2004年9月13日月曜日

ビジネスという名の宗教

 改めて、今日は軽く触れるだけに止めようと思うのだが、ビジネス、ひいては資本主義というのはやはり、ある種の宗教のようなものだと思う。それはいい意味でも悪い意味でも。結局、思想とはそういうものだからだ。それはこの現実世界における救いになるかもしれない。そしてもしかしたら、精神すら救えるかもしれない。だが、逆もまた然り。意外と意識していない人は多いようだが、ビジネスやら広い意味での資本主義とやらは、今や完全に現代最大の宗教になった。

 ある程度以上ビジネスに一生懸命な人というのはそのビジネスというプロセスそのものにあまり疑問を差し挟まない。それは仕事のやり方とか何とかいうのでなく、キャリアプランだとか仕事の美学だとか、コスト意識だとか何だとか。なるほど、常識だ。少なくともビジネスをやる以上、企業内でやっていくにしろ独立独歩でやっていくにしろ、当然考えなければやっていけないことだ。キャリアプラン、結構だ。最終的にコンサルがやりたいから今の仕事からもっと上流設計の方へシフトしないといけない、そのために必要な知識やスキルは・・・、とか考えながらセミナーを受講したり本を読んだり、普段の仕事を意識したりする。結構なことだ。費用対効果、一時間の作業でいくら、その他諸々積み上がっていくコストに対するメタ認識、それがコスト意識と呼ばれるもの。結構なことだ。

 だが、たまに不思議に思うことがある。もっと言えば、気持ち悪くなることすらある。何というか、ビジネスの世界でそういったことを意識してよくできている人であればある程、逆にビジネスの世界に捕われている気がする。ビジネスという舞台の外に視点を外すことができなくなっているような気がする。ビジネスの世界でキャリアプランを立てるのは理解できても、その外に踏み出すことは理解できない。うまく言えないのだが、金を儲けるのが当たり前、出世するのが当たり前、様々な経験や知性や感性はビジネスにつなげることが当たり前、ビジネスの世界のできる人は、どうもその段階で思考停止しているようにも思える。別にビジネスにならない要素をそのビジネスのすぐ隣で肩も触れ合わんばかりの場所で無関係にやっていてもいいだろうと、私なんかは思うのだが、どうもそういった辺りがビジネスに熱心な人にはわからないようだ。勿体ないとか何とかよく言われる。下手すればもっとこれこれこうしてこういうふうにすればビジネスにもなるのに、とかすら言われる。どうも彼らにとってはビジネスとは全てが最終的につながっていく絶対概念らしい。そしてその中で彼らはアイデンティティを確立するなり何なりして、生きることの業を消化していく。その辺りが、ビジネスは宗教だと私が感じる所以である。どちらも絶対的な真理を置くことで、それに対する信仰を置くことで、精神の救済を得ている。別に悪いことだとは言わない。少なくともビジネスという宗教はそれを精進することによって現実的に、実際的に豊かになれる。ビジネスという信仰は、またきっと心さえも豊かにできるだろう。キルケゴールのいうところの、孤独と絶望のうちに見いだす可能性というものがビジネスというものであり、それが可能性の最大級である信仰のレベルにまで至るのならば、それはそれで結構なことだ。きっと充実した人生を送れるだろうし、その弊害もほとんどない。ごく一部の人間に対してを除いては。

 ビジネスにせよ何にせよ、信仰というものの弊害は(それが実害があるにせよないにせよ)世界の固定化という面にある。要は「まずそれありき」の世界になってしまうのだ。まず「ビジネスありき」だったり「神ありき」だったりするわけだ。自然、視点も狭まるし、その固定化された世界の中でその人の常識が決まる。例えばビジネス畑の人の常識というのは、アカデミックな研究者や、そこまで行かずとも学校教員の人達から見れば、まぁおかしいとは言わないまでも多かれ少なかれ奇妙なはずで、それはまた逆も然り。でも世界が完全に固定されている人は下手したらそれにまったく気がつかない。研究はビジネスに活かされてなんぼだし、教育は将来ビジネスの役に立つものであるべきだ、となる。まぁそこまで直接的で短絡的ではないにしても。何にせよ、一つの世界に固まってしまうと他の世界の立場に立つのが難しくなるし、いくつかの世界を見比べてみることなどそもそも発想の前提から消えてしまう。だから、そのような理由でビジネスが好きになれない。宗教が好きになれないのと同じように。私は私で仕事には誇りを持っているし、美学も持っているし、収入も悪くはないし、不遜ながらお客さんのウケもいいし、社内での立場も定まってきている。別に何が悪いということはないのだけれども、ただ気持ち悪い。何の疑問もなく、目を輝かせてビジネスの中にいることに、何か違和感がある。気付かない内に、ビジネスの中でその視点に絡めとられているのではないだろうか、その世界の中だけの常識に固まってしまっているのではないだろうか、そんな恐怖がある。ビジネスという宗教は、資本主義優勢のこの時勢の基本活動だけに知らないうちにはまることも多い。決してそれが正義というわけでも真理というわけでもないのだけれど(真理という問題は語りだすと哲学的なスコラ議論にはまりがちだから避けるとしても)。

 ビジネスという言葉をLONGMAN現代英英辞典(4訂新版)でひくと、第一義として以下のように解説されている。

BUYING OR SELLING GOODS OR SERVICES - the activity of making mony by producing or buying and selling goods, or providing services.

 一言で要約すると、ビジネスとはお金を稼ぐことであると、そうなる。人生に可能性を見出し、価値を定めていく究極の形が信仰であるならば、資本主義社会においてこれを超える宗教は原理上ありえない。乱暴に言ってしまえば、資本主義における価値とはイコール金銭だ。最も単純に考えれば、最も金を持っている人間が最も価値のある人間だ。単純論理で行けばそうなる。ならまさにビジネスとは価値を生み出す信仰だということになる。ビジネスの成功者が、あるいはこれから成功してやろうという人が、ビジネスを絶対正義のように語り、すべてをそれにつなげようとするもの無理はない。ビジネスというのは絶望のうちの可能性という純粋に宗教的な信仰と、資本主義における価値、どちらも必要充分に満たせる概念だからだ。資本主義社会のシステムに組み込まれたその活動は、時にその過熱や異常性をも当事者達から見えにくくする。価値を生み出すことが悪いはずはないから。

 ・・・時には、前提を疑ってもいい。

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