2006年9月25日月曜日

横浜軽自動車生活

 横浜の道をスズキのアルトで走ることにも、もう大分なれてきた。初めての道でも、まぁ何とかいけるものだ。駐車場がイチイチ満車だったりわかりにくかったりと入れづらいのが都会の難点ではあるが。やはり車はあればあったで便利なものよ。

2006年9月23日土曜日

作らなければ壊せないが

 チベット仏教の僧侶たちはしばしば砂マンダラを作ります。色の付いた砂を少しずつ落としていってマンダラを描いていくのですが、彼らは、作った後で壊すことがわかっていて作るのです。マンダラの儀礼では、完成したマンダラを壊すということが儀礼の中に組み込まれています。自分たちが作っているものが無に帰すことがあるということを知りつつも僧たちは作ります。

 それと同じように、自分の歩みが、必ず否定される時が来るのだということを含みながらする、それが哲学であり、神学なのです。では初めから何も作らなければよいではないか、と思われるかもしれません。そうではないのです。作らなければ壊せないのです。壊すために作るかというと、そうでもないのです。われわれが生きていくということは結局そのようなことではないでしょうか。

立川武蔵著『聖なるもの俗なるもの』講談社選書メチエより


2006年9月18日月曜日

夜、池袋へ

 今日はきよとのざてっちゃんが東京に出てきていました。会おうと話をしていたのですが、仕事が入ってしまってしかもなかなか区切りがつかず、やっと終わったのが21時過ぎ。今回は一日自宅で作業をしていて、二人が飲んでいる場所は池袋。「・・・順調にいって一時間ってところかな。23時前には着けるだろう。よし、一時間は飲める!」と家を飛び出しました。

 21時40分のバスに乗り日吉駅へ。21時49分の電車で渋谷へ。渋谷に着いたのは22時10分過ぎでした。渋谷から池袋に出る手段は大きく2つ。山手線で地道に行くか、埼京線/湘南新宿ラインで一気に行くかです。前者は確実だが時間がかかり、後者は新宿→池袋と一気に行けるので早いが本数が少ない。おまけにホームが遠い!「とりあえず、JRの乗り場に行って確認だな」ということでJRに向かいます。すると22時16分に埼京線が。あと2分です。・・・走りました。おかげで22時半という奇跡的に早い時間に池袋に到着できたとのことです。

 しかしまぁ、特別な何かがあるわけでもゆっくりと深い話をするでなくても、やはり心の許せる友人と話すということはいいものです。今回はわずか一時間半ばかりの短い時間でしたが楽しかったです。

 話は変わりますが、日中家で仕事をしながら、部屋では何故かずっと小さな音量でNHKが流れていたわけですが(単に消すのが面倒だっただけという説が有力)、そこで新潟の民謡特集みたいなのをやってました。有名なのから聴いたことないのまで、新潟の民謡と一口に言っても色々です。驚いたのが三条にも囃子歌があったこと。しかも結構ビートの効いたヤツ。いやー、初めて知りました。っていうかその歌の中では三条の名物は凧になってました。・・・それは白根じゃね?

 またまた話は変わって今度は京都の三条。『三条あかり景色』なるものをやっているらしいですね。"れんが造りの近代建築や町家が並ぶ京都の中心部を、映像と光で演出する"イベントで、京都文化博物館別館や三条大橋、中京郵便局がCGアニメーションや色とりどりのイルミネーションでライトアップされているとか。個人的にはそうした歴史的な風情のある景観を小手先のテクノロジーでどうこうしようというのは邪道なようにも思えるのですが、如何せん実際に見ていないので何とも言えません。誰か、見た人がいたら感想を教えてください。

2006年9月17日日曜日

気づけば、朝

 最近は夜不意に眠ってしまって明け方や下手すれば朝に気づくということが多くなってきている。特にここ二日間はひどい。一昨日はウィスキーを飲もうと思ってグラスまで用意したのに、結局そこにウィスキーを注ぐことすらなく眠りに落ちてしまったし、昨日はいつの間にか眠っていて、せっかく風呂を入れたのに入らないまま朝までグッスリだった。そして今朝起きてこの日記を書いている。どうにも、疲れているのだろうか・・・。

2006年9月10日日曜日

意識と無意識と心の本性、断片

 心の本質は意識か無意識か。人間にだけあって他の動物にはない"心"の本質は意識にあるのか無意識にあるのか。なんとなく、普段僕らは意識を"心"の本性ととらえている。意識を人間の特権と考えている。もしかしたら、違うのかもしれない。一つ言えることは、僕らの心には、あるいは僕らの認識には、あらゆるものの中に相同性・類似性を見つけ"YES"と言おうとする論理と、あらゆるものの中に差異を見つけて"NO"と言おうとする論理、その2つが存在するということ。前者が無意識なら、後者が意識なのかもしれない。

2006年9月7日木曜日

LES FORTS DE LATOUR 2002

 レ・フォール・ド・ラトゥール 2002年もの。これは個人的なお祝いだ。今朝から世間を騒がせている話題とは別物の、ごく私的なお祝いだ。ボルドー一級シャトーのセカンドワイン。香りも味も、とにかく濃い。ワインがずしりと胃に落ちていくのを感じる。後味に長く、長く残り続けるスパイシーな余韻が印象的だ。ワインは正直詳しくない。ボルドー一級シャトーのワインを飲むのなんて(例えそれがセカンドといえど)初めてだ。これがいいワインというものなのかと、ある意味での衝撃を感じながら飲んでいた。これまで飲んでいたワインがまるで水のよう。非常に濃い密度の中に、様々な香りと味がトロンと融合して沈んでいる。そしてそれらが重々しく胃の中にまた沈んでいく。イエス・キリストは最後の晩餐にて「このワインは私の血」と例えたという。きっとそれはいいワインだったことだろう。その重々しさは、確かにまるで濃い血のようだった。その後の受難を語るに足る、重々しさだった。


2006年9月4日月曜日

横浜散歩

 家を夕方6時過ぎに出て、みなとみらいの方へ遊びに行ってきました。目的地はとりあえず港の見える丘公園。横浜の夕暮れを楽しもうという企画ではあったのですが、到着した7時には既に夕暮れは遥か向こう、立派に夜景になっていました(苦笑)。いやー、もう日も短くなったものです。とはいえそこは夜景でも好スポットとして有名な港の見える丘公園。きっちりと横浜ベイブリッジを中心として広がる夜景を堪能させていただきました。

 横浜の夜景は大雑把に2つのエリアにスポットが分かれます。一つはベイブリッジを中心とする白い灯に浮かび上がる大桟橋の下に、浜の倉庫や工場のオレンジ色の光が広がっていく地帯。もう一つはコスモクロックを中心に広がる、白い灯と都会的な輪郭に華やかなネオンが輝くみなとみらいの辺り。どちらも横浜ならではの規模の大きさでなかなか素敵です。横浜の夜景の特徴はやはりその都会的でクールなフォルムと、とにかく平面的に広がっていく灯の分布でしょう。比較的上の方まで灯が来る長崎の夜景とはそこが違います。広い港に平面的に広がる都会の夜景です。

 今日は他に中華街と山下公園にも行ってきたのですが、個人的には横浜の夜景は港の見える丘公園の高い所から見るベイブリッジより、山下公園で海の水面の高さから見る、左手にコスモクロックやクイーンズスクエア、右手にベイブリッジが見えて中央には海が広がる、あの景色の方が好きだなと思います。まぁ夜の山下公園なんてならず者のカップルだらけですが・・・。


2006年9月3日日曜日

夏から秋へ

 空を見たら、もう青空に浮かぶ雲が随分と高く、繊細になっていた。青空高くに浮かぶ鰯雲。真夏のような深紅でなく、淡いピンク色に控えめに空や雲を染めていく夕陽。今年の夏も、もう終わる。いいでもなく、悪いでもなく、季節は変わる。

 四季の変わり目で、夏から秋への移ろいが一番哀しい。夏が終わって秋が来ていることに気が付くのは、毎年空の高さを見てだ。夏がもう終わりに来ていることに気が付くのは、いつも妙に哀しい。春から夏へは、新緑とその木々や葉を照らし、輝かせる太陽の日差しで気付く。この変化はすがすがしく、また少しだけ浮ついた胸騒ぎがする。秋から冬へは、雪が降る一歩手前の、ピンと張りつめた澄んだ緊張感のある空気で気が付く。この変化は哀しいでもなく、嬉しいでもなく、少し雪が懐かしく、同時に逆に身が引き締まる思いもする。冬から春への変化は、開きかけた桜の花に注ぐ柔らかな陽光。また、春が来るかと少し優しい気持ちになれる。

 そう思いを巡らすに、やはり夏から秋への移ろいは他とは違う独特の哀愁がある。『秋に想う』ではそれを"過去の亡霊"と表現した。それは今も当たっているのか。一つの頂点が終わり、終焉に向かっていく。そして終焉からまた新たな始まりが生まれ、頂点に向かっていき、達したところでまた果てる。四季が織りなす永遠のパッサカリア。四季という主題に基づく一つのバリエーションが、また今年も終わりを告げようとしている。