2007年1月28日日曜日

賑やかで、寂しい夢 -時間と存在の輪廻-

 色々と、たくさんの人が出てくる夢を見ました。職場の人間、高校の部活の先輩達や同級生、中学の仲間・・・、それぞれ時代毎にグループになって、会社だったりカラオケに向かうエレベーターだったり飲み屋だったりで、実際に会ったとしても同じことを話しそうな内容を、ずっと笑いながらしゃべっていました。何故か大学時代だけは出て来ませんでした。職場の人とは実に実際的な打ち合わせをして、「よし、これで段取りは済んだな」と満足していたものです(苦笑)。とにかくたくさんの人達が出てきて、ここ数年一度も思い出していないような人まで出てきて、非常に賑やかな夢でした。

 ただし、寂しい夢でもありました。時代毎にグルーピングされた様々な人達と笑顔で話し、歌い、飲む。その後に、その場を離れる際は何故か必ず私は一人になっていました。一人になって少し歩き、気付くとまた違うグループの人達に囲まれている。そしてまた一頻り騒いで、別れて、一人になって・・・、とそれを繰り返す夢でした。そうすると不思議なもので、祭りの楽しさよりもその後の寂しさの方が後を引いて残ります。総じて、寂しい印象の夢でした。非常に、音響的には騒々しい夢ではありましたが、心情的には静かすぎるくらいに静かな夢でした。

 目が覚めた時、周囲の静けさに少し驚きました。もう朝の7時半くらいで障子越しの光は既に白く明るいのですが、人の話す声も大きな物音も聞こえない。妻の寝息だけがスースーと聞こえてくる。その世界が妙に静かに思えました。逆に不自然な静寂に感じました。それほど、賑やかな夢だったのです。

 そしてその現実の静寂の中にしばらく身を置いていると、今度は音楽が聞きたくなってきました。曲は藤井敬吾先生の『スウェーデン民謡<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』。マンドリンとギターの二重奏です。北欧らしい雪が降る予感を感じさせる澄んだ冷たい空気の中に、どこか諦観や達観を含んだ哀愁に満ちた旋律が非常に美しい『麗しき薔薇を知る者』をテーマに、その主題を1パターンずつ繰り返す度に変奏が展開されて行くという、非常にわかりやすい形式の変奏曲です。その意味ではパガニーニのカプリース24番なんかと似た進み方をします。そして変奏曲と言えど、自由にどこまでも発想を拡げていくものではなく、あくまで元の旋律のイメージを崩さずに、最初に提示された旋律を重ねながら聴くことができる程度に展開が抑制されたその曲は、パッサカリアやシャコンヌのように1パターンが終わる度にまた最初に戻って繰り返しているような、そんな感覚を聴く者に与えます。

 そういった曲の形式は、いつも私に次のようなことを連想させます。変奏され、表に出てくる形は変わったとしても、根本は変わらずに、間に何も挟まずに繰り返される日々。今過ごしている時間、期間は、過去のある時間、期間の変奏であり、結局その頃と根本は何も変わっておらず、そしてこれからも変わることはないだろうという、日常の輪廻。自分という存在が自分である限り繰り返す、ある程度のスパンで見た場合の根本的な時間経過の中での在り方。いつの時代も、結局はその在り方の変奏でしかない。では、その在り方によってもたらされた過去の結末が今わかるのであれば、結局未来も同じ結末になるのではないかという、そんな安堵と不安。以前にも書きました。こういったことを思い起こさせてくれるから、私はシャコンヌやパッサカリアという形式が好きなのです。そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』も同じです。それは時間に対する存在の輪廻だと、私は思うのです。

 今朝の夢は、実に端的な形でそれを映像化したものでした。だからこそ寝覚めてからあの曲が聴きたくなったのでしょう。時代毎の仲間達と話して、また次の時代へ、次の時代へ・・・、と切り替わって行くうちに、やはり何も変わっていないなということに気付きます。時代は、ただ変奏し、繰り返されているに過ぎない。その思いがあるからこそ、夢の中で最後私は一人になって、そしてその寂しさが後を引いて行くのかもしれません。シャコンヌやパッサカリアや、そしてこの『<麗しき薔薇を知る者>の主題による変奏曲』は、結局最後まで主題を繰り返し続けます。だからこその音楽達です。では、私は、どうなのでしょうか?


2007年1月25日木曜日

たまご

やわらかい黄身を守るために
たまごのからはある
いずれ黄身はひよこになって
からをやぶって外に出て行く
黄身はやわらかいまま
からの中でくさっていくためでなく
ひよこになって外を歩くために黄身でいる
ひよこもずいぶん頼りないけど
それでも外を見て感じて、歩けるのだよ
からの中の黄身よ
今はまだたまごでいい
やがてひよことして
からを中からやぶれるように

2007年1月23日火曜日

両親学級

 年が明けてから、1月は仕事が忙しいのが目に見えているので書けるうちに書いておこうと思い序盤頑張っていたこの日記も、いきなり10日間も飛ばしてしまいました(苦笑)。いやー、なかなか、ハードでした・・・。まぁとりあえず今月一杯はそのハードさは続き、来月上旬までは出張ラッシュにその余韻が残るわけですが、今日はとりあえず溜まりに溜まった代休を取得、一日お休みをいただいて港北区が主催する両親学級なるものに行ってきました。ついでに、これまで忙しくて行けなかった免許の住所変更にも行ってきました。引っ越したの四月下旬なのにやっとです・・・。

 横浜市港北区が初めての妊娠・出産の妊婦さんを対象に行っているこの講座は、区が主催するだけあって無料で色々教えてもらえるらしいので、それは是非いってらっしゃいということで妻が通っているわけです。といっても週に一回で計四回。そんなに数が多いわけではないですが。その中で今日だけは夫同伴が推奨される、赤ちゃんの入浴のさせ方講座だったというわけです。赤ちゃんの体の洗い方やら服の着せ方のコツやら、まぁなかなか勉強になりました。ウチの場合近くに最大の先生足り得る親がいないわけで、こういうサービスを利用して事前に学んでおけるならそれにこしたことはないわけです。

 いやー、しかし大変そうですね。特に生まれてから二ヶ月は起きる・泣く・飲む・寝るを昼夜問わず二時間ごとに繰り返すと言いますからね。夜も眠れないそうで、ちょっと前にお子さんが生まれた同じ部署の人もその時期は寝不足で大変そうでした。そんな話を聞く度に戦慄する今日この頃です。それでも自分の子どもなら頑張れるのでしょうか。まぁ、頑張るしかないんでしょうが(苦笑)。色々凄いことにはなるんでしょうが、慣れない日々を二人で頑張っていくしかないのだろうなと、こういうイベントがある度に少しずつ、本当に少しずつ実感と覚悟が湧いてくるわけです。まだ、それが力強い確信というほどでは正直ないのですけれど。まぁ、少しずつ・・・。

 余談ですが代休届を総務に提出した際、今月は8日と13日に休日出勤しているので1/8分代休と書いて出したら、「2005年8月の分から代休が残っているので古い方から消化してください」と差し戻されてきました。2005年って、・・・覚えてねーよ!っつーか使えるんだ、2005年8月分の振替休・・・。というわけで本日は2005年8月18日分の代休です。あといくつ代休残ってるんだろう?有給は34日残ってるのはわかってるんだけど・・・。


2007年1月13日土曜日

無題

 私の話がつまらないのはかまわない。なら、その面白い話を私にも聞かせてくれ。

2007年1月11日木曜日

パストラル

 ロドリーゴの『祈祷と舞踏』が聴きたくて、久し振りに『パストラル』をかけた。何となく、そういった鬼気迫る緊張感のある曲が聴きたかったのだ。ゆっくりとモルトを飲みながら、他に何をするでもなく聴く。音楽は昔と変わらないイメージを心に浮かばせる。闇の中で何かに追い立てられるかのように焦燥しながら、一心不乱に踊るフラメンコの踊り手のイメージ。我ながらこの曲のタイトルとスペインの作曲家という出自を考えるとステレオタイプ的なイメージだと思ってしまうが、まぁでもそんな映像が実際に浮かんでくるのだから仕方ない。相変わらず、そのような視覚的要素を強く換気させる力のある曲だ。

 さて、『祈祷と舞踏』を聴き終わり、次は『スペイン風3つの小品』を聴こうとリモコンを手にした。最初の『ファンダンゴ』の7曲目のボタンを押そうとした時、流れてきた音に手が止まった。先程までの何かに追い立てられ、駆り立てられているような焦燥感、緊張感から打って変わって、温かく、ゆったりと、牧歌的に流れてくるシンプルな旋律。このCDの最後の曲であり、アルバムのタイトルでもある『パストラル』だ。最初の1フレーズを聴いて、「ああ、いい曲だな」と思った。そして次に、そう思った自分に驚いた。これまでは、この曲は特別"いい曲"という認識は持っていなかったのだ。当然、何度も何度も聴いていたはずなのに。

 「鬼気迫る緊張感のある曲が聴きたい」と始まったCDの、ふっと緊張の解けた柔らかい音の流れの中で手が止まる。こんなはずじゃなかったんだけどな、と思いながら、曲を変えようとしていたリモコンを置いて耳を澄ます。やはり、いい曲だった。それを確かめるように、続けて3回、同じ曲を聴いた。何故今まで気付かなかったんだろうか。それとも、やっとこの曲のよさに気付けるようになったんだろうか。何にせよ、大好きなこのアルバムを聴く楽しみが、またこれで1つ増えたことになる。

 自分で弾いてみたいなと思ったけれど、まずは譜面を持っていない。あったとしても、ゆったりのんびりした主旋律とは裏腹に、ベースはかなり容赦なく細かい動きをする曲なので、聴いている印象より遥かに弾くのは難しそうだけど・・・。


2007年1月10日水曜日

仕事始め

 2007年、今日が仕事始めでした。とはいえ私は昨日も10:00-20:00で出社して長い休みのリハビリ(?)をしていたので、正確な意味で仕事始めではなかったのですが。まずは目先が忙しいこの1月。しばしの休息を終え、また戦場へ赴きます。

 最近見つけて読み始めた『モルト侍』というBLOGがあります。池袋でJ's Barというモルトを中心としたバーをやっているオーナー・バーテンダーさんのBLOGです。元々は当然ながらモルトの記事が目的だったのですが、実はこの『モルト侍』、他にもなかなか面白いことが書いてあったりします。今日の記事"「スタンダード18」という考え方。"にはこう書いてありました。

酒を飲めば苦しみを忘れることはできるが、それは一時的なことだ。翌朝、目が覚めれば、また昨日の続きの今日がやって来るだけ。面倒なことはなくなりはしない。

僕はあなたの苦しみを取り除いてあげることができない。だから、愉しいことを増やしたいと思う。僕は今年もそれを仕事にしようと思う。

 酒の長所短所を見て、自分の長所短所、そして哲学的な部分まで含め、実に明快に、そして確信を持って、自分の仕事の目指す場所を語っています。凄いな、と思いました。そして羨ましくもなりました。私は自分の仕事の使命を、ここまで端的に、そして確信を持っては言う自信がありません。いまだ、スタンス・ドットは定まっていません。今年はそれを明確にできるよう仕事をしたいものだと、この記事を読んでそう思いました。

 で、それはそれとして、この記事の本題である「スタンダード18」にも相当興味ありです(笑)。いつか、行ってみることにします。

2007年1月8日月曜日

白らんちゅうがやってきた

らんちゅうと白らんちゅう
 金魚の飼育開始から約4ヶ月が経過し、とうとうウチにも5匹目の金魚がやってきました。白い体にキュートな黒目がチャームポイントの白らんちゅうです。先月元々いた4匹のうち3匹を購入したペットエコ港北NT店に大掃除の水換えの際に使う交換用の濾過材等を買いに行った際にこいつがいたのですが、ウチの桜琉金(命名"さくら")のような透明な体と黒いキュートな瞳に、らんちゅうのコミカルな体型がくっついたこの金魚に妻は一目惚れ。その時は見送ったのですが、今日また行ったらまだ売れずに残っていたので、「まぁ、水槽のキャパにはまだ余裕はあるしなぁ」ということで購入してきました。写真は元々ウチにいるらんちゅう(命名"らんちゅう")とのランデヴーです。写真ではわかりづらいですが、白らんちゅうは元々いたらんちゅうの半分くらいの大きさしかない小さい仔魚です。



 実はこの白らんちゅう、店にいたときは他の体の大きさが同じくらいの小さな白らんちゅう達と遊泳していて、その中で一際元気に動き回り、他の魚を突っついていじめたりするような暴れ者でした。ですが、いざウチの水槽に来てみると、他の金魚は全部単純に体長で見ても自分の倍以上はある大きい魚ばかりです。体積で見れば5倍くらいありそうなヤツもいます(さくら)。しかも、食欲がハンパじゃありません(笑)。あまりの周囲との力の差に、このおチビさんはすっかり落ち込んでしまったようで、他の金魚に喧嘩をふっかけることはおろか、泳ぎ方すら店にいたときと比べて何だかおとなしくなったような気がします。いやー、怯えてるのかもしれません。頑張れ、おチビな白らんちゅう。負けずにエサを食べて、早く大きくなるのです。ちなみに、名前はまだありません。
 しかし新しい魚を入れてみるとよくわかるのですが、ウチの金魚、大きくなりましたねー・・・。そりゃあんだけエサ食べてりゃなぁ(笑)。ちなみにウチの金魚達は、エサの食べ過ぎでひっくり返ってしまうヤツが2匹ほど出てきたので、今日は一日絶食させてました。琉金系やらんちゅう等の丸型の金魚に出やすい転覆病の心配もしたのですが、一日エサを抜いたらひっくり返ることもなくなったので、まぁ純粋に食べ過ぎだったのでしょう。特に普段テトラフィンのような浮上性のエサを与えている金魚の場合、エサを食べる際に空気が大量に体内に入ってしまいそれが原因でエサを消化して空気が体から抜けるまで転覆病に類似した症状を示す場合も多いようですし、生き餌や乾燥餌の場合は食べ過ぎ等が原因の消化不良で同様の状態になることも多いそうなので、転覆病を疑う前にまず食い過ぎを疑って絶食させてみた方がいいようです。今回はエサを断っただけで水温を上げる等の処置はしていないのですが、昨日ひっくり返っていた連中も今日はひっくり返らずに元気にスイスイ泳いでいます。金魚は食べ過ぎ注意です。ちなみに、金魚がひっくり返ったままになってしまっていて浮袋(鰾)の辺りがふくれてお腹がプクンと出てきている場合は明らかに転覆病です。まずは水温を25度以上にキープし一週間程度の絶食、そして0.5%食塩水浴辺りを試してみることをお薦めします。詳細はこのページが参考になります。

2007年1月5日金曜日

『失われた町』 三崎 亜紀

 大晦日の日に整体を予約していたのだが、12時からだったのを間違えて11時に下山(自宅から日吉の街に下りることを我が家ではこう呼ぶ)。整体が終わったらすぐに帰って大掃除をするつもりだったので時間を潰すための本もなく、東急の本屋で急遽購入したのがこの三崎亜紀の『失われた町』だった。デビュー作『となり町戦争』がいきなりブレイクした作者の、短編小説集を一つ挟んでの2作目の長編小説だ。実はこの作者なかなかのお気に入りで、これまで出した3冊は全て読んでいる。『となり町戦争』は、正直おまけして70点ってところだったのだが、次の『バスジャック』がよかった。ので、今回も購入してみた。

 三崎亜紀の小説にはいつも、現実世界をベースにその世界のネジを何本か外して前提をずらしたような、突飛な世界設定がある。『となり町戦争』では"目に見えないが確かに行われているらしいとなり町との戦争"だったし、『バスジャック』中の短編『動物園』では"動物園で本物の動物を飼育して公開するのでなく、一種の幻術のようなもので観客にそこに動物がいるかのように見せることを職業とする人達"、『バスジャック』では"ブーム化し、形式化された、ある種日常を巻き込んだ競技的なバスジャック"だったし、今回の『失われた町』では"突然中に住む人達を理不尽にすべて消滅させてしまう町"だった。常に、現実世界の中から描きたいテーマを見つけると、それを描きやすいようにまず世界の方をずらす。三崎亜紀はそのような手法を使う。その突飛な世界設定から、"SF作家"と言う人も多いようだが、まぁそれは誤った指摘だろう。大体"Science Fiction"では、どう見てもない。藤子・F・不二雄の言葉を借りて、「すこしふしぎ」の略としてのSFならいけるだろうが。

 というわけで『失われた町』だ。ある程度定期的に(作中でうかがい知れる範囲では30年周期)発生する町の消滅。町の意思によって消滅順化させられ、町から逃げ出すことも外の人にS.O.Sを伝えることもできない中の住人は、ある日理不尽に町からすべて姿を消す。そうして消滅した町は、消滅の余波による汚染の拡大を避けるために管理局という組織によってきれいに歴史からも地図からも個人の持ち物からも消され、初めからなかった町として、空間的・時間的な空白地帯として扱われることになる。町の外に住んでいた残された遺族は、消滅した人々のために悲しむことすら禁じられ、消滅に関わるすべての事柄は"穢れ"として忌避されている。そんな中で、管理局の一部と、残された何人かの遺族が力を合わせて次の町の消滅を食い止めようとする。あらすじをざっと書くならそんなストーリーだ。ネタバレになるので控えめに書くが、管理局の重要人物と、母親を消滅で無くした子供、恋人を無くした女の子、消滅からの生き残りの子供・・・、多様な人物が様々な角度から町の意思である消滅に立ち向かい、やがてその人間相関がグルリとつながって一つの輪ができあがっていく展開は読んでいて気持ちがいい。

 全体を貫くのは、"意思は受け継がれる"というシンプルなテーマ。登場人物達は先に消えた、あるいは亡くなった人達の意思を受け継ぎ、自らの心を固めることで世間から蔑まれる消滅、ひいては町との闘いを続けて行く。住人の理不尽な消滅と悲壮なまでの意思が全体を支配する割に、重苦しくなく最後まで読めてしまうのは作者独特の空気のせいだろうか。

 まぁ、正直アラが目立つ作品でもある。登場人物が多い割にページ数が少なく、いくらか取って付けられたような印象を受けるエピソードもあるし、視点も散漫になっている。複数の人物の視点による連作短編と考えるには章ごとのつながりが強すぎる(連作短編とするなら途中のどの章を切り取ってもそれ一つで短編として機能するべきだ)し、一つの長編小説として考えるには視点に統一感がない。

 おそらく、作者はもっと長い話にしたかったのではないだろうか。端々に見える中途半端に終わるエピソード達を見ていると、どうもそんな気がする。それをあまりに長すぎるとエンターテイメントして重すぎるからか、商業的な理由からか作者の気力的な理由からかは知らないが、半ば無理矢理短く詰めた、そんな印象を受ける小説だ。そういう意味では『となり町戦争』の方がまとまりはよい。

 とはいえ読んでいて面白い小説であることは確かだ。久し振りに一気に読んだ。多少センチに過ぎるきらいはあるものの、舞台設定も、最初に見せられた結論から次々と過程が示されていき、登場人物の相関が少しずつ形成されて行く展開もいい。少しずつ小説中の世界に対する疑問が氷解していく面白みにつられて退屈しない。心の中の町という概念は、村上春樹の名作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させる。『失われた町』はあそこまで内面深くは潜って行かないけれど、逆にそのより表層近い感情的な部分をフューチャーしている辺りがこの小説のわかりやすさにつながっているのかもしれない。村上春樹が海外で知られるようになって以降、アメリカの方ではエイミー・ベンダージョージ・ソウンダース等の作家を始めとする、こうした日常から少しずれた不思議な舞台設定を多用するマジカル・リアリズムともいうべき潮流が形成されつつあるそうだが、その流れを日本で体現するならこうなるんだろうなと、そういう気がする。そういえば、村上春樹の流れを汲んでいるように思える作家は日本には意外といない。


2007年1月3日水曜日

恩師の訃報

 実家からの電話で、小学校時代の恩師が亡くなられたことを知った。六年生の時の担任で、生徒はもちろん、父兄の間でも有名な、今で言うところの名物先生だった。当時既に50歳前後だったはずだが、痩身で浅黒く焼けた肌と、顔に刻まれた深いしわと気迫に満ちた目は迫力満点で、それだけで小学生を震え上がらせるに充分だった。この先生が"名物"たりえた所以はもう一つある。常に持って歩く"魔法の棒"の存在だ。僧侶が座禅の時に「喝っ!」とか言ってひっぱたく、あの棒である。それに手書きで色々な言葉を書き込んだ棒を授業中もいつも持ち歩いていて、何か悪いことをした生徒がいるとその棒でコンコン、と床を叩いてにらみつけ、「○○っ!」と名前を呼んで前に出させる。そして出てきた生徒を罪の深さに応じて、その棒でふくらはぎや尻をスパーンとひっぱたくのだ。罪が深かった時などはこれはかなり本気で痛い。時代が今ならPTA辺りから「暴力教師」として吊るし上げを喰うかもしれない。だが、私達の親の間では躾をきちんとしてくれる先生として信奉されていたようだ。

 もちろん、ただ怖いだけの先生ではなかった。特に生徒の健康には非常に気を遣う先生で、持病を持った生徒には毎日のように具合はどうかと確認していたし、私が小学校の鼓笛隊の指揮者をやる時も、当時病弱で体も学年で一、二番を争う小ささだった私に「食べて力を付けないと町まで棒振って歩けないから」と給食のおかずで一番体力付きそうなものを私に毎日分けてくれていた。鼓笛隊の指揮者は普通列の後ろの方からでも棒がよく見えるように体の大きな人がやるものだったが、私が"体の小さい指揮者"に先鞭を付けて以降、小さい指揮者も見られるようになった。私の次の代の指揮者も私に負けず劣らず体が小さい女の子だった。最初は体力のない私が指揮を振るというのはどの先生も反対したものだ(同じ理由で楽器が重いアコーディオンも却下された)。それでもやると言い張って、教師側が折れる形で実際やるとなったら後は何も言わずに「体力を付けろ」と暗に示しながら、毎日おかずを分けてくれる。そんな先生だった。

 白根市内の小学校別対抗水泳大会へ向けての練習で、真夏の学校のプールで目にした先生の姿が何故か一番記憶に残っている。歳不相応に痩せた、でも鍛えられているので貧相な感じはしない体に、白い水泳帽をかぶっている。少し、カッパに似ていた。次は、卒業式の時の緊張が一気に解きほぐれたような笑顔だろうか。無邪気に、無条件に、笑ってくれていた。

 成人式の後、小中学校の同級生が一堂に会した席で、先生を呼んでみようという話になった。私が卒業した小中学校は全学年一クラスしかない、実質的に小中一貫校なので(苦笑)、そこにいるのは皆先生の教え子だ。だが、その時はクラスの代表が先生と電話で話をしただけで姿は見せなかった。確か、その時既に体調を崩していたのではなかったろうか。結局、その後もお会いする機会のないままになってしまった。またよりによって私が帰省しない年末年始にと、少し思わなくはない。すべてがあまりに急で、お通夜にも告別式にも参列することができなかった。だからせめて、(先生は特別音楽が好きというわけではなかったけれど)モーツァルトのレクイエムを聴きながらこうして思い出を書き綴ることでせめてもの手向けとしようと思う。基本的に"先生"という人種が好きでなかった私は、その後大学に至るまで教師に敬意や親近感など持ったことはなかったが、唯一この先生だけは恩師と言える先生だった。学校という社会を通じて、何がよくて何が悪いのかを、やり方は厳しいながらも教えてくれ、頑張っていることに対しては無言で力強く応援してくれる先生だった。先生が教壇に座って、しかめ面をしながら魔法の棒で床を二回コンコン、と叩く、あの姿が懐かしい。

 大野先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2007年1月2日火曜日

2007年 元日

 今年は一身上の都合によりラッシュを忌避し、新潟にも佐賀にも帰らず、横浜で妻と二人、のんびりと過ごす正月を選択しました。ので、今年は新潟の皆さんとも新年の儀を執り行うことなく新春は過ぎて行きそうです。ほっとした方も、多いのではないでしょうか(笑)。元日の東京はよく言われるように、普段に比べて格段に人も少なく、静かで、空気も澄んでいます。いつも混んでいる川崎の新しいショッピングモール、ラゾーナでさえいつもより空いているくらいでした。たまにはこんなにのんびりした東京(正確には神奈川ですが)を体験するのも悪くはないものです。

 直接挨拶できる人は少ないですが、このHPを見てくださっている皆さん、今年もよろしくお願いいたします。忙しさの中、更新も滞りがちではありますが、それでも、皆さんの気が向いた時にいつ来ても少なくとも"こちらはまだ生きてるぞ"と、控えめな笑いをもってでも迎えられるよう、頑張っていきます。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

2007年1月1日月曜日

2006年 大晦日

 2006年もとうとう最後の日を迎えた。今年は結婚という生活の重大事を超えて、相変わらず忙しい仕事を抱えながら、なんとかかんとか新しい生活のペースを作ろうと、慣らそうと、試行錯誤していた年だった。仕事では4月以降ほぼ何もできずに終えたスランプの一年。これから、色々なことをまず整理する必要があります。公私とも、様々なことが一度に振ってきて、受け止められなかったことも多かったというのが2006年の反省点。さてさて、どうしていきましょうか。

 ともあれ皆さん、今年も色々とありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。よいお年を。