2006年11月3日金曜日

デイヴィッド・ラッセル@東京文化会館小ホール

 というわけで行ってまいりました、ラッセルのコンサートです。私が最も敬愛するクラシック・ギタリストの一人、デイヴィッド・ラッセル。見逃すわけにはいきません。元々David Russellのカナ表記は"デビッド・ラッセル"にしていたのですが、パンフに合わせて今回から"デヴィッド・ラッセル"に変えます(?)。今日のコンサートに確実に行くために、会社は一日休みまで取りました!いや、下手に定時退社とか考えてると逃げられない電話がかかってきたり、いきなり急な仕事が入ってきたりする危険性があるので、確実に観るためには休むしかないという・・・。そもそもクラシック・ギターのコンサートに行くこと自体実は相当久し振り。そりゃ気合いも入ろうってもんです。

 今回の会場は東京文化会館小ホール。前回はトッパンホールだったので、会場のランクは一気に上がっています。トッパンホール、ギター独奏は非常によく響くいいホールなのであそこはあそこでいいと思うのですが。とはいえ今回の東京文化会館小ホールも昔から独奏楽器の演奏では東京有数の響きの良さを持つと定評のある伝統・格式のある場所。以前福田進一のデビュー20周年記念リサイタルの際もここに来ましたが、確かにギターも非常に綺麗に鳴る箱です。この会場変更は、きっと彼のCD『Aire Latino』がクラシック器楽ソロ部門でグラミー賞を受賞した故でもあるのでしょう。ランクアップです。

 ジュリアーニの『大序曲』から始まる今回のコンサート、一曲目からいきなり楽しみです。人身事故で山手線と京浜東北線が遅延しているとかで10分押しで始まりました。『大序曲』と言えば私がクラギタに入ったばかりの1回生の頃、きよと京都アスニーに尚永ギター教室の発表会を見に行った際に京大の聖帝が弾いていた曲です。その演奏を聴いて受けた衝撃は計り知れませんでした。私がまだタルレガ教則本の初めの段階で苦戦していた当時、こんな曲をこんなに見事に弾いてみせる同回生は何者かと。それ以来、私の中では密かに聖帝のテーマ曲はこの『大序曲』になったとのことです。ちなみにその数年後に本人に訊いてみたところ、「大序曲?あーまぁ得意のうちやなぁ」という実に淡白なお返事をいただいたとのことです(笑)。

 というわけでラッセルの『大序曲』です。正直、これがどうもイマイチだったのです。なんか音も全然響いてこなくてか細いし、持ち前の透明感のある音色も生きてません。何よりも曲の解釈が全然気に入らなかった(笑)。『plays Bach』の中のシャコンヌを聴いた際も思ったことですが、どうも彼はたまに揺らす必要のないところでテンポを揺らして、それが結果として音楽の軸をずらしてしまうことがあるように感じます。今回の『大序曲』も妙なところで不自然にテンポを落としたりして揺らされるせいで、この曲特有の華やかな疾走感が失われてしまっていて好きじゃありませんでしたね。この曲はテンポを揺らすことで情感を表現しようとするよりは、そこは音色と強弱だけにまかせて基本インテンポでキッチリ弾ききった方がいいように思うのですが。前回は一曲目の『悪魔の奇想曲』から一気に引き込んでくれたラッセルですが、今回は出だしイマイチのようです。

 とはいえそこはさすがラッセル、2曲目のJ.S.Bachの『無伴奏フルート・パルティータ イ短調 BWV1013』ではいきなり音の出もよくなって、和音の透き通った美しい響きも、単音の暖かく優しい音色も、天井が非常に高い東京文化会館小ホールの空間全体に鳴り始めるのです。そして前半最後のグラナドスの『詩的ワルツ集』と、プログラムには載ってないけれど急遽演奏してくれたメルツの『ハンガリー幻想曲』。これらの2曲が最高でした。『詩的ワルツ集』はCD『Reflections Of Spain』内でも素晴らしい音色と演奏を聴かせてくれていて、今回のコンサートでは前々から楽しみにしていた曲目です。いやー、よかった。最初の入りの和音が生で聴くとCD以上に実に美しい。ラッセルの和音はまるで鳴った瞬間にきらめき、瞬いているかのよう。暖かく、優しくなめらかな単音の旋律が、和音の旋律に変わった瞬間に音が本当にきらめいているように感じる。ただ音が複数同時に鳴っているのではなく、ただ響いているのでもなく、複数の音がお互いを昇華させながら一つになっているイメージ。ラッセルのこの和音の響きの美しさはどこからくるのでしょう?他のギタリストでは決して出せないラッセル最大の魅力はまさにそこにあると思います。

 前半最後に急遽演奏された『ハンガリー幻想曲』、これがまたよかった。きらびやかな星のようなイメージの『詩的ワルツ集』での和音の音色とは打って変わった、重厚で地面に沈み込むような和音で入り、最後テンポを上げて疾走していくところではもう観客をしっかりとリズムに引き込んで気持ちよく引っ張っていく。個人的には山手線・京浜東北線の遅れのせいで曲の合間合間に毎回大量の人がホール内に入ってくるような状況だったので、最初の曲目を聴き逃した多数の観客のために一曲弾いてくれたのかなと思っているのですが、何にせよこの『ハンガリー幻想曲』を聴けたのはよかった。実に素晴らしい演奏でした。やはりラッセルには19世紀の曲はよく似合います。

 そして後半、ダウランドの小品を4曲から始まり、ソーホの『5つのヴェネズエラ小品』に至るまで、しっかりとホールをその演奏で包んでくれました。ちょっとダウランド、4曲目の最後終わる時に弦がヴィィィィン・・・とか鳴ってしまって観客共々苦笑いなんていう場面もありましたが。アントニオ・ラウロの師であるソーホのこの小品集はジョン・ウィリアムズが『エル・ディアブロ・スエルト』に収録している曲です。リズム感を心地よく感じられるジョンの演奏もよいですが、情感溢れるラッセルの演奏もまたよかったです。

 アンコールは3曲。一曲目はシンプルな旋律でラッセルの美しい音色を堪能できる非常に素晴らしいスペイン風の小品だったのですが、これがなんと曲名がわからない(苦笑)。とてもいい曲だったので、誰か曲名教えてください。グラナドスかなー、もしかしたら『献辞』かなー、と思って聴いていたのですが、後で『献辞』を聴いてみたら違ってた・・・。後はマラッツの『スペイン・セレナータ』、そしてアンコール止めはバリオスの『最後のトレモロ』。2回生の頃自分でも弾いた大好きな曲ですが、ラッセルの『最後のトレモロ』はトレモロが歌う旋律が非常に美しく情緒にあふれていて、思わず目を閉じて聴きいってしまうほどに素晴らしかったです。終演後もしばらく続く感動の余韻は、久し振りのギターコンサートのせいもあり相当心地よかったとのことです。いやー、よいですね、やっぱり。


2006年10月30日月曜日

祖父からの電話

 夕方、16時半くらいだろうか。実家から電話がかかってきた。いつものパターンだと9割方は母からなので、そのつもりで電話に出てみると、実際は電話の向こうで話していたのは祖父だった。TVを観ていたら佐賀の有明海に天皇陛下が訪問されたというニュースが流れていて、それで何となく電話をかけてみたらしい。私の妻は佐賀出身だ。そうでなければ、佐賀のニュースなんて気にもとめなかったんだけど、とは祖父の談だ。本当に、特に用事があるわけではない、それだけの世間話の電話。何となく、不思議な感じがした。

 祖父がこのように自分から電話をかけてくることは滅多にない。もしかしたら、今回が実家を出て以来初めてだったかもしれない。だからこそ、不思議な感じがしたのだろう。昨晩から一緒に暮らしている父と母は出かけていたそうで、もしかしたら祖母も出かけていて、話し相手がほしかったのかもしれない。まぁでもそれでも、そのくらいのことで電話をかけてくる人ではない。

 うまくは言えないが、こういったこともある種の縁なのかもしれない。私が妻と結婚して、その妻が佐賀出身でなければ、今日のその天皇陛下の佐賀訪問のニュースはきっと祖父の耳には聞き流されていたことだろう。祖父の世代の新潟県民にとって、佐賀は関心事とするにはあまりに遠い。それが今はこうして佐賀のニュースを聞く度に関心を寄せるようになり、それが一つの行動を起こさせるくらいにまでなった。それは実は結構、大変なことだ。本当に、これまで祖父から直接電話をもらったことなどほとんどないのだから。そして何故だろう、私は今日のこのことを、ずっと覚えていなければいけないような気がするのだ。それはつながりの、証として。

2006年10月28日土曜日

無題

 随分、長い間を空けてしまった。忙しかったこともある。考えていたこともある。単純に、書きたくなかったということもある。この世界はおかしい。資本主義の気持ち悪さ、世を支配する一神教の原理、そのアンバランスさは、その原理が前提となった今となっては実はあまり気付かれない。中沢新一に言わせると、それらの原理は意識・無意識の在り方や、ひいては自と他の関係の在り方に根本的な歪みをもたらす。人は、心の成り立ちのレベルで今の世の在り方のようにはできていない。

 否定することは簡単だ。実際、否定はしている。ただし、それとこれとは別問題だ。外に出てわかることもあれば、中でしかわからないこともある。離れることも勇気なら、留まることもまた勇気だ。ただし、留まる以上は踊らねばならない。踊らされる前に、自ら進んで踊らなければいけない。踊らされるな、自ら踊れ。周りが見とれてしまうほど。単純な話は、実は何よりも難しい。

2006年10月16日月曜日

無題

 書きたいことはあれど、情報や考察が足りずに文章にできないとか、そもそも書く気力がなかなか湧いてこないとか、色々とある。過去にもスランプは何度かあったが、今度のは割ときつい。語るべきものが中にあっても、それは表に出てこない。上っ面だけでも言葉を並べようとする前に、キーボードに向かうことに挫折する。横になって、気づけば朝だ。それでも会社には定時に出て行く。何かが、違う。社会的には、正しいのだが。

2006年10月9日月曜日

北原白秋『落葉松』(水墨集より)、そして『働きマン』

 一
 
 からまつの林を過ぎて、
 からまつをしみじみと見き。
 からまつはさびしかりけり。
 たびゆくはさびしかりけり。

 二
 からまつの林を出でて、
 からまつの林に入りぬ。
 からまつの林に入りて、
 また細く道はつづけり。
 三
 
 からまつの林の奥も
 わが通る道はありけり。
 霧雨のかかる道なり。
 山風のかよふ道なり。
 四
 
 からまつの林の道は、
 われのみか、ひともかよひぬ。
 ほそぼそと通ふ道なり。
 さびさびといそぐ道なり。
 五
 
 からまつの林を過ぎて、
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 からまつはさびしかりけり、
 からまつとささやきにけり。
 六
 からまつの林を出でて、
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 からまつのまたそのうへに。
 七
 
 からまつの林の雨は
 さびしけどいよよしづけし。
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 からまつの濡るるのみなる。
 八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 常なれどうれしかりけり。
 山川に山がはの音、
 からまつにからまつのかぜ。


 『働きマン』というマンガを読んだ。以前深夜にTVを観ていたら(まぁ私がTVを観るのは大抵深夜0時過ぎではあるのだが)、このマンガがアニメ化されるというのでその特集をやっていて、それを見てちょっと気になっていたのだ。この週末、歯医者の帰りに古本屋に寄ったら売っていたので一つ所望した。

 この『働きマン』というマンガもさすが最近レベルの高いモーニング誌の中でも不定期連載という立場でありながら話題をさらっているだけあって非常に面白い。また、働くということについて色々な角度から、色々なキャラクターから眺めているので、一応人並みに働いている身としてはなかなか考えさせられることも多い。これは基本1話か2話で一本のストーリーが完結し、ストーリーごとに色々な人物に焦点を当てて、様々な視点から仕事を切り取るという手法がなせる技だろう。この『働きマン』についてはこれはこれでまた別途書きたいところではあるのだが、実はこのマンガを読んで一番心に響いたのが、作中で引用されているこの北原白秋の『落葉松』(←「からまつ」と読む)。実に、静かで、それでいて侘び寂びがあり、それでいながら沈みきっていくのではなくふっと前を見て進んでいく前向きさも感じられる、非常に美しい詩だと思った。作中の引用は抜粋だったので、すぐにネットで全文を検索して調べてみた。便利な世の中になったものだ。

 作中では自分ではこだわりをもって仕事をやっているつもりなのに、なかなか周囲とはずれて理解されない中年(だろう)男性との比較描写で使われる。

からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

 というわけだ。仕事をしていると(特に多忙きわまりない時に)ときたま感じる寂しさや侘びしさに近い感情を、この描写は間接的ではあるがなるほど非常に見事に描写している。そしてまぁ色々とすったもんだあるわけだが、最後にこの物語は、そして北原白秋は、こう締めるわけだ。

世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 実に、美しい。「さびさびといそぐ道」の先の、希望が見えてくる。

 余談ではあるがこの『働きマン』、アニメ版のテーマソングはユニコーンの名曲『働く男』のPUFFYによるカバー版だそうだ。この選曲もなるほど、絶妙である。


2006年10月8日日曜日

さて、

 今日は久し振りに本当に予定のない、純粋に空白の日曜日。さて、何をしよう?何もしないのも、たまには一興かもしれないが。

2006年10月6日金曜日

裏返し

 「美しい国」というのは、逆から読むと「憎いし苦痛」になるそうだ。まぁだからどうというわけではないけど、面白いね。