2007年11月30日金曜日

多忙と酒と

 仕事が忙しくなると酒が増える。といっても一人で好きな酒をのんびりと楽しむというスタイルがすっかり定着してしまった感があるので、別に飲み会が増えるわけではないのだが。まぁ、ある程度は仕方がないのかもしれないなと自分を正当化してみる。忙しい仕事でたまったストレスはどこかで発散しなければ、さすがにいつかは壊れてしまう。これから待ち受ける12月は、久しぶりにゾクゾクするほど忙しい。いや、・・・これはゾクゾクする。

2007年11月26日月曜日

のんびりとした三連休

 お見舞いに行き、娘を膝に乗せながら買ってきたLED ZEPPELIN『Mothership』のDVDを観て、川崎ラゾーナのアカチャンホンポとビックカメラで買い物をし、花屋に行って、ディスカウントスーパーで食料品や生活雑貨を買い出して、最後に金魚の水を換える。そんなのんびりとした三連休。晩秋らしく、キリッと冷え込む空気はあったが、おおむね秋晴れに恵まれていた。今日、金魚の水を換えながらベランダから眺めたオレンジとピンクが微妙に混ざった、直接見てもあまり目に痛くない晩秋の夕日はなかなか悪くなかった。妻と娘はぐっすりと昼寝していたけれど。最後はゆっくりとモルトを楽しみながら、明日からの戦いにまた備えるとしよう。

2007年11月17日土曜日

雑記

 徒然なるままに。

 また何かとゴチャゴチャ始まった。いい加減にしてほしいものだ。そんな国内の小さな談合やら献金やら、瑣末事にかまけていられるステージなど既に通り過ぎていることに気付かないほど無能な輩ばかりというわけでもあるまいに。全体の何パーセントにも満たない小さな問題を大きく取り扱っている間に、何十パーセント分もの大きな問題はどんどん取り返しがつかなくなっていく。一社ないしは一つの業界の瑣末事に振り回されている間に、日本経済全体の長期的な機会損失は膨らんで行く。まったく、クズ野郎どもが多すぎる。

 いいから頭を使え。仕事をしろ。そんな細かい利益はくれてやる。このままくだらない空白と下世話な処理に時が費やされて行くのなら、そう遠くない将来この国は墜ちる。アジアの三流国家に成り下がるだろう。『半島を出よ』で描かれた日本の末路は、決して非現実的なものではない。経済にも見識がある村上龍は、その辺りはわかっている。どうも最近の報道を見ていると、マスコミはこの国を潰したがっているようにしか思えない。もちろん、それをどうにもできない政治家も腐っている。政治については語らないというのが信条だが、いい加減苛ついてきた。

 そもそも頭を使うまでもなく選択の余地がない議論すらグダグダしている。どこかのゴシップ記事で見かけたことかもしれないが、福田首相は「消費税を上げずに済むだなんて思っているのか?」と言ったという。本当に彼がそう言ったかどうかの真偽はともかく、その言葉の意味するところは正しい。他にも色々と思うことはあるのだが、政治については黙せよという自身の信条故、ここまででとどめる。

 話は変わって、「mixi疲れ」という言葉が今年の現代用語の基礎知識に載ることになったという。私はmixiは余裕で二日で疲れた(爆)。かつてはICQも一週間で疲れた。今でもあの手のメッセンジャー系のソフトは入れていない。疲れるのですよ、ああいうコミュニティは。長期的に見るとどうしても。来たい時ににフラッと来て、好きなようにのぞいて飽きたら去る。コメントは残したい時だけ付ければいい。HPなんてそれでいい。メールも元々、手の空いた好きな時に見れるというのがリアルタイムを強制する電話と違ったメリットだった。今はとてもそうは思えない。ネットも村社会。結局日本人というのはそういうものなのかもしれない。

 しかし季節ものだからと思い飲んでみるが、相変わらずボジョレー・ヌーボーはあまりおいしくない。コンビニのやつなんてもはやワインとすら認めがたい。去年エノテカで買ったヤツはまぁそこそこおいしかったけど、あの値段出せばもっとおいしいワインなんていくらでもあるよなー、と素直に思う。季節ものは概してコストパフォーマンスは悪い。だから今年はエノテカではボジョレーでなく、同じ値段でもっとおいしいのを買った。結局コンビニでハーフボトルのボジョレーは買ったのだけど、飲んでみて気分を害した。敢えてどのコンビニのとは言わないけれど。

 昨日は渋谷のいつも行くバーで飲んできた。オーバンのダブルマチュード、オーヘントッシャンのスリーカスク(確かアメリカンオーク、スパニッシュ・オロロソ、ペドロヒメネスの3つの樽で寝かせたものだったと思う)、白州の原酒秘蔵モルト(蒸留所でしか手に入らないらしい)とシェリーが効いた実に優しくてでもズッシリとした旨味もある素晴らしいモルトを立て続けにいただき、最後に締めでエクスクルーシヴ・モルトの新ラベルのラフロイグをいただいてきた。このラフロイグも期待通りの強烈な香りとドライながらもしっかりした甘み・旨味が素晴らしいモルト。最初は疲れと風邪もあるので優しい口当たりのいいシェリーの効いたものを、締めにはパンチの効いたドライなアイラをという私のリクエストにしっかりと期待通り、期待以上に応えてくれるあそこのバーテンダーさんは素晴らしい。いい仕事をしている。イメージ通りのものを期待以上に。仕事とはかくありたいものだ。

2007年11月15日木曜日

多忙と風邪で

 妻と娘が帰省している間に一人の時間をゆっくり楽しもうという野望を抱いていたわけだが、ここ数日の生活はそれとは裏腹に久しぶりに多忙な仕事、久しぶりにひいた本格的な風邪のせいで割とひどくすさんでいる。バーにウィスキーを飲みに行きたいのだがなぁ・・・。

2007年11月12日月曜日

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ

 いきなりタイトルと無縁で恐縮だが、風邪を引いた。激しい喉の痛みと嫌な粘液から始まり、今は微熱と咳になっている。ちょっとしたトラブルがあったこともあり、この週末は割とドタバタしていたのだが、家で落ち着いてから、読みかけていた残りの3分の1くらいを一気に読んだ。カズオ・イシグロ、日本生まれのイギリス育ち、名前は100%日本人だが書いている小説は英語だ。そして普通の海外小説のように和訳されている。イギリスで最高の文学賞であるブッカー賞を『日の名残り』で受賞した。そこまでは知っていた。けれども、この作家の作品を読むのは今回が初めてだ。

 元々は書店(確か渋谷ビックカメラの隣の文教堂)で平積みされていて、カセットテープが一面にモノトーンで描かれている表紙に目が止まった。次にタイトルに引かれた。カズオ・イシグロもちょっと読んでみたかったんだよなと思い出したが、結局その場では買わず、後に古本屋で見つけて買ってきた。

 主人公の女性、キャシー・Hの独白の形で綴られる、この作品の語り口は静かだ。自らを優秀な介護人と自負するキャシーが、静かに仕事や、自分の幼少期を語り始めることから物語は始まる。静かで一見ありきたりだが、少女や少年の細かな心の揺れが見事に追体験できる見事な筆致に引き込まれる内、少しずつ、微妙にだが確かにどこかタガが外れた、その世界のずれが明らかになっていく。

 最初は、幼少期や青春期の挿話を交えた介護小説のようなものかと思っていた。レベッカ・ブラウンが『体の贈り物』『家庭の医学』で描いてみせたような世界だ(ちなみに、どちらの小説も素晴らしい)。だが、この『わたしを離さないで』は明らかにそれとは違う。非常に残酷な運命に振り回される少年・少女達を、その内面を精緻に生々しく描きながら、それでも全体としてはむしろ淡々と、整然と、解説の中の言葉を借りれば非常に抑制の利いた文体で、巧妙に描き出している。長編全体を通して決して焦らず、少しずつその世界を垣間見せていき、様々な挿話が見事に伏線となって絡んでいく、そのじっくりゆったりとにじり寄るようにクレッシェンド・アッチェランドをかけていくような構成が、平凡に思えるエピソードにすら不思議な緊張感と不穏な空気を持たせていた。そして少しずつ明らかになっていく悲劇的な運命に対する内面の心理の描写と全体としての距離の置き方が非常に絶妙で、それがこの小説の静かさに満ちた情感を生み出している。

 Amazonのレビューや一般の書評ではSFやミステリーといった分類も見られるが、この小説の本質はそこにはない。これは人間を描いた小説だ。運命と、人間を描いた小説だ。それも素晴らしい構成力と、叙情性を伴う叙事性を核に持った、素晴らしい小説だ。カズオ・イシグロの他の小説も読んでみたくなった。次はやはりブッカー賞受賞作『日の名残り』だろうか。


2007年11月7日水曜日

夜景に染みるKeith Jarrett

 先週末は妻の実家である佐賀に帰省していた。盆と正月は新潟に帰るということで、今の時期に佐賀へ娘を連れて帰省した訳だ。今回は妻と娘はそのまま佐賀に二週間滞在し、私は日曜に単身福岡空港経由で横浜に帰ってきた。羽田空港からウチの最寄り駅である日吉へは、三、四年ほど前から直通のリムジンバスが通っている。値段は電車で行くよりわずかばかり高くつくが、確実に座れるし、乗ってしまえば後は眠っていても羽田まで、日吉まで連れて行ってくれるので非常に楽だ。そんな訳で、この直通バスが運行を開始してからは羽田-日吉間は必ず利用している。ここ数年は公私ともに飛行機を使う機会が増えているので、年に10往復以上は使っているだろう。

 このバスは、高速道路を利用して横浜駅、みなとみらいを通過していき、横浜ベイブリッジを渡って羽田に向かう。帰りも当然同様のルートだ。羽田から日吉に戻る場合、時間帯は大体夜9時や10時になる。するとこのバスはベイブリッジからみなとみらいの夜景を堪能できる、絶好のハイウェイルートを通り抜けていく。羽田からの帰りで、密かに楽しみにしてる風景だ。

 ベイブリッジから見る夜景は、その橋の両側で極端に風景が変わる。羽田から帰る際は、右手にコスモクロックやクイーンズ・スクウェア、インターコンチネンタル・ホテル等が見渡せる、小洒落た横浜らしい都会的で静かな夜景だ。サングラスにトレンチコートを着たニューヨーカーがクールに立つように、静かにすましてそれらのみなとみらいの建物達は風景を作る。それはビルの白く冷たく明るい光と、空にポツポツと、しかし多数の輪郭を描く航空機の赤く暗い、記号的で寡黙な誘導灯、そしてアクセントのように数少なく、しかし目を引く、若い星のような青いイルミネーションの夜景だ。要するに都会的で洒落ていて、クールな夜景だ。

 一方、左手側には今度はベイブリッジよりも下の視線一面に光熱灯のオレンジ色の明かりに照らされた無数のクレーンやコンテナ、倉庫が見える。右側の都会に隠れた、ちょっと治安の悪いダウンタウンのように、少しばかり野粗な空っ風を身に纏ったように、やはりこちらも寡黙にたたずんでいる。ベイブリッジからはその両方の夜景を目にすることができる。

 その夜景に合わせて、いつの頃からだろうか、羽田をバスに乗って出る際は、必ずKeith Jarrettの『The Koln Concert』をかけるようになった。Keith Jarrettに限らずだが、ジャズには都会の夜がよく似合う。あるいは大都会でなくとも、小洒落てはいなくとも、とりあえずビルのある夜景によく似合う。演奏者や曲によって、横浜のような港町の夜景なのか、西新宿・都庁周辺のようなどこまでも無機質に礼儀正しく格調を整えたビル群の夜景なのか、それとも京都・先斗町のような雑多な音と人にあふれた夜景なのかはともかくとして、とにかくジャズはある種の都会の夜景によく似合う。よく晴れた秋の日の、爽やかな風が多少強すぎるにしても心地よい阿蘇山の原野の真ん中では、なかなかジャズを聴きたいとは思わない。とにかく、このベイブリッジから見える左右風合いの違った都会の夜景を、いつもKeith Jarrettの『The Koln Concert』を聴きながら窓越しに眺める。その音楽は、都会の夜景の美しさと冷たさ、華やかさと儚さを、いつもしんみりと引き立ててくれる。それはこう語りかけているように思える。この素晴らしく美しい壮大な景色は、僕達が作り上げた紛れもない現実であり、結晶だ。けれどもそれは同時に、怖いぐらい儚い夢でもあるんだよ、と。

 羽田を出発する際に『The Koln Concert』の再生を始めると、ちょうどPart1がクライマックスに差しかかり、音楽の中から芽生えた息吹が少しずつ大きく躍動を重ねていく中でベイブリッジを渡り、横浜駅の上を回っていくことになる。ほぼ間違いなく、そのタイミングだ。夜のハイウェイはそれほど混まない。この音楽の美しい躍動感が逆説的に語る都会の夢を後に、横浜駅の葉の裏の気孔のような形に連なったホームを最後に上からグルッと眺めて、横浜の都会的な夜景は終わりを告げる。その頃に大体時を同じくして、Part1も少々の余熱を残して演奏が終わる。後は薄暗い沈黙が居座るバスが、放っておいても律儀に事務的に日吉駅前まで送り届けてくれる。しんみりと、夜景は終わる。