分達はそこまでが挑戦でした。それは大きな挑戦ではあったけど、クラシックギター部が自立するための小さな一歩でもありました。当時師事していた尚永豊文先生に「来年は編曲を自分がやります」と話した時、ここ数年は外部に編曲を依頼していたことをお話しすると「甘えていましたね。自分達でやることはいいことです」と仰っていたのを思い出します。編曲も自分達でやることで、音楽に向き合うことができたのは、確かに厳しい側面もあったものの、実際いい経験でした。
自分が卒業してから10年以上が経ち、その間自分の後のクラシック技術部長達には自分など及びもつかないような実力を持った人達も就いていきました。卒業後も何曲か合奏用に私が編曲をさせていただいたこともありますし、藤井眞吾先生に編曲をお願いしたこともあったようです。今でもクラギタのBOXに顔を出す同期に聞くと、自分らの頃とは大分雰囲気も変わったそうです。それでも、大学で公式に部として昇格して50周年となる節目の年に、フラメンコは記念イベント『xA惰・F・F! Fiesta de Familia Flamenca』を開催し、Aアン大合奏では藤井敬吾先生の委嘱新作を自分達で演奏できる。それだけの大きな活力を持つ今の後輩たちを頼もしく思うし、嬉しく思います。今後も楽しみになります。自分達がいた頃とは空気や何やらは変わっても、自分達がそう感じたような、あるいはそれ以上のいい部であるのだなと、その活動を通じて感じることができました。
現執行部の皆さん、部員の皆さん、50回の記念となる定演での大きな挑戦、お疲れさまでした。是非今後とも、頑張ってください。
多国籍企業の利益をもとに、国民国家を論じるのは、筋違いである。多国籍企業の利益は、そのまま多国籍でアノニマスな株主の懐へ納まる。
新自由主義のメリットは、ほとんど多国籍企業のためのメリットと同じだ。国民利益とは、なんの関係もない。にもかかわらず、経済政策は、多国籍企業やアノニマスな株主に配慮してばかりいる。
TPPに感じる違和感、それは「国に縛られない企業の論理を、国土と国民に縛られざるをえない国に適用する」ところにあるのだなと、これを読んで感じました。国土や国民にしばられることなくコストを下げ、収益を上げたい企業論理。その論理をどうしたって国土や国民が前提となる国に適用することで、ビジネスに関して国の差、地域差をなくそうというのがTPPです。そもそも前提となる範囲が異なる規範を無理に適用しようとするから齟齬が生じるのだなと。
その国土、国民性に合った農業や医療、法令、ビジネスが本来はあるはずです。でも「その国に合った」なんて考えてたら国ごとにビジネスを考えなきゃいけなくなって非効率だから、「じゃ、その差を考えなくていいようにルール作りましょ」ってのがTPP。グローバル化はイコール均質化です。TPPの無理があるところは、実際これだけ異なる世界を、論理的に一つと見なそうとするその本質の部分にあるのだなと、改めて感じました。
その後意見交換の中でも出てきましたが、外から見ると盤石に見える"魚沼産コシヒカリ"のブランドも、実は案外消費者から「こんなものか」と受け止められてしまうことがある。これは生産者による質の違いもあり、その質の違いをすべてブレンドして出してしまう流通の問題でもあり、なかなか根の深い問題です。個人的には山形の「つや姫」を筆頭に、他県が打倒新潟コシヒカリを掲げて頑張っている中、少々新潟は後手に回ってしまったのかなという感は正直あります。ただ、その中でも個人レベルでは危機感を持って食味・品質の向上に努めておられる農家の方が魚沼に限らずおり、私の周辺地域の農家の方もそういった方々はやはり一般的な魚沼産コシヒカリより(私が食べて)美味しいと感じるようなコシヒカリを生産されています。問題はそれが農家対消費者で直接届く場合はいいとしても、流通を通すと悪い言い方をすればミソもクソも一緒にされるようなやり方で、でもそれが"新潟米"だとして出ていく辺りにもあるのだと思います。新潟では単純に地域で分けて価格が決められているのも問題の一端としてはあります。そういった"コメ王国新潟"が抱える問題点は、やはり県内どこの現場でも感じていることなんだなと確認することができた点はよかったと感じています。
二部は農家のこせがれネットワークから離れ、奨学米プロジェクトのイベントに移ります。これは大学生に農家の作業を手伝ってもらい、その代償として奨学金の代わりに自分が手伝った農家から米が送られるというプロジェクトで、今年が一回目のようです。企画自体はまぁ正直ありそうな感じだったのですが、ちょっと驚いたのがその構成人員。大学生は最初当然新潟大学の学生なのかと思っていたら、なんと全部首都圏の大学生。それが新潟の農家に来ていたというのです。そしてその(奨学米プロジェクトの言葉を借りれば)コメ親さんとなる農家の方々も、自然派農業、有機農業で筋を通してやっておられる非常に熱意のある方ばかり。この組み合わせには少々驚きました。そしてこのプロジェクトの年間活動報告の後、自分が手伝った農家さんから米を手渡された大学生達は一人一人感想を述べていくわけですが、それがまた面白い。各人奨学米プロジェクトに参加したきっかけは様々です。農業に興味があった、流通に興味があった、オシャレなオーガニック食品が好きだった、等々様々です。で、ほとんどは家が農家ではなく、都会生まれ都会育ちの大学生達。そんな大学生が、田んぼに素足で入って除草をしたり、畦草を刈ってニワトリの餌にしたりする。そして自然から色々なことを学ぶんだという農家の方々と話をして、人生について考える。このプロジェクトの非常に面白く、また素晴らしいところは、参加した学生達がほぼ例外なく、農業体験を通じて農業だけではなく、食について、また人生について深く考える機会を得たというところです。学生達は次々に口にしていました。普段東京の高級なスーパーで並んでいる綺麗なオーガニック食材にも、これだけの苦労をして作ってくれている人がいる、そんなことも気付かないでこれまで生活してきていたと。この食べ物がどれだけ大切なものか、体験を通じてわかった。これからは米の一粒も大事に食べていきたいと。そういった都会暮らしから、いわゆる昔ながらの土と結びついた暮らしへの、価値観の転換、パラダイムシフトを学生達に起こしたというのが、このプロジェクトの一番凄いところだと感じました。たった3回の新潟での農作業でも、米を受け取る時には涙ぐむくらい大切な体験ができる。これは受け入れ先となった農家の方々の仁徳もあるのでしょう。そして一面、都会の暮らしがどれだけ土と離れているかもあるのでしょう。色々と考えさせられる話でした。
そしてまた面白かったのが最後のパネルディスカッション。これまでの流れを受けて「農と地域の活性化」という題目で30分ばかりの意見交換だったのですが、大越農園の大越さんの発言が奮ってました。曰く、農業を使って何か企画しようという時、例えばホテルがグリーンツーリズム的に宿泊と農業体験をセットにしたパックを作ろうとした時、ホテルは宿泊場所は用意するから後のプランは農家にすべてお願いしますと丸投げてきたりすることが多い。あるいはマルシェで出店依頼があったとしても、例えば東京まで出ていくのにはその交通費、新幹線で行ったら2万円、その他農産物を送る手間や送料があって、売れ残ったらまた地元まで送り直さないといけない。それらで無駄になる時間や手間、コスト、そういったものはすべて農家が背負わなければいけない。農を絡めた企画を立てるのはいいけれど、今はそれに関わるリスクをほとんど農家が背負っている場合がほとんどだ。これから本当に農で地域を復興していきたいのなら、そのリスクを農家だけに重く背負わせるのではなく、リスクを分散する、あるいはリスクに見合うだけのメリットを明確にして進めていかなければいけない。そう仰ってました。至極、真っ当な意見だと思います。個人的な見解としても、世の人が企画ごとに農家を巻き込む時、ともすると農家を聖人的に見てしまう。農家も商売で、コスト管理、リスクヘッジ等あることを忘れてしまう。変な言い方をすると、農家をビジネスマンとして見ない。そんな空気への警鐘もあるのだと思います。ここは継続的に農業の発展を望むなら考えなければならないところで、農家だけがリスクを過大に背負う形では、いずれ今やっている農家達もリスクの大きさに潰れる時が来ますし、そのリスクの大きさが一般的に認知されれば新しいことへの参加は及び腰になります。だからここは継続的発展のためにはしっかり考えないといけない。これは強く感じました。
同じく大越さんが仰っていたことで、地域復興というのなら、東京進出とか何とか言う前に、まず自分達が自分達の地域に正面から向き合う方が先じゃないか、というのも心に残りました。自分達が住んでいて楽しくない地域、魅力がない地域なら復興も何もないだろうと。自分達が住んでいて楽しいから、魅力があるから、外にアピールできるし、外から人も呼べるんだと。そのためにまず自分達で自分達の地域に向き合い、何が悪いのか、何を直せばいいのかを考えていくところから始まるのではないか。そう仰っていました。これも至極正論です。なるほど、と思いました。
短いディスカッションの時間ではこれ以上議論を深めることも、結論を出すこともできなかったわけですが、それでもこれらの問題提起は非常に大きな意味があると感じました。個人的にはそれ以上に、自分自身の意識の甘さについても考えることの多い機会となり、非常にいい刺激を受けたイベントとなりました。できれば次回はもっと深く意見を交わし、拙いながらも自分もあのディスカッションに加われるような形で、こういったイベントに参加できたら嬉しいなと思います。自分だけの世界では見識は深まらないものだなと、改めて感じた世界です。そしてそれは見識だけでなく…。
ともあれ非常にいい刺激を受けたイベント。想像した形とは違っていましたが、参加してよかったと思います。次はどなたか、近しい農家の方もお誘いして、できれば一緒にその刺激を味わうことができればなおよいなと、そう感じました。