2012年3月19日月曜日

にいがた酒の陣 2012

 というわけで行ってまいりました、にいがた酒の陣2012。新潟県内90の酒蔵が朱鷺メッセに集い、試飲料2000円のみで各蔵自信の銘柄を複数飲むことができる酒飲み垂涎のイベント。昨年・一昨年は店の展示会とかぶり、なおかつ昨年は震災のため開催中止となったため、私クラスの酒好きが新潟に戻ってきたにも関わらず、今回が初参加となります。酒の陣会場ではたくさんの銘柄を飲んだので正直全部は覚えていないのですが、普段飲んでいるお気に入り(久須美酒造や緑川酒造等)、プレイベントで発掘した雪椿酒造の『越乃雪椿』の他に、特に印象に残ったものをいくつか。

 やはりさすがと感じたのは雪中梅。新潟としては甘口な高級酒として有名な銘柄でもありますが、上品な甘みと飲みやすさ、飲みごたえ、全てを満たしており、これだけたくさんの銘柄を飲んだ中でも味が映えておりました。越後伝衛門の『純米吟醸生酒あらばしり』等も酸味がありフルーティーな味わいがなかなか新鮮でした。そしてダークホースが三条・福顔酒造の『ウイスキー樽で熟 成させた日本酒』。たくさん飲んだ上に酔っぱらってしまいよく覚えていませんが、とにかくこれが美味しかったのだけは覚えております(笑)。

 10万人を超える動員があったらしいにいがた酒の陣2012、人ゴミも凄まじかったですが、あそこはまさに酒飲みのユートピアでした。また来年も行きたいものです(笑)。

2012年2月29日水曜日

2・29の日記

 まだ朝だが、今日は日記を書こうと思う。それは日記じゃないんじゃないかというツッコミもあるだろうが、とにかく日記だ。せっかく4年に一度のうるう年、2月29日があるのだから、その日付の日記を残さないわけにはいかないというのがその理由だ。だから最近のツイート履歴の中から、「私にとって哲学とは」を語ったものを補足しながら書いてみよう。

 哲学とは何かと問われたら、世の中の具象的なあれこれの中から普遍性の高い抽象的な真実を探す試みだと答える。抽象的であることは曖昧であることではない。物事の外延を広げ、内包を狭めて論理を汎用化・普遍化すること。言いかえれば純粋性の抽出であり、その抽出のための過程が哲学となる。

 例えば雪と白米と白紙について考えてみよう。これらは雪、白米、白紙である限りそれぞれ別個の異なるものだ。それらの内包を見ていくと雪は白く、冷たく、空から降るものだし、白米は白く、穀物であり食物で、炊くことによって食べることができるし、白紙は白く、薄く、ペンや鉛筆で何かをそこに書くことができる。外延を見る限りは雪は雪であり、中にぼた雪や粉雪は含むが、白米や白紙は含まない。白紙も普通紙、和紙、コピー用紙は含むが雪や白米は含まない。そういうことだ。だが、ここから「白い」という抽象概念を抜き出すと、その「白い」という概念はどうなるだろうか。外延は一気に広がる。「白い」という概念は雪も白米も白紙も内包できる外延を持つ。が、「白い」という概念の内包はとても少ない。白いからと言って何かができるわけではない。他の色に染まりやすい、等が内包になる。外延を広げて内包を狭めた抽象概念を取り出すとはそういうことだ。

 この例えは単純なモノだったが、これを自身の体験や見聞きした事象・論理に対して行うことが哲学なのではないだろうか。一見つながりがないように見える様々な体験・事象・論理から、余計な内包を捨象して外延を広めていった結果見つかる、抽象化された真実。それを探る試みが哲学なのではないだろうか。

 だから「哲学なんて役に立たない」という言い分には反論できる。哲学によって抽出された抽象的な真実は、その外延の広さゆえに元々抽出された事例を超え、同じ外苑に含まれる事象に今度は具象化して実装することが可能になる。その実装の過程が時により実践と呼ばれたり、発想の転換と呼ばれたりする。 雪・白米・白紙から抽出された「白い」という概念は、逆に具象化していけば今度は白いシーツや白い犬なんかにも使える。「白い」という外延に含まれる以上、「白い」が持つ内包はその具象的な何かも持ち合わせているのだなと理解・対応ができるわけだ。

 ある物事から抽出された真理を別の物事にも適用することで、個別の具象的なことに例えそれが初見であっても応用を効かせることができる。これほど役に立つものもないんじゃないかな?世間の具象的なもののあれこれに、すべて具象的に立ち向かい、理解しようとしたら気力も時間も足りなくなってしまう。

 この抽象化の哲学は、青木淳氏の『オブジェクト指向システム分析設計入門』に大きく影響を受けた。オブジェクト指向の技術書ではあるけれど、オブジェクト指向という技術の思想性を教えてくれ、そしてさらにその思想の裾野の広さ、深さに気付かせてくれた。SEを辞した今でも大切な、稀有な名著。

 2月29日、うるう年の日記。改めて、自分が前職でオブジェクト指向的思考から得た哲学について書いてみた。

2012年2月26日日曜日

グレンツィング・オルガンの魅力 山本真希オルガンリサイタル@りゅーとぴあ

 いつもりゅーとぴあのコンサートホールに行く度に、ステージ後ろ2階席から天井にかけて大きく壮麗に鎮座しているパイプオルガン。常々どんな音・鳴り方をするのか聴いてみたいと思っていたのですが、ようやく聴くことができました。りゅーとぴあが誇るグレンツィング・オルガン。りゅーとぴあの専属オルガニスト山本真希が奏でるオルガンは多彩な音色・響きで音楽を立体的に組み上げて行き、素晴らしい空間が出来上がっておりました。

 当日の題目は『J.S.バッハとスペイン音楽』。前半はエレディアやアラウホ、パブロ・ブルーナといったスペインの作曲家による音楽が演奏され、後半はバッハと新潟出身の馬場法子によるグレンツィング・オルガンのための委嘱新作の初演という形になります。スペイン音楽、バッハ、そして現代の作曲家による委嘱新作の初演という、この実に魅惑的なプログラムもこのコンサートが聴きたかった理由です。

 エレディアの『エンサラーダ』で始まったコンサート。実はパイプオルガン自体生で聴くのは初めてだったので、その音色というとよくバッハの『トッカータとフーガ BWV565』でよく聴かれるような、荘厳できらきらと金属質で輝くような音色ばかりだと思っていた私は、出だしの意外とデッドな響きに少し肩透かしをくらいます。「あれ?」と。「こんな音なの、パイプオルガンって?」と。まるで小学校の音楽室にあった足踏みのオルガンのような、丸くて温かくはあるけれど、飾り気のないデッドな音色。ところがそれが曲を進むうちにどんどん音色が変わっていく、増えていく。フルートみたいなコロコロと転がるような優しい高音、自分のパイプオルガンのイメージ通りの金属的で艶やかな響き、唸りをあげるような低音、そしてトランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色!その他様々に細かいニュアンスで音色が変わっていくし、声部によってまったく違う音色が同時に弾き分けられたりする。パイプオルガンとはこんなに多彩な音色が奏でられるものなのかと驚きながら聴いていました。そしてこの多彩さはパイプオルガン全般に言えることなのか、それともこのりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンにだけ言えることなのか、それが非常に気になりました。自分はパイプオルガンと言えばJ.S.バッハのオルガン曲を中心にほんの少しばかりしか聴いていないわけですが、その中ではパイプオルガンにここまで多彩な音色があるとは感じられなかったのですから。前半の最後、作者不詳の『有名なバッターリャ』ではその多彩な音色が次々に現れ、金管が強演するような鋭い音圧・迫力に圧倒されます。プログラムの解説には「スペイン特有の水平トランペットやエコーが効果的に用いられ…」とのシンプルな言及。休憩時間に入り、早速このりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンについて調べてみました。

 りゅーとぴあのパイプオルガンは、スペインのグレンツィング工房が作成したもの。パイプオルガンの中でも特にスペインの音楽が演奏できるようスペイン独特の構造が取り入れられて製作されたとのことでした。一つの鍵盤の高音部と低音部で異なる音色を使うことができる「分割ストップ/分割カプラー」、正面に向いて水平に金管が取り付けられた「水平トランペット管」、さらにはスペイン風のフルート管やプリンシパル管等、スペインの多彩な音色を必要とするオルガン音楽を奏でるための独特な機構を持った、多機能・多彩なオルガン。それがりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンというわけです。なるほど、私が「トランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色」と感じた音色は水平トランペット管だったわけです。確かに管が客席正面を向いて水平に出ているわけですから、それは突破力のある音にもなるでしょう。そしてパイプオルガンの音楽はほぼバッハくらいしか聴いていなかった自分は、その水平トランペット管の音色など知らないはずです。確かに後半のバッハの楽曲では水平トランペット管の音は出てきませんでした。そういうことだったのです。

 りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色の理由に納得がいったところで今度は後半戦、J.S.バッハと馬場法子による委嘱新作です。後半1曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声あり BWV645』は自分にとってもお馴染みの大好きな曲。そして何より『前奏曲とフーガ ト長調 BWV541』の演奏が素晴らしかった。山本真希の演奏は、多彩な音色を持つグレンツィング・オルガンの個性を活かして細かく音色を使い分けながら、バッハの高度な対位法が裏に隠し持つ旋律のリズム感をテンポ良く転がしながら気持ちよく聴かせてくれます。音色も音量もしっかりと練られ、組み上げられた非常に立体的な音楽。だからフーガの各声部も明確に聴き取れ、心地よい響きに身を委ねていればクライマックスではしっかりといつの間にか到達した大音量で盛り上げて大きなカタルシスとともに終わってくれます。このBWV541は本当に素晴らしい演奏でした。

 そしてプログラムの最後は新潟出身の作曲家、馬場法子による委嘱新作『クリスマスの歌"高き天より我は来たり"によるカノン風変奏曲 BWV769と4つの間奏曲』。これはバッハのBWV769の5つの変奏の間に馬場法子が作曲した間奏曲が挿入される形となっています。つまりバッハ-馬場-バッハ-馬場…という形で音楽が進んで行く。どのような音楽になるのか、実に興味津々でした。

 バッハのBWV769の第一変奏が終わり、いよいよ『Intermezzo Ⅰ Knock and ring』。オルガンを「息を送られることによって生きている巨大な生物」と感じたという作曲者が、「彼が本当に生物なのかを確かめるべく、体をノックしたり呼び鈴をならしてみたり」する様を描写したという音楽です。静寂の中から、音を出さずに風だけを送り、ブオー…と巨大な息遣いを思わせる描写、続いてカンカン、というノックや高音の呼び鈴等、描写的な手法によるいかにもな現代音楽。私の左側に座っていた小学生くらいの女の子は隣の母親に小声で「何やってんの?」と聞いてました(爆)。個人的には風を送る音による息遣いや、蠢き、慟哭を聴いている内に確かにこのオルガンが巨大な生物で、今にも動き出しそうな印象が感じられて、この曲はなかなか、面白いなぁと思いながら聴いておりました。如何にも現代音楽、って感じではありますが、この曲はいい。

 ただ、2つ目以降の間奏曲は少々期待外れというかわからなかったというか…。まぁグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色は活かしていたけど、オルガンの魅力を活かしていたかというとそうでもないように思えて、あまり感じ入ることができなかったというところが正直なところです。解説を読めば、まぁやりたいことはわかるんですよ。「ああ、それでこうなるんだね」と納得もできる。このスペイン様式のオルガンの多彩な音色でなければ実現できない音楽を作ろうとしたのはわかります。で、確かにその意味ではそれは実現されているんだけど、もう少し普通に音楽を聴いての感動とか、気付きとか、面白さがあてもよかったなぁ、と。1曲目の間奏曲にはそれがあったんですが。2曲目以降の間奏曲を聴きながら、この音楽は今日ここで初演されて、それだけならいいんだろうけど今後10年、20年、あるいはそれ以上、このりゅーとぴあでこのオルガンとともに新潟市民に愛され続ける曲になるのかと言えば、そうはならないだろうなぁと、そんなことを考えてしまいました。どうせこのオルガンのために委嘱新作が書かれるのなら、例えばりゅーとぴあでのオルガンのコンサートの最後のアンコールの1曲はお約束でこの曲みたいな、そういう新潟のオルガンを聴く人々に長く愛されるような音楽だったらよかったなぁ、と。まぁそんな耳当たりのいいような音楽では現代の作曲家の野心は満たせないのでしょうけど。そこだけ、少し残念でした。

 まったくの余談ですが、前半私は一階席の後ろの方正面に座っていたのですが、その時に席一つ空けた隣に外人の男性連れの女性が座っていました。カーテンコールで作曲家が紹介された時にわかったのですが、その女性が作曲家の馬場法子でしたとさ。

 ともあれ、りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンの多彩な音色と素晴らしい音楽を堪能でき、満足なコンサートでした。この日は山本真希がりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンで録音したCDの発売日ということで、会場でCDの即売及びサイン会も行われ、しっかりゲットして帰ってきたとのことです。このCDはりゅーとぴあでしか販売されないそうです。そもそも、りゅーとぴあがCDを製作したのってこれが初めてなんじゃないでしょうか?ともあれ、りゅーとぴあ専属オルガニスト山本真希によるオルガンコンサート、楽しませてもらいました。次はあのオルガンでサン=サーンスの交響曲『オルガン』聴いてみたいですね。

2012年1月30日月曜日

就農者を増やすのはお金で解決できるのか?!

 農水省が年間2万人の新規就農者を増やすことを目的として『新規就農総合支援事業』を実施することになりました。農水省のHPで公開されている資料は以下になります。

 http://www.maff.go.jp/j/budget/2012/pdf/kettei_b007.pdf
 http://www.maff.go.jp/j/new_farmer/n_syunou/roudou.html

 この新規就農総合支援事業について、わかりやすい問題提起を農家のこせがれネットワークの 脇坂 真吏さんがブログで書いてくれています。以下になります。
 農家のこせがれネットワーク ブログ『就農者を増やすのはお金で解決できるのか?!』

 詳細は上記ブログを読んでいただいた方が私が書くよりわかりやすいと思うのですが、ここで最も大きな問題提起となるのは「45歳以下の新規就農者を大幅に増やすためには所得補償をすればいいのか」という部分。脇坂さんが書かれているようにこの補助金は「すでに何かの用件によって農業に関心をもち、検討をしている人々」には利用価値はあるでしょう。農業大学等での研修期間に払われる準備型については奨学金的な考え方で見る分には悪くないとは思います。でも、経営開始型の方はよく考える迄もなく問題が多くあります。例えばこの補助金を受ける前提として、
・自ら農地の所有権または利用権を保有している
・主要な機械や施設を自ら保有または借受している

 の2点が入っていること。熱意ある新規就農者でも、その多くが引っかかるのはまずここなんじゃないでしょうか?農地を取得しようにも農業委員会の認可がなかなか下りないとか、農地法の定める5反の農地を耕作しようとするとそれだけの農地を探すのがまず難しいとか、初期の経営を支える意味でも兼業で農業を始めたいと思っても経験のない新規就農者が兼業で5反は実際問題まず難しいとか、そんなあれこれ。機械を買う資金も、そのために補助金がほしいのに機械を保有していることが前提となると…。要はこの補助金、家が農家の若手が実家に帰って農業始めるなら使いどころはあるかもしれないですが、本当の意味での新規就農者には厳しい。そしてそれでもまだお金が出るだけいいかもしれませんが、これでは今現在熱意を持って新規就農を考えている人の補助には多少なりともなりえるとしても、新規就農者のパイを増やす結果にはつながらないかなと。

 これもまた脇坂さんが書かれていますが、新規就農者を増やすためにはまず農業に興味を持ってもらう人を増やさなければなりません。そして、興味から実際の就農にまで行動を起こしてもらうには今度は農業は魅力的である、とか農業は儲かる、というイメージを持ってもらわないといけません。いくら補助金が出たって、魅力がない、儲からない産業に人は入ってきません。当然です。今はその「魅力がある」「儲かる」部分に対する努力はもっぱら農家(法人含む)個人にかかっているのが現状で、一部を除けばあまり明るいとは言えません。それが世間一般での農業に対するイメージでしょうし、全体の見通しが現状あまり明るくないという点では多くの農業の現場でもそうでしょう。私がお客様の農家の方とお話をしていても、先行きについて悲観的な見方をされている方のなんと多いことか。もちろんそうでない方もまた多くいらっしゃいますが、この現場の悲観的な声をできるだけ少なくし、明るい声を大きくして農業全体を明るくするような方向が見えてこないと、なかなか新規就農者というのは増えてこないだろうと考えています。

 では、そのために政府の施策として何をするべきか、どうしたらいいのか。真に(特に家が農家でない人の)新規就農のハードルとなっているのは実際には以下だと感じています。
・農業に明るい展望が見難い現状
・農業の技術習得
・農地の取得・借受のための資金や制度他のあれこれ
・機械の購入のための資金

 このうち、他は直接的な対策が見えやすい(実施しやすいかどうかはともかく)としても、一番重要で一番難しいのが農業に明るい展望を持たせることができるかどうかというところ。自助努力による部分が大きい現状をどうすべきか。そもそもそれは国が何とかできる問題なのか、また、何とかすべき問題なのか。

 長くなってきました。この先についてはまた考えて書いてみたいと思います。

 最後に蛇足ながら、山梨県笛吹市でも新規就農者に100万円の助成金を出そうというニュースもありました。お金で新規就農を促そうという動きは多いみたいです。
 笛吹市:就農者に年100万円助成方針 45歳未満対象、「果樹の郷守りたい」 /山梨

2012年1月2日月曜日

元旦から『山本五十六』

 明けましておめでとうございます。2012年、新たな年がやってまいりました。皆様どうぞ今年もよろしくお願いいたします。昨年は日本では東日本大震災を始めとにかく災いの多い年でした。世界に目を向けると、中東のFacebook革命を始めビンラディンやカダフィ、金正日の死去等、世界で独裁者と呼ばれた人達が去っていく年でもありました。間違いなく色々な意味で激動の年であった2011年。この新しい2012年はどういった年になるのでしょうか。願わくば、もう少し平穏な一年であることを。

  私個人的には今年は「考えて立ち止まってばかりいないで、勇気を出して前に進む」をテーマにしていきたいと思います。本当に自分がこの先仕事面で自立した経営者としてやっていくためには、思考ばかりして行動を起こせないことが多い自分の性格からまず変えないといけない。性格なわけですから簡単には変わらないと覚悟はしていますが、そこを何とか変えていけるよう、ここは本当に頑張らないとなと感じています。

 だからというわけではないのですが、元旦朝9時30分からの回で、新年早々映画『山本五十六』を観てきました。妻と二人で、1日だから1,000円だし、元旦の朝なら映画も空いてるんじゃないかということで、子供たちをおじいちゃんおばあちゃんに見てもらって行ってきました。

 いやいや新年最初から素晴らしい映画でした。実際に山本五十六があんなにカッコいい人物だったのか、考えや言動がどこまで史実に則しているのかはわからないですが(すんません…)、二重の意味で映画として非常に面白かったです。一義的にはもちろん、人間山本五十六のストーリーとして面白い。単純に山本五十六の人間性や、それをとりまく戦時中の状況の進展を眺めるストーリーとしてもテンポがよく、随所に魅力的な挿話が差し込まれて飽きがこない。

 そして、この映画は舞台こそ第二次世界大戦開戦前から戦時中をメインに描いているものの、その描写や言及はドンピシャで現在を思わせるのです。特に震災後の日本では、時代こそ違えど世の状況はこの時代と変わらないのではないか。そう感じずにはいられない映画でした。

 例えばメディア・情報について。三国同盟を締結するかどうかで揺れた大戦前、締結推進派の多くは日本語訳の『我が闘争』を読み、ヒトラーが日本を対等のパートナーと見てくれると信じていました。そして推進派の何人かが山本五十六や井上成美に「何故ドイツと同盟を組まないのか」と詰め寄る中、井上が『我が闘争』のドイツ語の原書のある部分を読みあげます。そこには"日本は取るに足らないが、同盟相手としては利用価値がある"的な書き方。「そんなことはどこにも書いてない」と動揺する推進派に、「日本語訳では都合の悪いことは削られているからな。何事も、大元までたどらねばな」と山本五十六。このエピソードが史実かどうかはともかく、この場面だけでも大いに現在に重なります。

  例えばTPP。賛成派も反対派も、多くの人が断片的な報道や日本語のソースだけを読んでああだこうだと語ります。P4の原文を少しでも読んだ上で話している人がどのくらいいるのでしょうか?あるいは原発について、どこまで技術的な詳細を調べ、どこまで経済的な資料を集め、話をしているのでしょうか?どの程度、各地の放射線量を信頼のおけるソースを探して検証しているのでしょう?戦争が始まれば景気がよくなる、先の第一次世界大戦では一気に日本経済が持ち直した、早く三国同盟を組んで戦争が始まればいいと浮かれる国民も、今のTPPについての一部の姿勢と重なります。

 現代は、当時とは比較にならない程多くの情報が手に入りますが、その多くは孫引きまたはそれ以上の末端の情報。大きな判断を下そうとする時、私達は果たして大元まで辿っているのでしょうか?ただ手元にある情報だけで思考停止して、そこに恣意性や誤謬があるとは疑わずに、あるいは恣意性をまた別の恣意性で疑ってバイアスをかけ直すだけで、ただ推論だけでものを語ろうとしていないでしょうか?山本五十六はよく部下に問います。「根拠は?」と。私達の言論は、ちゃんと大本まで辿った根拠に根ざしているでしょうか?

 新聞の在り方もそうです。山本五十六に開戦前は"三国同盟締結ありき"、開戦後は"無条件降伏の上での勝利ありき"でインタビューをする記者。実際に山本五十六が何を言うかに興味があるのではなく、自分が書きたいことを喋ってくれることを期待するだけのインタビュー。山本五十六が意にそぐわない解答をすると、気分を害して取材を切り上げる。さらにはミッドウェー海戦で実際は大敗して撤退を余儀なくさせられたにも関わらず、内心それに気付きながらも意図的に大本営発表の"転進"という言葉をそのまま使い、あたかも戦況が勝利の連続であるかのように報じる新聞。新聞はありのままの事実を伝えるのが使命ではないのかとの問いに、国民の士気を高め勝利に貢献するのが新聞の役目だと返す。この歪んだ使命感。これもまた、今のメディアと同じではないでしょうか。「世論は○○なのです」と問い詰めた記者に山本五十六が返した言葉が胸に刺さります。

 世論はどうでも、この国を滅ぼしてはいけない。

 この山本五十六の映画は、第二次大戦開戦前から戦中メインに描いていますが、その実、現在の日本を風刺し、これではいけないという強いメッセージを発するために作られたのではないか。そう思ってしまうほど、観ながら色々と考えさせられる映画でした。先日、どこかで見かけた言葉を思い出します。優秀な作品とは、決して伝えたいメッセージを表に直接さらしたりはしない。よい文学作品のように、表向きはメッセージなどないように思えても、それでも確かに伝わるのがよい作品なのだと。その意味では私にとってこの映画『山本五十六』はいい映画でした。

 元旦から、面白くもあり深く考えさせられもする映画に巡り会えた幸運。どうか2012年がこのように私にとって、また皆さんにとって幸せな年でありますように。

2011年12月27日火曜日

災いの年

 年末ということもあり過去の修理伝票など整理していて、ふと8月の頭で手が止まりました。7月29日~30日にかけて新潟・福島を襲った豪雨は、ウチの店の近辺である三条・加茂の信濃川沿いにも大きな被害を与えました。その水害で、水に潜ってしまった機械の修理依頼が入り始めるのです。



 7月30日が土曜日だったので、週が明けて8月1日からすぐ修理依頼が来るかと思いきや、実際に依頼が来始めるのは1日おいて2日から。1日の時点ではまだ地面がドロドロで、お客様も状況を確認したくても入っていけないエリアも多かったのです。そこから何枚も続く、水に潜った機械の修理伝票。改めて、災害の被害の大きさを感じます。

 今年は東日本大震災もあり、和歌山でも豪雨被害があり、全国的に自然災害が多い年でした。自然ばかりはどうにもなりませんが、来年は大きな災害がないようにと願う年の暮れです。

2011年12月21日水曜日

イリーナ・メジューエワ ベートーヴェン後期ピアノソナタ@りゅーとぴあ

 本日はりゅーとぴあにてイリーナ・メジューエワのコンサートを聴いてきました。プログラムはベートーヴェンの後期ピアノソナタ。第27番と第30番~32番です。これらが生で聴けるというだけでよだれものの、神々しい名曲達。先にイリーナ・メジューエワのショパン及びリストのCDも聴いてみて、その清廉で音楽が自然に響く演奏に、さらに期待を高め、本日行ってまいりました。

 コンサートは素晴らしいものでした。イリーナ・メジューエワのピアノは、透明で温かな水のような美音を基調としながらも、激しく攻めるところではその細い体からは考えられないほどの音量・迫力で迫ってきます。その音のキレも凄まじく、またその強奏から弱音への音量・音色の切り替え方も鮮やか。まさに様々に装い、ふるまいを変える水のように、時に鏡の上を滑る水のようになめらかに、時に岩をも削る激流のように、表情を変えながら音楽を創り上げてきます。

 特に印象に残ったのはまず第27番の第2楽章。音楽が始まった瞬間、その場の空気が変わりました。柔らかく透明な音色に包まれた、あの優しく牧歌的な旋律。「ああ、27番ってこんなにいい曲だっけな」と思うほど、会場をその音楽の世界で満たしていました。

 そして第30番での泉からどんどん湧き上がる清い水のような音楽。第2楽章では時にペダルを踏む足音を響かせながら鬼気迫る演奏を聴かせてくれます。本当にあの細い体のどこからあれ程の鋭く気迫に満ちた音が出てくるのか。

 第31番では嘆きの歌からフーガへつなぐ和音の、嘆きがためらいながらも救済のフーガへ収束していくその自然と息が吸い込まれるようなアーティキュレーションに目を見張りました。

 そしてやはり凄かったのが第32番。力強く、デモーニッシュな迫力すら感じる第1楽章から、美しさを極めた第2楽章へ。清澄した水の玉が輝いているような高音が、本当に天国的に美しい。最後のトリルに入った時は「ああ、もう終わってしまう」と曲が進むのが残念に思えるほど、その素晴らしい音楽にひきこまれていました。

 イリーナ・メジューエワの何が凄いかというと、もちろんその音色の美しさや強奏時の迫力、その切り替えや多彩な表情も見事なのですが、それらを駆使して演奏をする果てに、最後にはメジューエワという奏者を超えて曲そのものの素晴らしさが見えてくるところ。彼女の演奏を聴いていると、この曲はやはり素晴らしいなと素直に感じられるようになってくる。演奏が凄いと感じるのでなく、音楽が素晴らしいと感じてくる。そこが、何よりも凄いところだと思います。美しい音色も、力も、確かな技術も、あらゆる発想も、持てるものをすべて使い切った果てに音楽が浮かび上がる。素直で、清廉に磨き上げられた音楽そのものの魅力が。それこそ、確かな音楽性によるものなのだと思います。そして、その音楽が心を洗い流してくれる。

 今日は素晴らしいコンサートでした。聴衆も非常にリテラシーが高く、曲が終わった後すぐに拍手をしたりしない。メジューエワが手を下ろし、一息つくまでまってから熱烈な拍手。音楽の余韻までしっかり味わうことができました。終焉後、第32番が収録されているCDを所望し、サイン会でサインをもらって、感動に加えてほんのりミーハーな喜びも満たして帰ってきましたとさ。

 でもこんなに素晴らしい内容なのに、かなり席はガラガラだったのです。おかげでCD買うのにもサインもらうのにも大して時間かからなかったのはいいのですが、これだけのコンサートにあれだけしか人がいないのは、正直寂しい気もしました。平日だからでしょうか?ベートーヴェンの後期ピアノソナタは『悲愴』『熱情』『月光』辺りと比べて人気がないからでしょうか?それともイリーナ・メジューエワがまだあまり名前が知られてないせいでしょうか?あまりに、もったいない。これだけの音楽が、新潟で比較的手ごろなお値段で聴けるのに、とかもちょっと思ってしまいましたとさ。