2005年3月30日水曜日

期末はやはり忙しい

 毎度のことながら年度末というのはなかなか素敵に忙しい。土曜も深夜2時半まで仕事をしていたし、日曜も出社で夜まで仕事、昨日は客先からタクシーで深夜2時前に帰宅して、それから夕飯をとってそのまま朝4時半くらいまで家で仕事をしていた。今日も朝にチオビタを一本きめて、休む間もなくお仕事でした。歯医者もすっぽかしたしAmazonからの荷物も受け取れてません。せめて夜9時には家に帰れるくらいのゆとりある生活をしたいものです。

2005年3月26日土曜日

弦楽四重奏版『フーガの技法』

 バッハの晩年の名作にして未完の大作『フーガの技法』。数ある録音の中で、一番好きなのはこのエマーソン弦楽四重奏団による弦楽四重奏版だ。この演奏が曲が持つ深みや孤独を一番真摯に伝えてくれる。楽器編成も諸説あるこの曲、バッハが意図した編成が弦楽四重奏であることはないだろうけど。

2005年3月22日火曜日

ヴィラ=ロボス『エチュード1番』考

 先日きよがウチに来た際にヴィラ=ロボスのエチュード1番のアルペジオをpとiだけで弾くってのをやってました。聞くと、藤井敬吾先生が「セゴビアが付けた(んだろう)運指ではこう(pipipmiamaimpipi)だけど、作曲家としては多分こう(pipipipipipipipi)だったんじゃないかな?ほーら、一弦飛ばし、作曲家っぽいでしょ?」とのたまっておられたとのこと。で、やってみたわけですが、うん、確かにこれはこれできれいなパターンを形作る運指だし、言われりゃなるほど作曲家っぽい。ブローウェルとかがやりそうな感じです。やりそうというか、『舞踏礼賛』なんかはこのテの運指のオンパレードです。エチュード1番をひたすらpiだけで弾きながら、「う~ん、この運指が作曲家の意図だったのかなぁ?」などと思っていたわけです。でも右手の運指がここまで変わると、はっきり言ってエチュードの目的が大分変わってきますよね(爆)。アルペジオの練習としてはセゴビア(推定)運指のpipipmiamaimpipiの方が基本に忠実で効果的だと思うし、pipipipipipipipiの方は右手の縦移動とpi連打の練習、・・・なのでしょうか?・・・ま、どっちでも弾けりゃいいってことでしょう。

 でもpiだけでずっと弾き続けてると、例のディミニッシュコードでひたすら1ポジションずつ下がってきて最後Emのコードから解放を交えて12フレットまで跳躍していくヤマ場のところで右手の運指がpの連打を余儀なくされて無理が出てくるので、なんか多分この説は違うような気はしてます・・・。ま、違う練習にはなるかな。

2005年3月21日月曜日

時間が過ぎ去る現代

 時間、特に未来という概念はある程度進んだ文明に固有の概念らしい。その説を本で読んだとき、非常に意外な気がしたのと同時に、妙に納得もできた。なるほどなと。

 現在でも、一部の未開文明では言語自体に未来を意味する言葉がないし、明確な時間基準というものもなかったりする。そういったところでは、時間を表すのに「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」や「山羊や羊の搾乳の時間」といったような言葉を使う。「○○時に牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す」のではなく、「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」なのだ。日常の具体的な習慣に基づいた、具象的で汎用性に欠ける時間表減。抽象的な目盛りとしての時間はそこにはない。そもそもは、それで充分だった。人間が一つの小さな集落の中で、牧畜なり農耕なり狩猟なりのみを生業にして、他の部族との交流すらほとんどなく一つの小さな世界の中で全てが完結している原初の文明では「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」という言葉だけで用をなせたわけだ。それが他の部族と交流を持つようになってきて世界が広がってくると、例えば待ち合わせの時間を決めるのに「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」ではお互い通用しなくなってくる。片方の部族が「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」は、もう片方の部族にとって「鶏小屋を掃除している時間」かもしれない。そこで初めて汎用的に使える、抽象的な「時間」という概念が必要になってくる。そのようにして「時間」は生まれた。つまり、「時間」は元々文明の規模的発展が生んだ差異、多様性の中で必要とされて生まれてきたものなのだ。

 それだけなら別に悪いことのようには思えない。「時間」という目盛りが増えただけのこと。けれど話は実はそう単純ではなかった。抽象化された時間は、二義的に個と土着の文明との乖離を助長する。「牛舎から家畜囲いへ牛を連れ出す時間」だけで済んでいたうちは、日々はただ繰り返されるものであり、農耕のスパンである一年以上の未来を気にすることも表現することもなく、人と暮らしと土地は非常に密接な関係で結びついていた。個と社会、文明が完全に固定された世界ができあがっていた。自然も人も毎日も、すべて繰り返しの中にいるなら個が浮くことはない。アイデンティティの喪失など問題になることもない。ところが文明が広がり、多様性が生まれ、差異が拡大してくると、時間はただ繰り返すものではなく、流れていくものに変わっていく。流れ、過ぎ去っていくもの。それは実は記録可能な目盛りとしての役割を果たす抽象的な時間という概念と、流れを生み出すほどの文明的多様性の存在によって初めて生まれる概念だ。繰り返し、過去が蓄積する、あるいは過去が再生すると考えられていた時間から、流れ、過ぎ去っていく時間へ。文明の広がりが見せた多様性は、そうした悲劇的な時間感覚を生み、密だった文明から切り離された個はアイデンティティを小さな個自身の中に求めていかなくてはならなくなる。それはよかったのか悪かったのか。

 すべてが繰り返すのなら、未来を見通す必要などなかった。「このままでいる」からだ。10年後も、50年後も。自分が死んでも、また次の世代が同じことを繰り返すだろう。ところが抽象的な時間を必要とするまでに発展した文明は、同時に未来も必要とした。もう時間は繰り返さないし再生しないからだ。多様性と差異の荒海で、10年後どころか5年後も確実なものは何もわからないようになった。不確かな未来は、個のアイデンティティの基盤を脆くしていく。流れ、過ぎ去る時間は何も残していってくれはしない。だから未来を見なければいけなくなる。未来はある種、現在や過去から切り離された足場の弱い個が夢見なければならない幻想として始まった。

 矛盾した言い方ではあるけれど、時間が流れ始めてからもう随分と時間が経っている。進む多様化は、さらに個を社会から切り離すし、過ぎ去っていく時間はいよいよもって何も残してもくれないし持っていってもくれない。多様化が進めば進むほど時の流れは速くなっていき、個は未来が見えにくくなる。そしてそうなればそうなるほど、過去が繰り返し再生することは多様化にかき消されてなくなっていき、より一層時間は何も残さず流れるようになる。消えていく過去にはすがれないから、結局未来を夢見るしかないけれど、その未来はもう見えない。時の流れの悪循環。抽象的な時間がただ流れていくだけの世界。現代ではもう個はボロボロになって悲鳴を上げているようにも思える。

 果たして暮らしに根付いた具象的な時間を取り戻すことは可能なのだろうか。

2005年3月14日月曜日

2005年3月11日金曜日

晴れの舞台

 久しぶりに学生時代の写真なんか眺めてみてふっと思ったのですが、社会人になって仕事をやってると実は意外と「晴れの舞台」ってないものです。いや、もちろん仕事の区切りというものはありますし、ある程度大きなシステムのカットオーバーを無事に済ませるとそれなりの充実感や打ち上げなんかもあったりしますが、なんというか「晴れの舞台」ってないのです。定演の写真とか見てるとまぁ、文字通りの「晴れの舞台」で、そこに向かって積み上げてきたものをちょっとおめかししたりなんかして人前で発表して写真に写って。社会人になって舞台は学生時代よりずっと広くなったはずだし実際そうなのに、何故か「晴れの」という気があまりしないのです。単純に写真を撮らないから?オーディエンスがいないから?うん、そうなのかもしれません。見えないところでシステムを使ってくれているユーザーより、直接目の前で演奏を聴いてくれる観客の方がわかりやすい。人の目を意識することで「晴れの」という感覚が生まれてくる。よくも悪くもです。それは逆説的には、私はステージでギターを弾いているときほどにはシステムを使うユーザーのことを意識していないということでもあるのです。まったく無礼な話。結局は自意識の問題でしょうか。

2005年3月7日月曜日

菱娘

 色々なことがあったような、でも何もなかったような、そんな不思議な気はするけれど、とりあえず『菱娘』は確かに凄くスッキリしてて飲みやすいことこの上ない焼酎でした。後味にほんのり澱粉の甘みが残って余韻が続くのがミソ。それがまた決してくどくはないのです。菱って何かすら、知らなかったのですが。

2005年3月3日木曜日

間違ってるけど

 電車があるうちに帰れると「今日は早いな」とウキウキできるようになってきました。