2006年10月30日月曜日

祖父からの電話

 夕方、16時半くらいだろうか。実家から電話がかかってきた。いつものパターンだと9割方は母からなので、そのつもりで電話に出てみると、実際は電話の向こうで話していたのは祖父だった。TVを観ていたら佐賀の有明海に天皇陛下が訪問されたというニュースが流れていて、それで何となく電話をかけてみたらしい。私の妻は佐賀出身だ。そうでなければ、佐賀のニュースなんて気にもとめなかったんだけど、とは祖父の談だ。本当に、特に用事があるわけではない、それだけの世間話の電話。何となく、不思議な感じがした。

 祖父がこのように自分から電話をかけてくることは滅多にない。もしかしたら、今回が実家を出て以来初めてだったかもしれない。だからこそ、不思議な感じがしたのだろう。昨晩から一緒に暮らしている父と母は出かけていたそうで、もしかしたら祖母も出かけていて、話し相手がほしかったのかもしれない。まぁでもそれでも、そのくらいのことで電話をかけてくる人ではない。

 うまくは言えないが、こういったこともある種の縁なのかもしれない。私が妻と結婚して、その妻が佐賀出身でなければ、今日のその天皇陛下の佐賀訪問のニュースはきっと祖父の耳には聞き流されていたことだろう。祖父の世代の新潟県民にとって、佐賀は関心事とするにはあまりに遠い。それが今はこうして佐賀のニュースを聞く度に関心を寄せるようになり、それが一つの行動を起こさせるくらいにまでなった。それは実は結構、大変なことだ。本当に、これまで祖父から直接電話をもらったことなどほとんどないのだから。そして何故だろう、私は今日のこのことを、ずっと覚えていなければいけないような気がするのだ。それはつながりの、証として。

2006年10月28日土曜日

無題

 随分、長い間を空けてしまった。忙しかったこともある。考えていたこともある。単純に、書きたくなかったということもある。この世界はおかしい。資本主義の気持ち悪さ、世を支配する一神教の原理、そのアンバランスさは、その原理が前提となった今となっては実はあまり気付かれない。中沢新一に言わせると、それらの原理は意識・無意識の在り方や、ひいては自と他の関係の在り方に根本的な歪みをもたらす。人は、心の成り立ちのレベルで今の世の在り方のようにはできていない。

 否定することは簡単だ。実際、否定はしている。ただし、それとこれとは別問題だ。外に出てわかることもあれば、中でしかわからないこともある。離れることも勇気なら、留まることもまた勇気だ。ただし、留まる以上は踊らねばならない。踊らされる前に、自ら進んで踊らなければいけない。踊らされるな、自ら踊れ。周りが見とれてしまうほど。単純な話は、実は何よりも難しい。

2006年10月16日月曜日

無題

 書きたいことはあれど、情報や考察が足りずに文章にできないとか、そもそも書く気力がなかなか湧いてこないとか、色々とある。過去にもスランプは何度かあったが、今度のは割ときつい。語るべきものが中にあっても、それは表に出てこない。上っ面だけでも言葉を並べようとする前に、キーボードに向かうことに挫折する。横になって、気づけば朝だ。それでも会社には定時に出て行く。何かが、違う。社会的には、正しいのだが。

2006年10月9日月曜日

北原白秋『落葉松』(水墨集より)、そして『働きマン』

 一
 
 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

 二
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。
 三
 
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。
 四
 
 からまつの林の道は、
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。
 五
 
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。
 六
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。
 七
 
 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつの濡るるのみなる。
 八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なれどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。


 『働きマン』というマンガを読んだ。以前深夜にTVを観ていたら(まぁ私がTVを観るのは大抵深夜0時過ぎではあるのだが)、このマンガがアニメ化されるというのでその特集をやっていて、それを見てちょっと気になっていたのだ。この週末、歯医者の帰りに古本屋に寄ったら売っていたので一つ所望した。

 この『働きマン』というマンガもさすが最近レベルの高いモーニング誌の中でも不定期連載という立場でありながら話題をさらっているだけあって非常に面白い。また、働くということについて色々な角度から、色々なキャラクターから眺めているので、一応人並みに働いている身としてはなかなか考えさせられることも多い。これは基本1話か2話で一本のストーリーが完結し、ストーリーごとに色々な人物に焦点を当てて、様々な視点から仕事を切り取るという手法がなせる技だろう。この『働きマン』についてはこれはこれでまた別途書きたいところではあるのだが、実はこのマンガを読んで一番心に響いたのが、作中で引用されているこの北原白秋の『落葉松』(←「からまつ」と読む)。実に、静かで、それでいて侘び寂びがあり、それでいながら沈みきっていくのではなくふっと前を見て進んでいく前向きさも感じられる、非常に美しい詩だと思った。作中の引用は抜粋だったので、すぐにネットで全文を検索して調べてみた。便利な世の中になったものだ。

 作中では自分ではこだわりをもって仕事をやっているつもりなのに、なかなか周囲とはずれて理解されない中年(だろう)男性との比較描写で使われる。

からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

 というわけだ。仕事をしていると(特に多忙きわまりない時に)ときたま感じる寂しさや侘びしさに近い感情を、この描写は間接的ではあるがなるほど非常に見事に描写している。そしてまぁ色々とすったもんだあるわけだが、最後にこの物語は、そして北原白秋は、こう締めるわけだ。

世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 実に、美しい。「さびさびといそぐ道」の先の、希望が見えてくる。

 余談ではあるがこの『働きマン』、アニメ版のテーマソングはユニコーンの名曲『働く男』のPUFFYによるカバー版だそうだ。この選曲もなるほど、絶妙である。


2006年10月8日日曜日

さて、

 今日は久し振りに本当に予定のない、純粋に空白の日曜日。さて、何をしよう?何もしないのも、たまには一興かもしれないが。

2006年10月6日金曜日

裏返し

 「美しい国」というのは、逆から読むと「憎いし苦痛」になるそうだ。まぁだからどうというわけではないけど、面白いね。